ケーキを鷲掴みして食べるという光景を、思い浮かべる。
生クリームのケーキではない。それでは胃がもたれてしまうから。いや、甘ければ結局同じことなのだけれど、私の考えるケーキは大抵チョコレートでコーティングされたものか、ふんわりやわらかなチーズケーキ、フルーツをたっぷり使ったタルトやさくさくのパイなのだ。
それをフォークやスプーンなど用いず、右手でがしりと掴んで、大口を開けて、端からがぶり。1ピースのケーキは、それだけでもう半分ほどなくなってしまう。それから残りを、先程よりは細かく、もふりさくりと3口くらいで食べるのだ。最後は指についたものを舐めとって、口内に残る甘さの余韻をじっくりと堪能する。
ここまで全て、私の妄想である。実際、ここにはケーキなどないし、手に入れるための行動すらもしていない。頭の中のチョコレートケーキやチーズケーキ、フルーツタルトやパイを、ひたすら食べているという感覚だけをくりかえす。
いくら食べてもなくならない。いくら食べても満腹にはならない。胃がもたれてしまうこともない。けれども生クリームのケーキだけは、空想の中でも食べられないのだ。
私がこのような空想をするときは、決まって何かがうまくいかないときである。ひとつ片付いたら実現しようと思いながら、空想をし、目の前の現実に取り組むのである。
なかなか進まないときは、空想の中で食べるケーキが増えていく。紅茶やコーヒーも用意する。内装がお洒落なカフェまで現れる。シックな調度品に囲まれた、お茶の香りが漂う空間。もちろんこれも全て架空の存在だ。
終わったら、片付いたら、うまくいったら。そんな場所をセッティングして、美味しいケーキを鷲掴みして食べるのだ。
実現するのがいつになるのかはわからないけれど、もしかしたら空想に終始するかもしれないけれど、そんなことができるのならと、前へ進もうともがくのだ。あがいた先が幸せであることを願うのだ。
今日も私は空想の中でケーキにかぶりつきながら、目下の義務を果たそうと奮闘する。それすらもできないときは、たぶん、そう、空想だけでは限界だということなのだろう。
甘美な夢は所詮夢。現実でのフォローが必要だ。
つまり、私は、ごちゃごちゃと考えていないで、美味しいケーキを買いに走ればいいのである。
ひとまずは、うまくいかず片付かない諸々を、ぱあっと忘れて放棄して。
我に返ったら、散らばしたものを拾い集めればいい。
そうして私は何週間も何ヶ月も悩んだ挙句、汚部屋から這い出して、それなりに外に出られそうな格好で、ケーキ屋に向かったのだった。
妄想実現の日は近い。イコール、何も片付かないのにこんな贅沢をしてしまう自分に嫌気がさすときが近いということでもある。
あれと、これと、それ。食べたくて仕方なかったものを指さして、箱につめられたそれを受け取って、それから思うのだ。
この課題がひとつ片付いたら、いや、なにか思いついたらそれをメモして、書き終えたらケーキを食べてしまおう。だって、生ものだし。いつまでも置いておけないし。
さあ、だから、もう食べてもいい頃だ。いいはずだ。私はケーキが収められた箱を開けた。
というところで昨夜の夢が終わってしまったため、私は今、猛烈にケーキを欲している。妄想ははじめからやり直しだ。無限ループだ。
私はいつになったら実物のケーキを食べられるようになるのだろうか。