小学生の頃、近所に女の子が住んでいることを知った。いや、正確には逆だ。その女の子が近所に住んでいることを知ったのだ。

同じクラスになった、学年で一番背の低い女の子。亮太朗から見た彼女の第一印象は、「なんか小さいのがいる」だった。走るのががあまり得意ではないらしいこともそのうちわかって、とくに興味はもたなかった。クラスで一番足が速い亮太朗にとって、勝負にならないような相手を、それも女子であればなおさら、気に留める必要はなかったのだ。

 

最初に意識したのは、学級レクリエーションでドッヂボール大会をやったときだ。きゃあきゃあと騒ぎながら逃げたり、へろへろのボールを投げる女子と一緒にやるのは、つまらないと思っていた。しかも男子対女子なんて戦い方をするものだから、その差は圧倒的で、亮太朗にとってはもどかしい試合だった。もちろん運動の得意な女子だっていたのだが、亮太朗の投げるボールにかかればなんということもない。さっさと外野に追いだしてしまえば、残りは弱い奴ばかり。

あんまり強くボールを当てると、あとで女子から文句を言われる。だから軽く当ててやらなきゃいけないのも不満だった。それがつい出てしまったのか、あと内野にいる女子も数人というところで、手を滑らせてしまった。ボールを強く投げすぎたのだ。

やばい、と思ってももう遅い。ボールは背の小さい女子に向かって、まっすぐに飛んでいった。ああ、これであいつが痛がったら、あとで非難ごうごうなんだろうな。そんな考えが頭を掠めていく。

けれども、ボールは相手に当たらなかった。触れてはいたのだが。つまり、がっしりと受け止められたのだ。それは誰にとっても意外なことで、一瞬、その場の時間が止まったようだった。

ようだ、というだけで、時間が実際に止まったわけではない。受け止められたボールは大きく振りかぶられ、ものすごい勢いで亮太朗のほうに返ってきた。そんなの、予想していない。だから取る準備なんてしていない。ボールは見事に亮太朗の腹を直撃し、強烈な痛みを与えた。

「ごめん、やりすぎちゃった! 大丈夫?」

やりすぎどころじゃない。どこにそんな力を持っていたんだ。気にも留めていなかった彼女は、この瞬間、「意外と力のあるチビ」に昇格した。

 

「意外と力のあるチビ」の本名は、須藤春。スドウではなくストウと読むのが正しいらしい。家はこれまた意外なことに亮太朗の自宅に近く、両親は彼女の祖父とよく挨拶を交わしているらしい。――そう、彼女は祖父と二人暮らしなのだった。

大人たちの話を盗み聞いたことによると、春の両親は数年前にあった飛行機の事故で亡くなったのだそうだ。海洋上で機体に不具合が生じ、陸地に辿り着くことができないまま墜落した……なんてことは当時の亮太朗には想像すらできなかったが、とにかく春には親がいないのだということは理解した。

親がいない子供は、この町では手厚く扱われる。春もよく大人たちから声をかけられていて、それにしっかりと応えていた。チビなのにすげえ、と素直に思ったこともあったが、口にはしなかった。女子を褒めたら、周りの子供たちにからかわれるとわかっていたからだ。

そのかわりに亮太朗は、春にわざと意地悪をするようになった。ドッヂボールのときに受けた痛みのことを持ちだしては「怪力女」と囃し立て、鉛筆や消しゴムなどを突然取り上げて高く掲げては「取ってみろよチビ」と悪態をつく。そうすると春は亮太朗をキッと睨み、「やめてよ」だとか「返してよ」だとか、反応をくれるのだった。それがまた面白くて、ほんの少しだけ嬉しくて、亮太朗は意地悪な行動を繰り返した。

もちろんそのたびに大人たちに叱られるのは亮太朗なのだが、そんなのは全然平気だった。春はけっして自分から大人に告げ口をするようなことはしなかったので、叱られるのは決まって現場が見つかったときだ。つまり、回数はさほど多くなかったのだった。それに大人がどんなに怒ったところで、この町の子供たちには免罪符がある。「子供は大事にしなければならない」という、この町の掟を楯に、亮太朗も生意気な態度をとり続けた。

あるときまでは。

 

ある日の放課後、教室の掃除をしているときに亮太朗たち男子がふざけているのを、同じ班だった春が注意した。

「ねえ、ちゃんと掃除やらないと終わんないよ」

「うるせえ、チビ。その怪力で机全部運べるだろ」

掃除をするとき、机はイスをその上に載せて、教室の後ろのほうに持って行く。床のモップがけが終わったら元に戻さなくてはいけないのだが、一人では大変だ。けれども亮太朗は、春ならできるんじゃないかと半分本気で思っていたのだ。

春はしぶしぶと机を黒板のある側に持って来る。他の女子も、男子に文句を言いながら、机を戻しにかかった。机を前に持って来ると新たなごみが出てくるので、男子はそれをモップで集める、比較的楽な仕事をしようとしていたのだが。

「春、いる?」

作業の途中で教室の外から声が投げかけられて、全員そちらに目をやった。戸のところから、少し背の高い男子が覗いている。掃除をしていた一人と春が同時に「海にい」と口にして、亮太朗にもそれが誰なのかわかった。

海にいとは、この町にある剣道場の息子だ。学年は亮太朗たちよりも一つ上らしい。だから年下から、お兄さんという意味で「にい」と呼ばれる。

春は剣道をやっているわけでもないのに、その海にいと親しいようで、持ち上げていた机をきちんと運び終えると、彼のほうに行った。

「どうしたの?」

「じいちゃんに用事があるから、春と一緒に帰ろうと思って。掃除、まだ終わってないんだ?」

「うん。もうちょっとだけど、待っててくれる?」

「じゃあ、廊下にいるからな」

身長に差がある二人は、まるで本当の兄妹のようだった。今年剣道を始めたばかりのクラスメイトは、「海にいと仲良いの、うらやましいな」と言っている。春と仲が良い、年上の男子がいるということに、亮太朗はちょっとむっとした。何故だかはわからなかったけれど。

急いで机を運び始めた春を、それでも亮太朗は手伝わなかった。モップを床に滑らせながら、いつもの調子で口にする。

「須藤、怪力なんだからさっさと運べよ。モップやってんのに暇になるじゃんか」

いつもどおりに、春から反応があるものと思っていた。「だから急いでるでしょ」とか、そういう言葉が返ってくるものと思っていた。しかし。

「今なんて言った?」

廊下にいたはずの彼が、いつのまにか教室の、亮太朗の真後ろに立っている。おそるおそる振り向いて、ぎくりとした。さっき、あんなに優しそうに春に話しかけていた表情はどこにもなくて、ただひたすら冷たい眼差しが亮太朗を突き刺している。

「君、名前は」

氷を当てられたような、ひやりとした声。普段ふざけてばかりいる亮太朗にも、彼が本気で怒っていることがわかった。

「まきの、りょうたろう……」

小さな声で答えると、「そう、亮太朗君」と繰り返される。

「覚えておくといいよ、亮太朗君。見たところ健康そうな男子が、人に重いものを持たせておいて『さっさと運べ』だなんて、ものすごく馬鹿なことを言ってるんだってこと。君も机を運べば、もっと早く掃除が終わるんだから。そのくらいわかるよね? もう三年生なんだし。あと、普段から春に向かってチビとか怪力とか言ってるみたいだけど、身体や能力の特徴をからかうネタにするなんて最低な行為だから今のうちにやめなよ」

息も吐けないほどに、むしろこの言葉を言う間に彼は一度でも息を吸っただろうかと思うくらいに、一気に畳みかけられた。亮太朗は茫然として、それから突然総毛立った。

この人は怖い。これ以上怒らせてはいけない。考えがやっとそこに追いついたとき、震えが止まらなくなった。

動けなくなってしまった亮太朗と、周りでそれを見ていた子達。その中で唯一駆け寄ってきたのは、さっきまでからかいの対象だった春だった。

「海にい。私、気にしてないよ。もう慣れちゃったし、チビなのも怪力なのも本当だもん。だから怒らないで」

そう言って、春は海にしがみついた。すると海はとたんに相好を崩し、「そう?」と首を傾げた。

「春は亮太朗君を許すの?」

「許すよ。もう挨拶みたいなものだもん。だから怒らなくていいんだよ」

「じゃあ春に免じて、もう怒らないことにするよ」

にっこり笑った海は、最初に春に話しかけてきたときのように爽やかだった。けれども教室から出ていく前のほんの一瞬、もう一度亮太朗を一瞥した。とても冷ややかな眼で。

「ごめんね。海にいってば私を妹みたいに思ってるから……」

春がそう言ったのも、亮太朗はどこか遠くのできごとのように感じていた。

 

でも、からかってはいけないのなら、どうやって春に接したらいいのだろう。もう少し優しくしたほうがいいのはわかったけれど、急に優しくなるのもなんだか変だ。体がむず痒くなる。

亮太朗は結局、二、三日考えた。考えに考え抜いて、久しぶりに春に話しかけたときの言葉が、こうなった。

「須藤、悪かったな」

朝一番に、真正面からそう言った。

「須藤はチビだし怪力だけど、これからはなるべく言わないようにしとく。でもうっかり口を滑らせたら、ごめん」

結局半分は悪態になった。ここに海がいたらまた怒られるかもしれないが、わざわざいないときを狙ったのだから大丈夫だろう。

春は少しのあいだきょとんとしていたけれど、突然ふきだした。それから亮太朗が反論する間も与えずに、にっこり笑った。

「いいよ。何言われても、気にしないから。はいはいって流しとく」

その言葉通り、それから頻繁に発生した亮太朗の「うっかり」に、春は「はいはい」と適当に相槌を打つようになった。亮太朗はそれからもずっと、春に話しかけることができたのだった。

ただ、海というトラウマはできてしまったので、その姿を見かけると隠れたり、緊張している。

 

「須藤。俺、またタイム更新したぜ!」

中学生になって、陸上部に入った亮太朗は、同じ部に所属する春に頻繁に報告をする。

「すごいね、牧野君。私も砲丸の飛距離、ちょっとのびたよ」

「へえ。身長は伸びないのにな」

「はいはい、どうせチビですよ」

すっかり当たり前になってしまったやりとりだが、亮太朗にとっては春と交わす言葉の一つ一つが大切だ。自分は春のことが好きなのだと、気付いたのだから。

好きだからかまいたかった。反応が欲しかった。それは今でも変わらない。ついでに海が怖いのも変わっていないので、別の中学に進学して心底ほっとしている。

変わっているようで変わっておらず、変わっていないようで変わっている。案外人との関係なんて、そんなことの繰り返しなのかもしれない。

「そういえば須藤さ、最近廊下で男とよく話してるよな」

「うん? ……ああ、新のこと。友達になったの」

……いや、ときには急速に変わってしまうことだってある。のちに入江新の存在と彼の気持ちを知ったとき、牧野亮太朗は酷く焦ることとなるのだった。