今年も最後の月がやってきた。誰も彼もが忙しく走り回る十二月、水無月呉服店も年末年始の準備に追われる。年始と年明けの成人式には着物を着る人が増えるので、夏頃から着物の修繕や成人式の前撮りなどを承っているのだが、この時期に滑り込む人がいないわけではない。
応対する従業員の中に、和人の姿はない。相変わらず「店番禁止令」を出されていて、勉強に集中する日々が続いている。センター試験まで残り一か月という大事な時期、本人よりも親のほうがピリピリしていた。
『大事な一人息子だもの、無理もないわよね』
美和は店の隅でぽつりと呟く。今日も振袖を借りに、客が来た。来月の成人式に着るのだという。二十歳になったというきれいな娘さんには、浅葱が似合いそうだなと思ったのだが、それを伝えてくれる人間がここにはいない。結局彼女は、赤と黒の地に金の刺繍を施した豪奢な振袖を選んで借りることになった。予約票はもうかなりの数が来ていて、選択の余地がすでに狭まっていたということもあるが、美和としては惜しい。
本来人間には見えない存在、「人鬼」である美和の言葉は、なぜか彼女を視認し声を聞くことのできる人間であり双子のきょうだいである和人を通さなければ誰にも届かない。店の運営に関わりたくても、和人がいなければ何もできないというのが、美和の現状であり、これから先も続く現実だった。
美和の言葉を人間に伝えてくれる和人は、今は受験勉強で忙しく、それが終わって合格していれば、この町から出ていくことになっている。美和はこの店に一人残され、ただただ人間の営みを見守る存在になるのだ。それは退屈で、けれども慣れなくてはいけないことで、ここ数か月のあいだは美和はできるだけ和人と距離を置くようにしている。そうすれば、春が来る頃にはこの生活にも自然に慣れることができるだろうと考えていた。
どうせ、店に関わりたいというのだって、美和の我儘であり未練なのだ。産まれたときに人間の美和は死んだ。それでもなお生きたいと願い、生きていてほしかったという双子の願いを受けて、美和は人鬼になった。そういうことなのだと思っている。そして双子とともに成長し、双子とだけコンタクトをとってきたのだ。――この町に住まう「鬼」たちとは別だ。人間と違って頭に二本のつのを持ち、不思議な力を操る彼らには、美和の姿も見えているし、会話をすることだってできる。だが、その鬼は普通の人間には見えず、人間に過干渉しない。鬼というのは町の住人でありながら、神のような存在なのだった。
さしずめ美和は、神のなりそこないである。いや、これから成ろうとしているのだ。人鬼はいつか鬼に成るものなのだと、友人の鬼が言っていた。その「いつか」が、美和にはなかなかやってこないというだけだ。
「ありがとうございました、またどうぞ」
店主――美和にとっては父だ――の声がして、美和も慌てて『ありがとうございました』と頭を下げる。誰にも見えず誰にも聞こえないが、店の一員として振る舞うことが、美和のこだわりでありやりたいことだった。人間として生まれ育つことができていたら、店を継ぎたいとも思っている。
だが、一方の和人は少々考えが違うようだ。大抵、和人の考えは美和の考えで、美和の考えは和人の考えということが成り立ってきたのだが、二人の性格には違いがある。和人は美和よりも引っ込み思案で、人と接するのは本当は苦手なのだ。けれども美和の指示に従うことで、これまで店番をすることができていた。今では他の従業員のために仕事の手引きを用意できるくらいになっている。それなのに、和人は一度店を、この町を離れることを選んだのだ。
和人は一度、自分の進むべき道を迷ったのである。
和人の通う礼陣高校では、一年次の秋に二年以降の選択授業を決めなければならない。それはつまり、一年の秋には高校卒業後の進路をほぼ決めておかなければならないということだ。高校一年生だった和人は、当時進路に悩んでいた。
「和人、選択決めたか?」
親友の流に尋ねられ、和人は曖昧な笑みで「一応ね」と答えた。傍には美和もいたのだが、流には姿が見えないし声も聞こえない。だから遠慮なく言ってやった。
『最終決定じゃないけどね』
「礼大受験コース。店のこともあるし、経済経営学部に進もうかと思って」
礼陣には大学が二つある。一つは私立の女子大で、男子である和人には絶対に選べない進路だ。そしてもう一つは公立共学の礼陣大学。偏差値はさほど高くないが、地元就職や公務員を目指している者には良い学校だ。
流はすでに礼陣大学に進もうと考えて、選択を決めていた。祖父が町の議長で、父が役場の上位にいる彼は、それに倣うように公務員を目指している。礼陣大学で勉強をするのが都合が良いのだった。
和人には実家の店がある。商店街の老舗である実家を継ぐには、そのまま実家に就職するか、地元の大学で勉強をしながらこれまで通り店で働くのがいい。勉強はしたい和人が選ぶのは、後者だった。
そう、勉強がしたいのだ。昔から土着の伝承や文化に興味があった。この地に伝わる鬼の話は、美和が目の前に現れる前から聞いていた。店を訪れる年配のお客たちが聞かせてくれる、そんな話が好きだった。それは今も変わらない。
『礼大の経済経営学部じゃ、文化のことは満足に勉強できないじゃないの。このあいだの進路チェックシートだかなんだかでも、あなたの興味は民俗学・社会学ですって出てたじゃない』
美和の言葉は、礼陣大学受験コースを選択して調査票を提出しようとした和人に、担任が言ったことだった。担任は、和人にはもっと偏差値の高い大学を受験してほしいらしい。――たとえば、隣県の国立大とか。
たしかにそこでなら、和人の興味を満たす勉強ができるはずだった。学校案内のパンフレットを見ても、実際にそこに通っている学生の話も魅力的で、できることならそちらを目指したいと思ってしまった。だが、そうするとこの礼陣の町を離れなくてはならなくなる。
この町を離れるということは、店を離れるということだ。加えて店の経営とはあまり関係のないことを勉強するとなれば、将来店を継ぐということを考えたときに、障りが出てくるかもしれない。
それだけではなく、礼陣を出ていくというのは同時に美和と離れるということでもあった。礼陣の鬼は、礼陣を離れられないということになっている。それは鬼の端くれ、人鬼である美和も同じことだ。実際、小中学校の修学旅行などで和人が礼陣を離れたとき、美和は『行けないから』と留守番をしていた。いつも一緒にいたのに、このときばかりは傍に現れることはなかった。
人見知りの和人は、美和に助けられながら生活をしてきた。人見知りだということがばれないように、堂々と振る舞えたのも、美和が近くにいて支えていてくれたからだ。
それに和人が町からいなくなれば、美和と人間を繋ぐものがなくなってしまうのだ。美和は和人を通して、店の手伝いをしている。大切な店に関わるために、和人の手を動かしている。
要するに、美和と離ればなれになるということが、和人には考えがたいことだった。
「なあ、和人。本当に進路決まったのか?」
流が再度尋ねる。いつも調子の良い笑顔を見せる親友が、このときばかりは真剣で、和人も真面目に向き合うことを余儀なくされた。
「……実は、迷ってる。店を継ぎたくないわけじゃないし、町から出ていきたいわけでもないんだけど。……先生に薦められた隣県の国立大の、人文学部に興味があるんだ」
『ほらみなさい。本当は、そっちに進みたいんじゃないの』
美和が深く溜息を吐く。それは奇しくも流がそうしたのと同時だった。
「和人。俺さ、やっぱりおじさんとちゃんと相談して、和人のやりたいことを伝えたほうがいいと思うぞ。おじさんは和人のことを一番に考えてくれてるから、ちゃんとわかってくれるって」
「でも、店が……」
「やりたいこと我慢して店継いでも、和人のためにも、店のためにもならないと俺は思う」
外部からの余計な口出しかもしれないけど、と流は付け加えた。けれども美和が、流には聞こえないのに、そんなことないわよ、と言う。
『流の言う通り。私は私の大切な店を、無理して継いでほしくなんかない』
「でも」
それじゃ美和はどうなるの、とは口に出せなかった。美和の存在を知っているのは和人だけで、流にすら今ここに人鬼の美和がいるということは話していないのだ。
和人がいなければ、美和は店に関われない。彼女の大切で大好きな水無月呉服店で、品物に触れることすらできないのだ。誰にも見えず、聞こえず、ただ店を眺めるだけになってしまうことは、美和にとってどれほど辛いだろう。
その思いは、美和にはちゃんとわかっていた。和人がいなくなれば、自分には何もできなくなるであろうことも理解していた。それでもなお、和人にしか聞こえないその言葉を告げたのだ。
『隣県に行きたいなら、行きなさい。あんたには、それができるんだから』
「……わかった。考えて、話してみるよ」
その夜、和人は両親とじっくり話し合って。翌日、選択科目調査票を提出した。「国立大文系コース」を選んで。
背中を押したのは、いつだって美和だった。ときどきは流も手伝ってくれたが、いつだって最終決定は美和の言葉に委ねていた。
きっと、美和も和人の選びたい進路に興味があったのだ。だって、昔から同じ本を読んで同じところに着目し、同じ話を聞いて二人で喜んでいた。結局、和人の希望は美和の希望で、美和の希望は和人の希望なのだ。
でも人鬼である美和には、よそに行くことができない。それができるのは、やりたいことをやれるのは、人間である和人なのだ。
だが、やはり和人にとっても店は大切で、美和とともに守っていきたいものなので、一度ここを離れてもちゃんと戻ってこられるように、店番に力を注いだ。店番のノウハウは美和のほうが率先して勉強し、和人に教えていった。それは美和にとっても楽しいことで、姿が見えなくとも店や人間と触れあえる素晴らしい機会だった。
そうしていよいよ、今年が終わろうとしている。和人がこの場所にいられる時間は、あとわずかになった。
「ああ、疲れた……。父さん、もう店閉めたんでしょう。片づけくらいはさせてよ、体が鈍るから」
勉強をしていた和人が、部屋から出てきた。「店番禁止令」は出たが、閉店後については何も取り決めをしていない。父は「仕方がない」と言いつつ、和人に店の掃除を任せた。
掃除のついでに、和人は店の隅にいた美和に声をかける。誰にも聞こえないよう、心の中で、こっそりと。
「美和、今日はどんなお客様が来たの?」
『岡田さんが、成人式の振袖のレンタルに。私は絶対浅葱が似合うと思ったのに、なんだかゴージャスなの選んでったわよ。当日の化粧が濃くなりそうね。あと、高屋さんが冬の着物の相談に。足元が冷えるって。それから……』
すらすらと今日のお客について述べる美和の声を聞きながら、和人は掃除を進めていく。すっかり手馴れた様子で、しまわなければならないものは下げて、出してある品物にはカバーをかけ、棚や床を払ったり掃いたりする。出たごみは、手際よく箒と塵取りで集めて捨てに行く。対面が苦手な和人が、最初に覚えた店の日常の仕事だ。
『……こんなものかしら。私が応対したかったお客様がいたのが惜しいわ』
「ごめんね。僕がいれば伝えられたのに」
『あんたは勉強してればいいのよ。店についての勉強は、もうとっくに覚えちゃってるんだから。学校に入るための勉強をしなさいな』
礼陣を一度離れると決めたあのときから、接客や在庫管理に経理関係まで、和人はあらゆることを両親と美和から教わった。いつここに戻ってきてもいいように。たとえ自分が店を継ぐことをやめても、他の誰かにこの店の運営を任せられるように。
未来はどうなるかわからない。美和の姿だって、あとどのくらい見られるかわからないのだ。なんでも通常、鬼というものは特別な目を持った人間でも、子供時代にしか見えないことがほとんどらしい。いつかは和人も、美和を見ることができなくなるかもしれない。
だから、美和は和人がいなくても大丈夫なように。和人は美和がいなくても大丈夫なように。二人で離れる準備をしているのだ。
「勉強もするけど、やっぱり店に立ちたいな。美和の話を聞いてると、人と会うのが面白そうなんだ」
『人見知りが何言ってるのよ。……まあ、だいぶ直ってはきてるけど』
「美和のおかげでね。……さあ、掃除終わり! 晩ごはんの支度を手伝いに行こうかな」
『それなら私は父さんの仕事を見てくるわね。どうせ食器に触れなければ、ご飯を食べることもできないし』
「相変わらずだな、美和は。……鬼に成りかけてるみたいだから、ちょっとくらいは、って思うんだけど」
『私も思ったんだけど、やっぱりまだ無理。和人としかやりとりができない、中途半端な人鬼よ』
きっと二人でいる限りは、二人とも中途半端なままなのだ。自分たちは双子で、二人で一つなのだから。同じことを望み、同じものを大切にしている、片割れ同士なのだから。