礼陣の町は、夏は暑く冬は寒い。山に囲まれているせいで、暑い空気も冷たい風も山を下って流れ込んできてしまい、気温差が出てしまうのだ。そんな季節柄にも対応するのが、商店街に長く店を構える、この水無月呉服店の義務だ。
『今年もショールが売れる季節になったわね。足袋の裏もヒートテック素材になってるし。……去年までなら、和人に命令してどんどん勧めさせたんだけど』
店に立ちながら、美和は品物の動きを見守る。お客の対応は専ら父や母、パートで来てくれている従業員がしていて、この店の一人息子である和人の姿はない。ということは、美和が入る隙もないということだ。美和は和人を通してしか、人間と接することができないのだから。
今日は学校が休みの日ではあるのだが、いよいよをもって受験シーズンが近づいてきた高校三年生の和人には、店に出てくる暇がない。正確には、本人は「気分転換も兼ねて店に立ちたい」と言っているのだが、両親がそれを許さなくなってきた。本気で大学に、それもそこそこに難易度の高い隣県の国立大へ行くと決めたのなら、しっかりと勉強に取り組め。……という父からのお達しが、ついに出てしまったのだ。「店番禁止令」なんて異例だが、店長命令なら仕方がない、と和人が苦笑していたのを、美和は半ば呆れ、半ば残念に思いながら見ていた。
『それが和人の選んだ道なら仕方がないし、私たちが互いに離れる準備をするいい機会でもあるんだけど。……でもやっぱり、ただ店にいるだけっていうのはもどかしいわ。せめて物に触ることができればなあ……』
どうせ誰にも聞こえないとわかっているせいか、美和は独り言が多くなる。いや、時折店を覗いていく同族、つまり鬼たちには聞こえているので笑われるのだが、彼らもまた普通の人間には見えない存在なので、独り言を聞かれたくらいどうということはない。私語はお客にさえ聞こえなければいいのだ、というのは店番としては甘い考えだろうけれど。
そう、美和は鬼である。この町にはどういうわけかそう呼ばれる、頭に二本のつのを持つなどの人間とは異なる特徴を持った人々が暮らしているのだ。ただし、美和はその中でも人鬼という、人間の魂が鬼に成ろうとする過程の、中途半端な存在なのだが。それゆえに制約が多く、今もこうして「もどかしい思い」をしている。真の鬼なら不思議な力を操って人助けをすることもできるし、物に触れたり食事をしたりということも当たり前に可能なのだ。けれども美和はそうではないから、ここに挙げたことのうちの一つもかなわないのである。
美和が人鬼であることで得られたメリットといえば、双子の弟――本人は自分が兄だと思っている――の和人と意思の疎通ができることくらいだろう。本来ならば、「普通の人間」であるところの和人には、この町にいる鬼の姿を見ることができない。鬼はある特別な条件を備えた人間にのみ見える人々なのだ。しかしこれまたどういうわけか、和人は美和の姿だけは見え、話をすることもできるのだった。たぶん、自分たちが同じ胎から産まれた双子であるから、特別にそれが可能になったのだろうと、当人たちは解釈している。――和人は生きた人間として成長し、美和は産まれてすぐに死んだが別のかたちでよみがえり、という違いはあるが、双子であるという事実は変わらない。特例の一つや二つはあってもいいだろう、と勝手に納得しているのだ。
貴重な利点は、これまで和人と美和が実家である水無月呉服店の店番をするにあたって大いに活用されてきた。店の子供のくせに、実のところは人と接することがあまり得意ではない和人が家業の手伝いをするとき、人間には見えないくせに店の仕事が好きな美和は幾度となく、指示と助言を与えていた。こうすることで美和は和人を通じて人間の生活に手を出すことができ、和人は美和のおかげで自分の苦手分野を補うことができる。それがついこのあいだまでの二人の関係だったのだが、そろそろ改めなくてはいけない。時間の経過は否応なしに、変化をもたらすものなのだから。
和人はじきにこの店から、この町から離れてしまう。美和はその前に和人のいない環境に慣れ、和人もまた美和のいない生活を普通のものとしなければならなくなる。今の状況は、その準備なのだ。少なくとも美和はそう思っていた。
だが、そんなときにも「例外」というものはある。この店を訪れるお客の相手は、大抵は和人がいなくとも他の人手で事足りてしまう。けれどもお客の目的そのものに和人が含まれていれば、問題は別だ。美和はそれを即座に察知して、誰よりも早く和人のもとへ行き、それを伝えなければならない。
その「お客」が店に入ろうとしたその時に、美和はもう和人がいる部屋へと向かっていた。
『和人、開けなさい! 海が来たわよ!』
自分で部屋の戸が開けられない美和は、廊下から声を張り上げる。和人にだけ聞こえるその声は、ちゃんと当人の耳に、というよりは頭の中に響いて、戸を開けさせた。
「海? 何だろう、はじめ先生のおつかいかな」
部屋から顔を覗かせた和人は、他の誰にも聞こえないように、心で美和と会話をする。ここにいることが他者に知られていない美和との話は、両親や他のお客にも聞こえてはいけないのだ。それよりなにより、今、部屋には幼馴染である流が来ているのだった。もちろん、一緒に勉強をするためである。彼にもまた、美和の姿も声もとらえられない。
和人は『早く早く』と急かす美和の声を聞きつつ、部屋に振り返る。突然部屋の戸を開けに行った自分を怪訝に思っているであろう幼馴染に、自然に見えるよう笑いかけて言った。
「流、ちょっと休憩しようか。今がちょうどいいタイミングのような気がするんだ」
「うん、俺もちょうどキリのいいところまでできた」
「それは良かった。……じゃ、ちょっと一緒に来てくれる? 店の様子を見たいから」
どうせその「お客」と会えば、少し長めの休憩になる。和人は流を連れて、急いで店に戻ろうとする美和を追いかけた。
水無月呉服店で扱っているのは、呉服に限らない。時代の流れに合わせて少しばかりの洋服も並べているし、町にある学校の制服やそれに付随する商品も置いている。特に制服は極めて大きく重要な収入源なのだった。なにしろ、絶対に必要なものなのだから。
そういうわけで、この店には学生のお客もついている。年度初めの準備時期に限らず、大抵季節の変わり目には、ここを頼ってくるのだ。
「あ、和人さん! こんにちは! あと流さんも」
和人が店を少し覗いただけでその姿を目敏く見つけ、嬉しそうに挨拶をする彼も、その一人。
「いらっしゃい、海」
「いつもながら、俺はついでなんだな」
ふわりと微笑む和人と、苦笑いを浮かべる流、それから定位置である店の隅に立った美和の視線の先にいる少年は、海という名の後輩だ。町の剣道場の息子であり、和人が今年の夏まで所属していた礼陣高校剣道部の一員でもある。小学生の頃から剣道をやっている和人とは長い付き合いであり、嬉しいことにとても慕ってくれている。いうなれば弟のような存在だった。
「こら、和人。手伝いもしないのに店に出てくるんじゃない」
「まあまあ、おじさんが手伝わなくていいって言ったんじゃないですか。それに海だって、和人に会いたくてここに来たんでしょうから。な?」
普段着のまま突然店に出てきた和人を父が咎めると、すかさず流がそれを宥める。さらに海が「八割そのつもりでした」と頷けば、「店番禁止令」の一時解除は完了だ。こればかりは、流達人間でなければできない。和人と美和は同時に胸をなでおろし、味方二人に礼を言った。もちろん美和の分は聞こえないのだが。
海がいるあいだだけ、という条件で、和人と流は店のエプロンをつけて従業員に加わった。美和も店の隅からそっと和人の隣にやってくる。「美和は店に関わりたくて仕方なかったんだろうなあ」と和人は思い、その気持ちに応えるべく、そして店に来てくれた「お客」のために、仕事を始めた。
「改めて、いらっしゃいませ。本日は何をお求めですか? 僕に会いに来てくれたのが八割なら、残りの二割は別の用事だよね。はじめ先生から何かおつかいでも頼まれた?」
相手が気心の知れた後輩なので、口調は砕ける。両親や他の従業員、そして美和もそれを咎めるまでは厳しくはない。他のお客に対してきちんとしていれば許してもらえる。それに「お客」である海のほうも、普段通りの対応を求めているのだから、これはこれで正しいのだ。
「父さんのおつかいじゃないですよ。最近急に冷え込んできたので、コートを新調しに来たんです。あの制服と一緒に並べてあるやつ」
今の時期、学生服とともに売り出しているのが、学生が通学用に好んで着るピーコートだ。駅前の大型店などでも容易に手に入るものを、わざわざこの店に来たということは、やはり海の目的の大部分は和人にあるのだろう。なにしろ、和人が部活を引退してからというもの、同じ学校であるはずなのに顔を合わせる機会は激減してしまった。『海は寂しかったのね』と美和が目を細める。
「コートね。今年は特に温かいのが入ってるよ」
「って、毎年言ってますよね、和人さん。礼高の制服に合うのってどれでしょう?」
『正直なところ、制服に合わせるのなんてうちじゃどれも一緒よ。ただ、海の通学距離と帰着時間を考えると、内側がしっかりしたもののほうがいいわね。朝も夜も冷え込むでしょう。私には冷暖の感覚はわからないけど』
美和がすらすらと述べる言葉を、和人は余計な部分を省いて海に伝える。そして二着ほど選んで流に持たせ、「このあたりかな」と示してみせた。海は少しばかり考えてから、片方を指さす。
「こっち、着てみていいですか?」
「どうぞ。着せてあげようか?」
「いいです、自分でできますから。……もう高校生なので、子供扱いしないでください」
恥ずかしそうに言いながらコートを手にする海を見て、和人はくすりと笑う。ふと考えたことは、美和が誰にも聞こえないことをいいことに、代わりに言った。
『こっちからすれば、いつまでも弟みたいなものなのにね。背は海のほうが、和人より高くなっちゃったけど。……もう、“かずくん”って呼んでくれることもないのかしら』
しみじみとした言葉に、和人は昔を思い出す。そういえば、海が和人を「かずくん」と呼ばなくなったのは、いつからだっただろうか。
この町では多くの子供が、小学三年生からスポーツ少年団に所属したり、他の習い事を始めたりする。もっと早くから始める子ももちろんいるのだが、大々的に新入生の募集が行われるのも、子供達がそういったことに興味を持ち始めるのも、だいたいそのくらいからなのだ。
小学二年生の冬頃には学校側に「募集のお知らせ」が配布され、児童たちに行き渡る。その頃は和人も、たくさんの少年団員募集のプリントに囲まれていた。
「和人は何かやるのか?」
プリントを一枚一枚めくる和人に、隣の席にいた流が尋ねた。
「やりたいんだけど、サッカーも野球もあんまり得意じゃないからなあ……。流は?」
「俺、じいちゃんから習字やれって言われてる。字の上手いやつはモテるらしい」
『へえ、意外。流は何かスポーツをやるものだと思ってた』
さっきから和人の手元を覗き込んで、一緒に「やりたいこと探し」をしていた美和が言う。当然のことながら他の児童や先生には姿が見えないし声も聞こえないのだが、当時は学校にまでついてきて、和人の世話を焼いていたのだった。
「流が習字やるなら、僕もお父さんに頼もうかなあ」
「和人がやりたいならそれでもいいんじゃないか?」
『だめ。和人はもっと動くべきよ。それにたくさんの人とわいわいやって、流がいなくても自分で友達をつくれるようにならないと』
自らを和人の姉と自負する美和は、その頃から和人を多くの人と関わらせようとしていた。対面販売が基本の店の子が、対人関係に消極的でどうするのだと、すでに心配していたのだ。実際、和人が美和の助けなしに友達になれたのは、このときはまだ流だけだった。その流のおかげで友達はさらに増えたのだが、やはり美和としては、和人が自分の力で人間関係を広げていくことを望んでいた。
せっかく何かやりたいと思ったのなら、この機会を利用しない手はない。けれども流にくっついているだけでは、いつまでたっても和人は弱虫のままだ。和人自身もそう思っていて、また特に興味があるというわけでもなかったので、習字はこの時点で選択肢から外した。
そうして一つ一つ案内に目を通していくうち、最後の一枚に目が留まった。美和が目を輝かせながら身を乗りだしてきたから、というのもある。
『心道館剣道少年団だって! なんか強そうでかっこいいんじゃない?!』
美和の希望は和人の希望。いつだってそうで、それが二人の当たり前だった。だからこれこそが「やりたいこと」なのだと、和人は確信した。たしかに、案内に掲載してある竹刀を構えた子供達の写真はかっこよかったし、これを習えば少しは強くなれそうだった。
「……剣道、やろうかな」
「お、心道館? いいよな、かっこいいよな! 俺も習字がなければやりたかったんだよ」
ここの人、みんな強いんだぞ。流のその一言で、和人の心は完全に決まった。さっそくその日のうちに父に頼んで、週末の稽古を見学しにも行った。先生は若く優しそうなのに、竹刀を持つときりりとしてかっこいい。
『和人もあんなふうになれるといいね』
美和がにっこり笑って言い、和人は大きく頷いた。ここの人達のように強くなりたい。弱虫のまま、流の背に隠れたり、美和に叱咤されるばかりでいてはいけない。そう思った和人は、小学三年生の春、心道館に入門した。
特に運動神経が良くなければならないというわけでもなく、しかし礼節はしっかりしている剣道は、和人には合っていた。師範である進道はじめ先生の指導と、毎回付き添ってくれる美和の応援、そして意外にも和人自身にセンスがあったおかげで、上達は早かった。それまで人より弱いという自覚があったせいか、誰よりも努力していたということもあったのだが、とにかく和人の成長ぶりには目を見張るものがあった。
「和人君、ちょっといいかな」
剣道を始めて一年経とうかというある日、和人ははじめ先生に呼び止められた。ちょうど帰ろうとしていたところで、すぐ隣には美和がいた。けれどもやはりその姿は、はじめ先生には見えていなかった。
「帰ろうとしているところで申し訳ないのだけれど、君とどうしても話したいって、うちの子が言うんだ。少し相手をしてくれないかい?」
「先生のお子さんですか?」
はじめ先生に、子供が一人いることは知っていた。ときどき道場を覗いている、小さな子だ。断る理由はないので、和人が頷くと、美和も一緒に待っていてくれた。まもなくして先生が連れてきたその子は、和人をきらきらした目で見上げていた。和人も美和も、この子を一目見て気に入ってしまった。
『可愛い子だね。そういえば名前を知らないけど』
「はじめまして。僕は水無月和人です。君は?」
和人が少し屈みながら尋ねると、その子ははっきりと返した。
「進道海、一年生です。もうすぐ二年生になります。いつも、和人さんすごいなって思って見てました!」
初めて向けられたきらきらした眼差しの正体は、どうやら憧れだったらしい。面食らった和人が返事に困って真っ赤になっていると、美和が『しっかりしなさいよ』と、けれどもこちらも少し焦った様子で言った。そのあいだにも、海は一生懸命話し続ける。
「姿勢がすごくきれいだし、三年生なのにもっと上の人にも勝てるし! 俺、剣道始めたら和人さんみたいになりたいです!」
そんなふうに言われるなんて思ってもみなかったので、どう反応していいのかわからない。先に気を取りなおした美和がそっと和人に耳打ちする。
『とりあえずお礼言いなさい。褒めてもらったんだから』
「あ、ありがとう……。僕、そんなこと生まれて初めて言われたよ」
それが海との出会いだった。「和人さん」なんて呼ばれるのが気恥ずかしくて、もっと楽に呼んでほしいと頼んだら、彼は嬉しそうに「かずくん」と口にしてくれた。
それから以降、和人は海の憧れで居続けようと、より一層稽古に励むようになった。その分だけ強くなり、向けられる憧れと尊敬はさらに増した。まだ稽古に参加できない海は、隙を見ては和人のところへやってきて、色々な話をしてくれた。自分から見た和人がどれだけすごいかということから始まり、学校であったこと、それから。
「かずくん、俺、鬼の子なんです」
あるとき海はぽつりと、そう言った。
「鬼の子」とは、この礼陣の町にいる鬼たちを見ることのできる条件を備えた人間のことだ。片親、もしくは両親を喪った子供が、そうなることが多い。どうやら、鬼がそういった子供の親代わりをしているらしいと言い伝えられている。母親がいない海もまた、条件を満たしていたのだろう。
そのとき、和人の隣にはいつも通りに美和がいた。だからその言葉を聞いたとき、和人は期待したのだ。もしかしたら、海になら美和が見えるかもしれない。美和の存在を認めてくれるかもしれないと。
「じゃあ、鬼が見えるんだね」
「うん、道場にもたくさん来てます。かずくんは普通の人だから、俺の見えるものなんかわからないかもしれませんけど、黙っているのも隠し事をしているみたいでいやなので」
「……じゃあ、あのさ」
『待って』
僕にそっくりな鬼の女の子は、見える? そう尋ねようとしたとき、美和に止められた。首を横に振り、言われてしまう。
『海に私の声が聞こえたことはなさそうだし、目が合ったこともない。確かめても無駄よ』
それは和人にも、薄々わかっていた。でも、今まで気づかないふりをしていただけなのかもしれない。そんなわずかな希望が、和人に初めて、美和を振り切らせた。
「海は、僕とよく似た女の子の姿をした鬼は見たことがある?」
「かずくんに似た、女の子……?」
海は眉を寄せて首を傾げ、それから道場をぐるりと見回した。それだけでもう、答えはわかってしまった。美和はすぐ傍にいるのに、捜すようなそぶりを見せたということは。
「見たことないです。今も、そんな鬼はここにはいません」
認めなければいけないのは、和人のほうだった。美和は自分にしか見えなくて、これからもその存在は秘密にしていかなければならないのだと。そしてこのことが、後に「美和は本当に存在しているのか」という疑念へと繋がっていったのだった。
美和は、鬼を見ることのできるはずの鬼の子にすらも、見えなかった。それでもいいと、当人は平気な顔をしていた。
時が経ち、さらに剣の腕をあげた和人が「心道館最強」などと呼ばれる頃には、美和も一緒になって喜んでいた。
それから何年も経って、今、和人は剣道から離れてしまっている。進道館道場所属していたのは中学三年生までで、高校からは学校の剣道部に入ったがそれもとうに引退した。竹刀を離した手は、この町を離れるための勉強をするのに使っている。それでも海は、こうして会いに来てくれる。まだ和人を慕ってくれている。
そして美和は和人の傍に存在していて、海には見えないというのに、真剣にコートの丈などを確認している。和人にとっては、どちらも同じくらい不思議なことで、とうに当たり前になってしまった光景だ。
『もっと大きいのでもいいかもね。あの小っちゃかった海が、よくぞここまで成長したものだわ』
「やっぱり短いですかね。ここ一年でまた背が伸びたから、着る物もなくて……」
まるで会話をしているかのような、それぞれの台詞。これで海には美和が見えていないというのだから、おかしなものだ。
「こっちがもう少し大きいから、ちょっと試してみて」
「はい。……あ、これなら来年も着られそうです。ありがとうございます、和人さん」
試着していたコートを脱いで、丁寧に抱えてから、海はしっかりと一礼した。けれども頭をあげてから、すぐには会計をせず、じっと和人を見ていた。
「どうしたの、海?」
「……言ったでしょう、ここに来た理由は、和人さんに会うのが八割だって。たまには部でもうちの道場でもいいので、顔出してくださいよ。……春になったら、いなくなっちゃうんですから、かずくん」
懐かしい呼び名が、あの頃よりも低くなった声で聞こえた。美和が言った通り、海は寂しかったのかもしれない。昔に戻りたがるくらいには。
『何か言ってやりなさいよ、かずくん。それができるのは、あんただけよ』
美和はひらひらと手を振って、自分の仕事は終わったとでもいうように、店の隅に戻っていった。それを横目で追ってから、和人はそっと手を伸ばす。今はもう自分のそれより高い位置にある、海の頭をそっと撫でる。
「わかった、時間をつくって行くよ」
今度は「子供扱いしないで」とは言われなかった。
会計を済ませた海が外へ出れば、今日の店番はおしまいだ。和人は流とともにまた受験生に戻らなくてはならず、美和には店を見ているだけの退屈な時間が訪れる。
「和人さん、約束ですからね。正直に言うと、今年の春から、俺はずっと拗ねてたんです。和人さんが黒哉ばっかりかまうのが気に入らなくて」
「はいはい。じゃあ近いうちに、心道館のほうに行くから。それなら文句ない?」
「絶対ですよ。……あ、それと」
店の敷居の外側で立ち止まり、海はそこから、店内を見た。目線はある一点へ向かっている。それに気づいた和人ははっとして、けれども何も言えなかった。
「昔、和人さんが妙なこと言ってたの、思い出しました。和人さんによく似た、女の子の鬼は見えないかって。……見たことはないですけど、最近、和人さんによく似た鬼っぽい気配なら感じるんです。さっきもずっと、店の中にありました」
それだけ言って、海は行ってしまう。和人には人間の姿しか見えない、けれども海にはきっとたくさんの鬼の姿も見えているのであろう、往来の中へ。
「なんだ、そんな話してたのか。そういや、海って鬼の子だもんな」
流が呟く隣で、和人はそっと店の隅を見る。そこにいる目を丸くした美和の表情と、きっと自分は同じ顔をしていた。