礼陣駅裏商店街に、昔からある一軒の店。表には綺麗に広げられた着物と、入口のガラス戸に書かれた「水無月呉服店」の金文字。店の前に立つといかにも和服を扱っていますというふうなのに、中に入ると少しばかりの洋服や学生服も並んでいて、客層が幅広いことを窺わせる。実際、ここには若者から年配のお客まで様々な人間と、そして鬼が出入りしていた。
この礼陣の町には、人間と鬼の二種類のひとが住んでいる。鬼は二本のつのと不思議な力を持っていて、通常は人間の前にその姿を現すことはない。ある種の人間には鬼を見ることができるが、大抵は「見えないがいると信じられている」。それがこの町の「あたりまえ」だ。
春の花が山々に咲き誇り、礼陣のぐるりを彩る四月。人鬼の少女が水無月呉服店の、店内の隅に立っていた。人鬼とは人間の魂が鬼に転じようとしている過程の状態で、頭につのはあるが、鬼が本来持つはずの力は持っておらず、ものに触れることや食べ物を口にすることができない。そして鬼には姿が見えるが、人間にはいかなる者にもその姿を捉えることがかなわない。つまり、人間に影響を及ぼすことは絶対にできないのだった。――ただし、例外はある。
この人鬼の少女は、人間から美和という名をもらい、先月までずっと一緒に生活してきた。自分が今いるこの店を、その人間に手を貸してもらうことで手伝ってきた。それが美和の楽しみであり、この世界に魂が残っていることを感じられる瞬間だった。
美和に名前と生きる世界を与えたのは、双子の兄弟。美和にとって彼は弟であり、彼にとって美和は妹だった。人間である彼の名は和人。今は礼陣を離れ、隣県で大学生をやっている。美和の存在を認めることができる唯一の人間は、この土地にはいない。
人間の生活に干渉できなければ、鬼と戯れていればいいのだが、美和にはそれだけでは足りない。もしかしたら自分が人間として生まれ育っていたかもしれなかった、この呉服店の手伝いをしてくて仕方がない。どれだけそわそわと店を眺めていたところで、中途半端な存在である美和には何もできない。陳列が崩れた小物の位置を直すことさえも。
大欠伸をしながら、お客の流れを見る。学生服のシーズンは過ぎ、店は落ち着いている。花見に合わせたお茶会で着る着物を求めて、はたまた小物類を新調しに、ぽつりぽつりと人が訪れる。店を覗いていくだけの鬼たちに手を振りながら、ああいつもの人が来た、あの人は久しぶりだ、きっとあの色が似合うから仕立てていってくれないかな、などと考えを巡らせる。ただただものを思うだけ。
和人がいたなら、少しは店番らしいことができるのに。それがついこのあいだまでの「あたりまえ」だったのに。
『退屈ねえ……
呟いたのと、店先に郵便配達員がやってきたのはほぼ同時だった。普通の手紙やはがきだけなら母屋の郵便受けに入れてくれるのだが、サインが必要な荷物や、特別な手紙は、店に持ってきてくれるのだ。
「こんにちは、水無月さん。息子さんからお手紙です」
「こんにちは。たしかにあの子手紙書くって言ってたけど、もう届いたの?」
店のおかみさん、つまり和人と美和の母が、手紙を受け取った。淡いグリーンの封筒に、整った字でこの店の住所が書かれている。
『もう独り暮らしが寂しくなったのかしら?』
手紙に触ることができない美和は、母の手の中を覗き込んだ。母には美和のことがわからないので、何をしても邪魔にはならない。
「お客様もいらっしゃらないし、ちょっと読んじゃおうかしらね。せっかく和人が書いた手紙だもの」
『それがいいわよ。私も読みたい』
母の独り言に相槌を打ちながら、美和は母の隣に座った。

いかがお過ごしでしょうか。僕は元気です。
大学生活にも、独り暮らしにも、まだちっとも慣れてはいませんが、友人は少しできました。
今のところ、料理以外の暮らしは、たぶん順調です。
自分の部屋にいるととくにやることも見当たらず、今の趣味は散歩です。先日まで桜が綺麗でしたが、きっと礼陣も山が春の色に染まっているんでしょうね。
暇になると、店の手伝いをしていた日々が懐かしくなります。あの適度な忙しさが、僕はやっぱり気に入っていたのだと思います。棚をきれいにしたり、お客様と話をしたり。僕には荷が重いんじゃないかと思ったこともありましたが、たしかにあれは楽しかったのです。
最近、よく幼い頃の夢を見ます。まだ流とも仲良くなっていなかった、本当に小さかったときのことです。僕はうちにくるお客様たちから、礼陣の鬼の話をたくさん聞きました。僕はそれが大好きで、自分からせがむこともありました。
こっちにくるとそんな話は全くなくて、鬼なんてお話の中だけの、幻の存在のようで、礼陣のことはなかなか説明が難しいです。おそらく、礼陣を離れた人はみんな、一度はこんな経験をするのだろうと、痛感しているところです。
そんな思いが夢に出るのでしょう。何もかもが懐かしくて、ときどき帰りたいなと思います。
でも、五月の連休には流がこっちへ遊びに来るというので、僕は礼陣には帰りません。次に会えるのは、夏休みになると思います。夏祭りには、必ず礼陣にいるようにしますから。
だからどうか、待っていてください。僕の部屋の戸は、できれば開け放しておいてください。自由に出入りできるように。机の上に開いて置いてある本は、そのままにしておいてください。
夏休みには、また店を手伝います。そのときまで、どうかお元気で。
和人より

手紙には、「父さん」も「母さん」も、一度も登場しなかった。だから、美和にはすぐに分かった。この手紙の内容のほとんどは、自分に宛てられたものであると。そして部屋を開けておいて、本をそのままにしておいてくれというのは、美和のためであると。なにしろ美和には閉まっている戸を開けることができないし、本を取り出して開くことも不可能なのだ。
和人は遠くにいても、美和のことを考えている。双子のことを、ずっと想っている。それで美和は、ふ、と笑った。
『大鬼様が言ってたのは本当ね。和人は、……私だって、全然、兄弟離れできていないんだわ』
互いに互いを必要としているうちは、美和は鬼に成ることができないし、和人も大人になりきることができない。そうしているうちは、互いに互いを認識できる。きっと夏休みになっても、まだ和人と美和は互いの姿を見て、言葉を交わすことができるのだろう。
それができなくなる日は、近いのかもしれないし、遠いのかもしれない。大人になることの境界は、和人にも美和にもわからない。
だって、大人と同じように店に立っていても、二人はずっと少年と少女のままだったのだから。
鬼が見えるのは、特別に彼らが見える人間でも、子供のうちだけ。本来なら、そういうことになっている。この町の鬼は助けが必要なあいだにだけ、人間の前に姿を表し、力を使うものなのだ。
美和もいつかそうなる。そうすれば、店の役にたつこともできる。和人には認識されなくなるかわりに。
和人もいつかは大人になる。美和に頼ることなく、自立して、他の誰かと一緒に生きていく。美和が見えなくなるかわりに。
母が手紙を読み終えて、すぐに和人の部屋を開けに行った。それからすぐにお客のくる気配があって、美和はまたもどかしい気持ちになる。こんなとき、自分で接客ができたらいいのに。
『いらっしゃいませ。母は今戻りますので、少々お待ちください』
聞こえない声を、一応は出して。戻ってきた母が「あらあらすみません、ようこそいらっしゃいました」というのを聞いて。遠くにいる双子に呼びかける。
『こっちはなんとかなってるわよ、和人。帰ってきたら、お祭りの準備に忙しい頃だから、思いっきり働いてもらうからね』
その日を今から楽しみにして、美和は店を見渡し、微笑んだ。きっと、双子によく似た顔で。