頭には二本のつの。姿は人間と似通ったものもあれば、まったくの異形もある。瞳は赤く、自らの持つ力を解き放つときには輝く。
人間たちは彼らを、畏敬を持ってこう呼んだ。――「鬼」と。
それが人間による、彼らの名づけであった。以来、鬼たちに個々に名前がつくことはほぼない。鬼たちが人間たちの暮らしを妨げないよう、姿を見せぬようにしてしまったせいもある。
だからこそ、名前を持つ鬼というのは、特別な存在といってもよい。

初めて接触した同族――鬼は、子供の姿をしていた。見た目の年の頃は、当時の自分と同じくらいだったように思う。黒々としたおかっぱ頭に、つのが二本、ちょんとはえていた。身につけている衣服は自分のものとお揃いの、白くて丈の短い浴衣だ。
『初めて見る顔だな』
実家(といっていいものだろうか、少々疑問ではあったが)である店の前で、お気に入りの本を取りに行った双子の弟を待っていたときに、そう声をかけられた。この世界に「自分」というかたちを持って、二日目のことだ。
『む、お前は人鬼か。ようやくかたちをもったところだな』
……あんた、誰』
偉そうな口調の相手に尋ねると、にかっと笑って答えがあった。
『私は鬼だ。こんななりをしているから、子鬼と呼ばれているな。お前と同じだ』
子供の姿だから、子鬼。双子の弟が店を訪れる人たちから聞いていた話に、そんなものが出てきた気がする。そう、こんな感じの鬼は全て区別されることなく「子鬼」と呼ばれるのだ。
『同じじゃないわ。私は子鬼なんて呼ばれないもの』
『ほう、ではなんと?』
『美和よ』
人鬼の少女――美和は、双子の弟から貰ったその名前を、胸を張って告げた。赤ん坊のまま死ぬことなく、人間として成長できていたなら、親につけてもらっていたはずの名前だ。
子鬼はそれを聞いて、ほう、と感心したように息を吐いた。
『名前があるのだな。それは貴重なものだから、大事にするといい。名前がある鬼などめったにおらんから、みんな羨ましがるぞ』
存在を真に認められなければ、名前など貰えない。姿が見えていても「鬼」といっしょくたにされてしまうのだから、こうして個として認められているというのは――まして美和は人間には存在を認められないはずの人鬼なのに――珍しいことだ。ということを、美和はこのとき初めて知ったのだった。
『あんたには名前がないの?』
『個としての名前はないな。他の同じような姿をした鬼と同じ、子鬼という呼ばれ方をしている』
『それって、不便じゃないの?』
『誰のことを呼んでいるかは感覚でわかるから、さほど不便は感じないぞ』
『ふうん……
そこまで話して、ちょうど弟が戻ってきた。手に美和も大好きな絵本を抱えて。そうして美和の隣にやってきて、絵本を見せてくれた。
それを見た子鬼は驚いたようだったが、何も言わずに去って行った。
人鬼が本来人間には認知されない存在であることを美和が知ったのは、再び子鬼に会ったときだった。

子鬼はよく食べ物を持ってきていた。鬼が見えるという(だが美和のことは見えなかった)鬼の子と呼ばれる子供から、飴などを貰っていたこともある。美和には物に触れることや飲食をすることはできないが、子鬼にはできるようで、しかもかなりの食いしん坊のようだった。
だからある日、どこかから牡丹餅を持ってきて食べている子鬼を見て、美和は言ったのだ。
『名前、つけてあげようか』
『はまへ?』
牡丹餅を頬張りながら、子鬼は首を傾げた。
『そう、名前。鬼のほとんどには名前がないんでしょう? 名前があるのが羨ましいなら、つけたらいいのよ』
美和は子鬼を指さして、いや、牡丹餅にもその指は向いていただろうか、考えた「名前」を口にした。
『牡丹。あんたは今から牡丹よ。他の誰もそう呼ばなくても、私はあんたをそう呼ぶわ』
『牡丹……
子鬼は口の周りを餡子まみれにしたまま、その名前を繰り返した。たった今、自分に与えられた名前を。唯一無二の贈り物を。
『ふむ、なかなか良い響きだな。牡丹、牡丹か』
嬉しそうな子鬼を見て、美和は満足した。以来、美和はこの子鬼のことを牡丹と呼び続けている。

『ぼたーん、今日も退屈なんだけどー』
月日は流れ、美和は成長した。成長するというのはどうも人鬼の特徴らしく、牡丹は子供の姿のまま変わっていない。人間でいうところの十八、九歳になった美和は、今日も店先で口をとがらせている。美和を見ることのできる唯一の存在だった双子の弟がこの町を出ていってしまったために、話し相手が鬼ばかりになってしまったのだ。
『暇なら町を散歩でもしてくればいいではないか。いろんな鬼に会えるぞ』
『私は人間に関わりたいの』
鬼と話すのが面白くないわけではない。美和が人間を好きになりすぎてしまったのだ。店を訪れる人々と話がしてみたい。それができなくとも、店のディスプレイをそっと直すことくらいはしてみたい。そんな愚痴を言う美和に、牡丹は毎日のように付き合ってくれていた。
『まだ会ったことのない鬼に会うのも、良い退屈しのぎになるのではないか? 鎮守の森にはたくさん鬼がいるぞ』
『そうだねえ、たまにはいいかも。でも店を離れたくないのよ』
『わがままだな、美和は』
子供なのに年上で、姉のようなのに小さな鬼。ずっと仲良くしてきた牡丹との会話は悪くない。人間には認識してもらえない寂しさを、牡丹がやわらげてくれている。
美和が鬼に成れば、鬼の子には存在を認めてもらえるようになる。牡丹や他の鬼たちと話すだけではなく、人間に接触し、物に触れ、食事を楽しむこともできる。けれどもそうすると、弟とはやりとりができなくなってしまう。なんともままならないものだ。
だから今の、牡丹と毎日会話ができる程度で満足しておきたい。美和はまだそう思っている。
『あ、牡丹ってばまたなんか食べてる。今日は何よ』
『鬼の子にもらったおにまんじゅうだ。美和も食べられるようになればいいな』
『そうね、いつかね』
適当に答えを返してから、ふと美和の頭に疑問が浮かんだ。この牡丹という子鬼は、他の鬼に比べて、鬼の子たちとの接触が多い。鬼の子になった者には積極的に近づいていき、鬼について教えているようだ。
それでもけっして、自分を「牡丹」とは名乗らない。だから誰も牡丹を、美和のつけた名前で呼ばない。
『ねえ、なんで牡丹は名乗らないの? おにまんじゅうをくれた子にだって、自分のことは子鬼って呼ばせてるでしょう』
ごくりとまんじゅうの最後のひとかけらを飲み込んでから、牡丹は美和を見た。そうしておよそ長生きな鬼らしくない、照れたような表情をした。
……名前はな、特別なんだ。だから大事にとっておきたいんだ』
『だから何よ。呼ばれなきゃ名前の意味なんてないじゃない』
『美和が呼んでくれるだろう』
牡丹は顔を赤くしたまま、にこりと笑った。
『牡丹という名は、つけてくれた美和に呼ばれたいんだ。他に特別な奴ができたら、名前を教えることにしている』
子鬼にとって、人間や鬼は平等だ。みんな等しく愛おしくて、守りたいものだ。それがこの町、礼陣の守り神としての在り方なのだ。特別扱いは、本来ならしない。きっとしてはいけないとまで思っている。
『美和は名前をつけてくれた、特別な存在、友人だ。だから美和には呼ばれたい。美和だけはいいんだ』
『何よ、それ。変なの』
美和は子鬼の言葉を笑い飛ばそうとして、けれども、しっかり心に留めておくことにした。美和にとっては初めての鬼の友達で、特別な存在であるところの牡丹。彼女もまた、美和を特別だと思っていてくれているのだ。それが妙に嬉しくて、胸のあたりがくすぐったい。
『まあ、牡丹がそうしたいならそれでいいか。……うん、それでいいや』
美和は自分を美和と呼ばせる。自分を認識してくれるどんなものにも。それは相手が自分を認めてくれる貴重な存在だからであり、双子の弟がつけてくれた美和という名前を自慢したいからでもある。まだ不安定な自分というものを、名前で繋ぎ留めているのだ。
その必要がない牡丹は、たぶん、彼女の考え方でいいのだろう。
『ねえ、他の鬼も私が名前をつけたら、気に入ってくれるかな』
『名前が欲しい奴は気に入ってくれると思うが。つけるのか?』
『それもいいかなって思って。そうだ、名前がある鬼もいるんだよね。私たちみたいに』
『そうだな。でも名前つきの鬼はだいたい特別な事情があるから、あまり踏み込みすぎるなよ』
『わかってるって』
鬼に名前。全員には無理かもしれないが、美和がよく会う鬼になら贈ってみたい。牡丹のように喜んでくれるなら。
さて、どんな名前を贈ろうか。しばらくはこれを考えることで、退屈が紛れそうだ。美和はちょっとだけ、機嫌が良くなった。