「先輩、また浮気なんかしないでくださいね」
瀬戸内の冷たい声と視線が、俺に深く突き刺さる。
なぜ、どうして、彼女がそんなことを言うのか。俺にはすぐに理解することができなかった。
振り返って見た妻の顔は、笑うのでも、怒るでも驚くのでもなく、ただただ無表情だった。
研究所への配属が決まり、最低でも二年間は単身赴任することになった。いつも帰宅した俺を迎えてくれたこの暖かな家から、しばらくは離れなくてはならない。
「昔からの夢だったもんね」
妻――小夜子は笑って背中を押してくれた。俺がいないあいだ、二人の娘のことは彼女に頼んである。とはいえ、もともと俺が家事に協力することは少なかったから、さほど生活は変わらないかもしれないのだが。
「みんなお祝いしてくれるって。あとで蓮田と瀬戸内ちゃんが来るよ」
「蓮田と瀬戸内? 久しぶりだな、あいつらと会うの」
夕食の準備をしながら、小夜子が今晩の来客を教えてくれた。蓮田と瀬戸内は俺たちの学生時代の後輩で、よく一緒に遊びに出たりしたものだった。うちを訪ねてくることも以前はしばしばあったのだが、互いの都合もあって、最近ではあまりなかった。
娘二人に組み付かれながら、学生時代の思い出を振り返る。小夜子と出会い、過ごした日々も、一瞬のうちによみがえる。まだあの頃のことは鮮明に呼び起こせるようだった。
これだけ思い出があれば、単身赴任も寂しくないだろう。いや、これだけのことがあるからこそ、寂しくなるだろうか。そのときは、家に電話でもしてみよう。娘たちの声だけでも聴かせてもらおう。
そんなことを考えていたら、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。インターフォンで確認すると、やはり蓮田と瀬戸内だった。
「先輩、研究所配属おめでとうございます!」
ドアを開けると、まず瀬戸内が明るく祝いの言葉をくれた。こいつは学生時代から元気な奴で、今もそれは変わっていない。
「これ、お土産とお祝いです。一緒にしてしまって申し訳ないのですが」
蓮田は相変わらずおとなしいが、しっかりしている。きっと瀬戸内と選んだのであろうその土産は、有名菓子店のものだった。娘たちも大好きなので、この贈り物はとても嬉しい。
「わざわざありがとうな。祝いに来てくれるなんて思わなかったよ」
「お祝いというか、先輩が小夜子さんと離れるって聞いたものですから。先輩、寂しい思いをするんじゃないかなと思って」
靴を脱ぎながら、瀬戸内がもっともなことを言った。小夜子とは学生時代からずっと一緒にいたから、正直なところ、離れるのは辛かったのだ。おまけに研究所というのが僻地にあるものだから、この後輩たちとも当分は顔を合わせられなくなる。こうして来てくれることはありがたかった。
娘たちが菓子に喜んでいるのを横目に、俺たちはさっそく近況や学生時代のことを話し始めた。会うとすぐにこの話題だ。すっかり定番になっている。
小夜子も夕飯の準備を一段落させてそこに加わり、みんなで食卓を囲みながらの談笑となった。
「そういえば先輩、最近ネトゲはやってるんですか? 私やめちゃったんで、先輩がどうしてるか知らないんですけど」
「続けてるよ。向こうに行ってネット環境が整ったら、まずはログインだろうな」
瀬戸内や蓮田との他愛もない話。娘たちの世話を焼く小夜子。この光景を見ることももうしばらくはないのだと思うと、今を思う存分楽しんでおこうという気になる。
楽しんでおきたかった。
「向こうに行ったら一人ですよね。先輩、また浮気なんかしないでくださいね」
瀬戸内がそう言ったのは、はしゃぎすぎて疲れた娘たちが眠ってしまってからだった。
さっきまでの明るい雰囲気は一転してしまっていた。瀬戸内は今までに見たこともないくらい冷たい目でこちらを見ているし、小夜子は全くの無表情だ。蓮田は俯き、だんまりだった。
「す、するわけないだろ。どうして?」
俺が笑いながらそう言っても、空回りするだけだった。なぜだ、どうして、こんなに空気が重いんだ。さっきまで、あんなに楽しかったのに。
「だいたい、『また』ってなんだよ、瀬戸内」
「言葉の通りです。……私たち、今日はそれを言いに来たんですよ」
ドッキリでも仕掛けようとしているのだろうか。瀬戸内と、意外にも蓮田も、そういう悪戯は好きな部類だった。小夜子もそれに乗っかっていたことがある。今回も同じことなのではないかと、そうであってほしいと、俺は必死に祈っていた。
そう、必死だった。だって、あれは、もう時効だろう。それに、あのことを俺以外の誰かが知っているはずはないのだ。
「まだ、お姉ちゃんが小夜子さんのお腹にいたときでしたよね」
瀬戸内は上の娘を「お姉ちゃん」と呼ぶ。
「先輩、ネトゲで知り合った女の子がいましたね」
ただし、こんな話をするために呼ぶようなことはなかった。
当たり前だ。知らないはずなんだから。知らなかったはずなんだから。なのに、どうして、あのことを。
数年前、オンラインゲームで知り合った者同士でオフ会をしたことがあった。小夜子が娘を身籠っていたこともあって、なんとなく引け目を感じ、そのことは内緒にしていた。仕事だと嘘を吐いて、その場に行ったのだ。
彼女は、参加者の一人だった。落ち着いた雰囲気の女の子で、他の参加者とはどこか違うと感じていた。俺はその子に声をかけ、ゲームの話などをしていた。
初めはただそれだけだった。それなのに、次第に俺は彼女に惹かれていったのだ。肌がとても白いことや、ストレートの黒髪が綺麗なことを意識するようになっていた。
他の奴らの目を盗んで、俺たちはオフ会を抜けた。そうして、そこから少し離れた場所まで、二人で向かったのだった。
そのたった一回のことで、彼女が妊娠するなんて、そのときの俺は全く考えていなかった。
彼女の子供は、生まれる前にその命を失うこととなった。彼女は学生だったのだ。まだ高校に入りたての、少女だった。
「あのオフ会の近くの席で、私と蓮田が会ってたことなんて知らなかったでしょう。あのあと蓮田があのゲームを始めて、先輩たちを追っていたんです。彼女との会話のログも、ちゃんと残ってますよ。小夜子さんには逐一報告をしていました」
「嘘だろ」
「本当です」
たしかだと思った。少なくとも瀬戸内たちはこんな冗談をいう奴ではなかったし、なにより小夜子が何も言わなかったことが一番の証明だった。こんなことを遊びでやるようなら、たとえ後輩であったとしても、小夜子は許さないだろう。
「そして先輩は『償い』などと言いながら、今でも彼女との関係を続けている。昨日のログもありますよ、見てみますか?」
見なくてもわかっている。昨日、彼女とどんなやりとりをしたのか。次はいつ会うか、その約束までとりつけている。
もう、全部、知られているのだ。
「小夜子、知ってたのに止めなかったんだな」
俺が呟くように言っても、小夜子は何も言葉を返さなかった。そのかわり、決定的な別れを突きつけた。いつから用意していたのだろうか、その紙は、あまりきれいとはいえない状態だった。
「先輩、一人になったら寂しいですよね。そうしたら、もっとあの子と会いますよね。研究所の場所、あの子の地元に近いですから」
「……小夜子さんは、子供を抱えていてもちゃんと生きていけます。先輩がそうじゃないから、ずっと一緒にいただけです。ちょうどいい機会ですから、全てを明らかにさせてもらいました」
やっと喋った蓮田の声は、俺を重石のように押し潰した。
家を出た俺が、ネット環境を整えてオンラインゲームにログインすると、すでに彼女が退会したという情報が入ってきた。
他の連絡ツールを使っても、彼女にはもう二度とつながらなかった。
小夜子も電話番号を変えたらしく、俺は娘たちの声すら聴けなくなった。
僻地の研究所で一人きり、俺は長年の夢だと思いこんでいた作業に埋没していった。