正月が終わるのと入れ替わりに、街は節分とバレンタインの準備を始める。
節分はこの町独特のやり方があるから、初めてその日を迎える凪のために、わたしはいくらか説明をしてやった。豆を撒くときは「春よ来い」と言うのだとか。一応は日本文学を専攻している凪は、珍しくおとなしくしてわたしの話を聞いていたけれど、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
「節分はわかったけどさ、バレンタインは? それもこの町独特のやり方とかあるの?」
そう、これが凪らしいところ。文化より本能。草食より肉食だ。わたしが呆れて溜息を吐くと、桜ちゃんが隣でくすくすと笑った。相変わらず上品だ。
上品といえば、毎年桜ちゃんがバレンタインにくれる「友チョコ」も、慎ましやかで、それでいて吝嗇ではない、とても丁寧なものなのだ。わたしたちは高校一年生のときから交換を始めたのだけれど、以来、毎年楽しみにしている。今年からはそれに凪も仲間入りだ。
「バレンタイン前は、商店街の製菓用材料売ってるお店が、女の子でいっぱいになるよ」
「そうそう、私も毎年お世話になってるの。凪ちゃんも行ってみたらどう?」
「うーん……手作りする気はないんだよね。でもちゃんと美味しそうなの選ぶから、友チョコは期待しててよ」
自分からこの町のやり方を聞いておいて、それを利用するつもりはないのか。楽しいのに、材料から選んで作るの。まあ、これも凪らしいといえば凪らしい。
「バレンタインついでにさ、亜子はどうせ彼氏にあげるんでしょ? 桜は友チョコ以外にあげる人いないの?」
「そうだね、彼氏にはあげるけど。あとお父さんやご近所さん、桜ちゃんのお兄さんとか、受験真っ只中の後輩にも」
さらっと彼氏で流されたので、訊かれてもいないことを答えてみる。桜ちゃんは自分のお兄さんのところで、また上品に笑った。
「今年も兄にくれるのね。他にも県外に送ったりするんでしょう?」
「送れるところにはできるかぎり送るよ。桜ちゃんも家族には用意するよね」
「ええ。それと、今年はもう一つ余分に作ろうかなって……
「余分?!」
凪がすごい勢いで食いついた。凪だけじゃなく、わたしもびっくりだ。桜ちゃんが、頬を染めながら「余分に作ろうかな」なんて言うとは。いったい、相手は誰なんだろう。
それはわたしが尋ねる前に、凪が訊いてくれる。
「ねえねえ、余分に作って誰に渡すの?!」
こらこら、わたしを押しのけるんじゃないよ。でもわたしも気になるので、黙って桜ちゃんに視線を送る。
すると桜ちゃんは少し恥ずかしそうに、声をひそめて教えてくれた。
「兄の同級生の人。このあいだ、ちょっとお世話になったから……
「おお、お世話になったって何? どういうことよー!」
「凪うるさい」
あんまり騒いだら、桜ちゃんが話しにくいじゃないか。とはいえこっちも興味を隠せない。桜ちゃんは照れながら、ことのあらましを説明してくれた。

その出来事は先日の夜に起こった。
桜ちゃんは遅くまで試験勉強をしていて、お兄さん――流さんは、家にいなかった。大学の友人と飲みに出かけていたのだ。
大学に入ってから夜遅くに帰って来ることが多くなった流さんは、いつも家の鍵を持って出る。だから玄関の呼び鈴が鳴ったり、戸を叩く音がするはずはないのだが、その日は違った。がたがたと音がしたので、桜ちゃんは不審に思った。
あまり長く大きな音をたてていると、厳しい桜ちゃんの家は、流さんを叱るだろう。最悪、しばらく学校やアルバイト以外の外出を禁じられるかもしれない。それはあんまり可哀想だと思った桜ちゃんは、急いで玄関に向かった。
戸の外には、二人分の影があった。一人がもう一人に肩を貸しているような。まさかと桜ちゃんが鍵を開け、その人物を確認すると、案の定流さんと、それから知らない男の人だった。知らない人が、ぐでんぐでんに酔っぱらった流さんに肩を貸していたのだ。
兄の醜態と見たことのない人に、桜ちゃんは一瞬混乱した。でもそこはやっぱりしっかりもの、今必要なのは兄をどうにか家の中に入れることだと考えて、手を伸ばした。兄と、初対面のその人に。
「あの、すみません。兄がご迷惑をおかけしまして……
そう言いながら流さんを受け取ろうとして、その重さによろけた。だって、仕方ない。流さんは身長が190センチ近くあって、程よく筋肉のついた体は当然のことながら重量がある。まして、このときは完全に力が抜けている状態だ。背は高めだが細身の桜ちゃんに、受け止め切れるはずがない。
だから流さんを支えていたその人は、桜ちゃんから一旦酔っぱらいの巨体を引き離し、抱え直した。そして、「家の中まで運んでもいいですか?」と言ってくれた。
「ほら、こいつでかいし……いくら妹さんでも、運ぶのは無理でしょう。……あ、妹さんでいいんですよね」
「はい、妹ですけど……。それじゃ、お願いしていいですか?」
そうして、流さんは無事に野下家の上がりへと運ばれた。暢気なことに、だらんと倒れこんで、寝息を立てている。桜ちゃんは困った顔のまま、兄を運んでくれたその人に頭を下げた。
「ありがとうございました。本当に、だらしのない兄ですみません……
「いや、普段はこんなに飲まないから、俺もびっくりしたんです。なんか、うわごとで彼氏、いや恋人、ううん、付き合ってる人と喧嘩みたいなことしたらしいことはわかったんですけど」
「ああ、それで……
兄が泥酔した原因に納得した桜ちゃんは、ここで初めて、恩人の顔をきちんと見た。背は兄よりも随分と低いが、だいたい日本人男性の平均くらい。ちょっと厚めの眼鏡をかけていて、髪は癖が強いのかはねてしまっている。全体的にひょろひょろとした感じなのに、よく家まで巨体の兄を運んできてくれたものだと、感心してしまったそうだ。
「夜中に戸なんか叩いて、騒がせてしまってすみませんでした」
ほう、と溜息を吐きかけたところで、相手が頭を下げたので、桜ちゃんは我に返ったという。そして慌てて両手を胸の前で振り、次にしなければならないことを必死で考えた。
「いいえ、兄が悪いんです。あなたが謝る必要なんて少しもありません。……ええと、後日お礼をしたいので、差し支えなければお名前を教えていただけますか?」
相手はちょっと迷ったみたいだった。多分、名乗るべきか、礼なんていいですからと早々に立ち去るべきかといったところだ。けれどもきっと、どうせ流さんを通じてわかると思ったのだろう。背中をちょっと曲げたまま、名前を教えてくれた。
「斎藤といいます。……じゃあ、俺はこれで。遅くに長居するのもご迷惑でしょうし」
「迷惑だなんてとんでもないです。あの、本当に、ありがとうございました!」
そうして斎藤さんは、最後にまた一礼して、野下家を去っていった。残された桜ちゃんは彼を見送ったあと、家族にばれない程度に流さんを叩き起こし、部屋まで自力で歩かせたという。
翌日、自分が酔っぱらって運ばれたことを憶えていなかった流さんを叱りながら、斎藤さんのことを尋ねると、「そっか、迷惑かけたな」ときまり悪そうに呟いて、彼のことを教えてくれた。
「運んでくれた友達な、あっしっていうんだ。斎藤淳之。大学の同級生で、サークル仲間で、絵が超上手くて、話は聞き上手。だからつい、和人とのこと愚痴っちゃってさ」
「斎藤さんにも和人さんにも、ちゃんと謝らなきゃ駄目よ。特に斎藤さんには、お兄ちゃんを運んでくれたお礼をしなくちゃ」
「そうだな。ちゃんと謝って、お礼の品のことも考えとく。……あー、頭いて……
早くお詫びとお礼をしなければ、と桜ちゃんは思った。そうでなければ申し訳が立たない。それに、桜ちゃんにとっては、流さんの仲介なしに(いや、ある意味仲介ありか)男の人と話した経験そのものが初めてだった。だからなのか、とにかくなんとかしないとという気持ちでいっぱいだったらしい。

「ほほう、それでバレンタインチョコをねえ。さては桜、斎藤さんって人に一目惚れしたな?」
凪がにやにやしながら尋ねると、桜ちゃんは首を振って「まさか」と言った。
「男の人に慣れてないし、状況が状況だったから、衝撃を受けただけ。それに、一応お詫びはもうしたの。御仁屋のお菓子を詰めたのを、お兄ちゃんに渡してもらったわ」
「じゃあ、なんでバレンタインまで?」
不思議そうに、凪は首を傾げる。でもわたしには、桜ちゃんの答えがわかっていた。
「私自身のお礼がまだだわ。兄を支えるのに失敗しかけた私を、斎藤さんは助けてくれたのだもの。でもそれくらいでって思われるかもしれないから、バレンタインにかこつけようと……
ほらね、やっぱり。桜ちゃんは義理堅いのだ。ちょっとしたことでも、ちゃんとけじめをつけなければ気が済まない。
でも、わたしは凪じゃないけれど、なんとなく運命みたいなものを感じてしまったのは、考えすぎだろうか。なにしろ、今まで男っ気が家族くらいしかなかった桜ちゃんだ。そろそろ素敵な人が現れてもいい頃なんじゃないだろうか。
「いいんじゃない、バレンタイン。一応その件で、桜ちゃんは斎藤さんと顔見知りになったわけだし。まさに義理チョコだよね」
「本当? 亜子ちゃんにそう言ってもらえると、なんだか安心。そうよね、義理って本来、そういうものよね」
桜ちゃんがぱっと笑顔を咲かせた。今日一番の嬉しそうな顔だ。うんうん、わたしは桜ちゃんの、その顔が好きなんだよ。
それにしても、斎藤さん。流さんの大学の同級生で、和人さん(流さんの恋人で、わたしの先輩だ)のことも話せるんだから、よほど信頼されているんだろう。そういう人なら、桜ちゃんと縁があってもいいような気がする。
バレンタインのあと、進展がありそうだったら、また話を聞いてみよう。桜ちゃんから話してくれるか、また凪が聞き出してくれるか、それはわからないけれど。あ、わたしが訊いてみてもいいのかな。
とにかく、今年はちょっと面白いことになりそうだ。……そんなふうに思うのは、凪に影響されたからだろうか。