卒業式が近い。三年生は自由登校になっている。
生徒会役員の引継ぎも完了していて、学校にはもうほとんど用がない。
流はとっくに進路が決まっているのだから、なおさら。
「僕が学校に来てるからって、ついてこなくてもいいのに」
去年の春からすっかり僕らの溜まり場となってしまった屋上。
僕はそこで、流にそんな冗談を言った。
「和人と同じ場所にいたいから、ついて来てるんだけどな」
流は真面目な顔でそう返した。
小学校からの付き合いだった僕達は、大学へ進学する段階になってとうとう離れることになった。
流は近所の公立へ、僕は県外の国立へ。
もっとも僕の入試はこれから――来週に控えていた――なのだが、よほどのことが無い限りは落ちないだろう。
僕達がこうして一緒にいられる時間は、残り僅かだった。
「今のうちに和人分を補給しておきたいんだ」
「何それ」
実際、僕も流と一緒に過ごすことで受験のストレスを解消できていた。
流と離れてしまったら、こんな風に疲れを取ることもできなくなるんだろう。
自分で選んだ進路とはいえ、寂しい。
僕も「流分」を補給しておかなきゃな、と思っていると。
「…あ」
彼の鞄からはみ出している封筒が目に入った。
「流、またラブレター貰ったんだ」
「え」
女の子が好むような、可愛らしい絵柄が入っている。
流は女の子に人気があって、よくこういうものを貰っている。だから僕も見慣れてしまった。
だけど、流が女の子と付き合っていたことは一度しかない。それも小学生の時だ。
その子に愛想を尽かされてからは、流は交際の申し込みを全て断っていた。
「まだ開けてないから、ラブレターかどうかなんてわかんないぞ」
今回もこんなことを言っているから、多分付き合わないんだろう。
流を急かして開封させると、やっぱり中身は恋心が綴られた便箋。でも流は困った顔をして、それを鞄に押し込んだ。
「そんなことして。また女の子が泣くよ」
「泣かれても、付き合えないものは仕方が無いからなぁ…」
どうして流が女の子と付き合わなくなったのか、その原因の一端は僕にある。
昔愛想をつかされたのは、流が女の子との時間よりも僕と遊ぶことを優先していたからだ。
おかげで僕がどんなに睨まれたことか。
今でもそうだ。流の一番近くにいる僕が、流宛のラブレターを預かることは珍しくない。
だけど必ず返事が「ごめん」だから、僕が何か言い含めたんじゃないかと疑われる。
彼の親友をしていて唯一損をしているなと思うのは、そういう時だ。
「僕、もういなくなるんだよ。彼女作っても問題ないと思うけど」
「何だよ、問題ないって」
「僕に時間を割かなくてよくなるんだから、昔みたいなことにはならないよ」
僕がいなくなることは、女の子たちにとっても、流にとってもチャンスなんじゃないだろうか。
もう僕という邪魔者は消えるんだから、自由に恋愛できると思う。
そうして流はやっと僕から解放されると考えていたのだが。
「昔?何が?」
流はそれを分かっていなかった。別にそれを意識していたというわけではないらしい。
「だから、僕と遊んでた所為で彼女と別れたこと」
「そんなことあったっけ」
完全に忘却しているらしい。あの子、可哀想だな。
あのことが関係ないなら、どうして流は彼女を作らないんだろう。
「それが原因じゃないなら、どうして女の子と付き合わないの?」
「どうしてって…お前の所為だよ」
昔のことは関係ないのに、僕の所為。
勝手に責任を押し付けられては納得できない。
「どうして僕の所為になるの。告白されてるのは流なんだから、僕は関係ないよ」
「あるんだよ!」
突然声を荒げる。こんなことは滅多にないから、吃驚した。
僕はそんなに悪いことをしたんだろうか。流を怒らせるようなことを、知らず知らずのうちにしていたんだろうか。
これまでのことを思い返そうとする。でも流と過ごした時間は膨大すぎて、何が原因だったのかがわからない。
「僕が何したんだよ」
素直に聞いてみた。もっと怒るかもしれないのは覚悟していた。
けれども、流はもう怒鳴らなかった。そのかわり僕から顔を逸らし、黙り込んでしまった。
「…言ってくれないとわからないよ」
「言っていいのか?」
どうして訊き返すんだろう。言ってよ。
いつもの流らしくない態度に、僕はきっとこれまでで一番戸惑っていた。
「言ってくれないと、気になって受験できない」
ずるい言い方だとわかっている。誰よりも僕の受験を応援してくれている人にこんなことを言うなんて、脅迫にも等しい。
そうして無理やり聞き出したことを、僕は後悔することになる。だって、余計に勉強が手につかなくなるような答えだったんだから。
「…好きな奴、いるんだよ」
「なんだ、そんなこと。じゃあ早くその人と付き合えばいいじゃない」
「じゃあ付き合ってくれよ」
言う相手を間違ったのか、それとも伝えに行くのに付き合って欲しいということなのか。
流が意図するところは、僕が考えたことのどちらでもなかった。
「和人が好きだから、俺は誰とも付き合わなかったんだよ!」
待って、流。それは僕の名前だよ。誰かと間違ってるんじゃない?
危うく、そう言ってしまうところだった。
その前に流の顔が真っ赤になっていることに気づいて、僕は言葉を失った。
流が女の子と付き合わなかったのは、確かに僕の所為だった。
原因の一端どころか、全てが僕にかかっていたんだ。
「変だと思うだろ、俺のこと」
俯いたまま、流が呟く。
世の中に同性愛者なんて数え切れないほどいるんだろうけど、まさか親友がそうだとは思っていなかった。
しかも相手が僕だなんて、想像もつかなかった。
だから素直に頷いた。
「変な奴と一緒にいたくないよな。ごめんな、和人」
珍しく、そう、本当に数年に一度あるかないかというほど珍しく、流は弱気だった。
いつも明るくて楽天家の流がこんなにマイナス思考になれるなんて。
僕はそれほどまでに、流にとって大きな存在になっていたのか。
「…一緒には、いたいよ」
「気を遣わなくていいんだぞ。こんなの近くにいたら気持ち悪いだろうし」
「気を遣ってなんかない」
進学のために仕方なく離れることになったけれど、それさえなければずっと一緒にいたいと思っていた。
だって、僕らは幼馴染で親友同士なんだから。
たとえ流が僕をそう見ていなかったとしても、それが好意の範疇なら何も問題はないじゃないか。
ただ、僕がその気持ちに応えられるかどうかはまだ分からない。
突然のことで、まだ混乱しているんだ。
そんなことを、僕は一気に捲し立てた。流は俯いたまま、動かなかった。
「流、君は僕とどうなりたい?」
試しに訊いてみた。すぐに答えてくれるとは思っていなかった。
流はフェンスにもたれて、暫く呻いた後、
「恋愛の相手として、付き合いたい」
かろうじて聞き取れるくらいの声で、そう言った。
これだけのことを口にするのに、きっと僕が想像するだけじゃ足りないくらいの勇気を必要としたんだろう。
言葉にすれば数秒もかからないようなことを、誰にも話せず悩んでいたんだろう。
僕は親友のくせに、ずっと彼の傍にいたくせに、それに気付かなかった。
「…ごめん、流」
「あぁ、今のは忘れてくれ。お前だってゲイにはなりたくないよな」
「そうじゃなくて、気付かなかったことに謝ってるんだよ」
「気付いてて普通に接してたんだとしたら、和人はすごく人間出来てると思う」
そうじゃなくても、僕は全然できた人なんかじゃない。
親友が苦しんでいたことを知らなかったんだから。
「もうすぐ、僕は遠くに行くよ」
「あぁ」
「それで流は耐えられる?」
「寂しいけど仕方ないだろ。和人の進路だし、絶対行けるって俺も信じてる」
ほら、君のほうがよっぽど人間出来てるよ。
そんな人に想ってもらえるんだから、僕は幸せなんだ、きっと。
「遠距離でもいいなら、付き合ってもいいよ」
まだそれがどんな風に幸せなのか、よくわからない。
だから経験してみてもいいんじゃないかって思った。
僕の考えは、ずっと悩んできた流にはとても失礼かもしれない。
「本当に?」
「うん」
失礼なはずなのに…どうして君は、そんな風に笑うんだろう。
昔から変わらない、太陽みたいな笑顔。
さっきとはまるで別人みたいだよ。
「和人、好きだ!」
「うん」
「大好きだ!」
「うん」
抱きついた君は子供みたいだった。その瞬間から僕達は恋人になった。
まだ僕に恋心はなかったけれど。
試験が終わってから、あの問題はこうだったとか、あれはああいう風に解くべきだったとか、そういうことを考える。
あれから今日まで、流とのことを後から思い出しては勉強する手が止まっていた。
やっぱり試験前に聞き出すべきじゃなかったかな、とほんの少し後悔した。
「あ」
受験のために宿泊しているホテルで、携帯電話の着信をチェックする。
何通かのメールの中に、流からのものもあった。
『おつかれさん。どうだった?』
流の所為であんまりできなかった、と意地悪を返してやろうか。
いや、今なら本当にへこんでしまいそうだからやめておこう。
問題ない、とだけ打って返信した。
付き合い始めても、流の行動はあまり変わらなかった。
僕も態度を変えたわけではないし、きっとこれが僕達の一番いい付き合い方なんだろうなと思っている。
変化といえば、流はよく僕に「好きだ」と言ってくるようになったことくらい。
僕が地元を離れるまでの間に、何度言われるだろう。
「あ、来た」
流からさらに返信。携帯電話の画面に表示される文字を、ゆっくりと読む。
『だよな。和人なら簡単にできただろ。』
簡単でもなかったけど。でも流は僕が絶対に受かるって信じてくれている。
『帰ってきたら頑張ったで賞としてハグしてやるからな!』
ははは、何それ。
『ていうか、俺が抱きしめたいだけなんだけど。いい?』
…うわぁ。
この前は許可も何も無かったのに。なんだか流がかわいく思えてきた。
「流は本当に僕が好きなんだ…」
声に出してみたら、恥ずかしくなった。
メールは一言だけ返して、携帯電話をベッドに放り投げる。
ふと鏡を見ると、映った僕の顔が赤く染まっていた。
これからどうなるんだろう、僕達。