式歌斉唱のときに、小学生の頃、合唱コンクールで優秀賞をとったことを思い出した。あの年に、色々なことが始まった。竹刀を自分のためではなく、誰かのために振るうようになった。
それから時が経って、何もかもが少しずつ変わっていった。友達が増え、身長が伸び、進級、進学すると同時に、この眼に見えるものはだんだんと薄まり、減っていった。これまでの、他の多くの鬼の子と同じように。
大人になれば、鬼は見えなくなる。それはわかっていたはずなのに、やはり寂しかった。見えなくても傍にいるんだと思っていても、確かめられないと不安になる。
それでもいつかは、この「普通」に慣れていくんだろう。鬼が見えない、鬼に頼らない、人間としての生活に。
『やっこ、卒業おめでとう』
馴染みの子鬼――もう彼女くらい力の強い鬼でなければ、見ることはできなくなってしまった――が、声をかけてくれる。きっと他の鬼も同じように話しかけてくれているのだろうけれど、全てに応えられないのがもどかしい。
「ありがとう。……あーあ、早かったなあ」
今日まで、本当に。――やつこが鬼追いでいられたのは、七年だった。

礼陣高校の卒業式は、今年も恙なく終了した。謝恩会は夕方からなので、それまで時間がある。後輩たちから色紙や花束を受け取って、「根代先輩がいないと寂しいです」と泣きだしてしまった子の頭を撫でて、時間をかけて校門をくぐった。
追いついた雄人と一緒に、三年間通った校舎を振り返ると、胸がじいんとした。この大きくて賑やかな場所を、これからしばらくは見ることができなくなる。
「んじゃ、御仁屋行くか」
「そうだね。……ゆいちゃんたち、もう待っててくれてるみたいだし」
「透はもう少しかかりそうだってさ」
高校に入ってから買ってもらって、使い込んだスマートフォンは、もうすぐ新しいものに買い替えるつもりだ。この町の思い出がたくさん詰まっているので、少し惜しいけれど。
画面にはひっきりなしに届くメッセージが表示されていて、ときどき懐かしい名前も見える。この町から離れていってしまった人々とも、ちゃんと繋がっている。
「あ、雄人見て。海にい帰って来るって。なんか忙しいみたいだけど」
「やったな。卒業証書見せに行こうぜ」
スマートフォンを一度ポケットに入れ、通いなれた道を歩く。学校から駅裏商店街へ行き、御仁屋で待ち合わせ。高校生になってからは、よくこうして、他の学校へ進学した友人たちと集まっていた。
御仁屋にはもう、北市女学院高等部の制服を着た二人が待っていて、こちらに手を振ってくれる。
「やっこちゃん、吉崎君、卒業おめでとう!」
「ゆいちゃんとさっちゃんもおめでとう!」
女の子達は抱き合って、喜びを分かち合う。それを雄人がスマートフォンの着信を気にしながら見ている。御仁屋の店員たちには馴染みの光景になっているようで、こちらに温かいまなざしを送ってくれていた。
「鹿川君は? ヤシコーって卒業式時間かかるんだっけ」
「いや、もうこっちに向かってる」
先に席について、出されたほうじ茶を啜りながら、残る一人の到着を待つ。やつこと雄人と、結衣香と紗智と、透。五人は小学生の頃から現在に至るまで、進路が分かれてもよく会っていた。
「こんにちは。雄人たちは……ああ、いたいた」
「おっす、透」
「卒業おめでとう、透君」
「おめでとう。……やっこ、制服直した方がいい。後輩にもまれたんだろ」
社台高校の制服を着た透は、珍しくブレザーの前が開いていた。よく見るとボタンが全てなくなっていて、おお、と他の四人から感嘆の声が上がる。
「モテるね、鹿川君」
「むしり取られた。社台の女子が清廉な才女ばっかりだと思ったら大間違いだよ」
五人揃ったところで、やっとお菓子を注文する。ピンク色の可愛らしい桜餅と、おにまんじゅうを一個ずつ。今日は卒業式だったからと、それに小さな紅白まんじゅうのおまけがついた。
「やっこちゃんたちは、しばらく食べられなくなっちゃうね」
「そうだね。最低でも十か月、か」
「まだ信じられないなあ。誰よりも礼陣が好きなやっこちゃんが、礼陣を離れるなんて」
卒業後の進路は、それぞれ決まっている。結衣香と紗智はそのまま北市女学院大に進学することになった。結衣香は看護学部に、紗智は芸術学部に進む。雄人は礼陣大学に合格が決まった。
そして透は神道を学びに県外へ、やつこは県内にはいるが、四月からしばらく大城市にある警察学校に行くことになっている。
やつこが進路を警察官に定めたのは、高二の夏の大会が終わった頃だった。鬼が見えなくなってきて、鬼追いもそのうちできなくなると意識したとき、礼陣の人々を助ける別の方法を考えた。鬼の子ではなく、ただの人間として、できることは何なのか。――ただの人間になっても、やつこは礼陣の平穏を守り続けたかった。
「礼陣が好きだから、ちゃんとした形で帰ってきたいんだよ。昔からの約束通り、ゆいちゃんたちを守りたいの」
「それで警察官になろうなんて、やっこらしいよ。剣道そのまま続けるんだよな?」
「もちろん。なんか、段を認めてもらうのに手続きとか必要みたいだけど」
この力を誰のために使うか。鬼の子としての力が失われれば、残るのは剣道の腕くらいだ。町を陰ながら守り続けてきたこの力を、今度はどうやって使うか、出した答えがこれだ。
これまで培ってきた技術や心は、無駄にしない。したくない。大人には大人の、人間には人間の、大切なものを守る方法がある。
「やっこは先に社会人になるんだな」
「透君は、勉強したら礼陣神社に帰ってきてくれるんだよね」
「だって、あの神主さんにだけ任せてられないからな。普通の勉強があの神社の役に立つかどうかは微妙だけど」
一時は離れても、またこの町に戻ってくる。この町のために生きることを選ぶ。礼陣で生まれ育った人々の多くは、けっして故郷を忘れない。この不思議な土地のことを、愛し続ける。
やつこのただ一つの心残りは、この土地をまだ恨み続けている呪い鬼を救えなかったこと。進道家の葵鬼だけは、とうとう癒すことが叶わなかった。でも、きっといつか、何らかのかたちで、彼女が救われたらと切に思う。それを果たすのは、まだ力が残っているという海かもしれないし、他の鬼の子か、あるいは同じ鬼かもしれない。どうやら葵鬼のところへ通うことのできる、呪いに負けない強力な鬼が現れたようだから。
何も心配することはないのだ、たぶん。やつこは安心して、人間として生きればいい。寂しさを乗り越えて、前に進んでいけばいい。
「ちょっとだけ離れるけど、またわたしはこの町に戻る。わたしはここにいる」
大人になって戻ってきた町は、どんなふうに見えるのだろう。鬼の声が聞こえない町は、それでも愛おしいのだろうか。いや、愛おしさだけは変わらないだろう。
あんなに必死で、駆け回った町だ。これからも、いつまでも、駆け回り続けたい。
「それにお休みの日には帰って来るから。ちょっと楽しみなイベントもあるんだ」
根代八子は礼陣の子。この先何があっても、それだけは変わらない。