動悸、眩暈、吐き気、頭痛、など。酷いときにはこれらが一気に襲ってきて、起き上がるのも億劫になる。
もう何年も付き合っていて、しかしながら「原因不明」のまま現在に至る。そんな症状たちを、とりあえずは薬で和らげている。私は毎日、何種類もの薬の世話になっている。

朝、あるいは前日の夜から、胸のあたりがもやもやする。何かが溜まって呼吸を阻害しているかのようだ。息苦しさは次第に嘔気を呼び、しかしながらいの内容物を外に出すこともできず、ひたすらに具合の悪さを抱え続ける。
頭はぼうっとしてきて、ときおり鈍い痛みを伴う。かと思えば、何の前触れもなく突然ずきりと痛み、立っていることが辛くなる。
心臓は無理やり動かされているように脈打ち、体中に鼓動が響いているかのようだ。
言葉を発することもおぼつかなくなり、吃音ならまだまし、声が出なくなることなどざらにある。
夜は余計な思考が邪魔をして眠れない。掘り起こされる記憶が、涙をぼろぼろと誘発する。
最も酷かったのは、過呼吸が起こり、その場から動けなくなったときだ。このときばかりは救急車を呼ばれた。
涙が止まらなくなるという比較的軽度のものから、起き上がることができなくなるような重いものまで、症状の幅は広い。長いこと「原因不明」とされてきたこれらの現象だったが、あるとき、思い出したくないことが脳裏を掠めたとき、あるいは心に強い圧迫感を覚えたときに起こるということが判明した。
医者曰く「不安発作」とのこと。診断書には「不安障害」と記された。

日常生活に支障が出るかどうかは、日によって変わる。程度がそのときによってまちまちなので、人にはなかなかこの感覚を伝えられない。「だって今は平気じゃないの」と返されるのがオチなのだ。説明ができるときは、いくらか冷静になっているときなのだから。つまり、症状が出ていないのだ。
通院するようになってからは、症状を薬で抑えている。もやもやと襲い来る不安は、安定剤の類で落ち着かせる。一日三回、食後に必ず服用することになっている。飲み忘れると、さらなる不安に襲われる。
酷くなりそうなときや、不安要素があらかじめ予想されるときには、頓服薬を追加する。一日に一回、場合によっては二回以上入れる。
嘔気を止めるために、胃酸を抑える薬を安定剤と一緒に飲む。頭痛がするときは、さらに痛み止めを飲む。寝たいときには眠剤に頼り、何も考えないようにして、自らを眠りに落とす。
こうして「動けなくなるかもしれない」という不安を幾分か封じ込め、日常生活に臨む。これらの薬を飲み続けるためには、医師の診療を受けなくてはならない。どんな状況であれ、ある程度は稼がなくては生活ができない。誰もが営む日常の生活を、果たさなければならない義務を、「不安」なんかを理由に避けるわけにはいかないのだ。
「嫌なものから逃げているだけ」と思われないように、「ろくに仕事もできないのに存在されるのは迷惑」という視線を受けながら、焦りと恐ろしさの中で働き、病院に通って薬を飲む。
もう何年も付き合っているものたちなのだから、うまくやっていく方法を心得なければならないのだ。心得たいのだ。
自傷や首吊り未遂に逃げようとしたこともあったが、それよりは大量の薬で症状だけでも軽くしながら、生きていた方がいい。たぶん、そうなのだ。

そうして今日も、明日も、そのあとも、私は終わらない不安をごまかしながら、必ずどこかで晴らすのだと我武者羅になりながら、日々を過ごす。
それしか方法がないのなら、そうするよりない。
楽しいことが全くないわけではないのだから。生きていればいいことがあるということを知っているのだから。
そのために負わなければいけない義務があることも、理解しているのだから。
生を受けた以上、現実は直視しなければならない。たとえ薬を通してでも。そういう意地で、私は毎日這いずり回っている。