一緒にお昼を食べよう。一番遅く来た人がおやつを奢ることにして。そんな約束を入学してからそう経たないうちにして、わたしたちは今日も三人で集まる。
「亜子ちゃん早いね。二コマなかったの?」
一番最初に待ち合わせ場所である中庭に到着していた私に、やってきた桜ちゃんが手を振ってくれる。これで二人、ビリの人間は確定だ。
「ううん、フランス語あったよ。でも桜ちゃんはともかく、凪に奢るのは面倒だからさ」
「それ聞いたら凪ちゃん怒るよ。いつも凪ちゃんが最後だし。……でも、なんでだろうね?」
わたしと、まだここに来ていない凪はこの北市女学院大学の文学部に所属している。毎週水曜日と金曜日の午前中は語学の必修があって、わたしは英語とフランス語をとっている。
凪のとっている講義だって、普通は長引かないはずなんだけどな。とってはいないけれど、わたしはそこそこに知っているのだ。
そうこうしているうちに、凪が焦った様子で走ってきた。でも表情は半分あきらめている。さて、今日は何を奢ってもらおうか。それともちょっとは遠慮してやったほうがいいんだろうか。
「あー、また最後か……。最後の小テストがなければなあ」
「なんだ、小テストで躓いてんの? あんなの簡単な問題しか出ないのに」
お疲れさま、と桜ちゃんが優しい言葉をかける横で、わたしはつい本音をこぼす。言ったあとで怒られるかなと思ったけれど、凪はむしろすがるような目でわたしを見た。
「こうなったら本当に亜子しか頼れない……」
お弁当を取り出しかけたわたしの肩をがっしり掴んで、凪は真剣な目で言う。
「このままじゃ単位がやばいから、皆倉先生にあたしの成績を無条件で可以上にしてくれるように頼んでくれない?」
「勉強しなさいよ」
誰が不正の協力なんかするか。凪がちゃんと勉強して、テストできちんと点を取りさえすればいいのに。ていうか一応は真面目に講義受けてるんだから、ちょっとくらいは下駄を履かせてもらえるだろうに。
凪の受講している外国語――ドイツ語の皆倉光輝先生は、そんなに厳しくない。むしろ甘いくらいだ。それは娘のわたしが、誰よりもよく知っているつもり。
北市女学院大学でドイツ語やドイツ文化などを担当している講師の皆倉光輝は、若い頃にドイツ留学を経験し(当時はまだ東西に分かれていたんだっけ)、現在はそこで得た知識を学生たちに提供している。論文を書いたり、文学作品の和訳を手掛けたりもしている、昔からなかなか忙しい人だった。
彼がドイツで出会って結婚した女性、テレーゼもまた大学講師などをしている。近所の礼陣大学や、隣町の大学、果ては一般の人を対象としたドイツ語講座まで、あらゆることを手掛ける元気な女性だ。したがって知人も多い。街を歩けば「テレーゼ先生」と声をかけられている。
そんな二人の娘がわたし、皆倉亜子。親しい人はたいして多くないし、忙しくなるほど日々の予定はない。二人とは見た目くらいしか似ていないけれど、幼い頃から日本語とドイツ語の両方を教えられてきたので、一応はバイリンガルだ。そのせいでドイツ語の受講はできなかった。
けれどもいくら話せるからといって人に教えるのとは別だ。凪に泣きつかれたところで対応はできない。
まして単位の面倒なんか見てやれない。わたしは北市女学院大学文学部欧米文学科の皆倉亜子であって、皆倉先生の娘だから優遇されてるなんてことないし、されたくもない。
「凪さあ、ドイツ語の何がわからないの? 文法?」
「単語が覚えられない」
「それは助けてあげられないわ」
お弁当をつつきながら、凪の愚痴を聞いてあげるのが、わたしにできる一番のことなんじゃないかと思う。
「わからなかったら訊きに行けばいいのよ。皆倉先生優しいから、教えてくれるよ」
「あ、桜もドイツ語とってたっけ」
「桜ちゃんは当然成績いいよね。凪と違って勉強してるし、そもそも頭の出来が違う」
「悔しいけど否定できないわ」
訊きに行けば顔も覚えてもらえて、ちょっと有利になるよ。なんてことは、まだ凪には教えないでおこう。こいつが自分で行動を起こすまで、わたしは手出しをしない。
「真面目にやらなきゃだめかー。やっぱり目標は卒業旅行かな、ロマンティック街道とか」
「一応興味はあるんだね。だったらちょっと頑張ればできるって」
基本的な旅行会話ぐらいだったら、お父さん……じゃない、皆倉先生の講義で十分できるようになるんじゃないだろうか。文化もそれなりに勉強しておかないと、旅するには大変かもしれないけれど。
「ま、いざとなれば亜子がいるから大丈夫だよね。迷子になったときとか、困ったときは頼ろう」
「いや、道くらいは自分で訊けるようになりなよ」
「卒業旅行かー。まだまだ先だけど、ドイツもいいかもね。亜子ちゃんの伝手で」
「桜ちゃんまでわたしに頼るの?!」
仕方ない。そこは二人が無事に単位をとって、簡単な会話ができるようになっていたら、わからないところは手伝おう。だから今のうちに頑張っておいてよね。
しかしこの三人で旅行って。……楽しいんだろうな、たぶん。卒業旅行といわず、夏休みとか、どこかに遊びに行くのもいいな。
「そうだ、今度の休みに亜子の家遊びに行きたい! ついでに皆倉先生にわからないところ教えてもらう!」
「急すぎ。あと、親はうちにいるかどうかわかんないよ」
うん、きっと、悪くない。