娘が夜になっても帰ってこない。部活はとうに終わったというし、塾の自習室にも来ていないそうだ。親しい友達の家にもおそらくはいない。おそらく、というのは、娘の友人関係をいちいち把握していなかったからだ。親しいとわかっている子も、連絡先を知らなかったりする。
携帯端末を持たせてから、娘はそれを使って友人とやりとりをするようになり、親に他者との関係をオープンにすることがなくなった。それはそれでいい。そういう年頃なのだし、親が口出ししすぎるのもよくないと思っている。母親である私自身が、かつて父や祖母からの干渉に嫌気がさしていた。母とは、それなりに良い距離を保っていたと思うけれど。自分もそうできているかは、よくわからない。
でも、もう少し気を配っておけば良かった。急にいなくなられては困る。親が責任を果たしていないからだとか、そういうふうに責められてしまう。子供のことで責められるのは、いつだって母親だ。
携帯端末は電源が切られているようで、何度電話をしても事務的なメッセージしか流れてこない。メールも送ったが、返事はない。
夫が仕事から帰ってきて、まだ娘が帰っていないことを知った。するとまず「母親のくせに何をしている」と怒鳴られた。娘を捜し始めたのはそれからだ。
警察に連絡するのが億劫だった。これであっさり見つかったら、居心地が悪い。みっともない。
娘に帰ってきてほしいのか、ほしくないのか、時間が経つごとにわからなくなってきた。
翌日、まだ娘は帰らない。そのかわり、娘を最後に見た人が見つかった。
コンビニの店員。時間は夕方五時半頃。店内のカメラにも娘らしき姿があったから間違いない。けれどもそれからの足取りはわからなかった。
学校では緊急の会議と全校集会が開かれて、娘についての情報を募ってくれたそうだ。塾でも、他校の生徒に心当たりがないかどうか聞いてみてくれるという。
三月とはいえ、この北の土地はまだ十分に寒い。外にいるなら凍えてしまうだろうし、室内にいるならばそれがどこなのか知りたい。
家出じゃなきゃいい。家に問題があったとは思いたくない。私は母親として、娘に適切に接してきたつもりだった。私が昔そうされなくて失望したあのときの気持ちを、娘には味わわせまいとしてきた。
けれどもときどき娘の存在が面倒になることがあったのも確かで、もしそれを娘に見抜かれていたとしたら。それで黙って出ていったのだとしたら。
勝手にしろ、という思いと、せめて「お母さんは悪くない」と言ってからいなくなってくれ、という思いとがある。……これではどちらにせよ、娘はいなくなってもかまわないことになる。
三日目。娘らしき女の子がシルバーの軽自動車に乗り込むのを見た、という人が現れた。制服だったから、本当に娘なのかは、最初はわからなかった。けれども学校の生徒を調べてみたら、他にそういう女生徒はいないことがわかった。たぶん、娘なのだろう。
だとしたら、誘拐ということになるのだろうか。うちはお金持ちというわけでもないし、お金目当てならいずれ連絡が来るだろう。
それとも、不審者か。春先は増えるという。娘は私に似ているとよく言われ、よそから見ればきれいな子らしい。いたずら目的も十分にありうる。
娘が自発的に出ていった可能性が低くなったことに、私は安堵していた。娘のことが心配なのは確かなのだけれど、私の所為じゃない、ということに、ほんの少し救われてしまった。
警察はシルバーの軽自動車の情報を集めている。型も特定できたそうだ。娘を連れ去ったのが誰なのか、何故娘だったのか、わかるのはそう遠くない。
たぶん、今日は、四日目。混乱していて、日付を数えるのに折った指が震えている。これも親が娘をちゃんと見ていなかったから、ということになるのだろうか。もっと気にしていたら防げた事態なのだろうか。そんなことはない。こんなこと、いつでも想定している人間なんて、そういないはずだ。
私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。悪いのはあの人。でも、なんであの人が。田舎の町に引きこもっていたんじゃなかったのか。どうして私の娘を見つけられたのだろう。顔の判別が苦手だと言っていたくせに。私の今の姓を知らないくせに。
どうしてあの人に、娘が殺せたの?
中学二年生の○○さんが、△△市のアパートから遺体で発見されました。
○○さんは、三月××日から行方がわからなくなっており、捜索が進められていました。
△△県警はアパートに住んでいた、無職の――容疑者四十歳を逮捕し、誘拐にも関わっていた可能性があるとみて調べを進めています。
「――さん、会ったら普通に挨拶してくれる人でしたよ。とてもそんなことをする人だとは思いませんでした」
「去年の暮れごろに引っ越してきたんです。何の仕事をしていたかまでは知らなかったですよ。え、無職だったんですか? 毎日決まった時間に家を出て帰って来るから、仕事してるのかなと思ってました」
たった今入ってきた情報によりますと、遺体は激しく損傷しており、大型冷凍庫に保管されていたということです。行方不明当時に着ていた制服は、部屋のごみ袋から見つかったそうです。現在も捜査中で……。
いやあ、また悲惨な事件が起きてしまいましたね。容疑者は男性かと思っていたんですが、これ女性ですよね。女性でも少女を誘拐して殺害するってことあるんですか。
ないとは言いきれないですよね。これから警察のほうで動機など詳しく追及していくと思われます。
続きまして、△△県△△市で起きた少女誘拐殺人事件について、逮捕された――容疑者が誘拐、殺人、遺体損壊の全てを認める供述をしていることがわかりました。被害者の中学二年生○○さんは、三月××日より行方がわからなくなっており、警察が捜査していました。
――容疑者は、○○さんが行方不明になった××日に、○○さんを自分の車に乗せて自宅へ連れて行き、首を絞めて殺害したあとに、遺体をバラバラにしたと供述しているということです。また、事件の二日前に――容疑者が近くのホームセンターで大型冷凍庫と鋸を購入していたことがわかっており、犯行は計画的なものだったと思われます。
今後、動機についても詳しく調べていく方針です。
こんばんは、ニュースです。△△県△△市で起きた少女誘拐殺人事件について、逮捕された――容疑者が「殺すつもりで誘拐した。以前から計画していた」と供述していることが新たにわかりました。また、――容疑者と被害者○○さんの母親は顔見知りであったということで、警察では連れ去ったときの状況も引き続き調べていく方針です。
私は今、――容疑者の実家付近に来ています。――容疑者をよく知っているという人物からお話を伺いたいと思います。こんにちは。昔の――容疑者をご存知ということですが……。
「中学が同じだったんですけど、おとなしい子でしたよ。本を読んだり絵を描いたりしているのをよく見ました」
○○さんのお母さんとは友人だったそうですね。
「――とよく二人でつるんでましたよ。いつも一緒で。だからまさか、――が殺した女の子が■■の娘さんだなんて思わなくて。結婚して姓も変わってたし。殺す理由も見当たらないです」
ありがとうございました。ですが一方では、――容疑者の異常性も浮かび上がってきています。
部屋からは少女を痛めつけるような内容の漫画が多数見つかっており、――容疑者自身が描いたイラスト、はい、今映像出ましたね、ご覧ください。両手足がない血塗れの少女の絵、これは――容疑者が描いたものです。こういった異常性は容疑者が高校生の頃から見られていたと、取材でわかってきました。
――容疑者はどんな人物でしたか?
「よく死ぬとか殺すとか、漫画みたいなものを書きながら言ってました。だから――が人を殺したって聞いたときは、うわあ本当にやったんだ、って感じで。驚きはありましたけど、意外だとは思いませんでした」
「――ちゃんの口癖だったんですけど、自分が何かしたらやると思ってましたって言ってくれって。高校の時の話ですけど。でもそんなに前から人を殺そうなんて思ってるわけないし、冗談言ってるだけで普通の子だと思ってました」
「高校は■■ちゃん……被害者の子のお母さんとは違うんです。お母さんのほうが頭良くて。でもよく会ってたみたいですよ。大学入ってからも何回か遊んでたって。でも働き始めてしばらくしてから、――から■■ちゃんの話は聞かなくなりました。■■ちゃんが結婚してよそに行っちゃったらしいので、そのせいじゃないですか」
『少女誘拐殺人事件の真実に迫る! 容疑者――の異常な性癖』
――が学生時代に異常な言動をしていたというのはすでにご存知の方も多いだろう。中学時代はリストカットを頻繁にしていて、高校時代はグロテスクな内容の本を好んで読んでいた。集団生活に馴染めなかった――は、大勢の人の前で喋ることができず、大学時代にはプレゼンテーションなどで苦労している様子が窺えたと、当時の知人が語っている。
大学卒業後も、――は社会に適応しづらい人物だったという。他人とコミュニケーションがうまくとれず、接客ができずに仕事を次々にクビになった。同じ職場で働いていた人物によると、――は常に挙動不審で、何を言っても「すみません」と返事をするばかりだった。また、心療内科に通院していたという記録もある。
正常な社会生活を送ることができない――は、少女を虐待する内容を含んだ漫画やアニメに傾倒し、自らもその絵や小説らしき文章を書くことにのめりこんだ。自分より弱いものを想像の世界で虐めぬき、ときに殺すことで、心の安定を得ていたのかもしれない。今回の事件は、現実と虚構の区別がつかなくなってしまった――の異常性に端を発するものと考えられる。
――さんの弟さんですよね。――さんについて何か一言おねがいします。
「被害者の女の子とそのご家族には大変申し訳ないことをいたしました。心よりお詫び申し上げます」
あのですね、謝って済む問題じゃないでしょう。――さんは昔から異常だったんですか?
「よく知りません。姉が大学に進学して以降は離れて暮らしてましたから。ただ申し訳ないです」
女の子の手足と首を切断して、冷凍庫に入れてあったんですよ。異常ですよね。
「申し訳ありません。……あの、うちの家族を巻き込みたくないので。失礼します」
待ってください。――さんのお話を聞かせてください。弟さん!
何を言っても「大丈夫」としか言わない、と呆れられたことがある。他に何を言えば良かったのか、今でもわからない。そう言われた次の日、そこでの仕事をクビになった。面接のときと印象が違う、もっと合う職場があると思うから頑張って、だそうだ。そこで働いたのはたった六日間だった。
毎日客を相手にしなければいけない仕事は、電話や接客がまともにできず、叱られては焦り、焦っては失敗し、ついには罵倒された。「死ね」とまで言われた職場に向かおうとして倒れ、それから病院通いになった。
続いたのは、誰とも話さなくていい仕事。必要最低限でマニュアル通りの報告・連絡・相談ができれば、あとは一日中自分のペースで働いていればよかった。もっとも自分のペースは他人の普通よりはるかに劣っていて、いつも仕事の能力を向上させるように求められていた。今度はいつクビになるか、怯えながら働いていた。ストレスで体調を崩し、血圧と血糖値が下がり、貧血気味になった。それでも知らない客や暴言をぶつけてくる職場の人間を相手にするよりマシだった。
大学へは奨学金で行ったから、それを完済するまでは働かなければならなかった。何度クビになっても、使える制度に縋りながら、少しずつ働いて借金を返した。
幼い頃から男の人の罵声にさらされていたから、異性は怖かった。少し話せる、付き合えると思っても、ちょっとしたことが引き金になって、相手が嫌になった。そんなことだから、結婚なんてこともとうとうしなかった。
女の人も怖かったけれど、そこには自分がこうなれたらいいという畏怖があって、そういう意味では男の人とは違った。女の人にはただひたすらに嫌われたくなかった。けれども親しくなると、今度はどこまでなら自分を許してもらえるのか試すようなことを始めて、結局嫌われるような行動をとった。
対人関係においては、中学時代に受けた嫌がらせを引きずっていた。何ならしていいのか、許されるのか、どの立場にいれば攻撃を受けなくて済むのか、そればかり考えるようになっていた。
そんな中で、やはり彼女は特別だったのだと思う。私が声をかけて、それに応じてくれ、友達になってくれた彼女。可愛らしくて、勉強ができて、私とは全然違うのに、共通の話題を持てた彼女。手足が細くて長くて、こんなきれいな子と友達でいられるなんて幸せだとすら思っていた。
でも彼女は、嫌な部分で私と似ていた。自分の持つ劣等感から来る暴力的な思考。頭の中だけで考えているならまだしも、私たちはそれを互いに口に出してしまった。「毒舌」なんて言葉でごまかしていたけれど、今にして思えば、あれは言わなくていいことを言う、殴り合いだった。
二人とも狂ったふりが癖になっていた。何かキャラクターを作って、自己投影をするのが基本的な行動だった。そうしていれば、自分の本当に侵されたくない領域は守れると思っていたのかもしれない。
実際はそんなことはなくて、互いに土足で踏み込んだし、踏み込まれたと思った。私は彼女の外見は本当に好きだったけれど、まるで自分自身を見ているような行動や言動は、次第に嫌になっていった。たぶん彼女も、嫌悪をあらわにする私が嫌になっていったのだと思う。
私たちはある日突然繋がりを絶った。彼女が私から離れていった。「来るもの拒まず去るもの追わず」の姿勢をとっていた彼女が自ら去るという行動をとったことを目の当たりにして、そのときの私は「勝った」と思った。彼女のやりかたを崩してやったと、私にそれができたのだと、そう思って笑った。
彼女が結婚したことは知っていた。お祝いにどんな美しい装飾のナイフやハサミを送ったら気に入ってくれるか妄想した。
娘を産んでいたことは、かなり後になってから知った。結婚して引っ越した彼女の居場所は、そのときに知ることができた。ネット上に情報を十分に流してくれていたので、探そうと思って探せば簡単に見つかった。親切にも教えてくれる人もいた。彼女の家族だ。私がまだ彼女と親しくしていた頃のことを覚えていて、どこで何をしているのか、ネットだけではわからなかった部分を補完してくれた。
様子を窺いながら、私は変わらぬ生活を送った。奨学金返済のためにこつこつと働いて、安い賃金から生活費と趣味に使うお金を工面する日々。趣味に浸っていれば幸せだった。けれどもそこにはいつだって、彼女の影がちらついていた。
描かれるのは理想の彼女。中身のない、外見だけのもの。私が好きなのはそれだけなのだから、それでいい。そして美しいものを壊すのも、壊されるのを見るのも、私は好きだった。
妄想の中で、何度彼女を殺したかわからない。それは離れる前からだったけれど、彼女に直接言ったことはない。間接的には届いているかもしれない。どんなふうに彼女を殺すか、そしてどんなふうに手元に置いておくか、様々な事件や本に触れて考えた。
誤解のないように言っておくが、本の影響で妄想に至ったのではない。妄想に近い本を探して読んだだけで、本及びその作者には何の責任もない。物事を何かのせいにしなければ気が済まない人々は、よく過程と結果とを間違って結び付ける。
私は彼女を好きだから、妄想の中で殺した。私は本が好きだから読んだ。この二つは別々の事柄だ。私という人間は全てを連続させて構成されているわけではない。
妄想を繰り返しながら時が経ち、最後に彼女の近況を聞いたとき、私は驚いた。彼女は私と同い年なのだから、私と同じように老いるのだ。彼女に会ったとしても、それはもう私が好きだった美しい彼女ではないのだと、鏡を見ながら思った。顔にはその腹の中と相応の、醜いしわが刻まれているかもしれない。
けれども彼女の娘は、私たちが出会った頃と同じくらいの年齢になっているという。彼女にそっくりで、手足が長い、美しい少女に成長しているらしい。
私は娘に会いたくなった。遠くから一目見るだけでもいいと思った。彼女がそこにいるのなら、もしかしたら彼女より美しいかもしれないのなら、こっそり見てみたくなった。
久方ぶりに燃え上がった情熱は、私を動かした。彼女の住む場所の近くへ、それまで地道に貯めた貯金をはたいて引っ越した。以前は彼女が動いたのだから、今度は私が動く番だ。なぜかそう思った。
見つけた娘は昔の彼女に似ていた。私が好きになったそのかたちをしていた。だからこそ余計に、その体が彼女が誰かと繋がることで作りだされたものであることが憎らしかった。
しばらくは憎悪に身を焦がし、けれどもはたと気がついた。私が好きなのは単に外見であって、それがどのような過程で作られたか、その中身に何が入っているか、そんなことはどうでもいいではないかと。
ただ、娘も放っておけば老いていく。今のかたちをいつまでも保てない。せっかく美しいのに、それはどんなにか勿体ないことだろう。
娘の通学路をぼろぼろの記憶力で必死に憶え、携帯端末をいつも弄りながら歩いていることを確認して、大きな冷凍庫を買った。
私は美しい彼女を手に入れることに決めたのだ。たとえほんの一瞬だとしても。いつか見て何一つ叶わなかった夢を、叶えてみたかった。
まず、とても不本意だったが、人気のない場所で車を娘に当てた。衝撃で娘の手から零れ落ちた携帯端末を、車から降りて急いで拾い上げて、素早くポケットにしまう。彼女に謝りながら、病院で診てもらおう、それから警察に行く、と半ば無理やりに車に乗せた。
車に乗せてから、頭をブロックで殴った。これで死んでしまったかと思ったら、まだ生きていた。でも動かなかったので、そのまま家に連れ帰った。
娘の体を部屋の床に横たえ、頭の血を拭きとってから、首を絞めた。ずっと彼女の細く白い首を絞めてみたかったのだ。娘はじたばたと暴れたけれど、やがて静かになった。今度こそ呼吸が止まった。
着衣を全て取り去って、丁寧に畳んでごみ袋に入れた。全裸になった娘を風呂場に連れて行き、体を洗ってやった。細い腕を、長い足を、彼女に似て小さな胸を、丁寧に洗った。死体というものは存外に重く、少々重労働だった。
さて、ここからが本番だ。人間の体を切断するのは大変なことだという。けれども夢を叶えるための努力を惜しむことを、私はもうやめていた。これ以上何を惜しむというのだ。すぐにでもやらなければ、この夢は半ばで潰えるかもしれないのだし。
鋸は硬いものには対応しているけれど、柔らかいものは切りにくい。だからよく切れる包丁も用意して、私は彼女を切り刻み始めた。切らなければ冷凍庫に入らないから、というわけではない。部品ごとに眺めてみたいという望みを叶えるためだった。
死体が臭いを発するのも気にせず、黙々と作業を進める。誰とも話さなくていい仕事なら得意だ。長年やってきたのだから。やがて、右腕を切り落とすことに成功した。
空腹も忘れて作業をしていたら、血糖値が下がったのか、くらくらして汗が出てきた。左腕を落としたところでちょっと休んで、スポーツドリンクを飲んだ。あとは、足。腕をビニール袋に入れて冷凍庫に入れてから、作業再開。
結局何時間かけたのかわからないけれど、左足をビニール袋に入れて冷凍庫に入れたら、ひとまず安心した。そして涙が出た。できたのだ。私の憧れだった、両手足のない彼女が。一人では何もできない彼女が。もう酷い臭いを放っていたと思うのだけれど、とうに麻痺していたのか、それとも感動していたせいか、わからなかった。
頭と胴体だけになった彼女を堪能してから、疲れて重くなった体を引きずって、冷凍庫へ向かった。長い手足が入っている。酷い色をしていたけれど、それが私には美しく見えた。一本一本を抱きしめて、「冷たい」と呟いた。
まだ誰かが彼女を捜しに来るような気配はない。それなら、もう一歩進もう。私はもう一度鋸を持って、すっかり歪んでしまった刃を、彼女の首にあてた。
家に来た警察は、何に顔を顰めたのだろう。家に立ち込める臭気か、それとも血塗れの服のまま出てきた私にか。両方かもしれない。
それももうどうでもいい。私は全ての夢を叶えた。彼女の手足を愛で、頭を抱き、真っ黒だと思っていた腹の中を暴いた。満足だ。
本当に、夢のような時間だった。彼女が私だけのものになったそのときを、私は一生忘れないだろう。これが狂っているといわれるなら、それも本望。だって私は、私たちは、狂ったふりが好きだったでしょう。似たもの同士だったんだから、そうだよね?
いつから計画を練っていたのだろう。容疑者の所有していた古い端末や、容疑者が公開していたというウェブサイトから、特定の人物に対するものと思われるテキストが見つかった。今回の犯行に繋がるところもある。容疑者の供述にも重なる。
異様なまでの執念は、読んだ者に不快感を与えた。だがもっと不快なのは、これらのテキストに綴られた思いや今回の犯行が、本来情念を向けられるべき者ではなく、全く関係のない少女に、理不尽に向けられたということだ。
少女の母親にこれを教えていいものだろうか。それとも知っていただろうか。異常だとわかったから、離れたのではあるまいか。いずれにせよ、ことが起こってしまったあとでは何もかもが遅い。
この事件に対する人々の反応は様々だ。容疑者は職を転々としていたから、一度でも関わったことのある人間は多い。「前から変な人だと思ってたけど、こんな気持ち悪い奴と仕事してたのかって改めて考えるとゾッとする」と、半分笑いながら語っていた者が少なからずいた。
被害者の母親、つまり本来狙われていたかもしれないその人は、ぽつりと言ったという。「私の所為じゃない」――それはどの時点における言葉だったのだろう。
異常な事件はしばらく世間でもてはやされる。けれどもまた次のネタがやってきたら、みんなそちらにたかっていく。当事者たちを置いてけぼりにして。取材に答えた人々ですら、事件を忘れていく。
そして自分も、次の事件に取り掛かれば、このことは忘れざるを得なくなる。
ニュース番組や雑誌は、もうこの事件をとりあげなくなった。新しい事件が起こって、そちらに飛びついた。
そうして少女は、かつて少女だった者たちも、いつか記憶から消え去ってしまうのだろう。彼女らしか知らなかったことは、もうとっくにこの世からなくなっている。当時のままではない。