山に囲まれた田舎町に、広い敷地をとって構えられた校舎。そこには教員や校務員を除けば女子しかいない。モットーは清廉で理知的な女性の教育だ。今時清廉なんて流行らないかもしれないが、一応はそういうことになっている。――私立北市女学院。幼稚舎から大学までを有する、規模の大きな女子校には、他の多くの若者がそうであるように、様々な事情を抱えた少女たちがいる。
「野下さん、お話いいかしら」
高等部二年生担当の教員に呼び止められ、桜は「はい」と振り向いた。幼い頃からずっとこの学校で過ごし、模範的な生徒として振る舞っている桜は、こうして「先生からのお話」を受けることが多い。大抵は生徒会役員として、あるいはその他の仕事を任されるか、問題があると判断された生徒に関する相談をされる。桜当人は不本意なのだが、どうもそういったことは「野下さんに任せれば大丈夫」という認識があるらしい。
内心うんざりしながら、桜は教員の話をおとなしく聞く。こんなとき、兄のようにもっとはっきりとものが言えたらいいのにと思う。
「今年の一年生のことなんだけど、ちょっと大変な子がいてね。野下さんに気にかけておいてほしくて」
ほら、きた。二学年に進級して早々に、厄介事を押し付けられることになるらしい。けれども桜には断れるような明確な理由を述べることができないので、とりあえずは話を最後まで聞くことにする。
「どんな子なんですか? 高等部から入ったんですよね」
中等部以前からこの学校に在籍している人物のことならば、もっと早くに相談を持ち掛けられるはずだ。後輩に、そんなに問題行動のある生徒がいるという話も聞かない。いったい今度はどんな子の「世話」を押し付けられるのだろう。
しかし「世話」を任される生徒の多くは、桜から見ればごく普通の女の子だったりして、わざわざこちらから何か特別な指導をすることはない。せいぜい話はしましたという事実をつくるくらいだ。
そのことがきっかけで、桜に憧れるようになる生徒もいるが、それはそれ。
だが今回は、今までとは少々事情が異なるようだった。
「学校にね、あまり通えないらしいの。うちはそういう子でもきちんと学べるように、受け入れ態勢を整えているつもりだけれど、直接通うことが難しいといろいろ不便もあるでしょう」
「通えない……?」
そんな生徒は初めてだ。この学校に問題があったのだろうか。それとも、家の問題だろうか。何にせよ、桜にできることは限られているどころかないにも等しいのではないか。学校に来られないのなら、話をすることもできないのでは。
「私に何ができるんでしょう?」
「勉強についていけるよう、教えてあげて。学校に来たときは、馴染めるようについていてあげてね」
勉強を教えるくらいはともかくとして、学年が違うのに、ついていてあげるなんてことができるのだろうか。だいたいにして、本人がそれを望むのだろうか。疑問はあれど、まずはその生徒に会ってみないことには話にならない。今日は、学校に来ているのだろうか。
「彼女と会うことはできますか?」
「ええ、今日は保健室にいるわ。これから一緒に行ってくれる?」
「保健室……」
告げられた場所を考えると、どうも学校や家というより、当人が問題を抱えているようだ。教員に連れられて高等部の保健室に向かった桜は、その人物について思いを巡らせる。
今となってはすっかり忘れていたが、かつては桜にも、頻繁に保健室に行っていた頃があった。幼稚舎に通っていたときから、初等部の低学年頃まで、桜は保健室の常連だったのだ。そもそも北市女学院に入ることになった理由の一つが、両親がそうなることを予想していたためなのだ。
「失礼します。光井さん、生徒会副会長の野下さんを連れてきましたよ」
教員が保健室の戸を開け、中にいた生徒に声をかける。少し癖のあるセミロングの髪を揺らし、彼女はこちらを振り返った。少し青白い顔をしているが、黒い大きな瞳は可愛らしい。桜を見止めると座っていたソファから立ち上がり、丁寧に頭を下げた。桜も反射的に、同じように返す。
「はじめまして、野下先輩。一年三組、光井雪です」
顔をあげた彼女が名乗った。みついゆき、と頭の中で繰り返しながら、桜も自己紹介をする。
「二年一組、野下桜です。……ええと、光井さん。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ。私の面倒を見てくださるということで、ご迷惑をおかけしてしまうかと思いますが……」
大人しくて、しおらしい。それが桜の、雪に対する印象だった。相手が彼女にとっての先輩だからだろうか、どこか萎縮しているようにも感じる。教員が「あとはよろしくね」と去って行ってしまって、二人きりになってから、桜は雪に座るよう勧めた。
「具合が良くないの? 学校にあまり来られないと聞いたけれど」
かつて自分がそうだったためか、桜は自分でも驚くほどストレートに尋ねた。けれども雪は嫌な顔一つせずに、素直に頷いた。
「昔から病気がちだったんですけど、最近になってさらに悪くなったみたいで……。高校に行かずに療養に専念するって話も出ていたんですけど、私がどうしても勉強したくて。無理言って、北市女に来ちゃいました」
ここなら入院しながらでも、試験で一定以上の成績をあげれば単位が取れると聞いたので。雪は弱々しそうな見た目と声に似合わず、はっきりと自分の希望を口にした。それだけではない。北市女学院に入学するには、相応の学力が必要だ。「病気がち」でありながら、勉強がしたいという気持ちでここに来た彼女に、エスカレーター式に高等部まで進んできた桜は感心した。
「あなた、頭が良いのね」
「勉強と読書しか、できることがなかったんです。でも、野下先輩こそ優秀なんですよね。先生から聞きました」
「先生が何て言ったか知らないけれど、私だって光井さんと同じだったのよ。小さい頃は病弱で、ほとんど保健室登校だったし、勉強と読書しかすることがなかったの。おかげさまで、今はそこそこ丈夫になって、生徒会役員なんかやっているけどね」
桜が北市女学院に入ることになったのは、幼い頃から体が弱く、対応と設備に定評のあるところで生活をさせたいと両親が考えたからだ。幸いにして桜はよくできた子供で、幼稚舎のテストも難なくクリアできた。桜からすれば退屈な日々も、親が子を思っての結果、たまたまそうなっただけなのだ。
「光井さんは自分で勉強しようと思ってきたんだから、私よりずっと偉いわ。でも、学校には……」
「はい。またすぐに入院しなくちゃならないので、明日からしばらくは来られないかと。それで先生に相談したら、野下先輩が勉強を教えてくれるし、学校に来たときも独りぼっちにならないようにしてくれるって聞いたんです。……でも、そんな大変なこと、正直頼めません。先輩、忙しいでしょうし」
雪自身も、無理がある提案であることはわかっているようだった。桜もどうすればいいのかわからない。とりあえずは連絡先を交換し、入院先が中央地区にある礼陣病院であることを教えてもらって、これからのことを一緒に考えることにした。
家に帰ってきた桜は、飼い猫を撫でながら雪のことを思っていた。これまでで一番大変な案件だが、一番助けになりたいと思うことでもある。雪のためにできることなら、なんでもしたい。彼女を独りぼっちになんか絶対にさせないし、勉強もちゃんとついていけるようにしてあげたい。もっとも、勉強については彼女の場合、自習で問題ないかもしれないが。
「どうしたらいいだろうね、トラ。頻繁にお見舞いに行くのも、難しいし迷惑かもしれないよね。光井さんが卒業まで、北市女学院の生徒として平穏に過ごせたらいいのだけど」
せっかくやりたいことをもって、同じ学校に来てくれたのだ。雪のために、桜ができることはなんだろう。彼女が高校生活をあとで振り返って「楽しかった」と思えるようにするには、何が必要なのだろう。
こんなふうに悩んだとき、桜には相談できる相手がいる。携帯電話を手にすると、ぽちぽちとメールを打ちだす。送信してからしばらくすると、お気に入りの音楽が着信を告げた。
「どれどれ……亜子ちゃんの考えはどうかな?」
他校に通う、親友の亜子。兄が引き合わせてくれた、何でも正直に話せる貴重な存在。今回のことも、彼女にメールで伝えてみた。きっといいアドバイスが、あるいは桜の心を和ませてくれるような一言が返って来ることを信じて。
[学校に来られない子を助けるのは難しいかもね。桜ちゃんは看護師さんとかじゃないんだし。でも、良い子と知り合えたのは良かったと思うよ。わたしは何も思いつけなかったけど、手伝えることは何でもするからね!]
明確な助言はない。けれども、桜が一人で悩まなくてもいいことはわかった。何があっても、亜子は亜子のできることで、桜を助けてくれるのだろう。
「亜子ちゃんのメールがあるだけで、私は幸せだね、トラ。……私も、光井さんにとってこういう存在になれたら良いんだけど」
返事をするように、飼い猫が「にゃあ」と鳴いた。ごろごろと喉を鳴らして、まるで桜を励ましてくれているようだ。拾ったときは子猫だったのに、六年も経てば猫のほうが大人だ。
「うん、頑張るよ。光井さんともっと仲良くなりたい。まずはそこからだね」
人と仲良くなる方法なら、それが得意な人に訊いてみればいい。桜は猫と一緒に部屋を出ると、別の部屋の戸を叩いた。
「お兄ちゃん、暇?」
「どうした? 入ってきていいぞ」
許可を得たので、部屋の戸を開ける。先に猫が入っていったので、追いかけるようにして桜もそこに足を踏み入れた。色々なものが雑多に置いてある兄の部屋で、空いているところを見つけて猫とともに座る。
兄の流は、机の上にノートと参考書を広げていた。課題をやっていたらしい。
「なによ、勉強中なら邪魔しなかったのに」
「ちょうど行き詰ってたから、桜が来てくれて助かったよ。で、何かあったか?」
流の課題は、いつも行き詰っている。桜と違って、勉強はあまり得意ではないという。それは単に本気を出していないからではないのかと桜は疑っているのだが。
それはそうとして、雪のことを相談してみよう。亜子や猫に励ましてもらってから流に話をするのは、よくあることだ。
桜は今日のできごとを、雪に出会ったところから話し始めた。そして彼女のために何ができるかというところまで聞いてもらって、流の返事を待った。
「……できること、ねえ。話を聞く限り、病気のことさえなければ自分でどうにかしようとしそうなんだよな、その子」
「そうなの。私じゃどうにもできないんだけど、でも、助けたい。必要なら、頼られること、全然迷惑なんかじゃないよって、むしろ嬉しいんだって、伝えたい」
明日からまた会えなくなるんだけど、と呟くと、本当にどうしていいのかわからなくなってしまう。勉強を教えるにしたって、どうやって。
兄妹二人でしばらく唸っていると、流の携帯電話に着信があった。桜と同じように、お気に入りの曲を特に仲の良い人からの着信音に設定している流は、それを聴くだけで誰からのものからなのかわかる。桜も聴き慣れた曲なので、「和人さん?」と反射的に尋ねた。
「うん、課題でわかんないところ教えてもらおうと思って。……あー、桜。俺、今いいこと思いついた」
メールを読みながら、流は困ったような、でもどこか楽しそうな、妙な表情をする。桜は首を傾げて、続きを待った。
「和人からの返事。『そこ一年生のときにもうやってるから、桜ちゃんにノート見せてもらえば?』だってさ。桜のノート、すごく綺麗にまとめてあるよな。北市女の授業の進め方って、毎年ほぼ一定なんだろ? お見舞いついでに、進度に合わせて去年のノートを貸せばいい」
それなら桜が忙しくても、合間を見てできるんじゃないか。それが流の提案だった。
「ノートに付箋貼って、メッセージとか書いておいたらもっといいと思うぞ。後輩と楽しいやりとりをするといい」
「そっか、ノートか……うん、やってみる。その前にお兄ちゃんが必要なのかな?」
「そうだな。頼む、見せてくれ」
助けられる。伝えられる。方法はちゃんとあった。桜はさっそく去年のノートを取り出すと、まずは流に見せて、そのあいだに可愛い付箋に短いメッセージを書いた。返ってきたノートにそれを貼りつければ、準備はもうできてしまった。
「お兄ちゃん。私、光井さんと仲良くなれるかな。あの子の先輩として、友達として、何の気兼ねもなく頼ってもらえるようになれるかな」
「なれるよ。桜は俺の妹だからな!」
礼陣の町の名物男のお墨付きなら、きっと大丈夫だ。ゆっくりでいい。縁があって出会えた可愛い後輩と、仲良くなりたい。もっと彼女に、笑ってほしい。桜はノートを抱きしめながら、そう思ったのだった。
翌日、桜は雪が入院しているという礼陣病院を訪ねた。行ってもいいのかどうかは、事前にメールで確認しておいた。検査の時間がおしていなければ、会えるはずだ。
病室の戸をそっと開けると、すぐに雪の姿を見つけることができた。本を読んでいたらしく、体を起こしている。
「光井さん、こんにちは」
「野下先輩! 来てくれてありがとうございます。あの、忙しいのにすみません」
まだ桜に慣れていない彼女は、申しわけなさそうな笑みを浮かべる。桜は首を横に振り、「桜でいいから」と言った。
「私も雪ちゃんって呼んでいいかな。実を言うと、私って友達そんなにいなくて、仲のいい後輩とか憧れてたのよ。雪ちゃんがそうなってくれると嬉しいなって」
「わ、私で良ければ! ……桜先輩、かあ。私も仲の良い先輩って憧れだったんです」
透けてしまいそうに白い頬が、少し赤く染まる。可愛いな、と思いながら、桜は持ってきたノートを差し出した。
「それじゃ、これ。私が去年とっておいたノートなんだけど、もしかしたら雪ちゃんには物足りないかも。もっと勉強したいと思ったら、いつでも相談して。おすすめの参考書とか持って来るから」
「ありがとうございます! 見てもいいですか? ……わあ、見やすい! ものすごく勉強の意欲が湧いてきましたよ!」
ノートだけで、こんなに喜ばれるとは。それに、雪は本当に勉強が好きなのだ。ノートを愛しげに撫でて、付けられた付箋に気がつくと目を細める。そして桜に、何度も「ありがとうございます」を言った。
これだけのことで彼女が、心だけでも元気になれるのなら、何度だってノートを届けに来よう。もしもわからないことがあったら、喜んで教えに来よう。学校でのことだって、行ける時に話題に遅れないよう、細かに伝えよう。そして雪が話したいことは、何だって聴こう。
この縁を、大切にしていこう。
それから一年と少しが経った頃、桜は悩んだ末に、自分でノートを届けることを控えるようにした。代わりにノートを届けてくれる人物が現れたからだ。
「それじゃ亜子ちゃん。このノート、日暮君に渡してね」
「了解。……それにしても、一年目は勉強と学校生活を、二年目は恋を応援するなんて。桜ちゃんは雪ちゃんが本当に可愛いんだね」
雪に、同い年の彼氏ができた。だから桜は自分が身を引くことを決めて、雪が好きな人といられるようにした。少し寂しいが、それがきっと雪のためなのだ。
そう思っていたのだが、ノートを受け取った亜子――雪の彼氏というのは、亜子の後輩だった――が、笑みを浮かべながら言った。
「でも、たまに雪ちゃんに会いに行ったらいいよ。黒哉から聞いたんだけど、雪ちゃん、桜ちゃんに会いたがってるんだって」
「学校で会えるし、と思って遠慮してたんだけど」
「それだけじゃ足りないってことでしょ。雪ちゃんも、桜ちゃんが好きなんだよ」
出会ってから一年と少し。桜の望みは、いつのまにか叶っていた。それが嬉しくて、桜は亜子を引き留め、鞄からお気に入りの可愛い付箋を取り出す。そしてノートを一度引き取り、急いで書きこんだ付箋を貼ると、「よろしく」と言ってまた渡した。
「桜ちゃんも、かなり雪ちゃんのこと好きなんだからさ。我慢しなくていいのに」
「うん。もう我慢しない。そういうことを付箋に書いたの」
また行くから、待っててね。
その一言を、近く実行しよう。