遠い昔のことですけれど、私には好きな人がおりました。
整った容姿に、グラスハープのように透き通った声をもった人でした。許されるのならいつでも一緒にいて見ていたいと思っていました。
すらりと長い手足も目を引きました。あんまり美しいので、切り取って硝子のケースに収め、いつでも眺められるようにしたいという空想を繰り広げたこともあります。もちろん、手足を失った彼女は、私の近くに置いて愛で続けるのです。その首に手を伸ばし、当時の美しさを永遠のものにしてしまおうかなどと、物騒なことを考えたこともあります。けれどもそれも、彼女を恋うが故のことでした。とうとう叶いませんでしたが、触れたくて仕方がありませんでした。
彼女の言葉が私の全てでした。彼女の仕草が私の憧れでした。彼女が欲しくてたまらなかった頃が、たしかにあったのです。
それを過去のことにしてしまったのは、たぶんに私がいけなかったのでしょう。彼女のことをもっと見て、知って、理解し、心を支配できるような存在になっていなかったのが原因だと思っています。
思い返せば別れの前、彼女は妙にいらついていたような気がします。その矛先は私へと向き、私のやることなすこと全てに過敏に反応し、否定しようとしていました。私のやり方、好きなもの、人間関係など、目についたものは全て「非常識だ」と言われていたのです。当時は私もその態度に反抗しましたが、今にして思えば、彼女は私を通して何かを欲しがっていたのではないでしょうか。自分を肯定してくれる何かを。――どうやら彼女は、自分を取り巻く環境を「不幸」と考えていたようですし。きっと悪いことしか考えられなくなっていた時期なのでしょう。
そんなときに、私は彼女の態度を非難するだけでした。彼女に蔑ろにされるまま、私はその不満を返していました。もしもあのとき彼女を少しでも受け入れていたら、彼女は私の前から消えることはなかったのでしょうか。
いいえ、きっといつかは、別れることになっていたのだと思います。私たちはよく似たところと正反対のところを併せ持っていて、引かれ合うよりは反発し合うほうが自然だったのです。私が彼女に近づいたときから、別れまでの残り時間は刻まれていたに違いありません。
だからこそ、私は彼女を支配しておくべきだったのです。時を止めなければならなかったのです。彼女の心を、殺してでも繋ぎ止めておく必要がありました。もしも、諦めたくないのなら。
けれども全ては昔の話です。私は未練を残しながらも、彼女を手放してしまいました。正確には、彼女が離れていったのを引き留めようとしませんでした。これでいいや、と。このほうが互いにとって良かったのだ、と。そう思うことで納得しようとしたのです。
彼女への愛情とそれに伴う殺意が次第に薄れていくと同時に、彼女の好きだったものを一つずつ嫌いにもなってゆきました。彼女の好きだった歌が、動物が、昔ほど好きではなくなりましたし、近づけたくなくなりました。そう考えると、私の未練は醜いものですね。歌や動物に罪はないのに、彼女が好きだったというだけで音源を叩き割り、吠えるそれを蹴りあげたくなるのですから。
彼女の首を絞めたいと思わなくなったかわりに、彼女が誰かに殺されてしまえばいいのにと思うようになりました。できるだけ無残な方法で、苦しみながら、走馬灯でも見ればいいのにと。――その走馬灯に、私の姿はあるでしょうか。きっとないでしょうね。彼女は私のことなどもう忘れていることと思います。
いつか、別れた後に、興味が湧いて彼女の言葉を探しに行ったことがありました。相変わらずの振る舞いに、思わず笑いが漏れました。苦しんでいるのを見つけて、多幸感を得ました。もっともっと不安になって苦しめばいいのにと思いました。そうして、いつか私が聞き知ることができるくらい凄惨な死に方をしてくれたら、きっとまた私は笑うのでしょう。
誰かが言いました。「人を忘れるときは声から忘れていくものだ」と。けれども私は彼女の美しい声をまだ憶えています。手足を切り取り、声だけをあげる人形になれば、どんなに可愛いかったことかと想像します。もし罵声を吐いたら歯を折ればいいのです。
ですが、もう一生会うことはないでしょう。彼女を支配することなど叶わないでしょう。彼女は私のものではなくなりました。最初から私のものではありませんでした。
しかし未練はまだ続いているのです。言葉にしてみてはっきりしました。私はもう彼女を好きではないけれど、まったく嫌いというわけでもないのです。関心はあります。だから彼女の死を願うのです。私が知ることのできる死を。
どうせ初めから叶わない恋でした。彼女が私を見限ったように、私はいつ彼女を忘れてもいいのです。それでも彼女を想うのは、この気持ちが私自身を支配するほど大きかったからなのでしょう。私は彼女を支配したいと願いながら、彼女に支配されていたのでした。自らの美貌と不幸を武器に、彼女は今でも私や周囲を支配し続けています。
私はまだ彼女にさようならを言えずにいます。彼女のことを考えては、当時を思い出します。そして彼女を呪うのです。
彼女を受け止めずに否定した私でなければ、今、こんなにも彼女を想うことはなかったかもしれません。私は今も彼女に恋をし続けています。自分を守ることを選んだくせに、私は彼女を恋うのです。