家はない。箱はあっても、その中に身の置き場が存在しない。養父母は良くしてくれるが、実の子に気を遣わなければならないようで落ち着かない。だから極力外にいて、彼らと顔を合わせないように時間を潰す。
部活動は金がかかるのでやっていない。アルバイトでもすればいいのだろうけれど、それは許してもらえなかった。だからただ街を歩いて過ごしている。代わり映えしない、そう不便でもなければなんでもあるというわけでもない、中途半端な町だ。ときどき知らない路地に入っていたが、入ってしまえばそれは知る道になる。だんだん面白味はなくなっていく。
適当に時間が経ったら、住まわせてもらっている場所に戻る。夕飯は外で食べてきたからと言って、用意してもらった部屋にこもる。ドアの向こうから、心配そうに話し合う養父母の声と、「放っておけば」という彼らの実子の冷淡な声。
それが俺の日常で、きっと高校を出るまでは変わらない日々だ。それまでは面倒を見るからと養父が言ったので、その先はともかく、現状はこのまま過ぎていくのだろう。
高校を出たら、さっさと就職でもして、この家を出ていこう。今度こそ自分一人の力で生きていこう。そう思っていた。
あの人に出会うまでは。

「おい、お前。つかれているな」

いつものようにあてもなく歩いていたら、突然声をかけられた。何度か通ったことのある、古い家が並ぶ路地でのことだった。普段なら自分に向けられたものだともわからずに、そのまま行ってしまうところだったが、その声はたしかに俺を捉えたものだとわかった。
振り向くとそこには、こちらを無遠慮に見つめる女性がいた。黒いコートの下は、黒いパンツスーツ。黒く長い髪から、白い肌が覗いている。鋭い目が綺麗で、引き込まれそうだった。だから俺は、そこから動けなくなったのだ。
彼女は俺を見たまま、もう一度口を開いた。
「お前ほど酷いものを見たのは初めてだ。このままだと今住んでいるところにも影響を及ぼしかねん。退治できるかわからんが、放っておくのも忍びない」
……何の話ですか」
新興宗教だとか、詐欺だとか、そういう言葉が思い浮かんでは消えていった。こんな綺麗な人になら騙されてもいいかと一瞬考えて、それは駄目だと理性に引き止められる。しかし女性の声は、もっと強く俺を引き留める力を持っていた。
「若いのに、随分な人生を送ってきたようだな」
ぎくりとした。それが詐欺の常套句だとしても、反応してしまうだけの理由が俺にはあった。そしてその理由を、この人はその声で語りだしたのだった。

「母親はお前を産んですぐに失踪した。父親が誰かはわからない。捨てられたお前を引き取ったのは、母の友人という人だった。だが、その人は頼れるような人間ではなく、赤ん坊だったお前を何度も衝動的に殺そうとした。しかしいくら首を絞めようとも、刃物を振りあげようとも、お前を殺せなかった。だからその人はお前を施設に預けた。
その施設は、お前を預かり始めてからまもなくして潰れてしまった。お前はまた別の施設に移ったが、そこも不幸に見舞われた。各地を転々としながら、そのたびに住処を壊しながら、お前は成長していった。
今の家に引き取られたのは中学三年の頃だな。お前の境遇に同情した裕福な夫婦が、お前を高校に入れて卒業するまでは面倒を見ようと言った。そこにもとからいた子供は、お前を歓迎しなかったが、仕方ないと受け入れた。
だが、お前自身はどうせまた住処が壊れてしまうだろうと思っている。だから極力家にはいないようにしている。住処にいる人間を信用していない」

流れるように、その人は俺がこれまで生きてきた過程を口にした。初めて会ったはずなのに、知るはずがないのに、言い当てた。いったい何者なんだ、という問いは、俺が言わずとも届いたようで、その人は自身の名を告げた。
「私はイツという。稀に意識せず、人やものの持つ『過去』を読んでしまうことがある。お前はその中でも一等酷い。産まれる前から強い呪いと守りを併せ持つ、特異な存在だ。そのどちらも強力な妖によるもので、周囲にも多大な影響を及ぼす」
過去? 妖? どういうことなんだ、それは。
「わけがわからないだろう。だが、事実だ。お前は呪われていて、いるだけで不幸を呼ぶ。だが自身だけは強い加護のもとにあるから、なんとか生きられる」
言っていることは現実的ではなくて、どう考えても怪しいのに、俺はこの人の前から動けなかった。そして、そのわけのわからない言葉を受け入れようとしていた。――これまでのことが全部その妖とやらのせいなら、何かのせいにできるなら、少しは楽になれるだろうなと思った。
「私は妖を呼ぶ体質らしくてな、そう変なものを呼びこんでも面倒だから、退治できるようにしている。お前に憑いているそれも、時間をかければ退治できないこともない」
普通の人間になりたくはないか。この人――イツさんは、そう言った。最初の「つかれている」はそういうことだったのかと、俺は納得して、それから。
「時間、かかるんですか」
「かかる。前世から引き継いだ強い呪いだ。妖を退治するのにふた月、残り香を消すのにひと月で済めば早いな」
この美しい人と、少なくとも三か月は会えることを確認して、俺は頷いた。
「お願いします」

結局三か月どころでは済まず、俺に憑いた妖が退治されてからもイツさんと離れ難くなり、俺は彼女を慕うようになる。一人でなんかいられなくなる。けれども、それはまた別の話だ。