中学を卒業し、進学する高校が決まった子供たちが、続々と水無月呉服店にやってくる。着たかった制服に袖を通し、丈を合わせる姿は、本当に嬉しそうだ。見ているこっちも笑顔になる。
「和人さん、似合う?」
今年高校に進学する顔なじみが、腕を広げて尋ねた。ついこのあいだまで和人も通っていた、礼陣高校の制服は、彼女に着られるのを待っていたようだ。
「似合うよ。丈もこれで良さそうだね。それともまだ背が伸びる予定はある?」
「ううん、どうかな……。これ以上背ばっかり伸びても仕方ないんだけど」
『胸は大きくなるんじゃない? ねえ、和人』
相変わらず、美和は和人たちの会話に勝手に入ってくる。和人以外の誰にも聞こえない声だから、何を喋ってもかまわないのだけれど、さすがに女の子の体型などの話題は止してほしい。恥ずかしいのが顔に出ていないかどうか気にしながら、和人は他のお客のほうへ向かった。美和はもう少しだけ、制服を喜んでいる少女を眺めてから、和人の後についていった。
こうして店に関われるのも、あと数日。和人が礼陣の町を離れる日が、すぐそこに迫っていた。
和人と美和は双子である。互いに自分こそが兄だ姉だと主張し合って、とうとう決着はつかなかった。いや、和人がほんの少しだけ譲歩しているだろうか。
顔のよく似た双子といえども、和人は人間で、美和は人鬼という、大きな違いがある。人鬼は礼陣の町に住まう鬼たちの一種だが、本来ならいかなる人間にも視認されず、声も聞こえない。和人が美和の存在を認めることができるのは、特殊な例だ。おそらく双子ならではのことだろうと、二人は納得している。
幼い頃からずっと一緒にいた。内気だった和人は美和の助けによって少しずつ他人に歩み寄るようになり、親友もでき、後輩たちに慕われるようになった。誰もがそれを和人の努力や素質によるものだと思っているし、そういうのだが、実際は美和が傍にいてくれたからこそここまでやってこられたのだ。
美和が傍にいない和人は、精神的にあまり強いとはいえない。礼陣の鬼たちはこの土地を離れられないもので、美和も例にもれず町の外に出ることはできない。たとえば和人が剣道の試合などでよそへ行くときなどは、美和は家で留守番をしている。美和と離れた和人は無意識に不安を抱え、試合に影響が出てしまう。とうとうそれは克服できずに、全国大会に行ったときも、入賞できずに帰ってきてしまった。高校生活の、苦い思い出の一つだ。
一方美和は、鬼が本来持っているはずの力も使えず、和人以外の人間に存在を認められることもないので、和人がいなければ人間の生活に干渉することができない。本来、鬼は人間の生活に過干渉するようなものではないようだが、美和にはどうしてもやりたいことがあった。それが実家である水無月呉服店の手伝いである。
自分では何もできない美和は、和人に指示を出すことで、店番をしてきた。お客に着物を勧めたり、小物のアドバイスをしたり、町の噂をもとに世間話を持ちかけたり。傍目には和人がうまく振る舞って店番をしているように見えるのだが、実のところは美和がやりたいことをやっているのだった。
互いに互いが必要だった。今まではずっとそうだった。けれどもそれも、もうおしまい。和人は隣県の国立大に進学が決まり、美和はこの店に一人で留まる。和人は一人で生活しなければならないし、美和は店のために何もできないもどかしさに身を置かなければならない。
着物だけでなく、町の学校の制服をも取り扱う水無月呉服店は、今の時期が一番忙しい。一日に多くのお客が店を訪れ、制服を合わせ、購入していく。高校に上がる前の春休みから、和人と美和も店を手伝い、この忙しさを経験している。
目まぐるしいが、楽しい。店を訪れる人々のほとんどが笑顔だから、こちらも嬉しい。「合格おめでとう」「進学おめでとう」と言えることが、店番の楽しみだった。
「和人。礼高男子のブレザー、Lサイズ持ってきてくれ」
親友であり、今はまた別の関係でもある、幼馴染の野下流も店を手伝いに来てくれている。流は地元の礼陣大学に進学することが決まっているので、これまで通りこの町にいる。せめて流にも美和が見えたら、美和が退屈することがないのにと和人は思うのだが、そうもいかない。美和は『仕方ないでしょう、そういうものなんだから』と平気な顔をしているが、それは見た目だけだ。
和人が寂しいなら、美和も寂しい。双子はいつだって、同じことを考えてきた。
「はい、Lサイズ。……でも、Mでよくない? あんまり大きすぎても格好悪いでしょう」
『着心地はどうなのよ。本人に訊きなさい』
今はこの忙しさで、二人とも気を紛らわせている。ちょうどいいことにこの繁忙期は、和人にも美和にも余計なことをあまり考えさせないのだった。
ふと引き戻されるのは、こんなとき。
「そうだ、和人君、国立受かったんだって? すごいじゃないの、おめでとう。でももうすぐでこの町から出ていくと思うと、ちょっと残念ねえ。商店街の花がなくなっちゃう」
制服を合わせていた子の親が、思い出したようにこう言ってくれると、和人は自分がうまく笑顔を返せているかどうか不安になる。美和が何も言わないので、むしろ何故か得意げに胸を張るので、きっと大丈夫なのだろうけれど。
「ありがとうございます。でも……」
でも、から先は小さな声になる。相手に聞こえているかどうかわからないくらいの声で、「花は残りますよ」と呟く。商店街に、この店に、本当に花を咲かせたのは美和なのだから。少なくとも、和人はそう思っている。
「Mサイズでいいですね。スラックスの丈も問題ないですし、今日このままお引き取りでよろしいですか?」
「そうするわ」
お客の満足そうな笑顔。これを引き出してこられたのは、美和がいてくれたからだ。そして、美和がこの表情を見られるのは、和人が指示通りに接客をしてくれたからだ。
接客だけではない。和人はこの店の業務のほとんどを覚え、パートやアルバイトの従業員のためにマニュアルまでつくっておいている。自分がいなくても、誰かがこの店を守ってくれるように。お客を満足させ、美和を安心させてくれるように。
「ありがとうございました」
『ありがとうございました!』
お客を見送ってから、双子は顔を見合わせる。この仕草も、もう何度してきただろう。あと何度繰り返すことができるのだろう。
ほんの少しだけ営業時間を延ばしたが、店じまいのときはやってくる。正面のシャッターを下ろし、店の掃除をして、ごみを捨てたり、置いたままにしておく商品にカバーをかけたりする。奥では和人の父が今日の売り上げと在庫を確認し、住居のほうでは母が夕食の支度を始める。
流は最後まで残って、掃除を手伝ってくれる。店でのアルバイトは大学に入ってからも継続してくれるらしい。
「和人が留守のあいだ、ちゃんと仕事しておくからな」
この言葉が和人だけでなく美和にとっても、どんなに心強いことか。
「ありがとう、流。君のおかげで、僕は安心して家を出られるよ」
『流の動きを見ているだけで、退屈しなくて済みそうだわ』
そう返すと、流は困ったように笑った。頼られるのは嬉しいけれど、離れてしまうのはやはり寂しい。そんな気持ちが伝わってくる。
「本当に、心配なことはないのか?」
掃除が終わってから、流がぽつりとそう言った。着ていたエプロンをたたみながら、和人はその言葉を頭の中で繰り返す。同時に美和が、和人以外には聞こえないその声で、本当の思いを口にする。
『ないわけないでしょ』
店のことではない。流や美和を置いていくことでもない。和人が心配なのは、美和がいないと途端に弱くなる自分自身のことだ。流がいないと素の自分でいられなくなる、自分自身が一番心配で、厄介だ。
それは美和も同じで、和人がいない日々がいよいよやってくると考えると、自分の存在意義がわからなくなってしまう。どうして美和は、人鬼になったのだろう。どうして和人にだけ、姿が見えるのだろう。
「正直、心配事はいろいろあるよ」
掃除用具を片付けて、店の明かりを消す。母の「流君もご飯食べていくでしょー?」という声がした。
「でも、一つずつクリアしていけばいいかなって。そうすればいつか、心配していたことも、自然の状態だと思えるようになるんじゃないかって……」
そうなればいい。和人にとっての美和のいない時間が、美和にとっての和人のいない時間が、当たり前になれば。だってもともと、和人は普通の人間で、美和は鬼。生活を共にしていても、それに気づかないはずの関係なのだから。
「自然な状態、ね。和人がそれでいいならいいけど。でも何かあったら、俺に言ってくれよ? じゃないとこっちが心配だから」
「わかってる。流にはできるだけ心配かけたくないからね」
『心配させると面倒だものね』
夕飯の後、流を家まで送ってから、和人と美和はほとんど人のいない商店街を歩いた。十八年と八か月を過ごした町は、陽のあるうちは賑やかで、夜になると静かになる。黒く大きな山の陰から、月と星が明かりを落とす。
水無月呉服店を通り過ぎて、商店街の東端を抜けると、そこには上がりの石段がある。この上は礼陣の町のシンボル、礼陣神社の境内だ。和人と美和は何も言わずに、そっと石段を上っていった。
石段を上り終えると、美和が誰もいない境内に軽く手を振る。美和にはここにいる鬼たちが見えている。和人は美和以外の鬼を見ることができないので、そこにどれほどの鬼がいるのかはわからない。ただ、たしかにそこに存在しているのだということだけを意識する。
いや、もう一人だけ、和人にも、町の人々にも見える鬼がいた。この神社には昔から、そういうひとがいるのだ。
「こんばんは、和人君」
穏やかな声が耳に届く。月光に照らされるその人は、長い髪を一つに束ね、袴を穿いている。彼はこの神社の神主だ。
「それから、美和さんも」
同時に、この町の鬼たちを束ね、神社に祀られている「大鬼様」というものでもある。和人が美和の存在を幻ではないと確信できる材料の一つが、彼だった。鬼の長であるこの人には、和人以外には見えないはずの美和が、見えるのだった。
「待ってたみたいに現れるんですね」
「待ってましたよ。来るような気がしていましたから」
『さすが大鬼様。じゃあ、用件もきっとわかってるわね』
和人と美和は、神主もとい大鬼様を真っ直ぐに見る。いつか鎮守の森に迷い込んだ和人と、一緒に出てきた美和を助けてくれた、この町の守り神を。
「最後にもう一度、確かめたかったんでしょう。美和さんはたしかにここにいて、そしてやがては鬼に成り、和人君には見えなくなってしまうということを」
言いたいことは全部見透かされていた。和人はただ、その言葉に頷くだけでいい。美和はそれを見て、呆れたように笑みを浮かべた。
『なあに、まだ私があんたの作りだした幻じゃないかって疑ってたの?』
「ときどき。ごめんね、美和には失礼なことだってわかってるんだけど」
美和は、幼い頃孤独だった和人が、産まれてすぐに死んでしまった双子の女の子の話を聞いて作りだした、想像上の存在なのではないか。和人が幾度も思い、打ち消してきた疑問だ。それを否定してくれる唯一の他人が、大鬼様なのだ。
彼に美和が見えるということを和人が知ったのは、鎮守の森から逃れてきたときのことだった。あのとき、気づいて助けに来てくれた神主は、二人分の名前を呼んだのだ。
「和人君、美和さん」
今、そうしているのと同じように。
「あなたたちがこの町で過ごしてきた日々を、私はよく憶えていますよ。ずっと見てきましたから。和人君が美和さんを見るようになり、名前をつけ、ずっと一緒にいた日々を」
ときには神主が和人に合わせてくれているだけなのではないかと思ったこともあったが、美和と会話が成立していることに気がついて、そうではないとわかった。やはり神主は、大鬼様なのだ。
「そして和人君と美和さんが、今一番恐れていることもわかります。……和人君が礼陣を離れているあいだに、美和さんが人鬼から鬼に成ってしまい、もう二度と会話をすることや、和人君が美和さんを見ることができなくなったりするのではないかということですね」
美和は人鬼であり、人鬼というのは強い未練を持った魂が鬼に成るまでの過程の姿。そう和人と美和に教えてくれたのも、神主だった。
美和の未練は、和人の未練。この町で生きたいと、支えていてくれる人が欲しいと、そう強く願ったからこそ、美和の魂は人鬼になった。和人が美和をこの世に縛りつけたともいえるし、美和が和人の願いに縋ったともいえる。
未練が解消されたとき、美和は鬼に成り、ある種の人間には姿が見えるようになり、鬼として大きな力を振うこともできるようになる。その力をもってすれば、水無月呉服店の手伝いも、過干渉になりすぎない程度にはできるかもしれない。たとえば物体に触れることができるようになって、商品の並びが乱れているのをそっと直すことも可能だ。
けれども「ある種の人間」には本来当てはまらない和人には、鬼に成った美和は見えなくなる。もともと礼陣の鬼は、その姿が見える者も子供ばかりで、成長すれば次第に鬼を見ることもなくなるのだという。
「僕がこの町を離れられたら、それは大人になったということなんでしょうか。そうしたら、僕はもう美和を見ることができなくなってしまうんでしょうか。美和と話せなくなってしまうんでしょうか」
俯き気味に和人が言う。美和はその隣に、和人に視線を送りながら立っている。
神主は二人を見て、困ったように笑った。どことなく、今日の流の表情を思わせる。
「大人になることの定義とは、何でしょうね。……これがいいことなのかどうかはわかりませんが、私はまだしばらくは、和人君と美和さんはお互いを認識できると思うんです」
『それってつまり、和人は大人になれないで、私は鬼に成れないってこと?』
美和が静かな声色で尋ねると、神主は「そうですねえ」と首肯した。
「まだあなたたちは、お互いを必要としていますから」
いつか和人が、美和が傍にいなくても顔をあげて歩けるようになったら。いつか美和が、和人がいなくても鬼として生きることを決心し、それが揺るがなくなったら。そのとき二人の未練はなくなるのだ。神主はそう言っている。
「まだ一生の別れにはならないでしょう。けれども、いつか必ずそのときは来ます。現に美和さんは少しずつ鬼に近づいていますし、和人君は自分の進路を選びました」
いつのまにか、状況は変わっていた。互いを必要としながらも、離れる準備をしてきた。意識してそうしようとしたこともあった。
何にせよ、互いにしか互いがわからない状態というのは、もう残り少ないのかもしれない。たとえ神主が、まだそのときではないといったとしても。
「人間も鬼も、必ず成長します。別れのときは来ます。でもそれは、悲しいとか、寂しいとか、そう思うようなことではないんですよ。それだけは、忘れないでくださいね」
新しい制服に袖を通した子供たちと一緒に、喜んだように。それはめでたいことなのだと、訪れてしかるべきときなのだと、和人と美和は理解した。理解だけは、したのだ。
『私がいないと、和人、剣道勝てなかったじゃない? それで、大学に進学したらもうやめるって言ったじゃない。……私がいなくても続けて、一人でも勝てるようになったら、それはそのときに当たるのかしら』
「そうだね、もしかしたらそれが怖くて、僕は剣道をやめるのかもしれない。美和があまり店にいなかった時期、僕は一人で店番をして、なんとかなってしまったことがあったから。……美和がいないのにうまくいくなんて、そんなのは嫌だったんだ。僕には美和が必要だって、思い続けたかったのかも」
そしてそれは今でも。
目を合わせて苦笑し合う双子を、神主は目を細めて見ていた。呆れるでもなく、叱るでもなく、ただこの双子を微笑ましく思っていた。
あなたたちは本当に、お互いが大好きなんですね。そんな言葉に見送られて、和人と美和は神社をあとにした。
引っ越しの荷物は最小限に。家具は向こうに届けられるし、冬物の衣類はまだいらない。本は全部を持ってはいけないから、いっそほとんどを残しておく。和人のお気に入りは美和のお気に入りなので、持って行ってしまうのは可哀想だというのもある。
『どうせ私一人じゃ触れないから、読みもしないのに』
「背表紙を見てるだけでも楽しくない? 本って、そういうものでしょう」
荷物をまとめた箱に中身の品目を書きながら、和人は美和に笑いかけた。美和はそれに同じ表情で、「そうね」と言う。
これから和人は家を発つ。美和とともに過ごした場所から、離れていく。
「夏休みには帰って来るから」
『そのときは夏祭りのかき氷ね』
「うん、約束」
触れられないから、指きりはできない。握手もできない。けれども双子は手を合わせ、互いの額をくっつけるようにして、言葉を交わす。
「いってきます」
『いってらっしゃい』
戻ってくるまで店番をよろしく。和人は美和にそう託して、水無月呉服店から出ていった。