私の地元は、近隣の町に比べればちょっとは高いビルや有名店、人や車が多い通りがあったりするけれど、やっぱり田舎だと思う。もちろん首都なんかには遠く及ばないし、政令指定都市も遠い。そういうのは県内でもっとも大きな市、大城市の役目だ。
ここ、門市は県内中堅という言葉がしっくりくる、中途半端に賑やかな街だ。そこで私は生まれ育ち、可愛いともてはやされ、現在は地元出身のアイドルとして地位を確立している。そのあいだのあれやこれなんて、語るのもめんどくさいから省く。
とにかく私はアイドルなのだ。この県出身の代表的なアイドルタレントとしてテレビに出たり、たまにこうして「地元凱旋ステージ」なんかするくらいには人気の出てきた、名前を聞けば誰もが「ああ、あの子」と顔を思い浮かべてくれる、そんな感じの。
「樹里ちゃーん! 可愛いよー!」
「脚細ーい! 顔ちっちゃーい! 門市出身って、なんか誇らしいよね」
聞こえてくる声は、なかなか悪くない。にこにこしながらステージに立って、仕事をきっちりとこなし、終わった後の握手会で最後までファンに夢や希望を与える。そんな自分がちょっと好きだ。
そう、「瑠月樹里」でいるあいだの私が、私は好きだ。だからたまの休みに地元の街を、簡単な変装でぶらついているときに、本名で呼ばれるのは正直なところ微妙な心境なのだ。
「お、里実ちゃん? 久しぶり」
真正面から話しかけてきた、背の高い男の子。私は深くかぶったキャップのつばの陰から、彼を上目づかいに見る。というより、睨む。
……里実ちゃん、じゃないわよ。なんで君がここにいるのかな、流君」
「じいちゃんのおつかいで、ちょっと。だから今日は和人はいないぞ」
「へー、珍しい」
彼は私のファンではない。プライベートで親交のある、男友達だ。門市ではなく、山を挟んで隣接している礼陣という田舎町に住んでいる。だからこんなところで会うのはめったにないはずなのだけど。

そもそも彼のおじいさんが礼陣の名士で、門市にも顔が利く人だから、私たちは出会えたのだ。礼陣で、毎年夏に行なわれるお祭りのステージにゲストとして呼ばれたのがきっかけ。おじいさんが運営に積極的に関わっていて、孫である彼もそれを手伝っていた。
自惚れるわけじゃないけど、多くの男の子は(女の子もまあまあ)私を見れば一瞬はぼうっとなる。しかし、彼とその友人に限ってはそんなことは全くなかった。妹ちゃんは「可愛い」って言ってくれて、嬉しそうに握手を求めてくれたんだけど。とにかく私になびかない、珍しい男の子だったのだ。
そのときの会話は今でも憶えている。ステージの出番を控えていた私に、同じくステージに立とうとしていた(なんでも町のお祭男なんて言われているらしく、素人ながらこういうのにはいつも参加しているのだそうだ)彼は唐突に尋ねたのだ。
「なあ、瑠月樹里って本名?」
これから「樹里」としてステージに立とうとしている私に、それを言うか。私はちょっといらいらしながら、でもアイドルというイメージを崩さないように笑顔で応えた。
「ううん、実は芸名なんだ」
「へえ。本名なんていうの?」
この問いに私の苛立ちはさらに増したのだけれど、彼はそれをまるで解していないようなので、私は「内緒」とごまかそうとした。そうしたら、彼は得意げに言ったのだ。
「なんてな、本当は知ってるんだ。じいちゃんに聞いたから。三樹里実ちゃん、だろ? 歳は俺の一個上だけど、普段は二歳ほど下にサバ読んでる」
知っていて言うなんて、しかも年齢にまで言及するなんて、デリカシーのない奴だ。私は憤慨して怒鳴り散らしたくなるのを必死で抑え、あくまで笑みを崩さずに「そうなの」と返事をした。
そうしたら彼は、実に女の子ウケしそうな爽やかな笑顔で、こう言ったのだった。
「俺は、里実ちゃんって名前のほうが好みだな。本当はもっと大人っぽくて、難しい本を読むのが好きな君らしい、良い名前だと思う」
不覚にもどきっとしてしまったけれど、よく考えてみれば「芸名は似合ってない」って言われてるみたいで、あとでかなり腹が立った。だから記憶に強く残っているのだ。イケメンに対してあんなにムカついたのは、後にも先にもあのときだけだ。
フォローしてくれたのは彼と一緒にステージに立つという彼の友人で、遅れてやってきて状況を即座に把握した後、私にすごい勢いで謝ってきた。私が彼と、彼の友人の名前を知ったのはそのときだ。
謝ってもらったので、一応は溜飲を下げたことにした私は、次に驚きと悔しさを覚えることになる。――彼ら二人のステージは、素人がギターを弾いて歌うだけなのに、観客をこれでもかというほど沸かせていたから。本職アイドルの私が登場する前に、しっかりと会場に熱を持たせてくれたのだった。

……あの、こんなとこ誰かに見られてネットにあげられでもしたら、スキャンダルになっちゃうんだけど」
街でばったり会ったそのあと、私たちは門市内の喫茶店にいた。静かで、私たち以外にはお店の人しかいないような店だったけれど、私の仕事が仕事なだけに用心しすぎることはない。
でも彼は「大丈夫」と笑って、レモンティーとミルクティーを注文した。いつかの雑談で、私がミルクティーが好きだということを憶えていたようだ。
「ここ、俺と和人の隠れ家みたいなとこでさ。めったに人、来ないから」
奥からマスターらしい人の「おいおい、失礼だな」という声が聞こえてくる。私もそう思う。彼はやっぱりデリカシーがない。
「里実ちゃん、元気だったか? このあいだ、クイズ番組に出てたの見たけど」
「あー、あれ……私、意外と頭良いでしょ」
「いや、里実ちゃんならわかって当然だろ。桜いわく簡単な問題だったらしいからな」
「その言い方だと、流君はわからなかったみたいね?」
「仰る通りで」
相変わらず、こっちの気も知らないで、明るく笑う人だこと。……でも、店のチョイスは褒めてやってもいいか。ミルクティーはものすごく美味しかった。
正直、仕事は大変だ。やりがいはあるし、たくさんの人の笑顔を見るのが好きだから、アイドルになれて良かったとは思っている。でも、疲れてしまって、休みには「瑠月樹里」ではなくただの「三樹里実」になって、ふらりと出かけたくなることだってある。
最初から私を「里実ちゃん」と呼び、私の好きなことと、不本意ながら年齢まで知っていた彼に、私が隠し立てすることは何もない。アイドルスマイルだって、もうつくらなくていい。
ムカついたり呆れたりするけど、なんだかんだいって、私は彼といると気が楽なのだ。
「流君、ここ、和人君との隠れ家だって言ってたよね。私も来ていい?」
「もちろん。な、マスター」
「当然。客が増えるのは良いことだ」
私は「樹里」の私が好きだ。でも、今は「里実」の私も嫌いじゃないなって思うのだ。きっと、流君がそう呼ぶことを選んでくれたあのときから。