彼女が真っ白なドレスを着て、隣に立っている。細身の彼女に、ふわりと広がるドレスはよく似合っていた。彼女はこちらを見て微笑む。そんな表情、ろくに見たこともなかったのに。
それでもタキシードを着た私は嬉しくて、彼女に微笑み返した。
――
という、酷く憂鬱な夢を見てしまった、本日の明け方。

耳慣れたはずのコピー機の稼働音が、妙に頭に響く。絶対に夢見が悪かったせいだと、そのせいで無駄に早起きしてしまって寝不足だからなのだと思いながら、吐き出された印刷物と元原稿を少しばかり乱暴に手にする。
ステープル機能がついたコピー機は便利なもので、印刷前にしっかりと原稿を確認して間違いがないと判断できれば、そのまま会議室の席に置いてもいい資料束が印刷と同時に出来上がってくる。……本当に間違いないんだろうな、これ。私も確認したけれど、今日はちょっと自信がない。だからこそ上司にも見てもらったのだが、あの人も割といいかげんな性格をしているので、少々あやしい。
とにかく、私の午前の仕事は、この午後から使う資料を会議室にセットして、ついでにペットボトルのお茶を一緒に並べれば終わるのだ。そうすれば、昼休みは少し眠れる。余計なことを思い出しさえしなければ。
「篠田さん、会議室に行くならプロジェクターの準備もお願いね」
「はい、わかりました。……全部私かよ」
誰も手伝ってくれる気配はなし。昼休み、もとい睡眠時間が削られることを承知で引き受け、私は今日もせっせと働く。社会人の、その中でも下っ端の宿命だ。
一人で作業をする会議室は静かで、私は資料を置く位置とお茶のラベルの向きを整えることに集中しようとする。けれども何度も頭をよぎるのが、明け方に見たあの夢。なんとも記憶に鮮やかな、真っ白なドレス姿。
着ていたのは大学時代からの友人、うずだ。本名は柚香というのだが、本人がもごもごと自己紹介をしたためにそう聞こえてしまって以来、私はうずと呼んでいる。あまり感情を表に出さないが、なにしろ顔が良く、好き嫌いが激しいくせに来るもの拒まずの姿勢を保っていたので、異性にそれはそれはモテる人物だった。
彼女は現在、私が住む町とは違う場所で、彼氏と暮らしている。ただ、頻繁に喧嘩をしては(というよりもうずが機嫌を損ねては)私の家にやってくる。そして彼氏が非を認めるまで帰らないのだ。大抵は突然のことで、こちらの都合などまるで考えていない。
それでも私が彼女を迷惑だと思えないのは、実を言うと、惚れた弱みである。私も多くの異性と同じで、彼女に惹かれてしまった一人なのだ。同性、だけど。
「でもまさか、あんな夢まで見るとは……
はは、と乾いた笑いが漏れる。どうやら私の叶わぬ恋は、なかなかに重症らしかった。
結婚なんかできるはずない。法律がどうとかではなく、彼女にその気がないからだ。ていうか彼氏持ちだし。よく喧嘩するけど。そこで頼られるのは実は嬉しいけれど。それでもあの夢は、現実になることなどない。実にむなしい夢だった。
「あー……もうそんなのどうでもいいから、プロジェクターの準備……
一人になると独り言が増えてしまう。誰かに聞かれていたら、私の社内での立場は「おかしい人」で確定だ。せっかくこれまで、それなりに仕事ができて、それなりにクールなポーズを保ってきたというのに。
現実と夢想のあいだで、私は内心悶絶している。だいたいが毎日、そんなものなのだ。

結局ほんの少し目を閉じていただけの昼休みが終わると、午後の仕事が始まる。しばらくして会議が終わり、上司たちが事務室に戻ってくる。文句を言われないところをみると、多分私の仕事はきちんとクリアできていたのだろう。雑用ではあるが、大事なことだ。
いつも通りに時間が過ぎて、定時を迎えると、よほどのことがない限りはみんな帰り支度を始める。この国の多くの企業と比べると、ここは無駄な残業の少ない、良い職場だと思う。外から見たら、時間外の融通が利かない会社だと思われているのかもしれないけれど。
私もその波に紛れて、「お先に失礼します」と事務室を出る。夕飯の買い物をして帰らなければならないけれど、スーパーのセールを狙うか、それとも商店街のおまけに期待するか。
うずなら迷わずスーパーを選ぶだろう。商店街の人々は、良くも悪くも積極的に話しかけてくる人ばかりだ。私は平気だし、むしろ好きなのだけれど、他人に声をかけられることを好まないうずには向いていないだろう。
――
ほら、また。気が付けば彼女のことを考えている。脳裏には白いドレス。
ああ、だから、無理なんだってば。そんなことはありえないし、考えてはいけない。万が一にもこの恋が本人に知れようものなら、「気持ち悪い」と一蹴される。
来るもの拒まずではあるが、自分から行くということはあまりない彼女のことだ。きっともう、彼氏と喧嘩したとしても、うちには来てくれなくなる。私に残された最後の希望が失われてしまう。それだけは絶対に避けなければ。多分、私が死にたくなる。
今だって十分、死んでしまいたいのだ。どうして私は、彼女を好きになってしまったのだろうか。ただの同級生だったはずなのに、ここまで惹かれてしまったのは何故なのだろうか。
彼女が誰と付き合おうとも、彼氏と同棲していようとも、最後に縋ってもらえる場所であるというところだけは、譲りたくないのだ。
……むなしすぎて、お腹減ってきたなあ」
でも台所に立つ気力はない。そうしたらきっと、意外と料理上手なうずのことを想ってしまう。もうどこかで食べていくか、それとも出来合いのものを買っていくか。それなら商店街に行ったほうが、美味しいものが食べられそうだ。この町の商店街は、幸いにも飲食物のレベルが高いから。
どうせならお酒でも飲んで、ぱーっと忘れてしまおうか。そう思って、イタリアンの店に入る。ここにはお気に入りのワインがあって、前回来たときにとうとうボトルキープを頼んでしまったのだ。利用しないともったいない。
馴染みになった店員に挨拶をしながらカウンター席につくと、後ろにいた三人グループの女の子たちの声が聞こえた。多分女子大生だ。この町には大きな女子校があるから。
「卒業したら結婚するんだっけ。いいよねえ、永久就職の道があって」
「ばか、わたしも働くに決まってるでしょ。ちゃんと就職活動はしますー」
うわ、今の私には地雷原を歩くような会話内容だった。それにしても、今の子は考えることが早いというか。未だに彼氏すら作れない私とは大違いだ。もっとも私の場合は、片思いに縋りついているから他に目を向けようとしないのも原因なのだけど。
――
違う、違う。うずのことをとりあえず忘れようと思って来たんだ。私はメニューから一人分のマルゲリータを選び、キープしておいたワインと一緒に注文した。今日はとことん飲んでやるんだから。
「あ、あのお姉さん、前も見た。今日、なんか荒れてる?」
「そういうこと言っちゃ駄目よ」
そこの女子大生、それは私のことか。あなたにも、そのうちわかる日がくるんじゃないの。

結局、飲みまくったけれど酔えない体質の私は、まともな足取りとはっきりした意識で、住んでいる古いアパートに帰ってきた。ドアの前にうずがいないかどうか、ちょっとだけ期待し、ちょっとだけ恐れながら。
でも、今日はいなかった。どうやら彼氏とは今のところうまくやっているらしい。安心していいのか、残念なのか。私にはよくわからない。
うずが幸せならそれでいいよ、なんてかっこいいことは、私には言えない。好きです、なんて告白することもできない。何にもできないまま、私はまた明日からの日々を送るのだ。
「今夜は夢見が悪くないといいんだけど」
シャワーを浴びながら吐いた深い溜息は、湯気に溶けて消えた。