水無月呉服店で、中学校の制服の取り扱いが始まった。この町の学校の制服は、この店か、駅前の学生服を扱う店でしか買うことができない。これから店は、新しく中学生になる子供たちとその親が多く出入りすることになる。
そのあとで、今度は高校生になる子供たちがやってくる。進路が決まった学生たちが、自分にぴったりの、あるいは少しだけ大きくあつらえた制服を着るために、店を訪れるのだ。
それから町に二つある大学の学生たち、主に女学生が、卒業式のための振袖と袴を借りに来る。
美和は、そして和人も、これからの時期が好きだ。忙しくて、けれどもたくさんの幸せそうな顔が見られる、春へ向かう時期が。
今年はもう、それを最後まで見届けることはできないだろう。正しくは、和人が三月の終わりには町を離れるので、全てが終わるまで関わることができないのだ。和人を通してしか人間に干渉することのできない美和にとっても、同じことになる。
美和は人鬼だ。頭には二本のつのがあり、瞳は赤く光っている。かつては人間の女児として産まれたが、すぐに死んでしまい、その魂が鬼へと転じたのだ。いや、正確には転じようとしているところだ。本来ならば人間には見えない存在なのだが、同じ胎から産まれた双子である、和人だけには存在を認識することができる。
だから人間の営みに関わりたければ、和人の存在が不可欠なのだ。彼がいなければ、自分が生まれ育つはずだったこの家を、この店を、手伝うことはできない。
もっとも、隣県の国立大の前期試験を来週に控えている和人は、現在は父から「店番禁止令」を出されており、めったなことがない限りは店に立つことができないのだが。だから最近の美和は、店の隅からお客や従業員たちの様子を見ているばかりだ。
けれども和人の試験が終われば、あと一か月だけ店番ができる。美和はその日を待ち詫びながら、和人を応援していた。

ところが学校での追い込み講習から帰ってきた和人の様子がおかしいので、美和は首を傾げた。そわそわと落ち着かない様子が、こちらにも伝わってくる。
『おかえり。何かあったの?』
和人のいない状態に慣れなければと、一時期は距離をとることさえしていた美和だったが、さすがに今回は弟(和人は美和を妹だと言っているが)が心配になった。なにしろ、試験は来週なのだ。何か間違いがあって、和人が力を出し切れないということがあってはいけない。
そもそも和人は、礼陣の町の外では、自分の力をうまく発揮できないところがあった。剣道の大会も、高校に入ってから何度か全国大会まで行ったのだが、とうとう一度も上位入賞を果たせないままだった。大学入試までその調子では困る。
「ただいま。何もなかったといえば嘘になるね」
そう返事をした和人の頬は、赤かった。外が寒いから、というだけではなさそうだ。バレンタインもとうに過ぎたが、もしかして卒業間際になって女の子から告白でもされたのだろうか。それとも……
自室に鞄を置き、コートは着たまま座り込んでしまった和人の隣に、美和はそっと腰を下ろした。幼い頃、よくこうして話をしたな。そんなことを考えながら。
『どうしたっていうのよ』
昔のように尋ねてみる。すると和人は、彼もまた昔のように困ったような顔をして、俯いたまま答えた。
「美和、知ってた? 流って、僕のことが好きだったんだって」
美和は和人によく似た、けれども色の違う目を見開いた。そして小さな溜息とともに、言葉を吐き出した。
……とうとう、知っちゃったのね』
もう随分前から、美和はこの事実を知っていたのだった。

和人と美和が野下流と初めて話したのは、小学校に入学した日のことだった。通っていた幼稚園が一緒だったので、存在自体は知っていたのだが、接する機会がそれまでなかったのだ。だって彼はいつだって子供たちの中心で、和人はなかなかそこへ入っていけない、内気な少年だったのだ。だからこそ美和が、いつも和人の話相手をし、友達を作れるように手伝ったりもしたのだ。
だがこの日は、流のほうから話しかけてきてくれたのだ。
「そんなに学校、楽しみだったのか?」
第一声は、たしかこんな言葉。そのとき、新しいランドセルや教科書、文房具に心を躍らせていた和人は、心の中で美和と会話をしていたのだ。いつも和人の傍にいた美和は、入学式の日もずっと和人の隣にいたのだった。
周囲には見えないが、美和と一緒に学校に通えることが嬉しかった和人は、完全に表情が緩んでいた。それを隣の席にいた流に見つかったのだ。
和人は、そして美和もびっくりして、あわてて、けれども落ち着いたふりをして、「そうだね」と答えた。
「楽しみだよ。勉強も、運動も」
『新しい友達をつくるのもね』
きっと聞こえないと思いながらも、美和は会話に口を挟む。すると流はぱっと笑って、「俺も!」と言った。
「運動会が一番楽しみだな。俺、足速いんだぞ」
この一言だけで、美和の声が聞こえていないことはわかってしまった。やっぱり美和は、和人にしか認めることができないのだ。それでも美和はへこたれず、和人は少し寂しく思うも、いつものことだから仕方ないと割り切る。
和人の様子に気づいているのかいないのか、たぶん気づいていなかったと思うが、流は思い出したように自分の名前を告げた。
「俺は流。野下流っていうんだ。お前は?」
大きな目がじっとこっちをみるので、和人はどぎまぎしてしまう。美和に『ほら、自己紹介』と言われて、やっと次の声が出せた。
「僕の名前は、水無月和人」
「そっか、和人か。これからよろしくな!」
そうして伸ばされた手を、和人はちょっと迷ってから、そっととった。すると強く、でも優しい力で握り返されたので、こちらもそっと握ってみる。その上に、美和が手を重ねた。感触はないけれど、たしかに三人分の手が重なっているのが、和人と美和には見えていた。
「よろしくね、流君」
「『君』とかいらないって。俺も和人って呼ぶからさ」
『じゃあ、流ね』
美和が頷きながらそう言ったとき、和人は少しだけ悔しかった。小学校で初めて言葉を交わした相手の名前を、親しげに呼ぶことの先を越されてしまったのだ。だから負けじともう一度、「流、よろしく」と言った。
その日のうちに、和人と流、そして美和は、たくさんの話をした。もちろん美和がいることを流は知らないので、美和が勝手に会話に口を挟んでくるような形だったが、それでも和人にとっては三人で過ごす楽しい時間だった。
流の祖父が水無月呉服店を贔屓にしてくれている、この町の名士であることや、一つ下の妹がいることなどを聞いた。和人は「僕にも妹がいるんだ」と言いたかったが、美和がそれを止めた。どうせ見えていないからということと、『私が姉でしょう』というのが理由だった。
『姉が鬼だなんて、いくら礼陣の人でも嘘だって思うわ。流にも私のことは秘密だからね』
流なら信じてくれそうだけれど、と和人は思ったが、結局は美和の言葉に従った。ほかに話せることは、少しではあるが見つかったし――自分が呉服店の子供であることや、本が好きなことなど――あまり問題にはならなかった。少なくとも、流と美和にとっては。
その日を境に、和人と流は急速に仲を深め、以降は学年が上がっても、中学、高校と進学しても、ずっとクラスが離れず、名コンビとして名を馳せるようになった。活動的で人気者の流に、頭が良く物腰の柔らかい和人で、ちょうどバランスが良かったのだ。本当はそこに、美和もずっと加わっていたのだけれど、そのことを流は知らない。
けれども、美和のことを全く話したことがないわけではなかった。いつか、美和の姿が見えなくなってしまったときに、和人は耐えきれなくなって、話したのだ。
「僕には、双子の妹がいるんだ」
産まれてすぐに死んでしまった妹。けれども魂は残って、ずっと傍にいてくれた大切な人。そのことを、流は黙って聞いていてくれた。遠く懐かしい、和人と流だけの思い出だ。
話しているあいだ、流がずっと手を握っていてくれたことも、和人ははっきりと憶えている。
いつも傍にいて、色々な楽しみを共有できる存在。それが和人にとっての流だった。それは美和と同じであるようでいて、やはり違った。美和は双子であり、流は親友だった。美和は誰にも見えないが、流はたくさんの人に囲まれていて、その中に和人も取り込んでくれた。
美和に背中を押され、流に手を引かれながら、和人はこれまでを生きてきたのかもしれない。そしてその生活は、あと一か月もすれば終わってしまうのだ。

『中学生くらいの頃かしら。流が、和人を好きになったのは』
俯いたままの和人に、美和は語りかける。いつからか流が和人を見る目が変わったことに、美和は気づいていた。気づいていて、あえて言わなかった。流がそれを和人に知ってほしいかどうかが、わからなかったから。
そして、和人がそんな流を受け入れるかどうか、美和にもわからなかったから。
……僕は、流の気持ちを受け入れることにした。遠距離でもいいなら、付き合ってもいいって、そう言ってきた」
和人は呟くように、そう告げた。
「ねえ、美和。僕は流に好かれることが嬉しいんだ。ただ、それが恋愛につながるかどうかはまだわからないけれど。……君は、どう?」
『どうって?』
「もし美和が人間として生きて、成長していたら。君は、流を好きになった?」
美和はその問いに答えることを迷った。だって、そんなのは今更、どうしようもない話だ。美和はとうに人間としては死んでしまっていて、もしもなんてことは実現しない。だから、線引きをしてきたのだ。「流は和人の親友である」と。美和はそこに加わっているふりこそできても、存在は認められていないのだと、心に刻み込んできた。
それでもなお、流は人を、鬼を、惹きつけた。彼自身はわかっていないのかもしれないが、どうにもそんな魅力があるようなのだ。だからこれまでたくさんの女の子が流に恋をして、想いを告げて、諦めさせられてきた。
流はどんな女の子よりも、和人が好きだったから。その思いを大切にしてきたから。そして今日、どんな思いだったかは美和には知る由もないが、それを打ち明けたのだ。
『私は……
もし美和が人間の少女として生きていたら、流は美和を見てくれただろうか。好きになってくれただろうか。和人はきっとこう思っている。同じ顔をした女の子なのだから、美和が生きていれば、流は美和を好きだと言っただろうと。
……私のことは、どうでもいいわ。あんたが流を好きになるかどうかよ』
「好きだよ。でも、流のそれとは違うんだ、きっと。僕は、流の気持ちを受け止めきれるかな。彼を傷つけたりしないかな。ただでさえ、ずっと想いに気づかないままで、流を苦しめてきたっていうのに」
下を向いたままの和人の背中に、美和は触れようとした。けれども人鬼の手では、和人をすり抜けてしまって、その背を擦ることすらかなわない。だから触れるのは諦めて、言葉だけで伝えようとする。
『あのね、和人。あんたを好きな流は、いつだって幸せそうだったよ。あんたの傍にいられることが、とてもとても嬉しいことなんだって、私にはわかった。あんたは、どうだった?』
「僕は……そうだね、流がいてくれて楽しかったし、嬉しかった。幸せだった。好きだって言ってもらえて、戸惑ったけれど……やっぱり、僕は、嬉しい」
ようやく顔をあげて、和人は美和を見た。美和はこくりと頷いて、『それでいいのよ』と言った。
『流は、ずっと和人を好きでいてくれる。和人はそれを、流と同じ意味で受け止められるかどうか、ゆっくり考えていいの。だって、流はそういう人でしょう?』
「そうだね。いつだって僕の話を真剣に聞いてくれて、僕を待ってくれていた。待たせすぎたくらいだ」
いつか和人が流に「双子の妹」の話をしたときだって、流は和人の言葉を待って、真剣に聞いてくれた。和人が「双子の妹」をどんなに大事に思っているかを知っていたから、誕生日には美和の分までプレゼントを用意してくれた。
流はそんな人なのだ。心が大きく温かい、和人にとって大切な人。
そして和人の気持ちは美和の気持ちだ。和人の望むことは美和の望んでいることで、美和の望みは和人が本当に望むことに繋がっている。
「美和、君はどうでもいいって言ったけど、本当はそんなこと思ってないよね。君はきっと、……ずっと流のことが、好きだったよね」
和人の言葉に、美和は肩をすくめてみせた。
『どうかしら。……でも、私が流を好きだからあんたも流を好きになるっていうのは無しよ。和人は和人の気持ちに従って』
あんたは私の代わりじゃないんだから。美和がそう言って微笑むと、和人は頷いた。
「これからどうなるかわからないけれど、僕は僕の気持ちに正直になるって、約束するよ」
美和には「どうなるか」の予想がついている。きっと和人は、流を好きになるだろう。今以上に好きになって、会いたい、触れたいと思うようになるのだろう。だって、美和がそうなのだから。人鬼だからと諦めてきたけれど、たしかに美和は流を好きだった。恋をしていた。
美和の気持ちは和人の気持ち。だからきっと、和人と流は互いを想いあって、うまくいくだろう。美和はそれを、ただ見守るだけだ。二人がいつまでも幸せでありますようにと、願い続けるだけだ。
『さて、いつまでも流のことばっかり考えてるわけにはいかないでしょう。私は店番に戻るから、和人は来週の試験に向けて勉強しなさい。流がせっかく大学に受かったんだから、後に続かないとね』
「そうだね、頑張らなくちゃ。……受かったら、美和とも流とも離れなくちゃいけないのが残念だけど」
『あんたが選んだ道でしょう。進みなさいな』
美和の役目は、和人に自分の気持ちを認めさせ、背中を押すこと。和人の役目は、前に進むこと。それが自分たちが人間と人鬼の双子であり、互いを認められることの理由なのかもしれない。
『和人。早く受かって、店番手伝ってよね。忙しくなるんだから』
「わかってるよ。僕だって、美和と一緒に店番したいんだ。きっと流も手伝いに来てくれるだろうし」
『ほら、また流って。あんたも好きなんじゃないの』
「だから好きなんだって。恋愛できるかどうかは別としてね」
和人が一人で、あるいは他の誰かと一緒に前に進めるようになったら、美和の役目はおしまいだ。その先はどうなるかわからないし、どうなってもかまわない。
美和はそう思いながら、今日も一人、店の隅に立つ。
『いらっしゃいませ。……あ、新中学生のお客様だ』
店番をしながら、季節が、年月が、めぐっていくのを見る。