夕方のもう陽が落ちた道を歩きながら、透は、ほう、と息を吐いた。さっきまで見ていた光景が、頭の中にほわりと広がる。――ああ、とても、かっこよかった。
放課後、透は友達であるやつこと雄人に誘われて、心道館道場の剣道の稽古を見に行った。親の都合で礼陣に引っ越してきた透は、まだ習い事も塾に通うこともできないのだが、剣道をやっている二人が「見学だけでも歓迎だよ」と誘ってくれたのだ。
剣道のことについて楽しそうに話すやつこたちの様子を毎日見ていたので、ちょっとだけ興味が湧いていたところだった。話を聞くたびにそわそわする透のことを、とくにやつこが見透かしていたのだろう、「透君も剣道やらない?」と声をかけてくれた。
もう六年生になるし、家の事情はあるしで、今更剣道を始めることはできないだろうと思っていたが、見てみるだけでもと頷いた。そうして行った心道館は、空気がきりりと引き締まっていて、けれどもやつこや雄人、そして三つ上の先輩である海(先日会ったばかりだ)が生き生きしていて、そこにいるだけで胸がどきどきした。
家の都合が邪魔をしなければ、道場の師範であるというはじめ先生の「透君もやってみますか?」という問いに即座に頷いていたことだろう。竹刀にも触らせてもらって、稽古の体験にも参加したかった。でも、そうしたら歯止めがきかなくなってしまいそうで、惜しみながらも断った。

今、透の家は大変なことになっている。去年の十一月頃だっただろうか、父親が何か手痛い失敗をしてしまったらしく、突然会社を辞めることになってしまった。十二月の末までには、社宅である立派なマンションからも立ち退かなければならず、新しい仕事だって見つけなければならないという慌ただしさだった。
だから透の転校も急に決まったのだ。冬休みが明けたら新しい学校に通わなくてはならず、急な変化に戸惑っていた。父親の新しい仕事が決まり、新しい住居が決まっても、一家の気持ちはしばらくのあいだ晴れることがなかった。
引っ越してきた先は、以前住んでいた門市の隣にある礼陣という町で、古い家が並ぶ中に、透たちが住む家もあった。町の不動産屋が透の父が出した条件に合わせて薦めてくれた、あまり大きくはない古民家だ。趣があるといえば聞こえはいいが、歩くたびにぎしぎしと音はするし、いつか崩れるんじゃないかと心配になるような建物だ。不動産屋は「柱も土台もしっかりしているので、あと百年はもちますよ」なんて言っていたが、最初は信じられなかった。
町の人々にも、しばらくのあいだは馴染めなかった。ここの人々は近所付き合いが密なようで、ちょっとしたことでもすぐ噂として広まってしまうらしい。透たちが引っ越してきたことも、あっというまに知れ渡っていた。ちょうど両親も疲れている時期で、透は全てにうんざりしていた。以前に自由研究を通じて興味を持つようになった神社にでさえ、八つ当たりをしたほどだ。
それに比べれば、現在はかなり落ち着いている。クラスに友人はできたし、近所の人たちに挨拶をしたり、世間話をしたりすることにも慣れた。両親も「ここは心が落ち着く良い町だ」と言っている。そう、気持ちには余裕ができたのだ。
それでも塾に通わせてほしいだとか、習い事をしたいだとか、そういうことを口にする気にはまだなれなかった。両親に負担をかけたくなかったのだ。塾や習い事には、お金がかかってしまう。小学生の透は、何をするにも親に頼らなければならない。まだそこまで頼めるほどには、透の家は復活してはいなかった。

だから当分、透は今日の剣道見学がかっこよかったという、思い出だけをもって過ごすことに決めた。少年団に入りたいなんてわがままは言えないが、友達のおかげで様子を見ることだけはできた。それだけで十分だ。それに、面白い話も聞いたのだ。
「今、心道館で一番強いのは海にいだけど。前に海にいより強い、和人さんっていう先輩がいたんだよ」
女の子ながら当人も十分に強いやつこが、まるで自分のことのように自慢げに教えてくれた。なんでも心道館には「心道館最強」の称号を受け継ぐという伝統があるらしく、かつてここにいた先輩の中でとても素晴らしい才能を持った人がいたのだという。現在は高校生で、まだ部活として剣道をやっているのだとか。
すっかり剣道の格好良さに魅了されてしまった透は、その人物に興味を持った。どうやら店の子らしいので、商店街を歩いていれば会えるかもしれないということだ。
きっと体が大きくて、逞しくて、見るからに強そうな人なんだろう。そんな想像を巡らせながら、透はすっかり馴染んだ家の戸を開け、「ただいま」と言った。台所のほうから「おかえり」と、母の声が返ってくる。剣道を見学しに行ったことは、両親には内緒だ。


日曜日に、透は外に出かけて行った。母には「夕飯のおつかいをしてくる」と言ってある。もちろんそうするつもりだったが、目的は他にもあった。
毎週日曜日には、この町の神社にやつこがいるのだ。どうやら境内の掃除をしに行っているらしい。それがやつこの家の、代々の役目なのだといっていた。
礼陣神社は透が今まで調べてきた神社とは少し違っているらしく、疑問がたくさんある。それを解決するためにも、透は神社に通おうと決めたのだ。やつこがいれば、ついでに話が聞ける。掃除もできれば手伝いたい。
透の家から神社までは、古めかしい住宅街を抜けて、大通りを渡って、商店街を通っていくことになる。商店街といえば、剣道が強いという高校生の先輩には、会うことができるだろうか。
春が近いとはいえ、まだ肌寒い街の中を、透は歩く。友達が色々なところを案内してくれたので、地理はきちんと頭の中に入っていた。迷うことなく商店街までやってくると、そこには活気と店の人の声があふれる。どこからかおいしそうな匂いも漂ってきて、透のお腹の虫がくうと鳴いた。
匂いのもとは色々あるようだけれど、特に気になったのは総菜屋のコロッケだ。同年代の子供たちが、揚げたてを買って食べているのが目に入る。でも、お小遣いも家の都合で一時ストップとなっている透は、我慢しなければならない。後ろ髪をひかれる思いで、総菜屋に背を向けて、神社へと向かった。
けれども神社の前にも罠がある。境内へ続く石段のすぐ傍には、「御仁屋」という和菓子屋があるのだ。子供はそこで、安くて美味しいこの町の名物「おにまんじゅう」を買って食べている。薯蕷饅頭に鬼のイラストを焼いた、可愛いお菓子だ。
またお腹が鳴ったので、透は急いでそこを通り過ぎようとした。誘惑の多い商店街は、早く通り抜けなければ。だいたいにして、おつかい分のお金しか持っていないのだ。そう自分に言い聞かせて足早に行こうとすると、どん、と人にぶつかった。
「おっと、大丈夫か」
「す、すみません!」
勢いよく頭を下げてから、これまた勢いよく上げる。すると目の前の人物が、相当背の高い人であることがわかった。透の父よりも大きい。でも、顔はまだ大人とは言い切れない雰囲気だ。ちょうど御仁屋から出てきたところだったようで、手には店の印が入った袋を持っている。それに反応して、お腹の虫がまた鳴いた。しかも、結構大きな音で。
「腹減ってんの?」
目の前の背の高い人にも聞こえていたようで、笑われてしまう。顔が一気に熱くなった透は、もう一度謝ってからすぐに立ち去ろうと思った。しかし。
「これ、食えよ。今日の餡も最高の出来だって、店の親父さん言ってたから」
その前に、おにまんじゅうを差し出された。それも、とても明るい笑顔で。
「え、でも……
「食べとけって。腹を空かした子供は見てらんないんだ」
透は戸惑いながらも、おにまんじゅうを受け取った。相手の満足そうな顔を見てから、はっとして、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いいっていいって」
背の高い人は透の頭をがしがし撫でてから、「じゃあな」と去って行く。ぽかんとしながらも口に運んだおにまんじゅうは、ぎっしり詰まった餡子が、たしかにとても美味しかった。

神社の石段を駆けあがり、境内に到着すると、すでに掃除をあらかた終えたやつことその祖母がいた。透の姿を見つけると、やつこは手を振りながら駆け寄ってきてくれる。
「透君、来てくれたんだ。今日は何かお願い事?」
「いや、神社に興味があって……。今日ならやっこがいるから、色々教えてもらえないかなって思ってさ」
「もちろんだよ! といっても、わたしも教えられるほどの知識はないけど。神社のことならおばあちゃんか、神主さんが詳しいよ」
やつこのおばあさんは、以前にもちらりと見かけたことがあるが、腰がまっすぐに伸びた、しゃっきりとした人だった。透を見てにっこり笑うと、すぐに「鹿川さんのとこの子だね」と言い当てる。
「やっこから話は聞いてるよ。もうこの町には慣れた?」
「はい。やっこさんのおかげで、けっこう馴染めました」
まだ透が町にも学校にも馴染めなかった頃、やつこが少し強引にではあったが、この町の仲間に入れてくれた。透を「礼陣の子供」にしてくれた。そのことを透は感謝している。でもやつこはちっとも恩着せがましくなく、「透君が馴染もうとしてるからだよ」と笑っている。さっき会った人と、どことなく似た表情だ。
「そういえばさっき、不思議な人に会った。俺におにまんじゅうくれたんだ」
「どんな人?」
「背が高くて……あ、あと髪がちょっと長かった。男の人だったけど、まだ若い感じ」
やつこはその説明だけで見当がついたらしく、頷きながら「たぶん流さんだね」と言った。
「礼陣高校の一年生で、町のお祭男っていわれてるんだ。さっき神社に寄って、御仁屋に行くって言ってたから、間違いないと思う」
「お祭男?」
「流さんがいると、この町のお祭りがすごく盛り上がるんだよ」
つまり、クラスでのやつこのような存在か。透はそう認識した。やつこもクラスを盛り上げるのが得意で、そのおかげで透も学校や町に馴染むことができたのだ。
「この町の人は世話焼きだな」
「そうだね。でもわたしは、そういうところが好き」
やつこの「好き」という言葉にちょっとだけどきっとした透だったが、すぐに気を取り直して話題を変えようとした。そうだ、この神社について調べに来たのだ。そのことを改めて口にしようとしたところで、砂利を踏むような音がした。
「おや、賑やかだと思ったら。ようこそ、礼陣神社へ」
いつの間にこちらへやってきていたのだろう。そこには長い髪を束ねた、優しげな風貌の、袴姿の男性が立っていた。
「神主さん」
「やっこさん、ムツさん。今日もお掃除、ありがとうございます。それから透君、よく来てくれました」
この人が礼陣神社の「神主さん」だという。けれどもやつこによると、「神主」というのは町の人がそう呼んでいるだけで、この人は特に神職の資格を持っているわけでも、仕事をしているわけでもないらしい。この人の存在が、透にとっては一番の疑問だった。
この神社で祀られているのは「鬼」だ。礼陣の町には鬼があたりまえのようにいて、普段は人間に見えないように生活しているらしい。実は透も一度だけ、鬼を見たことがある。だからそのことは信じているのだが、問題はその鬼を束ねているのがこの神主さんだということだ。
神主さんは、礼陣の鬼たちの長、「大鬼様」なのだという。とてもそうは見えないけれど。頭につのも見えないし、ごく普通の若いお兄さんのように見えるが、実は何百年という時を生きているとかいないとか。
「透君は、今日は何かお願いですか? それともやっこさんに会いに来ましたか?」
「違います。……まあ、やっこがいたら神社のこととか教えてもらおうとは思ってましたけど」
いたずらっぽく笑う神主さんに、透は少し赤くなりながら返す。するとやつこがまるでそんなことは気にしていないかのように、ぽんと手を叩いた。
「ちょうど良かった。神主さん、透君に神社のことや鬼のこと、教えてあげて」
「はい、わかりました。何から話しましょうかね……質問はありますか?」
とりあえず、透は山ほどある疑問を、片っ端から神主さんに尋ねてみることにした。まだ知らない、色々なことを。

結局、いくら質問しても、疑問が減ることはなかった。次から次へと新しい謎が湧いてきて、あやうくおつかいのことを忘れてしまうところだった。
やつこたちが帰るのに合わせて、透も一緒に神社をあとにした。ここにはまた来るだろうから、謎はそのときに少しずつ解明していけばいい。
おつかいのためにやつこと別れ、八百屋で野菜をおまけしてもらっていると、不意に背後から影が落ちた。振り返ると、そこには来たときに会った姿が、隣に人を伴ってあった。
「よ、また会ったな、少年」
「さっきの……ええと、流さん?」
「誰かから聞いたのか。俺って本当に有名人だな」
暢気に笑う流の横で、もう一人が話をしながら野菜を選び始めた。
「流が有名なのは今に始まったことじゃないし。……君、鹿川君であってる?」
「あ、はい。この町の人、引っ越してきた人はすぐに分かるんですよね」
「そうそう。あ、僕はそこの呉服屋の者で、水無月和人。この大きいのは町議長のお孫さんで、野下流」
和人と名乗った彼は、穏やかに微笑みながら流を指さした。もう片方の手にはちゃっかり選んだホウレンソウを持っている。
「俺は鹿川透です。……ええと、水無月さん?」
「うん?」
「もしかして、心道館最強……だったりしました?」
想像していたのとはまったく違う、優しげな表情の、細身で平均的な身長の少年。けれども名前はやつこたちから聞いた「和人さん」。透の想像に合致する「心道館最強」は、どちらかといえば流のほうだが。
意味ありげに和人が笑ったあと、流が「有名だからな」と言った。