仕事も今年で五年目になる。後輩の指導を任されるようになったり、酒が飲めるようになってからは付き合いも増えたり、なんだかんだでうまくやっている。ひとまず四年間、しっかりと勤めるという目標は達成できた。
そんな年度末も近い折に、大助はあわてた様子の同僚に呼び止められた。
「一力、お前仕事辞めんの?!」
随分と焦っている。しかも、何か勘違いをしているようだ。大助は面食らいながら、「いきなりなんすか」と彼に向き直った。
「辞めねえっすよ。なんでそんな話になってんすか」
「いや、お前、退寮するって聞いたから。もしかしてオレの勘違い?」
大助は現在、会社の社員寮に住んでいる。実家を離れてからの四年間、門市のこの会社で働くのに、それが一番都合が良かったのだ。けれども、今年からは事情が違ってくる。
「あ、退寮は本当っす。三月いっぱいで出ます」
「マジで?! なんで出てくんだよ? ていうかこれからどうすんの? 仕事は?」
わずかの暇もなく飛んでくる質問をなんとか頭の中で整理して、順番をつける。我ながら人の話を把握するのが上手くなったなと思い、無意識に頬が緩んだ。それをさらに「その意味深な笑みは何?!」と追及される。
そうこうしているうちに、一連のやりとりを聞いていた、大助よりも後に入った事務の女の子も振り向いて、首を傾げた。
「一力さん、退寮するんですね。どこかいい物件でもありました?」
「ああ、礼陣に引っ越す。家買ったんだ」
「はあ、買った?! 思い切りすぎだろ、バカかお前!」
さらりと答えた大助に、同僚はまたもや大声をぶつけてくる。いい加減うるさいが、誰も止めようとしない。休憩時間だからかまわないのだろう。報告を済ませたので、事情をすでに知っている上司などは、にやにやしながらこちらを見ている。
この職場は、どこまでも寛容というか、人で遊ぶのが好きなのだろう。これで仕事はみんなちゃんとしているのだから、合う人には良い環境なのではないか。少なくとも大助にとっては過ごしやすい場所だ。
そんなところを辞めようなんて、考えない。地元である礼陣で家を買い、引っ越すことを決めたが、それはこれからの生活のためだ。
「職場には家から車で通います。兄貴と叔父がいつのまにか用意してくれてたんで」
「お前の兄さん、相変わらずお前に甘いよな」
「維持費は俺持ちっすよ。で、わざわざここまでした理由、多分聞きたいと思うんで言いますけど」
同僚と後輩が、うんうんと頷く。気が付けば他の社員もこちらに耳を傾けていた。もっとちゃんとした報告をしなければならなかったが、仕方ない。
「明日、彼女と入籍するんで」
さほど広くない社屋に、驚きの絶叫が響き渡った。

礼陣に新居を見に行ったのは、三月の頭だった。中央地区の住宅街に建つ中古物件を、町の老舗の不動産屋である常田不動産で紹介してもらった。大助が考えていた、というよりは兄や叔父にかなり助言をもらって決めた条件を聞いて、社長自らが薦めてくれた物件だ。
「あまり大きくはないですけど、部屋数は条件通り。壁や柱の多少の傷は気にしないんですよね」
案内をしてくれたのは、この春に大学を卒業して正式に不動産屋の社員になる予定の、同級生の在だった。もう随分と仕事を叩き込まれているらしい。まさか同級生に、こんな形で世話になるなんて、学生の時分には思ってもみなかった。
「もう祖父から話があったと思いますが、構造的にも問題はありません。耐震はもちろん……
「ああ、もう説明とかいいって。予想よりかなりいい家でびっくりしてんだけど、本当にあんなに安くていいのか?」
在は不動産屋の社長の孫だ。家業を継ぐということになるのだろうが、この選択をするのには彼も葛藤があったらしい。けれどもそれを感じさせないふうに、晴れやかに笑って返してくれる。
「祖父が良いというんだから良いんでしょう。僕も大助君たちにここに住んでもらうのは嬉しいですし。だからできれば早く決めてほしいんですけど」
「もう決めた。亜子、ここで良いよな?」
家の中を探索していた、幼馴染もといこれからこの家で一緒に暮らす人に尋ねてみる。しばらくはしゃいでいた彼女は、目を輝かせて戻ってきた。
「ここが良い! 在、ありがとうね。おじいさんに話通してくれたんでしょう?」
「僕は大したことしてませんよ。亜子さんと大助君のためにできることといったら、うちで住居の面倒を見ることくらいしかないので。それに亜子さんには幸せになってもらわないと」
少しばかり含みのある言い方をして、在は改めて、詳細にこの家の説明を始めた。大助がいいと言っても、これが在の仕事なのだ。亜子はそれを真剣に聞きながら、家の中を見てまわって感じたことや質問などを口にしていた。
そんな経緯で、大助と亜子の、四月からの新居が決まったのだった。

四年前、高校の卒業式の日。大助が亜子に告白したあの日、約束した。亜子が大学を卒業したら、そのときまでに大助がきちんと準備をしておいて、結婚しようと。周囲からすれば子供の口約束みたいなものだったかもしれない。けれども、大助は本気だった。だから亜子も、約束の日まであと一年半ほどになった頃に、真剣に考えるようになった。
半年ほど前に、卒業式が終わったら籍を入れようと話した。その頃には二人で暮らすことや、住居を礼陣に構えることを決めて、周囲に相談を済ませていた。
「まだ若いのに、もう結婚とか……。一力何考えてんの」
同僚は呆れたように息を吐いたが、後輩は目を輝かせていた。家を見に行ったときの亜子のようだ。
「お相手って、よく一力さんのところに来てる、ハーフで美人の彼女さんですよね。うわーいいなあ、ウェディングドレスとか似合いそう! 式には呼んでくれますか?」
「式は挙げねえよ。だから報告だけしようと思ってて……
「お前な、そういう場は大事だぞ。なんで式挙げないの?」
「兄貴が挙げてないからです。あと、家とか車とかのこと考えたら、式挙げてる場合じゃないんで。写真だけ撮ろうってことで彼女も納得してくれてるし」
かなり賑やかになってしまった休憩時間だが、上司が「はい、仕事するぞー」と手を叩いて解散となった。だが、誰もがそわそわしている。大助が家庭を持つということを意識している。
そんな調子でいつもと同じように就業時間は過ぎていき、その日の業務はほぼ定時に終了した。

翌日、礼陣にある北市女学院大学の卒業式が執り行われた。
スーツや袴姿の女学生たちが学び舎に別れを告げ、それぞれの道へと歩んでいく。そんな中、亜子は親しい友人たちと挨拶をしながら、時間を気にしていた。
「亜子ちゃん、まだお迎え大丈夫?」
「まだだと思うけど……
式が終わる時間と、その後に猶予が欲しいということは、大助には伝えてある。しかし、どうして卒業式が終わったらすぐに役場に行くなんて約束をしてしまったのだろう。よく考えたらものすごく恥ずかしい。
「袴のまま役場行くの? 勇気あるー」
「からかわないでよ。自分でも酷い約束したなあって思ってるんだから」
頭が痛くなってきた。これからそのめちゃくちゃな約束をした相手と、ずっと一緒に暮らしていくというのに。
やっぱり着替えてから行くことにしようかと思っていたら、スマートフォンが震えた。もう遅い。電話は大助からだ。
……もしもし」
「北市女の前に来たけど。まだ中か?」
「うわ、本当に学校まで来ちゃったの? わかった、今行く」
電話を切って、友人たちに「またあとで」と別れを告げ、正門まで行く。女学生たちから注目を浴びている長身の男は、間違いなく大助だった。呆れながら、亜子は近づき、これまで、そしてこれからを共に歩む彼を見上げた。
「いいじゃん、袴」
にやりと笑う大助の胸のあたりに、亜子は軽く拳を叩きつけた。けれども顔が赤くなったのは隠せないし、今更隠すつもりもない。
「行くなら行くよ」
学校には、謝恩会のためにもう一度戻ってくることになっている。そのときの亜子は、もう「皆倉亜子」ではない。この手を引く幼馴染の男の家族、「一力亜子」だ。
礼陣町役場に到着した二人は、周囲の目を引きながら、書類を提出した。

「写真も撮りに行かねえとな」
「そうだね。愛さんとよりちゃん先生、すっごく楽しみにしてるし」
他にもやることはたくさんある。大助と亜子の新しい生活は、たった今始まったばかりだ。
でもそれだけでは済まないことを、周囲がそれで済ませない者ばかりだということを、二人はまだしらない。