仕事納めだった。社会人になって初めての年末だ。高卒で新人なので他と比べれば少なかったが、ボーナスももらえた。これで実家に土産でも買って帰ろうか。それから、実家の向かいに住む幼馴染にも。後輩たちのことも忘れてはいけない。
大助は今、職場のある門市に住んでいる。一応は社員寮で独り暮らしをしているのだが、幼馴染であり現在は恋人でもある亜子が頻繁に訪れてくれるので、あまり独りという気はしない。おかげで始めたばかりの仕事の不安を抱えすぎることもなく、これまでやってこられた。
「一力、年末どうするんだ? 実家に帰るのか」
自室に入る前、同じく寮に住んでいる先輩に尋ねられた。普段から世話になっている人で、ときどき晩酌に付き合わされることもある。もっとも、大助はまだ成人していないので、酒は飲んでいないが。ただ話を聞いて、自分のこともいくらか話して、同じ時間を過ごすのだ。
「もし暇なら、また飲みに付き合えよ」
「すんません。俺、明日には実家帰るんで。仕事始めまで戻りません」
「なんだよ。お前、本当に地元好きなのな」
先輩は大助の返事に笑いながら、自分の部屋に帰っていった。彼は実家に顔を出さないのだろうか。たしか両親と兄弟がいたはずだ。彼には彼の都合があるのだろうから詮索はしないが、それでも生きている両親がいるのはほんの少しだけ羨ましいと大助は思う。
大助には、両親がいない。もう随分と昔に死に別れてしまって、世話をしてもらった記憶もほとんどない。その代わりに自分を育ててくれたのは、叔父と、歳の離れた兄と姉、地域の人々だった。だから大助は地元を大切に思っているし、好きなのだ。
翌日、デパートに行って土産を買ってから、大助は門駅に向かった。各駅停車のワンマン列車に乗り込み、山を挟んで二駅先に、生まれ育った町がある。近付けば車内にアナウンスが流れ、その場所の名を告げてくれる。
「次は、礼陣。礼陣です。お荷物をお忘れにならないよう……」
礼陣は山に囲まれた土地だ。その色で四季の移り変わりを知ることができる。今は雪で白くなっていて、陽の光を反射すると眩しく輝く。町の中は半端に解けた雪が残り、地面を踏むとジャクジャクと音がする。礼陣駅を出た大助は、久しぶりの感覚に目を細めた。寮に礼陣から人が来てくれることはしばしばあったが、自分が礼陣に返ってくることはめったになかった。それこそ、夏以来である。
今の時期なら、学生は冬休みだろうし、よそに行った知り合いも帰ってきていることだろう。懐かしい顔に会えるかもしれない。むしろそれを期待して、こんなに土産を用意してきたのだ。
駅前の大通りを渡り、しばらく進めば住宅街が見えてくる。その西側、欧風の家が並ぶ通りに、大助の実家はある。春から秋までは草木や花に彩られる庭は、今の季節は少し寂しい。けれども手入れは怠っていないようで、雪はきちんと除けられていた。
土産の袋を片手に持ち直し、チャイムを鳴らすと、ややあってインターフォンを通した声がした。「開いてるよ」という言葉に促されて、大助は玄関の戸を開ける。
「ただいま」
「おかえり。……また、随分と買いこんできたね」
嬉しそうに迎えてくれたのは、兄だった。十二歳年上の、恵。今年結婚したばかりなのだが、嫁の姿は見えない。家の中を覗き込むようにしながら、靴を脱ぎ、大助は恵に尋ねた。
「姉ちゃんと頼子さんは? 買い物?」
「それもあるけど、今日のメインは礼陣神社の煤払いだね」
「あ、今日だったのか。今から行って間に合うか……」
「待ちなさい、大助。朝からやってるから、もうじき終わる頃だよ。それにきっと、正月休み中にみんなには会えるから」
恵が大助の持ってきた土産の袋を持ちながら言うので、今年の煤払いは諦めることにした。この町のシンボルである礼陣神社の煤払いには、幼い頃から去年まで欠かさず参加してきたのだが、今年からはもう仕方がない。初詣には行くから勘弁な、と思いながら、恵が運びきれなかった荷物をリビングへ移動させた。
神社とは縁が深い。姉の愛が巫女をしていることもあり、また大助自身が学生時代に神社によく通っていたこともあり、神主とは親しい。礼陣神社で祀られているのは「鬼」なのだが、大助はその鬼も見ることができたのだ。――なにしろこの町には、人間と鬼という二種類の人間が住んでいる。鬼は人間と背格好が異なるので、普段は人間の目に留まらぬよう姿を見せずにいるのだが、親を亡くした「鬼の子」と呼ばれる子供たちにはその姿を捉えることができるのだ。この町では、そういうことになっている。
両親のいない大助も鬼の子だった。過去形なのは、もう大助が子供ではなくなってしまったからだ。夏に一度帰省した時には、もう鬼は少しも見えなくなっていた。家まで来る間にも、鬼たちは町中を闊歩していたはずなのだが、全く姿を見なかった。大人になってしまったんだな、としみじみ思う。
リビングのソファに腰かけて伸びをしていると、恵が紅茶を淹れてくれた。ほのかに甘い香りが漂い、大助はようやく実感する。ああ、家に帰ってきたんだな、と。鬼が見えたなら、もっと早くに礼陣に帰ってきたことを実感できたのかもしれないのだが。
「仕事のほうは、順調?」
正面に恵が座る。向かい合いながら、大助は頷いた。
「まあ、なんとか。ボーナスもらった」
「良かったじゃないか。亜子ちゃんからときどき話を聞くから、きちんとやっていることは知っていたけれど、やっぱり実際に会って声を聞けると嬉しいね」
恵は夏にも同じことを言っていたのだが、忘れているのだろうか。それともこれは、もっとこまめに顔を見せに来なさいということなのだろうか。大助は苦笑しながら、紅茶を一口飲んだ。ちょうどいい、我が家の味だった。自分で淹れようとしてもこううまくはできないし、頻繁にやってくる幼馴染もこれだけは真似できないという。
「兄ちゃんの紅茶久しぶりだ。夏のアイスティーも良かったけど、やっぱり冬のほうが俺は好きだ」
大助がそう言うと、恵は照れたように笑った。曰く、母似だという穏やかな笑みだ。大助はどちらかといえば父に似たらしく、こんなふうに笑うことはなかなかできない。恵と顔は似ているはずなのだが、表情は大助のほうがよりはっきりしている。笑うときは豪快に笑うし、機嫌が悪い時には人を睨み付ける。恵と、姉の愛にはそんなことはほとんどない。
「夜にまた茶淹れてくれよ。門市のデパートでケーキ買ってきたんだ。みんなで食おうぜ」
「ありがとう。それじゃ、亜子ちゃんも呼ぼうか。多分今頃は愛たちと一緒だと思うから、メールしておこう」
そうして恵はスマートフォンを取り出すと、すいすいとメールを打って、愛に送信した。夏に見たときと機種が違うように見えたが、どうやらカバーを変えただけらしい。恵は案外おしゃれなのだ。
「兄ちゃんのスマホいいな。俺も機種変したい」
「すればいいよ。まだガラケーだっけ」
「そう。高校のときから大事に使ってるやつのまんま」
他愛もない話をしているうちに、着信があった。恵のほうにではなく、大助の携帯電話に。届いたメールを開いてみると、[おかえり]とだけあった。
「亜子の奴、他に言うことねえのかよ……」
「直接会って話したいんだと思うよ。亜子ちゃんはよく大助のところに行くけれど、大助が来てくれることはあまりないからね。……うん、大助のいる礼陣は久しぶりだ。僕には見ることも聞くこともできないけれど、きっと鬼たちも『おかえり』って言ってくれているんじゃないかな」
大助にだって、もう見ることも聞くこともできなくなってしまった。けれどももし恵の言う通りなら、帰ってきて良かったと思う。もっと暇を見つけて帰ってこようかとも。
そこまで考えて、ふと、街に出てみたくなった。神社の煤払いは終わってしまっただろうけれど、まだ人は残っているかもしれない。誰でもいい、誰かに会いたかった。
「兄ちゃん。俺、外出てくる。ぐるっとまわったら帰って来るから」
紅茶を飲みほしてから言うと、恵は頷いて「いってらっしゃい」と言ってくれた。
「遅くならないようにね」
すぐに帰って来ることを、わかっていて。
家を出て、住宅街を抜けて、また大通りへ。道路を渡って駅の裏へ行くと、商店街がある。礼陣の人々が大切にし、情報交換の場として活用している、昔ながらの商店街だ。そこを東へと向かうと、一番端に菓子屋がある。「御仁屋」という名のその店に立ち寄ると、店員が大助の顔を見て目を見開いた。
「おお、大助だ。久しぶりー。門市の生活はどうだ?」
「久しぶりっす。生活は……まあ、ぼちぼち」
答える大助の頭のてっぺんからつま先まで眺めまわして、店員は頷く。
「都会に行ったのに、あんまり都会な感じしないな。お前、やっぱり根っからの礼陣っ子だわ」
「それ褒めてるんすか?」
「褒めてる、褒めてる。で、何がご入り用で?」
ここに立ち寄ったのは、店員に挨拶をするためだけではない。神社に持って行く差し入れを買いに来たのだ。門市から持ってきた土産もあるのだが、やはり礼陣の人々の好物を用意して行ったほうがいいだろう。大助は礼陣銘菓「おにまんじゅう」を箱で買って、外に出た。
御仁屋のすぐ傍には、上りの石段がある。その上には深い緑色をした鳥居が構えられていて、礼陣の人々を迎え入れようとしている。――ここが礼陣神社だ。
大助は石段の端を数段飛ばしに上がっていき、あっという間に境内に辿り着いた。思った通り、まだ人がたくさんいる。煤払いはたしかに終わっていたようだが、その後のお喋りが長いのだ。
「おや、大助君じゃないですか。お久しぶりです」
真っ先にこちらに気づいたのは、礼陣神社の神主だった。いつ見ても変わらない姿で、手を振っている。この人は何年たっても見た目が変わらないのだ。この人こそが礼陣神社に祀られている鬼の長、大鬼様だからである。
「どうも」
返事をして頭を下げると、大助に視線が集まる。顔をあげたときには、すでに知り合いに囲まれていた。
「大助兄ちゃん、久しぶり! 夏以来だね!」
「元気みたいで良かったです」
「おう、やっこも春も元気そうだな。煤払いしてたのか?」
「うん。もうすっかり終わっちゃったけど」
後輩の女の子たちの手には、紙コップがあった。ふわりと立ち上った香りから、中身は甘酒だということがわかる。煤払いを手伝ったご褒美にもらったのだろう。
「大助さんも、甘酒もらうといいですよ。社務所で愛さんが配ってます」
「手伝ってもいねえのに、甘酒だけもらうのもな……。あ、神主さん、これ門市土産とおにまんじゅうです」
「これはこれは。わざわざありがとうございます。開けて、みんなでいただきましょうか」
御仁屋のおにまんじゅうが大好物の神主は嬉しそうに袋の中身を取り出した。けれども先に封を切ったのは門市土産のほうで、中身が手焼きせんべいであることを確認すると、ふ、と微笑んだ。
「これは、あの子が好きなおせんべいですね」
「あいつ、ここにいますか?」
「社務所にいましたよ。愛さんが作ってくれた甘酒を飲んでました」
それを聞いた大助は、境内にいる人々に一通り挨拶をしてから社務所に向かった。中からは甘酒の良い香りがして、それだけで体が温かくなる。台所に行くと、愛と義姉の頼子、そして亜子が立ったまま甘酒を飲んでいた。彼女らもやはり、まだ神社にいたのだ。
「あ、大助。おかえり」
「おかえりなさい、大助君。甘酒飲む?」
「ただいま。ここ家じゃねえけど」
愛はにこにこしながら、頼子はにんまりと笑いながら、大助を迎えてくれた。そして、亜子は。
「午前の列車で帰ってきてくれても良かったんじゃないの」
温かい甘酒の入った紙コップを大助に突きつけながら、口をとがらせてそう言った。
「午前中は買い物してたんだよ。土産とか……あ、神主さんに土産預けてきた」
紙コップを受け取りながら、大助は空いている手の親指で外のほうを指し示す。すると愛は「神社へのお土産は、私たちはいいから」と首を横に振った。
「家の分、ケーキ買ってきてくれたんだって? それを楽しみにしておくから。亜子ちゃんも、今夜はうちにおいでね」
「はい。……そういえば大助、寮の部屋ちゃんと掃除してきた? 神社の煤払いより大変なんじゃないの?」
まったく、口の減らない彼女だ。甘酒を飲んで落ち着いてから、大助は大きな溜息を一つ吐いた。
「先週、お前がうちに来たときに掃除していっただろうが」
「それはそれ。自分でちゃんと大掃除したのかって訊いてるの。まさか放置?」
「軽く片付けてきた。掃除機はタイミング悪くてかけてねえ」
「どうせ午後に来るなら、お土産より掃除を優先すればよかったのに」
「そんなに言うなら土産やらねえぞ」
ぽんぽんと繰り広げられる言い合いを、愛と頼子が微笑ましく見守る。今年の春までは当たり前だった光景だ。今ではすっかり珍しいものになってしまった。
「まあまあ、二人とも。仲が良いのはいいけれど、声は外に聞こえてるし、鬼たちも見てるからね」
愛がやんわりと二人を止める。それで大助は、社務所に来た本来の目的を思い出した。甘酒のために来たのではない。見えないけれど声だけはかけておきたい者がここにいるかもしれないのだ。
「姉ちゃん、子鬼ここにいる?」
大助は愛に尋ねる。愛は大人になった今でも鬼が見える、特別な人間だ。だからこそ礼陣神社の巫女をしているのだ。その目を頼りに、大助は幼い子供の姿をした鬼、子鬼を捜そうとしていた。
「いるわよ。大助が来たら、嬉しそうに駆け寄ってきた。さっきからずっと大助の足にしがみついてるのに、もう大助にはわからないんだね」
少し残念そうな愛の視線の先を、大助は追う。右足のあたりに、子鬼はいるらしい。五歳くらいの少女の姿をした、おかっぱ頭の子鬼だ。大助がまだ鬼を見ることができていた頃、よく懐いてくれた子鬼だった。
大助はそのあたりに向かって、話しかける。
「ただいま。神主さんにせんべい預けてきたから、食えよ。早く行かねえと他の鬼に食われるぞ」
そう言った途端に、右足からすうっと熱が引いたような感じがした。どうやら子鬼はせんべいを食べに行ったらしい。愛も「あら、行っちゃった」と呟いた。
「……大助。子鬼ちゃんが『ありがとうな』ですって」
「それ、生で聞けたら良かったな」
愛のようにずっと鬼が見えたなら、と思ったことは何度もある。けれども、鬼が見えなくなることは、大助たち「鬼の子」にとって必要なことなのだ。人間として、普通の生活をするために。人間の領分で生きるために。
夜のお茶会に、親しい後輩も呼ぼうとしたら止められた。「受験生だから」ということらしい。もうじき試験なのだ。
「海が受験か。……ってことは、年が明けて少ししたら、あいつも礼陣から出ていくんだな」
門市のデパートで売られている少し高級なケーキを食べながら、大助はしみじみと言った。一つ下の後輩である海は、高校三年生で、礼陣にはない医療系の学校に進むことを志望している。目指しているのは県外にある学校で、出ていけば長期の休みくらいにしか帰ってこられなくなる。それが六年は続くのだそうだ。
「今、すごく頑張って勉強してるよ。わたしもたまに英語教えるんだけど、受験生組の集中力すごいんだ。あ、でも莉那ちゃんと連はもう推薦で進学決まった」
亜子がチョコレートのケーキを少しずつ崩しながら教えてくれる。後輩たちのうち、女の子である莉那は亜子と同じ大学に通うので、地元に残るそうだ。だが他はばらばらになってしまうらしい。
「あいつらも会えなくなるのか……」
「だね。……あ、和人さんは明日帰ってくるんだって。在はもう帰ってきてるはずなんだけど、まだ会ってないなあ」
大助が礼陣を出ていったように、他にも何人もの人間が礼陣を出ていく。そうしてそのまま戻らない者もあれば、帰ってくる者もある。
こうして年末に集まることですら、あと何度あるかわからない。大助の仕事が忙しくなったり、亜子が大学卒業後に礼陣を出ることになれば、家族で一緒にお茶を楽しむこともなくなってしまうかもしれない。
なんだかしんみりしたところで、愛が大きな冊子のようなものを持ってきた。どさり、とテーブルの上に置かれたそれは、アルバムだった。
「大掃除のときに出しちゃった。これ、私たちが礼陣に引っ越してきた頃の写真よ。まだ大助と亜子ちゃんがちっちゃいの」
開いたアルバムには、幼い子供が二人並んだ写真が丁寧に貼られていた。大助と亜子が一緒にいるようになったのは、五歳になる年からだ。
大助たち兄弟は、もともとよそから礼陣に移り住んできた。そうして最初に交流を持ったのが、向かいに住んでいた亜子たち一家だった。以来、ずっと家族ぐるみの付き合いを続けている。それどころか、本当に家族になってしまいそうな勢いだ。
こんなに小さかった自分たちが、今では片方は働き、片方は女子大生で、付き合っているだなんて。不思議なものだなと大助が思っていると、同時に亜子が「まさかここまで付き合いが続くとは」と呟いた。
「今のこの瞬間も、いつかは懐かしいねって笑いあうのかな」
いつのまにか、愛の手にはデジタルカメラがあった。いつかのために、この瞬間を撮っておくつもりなのだろう。
たとえみんなばらばらになったとしても、礼陣の人々は夏の祭りの時期と年末年始には地元に帰ってくるという。だからこの二つの期間は、礼陣の人口が増えるのだそうだ。帰って来る人はみんな、大助のように地元が好きなのだろう。片田舎の町だが、愛着があるのだろう。
この温かな土地で、時が過ぎ、新しい年を迎える。それはきっと、この町を好きな人にとっては、この上ない幸福なのだ。
「正月休み終わるの嫌になってきた……」
大助がぽつりと漏らすと、恵が苦笑した。
「まだ年明けてないのに、もうそんなことを言っているのかい?」
「明日が来なきゃ、今日会えなかった人に会えないわよ」
頼子も紅茶のカップを片手に微笑む。
それはそうだけど、とケーキの最後の一口を食べてしまった大助に、亜子が紅茶を注ぎ足しながら、「明日は」と言った。
「今日会えなかった人たちのところ、まわってみようか。受験生組の邪魔にならない程度に」
「そうだな。土産もまだ配りきれてねえし」
明日も、来年も、その先も。この町を、町の人々を、想いながら生きていこう。たとえここを離れていても。