布製の袋に詰め込んで持ってきた衣類を、ドラム式の洗濯機に放り込む。持参した洗剤と柔軟剤を所定の位置に入れ、あとは洗いあがるのを待つばかり。
それまでの暇な時間は、さっき書店で買って来た小説を読みながら過ごす。お気に入りのシリーズものの、最新刊だ。
新築独特の匂いがするコインランドリーのだだっ広い空間には、洗濯機が奏でる低い音が響いている。だのにそんなものは気にも留めず、私は本の世界にのめりこんでいく。のめりこんでいきたかったのだ。
しばらく一人きりだろうと思っていた建物に、人がやってきた。抱えた荷物は当然衣類であり、尻のポケットには長財布が無造作に突っ込んであった。私と同じように衣類を洗濯機に放り込み、洗剤と金を投入して、彼は離れたところにある椅子に座った。
そこはちょうど雑誌の置いてある棚の近くで、やはり彼はその中の一冊を手に取った。私も気になる作品が載っているときだけは読んでいる、有名少年漫画雑誌だ。そういえば今週号では、あの長期連載はどんな展開になったのだろうか。今は何が流行りなのだろうか。
そんなことをぼうっと考えながら私自身が持っていた小説本に目を落としたが、一文字も読むことができなかった。
「週間少年フライ、読んでますか?」
疑問系で終わる言葉が聞こえて、私はすぐに顔を上げた。きょろきょろとあたりを見まわしたが、まさにその雑誌を読んでいた彼以外に、人間はいないようだった。正確には、私と彼の二人きりだ。
彼は雑誌から顔を上げずに、ページをめくっていた。まるで何事もなかったかのように。
だから私も、さっきの声は気のせいかと思って、再び自分の手元へ視線をやったのだ。だが、一文も読まないうちに行動は阻害された。
「フライ、読まないんですか? どっちなんですか?」
どうやら、というかそれ以外に考えられないのだが、その声は漫画雑誌を読んでいる彼から発せられているものだった。そして答えなければならないのは、私のようだった。
変な人と一緒になっちゃったなあと思ったけれど、無視するのも憚られて、私は呟くように返事をした。
「たまに、読みますけど」
「どの作品が好きですか?」
間髪いれずに次の質問がやってくる。私は頬を引き攣らせながら、好きではないが気になってはいる作品名を告げた。
「……『英雄探偵』とか」
「ブームの過ぎた作品を出してくるとは流石ですね。たまにとは言いましたが、実は結構読んでるんじゃありませんか?」
彼は妙に早口でまくしたててきた。ああ、本当に変な人に捕まっちゃったな。漫画オタクか何かなんだろうか。
あまり係わり合いになりたくはないが、ここを離れるわけにはいかない。離れたところで行く場所がないからだ。それに洗濯物を残していったら、何をされるかわかったもんじゃない。非常に穿った認識であることは理解しているが、不安なものは不安なのだ。
「そんなに読んでませんよ」
できるだけ無愛想に返したつもりだが、彼には伝わっているんだろうか。とてもそうは思えない。
「読んでない人から出る作品名じゃなかったですよ。『英雄探偵』のどんなところが好きですか? キャラクターは誰が一番魅力的ですか?」
こんな具合に、問いは次々と投げかけられる。口を開きながら、手はページをめくっている。彼は雑誌をちゃんと読んでいるんだろうか。読んでいるとしたら、私の読書の邪魔をしながら自分は漫画を楽しんでいるという彼の状況が腹立たしい。読んでいないとしたら、私のことは放っておいて漫画を読んでいたらいいのにと思う。
縋るように見た洗濯機の残り時間表示は、あと二十五分とあった。絶望的だ。そのあと乾燥もさせなくてはいけないというのに。
「あの、」
非常に怖くはあったが、私は勇気を振り絞ることにした。こんなことに、いつまでも付き合ってなんかいられない。
「私、本読んでるんで。集中させてください」
言った。言ってやった。これで話が通じなかったら、もう無視しよう。何を訊かれても答えないようにしよう。そうするしか、方法はないのだ。
彼は何も答えなかった。空間に響くのは、洗濯機の音と、雑誌のページがめくられる音だけ。どうかそのまま、それだけであってほしい。
私はもう一度小説を読もうとした。一文、一段落と読み進めていくうちに、その世界へのめりこんでいく。邪魔するものはなさそうだ。
けれども、やっと冒頭部分を読み終えることができた頃だった。戸が開く音が聞こえ、足音が響いた。人が増えたのだ。
「うわ、広い! チョー広くね? めっちゃ洗濯機あるし!」
しかもやたらと騒がしい人だ。コインランドリーなのだから、洗濯機があるのは当たり前だろう。
「ねえねえ、これどうやって使うの? 洗剤どこ?」
しかも話しかけてきた。私が仕方なく「洗剤は持参で……」と言いかけると、さっきのあの声がした。
「ギャーギャーうるせえんだよ」
私は生まれて初めて、自分の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。