学力検査が終わればダッシュで帰り、解答速報にかじりつく。自己採点のあとは一息ついて、それから翌日の面接試験に向けて心の準備をする。
三月の頭、公立高校入試が一段落。これが終われば、中学生活の終わりまで、残りわずか。長かったような、短かったような三年間を振り返りながら、春は自室で制服のまま寝転んだ。
一年生の頃。中央中学校にB組の生徒として入学し、やはり自分が一番背が低いことに悔しさを覚えた。その分周囲の子たちには可愛がってもらえたが、一方で怪力と称された力の強さには驚かれた。重いものを運べるからという理由で、色々な係を肩代わりしたこともあった。春自身は、それが自分の役割なのだと思って一所懸命に取り組んだつもりだ。色野山に登っての炊事遠足では、率先して道具を運ぶとともに、幼い頃から培ってきた料理の腕前を存分に披露することができた。
二年生になって、再びB組になった。体育用具を片付けていたときに、詩絵が話しかけてきてくれた。その時の会話は今でも憶えている。
「そういえば、名前聞いてなかった。アタシはC組の加藤詩絵」
「わ、私、須藤春。B組」
「スドウ?」
「ううん、ストウ。濁点つけないで読むのが正しいの」
「ああ、そうなんだ。ごめんね、間違って。じゃあ、間違えないように春って呼んでいい?」
「うん。……ええと、詩絵ちゃん。よろしくね」
あの気の良い笑顔が、ずっと春を助けてくれたのだ。いつだって、詩絵は自分が正しいと思うものを信じ、けれども他人のことを頭ごなしに否定したりはしなかった。
それから詩絵が、千花を紹介してくれた。同じクラスの友達だと、一年生のときから仲が良いのだといって。見た目と声が可愛い子だなと思った。
「園邑千花です。ええと、須藤春ちゃん、でいいんだよね」
「うん。よろしくね、千花ちゃん」
「よろしく! 嬉しいなあ、こんなに可愛い友達が増えちゃった!」
千花が片親であることなどは、そのあとの会話で知った。ついでに春が須藤翁の孫であることも、二人に伝えた。それからの一年間は、三人で集まっては楽しく過ごしたものだった。夏祭りだって一緒に見に行ったし、一泊二日の宿泊研修も三人での写真をたくさん撮ってもらった。春だけが違うクラスだったが、そんなことは関係なかった。
そして三年生。クラスが変わり、詩絵と同じC組になった。千花とはクラスが離れてしまったが、またこれまでと同じ一年が卒業まで過ぎていくものだと思っていた。それを変えたのが、四月のある日の告白だった。
「オレと、……付き合ってください!」
初めての、男の子からの告白。ちょっと軽そうな見た目の彼を、最初はイタズラ目的じゃないかと疑った。けれども彼のことを知り、一緒に過ごすうちに、春のほうもまた惹かれるようになっていった。新の存在が、春を、春たちを、思いもかけない方向へと導いたのだ。
運動会に、修学旅行に、夏休み、文化祭。何度もあったテストの対策をした勉強会。どれもたくさん悩んで、たくさんがんばって、たくさん楽しい思い出ができた。その中で春が得たものは、数えることができない。全てが大きな一つのものになって、この心に残っている。
その話をしたら、する機会を与えられたなら、きっと面接の時間だけでは足りないだろう。何が何でも礼陣高校に入学して、もっとたくさんの人に教えたい。
自分たちが辿ってきた、最高の軌跡を。
入試の日程が全て終わった三年生は、残りの登校日で卒業式の練習をしたり、外部講師を呼んでの講演会を聞いたりする。一、二年生は学年末テストの真っ只中なので、そんな三年生を羨ましがるが、こちらはこちらで忙しいのだ。彼らもこの立場になってみればわかるだろう。
「式歌斉唱ってなんであるんだろうね……」
相変わらず歌うことは苦手な詩絵がぐったりしているのを見て、春は苦笑する。卒業式では校歌の斉唱と卒業生による合唱が式次第に組み込まれていて、今はその練習中だ。三学年全員で同じものを歌うので、練習は四クラス合同になっている。
文化祭での合唱コンクールと違い、千花や新たちとも一緒に歌えるので、春は楽しい。詩絵もそのことは良いらしいのだが、いかんせん音程を合わせることが難しいので、他クラスにも迷惑をかけていないかと少々落ち込んでいた。
「大丈夫だよ、詩絵ちゃん。どうせ卒業式はみんな泣いちゃってまともに歌えないんだから、音が外れてたって誰も気にしないよ」
「千花、それフォローになってないからね。あとアタシはかっこよく卒業したいの。跡を濁したくないの」
体育館で、休み時間ごとに交わされる会話。クラスという垣根を越えて、全員で一つのことに取り組むのは、これが最初で最後だ。
卒業式の練習だけではなく、卒業制作として巨大なモザイクアートも作っている。美術部員を中心にデザインした下絵に、小さく千切った色紙をパネルに貼りつけていくのは、地味ではあるがなかなか楽しい作業だ。
こうして入試以降の三年生は、卒業式までの日々の多くの時間をそのための準備に使う。三月の半ばにある卒業式までは、あまり時間がないが、練習も作業も大きく見れば順調なので問題はない。これが夏より前の人間関係のままだったなら、もっとぎくしゃくしていたかもしれないが。
「修学旅行のときには、三月なんてまだ先だなと思ってたけど。いざ迎えてみるとあっという間だよな」
晴れ晴れとした表情の新が言うと、その「あっという間」は密度が濃く思える。あれから彼を取り巻く環境も随分変わった。彼が自分で変えたのだ。けれども新自身は、その変化を春たちのおかげだと思っている。
四月のあの日、春に告白して良かったと思っている。振られてはいるけれど。
「そういうわけで、卒業式本番までもあっという間だ。それまでに詩絵はもうちょっと歌えるようになっておけよな。そんなに酷い音痴だとは思ってなかったぞ、オレ」
「黙れ新。合唱コンクールで特訓したから、少しはマシになったかと思ってたのに……」
「実際、指揮に合わせることはできるようになってるからね。詩絵ちゃんは上達してるよ」
「また指揮に合ってなかったら、浅井に申し訳ないわ」
合唱コンクールで指揮者賞をとった浅井が、式歌でも指揮を務めることになっている。そのおかげもあってか、詩絵は音程こそ外してしまうものの、拍をとることは完璧にできていた。それさえできれば、千花の言う通り、本番は音程を外してしまっても目立たないはずなのだ。
一年のうち、どれだけ泣いても良い日が何度かある。卒業式はその一つだ。
中学生ではなくなるその日が近づくにつれて、春と新には募る悩みがあった。別々に悩んでいるのに、その内容は同じものなので、周囲は非常にやきもきしている。
「春、入試終わったら新に告白するって言ってたよね。どうなったの?」
教室の掃除をしながら、詩絵が尋ねる。一方その頃、A組でも同じ問いが投げかけられていた。
「新君、春ちゃんに再告白しないの? せっかく入試も終わったし、もうそろそろいいんじゃないかな」
千花に言われて、新は返答に困る。そしてC組では、春が詩絵に答えられない。もう一度告白すれば絶対にうまくいくことがわかっているのに、当人たちはなかなか行動に踏み切ろうとしないのだった。
「だって、なかなかタイミングがわからなくて……。そもそも新って、まだ私のこと好きなのかな」
「また告白して、春にその気がなかったらと思うとな。なかなか言い出せなくて……」
別の教室にいるのに、詩絵と千花は同時に溜息を吐いた。
このままだと「卒業式が終わってから」「入試の結果が出てから」「高校生になってから」などとことを先延ばしにしかねない。とりあえずは卒業式を目途として、二人にはそれぞれの気持ちを打ち明けてもらおう。家に帰ってから連絡をとって、詩絵と千花はそう話し合った。
春は悩んでいる。いくら新の問題が解決したからといって、告白して、それがうまくいって付き合うことになったら、それから新とどう接したらいいのだろう。それに、詩絵や千花が自分たちに遠慮して、距離を置くようになってしまったら寂しい。
新は悩んでいる。春に再び告白をして、今度こそ付き合えたとする。けれどもそのあと、どうしたらいいのだろう。春が好きな女の子であることはずっと変わっていないし、これからもきっと変わらないのだろうけれど、今まではそれとは関係なく友人として良い関係を築いてこられた。そのきっかけをつくってくれた詩絵や千花との友情も捨てがたい。
これまでのちょうど良かった関係が、告白を機に変わってしまうことが、二人とも怖いのだった。
「……まあ、おおかたそんな感じのことを考えてるんだろうなってのはわかるんだけどさ。別に告白したところで、何も変わんないと思うんだけどね」
電話口で、詩絵は呆れたように言う。千花も頷きながら、携帯電話を片手に家を出る支度をしていた。今日も隣の家で夕飯をとらせてもらうのだ。
「今までだってよく二人の世界に入ってたこと、気付いてないのかな。新君には自覚してほしいんだけど」
「春もね。見ててじれったいったらありゃしない。だいたい、あの二人がくっついたところで、アタシらが離れてくわけないじゃん。だってかまいたいし」
「詩絵ちゃん、本当に正直だよね。私も同じ気持ちだけど」
今更この関係をやめるつもりはないし、やめられない。それは詩絵や千花に限ったことではない。春と新にも、わかってほしいのだけれど。
「じゃあ、作戦はまた改めて立てるということで。千花、そろそろお隣行くんでしょ?」
「うん。またね、詩絵ちゃん」
電話を切って、二人はもう一度溜息を吐く。空にはぽっかりと月が浮かんで、かすかに花の香りが漂う夜だった。
卒業式までに遂行しておかなければならないミッションはまだある。各クラスで、教員たちに見つからないよう、生徒だけでこっそり回し合っている色紙もその一つだ。これには担任へのメッセージを書くことになっている。
「詩絵はたくさん書くことあるよね。ちょっと多めに空けておいてあげようか」
ひかりがペンを弄びながら言うが、詩絵は首を横に振る。
「そんなにたくさんはないよ。井藤ちゃんには、言いたいことは直接言ってるからね。色紙は一言で済ませるつもり」
「えー、意外……でもないか。三年間井藤クラスだもんね、詩絵は。じゃあ、春はたくさん書く?」
「私も一言だけになっちゃうと思う。井藤先生のクラスにいたのはこの一年だけだけど、色々相談したりしたから」
春も笑みを浮かべながら、井藤クラスの一員として過ごした日々を思い返す。二年生の時までの幕内クラスも良かったが、三年生になってからの一年はまた別格だった。井藤にはたくさん話を聞いてもらったし、助言もしてもらった。これ以上何かを言うなら、それはたった一言に集約できる。
「じゃあ、色紙は三十人分均等にスペースを分割しよう。……でも、なんかまだ実感湧かないんだよね。井藤クラスから卒業して、みんなバラバラになるっていうのがさ。もちろんあたしは詩絵と春と同じ学校に行くつもりだから、別れるとは思ってないけど」
色紙にシャープペンで薄く線を引きながら言うひかりの表情は、たしかに別れの寂しさなど感じさせないものだった。けれども、同じ志望校の者がみんな希望通りの進路に行くとしても、絶対に別れなくてはならないのがこの学校であり、学校の教員たちだ。この町にいる限りはどこかですれ違うこともあるかもしれないが、そのときはもう先生と生徒ではなくなっている。他校へ進学する同級生は、クラスメイトから元クラスメイトになる。その実感が、ひかりだけではなく、春や詩絵にもまだなかった。
「こうやって色紙回すのも、なんだか変な感じだよね。卒業式の練習とか、卒業制作とか、そういうのも。まだどこか他人事って感じがする」
「そうだね。もう一年くらい中学生活ありそうだもん。受験だって終わったのに」
実感がなくとも、時間は過ぎる。持ちかえたペンで、ひかりはしっかりとした字で色紙にメッセージを書いた。そしてその隣に、「笹木ひかり」と自分の名前を添える。これを手本にして、クラス全員が井藤へ贈る一言を書いていくのだ。
同じことを、A組でもしている。こちらはC組より早く色紙が回り始めていて、もう半分ほどが埋まっていた。筒井から色紙を受け取った新は、何を書こうかと考える。しばらくペンを持ったまま他のメッセージを眺めていると、パターンが二通りあることがわかった。
「新君、書くこと決まった?」
そこへ千花が突然現れ、声をかける。このパターンには慣れたはずだが、毎度のことちょっぴり驚かされる。
「また急に来る……。千花はもう書いたのか?」
「ううん、新君の次に書かせてもらおうと思って待ってる」
「決まってるなら先に書いていいぞ」
「新君のが読みたいから、次がいい」
相変わらず、笑顔でとんでもないことを言う。けれどもそれでこそ千花だと今は思えるので、新は言われた通りにさきにメッセージを書いた。千花の顔を見たら、一気に服部との思い出がよみがえってきたのだ。
簡単ではあるが、これまでの想いを全て込めたつもりだ。その横に自分の名前を添えて、千花に色紙を渡した。
「わあ、本当に一言」
「でもこれ以外に言いようがないだろ」
「そうだね。私もそうだもの」
千花も空いているスペースにさらさらとメッセージを書く。新とさほど変わらない内容だ。けれどもこの一言には、この一年の紆余曲折が全て詰まっている。短い言葉だけれど、きっと服部には伝わるはずだ。
お世話になった人たちに、想いが届きますように。大きめの色紙は、そんな気持ちで埋まっていく。卒業式のその日に、渡せるように。
卒業式の三日前。土日を挟むので、この日が最後の授業日だった。とはいえ授業らしい授業はない。卒業式の入退場練習を全学年合同でやり、歌の練習を三年生だけで行ない、モザイクアートを完成させた。七色の光に向かって大きく羽ばたく鳥の絵は、体育館に掲げてみると思った以上に見事な出来栄えで、生徒だけでなく教員からも歓声があがった。
ロングホームルームでは、卒業式の心構えについて各クラスで話があった。中央中学校の生徒として、堂々と胸を張って卒業していくこと。それが教員それぞれの、独特の口調で説かれる。舟見が担任のD組では真面目に厳かに、幕内のB組では明るくかつ気品を持って。服部のA組は淡々としているようで、どこか緊張していて。井藤のC組は気楽そうだったが、内心では当日のことを考えるとどきどきする。
特に井藤と服部は、初めて担任を務めた生徒たちが卒業していく。彼らの生徒として相応しく卒業していこうと、期待に応えてみせようと、誰もが思っていた。
「卒業式の流れは、練習でしっかり覚えたな。退場したあと、教室に戻って最後のホームルームをやる。それから記念撮影をして、一旦解散になるからな。でもすぐに謝恩会があるから、後輩に挨拶するのもいいけど、できるだけ速やかに会場に移動すること」
井藤の、そして同じ内容の服部の説明に、詩絵と千花は離れた場所で同じことを思う。スケジュール上、卒業式当日は新と春を二人きりにしてやる時間がなさそうだ。謝恩会前に告白をと考えていたが、春は陸上部の、新は弓道部の後輩たちと話すだろうし、謝恩会には保護者も参加する。さすがに今回の行事には、新の親も来るらしい。
周囲の心配をよそに、新と春はいつも通りに会話をしている。気持ちを伝えるそぶりはない。いったいいつになったら彼らにとってのチャンスは訪れるのだろうか。
結局その日も放課後を迎えてしまった。もう新は塾に行かないし、春も急ぎの用事はないので、このあと時間はある。ここで二人きりにさせようかと、詩絵と千花が頷きあったときだった。
「入江、ちょっと顔貸せ」
いつの間に近づいてきていたのか、牧野が新に声をかけた。
「なんだよ、牧野。最後の最後までオレに文句があるのか」
「そんなところだ」
呆れたように溜息を吐きながらも、新は牧野に連れられて行く。春が「喧嘩しないでね」と慌てて声をかけると、牧野は振り向かずに「喧嘩するわけじゃねえよ」と返事をした。それを聞いてもまだはらはらしている春の後ろで、詩絵が頭を抱える。
「告白するなら今しかなかったのに……タイミング悪いなあ、牧野」
「でも、牧野君のことだから、新君にどうしても言いたいことがあったのかもしれないよ。それも大事だよ」
千花が詩絵を宥めていると、またもや近づいてくる影があった。今度は二人組だ。彼女らは不機嫌そうにも見える態度で、こちらに呼びかけた。
「須藤さん、話あるんだけど」
春が振り向くと、そこには佐山と羽田の姿がある。千花ではなく春に用事だなんて、どういうことだろう。――思い出されるのは、修学旅行のときのできごとだ。千花は反射的に身構える。
「佐山さんたち、春ちゃんに何の話があるの?」
「園邑には……まあ、関係なくもないけど。いいや、ここで言う」
春を睨むようにして――しかしこれが彼女のデフォルトだ――佐山は羽田の背中を軽く押した。羽田は大きく頷いて、春に向かって言葉の直球を投げた。
「須藤さん、入江君とまだ付き合ってないの?」
「え?! ……うん、付き合ってないよ」
躊躇いがちに春が肯定すると、羽田は「なんで?」と眉を寄せた。
「須藤さん言ってたよね。入江君のことが好きだって。入江君も須藤さんのこと絶対好きだよ。そうとしか思えないもん。それなのに、なんで付き合わないの? 好きだってちゃんと言った?」
浴びせられる問いに、春は萎縮しながら首を横に振る。見かねた詩絵が割り込もうとしたが、しかし、それは千花が止めた。
「千花、なんで……」
「ちょっと様子を見ようよ。羽田さんたち、春ちゃんを責めに来たわけじゃないと思う」
いつかとは違う、と千花は感じている。あのときは佐山が春に対して一方的に文句を言っていたが、今回はそうではない。彼女らは春に尋ねているのだ。どうして新に、自分の気持ちを伝えないのかと。
春はその問いを理解したうえで、困った顔のまま答えた。
「好きだって、まだ言ってない。好きだったら付き合わなきゃいけないのかな。それで詩絵ちゃんや千花ちゃんと一緒にいる時間が少なくなったり、新のことを優先しなくちゃいけなくなったりしたら、今までの関係が変わっちゃったりしないかな。……そんなことを考えちゃって、なかなか言いだせないんだ」
詩絵や千花が、そして新を除く他の誰もが予想していた通りの答えだった。それを聞いた詩絵は佐山と同時に溜息を吐き、羽田はずいっと春に近づいた。思わず身を引こうとした春に、羽田はその隙を与えずに言う。
「いいじゃん、付き合ったって。好きなんだから一緒にいていいじゃん。好きな人を優先して、何がいけないの」
「そうやって付き合って、彼氏のことばっかりになったら、友達はどうなるの? これまでみたいにみんなで集まってお喋りしたりできなくなるのは嫌だよ。私は詩絵ちゃんや千花ちゃんに遠慮されたくないの!」
春も後退るのをやめて言い返す。抱えていた気持ちを、そこに当人たちがいるのを忘れて吐き出した。それからハッとして、おそるおそる友人たちを見た。
呆れているだろうと思った。恋愛と友情を秤にかけた春から、離れていってしまうかもしれないと不安になった。けれどもそれは一瞬で、春は二人の表情に驚いた。
詩絵と千花は、笑みを浮かべていた。
「甘いな、春は。アタシたちが遠慮なんかすると思ってたんだ?」
詩絵は腕組みをして、いたずらを思いついた子供のようにニヤニヤしている。
「放ってなんかおかないよ。だって面白いもん、春ちゃんと新君。二人が付き合うようになったら、もっと面白がってあげる」
千花は発言こそ性質が悪そうに聞こえるが、その表情はいつもの明るい笑顔だ。
春から本当の気持ちが聞けて、二人は嬉しかった。それを引き出してくれた佐山と羽田に、感謝すらしていた。
「アタシたちは離れてあげないよ、春。……まあ、アタシは礼高に合格してたらだけど」
「春ちゃんこそ、遠慮せずにこれからも仲良くしてほしいな。新君とは存分にイチャイチャしてくれていいけど、何かあったらすぐに私たちに言ってほしい。詩絵ちゃんともね、ずっとそんなことを話してたんだよ」
春は何を心配していたのだろうか。詩絵や千花が離れていってしまわないかということだったと思っていたが、その実、自分が詩絵や千花を遠ざけてしまわないかどうかが一番気がかりだったのではないか。春さえ二人と一緒にいたいと思っていれば、何も不安に思うことはなかったのに。
だって二人こそが新と友達になって、春と引き合わせてくれたのだ。ずっと応援してきてくれたのだ。詩絵と千花が春と新に遠慮するなんてことは、これまでから考えると、まずないはずのことだった。どうしてそこに思い至らなかったのだろう。
「……私のほうが、遠慮してたんだね」
胸に抱えていた重いものが、すうっとなくなったような気がした。春の表情に、やっと笑顔が戻る。
「そういうこと。わかったら、ちゃんと新に告白しなよ?」
「応援してるからね、私たち。佐山さんと羽田さんもそうだよね?」
「はねちゃんが応援するなら、してやらないこともない」
「あたしは応援してあげる。だって入江君、あたしが好きになった人だもん。あんなに良い人に好きになってもらえるなんて、須藤さんは幸せ者なんだからね!」
春の背中を押してくれるだけではなく、新がちゃんと春を好きだと信じてくれている。こんなに助けられて、行動しないなんて選択はない。
春は決心し、頷いた。新に告白しよう。ちゃんと面と向かって、自分の気持ちを伝えよう。一度は振ってしまったけれど、そんなことはもう関係ない。今は春が、新を好きなのだ。
牧野に連れられて新がやってきたのは、昇降口だった。外に出ればグラウンドが見えるそこで、牧野はおもむろに口を開く。
「入江、まだ須藤に告ってねえの?」
「……まだだけど。お前が先に告白するか? 順番、譲ってやってもいいぞ」
半分は冗談で、半分は本気で、新は返す。まだ春に告白する勇気が足りていないので、結果がどうなろうと、順番は牧野に譲ってやってもかまわないかと思ったのだ。けれども新は知らないだけだ。牧野はとうに、行動に出ている。
「俺、とっくに告ったぜ。修学旅行のときに」
「え、マジ?」
「マジ」
言葉の通り大真面目な顔で、牧野は首肯した。結果は、と尋ねようとして、新は口を噤む。牧野にとってそれが良い結果だったなら、春はもう牧野と付き合っていることになる。それなら詩絵や千花が知っていていいはずだ。
「牧野、振られたのか」
「はっきり言うんじゃねえよバカ」
眉間にしわを寄せ、牧野は新を睨む。けれどもその意味は、新に事実を指摘されたからだけではない。いい加減、彼もうんざりしていたのだ。
「入江さ、ずっと須藤につきまとってるよな。それなのになんで告白しねえの? 一回振られたからか? お前って、そんなに臆病なの?」
畳みかける牧野に、新は一瞬怯む。一度振られたから、またそうなるかもしれないと不安で、告白できない。それは新にとっての事実だ。春のことを以前より知って、もっと好きになったからこそ、その不安は大きくなっていた。――ようするに、牧野の言う通り、臆病になっていたのだ。
「ったく、龍堂に合格しなきゃいけないことより怖いことがあるとは思わないんだけど」
「いや、オレが怖かったのは龍堂がどうとかじゃなく、春とこの先も一緒にいられるかどうかわからないことだった。春と一緒に礼高に行って、弓道に打ち込むことが、オレの希望だったから」
「じゃあなんで須藤に告白しねえんだよ!?」
新の希望を叶えるための条件は、いくつかあった。一つは龍堂高校に合格してみせ、礼陣高校受験を可能にすることだ。それはもうクリアした。けれどもこの先も春と一緒にいるためには、現状維持でもたしかにいいのかもしれないが、本当にそれだけでいいのかという疑問はあった。
だって新は、春のことが好きなのだから。現状維持では物足りなくなってしまっているのだから。
「入江見てると本当にイライラする。なんでここまできて、もう一回告白しようと思わねえんだよ。あんなに春、春ってうるせえのに、変なところで奥手ぶりやがって」
悔しいけれど、言い返せない。黙ったままの新に、牧野はさらに重ねる。
「俺がライバルだって認めてやったんだ。正々堂々告白しやがれってんだ!」
その言葉に、新は目を丸くした。――ライバル。牧野はいつから、新をそう認識していたのだろう。運動会のときから? いや、もう少し前からだろうか。あのときにはもう、彼は新を睨んでいたのだから。
新もあれから、牧野を意識してきた。彼に負けないよう、自分こそが春の目に留まるよう、努力してきたつもりだった。このまま告白しないということは、それをふいにしてしまうということにならないだろうか。
少なくとも牧野は、そう思っている。思ってくれている。先に戦って負けた彼が、新にも戦えと言っている。
「……牧野が告白してたんなら、オレは行動力では負けてたことになるな」
「そうだな。頭の出来も運動会のリレーも、悔しいけど負けた。でも須藤に告白はしたぞ。胸張って振られた。このまま入江が臆病者のままなら、この勝負はお前の不戦敗だな」
それは春に振られることと、どっちがつらいだろうか。少なくとも告白すれば、結果はどうであれ、牧野と引き分け以上にはなるのだ。
勝負を投げだすなんて、男らしくない。格好良くない。春に対しては、弱音も吐いたけれど、できるだけ格好良くいたい。そして、ライバルである牧野に対しても。
「不戦敗になんかなるか。……そうだな、ぐずぐずするのはやめだ。勝負を決めてやる」
新が強い口調で宣言すると、牧野は一瞬だけにやりと笑った。それからすぐに笑みを引っ込め、仏頂面になると、新の背中を思い切り叩いた。
「いってえ! 何するんだよ!」
「気合入れてやったんだろ。臆病新」
そっけなく呼ばれた「新」という名前。春に呼んでもらったときは相当嬉しかったが、意外にも牧野に呼ばれても嬉しいものだった。けれどもそれは表情に出さず、新は牧野に尋ねる。
「牧野、下の名前何だっけ」
「亮太朗」
「うわ、意外と長かった。マキでいいや」
「勝手に人の名前を略すんじゃねえ」
きっと彼も、いつからそうなったのかはわからないが、新の友人だったのだ。こうして背中を押してくれるくらいには。
翌日は土曜日。春は布団にくるまって、泣きそうになっていた。昨夜からなんだかだるいなと思っていたら、熱が出ていたのだ。卒業式直前だというのに、ついていない。
新に告白しよう、ということを考えすぎたからだろうか。季節の変わり目は風邪を引きやすいとはいうが、そんな気配はなかった。だとしたら、やはり知恵熱のようなものなのだろう。どちらにせよ、このまま熱が下がらなければ困ったことになる。卒業式に出られなくなることだけは、なんとしても避けなければ。
とりあえず、今日はゆっくり寝ていよう。熱があるということは伝えてあるので、家のことは祖父がやってくれる。あとは水分をきちんととって、額に熱を吸収してくれるシートでも貼っておこうか。明日はともかく、明後日は絶対に休めないのだから、大人しくしていよう。
寝返りをうとうとしたところへ、戸の向こうから「春」と呼ぶ声がした。少ししゃがれた祖父の声は、心なしかいつもより優しい。
「買い物に行ってくるが、欲しいものはあるか」
「うん……。うどんが食べたいからうどん玉と、ネギがあると嬉しいかな。それと、詩絵ちゃんちのパンが食べたい」
「食欲はあるな。安心した。それじゃ、行ってくるからな」
祖父がちょっと笑いながら、階段を下りていく音が聞こえる。それが遠ざかると、家の中はしんと静まりかえる。もう一眠りしようかと目を閉じて、瞼の裏に新の顔が見えた。やっぱり、熱の原因は新かもしれない。
受験がひとまず終わったので、詩絵は実家のパン屋の手伝いに精を出している。看板娘の復活に、店を訪れる人々が喜んでくれているので、詩絵も嬉しい。高校生になったらレジも任せると母が言っていたので、ますます張り切っているところだ。
今日も元気に「いらっしゃいませ!」とお客を迎えたら、入ってきたのは須藤翁だった。すでに何軒か商店街の店をまわってきたようで、提げた籠(たぶん手製だ)は重そうだ。ネギも覗いている。
「やあ、詩絵ちゃん。リンゴとシナモンのやつはまだあるかい?」
「こんにちは。ちょうど焼き立てが出るところですよ。今日は春は留守番ですか?」
「春は昨夜から熱を出しおってな。だからほら、うどんの材料と桃の缶詰」
「え、熱出したんですか? 風邪?」
須藤翁が見せてくれた籠の中身を覗き込みながら、詩絵は春を心配する。卒業式には出られるのだろうか。風邪で欠席なんてシャレにならない。もし出ることができても、途中で具合が悪くなったりしたら大変だ。
「風邪じゃなさそうだったな。喉が痛いとか頭が痛いとか、そういうことは言っていなかったし。卒業式前だから緊張でもしてるんじゃないか」
須藤翁はのほほんとしている。さほど心配はしていないようだ。これなら、春の具合もとても悪いというわけではなさそうで、詩絵もホッとする。さらにうどんとこのパン屋のパンが春からのリクエストであることを聞いて、大丈夫だと確信した。食欲があるなら、いつもの春と同じだ。
そしてたぶん、緊張からくる発熱なら、それは卒業式があるからではない。
パンを買って帰っていく須藤翁を見送りながら、詩絵はどうやって春を元気づけようか考えていた。下手なことをするとまた熱が上がりかねないけれど、聞いたからには放っておけない。しばらくして出した結論は、千花に電話をしてみるということだった。
「はいはーい。私から伝えてみるね。きっと参考になるだろうし」
詩絵からの電話で事態を把握した千花は、携帯電話をそのまま持ちかえて、メールの画面を立ち上げた。送る先は決まっている。
簡単な挨拶と、春が熱を出したこと、けれどもどうやら心配はしなくていいようだということを素早く打って、送信のキーを押す。こうしてメールを送るのも、もう何度目だろう。お互いに携帯電話を持っていると知ってから、すぐに電話番号とメールアドレスを交換して、主に春についての情報をやりとりしていた。それ以外には、クラス内での連絡など。
同じクラスで、自分の携帯電話で連絡が取れていたから、もしかしたら春は千花のことが羨ましかったかもしれない。冗談っぽく「いいなあ」とは言われたことがあるけれど、本当はやきもちも妬いたのではないか。千花はちょっとだけ悪いことをしたなと思っている。
でももうすぐ、春や詩絵も携帯電話を持つことになっている。そうしたら、みんなで連絡をとりあえる。春は、詩絵は、どんなメールをくれるだろう。その日が楽しみだ。
「うーん、でも、やっぱり……」
一番は、直接会って話ができることだけれど。これまでのように、平日は毎日会って、ときどき休みに遊びに行って。この一年ではできなかったことを、これからの日々で思い切り楽しみたい。
高校に入学する頃には、近くの色野山の桜が見ごろを迎えているだろう。今年こそは、みんなでお花見でもしたいものだ。
そんなことを考えていたら、さっきのメールの返事がきた。[ありがとう。参考にする。]という短いメールは、春が相手だと長文になるのだろうか。妬いても仕方ないような素っ気ないメールも、春は「いいなあ」と言うのだろうか。きっとこれから春たちが交わすメールのほうが、内容も文章も濃いものになるだろうに。
それを想像して、千花はクスリと笑った。
ポケットに突っ込んでいた携帯電話が震える。取り出して開くと、千花からのメールを受信していた。
[こんにちはー。どうやら春ちゃんが熱を出したみたいだって、さっき詩絵ちゃんから電話がありました。でも大したことないみたいだから、卒業式には出られると思うよ。明日はちょうどホワイトデーだし、何かお菓子でも持ってお見舞いに行ってみたら喜ぶんじゃないかな。]
文章に目を通した新は、先ほどから見ていたケーキのショーケースからそっと離れた。熱があるのに、クリームをたっぷり使ったケーキはちょっと重いだろう。
実は新は、千花に言われる前からちゃんとホワイトデーのことを考えていた。そこでわざわざ列車で門市まで行き、デパートの地下で春に贈るお菓子を選んでいたのだった。そこへちょうど、情報がもたらされたというわけである。
ホワイトデーもバレンタインデーと同じく日曜日なので、もともと春の家までプレゼントを届けに行くつもりだった。それがお見舞いに変わっただけなので、当初の予定は変わらない。だが、その内容は考え直さなくてはならなくなった。
まず春の体調を考えると、ホワイトデーにかこつけて告白しようという計画は諦めるしかなさそうだ。千花は心配しなくてもよさそうだというが、それでも春に負担をかけたくない。なにしろ月曜日には卒業式が控えているのだから。
それに、いくら春が食べるのが好きだからといって、あまり胃を刺激するようなお菓子を選ぶのも避けたほうがよさそうだ。千花のメールに短く返信をしてから、新は周囲を見渡した。
デパ地下にはたくさんの店が入っていて、このあたりにはそこかしこに色とりどりの可愛らしいお菓子が並んでいる。クリスマスに女の子たちに贈ったマカロンも、ここで買ったものだ。あれを春はたいそう気に入ってくれたようだったが、また同じものというのも芸がない。さっき見ていたケーキは、具合の悪い春が食べるには少々大変だ。
ちょうどいいものはないかと、また広い地下フロアをうろつき始めると、ある一角に目が留まった。そうだ、これなら具合が悪くても、もしかしたら風邪で喉を痛めてしまっていたとしても、さほど問題なく食べられるのではないだろうか。なんとなく体にも良い気がする。可愛い袋に詰めてあるし、このまま渡しても遜色なさそうだ。
新はすぐに店員に話しかけ、それを買った。春は喜んでくれるだろうか。熱も下がっていればいいのだけれど。――こういうとき、春にすぐに連絡できないのは、ちょっとだけ不便だと思う。
祖父が買ってきてくれたパンをおやつに食べながら商店街の話を聞き、晩ごはんにはダシのきいた温かいうどんにネギをたっぷり入れて食べ、食後に缶詰の桃までぺろりと平らげた春の熱は、翌日にはすっかり下がった。症状が残っていないので、やはりあれは知恵熱だったのだろう。
窓から射し込む、暖かな光が気持ちいい。支度を済ませて朝ごはんの準備をし、これも祖父と一緒にきれいにいただく。明日の卒業式に向けて、体調は万全だった。
「何だったんだろうな、昨日の熱は」
祖父は不思議がったが、春はその理由と思われることを言えない。新に告白することを考えていて熱が出ただなんて話せば、祖父はここぞとばかりにからかってくるだろう。挙句、仏壇に向かって高らかに報告するところまで想像できた。
笑ってごまかしながら、食器を片付け、昨日はさぼってしまった部屋の掃除をする。もう使わない教科書やノートの類も、復習のために必要になりそうなもの以外は処分してしまわなければ。どこかにこれらをまとめられるような紐はなかっただろうか。
昨日寝ていた分を取り戻すように忙しく動き回っていると、呼び鈴の音がした。祖父は仕事をしているだろうから、春が急いで出なくてはならない。階段を駆け下り、「はーい」と返事をして、引き戸を勢いよく開けた。
きっと近所の人が、回覧板を届けてくれたり、祖父におすそ分けと称して何か渡しに来たのだろうと思っていた。だからその姿を見たとき、本当に驚いたし、心臓が口から飛び出るのではないかと思った。それから、まだ熱があるのではないかと、自分の体調や目を疑った。
けれどもそこに立っていたのは、たしかに、どう見ても、新だった。
「や、春。熱出したって聞いたけど、起きてていいのか?」
笑っているけれど、心配してくれていたらしい。表情に少し戸惑いがある。だいたい、春が熱を出していたことを、どうして知っているのだろう。月曜日には平気な顔をして、学校へ行こうと思っていたのに。
半ばパニック状態になりながらも、春はなんとか言葉を発した。
「熱は、下がったけど。あの、どうして急にここに?」
以前一度来たことがあるとはいえ、また訪れる理由が思い当たらない。勉強を詰め込む必要がなくなって、行動が自由になったからといって、新が春の家に立ち寄る用事などあるのだろうか。また熱が上がりそうだと思いながら、春は新の答えを待った。
「お見舞いついでに、渡したいものがあって。春、バレンタインにお菓子くれただろ」
「ああ、そういえば……」
先月、そういうこともあった。そしてやっと、今日が三月十四日、ホワイトデーであることに思い至る。やっと春の思考が追いついたときには、新はもう可愛らしいリボンのかかった透明な袋を、提げていたカバンから取り出していた。中に小さな白い球状のものがたくさん入っている。
「お返し、色々考えたんだけど。オレは春たちみたいに手作りとかできないし、かといってあんまり甘ったるいものは、春の具合に良くないんじゃないかと思って。薄荷は平気だったか?」
「うん、大丈夫。あの、これ、わざわざ用意してくれたの?」
「春のためなら何でもするよ、オレは」
優しい笑顔とともに、ホワイトデーの贈り物は春の手に渡る。あんまりびっくりして、でもラッピングが可愛くて、それ以上に嬉しくて、春はしばらく言葉を失っていた。それをまだ具合が悪いのかと思ったのか、新は「大丈夫か?」と心配そうに言った。
「熱下がったなんて言ってたけど、やっぱりまだ本調子じゃないんだろ。明日に響いたら困るから、もう帰るよ。お邪魔しました」
「え、ううん、本当に大丈夫だよ」
あわてて返事をしたが、新はもうこちらに背を向けようとしていた。このまま帰したくない。帰ってほしくない。でも、新が気を遣ってくれたのを無碍にもしたくはない。だったら、今言えるのはこれだけだ。
「ありがとう、新。これ、すごく嬉しいよ!」
「うん。それなら良かった」
また明日な、と手を振る新に、春も同じようにして返す。「また明日」と呟くように言いながら、貰ったものを胸に抱きしめた。
少しの間ぼうっとして、完全に新の姿が見えなくなってから、ようやく玄関の戸を閉める。それから急いで二階へ駆けあがり、自室に飛び込んだ。
手から伝わる感触が、耳に残る声が、この目に映るものが、さっきのことは夢でも幻でもないと証明している。おそるおそる包みを開けて、中に入っていた小さな袋を一個取り出して裂き、乳白色のキャンディーを口に放り込んだ。――味覚も本物だ。口の中にミルクの甘さと、薄荷独特の涼しさが広がった。
「美味しい……」
これならきっと、本当に風邪をひいていたとしても食べられただろう。そこまで考えて、新はこのキャンディーを用意してくれたのだ。春のために。
「さっき引き留めて、告白すればよかった……」
新は春を気遣ってすぐに帰ろうとしていたのだから、春がそれを遮って、気持ちを伝えるべきだったのだ。結局また、チャンスを逃してしまった。
舌の上で溶けていく飴を味わいながら、春はまた熱が上がっていくのを感じる。顔が熱くて、胸がどきどきする。そうしてはっきりと、自分が恋をしていることを改めて自覚した。
校門の前に、大きな立て看板がある。そこには大きく美しい文字で、今日執り行われる式典の題が書かれている。
礼陣町立中央中学校卒業式。ここだけではなく、この町の他の中学校でも、今日は卒業式だ。生徒たちは保護者が来るより先に学校に来て、直前の準備をしている。多くは一、二年生の仕事で、三年生のやることといったら、胸に造花をつけて入場の時間を待つくらいだ。
今日は式典中に使用しないことを条件にカメラの持ち込みが許可されているので、ひかりが持参したデジタルカメラで、クラスメイトだけでなく他クラスの生徒とも写真を撮りまくっていた。
「詩絵と春も入って! あ、園邑さんもおいでよ!」
「笹は絶対持って来ると思った。自撮りできるの?」
「練習したから大丈夫。ほら、もっと寄った寄った!」
明るい笑顔で、ピースサイン。確認すると、きちんと全員がフレームに収まっていた。春と千花も思わず感嘆の声をあげる。
「ひかりちゃん、あとでこの写真ちょうだい!」
「もちろん。そのために撮ってるんだから」
得意気に笑って、ひかりは次のグループのところに向かった。それを見送ってから、詩絵が溜息を吐く。
「アイツ、今日はいったい、何枚撮るつもりなのかね。……それはまあいいとして。良かったよ、春の熱が下がって」
「そうだよね。卒業式に出られなかったらもったいないもの」
「うん、心配かけてごめんね。おじいちゃんでしょ、詩絵ちゃんに私のこと教えたの」
春はすっかり元気だ。今日の式も、そのあとの謝恩会も、問題なく出られそうだった。
「アタシから千花に連絡して、千花から新にメールしたんだよね?」
「うん。春ちゃん、新君からちゃんとお返し貰った?」
「貰ったよ。家まで届けてくれたんだ。……そういえば新は? まだ来てないよね」
いつもなら春より先に学校に来ているはずの新の姿が、今日はまだ見えない。もしや新のほうが休みになってしまったのではないかと不安になる春に、千花がにこにこしながら言った。
「新君なら職員室だよ。卒業証書、壇上で受け取るのはクラスの代表だけでしょ。A組は新君が出席番号一番だから、その練習してるみたい」
「あー、そうだった。こっちも出席番号で決めるなら浅井だったんだけど、合唱の指揮やるから委員長と代わってたんだっけ」
「そっか、新が代表かあ……。なんで直前まで証書授与の練習しないんだろうね、この学校。もっと早く代表やるってわかってたら、がんばれって言ってあげられたのに」
「春のがんばれは効くだろうな」
効きすぎて気張るかもしれないけど、と詩絵が付け加えると、千花がそうかもね、と笑う。春ははにかみながら、そうなったらちょっと困るよね、と返す。
いつもの朝とそう変わらない光景なのに、今日でそれは一旦おしまいになるのだ。続きは高校に持ち越しとなる。みんなで一緒に、同じ学校に行けたなら。
「三年、全員教室入れよ。出席取ってから整列するぞ」
階段のほうから、井藤の声が聞こえた。千花が春と詩絵から離れ、教室に向かう。またあとでね、と手を振りながら。春たちもC組の教室に戻ることにした。
委員長が井藤と一緒に教室に入ってから、最後の出席確認が行なわれる。今日もC組は全員が揃っていた。A組でも新が教室に入ってから、同じように点呼をとっていたのだろう。B組とD組でも。中央中学校三年生は、みんなが一緒に卒業する。
廊下に整列し、A組から順に体育館のある一階へ下りていく。体育館内はすでに在校生と保護者が集まっているようで、少しざわついている。生徒たちは静かにするように指示されているはずだから、お喋りをしているのは保護者だろう。
午前九時ちょうど。そのざわめきもぴたりと止み、体育館からマイクを通した教頭の声が響いた。
「在校生、起立」
いよいよそのときがやってくる。春はそっと胸を押さえて、目を閉じた。出席番号順に入場するので、この列の先頭には新がいる。正しくは担任なので服部になるのだが、生徒の一番は新なのだ。
「卒業生、入場」
体育館の扉が開く。同時に吹奏楽部の奏でる音楽に合わせて、拍手の音が沸き起こる。中央中学校の、巣立ちの式が始まった。
校長の挨拶に始まり、校歌斉唱、それから祝辞、祝電の披露が続く。歌う以外は、しばらくは大人しく座っている時間だ。「三年間学んだことを、今後の進路にもしっかり生かしていけるよう祈っています」「卒業おめでとうございます」などと定型句が並び、祝電は町長や町議長といった偉い人からのものを読み終われば、あとは名前だけの紹介だ。時折、昨年や一昨年にこの学校を去ってしまった先生などの、懐かしい名前が聞こえる。
それが一通り済めば、いよいよ卒業証書授与だ。体育館脇にいすを並べていた三年生担任団が、一斉に立ち上がる。男性陣は今日はいつもよりもパリッとしたスーツ姿で、唯一の女性教員である幕内は袴を穿いていた。幕内と舟見はもう慣れたものらしく落ち着いた雰囲気だったが、初めて卒業生を送る服部と井藤は、心なしか緊張しているようだ。というか、ここ最近、この二人はずっと表情が硬い。
それなのにクラスの順番からいって、最初に出てくるのは服部なのだった。三年生全員が、心の中で応援している。もちろん自分の名前を呼ばれたときに、大きな声で返事をすることも忘れてはいない。
「卒業証書授与」
壇上には校長が、体育館の隅のほうに置かれたマイクスタンドの前には服部が立つ。式次第を読み上げる教頭の声から数秒遅れで、クラシック音楽が静かにスピーカーから流れ始めた。一呼吸おいて、服部が真剣な面持ちで口を開く。
「A組。……入江新」
少しだけ、声が震えたような気がした。けれどもそれも、はっきりとした返事が重なって、すぐに気にならなくなる。
「はい」
最初のクラスの、一番目。それに相応しい態度で、新が起立した。体育館に響くこの声を聞きながら、春は思う。新の親も、今日この場所で、彼の姿を見ているだろうかと。いつも行事には現れなかったが、今日はちゃんと来てくれるそうだから。
出席番号は男女で分かれているので、まずは男子が全員呼ばれ、次に女子の番になる。黒い学生服に身を包んだ男子生徒が、大きな声で返事をして立ち上がるたびに、服部の表情と声が少しずつ落ち着いてくる。
「筒井朗」
「はいっ」
面倒臭がりでお調子者の筒井も、今ばかりは真面目だ。
「沼田博希」
「はい」
沼田はいつもと態度が変わらないように見えるが、声は心持ち大きかった。
男子が呼ばれたあとは、女子の一番から。最初に呼ばれた青野は、先ほどまでの服部よりも声が震えていた。緊張もあるだろうが、もともと彼女は感情が昂りやすいのだ。
「小日向優子」
「はい」
北市女に進学する者らしく、小日向は落ち着いて返事をし、淑やかに立ち上がる。千花は思わず見惚れて溜息を洩らしたが、ぼうっとしている場合ではない。こちらも順番が近付いている。
「佐山きらら」
「はい」
普段は不機嫌そうな佐山だが、今日はあまり好きではないらしい自分のフルネームを呼ばれても素直に返事をし、きちんと直立する。
それからあまり間をおかず、服部が次の生徒の名を呼んだ。
「園邑千花」
「はい!」
高くきれいな声を響かせ、千花はしっかり返事をした。立ち上がって真っ直ぐに前を見つめるこの姿を、父は見ていてくれているだろうか。保護者席のほうを見ることはできないが、今日は来てくれているはずだ。中学最後のイベントだ、最後まで見守っていてほしい。
「羽田亜由梨」
「はいっ」
勢いよく立ち上がった羽田が呼ばれれば、もうA組も終盤だ。一人ずつ丁寧に名前を呼び、最後の返事が聞こえてから、服部が安心したように告げた。
「以上、A組、三十名。代表、入江新」
「はい」
もう一度名前を呼ばれ、新が前に進み出る。保護者席に、教員席に、それぞれ一礼してから登壇した。その姿は堂々としていて、とても先ほど少し練習しただけとは思えない。春は、そして詩絵たちも、じっとその姿を見守る。同じクラスの千花らは、新に合わせて礼をした。
新が校長と向かい合い、卒業証書の文面が読み上げられる。
「卒業証書、三年A組入江新。本校における教育課程を全て修めたので、卒業証書を授与する」
小さな声で、おめでとう、と添えられる。新は両手で卒業証書を受け取り、深く一礼した。練習のときはただの一連の流れとして覚えたことなのに、こうして本物を受け取ってみると、意外と感慨深いものだ。代表なんて初めは面倒だったけれど、今は少し得したと思えた。
壇から下りるときに、保護者席が見えた。ほんの一瞬のことだったが、目はたしかに両親の姿をとらえた。最後の最後で、やっと行事に来てくれた。こちらを見て微笑んでいる。それだけで、これまで不満に思っていた全てが帳消しになったような気がした。
起立していたA組が一旦全員座ると、次はB組だ。上品な袴姿の幕内が、すらすらと定型句を述べ、一人一人の名前を呼ぶ。三十名全員が立ってから、代表が壇上へ上がった。
これで半分。折り返しに、珍しく硬い表情をした井藤が出てくる。けれども一度深呼吸をした彼は、それからいつもの明るい笑みを浮かべて、厳かな雰囲気を破るような大きな声で言った。
「C組! 浅井寛也!」
「はい!」
浅井もつられて大声になる。周囲は呆れたかもしれないが、C組の面々はこれでいいと思った。井藤クラスは、やっぱり元気でなければ。
「塚田隆司!」
「はい!」
井藤に負けないように声を張り上げる生徒。全員体育系の部活にでも入っていたのかと思うほどだったが、そんなわけはない。これが井藤クラスの本領なのだ。普段はおとなしくしている生徒までもが、井藤に引っ張られる。
「牧野亮太朗!」
「はい!」
それぞれの個性を尊重しながらもまとまるのが、このクラスの良いところなのだ。その特色を卒業式にまで持って来るとは、予想外だったが。でもけっしてふざけているわけではない。井藤はあくまで真面目に、いつも通りを貫いている。
男子を呼び終われば、次は女子。同じ調子で進んでいく中、誰よりも元気だったのは。
「加藤詩絵!」
「はい!」
やはり三年間井藤クラスで大将を張り続けただけあって、このテンションにも見事に応える。詩絵は最後まで、女大将だった。笑われたってかまわない。これが詩絵で、井藤で、二人のコミュニケーションなのだ。
……というのは建前で、詩絵は井藤がこれまでになく緊張しているのをわかっていた。それを振り切るために、いつも以上に声を出していることも、お見通しだ。それに応えなかったら、いつか井藤の声がひっくり返るかもしれない。心配せずとも、ここまでみんな井藤についてきていたが。
でもここだけは、自分が井藤を引っ張ってやるくらいの勢いで応えよう。不本意な大将だったが、期待に応えるのが詩絵の役目だと自負している。
心なしか、井藤が力を抜いた気がした。詩絵が笑ってみせると、井藤もこっそり笑い返してくれる。詩絵にはやっと井藤が井藤らしくなったように見えた。
「笹木ひかり!」
「はいっ!」
ちょっとだけ落ち着いた井藤に、ひかりは詩絵と同じくらいの調子で返事をする。もともと体育会系ということもあるが、やはり井藤に「うちはこれくらいでちょうどいい」と言っていた。それなら次に呼ばれる自分も、元気よくいこう。春はすうっと息を吸いこんだ。
「須藤春!」
正しく呼ばれた自分の名前。この一年を支えてくれた、井藤の声で呼ばれた名前。春は最大出力で声を響かせた。
「はい!」
春はたしかに、三年C組の、井藤クラスの、生徒なのだ。最後の最後に、心の底から実感した。
その後もC組は同じ調子で進行し、「以上、C組、三十名!」と代表への証書授与で締めくくるまで、体育館を賑わせた。
D組は舟見が担任を務めるだけあって落ち着いていたので、それまでとのギャップが大きかったが、それもまたそのクラスの持ち味だ。舟見とその生徒たちのおかげで、卒業証書の授与は厳かに終わった。
在校生からの送辞に、卒業生からの答辞。新生徒会長と元生徒会長のやりとりに、少しずつ涙声が混じってくる。泣き始める生徒が出てきて、会場内はしんみりする。別れの実感が会場を包んで、春も胸のあたりがじんとしてくる。けれどもまだ、泣きはしなかった。詩絵も、千花も、新も。まだ涙は流れない。
答辞が終わると同時に、「卒業生、起立」と号令がかかる。卒業生全員が一斉に立ち上がり、その中から浅井が出てきて、一礼した。――もう卒業式も終盤。式歌の斉唱が始まる。浅井の指揮でピアノがメロディーを奏で、前奏に歌声が続く。
予想はできていたことだが、半分はもう歌になっていなかった。泣き始めてしまった生徒たちの声のせいで、詩絵が音を外しても目立たない。連日練習を重ねてきた式歌は、どんなに歪になってしまっても、それでもきれいだと思える響きを広げる。この歌と、壁に掲げられた卒業制作のモザイクアートが、三年間の集大成だ。
最後の音は嗚咽混じりの余韻を残す。もうここにあるいすに座ることはない。このまま卒業生は、一礼の後に、号令で退場することになっている。
中学校との別れのときが、もうすぐそこに迫っていた。
式のあとの最後のロングホームルームは、卒業証書を担任から一人ひとりに手渡す時間だ。泣きじゃくる生徒も、そうでない生徒も同じ目で見て、A組担任の服部は「お疲れさま」と言った。
「それでは、出席番号順に呼ぶから、卒業証書を取りに来てくれ。全員に一言ずつ声をかけたいから、ちょっと時間がかかるが、許してほしい」
こほん、と咳払いを一つしてから、服部は最初の名前を呼んだ。式のときよりは緊張の解けた、まるでテストを返却するときのような調子で。
「入江。入江新」
「……はい」
新もさほど緊張はしていない。よくできた解答用紙を受け取りに行く感覚で、教卓を挟んで服部と向かい合った。
「入江、今日は代表を務めてくれてありがとう。立派だった」
微笑みを浮かべる服部に改めて言われると、なんだか照れくさくなる。口元がむずむずするような感じを覚えながら、新は小さく頷く。
「急でしたけど、代表、できて良かったです。今年度の最初で最後の活躍だったと思います」
「いや、入江はずっとがんばってきた。進路のことも、人間関係のことも、よく考えて行動してきた。……偉かったな」
たった一年。されど一年。服部は普段は淡白そうに見えるが、ずっと生徒たちを見てきた。どう手を出していいのかわからない案件もたくさんあっただろう。考えに考え抜いて、「見守る」という選択をしたことだってあったはずだ。
新のことも、服部はいつだって気にしてくれていたのだ。
「……ありがとう、ございます……」
卒業証書を、両手でしっかりと受け取って。新は深く礼をする。せりあがってくる涙を、隠すように。
それからまた一人ひとり、今度はその手にしっかりと、卒業証書が渡される。服部の言葉に、力強く頷いたり、涙を流したりしながら、生徒たちはこの教室を旅立つその証明を受け取る。
「園邑千花」
「はい」
千花も服部の前に立つ。今日もまっすぐに、相手の目を見る。つらいことを「大丈夫」と無理やり押し込めて、作り笑いをしていた女の子は、もういない。この一年をかけて、千花もまた、強くなった。この学校で強くなれた。
「園邑。この三年間、楽しかったか?」
泣いた日だってあった。つらくてたまらなくて、人知れずこっそりと。それでも次の日には笑顔を取り戻せたのは、親友たちが、見守ってくれる人たちがいたからだ。そんな人々は少しずつ増えていって、今ではかつて敵意を向けられていたはずの者まで巻き込んでいる。
いつでも笑っていよう。それが実現できたのは、この三年間がとても大切なものだからだ。
「楽しかったです。とてもとても、毎日楽しくて、幸せで。……だから今も、私は笑えます」
服部の問いに対する答えは、いつも思っていること。千花は自分の過ごす一瞬一瞬が、幸せでたまらない。「そうか」と服部が差し出した卒業証書を、千花は両手で受け取り、それから抱きしめ、礼をした。
「ありがとうございました!」
あんなに元気が良かったC組の面々でさえ、その目に涙を浮かべていた。まだ我慢している者や、いつもと変わらないふうの者もいるが、女子の多くは涙を拭い、男子すらも俯いている。井藤はそんな彼らを見渡して、にかっと笑った。
「ほら、顔を上げろ。卒業証書、渡すぞ」
教卓の上に置かれた、厚みのある紙の束。その一枚一枚が、生徒たちが三年間、ここで学び通したことを示している。その一番上をとって、井藤は「始めるぞ」と口にした。
「卒業証書、授与!」
出席番号一番の、浅井から始まる。言葉を添えて、卒業証書が手渡される。井藤は普段通りの態度で、とにかく明るく生徒たちに接していた。
けれども生徒たちのほうは、全員がいつも通りとはいかない。ここまで我慢していたものが井藤の言葉により解けて、一気に湧きだしてしまった者が何人もいた。そうして男子の全員に卒業証書が渡り、次は女子という段になって、嗚咽は一層大きくなった。
そんな中、井藤はもっとも付き合いの長かった女生徒を呼ぶ。
「加藤詩絵」
式のときはもっと叫ぶようにしていたけれど、教室での井藤は明るさはそのままに、随分と落ち着いていた。詩絵もそれに合わせた返事をし、教卓の前に立つ。
何度こうして、詩絵と井藤は向かい合っただろう。一年生のときから、ことあるごとに目を合わせ、話をしてきた。井藤のクラスが常に元気であったのは、詩絵が先導してくれたからといっても過言ではない。
「三年間、クラスを盛り上げてくれてありがとう。さっき、式のときも助けられたな。加藤がいつも一所懸命だったから、よく動いてくれたから、俺もがんばってこられた。加藤が俺を、C組の担任にしてくれたんだ」
噛み締めるように言う井藤に、詩絵は目を細めて返した。
「大袈裟だよ、井藤ちゃん。……ううん、井藤先生。お礼を言うのはこっちだよ。三年間、本当にありがとうございました」
この中学校で、井藤クラスの一員として過ごせて本当に良かった。だから詩絵は今、泣かずにいる。笑っていられる。誰よりも力強くて頼れる、そんな大将でいられる。
「卒業おめでとう」
詩絵の過ごした三年間を、元気な時も悩む日も見続けてきた井藤から、心をこめてその言葉と卒業証書が贈られる。それをしっかりと受け取って、詩絵は立派に礼をした。その凛とした姿が、井藤は、みんなは、好きなのだ。
詩絵が席についてから、ひかりを含む数人が呼ばれ、次はいよいよ自分の番だと、春は机の下で手をぎゅっと握りしめる。まだ泣かない。泣きそうだけれど、もう少しだけ我慢しよう。
「須藤春」
井藤の手には卒業証書。おそらくは校長の達筆な字で、春の名前が書かれている。それを受け取ってしまったら、春の中学校生活はほぼ終わってしまう。それがなんとなく寂しくて、けれども次に進むことへの期待もあって、なんだか不思議な気分だ。
返事をする声も、前へ向かって踏み出す足も、どこかふわふわしている。もしかしたらまた熱が上がってきたのかな、なんて思いながら、春は井藤と向かい合った。
「須藤、お前はいつも、自分ができる範囲で精一杯がんばろうとしてたな」
頭の中によみがえる、いくつもの記憶。この何よりも濃かった一年間。三年C組で、この学年で過ごした日々で、体中がいっぱいになったようだった。
それは井藤の次の言葉で、一気に外にあふれ出た。
「これからはできる範囲なんて気にしなくていいぞ。もちろんそれは大事なことだけど、須藤はもっと自信を持ってはじけてみてもいいと思うんだ。お前は何だってできる。体は小さいが、可能性は無限大だ。いつでも手を差し伸べてくれる、差し伸べたいと思う友達と一緒に、胸を張って進め」
春が自分にできることを探しては、その小ささに悩むたびに、井藤はそう思ってくれていたのだろう。それが嬉しくて、この小さな体にはとても気持ちが収まりきらなくて、春の頬をとうとう雫が撫でた。それどんどんあふれて、自分では止められない。せめて受け取った卒業証書を濡らさないように、大切に抱きかかえた。
「ありがとうございます。私、もっと進みます。大きくなってみせます」
そして、その姿をいつか見せよう。大好きな友人たちと一緒に。きっとそれはできるはずだ。春の周りにはいつだって、成長を手助けし合える人たちがいる。
大人から子供たちへ、はなむけが贈られた。ならば次は子供たちから大人へ。それぞれのクラスで、密かに用意していた花束と、寄せ書きの色紙が担任に贈られた。色紙は感謝と、少しの反省に彩られている。「ありがとうございました」「このクラスで良かったです」「迷惑かけてごめんなさい」「先生、大好きです」――全て短いメッセージだったが、その一言の集合が、どれだけ担任団にとって嬉しいものか。
珍しく満面の笑みを見せた服部に、A組一同は驚き。思わず目の端をこすった井藤を、C組の面々は笑い。B組でもD組でも、それは似たようなもので。卒業生とその担任団は、喜びの泣き笑いで、中学校三年間の生活を締めくくった。
ホームルームの最後に、明日の合格発表の後の動きをおさらいして、片付けがほぼ終わった体育館に戻って集合写真を撮ってから、一旦解散することになった。このあとは謝恩会があるので、会場に移動しなければならない。
けれどもその途中には在校生たちが待ち構えていて、卒業生に最後のプレゼントを贈ったり、秘めていた気持ちを伝えようとする。
春は陸上部の、新は弓道部の、千花は吹奏楽部の、それぞれの後輩たちに捕まり、詩絵は文化祭以降に結成されたらしいファンクラブのような女の子たちに囲まれた。みんながバラバラになってしまったが、またすぐに会える。だから少しくらい離れても平気だ。
「加藤先輩の劇、また見たかったです!」
「ときどき中学校に顔出してくださいね。待ってますから!」
後輩たちの熱烈なラブコールに、詩絵は苦笑いで返した。最後までアタシの役は「かっこいい」なのか、と思いながら。でも、それでいい。もともとかっこよく卒業したいと思っていたのは詩絵自身だ。ちゃんと願いは叶っていた。
「園邑先輩、私、フルートやってみようかと思ってるんです」
千花に色紙と花を渡した後輩の一人が、そう言った。これまでフルート奏者は千花だけだったので、千花が卒業してしまったら、そのパートはなくなるはずだった。
「園邑先輩みたいに、上手に完璧にとはいかないかもしれません。でも、やってみたいと思ったんです。先輩がそう思わせてくれました」
だから、いや、そうでなくても、後輩のこの宣言は嬉しかった。千花を認めてくれる人がいる。自分も同じ道を歩きたいと思ってくれる人がいる。それがどんなに尊くて嬉しいことなのか、千花はよく知っていた。
「うん、がんばって。演奏会、聴きに来るからね」
みんなで奏でたあの音色を、それ以上のものを聴けることを、千花は期待している。後輩たちにはそれができると信じている。
弓道部は少年団扱いなので、活動には他校からも人が来ている。つまり今日はいつもより人数が少ないということだ。けれども色紙に集められた言葉は、ちゃんと後輩たち全員からのものだった。
「入江先輩、弓道続けるんですよね。応援してます!」
新が先輩に憧れて礼陣高校を目指すように、新を目指して練習に励んでいる後輩たちがいる。そのことが新には何よりも嬉しい。
礼を言ってそこから離れようとしたそのとき、一人の女子生徒が新を呼び止めた。組章から、二年生であることがわかる。彼女は新に追いついて、息を切らしながらこちらを見上げた。
「あの、入江先輩。弓道部での活動、ずっと見てました。ずっとかっこいいなって思ってました。それで、もし良ければ、第二ボタンくれませんか!?」
その言葉が何を意味するのか、それを言うのにどれだけの勇気が必要か、新はよく知っている。けれどもざんねんながら、応えることはできないのだ。新にはもう、心に決めた人がいるのだから。
「……ごめんな。それはできない。気持ちは嬉しかった、ありがとう」
少女は一瞬泣きそうな顔になったが、それを振り切って、「いえ、ありがとうございました!」と笑った。次はこの勇気を、新が持つ番だ。
陸上部の面々に囲まれながら、牧野がこっそりと春に囁いた。
「新のところに行かなくていいのか?」
いつのまにか呼称が変わっていることに驚きながらも、春は首を横に振る。今は新と後輩たちの交流を邪魔したくないし、春自身もここでちゃんとお別れをしたい。
「いいの。新とはまたすぐに会えるから」
今日だけじゃない。きっとこの先も。春は新とずっと一緒にいたい。それをきちんと伝えようと思っている。
「それより、牧野君こそいいの? 声をかけたそうな女子がいるよ」
「マジで?」
さっきからずっと牧野の様子を窺っている女子生徒がいることに、春は気がついていた。一年生か二年生かはわからないが、後輩であることには間違いない。特殊な進路を行く牧野は、彼女とちゃんと話をしてあげたほうがいいだろう。
それから今度は、春の番だ。
時間をかけて人混みを抜け出て、謝恩会会場へ行き、打ち上げが始まる。保護者同士の交流会でもあるようで、部活動やPTA活動の関係で縁のある大人たちは集まっているようだった。
そんな輪の中に、これまであまり学校のことに関わってこなかった新の両親も加われているようだ。新は、それから詩絵と春と千花も、安心した。この会で、新の両親が持つこの町のイメージもまた変わるかもしれない。
食べて笑って、思い切り楽しむ時間はあっという間に過ぎていく。予想通り、新と春が互いの気持ちを伝えあう機会は訪れなかった。
けれどもまだ明日がある。これからのことが決まる、最後の最後の大イベントが。
中学校の制服は卒業式が着納めというわけではない。卒業式よりも公立高校の合格発表のほうが後なので、その日が制服を着る最後になる。ラインのない紺のセーラー襟に臙脂のスカーフが特徴の中央中学校の制服に袖を通して、春は鏡を見る。
表情はこわばっていた。昨日もそうだったが、今日はもっと緊張しているかもしれない。合格発表で、今後の進路が決まってしまうのだ。みんなと一緒にいられるかどうか、自分の進みたい方向へ行けるかどうか、決するときがきた。
「じいちゃんは家で朗報を待ってるよ。人が多いだろうからな」
祖父はこんなときでも暢気だ。それは春が良い結果を持ち帰ってきてくれることを信じているからなのだろうけれど、ときどきその態度が恨めしくなる。今日くらい、一緒に来てくれたっていいのに。けれども春はそんなことは言わずに、「いってきます」と家を出る。
空はきれいに晴れている。青くて、爽やかで、飛ぶ鳥が耳に優しい鳴き声を奏でている。まだ少し冷たい空気を思い切り吸い込んでから、春は礼陣高校までの道を歩きだした。――中央地区にある学校なので、途中までは中学校と同じ道のりを行く。
校門前に到着すると、そこにはもういつものメンバーが揃っていた。詩絵に千花、そして新。入試の日と同じだ。緊張した顔まで。詩絵は特にそうで、時折眉を寄せて足元を睨んでいる。
「おはよう。……詩絵ちゃん、目の下にくまできてる。眠れなかった?」
詩絵の顔を覗き込みながら春が尋ねると、苦笑しながら首肯された。
「謝恩会の余韻もあったけど、やっぱり合格してるかどうかが気になってね。北市女よりは難しくなかったけど、だからって全員が合格できるわけじゃなさそうだし」
受験者は募集人員を超えている。不合格者は絶対に出てしまうことになっている。一度不合格を経験している詩絵の不安は、他の三人より大きいものだった。
「大丈夫だよ、詩絵ちゃん。合格してるの確認して、一緒に中学校に合格証受け取りに行こうよ。胸張って、井藤先生たちに会いに行こう」
そんな詩絵の背中を、文字通りに千花が押す。新も笑って言った。
「受験番号、覚え間違えてないよな? 存在しない番号はいくら探したってないぞ」
「失礼な。受験番号はちゃんと覚えてるって。……それじゃ、行こうか」
結果の開示まであと二分。門をくぐったところに設置してある大きな掲示板には、卒業式を終えたばかりのたくさんの中学生と保護者が集まっている。背の低い春では、掲示を見るのが難しそうだ。背伸びをしてみたりしていると、突然手を握られた。詩絵の少し震える手が、しっかりと春の手を掴んでいた。
「怖いから、一緒に前に行ってくれる?」
「うん。進もうか」
人の合間をぬって、前列へ行く。掲示板がよく見える位置に辿り着けた頃、受験番号がずらりと並んだ大きな紙が貼り出された。それから次々に、声が上がる。
そこから「あった」、あちらから「やった」、向こうから「良かった」。合格を喜ぶ声が、そこかしこから聞こえてくる。その中で、春と詩絵は自分の番号を探した。受験番号が近いので、自分のものが見つかれば、相手の結果もすぐにわかる。
新と千花も春と詩絵に追いついて、掲示板を真剣に見る。番号の並びを確認し、そこに自分の手元にあるものと同じものを探す。そうして、あるところに目が留まった。そこはおそらく中央中学校の受験生が集まっている箇所で、番号は連続していた。
「うん、ある。間違いなくオレの番号だ」
真っ先に自分の番号を見つけた新が呟く。もともと合格はほぼ確実だといわれていたので、大袈裟に喜ぶことはしない。けれども進みたい道に来られたことは、純粋に嬉しかった。
「私も見つけた」
千花も自分の番号を発見し、息を吐いた。新とさほど離れていないその番号までは、途切れがなくきれいに連番になっている。
詩絵と春の番号は、そこから少し離れたところにあるはずだった。上から下へ、目で番号の並びを追っていく。そして一点に、春は視線を留めた。そこにあるのは春の受験票にあるものと同じ番号。つまり、合格だ。しかもここまで、数字の抜けはなかった。……ということは。
「詩絵ちゃん」
隣で掲示板を見上げている詩絵に、声をかける。呼ばれたほうはまだ呆然としていた。けれどもゆっくりと春を見、それから新と千花も見回し、表情を一気に崩した。
「……受かった。受かったよ! アタシ、礼高通えるんだ!」
傍にいる、これまでもずっと傍にいてくれた三人に、詩絵は思いきり抱きついた。かつて「社台の女大将」なんて呼ばれていたとは思えないほどぼろぼろと涙をこぼしながら、支えてくれた友人たちを抱きしめた。
「良かった。諦めないでがんばってきて、本当に良かった。新、千花、春、アタシと一緒に勉強してくれてありがとう。たくさん教えてくれてありがとう。これからもよろしくね!」
涙声で、けれども嬉しそうに叫ぶ詩絵を、春と千花は抱き返し、新は手を伸ばして頭を軽く叩いてやった。そうして、声を揃えて返事をした。
「こちらこそ、これからもよろしく」
四人組の新しい日々が、ここから始まる。
合格者は午前十時半に中学校の自分の所属していたクラスに集合すること、といわれていた。昨日泣きながら卒業したばかりでなんだか恥ずかしいが、春は三年C組の戸を開ける。詩絵と一緒にそこをくぐると、さきに私立に合格して進路を決めていた者も含めて、ほとんどのクラスメイトの姿を見ることができた。
ひかりと塚田も、礼陣高校に無事合格したらしい。四月からまたよろしく、と声をかけあった。少ししてから浅井も現れ、社台高校に合格したことを報告してくれた。
あとは牧野だ。門市まで合格発表を見に行っているはずなので、遅れてくることにはなっていた。けれどももしも午前中にここに現れなかったら、不合格だったということになる。残念な結果になってしまった場合、午後から学校に来て、担任と今後のことを話し合う手筈になっているのだ。
「牧野のやつ、大丈夫だったかな……」
塚田が心配そうに呟く。春は胸を押さえながら、「大丈夫だよ」と返した。
「牧野君なら、きっと合格してるよ。だって、門市で走るんだって言ってたもん。そのために塾まで通ってたし……」
新から少しだけ話は聞いていた。列車で一緒になって、色々な話をしたらしいということは知っている。そうしているあいだにも、牧野は参考書から目を離さなかったということも。
まもなくして、教室に井藤が入ってきた。昨日の今日で照れているのか、顔が少し赤い。手には資料が入った封筒がたくさん入った箱を抱えていて、重そうだ。
「もうだいぶ揃ってるな。私立進学メンバーも、来てくれてありがとう」
気が付けば、牧野以外の全員が教室にいた。一つだけ席が空いているとなれば、余計に目立つ。みんなが心配そうに、その空いた席を見ていた。
「それじゃ、時間もおしてるし、合格証配ろうか。まず浅井――」
井藤が箱から封筒を取り出した、そのときだった。廊下からリノリウムの床を蹴る音が聞こえてきて、教室の戸がガラリと音をたて、勢いよく開く。全員の注目を一気に浴びながら、ボタンのすっかりなくなった学生服を着た少年は、肩を上下させながら叫んだ。
「遅れました、すみません!」
C組合格者最後の一人、牧野亮太朗が到着した。
「やっと来たか」
井藤は目を細め、牧野が席につくのを待ってから、改めて浅井を呼ぶ。その光景を、春はホッとして眺めていた。
A組も全員がこの場に揃っていた。合格できるかどうかの瀬戸際にいた者も、みんなと同じ時間に教室に集まることができて、服部も安心しているようだった。
先に進路が決まっていた私立進学組も駆けつけてきてくれたので、まるでまだ中学生としての生活が続くような感じがしたが、これが本当に最後だ。新が筒井や沼田と同じ教室で会話をすることも、千花が小日向や佐山と羽田と学校で顔を合わせるのも、明日以降はもうない。
「なんだか、昨日より寂しいかな。せっかくみんなと仲良くなれたのに」
千花が呟くと、近くに座っていた佐山が「何言ってんの」と呆れたように応えた。
「同じ町にいるんだから、どっかですれ違うんじゃないの。その時はまた、園邑の足ひっかけてやろうか」
意地悪な、けれども不快さは感じないその言葉に、千花は笑って返す。
「そうしたら、今度は仕返ししちゃおうかな。自分のために怒れって言ったの、佐山さんなんだからね」
去年の夏までは想像もしていなかったようなやりとりができることが、千花は自分の合格よりも嬉しかった。こんなふうに軽口を叩いて、「合格おめでとう」と言い合えるなんて、これ以上の幸せがあるだろうか。
全員が合格証を受け取ったあと、服部は卒業証書を渡したときのように、咳払いを一つした。
「改めて、合格おめでとう。みんなよくがんばったな。高校生活が、そしてその先の未来が、良いものになることを祈っている」
月並みだが本心からの挨拶のあと、「それから」と話が続く。
「良いニュースが一つある。礼陣高校の新入生代表挨拶を、入江がつとめることになった」
「え?!」
当の新も初耳だ。沸き起こる拍手の中で一人ぽかんとしていると、服部に肩を叩かれた。
「トップでの入学、おめでとう。がんばれよ」
どうやらまだまだ、新は忙しいらしい。高校から課題も出されてるのにね、と心の中で呟きながら、千花はにこにこと新を眺めていた。
井藤から受け取った合格証と学校資料の重みを、詩絵は心にしっかりと刻み付けた。みんなのおかげでこれを手にすることができたのだということを、忘れないようにしようと、固く誓った。
「加藤、礼高でもしっかりな。ちょうど高校は盛り上げ役が卒業したところだから、今度は加藤ががんばってくれ」
「さらっと重大なこと押し付けないでよ、井藤ちゃん。……でも、うん。思い切りやるよ。せっかく合格できたんだしね」
高校生活を楽しんで、目指すは大学、そして教師だ。詩絵は決意を新たに、井藤に頷いてみせた。
春も礼陣高校の合格証と資料を受け取り、中身を確認する。この春休みのあいだに、やらなければならないことがたくさんあるらしい。制服や教科書などを揃えて、入学してすぐに提出する課題をこなしてと、のんびりした春休みにはなりそうにない。
けれども、それもみんなと一緒なら楽しい。詩絵と、千花と、そして新と、これからも一緒にいられる。学校で会って、話をすることができる。この一年と同じように。
感慨に耽っていると、井藤が「さて」と切り出した。
「全員、進路決定おめでとう! 新しい環境でも、自分らしく、毎日を楽しんでくれ。で、たまには遊びに来い。俺はここで待ってるから」
いかにも井藤らしい言葉に、全員が元気に返事をする。きっと誰もが忘れないだろう。この教室で、井藤とともに過ごした日々を。
「じゃあ、解散! 元気にやれよ、お前ら!」
こうして今年度の中央中学校三年生の中学生活は、完全に幕を閉じた。
これからは、高校生になる準備が、そして高校生としての日々が待っている。
生徒たちが教室から吐き出され、一斉に昇降口に向かう中、春は新を探した。本当に全てが終わった今、心残りはたった一つだ。それをクリアしなければ、春は前に進めない。
気が付けば詩絵の姿は近くになかった。ひかりと何か話していたから、一緒に先に行ってしまったのかもしれない。A組のほうを見たが、千花もとうに階段を下りてしまったのか、どこにも見当たらなかった。
不安になりながら、人に揉まれながら、荷物を抱きしめたまま必死で会いたい人を探す。こんなとき、背が小さい自分が恨めしくなる。どうにも視界が悪いのだ。
もう新も昇降口へ向かったかもしれない。そう思って階段のほうへと足を向けたとき、とん、と肩を叩かれた。振り向いて見上げれば、そこには。
「春、探してたんだ。……会えて良かった」
探していた姿が――新が、春のものとと同じ封筒を脇に抱えて立っていた。
「新も、私を探してくれてたの?」
「ああ。どうしても今日、伝えなくちゃいけないことがあるから。時間あるか?」
あるにきまっている。春だって、新に伝えたいことがあって、探していたのだから。頷いてから、改めて階段へと向かう。
「場所、変えない?」
新もそのつもりだった。場所ももう、決めてある。二人はまったく同じことを考えていた。
昇降口を出て、校舎の脇に向かう。学校の敷地の片隅は、春が初めて新に呼び出された場所だ。ここで新に名前を間違えられ、そして、告白されたのだ。
もう随分昔のような、けれども昨日のことにように思いだせる、あのときのこと。今度は間違えないし、間違えられない。
「弓道場に行くときに、ここをよく通ったんだ」
先に口を開いたのは新だった。春はその声に、真剣に耳を傾ける。
「三年生になってすぐに、掃除が遅くなった日があって、もう部活が始まっている時間にここを通った。通ろうとしたときに、グラウンドから声が聞こえたんだ。陸上部の声が」
中央中学校のグラウンドは、道を挟んで、校舎の正面に広がっている。外で練習を行う部活は、そこで各々のスペースを守って活動をしていた。
「一番最初に聞いた声は、『新記録だー!』だったな。思わず振り向いたら、誰よりも小さい女の子が、誰よりも嬉しそうに笑ってるのが見えた。遠目だったのによくわかったなって、自分でも思う」
新の言う「その時」は、春もうっすらと覚えていた。三年生になったばかりの四月の初めに、陸上部は新入生へのオリエンテーションをしていたのだ。その時、春が思い切り投げた砲丸は、いつもより遠くに、きれいに飛んでいったのだった。
あんなに気持ちよかったのだから、あのときの春は最高の笑顔だったはずだ。
「一目見て衝撃を受けたよ。あんな可愛い子が、この学校にいたんだって。新入生かと思ったら、次の日に同じフロアで見かけた。その子が三年C組の生徒だってわかって、なんとかして名前を知ろうとした。……そういえば、マキが須藤って呼んでたのを聞いて、スドウと勘違いしたのかも」
内容は聞いていて恥ずかしいが、当時の新はきっと必死だったに違いない。それまで弓道以外に興味を見出せなかった新が、初めて他人を気にしたのだ。そしてそれを彼は、「恋」だと認識した。
春の名前を知ってからの新の行動は早かった。昼休みに廊下で声をかけて、今いる場所に連れだして、初めて相手に向かって名前を口にした。――それは結局、間違っていたわけだけれど。
でも、それが始まり。春が、新が、周りのみんなが変わっていく、大きなきっかけだった。
「須藤さん」
突然苗字で呼ばれて、春は目を丸くする。その反応を見てから、新は「な?」と続けた。
「今なら正しく呼べる。ていうか、こんなに他人みたいに話す必要がなくなった。春に告白して、振られて、それからどういうわけか詩絵と千花がオレに声をかけてきたんだ」
「あ、それは……私が詩絵ちゃんに、告白されたことをイタズラだったんじゃないかって相談して。それを聞いてた千花ちゃんが、相手が新だってことを特定してくれて。それで二人が新を見てくるって……」
やりとりは鮮明に思いだせる。春の説明で新も納得したのか、苦笑いを浮かべた。
「ああ、そういうこと。そういえばオレ、告白するのに精一杯で自己紹介してなかったような気がする。千花のやつ、よく特定できたな」
「新が告白のことをぶつぶつ呟いてたって聞いたけど」
「マジで?」
思っていたことが全部口に出ていたのか、と新は項垂れる。でもそれは新の場合それほど珍しいことではないと、今の春は知っている。素直で、単純で、まっすぐな、そんな新を見てきたから。それをいいなと思うから。だから落ち込むようなことじゃないと思う。
「……とにかく、それから春と友達になれて、嬉しかった。でもやっぱりそれだけじゃ足りないって、いつも思ってた。友達も楽しいけど、すごく楽しいものだって知ったけど、春に対してだけはそれだけじゃ足りなかったんだ」
顔を上げて、背筋を伸ばして、まっすぐにこちらを見る新の身長は、平均より少し高いくらいだ。一方の春は、相変わらず平均よりかなり小さくて、見上げなければ新と目が合わない。だから四月に告白されたときは、ぼんやりとしたイメージでしか相手を覚えていなかった。
今は違う。しっかりと新を見ることができる。認識することができる。知らない人なんかではなく、ただの友達でもなく、もっと特別な人として。
「付き合ってって言われたとき、本当にびっくりしたよ。名前も間違って覚えられてたし。だからさっきも言ったけど、これはイタズラだって思ったの。からかわれたと思って、詩絵ちゃんに相談したんだよ」
そうしたら次の日、登校した春の前に、新はごく普通に現れた。詩絵と千花と一緒に、いつも少しだけ遅れてやってくる春を待っていた。
「詩絵ちゃんが友達になったって言ったの聞いて、またびっくり。でもね、だから新は変なイタズラするような悪い人じゃないってわかったの。だってそんな人だったら、詩絵ちゃんにボコボコにされてるはずだもん」
「たしかに」
そうでなかったのだから、新は悪い人ではなくて、あの告白はイタズラなんかではなかったのだとわかった。たぶん春が新を意識するようになったのは、それからだ。「恋」と認めるまでには随分と時間がかかったけれど、たしかに新のことを想うようになっていた。
一緒に過ごす時間が長くなるごとに、相手のことを一つ知るたびに、もっともっとと求め続けた。けれどもそれを言葉にできないまま、今日まできてしまった。こんなに時間がかかったのだから、周りも気にするはずだ。
「一年かけて、いろんな新を見た。礼陣のこととかあんまり知らないみたいだったから、いろんなことを教えてあげたいと思った。他の誰でもない、私が、新に、教えたかった」
見つめあって、数秒。温かい風が吹いて、春のおさげと、伸びかけている新の髪を揺らした。そうして先に伝えたのは。
「オレ、春が好きだ。本当に、誰よりも、一番好きだ。だから、オレと付き合ってください!」
そのまっすぐな、濁りの少しもない眼差しとともに、新は春にその言葉を告げた。去年の四月には、そして秋の日の保健室でも言いそこなっていた三文字を、やっと声に出した。
春はそれを受け止める。どきどきする胸をきゅっと押さえて、にっこりと笑って。先に言おうと思ってたのに、なんて頭の中では呟いたけれど、そんなのはもうどうだっていい。
だって、順番はどうであれ、言えばいいのだから。
「私も、新が好きです。大好きです。だから、よろしくお願いします!」
いつまでも、そのにごらない気持ちで、傍にいてほしい。それが春と新の、共通の願い。
約一年かけてようやく果たされた再告白の成功を、詩絵と千花、そしてひかりに牧野、浅井に塚田、筒井と沼田、佐山と羽田に小日向まで、一緒になって覗いていた。当人たちはお互いに夢中で気づいていないようだ。見つかったところで、一言謝れば許してくれるだろう。
「いやあ……ここまで来るのに、本っ当に長かった!」
力を込めて言う詩絵に、千花はうんうんと頷いて同意する。
「なんで付き合わないのかなって、何回思っただろうね。二人とも、あんなにお互いが好きなのに」
一番近くで見ていた彼女らだけでなく、同じクラスのよしみで、あるいはライバルとして二人を見ていた周りも、深いため息とともに「そうだよな」「時間かけすぎ」と言い合う。でも、これでやっとこっちも胸のつかえが取れたような気がしていた。
「入江君もあんなに須藤さんが好きならさ、もっと早く付き合っててくれたら良かったのに」
「ま、あいつらは同じ学校だし、これから思う存分イチャつけばいいよ」
「末永くお幸せにーって、今すぐ伝えられないのが惜しいね」
思えばこのメンバーでこうしてわいわいやれるようになったのも、新が春を好きになったからだ。遠回りにはなったが、人間関係も随分と良いところに着地できた。詩絵と千花はそれも嬉しくて、笑顔を見合わせた。
「茶番も終わったし、解散解散。はねちゃん、行くよ」
「佐山ちゃん待ってー。それじゃ、みんな、またね!」
佐山と羽田がその場を離れ。
「俺も帰ろうかな。社台の課題、思った以上に多かったし」
「同意だ。じゃあ、また町のどこかで」
同じ社台高校に進学する、浅井と沼田も校門へ向かい。
「じゃ、あたしも先に帰るね! 二人によろしく!」
「また新学期にな」
ひかりと塚田も帰っていった。
「園邑さん、加藤さん、また機会があったら一緒に遊んでね」
小日向も上品に手を振り、その場をあとにする。
筒井だけが残って、いきなり千花に向かって言った。
「園邑さん、入江たちもなんか付き合うことになったわけだし、俺たちも付き合わない?!」
「ごめんなさい。私、お父さんみたいな人が好きなの」
しかし千花にはすっぱりと、即行で断られた。仕方なくとぼとぼ帰っていく背中に、詩絵は小さく「ご愁傷様」と呟いた。
さて、どのタイミングで春と新に声をかけようか。みんな帰ってしまったし、今がちょうどいいのかもしれない。詩絵と千花は頷きあって、春と新のいる校舎脇へと飛び込んだ。
「二人とも!」
「おめでとう!」
「うわ、詩絵と千花?! なんでここに……」
「帰ったんじゃなかったの?」
驚くカップルに絡みながら、「帰るわけないじゃん」「どうせなら最後まで見守りたいもの」と言う親友という状況に、もうみんな笑うしかなかった。
合格発表、もとい告白の日から三日。春は一番大事にしている髪ゴムでおさげを結い、動きやすいけれど可愛く見えるような服を選んで、出かける準備をしていた。
今日は新の誕生日だ。以前から、この日は新のために何でもしようと考えていた。それを新に言ったら、「それじゃあ」と提案があった。
礼陣の町や、周りを囲む山を一日でできるかぎり案内してほしい。それが新の願いだった。礼陣高校にはよそからくる生徒も多いので、彼らに紹介できるくらいには町のことを知っておきたいというのが理由の一つ。もう一つは、とにかく春と丸一日デートがしたいという希望だ。もちろん春は、これを二つ返事で了承した。
「お、どうした、春。そんなにご機嫌で出かけるなんて、さてはデートだな」
祖父がからかうように言うのに、春は笑顔で答える。
「そう、デート! でも何かあったら連絡ちょうだいね」
真新しい携帯電話を片手に、春は玄関の戸を開ける。礼陣の町は今日も快晴だ。暖かさに、桜の蕾も膨らんでいる。花が咲いたら、改めてお花見をしなくては。
そう思っていたら、携帯電話がお気に入りの音楽を奏でた。すぐに開いて画面を見ると、新から、春の家のほうに向かっているというメールが届いていた。
「わ、大変。それじゃおじいちゃん、いってきます!」
「ああ、気をつけて行くんだぞ」
祖父に見送られ、春は自分の名前の季節の中へと飛び出していく。再び巡ってきた、その季節の中へ。
また、新しい一年が始まる。去年とは一味違う一年が。
それでも変わらないのは、いつもこの胸にある、にごらないまっすぐな気持ち。大切なものがたくさんあって、大好きな人がたくさんいる、そんな気持ち。
「新、誕生日おめでとう!」
「ありがとう、春。それじゃ、どこから行く?」
「おにぎりは持ってきたの。だからまずはお総菜屋さんでおかずを買って、お山に行ってみようか」
「さっそく体力使いそうだな」
このままにごらず、お願いします。ずっと、ずっと、未来も。