ぐつぐつと土鍋から音がする。良い匂いも立ち上ってきた。それを思い切り吸い込んだところで、廊下の方からぱたぱたと音が聞こえる。ジャストタイミングだ。
部屋の主が帰ってきたのだとわかるのは、足音のリズムがその人のものであるというのはもちろんのこと、それが廊下の突き当りに位置するこの部屋の前で止まったからだ。それ以上は行きようがないので、誰かが気まぐれに足を止めるということはほとんどない。
案の定、ドアが開いてイツさんが入ってくる。黒くて長い髪の毛は、外の暑さのせいか、額や頬に張り付いていた。肩から提げていたカバンと、手に持っていたビニール袋を床に置くと、大きく溜息を吐く。今日もお疲れのようだ。
「イツさん、お帰り。今日の晩御飯、何だと思う?」
……
イツさんは俺をじっと見る。いや、もしかして睨んでいる? でもきっと、晩御飯のことを聞いたら喜ぶはずだ。俺は一口ガスコンロの上に載った土鍋を指して、「じゃーん」と言ってみせた。
「今日は鯛が超安く手に入ったので、鯛鍋です! 豪華でしょ?」
「鯛……?」
やっと呟くように言ったイツさんは、スリッパを脱いで部屋にゆらりと入ってきた。汗で肌に張り付いたシャツが妙に艶めかしい。俺が唾を飲み込みかけたそのとき、
「この暑いのに、せっかくの鯛を鍋だと?! 勝手に人の家に入り浸っているうえに、ロクなことをしないな、お前は!」
他の部屋どころか外にまで聞こえそうなくらいの声で、イツさんは咆えた。
「安売りだったなら刺身とは言わないさ。だがな、せめて鯛飯にしろ。真夏に鍋など、しかもこの私が暑い中帰ってきたところへ熱気を浴びせるなど、嫌がらせにもほどがあるわ!」
「いや、鯛飯は思いつきませんでした。魚といったら焼くか煮るか鍋だと思ってて……
すみません、と謝る俺に、イツさんはまた深ーい溜息を吐いた。

ここは蔦葉館という木造二階建てのアパートで、一階には大家さん一家が住んでいる。人に貸しているのは二階にある四部屋だ。階段を上って左側の、一番奥の部屋がイツさんの暮らすワンルーム。
簡易な流し台と一口コンロがついていて、電子レンジとあわせて工夫すれば、ちょうどいい品数のおかずを作ることができる。トイレは共同、風呂は近場の銭湯と、人によっては不便だと思うかもしれないが、俺はここが気に入っている。もちろん、部屋の住人であるイツさんもだ。
さて、ここまでしておいて何だが、俺はこの部屋の住人ではない。このアパートの別の部屋の人間でもない。イツさんの暮らすこの場所に入り浸っている者だ。
俺はひょんなことからイツさんと知り合い、彼女に惹かれ、ここに押しかけては食事を用意したり掃除をするようになった。さすがに洗濯は、しようとしたら怒られた。別にイツさんの下着とか見ても、平気なのに。
イツさんは仕事をしているから、学校から帰ってきたらあとは暇な俺が家事をするのは、イツさんも楽ができて理に適っていると思うのだけれど。
だってイツさんは文句を言いながらも、結局は俺を追いだそうとしないし、掃除を褒めてくれるし、作った御飯も食べてくれる。美味しければ素直に「美味い」と言ってくれる。ようするにツンデレとかいうやつなのだと、俺は解釈している。

イツさんは炊き立てのご飯と、テーブルの上に、鍋敷きを座布団にしてどっかりと腰を下ろした土鍋を見て再度溜息を吐いた。そんなに溜息ばかり吐いていたら幸せが逃げますよ、と言ったら、思い切り睨まれた。だから鯛飯にしなかったのは悪かったですって。
……あ、ご飯は鍋のシメにとっておきましょうか。そうしたら鯛飯風に……
「ならん。そんなのはいいから、とにかく食べる。こんなことになってしまっても、鯛は鯛だしな」
俺にも小鉢と箸をとってくれるイツさんは、やっぱり優しい。ありがたくそれを受け取って、もうもうと湯気を立てる土鍋から、野菜と鯛を掬う。我ながら上出来だ、と思いながら箸をとった、そのときだった。
突然上方から、嫌な気配がぐろりと漂ってきた。イツさんが上を向くのに合わせて、俺も視線をそちらへ向ける。
この部屋の天井には、一部だけ正方形の切れ目がある。どうやら天井裏への入口らしいのだが、そこはときどきこんなふうに嫌な気を発するのだ。
イツさんが箸を置き、その正方形の真下に立つ。天井を睨んで、「それ」が来るのを待っている。はたして、「それ」はイツさんが構えていたとおりに現れた。
いや、落ちてきた。
天井の板が抜けて、大きな塊が落ちてくる。イツさんは膝を折りながらそれを見事に受け止め、床に素早く下ろした。抜けた天井の向こうは真っ暗なようで、しかしその中からぞっとするような気配が大量に、こちらに注目しているようだった。
「蓋を閉めるぞ! 早く!」
「は、はい!」
俺が急いで壁に立てかけてあった脚立を天井の穴の下にセットすると、イツさんはそれに上って、落ちてきた板をもとの天井に嵌めた。途端に嫌な気配は消えて、あとに残ったのは板と一緒に落ちてきた大きな塊――もとい、少年と猫だった。

少年は小学校高学年くらいで、彼が抱えていた猫は真っ黒な子猫だった。少年はきょろきょろとあたりを見回した後、俺たちを大きな目でじっと見ていた。子猫はそんな少年に、ぴったりと寄り添っている。
「大丈夫だったかい?」
イツさんが話しかけると、少年はびくりと震えた。それから子猫を守るように後ろに隠すと、改めてイツさんを睨み付けた。
しかし睨まれた方はそれを受け流し、流し台の下から小鉢を二つ持ってきた。そして鍋から上手に鯛の身を掬って、二つの器に入れた。
「警戒しなくてもいい。私はお前に危害を加えない。……ほら、丁度今日は鯛なんだ。お食べ」
そっと差し出された器を、少年と猫は見つめる。やがて猫が器の中身の匂いを嗅いで、先に口を突っ込んだ。それを見た少年も、器に顔を突っ込もうとする。
「ああ、待って待って! イツさん、箸を」
「いや、フォークの方が使いやすいだろう。そこの戸棚にある、小さいのを持って来い」
俺にフォークを持って来させると、イツさんは少年の手元にそっと差し出した。少年はそれをとってじっと見つめた後、不器用に握って、鯛の肉をつつき始めた。
イツさんは少年と猫をじっと見つめ、俺はそんなイツさんを見ていた。イツさんがこの瞬間に何をしているのか、俺にはわかっていた。
しばらくのあいだ、イツさんは鯛を食べる一人と一匹を眺めていた。それから不意に「そうか」と呟き、ふっと微笑んだ。
「お前たちは逆なんだな。こんなことをしたのは、さっきの奴らだろう」
過去を読む、ということがイツさんにはできる。
相手をじっと見つめることで、あるいはもっと衝撃的なものならばちょっと相手をみただけでも、その人や物が持つ記憶を読み取ることができるのだ。
俺も記憶を読まれたことでイツさんと知り合った。あんまり衝撃的な記憶だったようで、イツさんは一瞬にして俺の全てを見抜いてしまった。以来、俺は自分を理解してくれるイツさんのところに、一方的に身を寄せるようになったのだった。
イツさんはおそらく、少年たちの過去も読んだのだろう。そうして「逆だ」と結論付けたのだ。
「どういうことですか」
尋ねた俺に答えたのはイツさんではなく、少年だった。
「よくわかったな。……おれは千代丸、この猫は千代子。本当はおれが猫で、千代子が人間なんだ」
猫も神妙な顔つきで、イツさんを見ていた。

千代子はある大きな屋敷の娘だった。父と母、乳母、そして自分と同じ字をもつ名前をつけた猫と一緒に、かつては幸せに暮らしていた。
ところがある日、父と母は千代子を屋敷に置いて、どこかへ出ていってしまった。千代子は千代丸と一緒に両親の帰りを待ち続けたが、いつまでたっても帰ってこなかった。そのうち千代子は、自分は両親に捨てられたのだと思うようになった。
「千代子は、自分が何か悪いことをしたのか、我侭を言ってしまったのかと悩んでいた。そして先日、乳母に内緒で、おれを連れて両親を捜しに出たんだ。だが……
千代子と千代丸は屋敷を出て、両親の姿を求めて旅に出ようとした。しかし子供と猫に、長い旅などできやしない。すぐに疲れ果ててしまった一人と一匹を襲ったのは、土地にとり憑いた妖たちだった。
彼らは千代子と千代丸の魂を入れ替え作り変え、人間であった千代子を小さな黒猫に、猫であった千代丸を人間の少年にしてしまった。
なんとか妖から逃げようとした一人と一匹は、傍にあった池に飛び込んだ。そうして辿り着いたのが、イツさんの部屋だったのだという。

「でも、どうして二人が逆だってわかったんですか? イツさんは、彼らのどんな過去を読んだんですか?」
俺が訊くと、イツさんは「単純なことだ」と言いながら、自分の器の鯛をほぐした。
「千代丸少年の記憶には、猫がおらず少女がいた。猫の千代子の記憶には、子猫がいた。常に鏡を見ているわけでもないのに自分の姿があるのはおかしいし、記憶の中の少女の存在も説明がつかない」
なるほど、と俺は思う。けれども、それを知っただけでは千代子と千代丸の問題は解決しない。彼らはもとに戻らなければならないのだ。
「さて、妖絡みとあれば、私のところに落ちてきたのも頷けるな。ちょっと天井裏に行ってくるか」
ほぐした鯛をご飯にのせて、一気にかきこんでから、イツさんは立ち上がった。そして立てたままの脚立に上り、天井裏の蓋を外して、中にもぐりこんでいった。
「お、おい、大丈夫かよ……
千代丸が心配そうに言うが、俺はいってらっしゃいと軽く手を振った。
イツさんは強いのだ。人の過去を読み、その中に妖の影を見つけると退治しに行く。俺もそれで救われ、この人についていくことに決めた。
「イツさんなら、きっとやってくれるよ。そして君たちを、もとの世界に返してくれる。……もしかしたらお父さんとお母さんがいなくなったのも妖のせいかもしれない。それなら、全てが解決する」
俺たちはイツさんが天井裏から帰ってくるのを待った。すぐに戻ってくると信じて。

イツさんは全てを段取り良く済ませると、すっかり冷めた鯛鍋をあっという間に平らげてしまった。あんなに文句を言っていたのに、食べるとなればいくらでも腹に入れるのだった。
「人間に戻った千代子ちゃん、可愛かったですねー。千代丸君も可愛い猫ちゃんでしたし。向こうで、ちゃんとお父さんとお母さんに会えたでしょうか」
空になった鍋を片付けながら俺が言うと、イツさんは仕事帰りに買ってきたビールを開けながら「わからん」と答えた。
「千代子は捨てられたんじゃない。これだけははっきりしている。だがな、父と母が屋敷を離れたのは、おそらくは病のせいだ。千代子に感染させぬよう、二人で娘のもとを離れたのだ。もう親とは会えんかもしれんな」
「そんな……千代子ちゃんの両親がいなくなったのは、妖のせいじゃ」
「私はそんなこと、一言も言っていない」
「じゃあ、どうして千代子ちゃんにそのことを言ってあげなかったんですか!?」
俺が思わず声を荒げると、イツさんはビールをぐっと飲み干した。それからテーブルに、空になった缶を思い切りたたきつけた。
「私が言わずとも知っている。千代丸は人間になったときに、千代子に真実を告げたからな。あの猫は全てを知っていたが、伝える術がなかったのさ。それが妖のおかげでできるようになった。……だからもう、千代子と千代丸は親を捜さない。屋敷に戻って、生き、死んでいくだろう」
淡々と語るイツさんの声を聴きながら、俺は最後に見た千代子と千代丸の笑顔を思い出していた。ありがとうという言葉を頭の中で繰り返していた。
これから寂しい生活が待っているかもしれないのに、彼らは心から良かったと思っているような顔をして、平和になった天井裏へ去って行ったのだ。
洗い物を終えた俺に、イツさんはサイダーのペットボトルを差し出した。
「捨てられたのではない、寧ろ愛されていたのだと知った千代子は、親と別れたときよりもほんの少しは幸せになったようだ。乳母と、もちろん千代丸が生きている間は、千代子は寂しい思いに押しつぶされずに済むだろう」
多分、お前が私のところに来るように。俺は勝手に、イツさんの言葉をそう続けた。もちろん本人に言えば頭を叩かれるだろうから、心の中で。