気が付けば、彼らはいつだって傍にいてくれた。母がいなくなってしまった日も、父が仕事で家を空ける時も。
私が学校で、他の子たちから良く思われていなくても、彼らは私を『良い子』だと、『大好きだ』と言ってくれた。
とてもとても、優しいひとたち。姿は私とは違っても、心はきっと同じ。苦しい時もつらい時もあって、それでも私を励ましてくれる。
私もそうなりたいと思った。そうでありたいと思った。人前ではいつでも笑顔でいようと。
私は強くなんかない。優しくもない。でも、笑っていたかった。
空が真っ青な日曜日、やつこはいつものようにおばあちゃんと神社の掃除にやってきた。踏むとさくさく音がする枯葉を箒で集めて、持ってきたビニール袋に入れる。そうしている間に、高いところや狭いところを、神社にいる鬼たちが拭いてくれる。毎週掃除を手伝ってくれる鬼たちに、やつこは「ありがとう」と手を振った。
ここ、礼陣の町には、人間と鬼の二種類の人が暮らしている。鬼は頭に二本のつのがあり、様々な姿をしている。そして不思議な力を操ることができ、ときには人間を助けてくれることもある。しかし、普通の人間がその姿を見ることはできず、鬼も人間たちの生活には過干渉することを避けている。そうして人間たちの生活のバランスを崩さないようにしているのだ。
やつこはそんな鬼たちを見て、会話することのできる、少しだけ特別な人間だ。この町ではそんな人間を「鬼の子」と呼んでいる。鬼を見ることのできる人間は大抵、親を片方、あるいは両方喪ってしまった子供で、鬼たちはそんな子供たちの親代わりをしているといわれる。だから「鬼の子」なのだ。
やつこにはお父さんがいないが、鬼たちがいつでも傍にいてくれるので、寂しくはない。もちろん人間の友達や顔見知りもたくさんいる。やつこは賑やかな礼陣が大好きで、礼陣の人々が大好きだ。大好きなもののためなら、できることはなんだってしたいと、いつも思っている。
鬼を祀っており、鬼たちの憩いの場となっている礼陣神社の掃除もその一つだが、他にもやつこは礼陣のためにしていることがある。
「やっこさん、ムツさん、こんにちは。今日もお掃除に来てくれてありがとうございます」
境内がすっかりきれいになった頃、社務所から神主さんが出てきた。長い髪を一つに束ねた、若そうに見える男の人だ。けれどもその正体は、もう何百年も昔からこの地に留まっている「大鬼様」という鬼の長で、姿はずっと変わっていないという。頭につのがないのは、そう見えるようにしているからだそうだ。
「神主さん、こんにちは。お掃除はうちの役目ですから」
「はい、根代さん家には代々お世話になってます」
神主さんは深々と頭を下げ、それからやつこのおばあちゃんに向かって言った。
「ところでムツさん。この後、やっこさんとお話してもよろしいですか?」
「私はかまいませんけれど。やっこ、大丈夫かい?」
「大丈夫。宿題は昨日のうちにやってあるし、掃除の道具はあとでわたしが持って帰るよ」
おばあちゃんに尋ねられ、やつこは頷いた。おばあちゃんを待たせないようにするのだから、神主さんの「お話」はやつこが礼陣のためにしていることに深く関係することなのだろう。おばあちゃんは「じゃあ、お願いね」と言って、神主さんと神社の拝殿に一礼してから帰っていった。
おばあちゃんを見送ってから、やつこは神主さんをくるりと振り返った。
「神主さん。お話って、鬼追いのこと?」
「鬼追いにも関係あります。やっこさんには、ある鬼の話を聞いてあげてほしいのです」
やつこが礼陣のためにしていることのもう一つが、鬼追いだ。
鬼たちは普段は穏やかだが、悲しみや怒りといった感情が蓄積されたり昂ったりすると、それを力の暴走というかたちで表してしまうことがある。暴走した鬼は我を忘れ、物を破壊したり、人間や他の鬼を傷つけてしまうことがある。その状態の鬼を「呪い鬼」という。
鬼追いは、呪い鬼の暴走を止め、神主によって鎮めてもらうために神社へ「帰す」者、あるいはその行為のことだ。鬼が呪いのもととなる気持ちを溜めこむことを防ぐ役割も持っているため、鬼を見ることができる鬼の子がその役目を負う。
やつこは数か月前に初めて呪い鬼に遭遇し、すでに鬼追いであった者に助けてもらった。それがきっかけで、自分も鬼追いになったのだ。礼陣の平穏のため、人間と鬼の共存のため、やつこは先輩たちとともに鬼追いをしている。
やつこが神主さんの後について社務所にあがると、居間からひょこりとつのが覗いた。その位置を見るに、大きさは人間の子供、おそらくは中学生くらいだろう。神主さんに「おいで」と言われると、その鬼はやつこの前に姿を現した。
頭には二本のつのがある。体は上から下まで真っ白で、まるでシーツをかぶっているようだ。顔と思われるあたりに赤い眼が二つついている。鬼にはいろいろな姿のものがいるが、やつこがこのタイプを見るのは初めてだ。
「こんにちは!」
『こ……こんにちは』
やつこが声をかけると、もじもじしながら返事をしてくれる。どうやらこの鬼は、少し恥ずかしがり屋らしい。
「居間でお話していてください。お茶とお菓子を用意しますからね」
神主さんが台所に向かったので、やつこと鬼は居間に行き、ちゃぶ台を挟んで座った。神社には鬼がたくさんいるし、社務所にもよく出入りするのだが、こうしてきちんと向かい合うことはあまりない。やつこは背筋を伸ばして正座をすると、鬼に尋ねた。
「神主さんが、お話を聞いてあげてほしいって言ってたんだけど。何かわたしに言いたいことがあるの?」
すると鬼は、こくりと頷いて『鬼の子に聞いてほしかったんだ』と言った。
『おいら、助けたい人がいるんだ。でも、鬼は人間に過干渉しちゃいけないことになってるから、どうしたらいいのかなって思って』
「助けたい人?」
やつこが尋ね返すのと、神主さんが温かいお茶と菓子鉢を持って来るのはほぼ同時だった。菓子鉢にはやつこが大好きな御仁屋のおにまんじゅうと最中が入っていて、鬼と同時に小さく歓声をあげた。鬼もまんじゅうが好きらしい。
嬉しそうな二人を見て、神主さんは満足そうに、また居間から出ていった。鬼とやつこが話をする、邪魔をしないようにしているようだった。
「それって、どんな人なの?」
いただきます、と手を合わせてから、やつこと鬼はまんじゅうを一つずつとった。全身真っ白なシーツおばけのような鬼の口がどこにあるのか、まんじゅうが消えていく先を見てようやくわかった。
『とっても良い子だよ。優しくて、いつもにこにこしてるんだ。おいらたちを見ると声をかけてくれたり、手を振ってくれたりするし、落ち込んでるときは励ましてくれるんだよ』
口のあたりをもごもごさせながら、鬼は言う。鬼の声は耳に聞こえるのではなく、頭の中に響いてくるので、ものを食べていてもくぐもることがない。それは慣れたことなのだが、やつこは語られた内容に驚いた。
「声をかけてくれるって……その子、鬼が見えるの?」
『そうさ。お母さんがいない、鬼の子なんだ。だからおいらたちのことも見えるんだ』
この町では、親のいない子はそう珍しくはない。だから鬼の子も少なくはないし、やつこの鬼追いの先輩たちだって当然鬼の子だ。知り合いの鬼の子がいる一方で、まだ会ったことのない鬼の子ももちろんいるはずだった。
『頭もいいし、運動もできる。音楽だって得意なんだ。それにとっても可愛いくて……おいら、その子が大好きなんだ』
照れたように、鬼はまたもじもじする。やつこはそんな鬼の子がいたのかと思うと同時に、その子のことを大好きなこの鬼をとても可愛いと思った。素直な良い鬼なのだ。
「そんなに良い子の、何を助けたいの?」
やつこはお茶を一口飲んでから、また尋ねた。すると鬼の纏う空気がふっと重くなって、やつこはどきりとする。悲しみやつらさを抱えた鬼は、よくこんな空気を纏うのだ。まだ呪い鬼にはならずとも、なりそうな条件を、この鬼は持っているらしい。
鬼は俯きがちに答えた。
『……その子、同級生から良く思われていないんだ。その子が先生に褒められたり、先輩と仲良くしていると、同級生は“媚を売ってる”って言う。ちょっと失敗をすると、まるですごく悪いことをしたみたいに嘲笑うんだ。上靴を隠されたこともあった。その時はおいらたちも捜すのを手伝ったけど、結局間に合わなくて、その日は学校のスリッパで授業を受けなくちゃいけなかった』
つまりそれは、いじめられているということなのだろう。礼陣でそんなことが起こっているなんて、やつこは考えるだけで胸が痛んだ。いじめている子たちは、いったいどうしてそんなことをするのだろう。話を聞く限り、いじめられている子はとても良い子なのに。
『あんなに優しい子の、何がいけないっていうんだ。それにあの子は、ひどいことをされても“大丈夫”って言って笑ってるんだよ。相手への文句なんか少しも言わないんだ。おいら、それがつらくてつらくて……』
ぶわり、と鬼の周りの淀んだ空気が広がった。やつこはあわてて「待って」と言う。この鬼を、呪い鬼にするわけにはいかない。
「たしかに、その子が悪く言われる理由がわからないよね。助けたいって思う気持ちは、すごくよくわかる。でも、鬼にはどうにもできない、人間同士でしか解決できないことだと思ったから、あなたは神社に相談しに来たんだよね」
なだめるように、優しい声で、やつこは鬼に語りかける。すると鬼の纏っていた空気は少し和らいだ。鬼はやつこにこくりと頷いて、『そうなんだ』という。
『鬼の子なら、おいらの気持ちを聞いてくれる。そして、人間に伝えてくれるかもしれないと思ったんだ。あの子を悪く言わないでほしいんだ……』
ぽろり、と鬼の目から涙がこぼれた。やつこは立って、鬼の隣に座ると、その体をぎゅっと抱きしめた。こんなことができるのも、やつこが鬼の子だからだ。普通の人間には、鬼を見ることも、鬼に触れることもできない。それができる鬼の子こそが、鬼に呪いを溜めこませないよう、その気持ちを受け止めることができるのだ。
「呪い鬼になる前に、相談に来てくれて良かったよ。でも、どうしたらいいかなあ……」
人間のやつこなら、鬼の気持ちを他の人間に伝えることもできる。けれども、今の話だけでは相手がわからない。それに、この問題は人間同士の、とくに当人同士でなければなかなか解決できないものなのだ。「鬼がやめてと言っている」ということを伝えても、どうしようもない。
唸りながら考えていると、戸がすっと開いた。神主さんが来たのかと思ってやつこが振り向くと、そこにはもっと小さく、けれどもやつこよりは背の高い少年が立っていた。
「やっこちゃん、こんにちは。神主さんから、ここにいるって聞いたよ」
「海にい!」
やってきたのは、やつこが習っている剣道の先輩であり、鬼追いの先輩でもある海だった。やつこよりも一年早く鬼追いに関わるようになり、その分色々な鬼や呪い鬼を見てきた。海ならば、この鬼の悩みを解決できるアイディアをくれるだろうか。
「あのね、海にい。この子……」
「うん、廊下で聞いてた。おやつでも食べながら、考えてみようか」
海は手にしたビニール袋を持ち上げながら言った。居間に入ってきて、「さつまいものきんとんなんだ」と、中身をちゃぶ台にあけてくれる。一つずつラップに包まれた、手作りらしい栗のような形のものが、ころころと転がった。
「その子が嫌がらせをされるのは、嫉妬されてるからだろう。人を羨ましいと思ったとき、その人を目標に自分を高めようとする人もいれば、相手を貶めようとする人もいる。うちの道場ではもちろん前者であるように教えてるけれど……」
きんとんのラップを剥きながら、海が淡々と言う。けれども内心、他人に嫌がらせをして鬼の心を痛めている子たちのことを、許せないと思っているのだろう。海にそんな一面があることを、やつこは鬼追いをするようになってから知った。
「嫌がらせは、そう簡単には止まないだろうね。俺たちにできるのは、嫌がらせをされている子の心配をしている、鬼の話を聞くことくらいだ」
「海にい、その子、鬼の子なんだって。でも鬼に弱音を吐いたりはしないみたい」
「そうか……だからこの鬼は呪い鬼にならずに済んでるんだ。勝手に怒ったり落ち込んだりして呪い鬼になるより、よっぽど賢い」
海は鬼を撫でる。けれども「俺たちがその子を直接助けることは難しいな」と低い声で呟いた。
「どこの誰のことか、やっこちゃんは聞いてる?」
「ううん。わたしもさっきから気にはなってたんだけど」
わからなければ、助けようがない。わかっても、手の届く範囲でなければ対策のしようがない。鬼は少し悩んだ様子をみせてから、ぽつりぽつりと話しだした。
『中央中学校の一年生。吹奏楽部の女の子』
「中央中? ……まいったな、春がいる」
「そっか、春ちゃんも中央中学校の一年生なんだ」
眉を寄せながら腕組みをする海を、やつこと鬼は困ったように見た。春は海の幼馴染の女の子で、やつこにとってもお姉さんのような人だ。何かを間違えて、嫌がらせが春にまで及ぶようになってしまってはいけない。
春も鬼の子だ。この話を聞いたらこちらの味方になろうとしてくれるだろう。だが、それでは春も嫌がらせの標的になってしまうかもしれないのだ。
『おいらじゃあの子を助けられないのかな。あの子はまた、おいらたちに“大丈夫”って言って笑って学校に行くのかな』
また鬼を包む空気が淀む。やつこがあわてると、海が先に「だめだ」と言った。
「呪い鬼には絶対になるな。その子が鬼の子なら、なおさら。自分のために鬼が呪いを抱えてるなんて知ったら、その子はもっと傷つく。……だから、つらいことがあったら神社で吐き出せ」
どうしたらいいのか、一緒に考えるから。そう言う海に、鬼はしゅんとしたまま頷いた。結局すぐに助けることはできないのかと、失望されたかもしれない。やつこは胸がずきりと痛むのを感じた。
笑っていれば、お父さんにも、お隣さんにも、鬼さんたちにも心配をかけないだろうと思っていた。特にお父さんやお隣さんには、私が学校でうまくいっていないことを知られたくなかった。
大丈夫。鬼さんたちが優しくしてくれるから、私はどんなことがあっても平気。
だから、鬼さんたちにも笑っていなくちゃ。泣いてるところを、見せないようにしなくちゃ。
鬼を留めていたのはやつこたちではなく、どんなことをされても笑みを絶やさないという、つらい目に合っているはずの子だった。
鬼追いの役目には、鬼が呪い鬼になるのを未然に防ぐということも含まれる。けれども今回ばかりは、やつこにはできることがなかった。せいぜい鬼が呪いのもとになる感情を溜めこみすぎないように、話を聞いてやるくらいだ。
『今日は悪口を言われてた。でも、あの子はずっと微笑んでた』
『相手がわざとぶつかってきた。でも、謝ったのはあの子だった』
鬼が気にしているその子は、何をされても文句を言わず、心配する鬼たちには「大丈夫」と言って笑っているらしい。そんなことを、やつこは神社に行くたびに聞いた。自分だったら我慢できないなと、そんな状況をどうにかできるものならしてやりたいと思いながら。
『……あの子が笑っているうちは、おいらたちが怒っちゃいけないんだよね。呪い鬼になってしまったら、あの子は本当に悲しい思いをする……』
呪い鬼になってしまうと、鬼は我を忘れて暴れる。もしかすると一番大切な人を傷つけてしまうかもしれないのだ。だから鬼は、やつこたちに少しずつ気持ちを打ち明けて、そうなることを避けようとしていた。
でも、暗くて重いその気持ちが消えるわけではない。よくない状況が続く限り、積み重なっていってしまう。
『あの子はお父さんが大好きなんだ』
その日、真っ黒な影を背負って、白いはずの鬼は濃い灰色に見えた。神社に行こうとしていた途中で鬼に会ったやつこは、その姿を見てぞっとした。
「どうしたの? 何かあったの?」
近寄って尋ねると、鬼の目が赤く光った。泣いているようだった。
『大好きなお父さんがくれた小さくて可愛い兎のぬいぐるみを、あの子は毎日鞄につけていた。それを“趣味が悪い”って嗤われたんだ。あの子は黙っていたけれど、困ったように微笑んでいたけれど、帰ってからおいらたちに見えないように布団をかぶって泣いてた。……あの子が、泣いたんだ』
あの子が悲しいんだから、もういいよね。鬼はそう呟いて、踵を返した。そしてぱっと消えたかと思うと、道路の向こう側に移動していた。その先には、中央中学校がある。
「まさか、中央中で呪い鬼になる気じゃ……!」
やつこは焦って鬼を追いかけた。もう鬼は限界だった。どうせ感情を爆発させるなら、大好きな子を苦しめるものを壊してしまえと思っているのかもしれない。でも、それならやつこのところに現れたのは、いったいどうしてだったのだろう。
考えるまでもない。本当はどんな鬼だって、呪い鬼になんかなりたくないのだ。たとえ大切なものを傷つけた元凶であっても、それを傷つけるために力を振うなんてことはしたくないのだ。だって、礼陣の鬼は、人間を好きでいてくれるのだから。
「だめだよ。呪い鬼になっちゃだめ。人を傷つけたら、自分がもっとつらくなっちゃうよ!」
急いで道路を渡って、やつこは中央中学校へ向かおうとする鬼に近づこうとした。すると鬼は振り返り、目をぎらぎらと光らせ、つのと爪を長く鋭く伸ばした。
『やっこたちは何もしてくれなかった。だからおいらがやるんだ。他のことなんてもういい。あの子さえ助けられたらいいんだ。邪魔をするな、人間!』
それが、鬼が正気のうちに発した最後の言葉だった。叫びとともに周囲の音は消え、生き物の気配がなくなる。呪い鬼となってしまった鬼が、自分の力を最大限に使える空間をつくりだしたのだ。不幸中の幸いは、まずはやつこを邪魔者と認識したおかげで、他の人間や鬼を巻き込んでいないことだった。
やつこは持ち歩くのがすっかり当たり前になってしまった竹刀を、袋から取り出して片手で構える。同時に、ポケットの中にいつも入れてある、他の鬼追いを呼ぶための石を出して握りしめた。
――来て、誰か。この子を神社に帰さなきゃ。
石に念を込められたのは、ほんの短い間だった。呪い鬼は爪をやつこに向け、とびかかってくる。爪を竹刀で受け止め、なんとか押し返すが、ずっと一人で戦うのは難しそうだ。
「わたしが何もできなかったのはその通りだよ。あなたはわたしたちに助けを求めてくれたのに、それに応えることができなかった。それはとても悔しい」
せめて呼びかけに応じてくれたら。一筋の望みにかけて、やつこは呪い鬼に語りかける。そのあいだにも相手は、今度こそやつこに爪を突き立ててやろうと、腕を伸ばす。素早く爪を避け、竹刀で叩くと、呪い鬼は怯んだ。その隙に間合いを詰め、やつこは呪い鬼のすぐ目の前に迫る。
「ごめんね。あなたはずっと悩んでいたのに。大好きな人のために、何かしてあげたかったのに。……でも、それは呪い鬼になって、人に呪いをぶつけることじゃないよ」
やつこは竹刀を構え直し、呪い鬼の額を叩いた。静かだった空間に、ぱん、という小気味よい音が響いた。
海は遠川の自宅から、中央中学校方面へ向かって自転車を走らせていた。馴染みの子鬼が、やつこが「鬼の石」に込めた念を受け取り、それを伝えてくれたのだ。急がなければ、やつこ一人で呪い鬼の相手をしなければならない。
知らせを受けたとき、海の頭によぎったのは「間に合わなかったか」という言葉だった。鬼の相談を聞いてから、海は中央中学校の卒業生であり、剣道の先輩でもある水無月和人に「中央中学校でいじめがあるらしい」と相談していた。和人は「後輩で頼れそうな子がいるから、助けるのに協力してもらおう」と言ってくれた。
だが、呪い鬼になってしまったということは、助けが間に合わなかったのだろう。救いの手が差し伸べられる前に、決定的な何かが起こってしまったのだ。――もっと早く対処できれば良かったのに。そうしたら、やつこを危ない目にあわせず済んだのに。
じきに中央中学校のスクールゾーンに入るというところで、周囲の音や生き物の気配が消えた。もうすっかり慣れてしまった、呪い鬼の空間に入ったときの感覚だ。目の前には竹刀を手にした女の子がいる。
「やっこちゃん!」
「海にい! 来てくれたんだね、ありがとう!」
振り向いたやつこは、ホッとしたような表情を浮かべていた。その向こうには最近よく話をしていた白い鬼が倒れている。――やつこ一人で、気絶させることができたらしい。
「俺じゃ神社には帰せないけど、……これ。呪い鬼の動きを止める札なら、預かってる」
自転車から降りた海は、ポケットから札を二枚取り出し、呪い鬼が動かないのを確認してから、その両腕に一枚ずつ貼りつけた。これで呪い鬼は起き上がることができなくなる。目を覚ましても、少しは時間稼ぎができるだろう。
「やっこちゃん、一人で呪い鬼を気絶させるなんてすごいね」
「……きっと、この子自身が呪い鬼になりたくなかったんだよ。だからわたしでも止められたんだと思う。呪い鬼になる前に、わたしに会いに来たんだ」
そういうこともあるのか、と海は感心した。やつこはどうやら、鬼に頼られているらしい。たとえ呪い鬼になりそうなほど切迫しているときでも、まず会いに来られるほどに。
鬼が気絶している間に、鬼追いのリーダーである愛さんが到着した。愛さんは礼陣神社の巫女で、今のところは鬼を神社にきちんと帰してあげることのできる唯一の人だ。
「遅れてごめんね。……さて、この子が呪い鬼ね。神社に帰して、大鬼様に鎮めてもらいましょう」
愛さんは札を一枚取り出すと、そっと呪い鬼に触れさせた。すると呪い鬼はすうっと消えていき、そこには呪い鬼を抑えていた札だけが残った。
「被害はゼロです。やっこちゃんが全てやってくれました」
海がそう報告すると、愛さんはにっこりして頷いた。
「ありがとう、やっこちゃん。あなたのおかげで、この子も、他の人たちも、救われたわ」
やっこは困ったような笑顔で、「そうかなあ」と呟いた。
泣いて眠ってしまったらしく、鏡を見ると酷い顔の自分が映っていた。この顔を鬼さんたちに見られてはいけないので、急いで顔を洗う。
またいつものように、笑顔にならないと。誰にも心配かけないように。
だから私は、次の日、普段と同じように学校に行った。一つ上のお隣に住む先輩と一緒に、楽しいことだけを話しながら。そうしていれば少し元気が湧いてくる。今日も一日がんばろうって思えて、道の鬼さんたちにも笑顔でおはようを言える。
先輩と別れて一年生の教室へ向かうと、朝からクスクスとこちらを見て笑う声がする。「おはよう」と声をかけても、返事はない。かわりに聞こえてきた「まだあのセンス悪い兎つけてる」という言葉に、胸がずきりと痛む。……これはお父さんが買ってくれた大事なものなんだから、私だけは可愛がってあげないと。実際、とても可愛いと思うのだけど、違うのかな。
鞄を置いて、手を洗いに行こうとして廊下に出る。私を好きじゃないらしい、あの子たちも反対側のドアから出てきた。そして私に向かってきて、どん、とぶつかった。
「ちょっと園邑、邪魔」
私が謝るより先に、佐山さんは口元だけ笑って、目はこちらを睨みながら言う。同じ声で言われた「センス悪い兎」が頭をよぎった。どうしよう、笑顔が上手く作れなくなる。
突然別の声がしたのは、そんなときだった。
「邪魔なのはどっちよ。自分からぶつかっていったくせに」
声がしたほうに目をやると、佐山さんもそちらを振り向いた。そこには髪の短い女の子がいて、両手を腰に当ててこっちを見ていた。怒っているようだった。
「……加藤には関係ないでしょ」
「見ちゃったら関わらないわけにいかないじゃん。それに、町で噂になってるよ。中央中の一年生のあいだでいじめが起きてるって。このまま問題になったら、アンタたちも都合悪いんじゃない?」
佐山さんの低い声に臆することなく、女の子は言い返した。すると佐山さんは舌打ちをして、友達を連れて教室に戻っていった。かわりに私の傍には、心配そうな顔の女の子がやってきた。
「大丈夫? いつもああやって嫌がらせされてたの?」
「嫌がらせってわけじゃ……」
「ああいうのは嫌がらせっていうの。町で噂になってるっていうのは嘘だけど、知り合いからそういうことがないかどうか見てほしいっていう話は聞いてたんだ」
女の子は私に手を差し伸べて、「もう大丈夫だよ」と言う。明るくて、優しくて、お日様みたいな笑顔だった。
「あんなこと、もうさせないから。……アタシは一年C組の加藤詩絵。ねえ、アタシと友達になってくれないかな」
私はどきどきしながら、伸ばされた手に触れた。そうしたら、ぎゅっと握られた。嬉しいくらいに温かい手だった。
「わ、私は……一年A組の園邑千花。あの、加藤さん、本当に友達になってくれるの?」
「詩絵って呼んでよ。アタシも千花って呼ぶから。千花が良ければ、これから友達として、休み時間には遊びに行くよ」
同学年の友達は久しぶりで、なんだかちょっとくすぐったい感じがする。そうだ、こんなにいいこと、あとで先輩やお父さん、それから鬼さんたちにも報告しなきゃ。きっと一緒に喜んでくれる。
土曜日の午後、やつこは鬼追いの振り返りをするために、神社の社務所に来ていた。今日は愛さんがいて、お茶とお菓子を用意してくれる。ちゃぶ台の上に置かれたのは、大きめに切り分けた、御仁屋のカステラだった。
「あの鬼の呪いはすっかり祓うことができましたよ。今は鎮守の森で少し休んでいますが、やっこさんにはとても感謝していました。今まで話を聞いてくれたことと、自分を止めてくれたことに」
神主さんに改めて言われ、やつこはどんな顔をしていいのかわからなかった。だって、あの鬼は大切に思っている子を助けてほしかったのだ。それなのに、やつこにはそれができなかった。できないまま、鬼を呪い鬼にしてしまった。
「もっと、できることはなかったのかなって思います。あの鬼も、『何もしてくれなかった』って言ってたし……」
「それはつい出ちまったんだろうよ。本心でそう思ってたわけじゃないだろ」
今回の件には関わらなかった、もう一人の鬼追いである大助が、自分の分のカステラを直に掴みながら言った。海に「行儀が悪いですよ」と窘められていたが、まるで気にしていない。
「こういうのは、俺たちが介入できることじゃねえし、鬼だって手を出せない。人間の、それも当人たちの領域だからだ。話を聞いて一緒に悩んだだけでも、やっこはよくやったと思うぜ。聞いてるだけっていうのもなかなかしんどかっただろ」
「うん、そうだけど……」
鬼には鬼の、人間には人間の領分がある。人間のあいだでも、それぞれ関われる部分とそうでない部分がある。そのバランスを自覚し、うまくやっていくことが必要なのだと、やつこは神主さんから聞いたことがあった。
それでも、何もできないのは悔しい。話を聞いたり、鬼追いをしたところで、いじめられているというその子が、救われるわけではないのだから。
「やっこさん、落ち込まないでください。いい報告がありますよ。……いじめられていたという子ですが、ちゃんと助かったそうです。強い味方が、友達ができたんですよ」
しかし、神主さんのこの言葉で、やつこはばっと顔をあげた。目の前には、にこにこしている神主さんたちがいた。
「友達……?」
「はい。本人から、鬼たちに報告がありました。その友達もとても信頼できる良い子ですよ。それにとっても強い子ですから、嫌がらせから守ってくれます。実際、今の中央中学校は平和だそうです。呪い鬼になってしまったあの鬼も、それを聞いて喜んでいました」
「そっか……よかった……!」
きっともう、その子はつらい思いを我慢して、無理して笑顔を作ろうとしなくてもいいのだろう。鬼たちに隠れるように泣いたりなんか、しなくていいのだ。だから鬼もその子を心配して、つらい思いを抱えなくて済む。もうその子の周りで、呪い鬼は生まれない。
「やっこちゃんが鬼追いをしなかったら、あの鬼は呪いを中央中学校にぶつけていたかもしれない。そうなってしまったら、こんな展開はなかったかもね」
愛さんの優しい言葉に、やつこはホッとした。やっと自分のしたことが無駄ではなかったのだと思えた。鬼を止められたこの手が、少しだけ誇らしい。
「あ、やっこちゃん、やっと笑った。美味しいおやつを食べる時は、そうでなくちゃね」
カステラを行儀よく一口大に切りながら、海も微笑んだ。やつこは大きく頷いて、「いただきます!」と手を合わせた。
カステラを食べ終わったやつこが、境内にいる鬼たちと遊ぶために外へ出ていってから、愛さんは海に話しかけた。
「今回は海君も動いてくれてたのよね。ありがとう」
「俺は、人間のことは人間が解決しなきゃと思っただけで……大したことはしてません。春にさえ危害が及ばなければいいとさえ思ってましたから」
海はそっけなく答えると、洗い終わった皿やフォークを片付け始めた。すると大助が苦笑しながら言う。
「以前の海なら、いじめなんかするような奴は一度怖い目見たほうが良いとかいって、わざと鬼を放っておいたかもしれないよな」
「それはだめだって言ったのは大助さんじゃないですか。……それに、そんなこと、やっこちゃんの前でできませんよ」
本当は、少しだけ考えた。呪い鬼がいじめっ子たちに襲いかかるように仕向けて、自分がどれだけのことをしているのかわからせたほうが良いと。でも、鬼も人間も大好きで、どちらが傷つくのも嫌だというやつこの前で、それを許すわけにはいかなかった。
人間の問題は、人間が解決しなければ。そして鬼の問題には、自分たち鬼の子が、鬼追いが手を貸そう。それを曲げてしまうことは、純粋な気持ちで鬼追いをしているやつこにも悪いと思った。
「やっこのおかげで、お前も変わったな」
「そうですね。少しは変われたと思いたいです」
外からやつこの笑い声が聞こえてきた。底抜けに明るい、こちらも元気になれるような声だった。