宮澤は誰かに恋心を抱くことなんかないんだろうな、と勝手に思っていた。
本当に勝手だった。
「え、水無月?それはないだろ」
「だって水無月君がいる時の宮澤さん、いつもと笑い方違うよ」
廿日がいうような変化は俺にはわからない。
いつもの宮澤が、いつもと同じように水無月と会話をしているようにしか見えない。
冷めていて、自分の気に入った人間としか付き合わない宮澤。

その彼女がどうして誰とでも同じように接する水無月を好きになったりするものか。
「たけっちさぁ、本当にわからないの?」
それはいつも俺が廿日に課題を教えている時の台詞だ。こんなことで立場が逆転するなんて思わなかった。
「ちゃっきーだって気付いてたのに。たけっちってば心底鈍いんだ」
「うるさい。でも茶木が言うなら本当か
あたしの言うことは信じられないっての、と喚く廿日を無視して、もう一度宮澤へ視線を向ける。
変わらないと思うけどな。あの上品な笑い方は、俺といる時と同じように見える。
水無月はどう思ってるんだろう。

宮澤に気に入られてること、知ってるんだろうか。
「廿日」
「何」
「水無月はもう付き合ってる奴がいるって知ってるか?」
「あ、やっぱりそうなんだ。何となくそんな気はしてた」
この女、勉強はあまりできないがそういうところは鋭いのか。茶木とよく似ている。
「じゃあ宮澤さん、失恋だねぇ
呟いた表情は、自分のことのようにがっかりしたもの。
俺には全部理解できない。

水無月に貸している本を取りに行くついでに、宮澤について訊いてみるか。

そう考えて段取りを決めていると、いつの間にか水無月の住むアパートの前だった。
通いなれた部屋の呼び鈴を押すと、すぐに水無月が出てきた。
「あ、武池君だ」
確認せずに開けたのか、無用心だな。
「本」
「うん、返すね。時間あるなら晩御飯食べていきなよ」
水無月の作る飯があまり美味いものではないことは知っている。

でも自分の食費が浮くことを考えれば、ここで夕食をとっていくことは得ではある。
ここは相変わらずきちんと片付いている。水無月は几帳面だ。
「武池君、今日僕と宮澤さんが話してるのずっと見てたよね」
それによく人に気がつく。

俺は頷いて、すぐに本題に入った。
「宮澤がお前のこと好きらしい」
「そうなんだ」
「なんとも思わないのか?」
「嬉しいよ」
手を動かしながら、感情のまるでこもっていない声を返してくる。
俺は人とにこにこしながら会話している水無月よりも、この無感情な水無月が好きだ。
「宮澤が付き合ってくれって言ったら付き合う?」
「それは謝るしかないかな。僕は一応相手がいるし」
「でも相手って」
「武池君、お皿」
最後まで人の話を頷きながら聞いている水無月よりも、こうして言葉を遮ってごまかす水無月の方が好きだ。
こういう彼を知ると、いつもの人当たりのよい彼は相当な役者なのだと思うようになる。

俺にとっては今ここにいる彼が本当の水無月。
「武池君、氷をさ」
「うん」
「水溜りに薄くはった氷を踏んで壊したことある?」
「憶えている限りでは、そんな下らないことはしてない」
わけのわからない質問に答えながら、皿を並べた。

水無月の料理は見た目には良いのに、中身がそれをぶち壊す。

せっかく綺麗にはった氷をわざわざ壊して泥水に戻すように。
それは言い過ぎかもしれないが、水無月の言わんとしている事はおそらくこういうことだ。
「宮澤さんが僕に好意を持っていること、僕に勝手に話しちゃだめだよ。

武池君はそういうところ直しなよ」
つまりは余計なことだと、そう言いたいのだ。
でも面白いんだよね、氷踏み」
毎度おなじみの酷く薄い味噌汁を運びながら、水無月は呟いた。

そう、氷踏みはきっと面白い。
「宮澤、水無月のどこを気に入ったの」
何で?」
「廿日が、宮澤は水無月に恋してるんじゃないかって。

恋と友人への好意の違いを性欲の有無と言い切った君が、まさか恋なんてするはずないと思っていたけれど」
「えぇ、だからこれは恋じゃないわね」
小気味よい感触、音。汚れていく水溜り。
「じゃあ何」
「彼、頭が良いから。私の問いに的確な答えを返してくれる。

馬鹿な人達よりは付き合うに値する人だと思ってるわ」
「それだけ?」
「それだけよ」
そのイメージを壊して、かき混ぜてやりたい。

「的確な答え」は演技なんだって思い知れば、宮澤はどんな表情をするだろう。
「水無月のこと、詳しく知りたい?」
「自分で見きわめるから結構よ」
そうして彼女はもっと深みに嵌っていく。
いつか壊し甲斐のある美しい氷になったら、俺は。