とん、とん、とん。なんのおと?

仕事から帰ってくると、いつものように妻は夕飯の支度をしていて、息子はその周りをうろちょろしていた。
ただいま、おかえり、お父さんお土産は、という毎日のように繰り返されるやりとりの後、部屋着に着替えていると、ふと息子が歌う声が聞こえた。
「あーぶくたった、にえたった。にえたかどうだかたべてみよ」
懐かしい唄だ。三人以上いなければできない遊びだったと思う。一人を囲んで、他の人は歌いながら、手を繋いでぐるぐると回るのだ。自分も幼い頃にやった記憶がある。
「まだ、その遊びあったのか」
「幼稚園で教わってきたみたい。帰ってきてからずっとこれよ」
妻にとっても、馴染みのある遊び唄のようだ。息子の声に合わせて、一緒に歌っていた。
「あーぶくたった、にえたった。にえたかどうだかたべてみよ。むしゃむしゃむしゃ、もうにえた」
ちょうど、今夜のおかずは煮込みものだった。妻が「もう煮えた」という言葉と同時に、息子に味見をさせていた。口をもぐもぐさせながら、飛び跳ねて喜んでいたから、きっと今日の夕飯も美味いのだろう。

あぶくたった、煮えたった。煮えたかどうだか食べてみよう。むしゃむしゃむしゃ。もう煮えた。

仕事のちょっとした愚痴や、息子の幼稚園での様子、近所の付き合いの話なんかをしながら夕飯をとる。その間、自分の脳裏には、あの唄の続きがよみがえっていた。
たしか、煮えたら戸棚にしまって、鍵をかけて、布団に入って寝てしまうのだ。今にして思えば、おかしな唄だ。煮えたものの正体もわからなければ、それが煮えたことを確認した後で、すぐさま戸棚にしまってしまうのだから。
いったいこの唄の登場人物は、何がしたかったのだろう。
自分たちはあの頃、何を煮ていたのだろうか。
何気なく歌っていたあの唄の真意が、少しだけ気になった。
戸棚にしまって、寝て、それからどうしたんだっけか。そう、たしかこれは、鬼ごっこの一種だったのだ。最後には追いかけっこが始まった記憶がある。

戸棚にしまって、鍵をかけて。がちゃがちゃがちゃ。お布団入って、寝ましょう。

息子を風呂に入れてやってから、寝かしつける。この子は妻が読んでやった絵本に夢中になっているうちに、すやすやと寝息をたてる。その寝顔は可愛いものだ。
風呂でも、息子はあの唄を歌っていた。それで自分もようやく、あの唄の全てを思い出した。当時は唄に出てくる「それ」が怖くて、寝られないこともあったなと苦笑する。
今ではそんなものの存在など信じずに、笑い飛ばすようになってしまったが。

とん、とん、とん。

ふと、目が覚めた。今は何時だろう。どうせ週末だからいいが、おかしな時間に起きてしまうと、あとで厄介なことになる。妻に「いつまで寝てるの」と文句を言われ、息子には「お父さん、ねぼすけ」と笑われる。それはそれで、平和な休日か。
だが、寝足りないまま息子の相手をするのは骨が折れる。もう一度目を閉じようとしたとき、その音はたしかに聞こえた。
とん、とん、とん。――どこから聞こえてくるのだろう。何かを叩いているような、この音は。一定のリズムを刻むそれを不思議に思い、体を起こして、布団から出る。
寝室を出ると、その音は少しだけ大きくなったようだった。音の正体に近づいたということだろか。聞こえてくるのは居間から、いや、台所からか。

とん、とん、とん。何の音?

台所の窓から、外を覗いてみる。今夜は風が強いのか、木々が大きく揺れていた。ごう、と風の吹き荒れる音もした。あの音は、外からのものだったのだろうか。

風の音。――ああ、よかった。

けれども音は、もう一度響いた。
とん、とん、とん。
外からではない。家の中だ。それも、すぐ近くで。上の方から聞こえたような気がして、顔をあげてみる。何が入っているのか、自分ではわからない、戸棚がある。

とん、とん、とん。何の音?

まただ。音は、この戸棚の中からしている。内側から、戸を叩いているようだ。
あの遊び唄が、ふと脳裏をよぎっていく。息子の声で、頭の中に流れていく。あれは、最後に、音の主が追いかけてくるのだ。
思わず後退りしながら、戸棚からは目が離せなかった。もう一度、とん、とん、とん、と音がする。それから戸がひとりでに、すう、と開いた。
それでもまだ、その場から離れられなかった。まるで、縛りつけられているかのように。

とん、とん、とん。何の音?
――
お化けの音。

開いた戸棚から、暗闇でもはっきりと見える白く細い腕が伸びた。


息子がすっかり寝てしまった後、妻がぽつりと言った。
「あぶくたった、煮えたった、の唄ね。あれ、私たちで意味を考えたことがあるの」
「意味?」
「そう。煮られているのは死体で、残った骨とかを戸棚に隠しておく唄だって。でも被害者の霊が出たがって、戸棚を叩くの。最後に逃げるのは、霊に復讐されちゃうから」
女の子ってオカルトが好きで、私も多分に漏れなかったのよね。妻はそう言って笑っていた。笑いながら、こう続けた。
「人間もね、所詮は肉で出来ているから。じっくり時間をかけて煮込めば、肉がとけて、崩れて、骨だけになるんだって。その骨は、どう処分したらいいのかしら」
妻はそれきり、黙ってしまった。