礼陣の各地域には、そこの有名人がいる。昔からそういう人はいるようだ。
僕が知る限りでは、たとえば、中央地区の「お祭男」と「商店街の花」。この二人はよく組んでいたので、二人でセットだ。お祭男は礼陣町議会の議長の孫で、商店街の花というのは駅裏商店街の呉服屋の、ちょっと多才な息子のことだ。彼らは僕もよく見かける。
北市地区は「光井の令嬢」。表に出てくることはめったにないけれど、名前だけ囁かれている。北市女学院の運営の中心にいる光井家の一人娘は、病弱だが大層頭が良いらしい。北市女がレベルの高い学校なので、子供もそれに見合ってなければならなかったのか、それとも自然とそうなったのかはわからない。何にせよ、僕は彼女には会ったことがない。
遠川地区は「遠川狂犬ブラザーズ」。礼陣で一番喧嘩が強いという二人組だけれど、どうやら現在の彼らは二代目だということだ。遠川中学校の治安が良くなく、狂犬ブラザーズはそんな状況に対抗するためのヒーロー的存在らしい。彼らは神社でたまに会う。片方は剣道場「心道館」の息子だ。
南原は……そういえば聞いたことがない。礼陣の一部になったのは戦後だったというけれど、そのことと関係あるのだろうか。特に有名な人というのはいないようだ。
そして社台。礼陣の町のシンボルである礼陣神社を抱え、大学があり、内外の人々が入り混じったこの地域で名を馳せたのは、「礼陣神社の三橋さん」と「社台の女大将」。この二人は同時に存在したわけではないけれど、前者がいなければ後者は存在しないという関係にある。けれどもその性質はまったく別のもので、「礼陣神社の三橋さん」は神社に足繁く通った女学生であるのに対し、「社台の女大将」は社台小学校で児童会役員でもないのに全校生徒をまとめたという伝説をもつ子供――ガキ大将というやつだ。こんなことをいったら怒られるのだろうけれど。
かくいう僕は、社台地区の有名人である二人にとても世話になっている。女大将には実際に助けられた。喧嘩が得意ではない僕を守るように立つ姿は、あまりにもかっこよくて、自慢できるものだった。
僕はかつて「礼陣神社の三橋さん」と呼ばれた女性の息子であり、同時に「社台の女大将」の弟でもある。名前は加藤成彦、二つ名のようなものは特にない。
駅裏商店街は中央地区と社台地区を区切るラインだ。学区は通りを境に分断されるので、商店街の小学生には中央小学校に通う者と社台小学校に通う者がいる。実家が商店街の西側に店を構えている僕は、社台小の生徒だ。現在、小学四年生である。
「社台の女大将」であった姉は、中央中学校の三年生。僕より五つ上だ。僕らが一緒に学校に通ったのは、僕が小学一年生で姉が六年生だった、その一年だけ。けれどもその一年が、僕の立ち位置を決めた。
僕はそもそもあまり目立つタイプではなく、何もなければ本を読みながらおとなしくそこにいるだけの子供だ。この気質はどうやら昔の母に似ているらしい。
運動能力は並だと思うのだけれど、逆上がりができなかった瞬間から、僕はからかいの対象になった。人の短所を見つけて喜ぶやつというのは、どこにでもいるものだ。だから別段気に留めていなかったのだけれど、こいつは放っておくとエスカレートするタイプだった。
ある日、帰りに待ち伏せされて、足をひっかけられた。僕は見事に転び、辺りには笑い声が響いた。「だっせぇ」と言われて、一瞬「たしかに」と思った。でも不運だったのは僕ではなくて、彼らのほうだったのだ。
このシーンを、昇降口前の廊下を通った姉が見ていたのである。
それからのことをスローモーションで思い出そうとすると、まず床を蹴る音がする。それから笑い声が消えて、顔をあげた僕の目の前にその光景が広がる。
僕を笑っていた同級生の腕を掴み上げる、一瞬でこちらへやってきたらしい姉の姿。事情を知らない者が見たら、六年生が一年生に絡むという最悪の景色かもしれない。けれども僕にとってそれは、神様が現れたようなものだった。
姉は僕が自力で立てることを確認してから、驚いて声も出せない同級生に、優しい声で言った。
「どうして、転んでいる子を笑ったの?」
そのころ髪が長かった姉は、ポニーテールを揺らして、口元だけで微笑んだ。目がまったく笑っていないことは小学一年生にもわかったようで、戸惑っていた。そのあいだに僕は立ち上がり、膝についた砂埃を払う。擦りむいてはいなかった。それを姉が横目で見て、少しホッとしたのがわかった。
それからまた、言葉を続ける。
「目の前で転んでる子がいたら、助けてあげなくちゃだめだよ。笑うなんてもってのほか」
言い聞かせるような口調には、それでも迫力があった。言葉にせずに、姉は「アタシは全部見ていたよ」と告げていた。
「いい? 次に同じことしたら……またアタシが来るからね。いつ、どこにいても、必ず。もう一度言って聞かせてあげる」
聞いているだけだった僕もだんだん怖くなってきたので、ちょうど言葉が切れたところで、あわてて姉を呼んだ。
「姉ちゃん」
僕を転ばせた同級生は、その言葉にびくりと肩を震わせた。この瞬間、彼は悟ったのだ。目の前にいる六年生こそが名高い「社台の女大将」であり、僕がその弟だということを。自分がとんでもないことをしてしまったらしいということを。
「姉ちゃん、僕は大丈夫だから。……先帰ってるね」
「待って、成彦。この子にけじめだけつけさせてあげて」
姉が同級生の腕から手を離し、その背中を軽く押した。そして彼の耳元で、「何をすればいいかわかるね?」と囁いた。僕が彼をそのまま許しても、姉はそれを許さないつもりだったに違いない。彼はきっとそれをわかって、だから恥をしのんで、僕にこう言ったのだろう。
「……ごめんなさい」
いや、僕に向かって言っただけで、本当は姉に言ったのかもしれない。
以降、彼が僕に嫌がらせをしてくることはなかった。しばらくは姉のことが怖かったのだろう、話しかけてくることすらなかった。
ところが運動会を境に、彼は姉の活躍っぷりに惚れ込んだらしく、しきりに「成彦の姉ちゃんすげえな!」と言うようになった。彼とは今でも仲が良い。
道理の通らないことが嫌いで、人を惹きつける姉が、僕は誇らしかった。
姉は自分は父似だという。運動ができて、男子にも負けないくらい実は喧嘩も強いのだけど、極力その拳は振るわない。そんなところが、昔の父のようなのだと。
でも僕には、姉は父と母のいいところを両方受け継いでいるように見える。母がかつて「礼陣神社の三橋さん」と呼ばれていたのは、それだけ神社に立つ姿が印象的で、人を惹きつけるものだったからだ。
加えて姉は、自分が完璧ではないということを知っている。だからけっして驕らない。しかし過剰に卑屈になることもなく、いつも笑っている。
その強さは先輩や同級生にとっても頼れるもので、中学生になった姉は、あの商店街の花にまで力を貸してほしいといわれていた。中央中学校であったいじめをなくそうとしたのだということは、あとで噂で聞いた。
社台の女大将は、加藤詩絵は、誰もが認める、礼陣の大きな力なのだ。その弟だということが、そんな姉に褒められることが、僕にはとても嬉しいのだ。
「うん、成彦が作ってくれるご飯は美味しいね。こんな弟を持って、アタシは誇らしいよ」
僕は名無しでいい。ただの加藤成彦でいい。有名じゃなくても、姉が認めてくれるから。