里隆良、愛称サトは、小学校以来の友人である進道海の隣でハラハラしていた。
海は包丁を持ったまま、同じクラスの日暮黒哉を睨んでいる。そして黒哉も、横目で海を睨み返している。別に凶行に及ぼうというのではないことはわかっているのだが、しかもこんなのは毎度のことなので慣れているはずなのだが、今日は特に心臓に悪い。
「進道、班分けのとき納得しただろ。だからとりあえず一回包丁置こう、な?」
宥めるように言い聞かせて、海はようやく黒哉から目を離した。けれども包丁はその手にある。これからまな板の上にある、食材を切るために。
本日は礼陣高校二年一組の調理実習。……という名の、第何回戦かもわからなくなった、海と黒哉の戦いの日である。サトはこれまた何回目になったかわからない溜息を吐いた。
海と黒哉の勝負はクラスが違った一年生のときから始まり、当時は部活でぶつかることが多かった。というより、それがメインだった。
二年生になって同じクラスになってから、その勝負は部活だけにとどまらなくなった。ことあるごとに対決する二人の姿は、いつしかこのクラスの名物となり、みんな面白がっていた。
当人たちもけっして仲が悪いわけではなく、ただ互角の相手と戦ってみたいだけなのだとサトは思っている。少なくとも、海が憧れていた先輩が卒業してからはそうなったはずだ。たぶん。
しかしよくも飽きずにぶつかり続けることができるものだ。共通の授業の成績から、体育の時間にやる競技まで、たとえ同じチームになっても互いが互いをライバル視している。おかげで双方を伸ばしあっている部分もあるので、サトはあまり止めようとしない。むしろ面白がっているうちの一人だ。
調理実習で何を勝負するのか。それを改めて問われると、きっと当人たちは答えられないだろう。ただ、海も黒哉も料理には慣れている。二人とも幼い頃から、必要だったから家事能力を身につけてきた。海は父とともに、黒哉は忙しい母の代わりに、それぞれ台所に立ち続けてきた。
結果、料理に関していうなら、海はじっくり調理して味にこだわるようになり、黒哉は手際の良さに磨きをかけてきた。できるのはそれぞれの家庭の味で、比べようがない。
ならばなぜ二人が睨み合っていたのか――正確には、海が黒哉に恨めしげな視線を送り続けていたのかというと。
「黒哉、俺は何をすればいい?」
海が一年生のときから仲の良い、というよりも気に入っている、森谷連が黒哉と同じ班だからだ。ちなみに海と黒哉はどちらも料理が得意ということで別々の班に意図的に分けられた。各班に一人は料理慣れした者がいたほうが作業がスムーズに進むだろうという配慮だ。二人を一緒にすると危険だからという理由ではない。
危険があるとすれば、別のところにある。
「じゃあ、連は使う野菜を洗ってくれ」
「わかった」
「連さん、食器用洗剤使っちゃ駄目ですからね! 水でいいんですよ、水で!」
「海、お前はよその班なんだからこっちに口だしするんじゃねーよ」
料理上手がいれば、得意でない者もいる。それも連は、極端にできないほうのタイプなのだった。だから海は連と同じ班になって、可能な限りかつさりげなく連を調理に関わらせないようにしたかったのだが、彼が黒哉の班に行ってしまったためにそれができなくなった。
思えば去年の実習は大変だったよなあ、とサトもしみじみ思う。初めての調理実習のとき、連は食材を食器用洗剤で洗おうとして海に止められ、野菜を切ろうとして手ごと切りそうになったので海に止められ、味噌汁に味噌を大量に投入しようとして海に止められたのだった。まさか同じ失敗は繰り返さないとは思うが、とにかく海は連が心配なのだろう。黒哉には任せておけないと思うほどに。
今日のメニューはひじきの炊き込みご飯に豚汁、それに班ごとに工夫したおかずをつけることになっている。偶然にも海と黒哉はきんぴらごぼうを作ることで意見が一致した。葉物が少ないので塩キャベツでも仕込もうかというところまで同じだった。気が合うのに、いや合うからこそ、この二人はぶつかるのだった。
さて、さすがに連も去年あれだけ言われればわかったと見えて、食材に洗剤をかけようとするということはなかった。ただし、よく洗いすぎて時間がかかった。野菜は皮が少々削れている。
「こんなに力入れて洗わなくてもいい」
黒哉が半分呆れて言うと、連は「そうだったのか」と頷いた。次は気をつけるだろう。次があればの話だが。
「ああ、連さんの手が荒れる……」
「進道の心配はそこなのな」
海は連をちらちらと見ながら、ごぼうをささがきにしていた。よそ見をしていてもきれいにささがきになっているのはさすがに器用だなと、サトは感心する。
一方黒哉の班は、事前に決めておいたきんぴら係と豚汁係に分かれて作業を始めた。豚汁は同じ班の女子が担当してくれるというので、黒哉はきんぴらに取り掛かる。こちらもささがきが上手で、しかも早い。連がその手もとを見て、目を輝かせていた。
「黒哉、すごいんだな。どうやったらこんなことができるんだ?」
「慣れ」
その様子を見て面白くないのは海だ。本当は自分が連に感心されたいのに。というか、黒哉の手際の良さがさすがすぎて、それを認めなくてはならないのが嫌だ。そんな気持ちが表情に出ていて、見ているサトは苦笑いする。
気にしながらも調理を進めて、きんぴらになるごぼうとにんじん、さやいんげんは準備が完了。炒めて味をつければ、あっという間にできあがる。ちょうど同じ段階に来ていたようで、黒哉も調理台に調味料を並べ始めた。
それまでのあいだ、連には使い終わった道具を洗ってもらっていた。これは洗剤でよく洗って、綺麗に流して、拭いて元の場所に閉まってくれればいい。割れ物は使っていないので、多少、いやかなりがちゃがちゃと音がするだけだ。
「洗い終わったが、手伝うことはあるか」
「あー……そうだな、食器出しといてもらうか」
連に調理は極力させない。班が決まったときに、海がうるさいくらい言っていたので、黒哉もできるだけ連を調理から遠ざけようとしていた。でないと、何が起こるかわからない。去年はちょっと目を離した隙に、ダークマターとでもいうべきものが完成したこともあったそうだから。これはサト情報である。
そこで道具や食器なら頼めるのではないかと思ったのだが、
「連さんに皿任せると、不思議な積み方して割るかもしれないから、少しずつ運ばせてあげろよ」
またもや海が口を挟む。そしてまさにその通りになろうとしていた。
ぐらぐらとゆれる積まれた食器に、黒哉も思わず焦って悲鳴じみた声をあげる。
「連、いっぺんに運ぼうとしなくていい!」
「そ、そうか。すまない」
連はバランス悪く積まれた上のほうから、少しずつ皿や椀などをとって、調理台に並べていった。なんとか食器を壊さずに済みそうだと、黒哉はほっと息を吐いた。
調理室に良い匂いが漂ってきて、各調理台にはできた料理が並び始める。海は最後まで味の微調整を試み、黒哉は感覚でさっと仕上げてしまう。豚汁ももうじきできるだろうという頃になって、黒哉はおもむろに新品の小さなビニール袋を開くと、そこに切っておいたキャベツと塩、ごま油を入れて、口を結んでしめてから連に渡した。
「最初以外まったく調理に参加させないってのも何だし、お前に仕事をやる。これを思いっきり振れ」
付け合わせの塩キャベツを、子供でもできそうな方法で作ろうということだ。袋に材料を入れてしばらく振れば、適度に混ざって、それらしいものが完成する。海なら絶対にやらない方法だ。しかしこれなら連もできるだろうと、黒哉は踏んだのだった。
「日暮、考えたな。進道もあれくらい頭柔らかくしなきゃ」
サトは笑いながら言ったが、その言葉を受け止めた海は微笑みすら浮かべなかった。かといって、機嫌が悪そうなわけでもない。それは何かを危惧しているような、そんな表情。
「……おいおい、まさかあれすら森谷君にはできないっていうわけじゃ」
「そのまさかがあるかもしれないんだよ」
ごく小さな声だったが、たしかに海はそう言った。「え?」とサトが海を振り返ったのと、連が袋を言われた通りに振り始めたのは同時。
「あ、馬鹿! 口のところをちゃんと持たないと……」
黒哉がその声を発したのは、それに少し遅れてのことだった。
いくら口を結んだからといって、押さえていなければ、思い切り振ったときにどうなるか。中のキャベツが当たって口が開き、中身は空中へ飛び出す。
調理室に香ばしい匂いのついたキャベツが、スローモーションのように舞った。
そしてそれは当然のごとく重力に引っ張られて調理台や床に散らばり、大惨事を引き起こしたのだった。
「……ざまあみろ、黒哉」
そう言いながら、海は天井を仰ぎながら手で顔を覆った。
「それ、ざまあみろって顔じゃないぞ、進道。やっちゃったなってやつだ」
サトは海の肩をぽんと叩き、それから飛散したキャベツを片付けに行った。
「連があんなに不器用だとは思わなかった」
調理、実食、後片付けと、なんとか全ての行程が終了した昼休み。黒哉がげっそりした表情で呟いた。他の班にいて全て――黒哉や連の動向だけではなく、海の様子も――を見ていた莉那が、困ったように、けれどもどこか面白そうに、あははと笑う。
「連さん、料理は本当にだめなのよね。というより、台所に立っちゃいけない人なのかも。私も去年同じ班になったことあるけど、海君がいないととんでもないことになってたなあ」
生サラダを作っていたのにいつのまにかフライパンの上でレタスが焦げてたり、などという莉那の言葉も、黒哉は今なら嘘だとは思わない。連ならやりかねないと信じてしまう。
「ほらな、連さんと一緒に調理実習できるのは俺だけなんだよ。俺のほうが連さんのこと知ってるんだから」
海が台詞だけは得意げに言う。そこにそんな感情はこもっておらず、ほぼ棒読み状態だ。サトはそのやりとりを聞きながら、まだキャベツショックに落ち込んでいる連を慰めていた。
「森谷君、そんなに気にすることないって。誰だって得意不得意はあるし、袋を思い切り振れって言ったのは日暮だし」
「でも……」
そこへ海が割り込んでくる。つられるように、黒哉も。
「そうですよ連さん! 黒哉が余計なこと言うからああなったんです。連さんのせいじゃありませんよ!」
「うるせーな、海は黙ってろ。……たしかにオレが思い切り振れって言ったのを、連は実行しただけだけど。だからオレも悪かった。海に言われる筋合いないけど」
励ましなのかそうじゃないのかよくわからない言葉を次々に投げかけられて、連は顔をあげた。それから、さっきから何度も口にしている「すまなかった」をもう一度言った。
「今度は飛び散らないように気をつける。……俺が不器用だって聞かされててもチャンスをくれた黒哉も、心配してずっと見守っててくれた海と里と、それから莉那も、ありがとう」
どうやら少し立ち直ったようだ。でも、きっと「次」はないだろう。今回のことで、みんなが「連に調理実習をやらせると危険」と認識してしまったから。
二年一組の約束事が、こうして一つ増えたのだった。
ただ一つだけ良かったのは、海と黒哉の勝負が連のおかげでなあなあになったことだろう。