海には、一力家に出入りするようになってから、ずっと疑問だったことがある。正確には大助の部屋に入ってからだ。
基本的にシンプルな部屋――片付いているのはたぶん、姉の愛か幼馴染の亜子が手を入れているからだ――なのだが、一点だけ浮いている。出入り口側の壁に貼られた、A3版のポスター。それだけがなんとも鮮やかで、目に痛くて、海はそこをいつも見ないようにしていた。
どうしてこんなものが、大助の部屋に。そう思うも訊けずにいたのは、海の中にある大助のイメージを崩したくなかったからだった。
けれども現実は否応なしに海に叩きつけられる。抱いていた理想そのままのことなんて、そうそうあるものではない。
「今の映画いまいちでしたね」
一力家恒例となっている映画鑑賞会で、その作品が終わるなり、海は言った。マイナスな感想でも遠慮なく口に出せるのが、この家の鑑賞会のいいところだ。作品自体を楽しむことはもちろん、その感想を言い合えることが楽しくて、海はそれに招かれるようになってから、都合のつく日は泊りの準備までして参加している。
上映する作品はそれぞれの好みや前評判、予告などで気になっていたものなど様々で、今回のように「海にとってのハズレ」があることは珍しくない。特に恋愛映画などではそれが顕著なのだが、今観終わった作品は一応コメディに分類されている。だが、大筋が面白くない。面白くないのに主演女優の演技だけが異様に上手くて、アンバランスな印象だった。
「これ、誰が選んだんですか? 確実に恵さんや愛さんの好みじゃないですよね」
これまでに予告を見た憶えもないし、誰かの好みとも思えない。ここにあること自体が不思議なのだが、はたしてこれを持ってきたのは誰なのか。――それにしても、あの女優、どこかで見たような。
次々に湧いてくる疑問を一気に解かしたのは、彼の返事だった。
「ああ、今の俺。レンタルじゃなく私物だから、他のとは一緒にするなよ」
……大助さん?」
大助の私物。見覚えのある女優。海の記憶が重なり、ようやく答えを導き出す。さっきの主演女優は、大助の部屋に貼ってあったポスターの彼女だ。
海はわざと目を逸らし続けてきたが、大助の部屋には女性アイドルのポスターが一枚だけ貼ってある。ときどき変わるが、そこにある顔はいつも同じ人物だ。
一力大助という人物は、喧嘩が強く、名前の通りに人助けをよくする。海にとっては尊敬できる先輩の一人である。けっしてアイドルなんかにうつつをぬかすような人間ではない……と思いたかった。
だが、現に大助は部屋にポスターを張り、アイドルの出ている映画DVDを私物と言って回収している。「たしかに話は面白くなかったな」なんて言いながら。
「前評判も良くなかったんだよ。でも樹里の初主演作だし、こっちじゃ上映されなかったから、つい買っちまって」
「樹里?」
「さっきの主演の子。瑠月樹里っていうアイドル。俺の部屋にもポスターあるだろ」
「大助、ホント樹里ちゃん好きだよねー。たしかに可愛いし、スタイルもいいけどさ」
亜子が苦笑しながらも追撃する。これはもう、認めざるを得ないようだ。大助は、あの主演女優もといアイドルが目的で、わざわざDVDを買ったのだ。
海は深く溜息をついて、項垂れた。ずっとまさかまさかと思ってきたが、大助がアイドルなんかを好きだなんて。「なんか」というのは、海自身がそういうものを苦手として遠ざけてきたからだ。「女の子らしさ」を全開にして、誰にでも笑顔を振りまく彼女らは、そもそも女性が苦手な海にとっては毒なのだった。その毒を好む人もいるとわかっているが、それが身近な人だとは、それも尊敬する人だとは思いたくなかった。だからこれまで、ポスターからも目を背けてきたのだ。
「大助さんがアイドルオタクだったなんて……
「オタクってほどじゃねえぞ。俺が追っかけてるの樹里だけだし」
「そんなの追っかけないでくださいよ。追うのは鬼だけにしといてください」
後半は小声だったが、大助にはしっかり聞こえていたようで、「お前なあ」と渋い顔をされる。いや、その表情の原因はそこではないか。おそらく全体的に、大助は呆れているのだろう。
「自分が女苦手だからって、人にまでそれを押し付けんなよ。俺が樹里を可愛いと思うのは勝手だろうが」
「その言い方が嫌です。なんでアイドルなんて好きになれるんですか。理解できません」
「そうか? ちゃんとお前の理解の範囲内で説明できると思うけどな。なあ、亜子」
「そうだね。海が人の気に入らないところから目を背けて、都合のいいところだけをその人の全てとして尊敬しちゃうのと、あんまり変わらないよ」
紅茶を淹れ直しながら、亜子はさらりと言う。相変わらずこの人は、海の痛いところを狙って突いてくる。何も言い返せずにいると、次に観る作品を選んでいた恵が振り返って、穏やかに微笑んだ。
「アイドル、ってね、偶像って意味なんだよ。華やかな印象があるけど、語源はこれ。信仰の対象を目に見えるかたち、近くにものとして置いておけるかたちにしたもの。それを祀りあげることで、自分は神を信じているのだと、こんなに尽くしているのだと思える。……偶像崇拝って、海君も知っているだろう?」
「ああ、なるほど。偶像……それこそ、自分がこうあってほしいって思う『神様』をつくりあげるってことですよね。そっか、どちらかといえば俺のほうが偶像崇拝者なんですね」
大助や、他の尊敬する人の好ましいイメージのみを見て、それがその人の全てと思いこむ。そうしてこの人を「知っている」というのだから、たしかに海のしていることとなんら変わりはない。むしろそのものだった。
海がソファの上で膝を抱えて自分を恥じていると、愛と、恵の婚約者である頼子が茶菓子のおかわりを持ってきてくれた。紅茶にもよく合う、御仁屋のカステラだ。
「お兄ちゃん、海君をいじめちゃ駄目よ。……ところで海君、瑠月さんを知らないってことは、彼女が門市出身だってことも知らないでしょ」
「へー、隣町じゃないですか。そういう人もいるんですね」
投げやりに返事をしながら、少しだけ顔をあげる。次の映画は歴史ものらしく、頼子が「これ見たかったのよねー」と海の隣に腰を下ろした。
「もうアイドルの話はいいよ、って顔してるね、少年。まあでも、自分が尊敬する先輩の好みは、知っておいて損はないんじゃない? かくいう私も、自分が興味あること以外はからっきしだけど、恵君が好きなものならおさえておこうって思うし」
歴史オタクで、一見それ以外のことにはまるで疎そうな頼子が言うと、妙な説得力がある。歴史もの以外の映画を一緒に観るのも、恵の好きな料理を覚えて作るのも、きっとそういうことなのだろう。
映画本編が始まるまではまだ時間がある。海は紅茶のカップに手を伸ばしながら、ぼそりと尋ねた。
……大助さんは、さっきの樹里とかいうアイドルの何が好きなんですか? 大助さんが好きそうな要素がよくわからないんですけど」
大助は亜子のことが好きなのだろうなと思っていたから、特徴がほとんど重ならない瑠月樹里というアイドルをなぜ気に入ったのかがわからない。強いて言うなら、足は長いが背はそんなに高くなさそうだということくらいか。金髪ではなく明るい茶色の髪だったし、顔は亜子がどちらかといえば美人の部類に入りそうなのに対し、樹里は何度か言われているように、たぶん「可愛い」。大助の「好き」にまとまりがないのだ。
すると、案外真面目な答えが返ってきた。
「門市って、礼陣よりはものがある町だけど、結局は田舎寄りなんだよな。で、樹里はそんな町を地元だからって理由ですごく好きなんだってよ。さっきの映画も上映してくれなかったような町の好きなところをいくつも挙げて、是非来てくださいって宣伝してるんだ。そんな子が近所にいたら、嬉しいだろ。あとすっげえ努力家。歌も踊りも演技も、才能もあるだろうけど、当然上手くあろうとする練習を欠かしてないんだろうな」
そういえば、さっきの映画も異様に演技が上手くて浮いていたのだった。彼女は「アイドル」であることに余念がないのだ。よくは知らないが、そういうことなのだろう。加えて郷土愛とあれば、なるほど、地元や近隣の人々が彼女を好きになる理由はあるのだった。
「大助さんらしい答えですね」
海の表情が、ようやく緩む。やっぱり大助は大助だったのだ。アイドルが好きという一面があっても、その理由は海が尊敬する大助らしいものだった。だから、安心したのだ。
――
というのもつかの間。亜子が大助を睨みながら、「何を偉そうに」と口をとがらせた。
「樹里ちゃんを初めて見たときの、大助の第一声は『胸でっけえな』だったくせに」
「ばか、せっかく人が良い話風にしめようとしてたのに!」
……胸?」
その瞬間、持ち直した大助への尊敬と信頼は崩れていった。いや、まだ残ってはいるのだが、思った以上に酷い理由が出てきたおかげでほんのわずかになってしまった。
「大助はね、胸の大きい子が好きなんだよ。幼馴染のわたしにはないもんね、残念でした!」
「余計なこと言うな、亜子!」
「最低ですね」
「ほら見ろよ、この海の冷たい目!」
「はい、静かにね。映画本編始まるよー」
尊敬していようが、憧れていようが、結局人は人なのだ。盲目的に信じようとしても仕方がない。その逆もまたしかり。
もう少し視野を広く持とう、と思いながら、海は次の映画へ目を向けた。