寒空の下に、長い行列ができている。列は石段を上り、深い緑色をした鳥居をくぐり、神社の境内へと続いている。先頭は拝殿前で、人々が賽銭を放り、鈴を鳴らし、柏手を打っていた。礼陣の元旦の、お馴染みの風景だ。

 その中に、コートをしっかりと着込んで、首に桃色を基調としたチェック柄のマフラーを巻いた春もいた。祖父と二人で初詣をするのは、毎年の恒例行事だ。途中、たくさんいる顔見知りに「今年もよろしくお願いします」などと挨拶をしたり、ほのかに漂ってくる甘酒の香りにうっとりしたりしながら、ゆっくりと拝殿前までやってくる。

 今年の願い事は、当然、受験のことだ。二礼二拍手のあと、春は真剣に念じる。――私たちみんなが行きたい進路を行けますように。どうか見守っていてください。

 お参りが終わってから、おみくじを引いた。そこに書いてあったのは、まるで春の願いに応えるかのような言葉。「願い事は叶う。信じて進むが吉」とのこと。その通りなら、うまくいきそうだ。

 

 短い冬休みが終わり、中央中学校の授業が再開された日。学校に到着した春は、いつもの廊下でいつものメンバーと、新年の挨拶を軽く済ませた。

「とうとう年明けちゃったね……」

 詩絵は溜息を吐きながら遠い目をする。受験本番が迫りくるのを感じながら年を越したようだった。聞けば「紅白見る余裕もなかった」とのこと。

「私立の試験まではあと一か月だもんね。私も北市女の過去問解いてるあいだに除夜の鐘鳴り終わっちゃった」

 冬休みの課題代わりに、また学年主任の舟見から私立の試験の過去問が配布されていた。千花はそれに、休み中に何度も取り組んでいたらしい。それだけでなく、理科と社会からそれぞれ出ている公立高校入試に合わせた宿題も、当然きちんとこなしていた。

「二人ともがんばってたんだね。それに比べたら、私恥ずかしいなあ……」

「春だって勉強してないわけじゃないでしょ?」

「したけど……神社の煤払いの手伝いにも行ったし、紅白見ながらだらだら宿題やってたし、初詣だっていつも通りに行っちゃったよ。年越しそばもおせちもお雑煮も神社の甘酒もしっかり味わっちゃった」

 呆れられるかなと思ったが、これが春の年越しだった。詩絵や千花に比べたら随分暢気だったなと、今更ながら反省の念が湧いてくる。

「いいじゃん。よく食べてよく動くなんて、春らしいよ」

「初詣なら私も行ったよ。おみくじ引いて甘酒もらうの、定番だよね」

「あー……やっぱり初詣って普通は行くものなのか」

 女の子たちのやりとりに、新は苦笑した。どうやら春が年末から年明けにかけてやったことの一つも、新は経験していないらしい。紅白歌合戦などはこれまでに一度だって見たことがないし、初詣にもしばらく行っていない。もともとさほど興味のないテレビ番組はともかく、わざわざ初詣のために出かけようとすれば、そんなことをしている暇があったら勉強しろと親に言われる。

「それに今年は、塾の合宿があったからな。年越しは塾の同じクラスの奴と勉強しながらだったし、初詣しない代わりに絵馬だけ書いた」

「げ、門市の塾って年末年始もそんなことやってんの?」

 嫌そうな顔をする詩絵に、新も眉を寄せて返す。

「そう思うよな。本当はセンター試験を控えた高校生のための行事らしいんだけど、難関校を受験する中学生もやろうってことになったらしくてさ。で、一応龍堂を受けるクラスにいるオレも参加させられたってわけ」

「大変だったね、新……」

「あ、でも雑煮は食べた。塾で用意してもらったやつだけど」

 新の忙しさは相変わらずなんだなと、今度は春たちが苦笑する番だった。

 

 三年生は一、二年生より早く、一月の終わりに学年末テストがある。二月の中旬にある私立高校入試と三月の頭にある公立高校入試に集中する時間をつくるためだ。つまり学年末テストまでも、もう時間がない。春たちは恒例となっている昼休みの勉強会を、さっそく開始した。

 一時期は人数が増えたことや、新が家でストレスを溜めてきてしまったことなどで、うまくいかなかったこともあるこの勉強会。だが、今ではすっかりもとの余裕を取り戻している。「もとの」というのは、新が他の子たちに勉強を教える余裕が戻ったということだ。

「学年末って、なんで中間テストの後だけが範囲じゃないんだろう……一年分まるっと出すって、先生たち酷すぎ……」

 詩絵をはじめとするほとんどの生徒はこんな調子である。だが、入試は三年分がまるっと出るのだから、それに比べれば大したことはないはずだ。新はそう主張している。

「だいたい、一年分っていったって、学年末テストのメインは後期中間以降だろ。他は少しずつ出るだけなんだから、いつも通りに集中すればいいんだよ。詩絵は家で技能系科目の暗記をがんばれ」

「がんばってるよ。また弟が手伝ってくれてる」

 技能系科目は学期末にしか筆記試験をやらないため、今回は後学期に習ったことが全て出る。前学期の部分は範囲外になっているのだが、それにしても多い。加えて入試の勉強もしなくてはならないのだから、三年生にとっては今が苦行の期間なのだった。

「そういえば、ちょうどテストの直前に願書を出さなきゃいけないんだっけ。私立のほうがちょっとだけ締め切り早かったよね」

 大事なのはテストだけではない。入学願書の提出期間は一月下旬に集中している。それを出してしまったら、各校の出願状況が出る。それからたった一度だけ進路変更のチャンスがあるが、ここにいるメンバーは自分の進路を「ここがいい」と定めている者ばかりだ。

 加えて新には、願書の提出にあたって立ち向かわなければならない壁があった。――他でもない、両親である。目下の不安はテストなんかではなく、このことだった。

「龍堂の願書には同意してくれるんだろうけど、礼高のほうは認めてくれるだろうか……。母さんじゃなく父さんと話せたらいいんだが」

「新のほうが面倒そうだね。アタシたちはとりあえず願書出して勉強すればいいけど、アンタはいよいよあの親と対決しなくちゃならないんだから」

 難関私立である龍堂高校に合格するのが、新の本命である礼陣高校を受験するための条件になっている。けれどもその前に願書を出せなければ、たとえ条件を満たしても受験はできない。特に母親が新の考える進路に反対しているので、もしかしたら願書を出すことに同意してもらえないかもしれないという不安があった。新の母は、新が龍堂高校を受験して合格し、行ける状態になれば満足なのだ。

 新が礼陣高校を受験するための条件を出した父親ならば、両方に同意してくれるかもしれない。けれどもそれを母親が阻止すれば、やはり礼陣高校を受けられない。今度こそ本気で新が両親と話をつけなければならないのだった。どんなにかわされようとも。反対されても。

「新が礼高の願書出せなかったらどうしよう……」

「絶対出すから。だから春は心配するな。何があっても、オレは春の笑顔を思い出しながらがんばる」

 不安げに呟いてしまった春に、新は笑って応える。図書室にいるみんなが聞いているというのに、あまりにも堂々としているので、春も不安を一瞬にして忘れてしまった。かわりに顔がかーっと熱くなり、しどろもどろに「そう、がんばってね」と返事をする。詩絵と千花は、これでこそ新と春だと、頷きあうのだった。

「かっこつけやがって」

 一方、眉を寄せながら呟いたのは牧野だ。

 勉強のために図書室に集まるのは春たち四人以外も変わっておらず、新への質問はなくとも、自然と近くの机を陣取っている。そのためやりとりはお互いによく聞こえるし、わからないところがあれば協力を仰ぐ。新が一度八つ当たりをしてしまったあとも、関係はあまり変わっていない。いや、静かに勉強に集中しようと、意識するようにはなっただろうか。新をまた苛立たせないようにというのが少々、大部分は自分の進路を実現するために努力できる、残された時間が少なくなってきたためだ。

 それでもまだほんの少しは軽口を叩く余裕があるようで、とくに牧野は新によく絡んでくる。

「オレは本当のことを言ったまでだ」

「本当のことだとしても、よく女子に笑顔を思い出しながらとかキザなこと言えるよな。俺には絶対無理」

「たしかに牧野には無理だろうな。春に意地悪いことばっかりいって気を引くことしかできないんだから」

 新も言い返すのにかなり慣れてきた。おかしな話だが、それすらも今の新にとっては息抜きになっている。それくらい、親と話さなければならないことを考えるのは憂鬱だった。

 ここは図書室だということを気にして、声をひそめながら笑い、言い合いをし、そうしながらもやるべきことは進めて。そうして昼休みの時間は過ぎていく。

 

 放課後の講習の合間に、テスト対策にと出されていた社会科のプリントを解きながら、ふと千花が口にした。

「新君、どうしてこっちに引っ越してきたんだろうね」

 その声に春は顔をあげ、詩絵は首を傾げた。

「なんで突然そんなこというのさ?」

「引っ越しなんだから、ご両親の都合とかじゃないのかな」

「うん、たぶんそうだと思うんだけど。でも、なんで礼陣なのかなって。新君が前に言ってたけど、というよりきっと新君のお母さんが特にそう思ってるはずなんだけど、礼陣って学力レベルはそんなに高くないって思われてるじゃない? 実際はそんなことないんだけどね。でもそんなところにわざわざ引っ越してきて、ごくごく普通の公立中学に新君を入れちゃうなんて、なんだか新君のお母さんらしくない選択だなって思って」

 門市に引っ越してたら、もっと学力の高い私立の中学にも通えたのに。そうでなくとも、礼陣から列車で門市の学校に通うということも、新が塾に行っていることを考えれば可能なはずだ。そう千花が主張するように、その方法をとれないこともないのだった。新の母親が、本当に新を龍堂高校に通わせようと思っているのなら。しかしそうはならなかった。その理由は、なんだったのか。

「新のお母さん、かなり教育熱心な感じだったしね。千花の言うようなことも、考えててもおかしくない。礼陣に来たのはお父さんの都合だとして、無理やりにでも新を私立の中学に通わせてないのは、たしかにあのお母さんらしくない」

「そんなにすごい人なの? 新のお母さんって。礼陣に引っ越してきて、近くに中学校があったからそこに通うことになったっていう単純な話じゃないのかな」

 春にはよくわからないが、とにかく新の母親というのは新の学力にかなりのこだわりがあるらしい。それは新の口から語られたことでもあるのだけれど、春にはなかなか信じがたいことだった。

「それなら新のこれからの進路だって、別に龍堂じゃなく、社台高校でもいいじゃん。あのお母さんがいつから新の進路にこだわりだしたのか、引っ越しの原因がはたしてそれに関係してるのか、謎はそのあたりにありそうだね」

 そこまで話して、ちょうど社会科の担当教師である舟見が教室に入ってきた。詩絵はあわてて自分の席に戻り、春と千花は前を向く。今は新にまつわる謎よりも、舟見の授業に集中しなければ。そもそもこれは新が考えることであって、春たちがいくら推測をしても仕方のないことだ。

 ただ、この考えが新が親を説得するためのとっかかりになればとは、三人とも思っていた。

 

 年明けから、新のスケジュールは変わっていた。以前までは学校の授業が終わったら即家に帰り、家庭教師に勉強を教わっていた。しかし、年明けからは家庭教師が来るのは土曜の夜と日曜に限られることになった。平日の放課後と土曜の昼までは、門市の塾に列車で通っている。夏休みのとき以上に休む暇がない状況に疲れてはいたが、これも二月に行なわれる私立入試までだ。あと一か月のことと思えば、我慢できる。

 だから問題はただ一つ。礼陣高校を受験するために、どうやって親を説得するかだ。たとえ父の出した条件をクリアできたところで、実際に公立高校受験ができなければ、これまでのことは全く無意味になってしまう。

 そんなことを悩みながら乗っている列車に、なぜ牧野まで乗っているのか。そんなことは些細な疑問なのだ。そう、些細な。

「……いや、やっぱり気になる。なんで牧野まで門市に行くわけ?」

 列車の中、牧野と並んで吊革を掴みながら、新は列車に乗り込んだ時から抱いていた疑問を口にした。牧野は新のほうを見ずに、今更何を、というふうに答える。

「前に言わなかったか? 俺、門市の高校受験すんの。だから門市の高校の対策ができる塾で講習を受けることにしたんだよ」

 そういえばそんなことも言っていた気がする。牧野が一人だけ門市へ行くという進路を選んで、不安になっていたらしいことも、新はやっと思い出した。門市には大きな塾がいくつかあるが、もしや同じところだろうかと思って名前を出してみると、どうやら違うらしい。「そんなレベル高い塾に入れるかよ」と言い捨てられた。

「ていうか、入江ってやっぱ頭良いんだな。本当に心の底からムカつく」

「なんか詩絵にも同じようなこと言われたな。なんで頭良いとムカつくんだよ」

「そりゃあ、自分が持ってないもの持ってるやつは羨ましいからじゃねえの」

「……勉強なんて、やればできるよ」

「礼陣はその環境が整ってないなんて言いやがったやつが、よく言うよ」

 そのことについては反省しているため、新は「悪かった」としか返事ができない。牧野はそれにちょっとだけ笑って、「冗談だよ」と言った。

 窓の外の景色が、山の中から都会の灯に変わる。もうすぐ列車は門市に到着し、新と牧野はそれぞれの所属する塾で勉強をする。そうして授業が終わったら、また列車に乗って帰るのだ。

「入江、終わるの何時?」

「九時。牧野は?」

「七時だ。帰りは会わないな、安心した」

「こっちこそ。疲れてるのにお前の顔は見たくないや」

 門駅に到着するというアナウンスが響く中、二人は顔を見合わせて笑った。――初めて顔を合わせた運動会の練習のときからは、こんなふうに会話ができるなんて、考えられなかった。手を振って別れるようになるなんて、想像もしていなかった。

 

 

 学年末テストの日は着実に近づいている。詩絵は今朝も単語帳を片手に靴を履き、玄関を出ようとしていた。そこをもう少し後に家を出る予定の弟が呼び止める。

「姉ちゃん、今日寒いみたいだから、単語帳見ながら転ばないように気をつけてよ。頭でも打ったら色んな意味で大事になるから」

「むしろ頭良くなるかもよ。ご心配どうも。それじゃ、行ってきます」

 弟の「いってらっしゃい」を背に、詩絵は外へ飛び出した。冬の朝の風は冷たく、髪の毛だけでガードされている耳はぴりりと痛む。その耳に、店の前を掃除している母と、朝が早い近所のおばさんの会話が入ってきた。

「加藤さん、おはよう。そういえばもう聞いたかしら? 遠川の鹿川さん、昇進が決まったんですって。良かったわよねえ」

 このおばさんは噂好きだということを、詩絵はよく知っている。彼女だけではなく、基本的に礼陣の人々は噂話が好きだ。特に商店街は人の往来とやりとりが多いので、良い噂も悪い噂も、自然に集まってくる。

 母はおばさんに挨拶をしてから、その話をさらりと聞き流していた。全部を真剣に聞いていたらキリがないので、重要なところだけを憶えているらしい。こういう誰それの進退がどうのという話題に関しては、適当に相槌を打って、右から左へ流してしまっているはずだ。

「まあ、そうなんですか。それは良かったですね」

「そうよねえ。鹿川さんが仕事をクビになって礼陣に来たって聞いたときはどうなることかと思ってたけど、今のお仕事で成功して良かったわあ。やっぱりあの一家はこの町に来て正解だったのよ。お子さんもお勉強がんばってるみたいだし、……」

 たぶん、この話は母が掃除を終えるか、おばさんが飽きるまで続くのだろう。毎朝よく話題が尽きないな、と詩絵は感心してしまう。ああいう人がいるから、人の噂はあっという間に町中に広がっていくのだ。それが良いものならば町を挙げて祝うし、良くないものならばみんなで心配する。相変わらずプライバシーの意識が薄い町なのだが、詩絵はこの町を嫌いになれない。

 単語帳を捲りながら歩くあいだにも、おばさんの声は耳に残る。やけに甲高いので、どうしても頭に残ってしまうのだ。ちょっと勉強の邪魔だなと思いながらも反芻してしまい、それからふと、引っ掛かりを覚えた。

――仕事をクビになって、礼陣に来た。

 実はこの町では、噂になりやすい話の一つだ。クビになるというだけでなく、左遷されてきたとか、夢破れて辿り着いた先がここだったとか。この町にやってくる人々は、それまでの生活に何か問題が起きている場合が少なくない。さっき話題になっていた人だって、二年ほど前に礼陣に引っ越してきたはずで、その理由は門市で勤めていた会社を何か責任を負って辞めさせられたことなのだと、当時も噂になっていた記憶がある。その噂元も、あのおばさんだったような気がしなくもないが。

 とにかく礼陣という町が、周囲のほかの町で何かに失敗した人たちの、受け皿のような機能を持っているらしいことは、詩絵も昔から子供ながらに感じていた。

「もしかして、新の家も……?」

 先日、千花が口にした疑問が気にかかる。どうして新が礼陣に引っ越してくることになったのか。どうして礼陣の公立中学に通っているのか。その答えが、実は親の「良くない都合」によるものだとしたら。プライドの高い親は、新には何も告げていないかもしれない。

「……いやいや、ないって。ありだとしても、そんなのアタシから新に言えないし」

 勉強は苦手なのに、こんなことにばかり頭がまわる。詩絵は少し自己嫌悪しながら、考えを振り切った。今はそんなことを気にしている場合ではないのだ。新のことは新が自分で解決するはずで、手助けが必要なときに手でも口でも出せばいい。詩絵は詩絵のやるべきことをしなければ、自分の未来が危ういのだ。

 ついでに、足元も危うい。地面に張った氷で滑りかけた詩絵は、何とか体勢を立て直し、何事もなかったように歩き出す。受験前に滑るなんて縁起でもない、なんて心の中で呟きながら。

 

 普段の授業に、昼休みの勉強会、放課後の講習や塾。すっかり決まってしまったスケジュールの中でも、退屈さを感じることはない。そんな暇が、もうすでにないのだ。休み時間にお喋りをしていても、その話題は自然とテストや受験のことに及ぶ。ただ、毎日ちょっとずつ内容が変わる。

 たとえば今日の朝の話題は詩絵が弟に暗記を手伝ってもらっていることで、昨日は千花が隣の家に住む先輩に英語の長文問題を楽しむコツを教わってきたという話で盛り上がった。受験も案外、大変なばかりではないのだと思える時間だった。

 話をしているあいだ、春はずっと笑顔だった。新が一番好きなその表情で、ときどき自分の話をした。

「私もね、やっぱりちょっと年末年始に暢気すぎたなと思って、勉強教えてもらってるんだ。海にいに」

 久しぶりに春の幼なじみが会話に登場する。その名前が挙がることは本当に少なかったが、やはり聞いてしまうと、新の心臓は跳ね上がる。詩絵が随分前に言っていた、「幼なじみは恋愛の王道」という言葉は、今でもはっきりと憶えているのだった。

「その、海にいって人は、頭良いのか?」

 平静を装いながら、とはいえ詩絵と千花には完全に動揺しているのがばれているのだが、新は春に尋ねる。春は手を頬にあてて考えるようなしぐさをしながら答えた。

「うーん、理数系科目は得意なんだけど。だから私が苦手なところはわかりやすく教えてくれるんだよね。でも文系科目はあんまりって感じなのかな。一応礼高生だから、どれくらいの点数を取れたらいいかっていう基準にはなるよ」

 春の弱点をしっかりカバーしてくるところはさすがだが、学力的にはオールマイティーな新のほうが上らしい。心の中で「勝った!」とガッツポーズをしながら、新は笑顔で返す。

「先輩に聞くのもいいけど、オレだって春の力になれると思う。だから遠慮なく訊いてくれよ」

「うん。でも新は忙しいから、とりあえずはいいかな」

 お昼休みだっていろいろ質問されてるでしょ、と事実を言われて、新はあからさまに落ち込む。最も新を頼ってしまっている詩絵は、「ごめんって」と新の肩を叩いた。

 けれども昼休みの様相は変わらない。学年末テストに向けた勉強を進め、わからないところがあれば調べ、相談し、最終手段はやはり新の説明だ。そうして一日、二日と日が経っていく。

 同時に入学願書受付の締め切りも迫ってくるのだった。

「余計なおせっかいだとは思うけどさ、新は親とちゃんと話したの?」

 昼休みを終えて教室に戻るあいだ、詩絵に尋ねられる。新は曖昧に笑って、「まだ」と答えた。

「時間がなくてさ。学校終わったら塾行って、帰って来るのが夜だろ。こっちの準備はできてるんだけど、親の許可は……」

「受験料とかあるんだから、早めにしなよ」

「……わかってる」

 今日にでも話さなければ、時間がなくなってしまう。拒否されるのを恐れていては、何も進められない。それに、いつまでも春に心配そうな顔をさせるのは、新だって望んでいない。

「新、大丈夫? 私たちに何かできることがあったら……」

「こればっかりはオレの問題だから。春はオレの報告を待っててくれればいい。笑顔でさ」

「春ちゃんは今笑ってたほうがいいんじゃない? 新君の力になるのには、それが一番だよ」

 千花にも促されて、春は頷き、そして微笑んだ。「がんばってね」という言葉とともに。それだけで、新は勇気が湧く。あとはそれを、表に出すだけ。

 

 門市へ向かう列車の中で、今日も新と牧野は隣合っていた。牧野は片手で吊革を掴み、もう片方の手にプリントを持っている。技能系科目のペーパーテストの、対策用にと配られたものだ。それを眺めながら、全く別のことを話していた。

「入江、昔から親厳しかったの?」

「そうだな。小学生の時にはもう行事より勉強優先だったし、私立中学の模試も何度か受けた」

 正面の窓の向こうは真っ暗で、自分たちの姿がガラスに映る。けれども新がそこに見ていたのは、小学生の頃の自分だった。学校であったことを母に話そうとすれば、「それより宿題は?」と言われ。父は仕事が忙しかったらしく、帰って来るのはいつも新が布団に入ってから。成績は良かったし、運動もできるほうだったが、同級生が遊んでいるようなゲームなどはもちろん買ってもらえなかったし、テレビ番組も観ていなかったので、なかなか周囲の話についていけなかった。だから小学校は、楽しいと思った記憶がほとんどない。

 それに比べたら、礼陣に引っ越してきてからの生活は、中学生になってからの暮らしは、家での息苦しさを除けば良いものだった。

「私立中学の模試受けといて、なんで私立行かなかったんだよ」

「急に父親の転勤が決まった。礼陣には私立中学はないだろ」

「あるっちゃあるけど女子校だしな。……そっか、お前の家も色々大変だったんだな」

 牧野があまりにしみじみと言うので、新は怪訝な表情になる。たかが転勤が理由の引っ越しが、そんなに大変なことなのだろうか。少なくとも新には、そんな記憶はなかった。

 ……いや、一つだけ、たった今思い出した。父親の転勤が決まったらしいその晩に、母が叫んでいたのが自室まで聞こえたのだった。

――それじゃ、新はどうなるのよ?! せっかく私立中学を受けさせる準備をしてたのに、全部台無しじゃないの!

 そうだ、母は新に私立中学を受けさせる気でいたのだ。新自身にも、合格して通えるだけの実力があった。けれども父の転勤で、それは全てふいになったのだ。結果として、新にとっては良いことだったが、母にとっては屈辱だったのかもしれない。きっと、それを今になって取り返そうとしているのだ。

 新が一人納得しかけたとき、牧野がぼそりと呟いた。

「左遷されちゃ、私立どころじゃないよな」

「は? 左遷?」

 耳はしっかりその言葉を拾った。頭はきちんとその意味を理解した。けれども、牧野がそんなことを思う理由がわからない。

「あ、悪い。また俺、考えなしに変なこと……」

 取り繕うとした牧野に新は片手で掴みかかる。「ごめんってば」と謝られても離さない。問題は、牧野の発言が失礼だったことではないのだ。

「親からは転勤としか聞いてない。でも、お前は左遷だと思った。どうしてだ?」

 ここが列車の中、公共の場だということを忘れて、新は声を荒げた。牧野は持っていたノートを閉じ、声をひそめて告げる。

「礼陣に転勤って聞いたら、まずそっちが思い浮かんじまうんだよ。県内の大きな町……たとえば門市や大城市の会社で何か失敗したり、責任をとらされた管理職の人が、よく礼陣の営業所とかに飛ばされてくるんだ。もちろん全部が全部そうってわけじゃないけど、パターンとしては多いんだよ」

 そんなことは初めて聞いた。いや、話題になんかするものではないのだろう。そんな大事なこと、面白おかしく騒ぎ立てるほうがどうかしている。

「でも、入江の家に限ってそんなことはないか。馬鹿なこと言った。本当に悪かったよ」

 牧野はそう言うが、新には心当たりがないわけではない。ただの転勤なら、母はなんとしてでも新を私立中学に通わせようとしただろう。実際、同じ塾の同じクラスに、門市の私立中学の生徒がいるのだ。学校の場所は駅の近くだということも話していた。こうして列車で通うことも、門市に引っ越して父だけが礼陣の会社へ通勤することも、できないことではなかった。

「……牧野、迂闊な発言どうもな」

「だからごめんって」

「怒ってるわけでも、呆れてるわけでもない。むしろ感謝してるくらいだ」

 進路の話をしたら、また親に一方的に問い詰められるのだろうと思っていた。それを何とかはね返して、公立高校の願書を出させてもらうということしか頭になかった。しかしこちらから問うことができる材料を、新は手に入れたのだ。

 そこに切り込むのは卑怯なことかもしれない。親にだって、都合というものがあったのだ。そうせざるをえない、仕方ない理由があったのだ。けれどもそれなら新にだって、本当のことを話してもらいたい。新がこれまで親の都合で動かなければならなかった理由を、きちんと説明してもらいたい。

 そのためなら、今からすぐに帰りたいくらいだった。あんなに帰りたくないと、居心地が悪いと思っていた家に。

 

 塾での授業が終わり、礼陣行の列車に乗って、降りる駅に到着する。帰路の途中には、クリスマスの日に春と一緒に電飾に彩られた樅を見た広場がある。首に巻いたマフラーにそっと手をやりながら、新はこれから自分がすることと、春の笑顔を思い浮かべていた。

 大丈夫だ。味方ならいる。もし望み通りにことが運ばなくて、離れてしまったとしても、ずっと味方でい続けてくれる人が、今の新には何人もついている。

 中央地区の分譲住宅の、慣れた門をくぐる。戸を開けて「ただいま」と言っても、返事はない。母はきっと台所で、父は居間か部屋だろう。靴はあるから、帰ってきてはいるようだ。話をするにはちょうどいい。

 きっとこれまでも、機会はあったのだ。新がそれを避け続けてきただけで、家族は揃っていたのだろう。それを思うと、自分がいかに怖がりだったか、逃げ腰だったかが、よくわかる。

「父さん、ただいま」

 まずは居間にいた父に声をかけた。普段の新は帰ってきたらすぐに部屋にこもるので、きちんと挨拶をするのは珍しい。父はゆっくりとこちらを向いて、「ああ」とだけ言った。いつもは言わないから、「おかえり」が出てこなかったのかもしれない。

 それから台所に行き、ダイニングテーブルに肘をついて額を押さえていた母に声をかけた。

「母さん、ただいま」

「……今日もちゃんと勉強してきたんでしょうね」

 迎える言葉よりも先にこの確認があることは、小学生の時から変わっていないのでわかっている。いつもはそれに苛立つが、いや今日だって苛立たないわけではなかったが、新は落ち着いて「してきたよ」と答えた。

 戦いはこれからだ。ここで冷静さを欠いてはいけない。

「母さん、話があるんだ。居間に来てほしい」

 母は眉間にしわを寄せたまま、椅子から立ち上がって、父のいる居間へと移動した。新は母を父の隣へ誘導し、自分は彼らの向かいに座る。そこには両親が座っているような柔らかなソファはないので、床に直接腰を下ろした。

 そして、二組の入学願書を、ローテーブルの上に置いた。

「話っていうのは、もう願書を出さなきゃいけないから、同意と受験料の支払いをお願いしたいってことなんだけど」

「どうしてもっと早く出してこないのよ。龍堂高校なんて、もう提出しなきゃいけないのに」

 文句を言いながら母は龍堂高校の願書だけをとって、必要事項をさらさらと書きこみ、受験料の振込用紙をファイルにしまい込んだ。いつも急ぎの支払いがあるときには、そのファイルに必要なものを入れている。

「礼陣高校のも、頼みたいんだけど」

 新が言うと、今度は父が手を伸ばした。しかし、母がそれを遮る。――予想のできていた行動だったが、実際目にすると、頭に血が上りかけた。けれどもまだ、声を荒げてはいけない。新は静かに口を開いた。

「母さん、龍堂高校に合格したら礼陣高校に行かせてくれるって約束だったよな」

「私は納得していないわ。たかが弓道をやりたいだけで、どうしてそこまでレベルの低い学校にこだわるの? 龍堂高校にだって弓道部はあるし、貴方はそこでやっていけるくらい勉強ができるのよ」

 勉強はたしかにできるようになった。友人に頼られ、教えられるくらいに。それは新にとって、けっしてマイナスではなかった。今の人間関係を作るための、重要なものになった。

 でもそこに至るまでの、学力を高めることをひたすら強いられ続けてきた日々は、新が望んだものではなかった。でも他にやりたいこともなかったから、何にも興味がもてなかったから、母の言う通りにしてきた。

「礼陣高校に行きたい理由は、前にも言ったはずだ。弓道をやるのに施設が整っているし、全国レベルの腕前を持つ有名な先輩もいる。オレが初めて自分からやりたいと思ったことを、追求したい。それができるのが、礼陣高校だと思った」

「弓道、弓道って……貴方が一番得意なのは勉強だと思ったから、今までずっとやらせてあげてきたっていうのに」

「そりゃ、得意ではあったかもしれないけど。……でもやっとやりたいことができたんだ、やらせてくれたって良いだろ」

 中学に入って、弓道部の見学をしたあと、父に同じことを訴えた。あのときもかなり勇気を出した。父は「そうか」と頷いて、独断で新の入部と援助を許してくれた――と、新は思っていた。

 けれども、その認識は突然覆された。

「だからやらせてあげたじゃない! 三年間、ずっと貴方が弓道をするのを許したじゃない! お父さんが『新が初めて自分で言い出した』って言うから、勉強の時間が削られるのにも目を瞑ってきた。貴方は成績を落とさなかったから、やめさせようとも思わなかった」

 話は、母にも通っていた。いや、そうでなければ引退までずっと弓道を続けていられるはずがなかったのだ。部費や大会のための遠征費用など、出してくれるのは親だった。父が仕事でいないときでもちゃんと用意してくれていたのだから、母は新が弓道をすること自体には反対していなかった。少し考えればわかることだ。

「でもこれで進路のレベルを落とすくらいなら、やらせなければよかった。周りから変な影響を受けて、夏休みも参考書を買いに行くなんて嘘までついて遊びに行って。……こんな町、来るんじゃなかった!」

 叫んだ母を、新はじっと見る。肩を上下させ、荒く息をしてから、母は何かに気づいたように表情を変えた。何かを恐れるように顔を歪めると、口を押さえ、父に見えないように顔を逸らす。言ってはいけないことを言ってしまったかのように。

 父の表情は変わらなかった。だが、わずかに俯いている。――それはそうだろう。この町に来ることになった原因は、父の「転勤」にあるのだから。

「……あの、父さん」

 新は母から目を離し、父に尋ねる。返事はなかったが、意識は新に向いたのがわかった。

「父さんの仕事の都合で、オレたちはここに引っ越してくることになったんだよな。もしかしてそれって、あまり良くない事情だったんじゃないか? ……オレを私立中学に進学させるのを、諦めなくちゃならないくらいの」

 よみがえった記憶の中の母の言葉と、牧野から聞いた話を合わせて、導き出した答え。それはやはり、父の仕事が当時うまくいっていなかったのではないかということだった。私立に行くには金銭面での負担が大きいはずだし、礼陣から門市に通うとなればさらに交通費がかかる。それを捻出する余裕が、一時期はなかったのだ。

 けれどもこの町に住んでいるうちに状況が回復してきて、今では新を毎日列車で塾へ通わせられるようになった。思えば急に家庭教師を雇うなどと言いだしたのも、三年生になってからだ。

 その新の考えを、父は首肯した。

「そうだ。お前が小学六年生の時に、父さんが携わっていた仕事が失敗し、責任をとらなければならなくなった。それ以外に立て直す方法がなかったんだ。父さんは大城市の本社から、礼陣の営業所に異動することになり、収入もそれまでとは変わってしまった。これが引っ越しの真相だ」

 もっと早く話すべきだった、と父は言った。けれども母が、新にこの話を聞かせるのを嫌がった。子供にはそんなことで親の心配をしてほしくなかったからだそうだ。そして弓道をやることを許可したのも、新が興味を持ったからというだけではなく、家計が傾いていることを覚られたくないという思いもあったからだと告白した。

 小学生の頃のように塾に通わせられなくなったからといって、新の成績を下げることも、母は許さなかった。だから自分の力で勉強して成績を保つようにと、厳しくあたってきた。そして新が三年生になってから、ようやく家は元のかたちを取り戻し始めたのだった。

 それまでにはまた、新が勉強を思い切りできるような環境に戻れるようにしておこうと、両親は力を尽くしていた。――県外で私立の龍堂高校に新を通わせるというのは、新のための目標ではなく、母の目標だったのだ。それが可能になるように、この家を立て直し、守ろうとしていた。

 もっと早く言ってくれれば、と新は口にしかけたが、やめた。真実を告げられたところで、ならば仕方ないと考えて、色々なことを諦めていたかもしれない。弓道だってやっていなかったかもしれないし、家計のことを考えてやはり礼陣の町の公立高校を目指そうとしていただろう。

「……意地になっていたの」

 父が語っているあいだ、ずっと黙っていた母が、しばらくの間をおいてから口を開いた。

「大城市にいた頃、新は頭が良いとよく褒められていたから。それが私の誇りだったから。他のどの子よりもこの子はすごいんだって、示したかった。だから、お父さんが言ってくれるほど、私は立派な親じゃないのよ」

 いつも新にきつい言葉ばかりを吐いてきた母が、初めて弱々しく見えた。何か言わなければいけないと思い、新は「母さん」と呼びかける。けれどもうまく言葉は出てこなくて、口だけが開いたままになってしまった。

 すると母は、突然いつもの厳しい表情で新を見返した。

「貴方はレベルが高いわ。この町のどの子よりも。私はやっぱりそう思ってる」

 驚いて目を見開いた新に、母は息を吐く間もなく言葉を継ぐ。

「だから学力レベルが低い学校に通って、そこに染まってしまったら、それより上の進路を選びたくなったときに絶対苦労するわよ。せっかくうちにも余裕ができたんだから、龍堂高校に行ったほうが、大学に行くにも、就職をするにも、有利になるのは間違いないの。それでも貴方は、礼陣高校に行きたいって言うのね?」

 礼陣高校なんてやめなさい、とは言わなかった。新の意思を確認してくれた。そのことを頭で、心で理解して、母の目をしっかりと見つめ、新は力強く頷く。

「オレは礼陣高校に行きたい。そのあとどうしたいかはこれから決めるし、決めたなら諦めない。どんなに苦労したって、上を目指したくなったら上に行く。昔は友達もいなかったし、やりたいこともなかったから、こんなに自信は持てなかったけど……今はそうじゃないから、何かあれば助けてくれる人だってたくさんいるから、必ずオレはオレの納得のいく道を行く」

 そしてそれに両親がきっと納得してくれるとも、今の新は思うのだ。だって、両親は新の成績以外に興味がなかったわけではなかったのだから。新が希望を持てるように、持ち続けられるようにと、考えてくれていた。ただ、その歯車が、少しだけ狂ってしまっていたのかもしれない。

 父と母は、新を見てから、互いに顔を見合わせ、頷いた。そして母は礼陣高校の入学願書を引き寄せると、必要事項を書きこみ、印を捺し、受験料の払い込み用紙を大切そうに龍堂高校のものと同じファイルに入れた。

 流れるような動作に新が言葉を失っていると、二つの願書をこちらに差し出しながら、母はすかさず告げた。

「条件は変わらないわよ。龍堂高校に合格しなければ、礼陣高校は受けさせない。公立入試の一次は一旦諦めさせて、二次募集枠でなんとかさせる。……だから、あともう少しがんばりなさい」

「は、はい!」

 認められた。条件は変わらないように見えても、新の意思は母に受け入れられた。この大きな一歩に、新は目頭と胸が熱くなるのを感じた。

「……もう一つだけ、聞いてもいいかな」

 泣きそうになるのを我慢しながら、新は最後の問いを口にする。

「何?」

「小学校から今まで、行事、一度も来てくれなかったよな。あれは、オレのことがどうでもよかったから?」

「……何を馬鹿なこと言ってるの」

 母は溜息を吐いて、それからちょっとだけ目を逸らした。

「貴方、私のこと嫌いだったでしょう。そうさせるような態度を、私がとってきたのだもの。嫌いな人がそんな場に出ていって、嬉しい?」

 唖然とした。母が拗ねていることにではない。拗ねやすく、妙な形でしか反抗できなかった自分が、母似であったのだと改めて実感してしまったからだ。新はへなりと力が抜けていくのを感じながら、「そっか」と言った。

「嫌いじゃなかったよ。正直に言うと、苦手だったけど。運動会も文化祭も、来てくれたら普通に嬉しかったよ」

 だって、来ないことに拗ねていたんだから。

 

 受験料はちゃんと払い込まれ、願書を提出する準備は整った。二校分の願書を手にする新はこれまでにないくらい晴れた笑顔で、春もつられて嬉しくなる。

「良かったね、新。お母さんが認めてくれて」

「ああ。なんか、お互いに意地を張ってただけだったみたいだ。思ったよりあっさり解決して、拍子抜けしてるよ」

 そうは言いながらも、大きな壁を一つ越えた達成感は大きいはずだ。新のおかげで、まるでもう受験が終わったかのような感覚にとらわれかけるが、本当の勝負はこれからだ。春たちもやっと願書を提出するところだし、新にはまだ「条件」が残っている。

「心配事が一つ減ったところで、学年末テストまであと何日もない。これからは容赦なくいくからな」

「新がアタシに容赦したことなんてあったっけ? まあいいか、よろしく頼むよ、新先生」

「でも詩絵ちゃん、一人で問題解けるようになったよね。質問の回数も減ったし、解く速さだって上がってる。もしかしたら礼高だけじゃなくて、北市女も受かっちゃうかも」

「いやいや、さすがにそこまでは……」

 千花の言葉に詩絵は謙遜するが、春はいけるかもしれないと思っていた。新の抱えていた問題は解決し、テストの準備も順調だ。このまま全てがうまくいくのではないか、望み通りに運ぶのではないかと、期待が膨らむ。

 朝のホームルーム前の予鈴が鳴って、いつものとおりに、けれども機嫌良くA組とC組に分かれようとする前に、春は新に呼び止められた。

「春、いつでもいいから牧野に礼言っておいてくれ」

「牧野君に? お礼があるなら自分で言えばいいのに」

「どうせ言っても、向こうは何のことだかわからないだろうから。それなら春から言ったほうが、牧野にとっても都合がいいかもって思って」

 春は首を傾げながらも、「わかった」と返事をする。そして一時間目の授業が終わった後に実行したが、やはり牧野も理由はわからなかった。「そんなの自分で言えよ」とこちらもこぼしていたので、春から伝えるように言われたことを話すと、機嫌が悪そうな独り言があった。

「変な気の遣い方するなよ、あのバカ」

 牧野が新に前へ踏み出すヒントを与えたことと、その内容を春たちが知るのは、もう少し後になってから。そして新の「気遣い」に春が気づくのは、さらに時間が経ってからのことだった。

 

 

 入学願書の提出締切を無事に越し、期末テストの二日間を乗り越え、カレンダーは二月にかわる。三年生にはいよいよ受験本番が差し迫ってきた。

 期末テストの結果がどれも悪くない出来だったので、昼休みの図書室勉強会メンバーは揃って気合が入っている。

「私立の出願状況出てたね。みんな力試しで受けるから、やっぱり高かったけど」

 公立高校に先駆けて、私立高校の最終出願状況が公表されている。公立高校は先日中間倍率が出て、今は出願変更の受付中だ。

 私立高校の倍率は見ただけでくらりとするような数字だったが、春の言う通り力試しや記念受験が多いので、専願の人数はそれほどでもないのだろう。だが、その専願の者たちには、数字は重くのしかかってくる。

「北市女、予想通りすごい倍率だよね。何人が合格になるんだろう」

「募集人数より多く合格は出すと思うけど、それでも脅威かな。園邑さんみたいに、北市女に行くつもりはなくても合格しそうな人はいっぱいいるし、そういう人に押し出されて補欠合格になったり、落ちちゃう人だっているかもしれない……」

 北市女学院高等部を第一志望にしている小日向は困ったように言うが、彼女はそもそもの成績がいいので問題なく合格できるだろうと周囲は思っている。羽田などは「あたしなんて絶対無理だと思ったから北市女受けないし」と開き直っていた。

「龍堂も高かったよな。全国から受けに来るって本当だったんだな……」

 はあ、と溜息を吐いたのは塚田だ。彼は龍堂高校は受験しないが、目にした数字には圧倒されたらしい。一方受ける側は、ただただ苦笑するばかりだ。

「まあ、参考にしつつがんばるしかないか」

「そうだな。俺はともかく、入江はその後の公立受験ができるかどうかがかかってるし」

 願書を出したときにわかったのだが、龍堂高校を受験する生徒はやはり新だけではなかったようだ。記念受験として、沼田や浅井も挑戦するという。基本的には社台高校を受験する男子生徒が、龍堂高校を併願している。合格する可能性が高かろうとそうでなかろうと、女子がこぞって北市女学院を受験するように、それは半ば伝統化していることだった。

 試験本番は来週。それとほぼ同時に、公立高校の最終倍率が出る。――ここに集まっているメンバーは、誰も出願変更をしていない。ボーダーラインだった浅井や羽田もだ。

 私立はもとより、公立高校の中間状況も、油断できないものだった。三年生の教室が並んでいる廊下はここのところずっと緊張していて、迂闊に笑い声でもたてようものなら、余裕がない生徒に睨まれる。

 だからこんな話題は、下級生たちにしかなかったのだが。

「私立入試が終わったあとの日曜って、バレンタインだよな」

 受験の話をしているときの表情そのままに、筒井が言う。あんまり真剣な面持ちだったので、誰もが一瞬、真面目な話かと思った。

「……こんなときに何言ってんの、あんた。バカじゃないの」

 最初に呆れたのは佐山だ。北市女は受験しないが、志望校以外にどこかを併願しているわけではないので、ピリピリしている。彼女の志望する南原高校商業科の倍率は、志願者がなんとか全員収まりそうなものの、予断を許さない状況であることには変わりがなかった。

「だって、バレンタインは大事だろ。女子からチョコ欲しいだろ!」

「そんな余裕ないし」

 とはいえ、筒井の言葉はその場の空気を少し和らげた。試験直前とはいえ、ずっと力を入れっぱなしでは肩がこる。それに、口にはしなかったが、その日のことが気になっていたのは筒井だけではなかった。

 新はちらりと春を見る。筒井の発言に笑っているが、はたしてバレンタインチョコを用意する予定はあるのだろうか。こんな時期だからなくても仕方ないが、やはり新も正直なところをいえば、春から貰いたかった。

 その気持ちが隣に座る牧野には通じてしまったようで、ノートの端に「期待してんじゃねえよ」と書かれた。「お前には何の期待もしてねえよ」と、同じやり方で返してやった。

「ま、ちょうど私立試験が終わったところだから、このメンバーには用意してあげてもいいけど。たまには息抜きもしないとね」

 ひかりが言って、女子の空気は「それもそうかな」という方向へ傾き始める。このままくれればいいのだけれど、と男子たちが淡い期待を抱きながら、その日の勉強会は解散した。

 教室に戻ってから、春は図書室での会話を思い返す。筒井のように、新もバレンタインにはチョコが欲しいのだろうか、と考える。今回が出会ってから初めてのバレンタインだ、何かしてもいいが、それで正月のように暢気に構えてしまってはいけない気もする。

――まあ、今はいいか。私立の試験が終わったら考えることにしても、時間はあるし。

 気を取り直して、春は参考書とノートを用意する。教科書の授業はもう終わってしまっているので、今はそれぞれ入試に向けて、自分に必要な勉強をすることになっている。斜め前の席では詩絵が真剣に問題を解いていて、自分ももっと危機感を持たなければと思った。

 一方、詩絵はバレンタインのことなど考えている余裕もなかった。学年末テストは全体的に良いと思える点数を取れたものの、主要五科目の教師陣が忍ばせてきた高校入試対策問題では取りこぼしがまだあった。北市女の過去問から出されたらしい問題が解けていなかったので、今、非常に焦っている。

 もちろん新に教わって解き直しはしたが、こんなことで本番は大丈夫なのかという不安が大きかった。正答率も問題を解く速さも格段に上がったと、周囲は言ってくれる。けれども詩絵の場合、スタート地点が友人たちよりも遅れているのだ。上がったところで並にしかなっていないという思いは、いつもつきまとう。

 焦っているうちに、また間違う。しかも単純なミスだ。計算間違いだったり、漢字を書き間違えたり。もう入試は来週なのに、こんなところで躓いている場合ではない。

 必死で問題と格闘しながら、斜め後ろの春を覗き見る。参考書に向かうその表情は平気そうに見えて、いいな、という呟きが漏れそうになる。自分もあれくらい、余裕があったら。そうしたら、今日の他愛もない会話にだって加われたのに。本当ならば、バレンタインの話題は、受験前の緊張をほぐすものだったはずなのに。……筒井にその意図があったかどうかはわからないが、少なくとも春や千花は笑っていた。北市女専願の、小日向ですらも。

 詩絵は北市女に落ちるのが怖い。受けるとは決めたものの、やはり不合格だったときのことを考えると、喉が渇いて張り付くような心地がした。それを本命である公立入試まで引きずりそうなのが、一番恐ろしかった。なし崩しに駄目になってしまったら、次のことも考えられなくなるのではないか。そう思うと手が震えた。

 春たちの前では虚勢を張っている。でも本当の詩絵は、息苦しくてたまらなかった。

 そうしているうちに、出願変更期間は過ぎた。

 

 その週末、つまり私立試験前の最後の週末だったのだが、詩絵は寝不足のまま北市女対策のまとめプリントに向かっていた。遅くまで勉強し、睡眠時間を短くして早起きをし、家のことを簡単に片付けてから勉強をする。それが最近の週末の過ごし方だった。

 詩絵がどうしてもと譲らなかった朝以外は弟が家事をやってくれるので、かなり助かってはいる。だが寝不足の頭ではろくに勉強ができず、かえって焦燥感は募るばかりだった。今まで解けていたはずの問題で些細なミスをしてしまい、叫び出したいのを我慢しながら机に突っ伏す。

 早く私立の試験が終わってほしかった。終わったところで、じきに公立入試がやってきて、また焦るのだろうけれど。たしか礼陣高校の今のところの倍率は、よそからの志願者を加えて1.2だった。詩絵にとっては厳しい数字だ。

 大きく溜息を吐いたところで、机の上に置いていた電話の子機が鳴りだした。三コールでも鳴りやまないということは、弟は手が離せないか、おつかいにでも行っているのだろう。両親は働いているので、当然家の電話は受けられない。詩絵は仕方なく子機をとり、なんとかよそいきの声を出した。

「はい、加藤です」

「あ、詩絵ちゃん? 千花だけど」

 高く明るい声は、間違いなく千花のものだ。声を大人っぽく作る必要はなくなり、かといって落ち込んでいるのをそのまま聞かせるわけにもいかなくて、中途半端な返事をする。

「どうしたの? 急ぎの用事?」

 少し機嫌の悪そうな口調になってしまっただろうか。しかし千花のほうはまるで気にしていない様子で、「あのね」と告げた。

「詩絵ちゃん、今出てこられるかな。一緒に神社に行きたいなって思ったんだけど」

 受験前の、最後の神頼みか。頼みに行けるほどの余裕が、千花にはあるのか。そんなことを思ってしまい、詩絵は自己嫌悪する。それを悟られないように、わざと大きな声で返事をした。

「うーん、アタシは神頼みより悪あがきしたほうがいいんじゃないかと……」

「詩絵ちゃんしっかり勉強してるもん、ちょっと気分転換しようよ。外は空気が冷たいから、頭がシャキッとするよ」

 電話の向こうから、鳥の鳴き声のようなものが聞こえる。本物にしては規則正しいそれは、歩行者用信号機が青になったことを知らせる音だ。千花はもう、外に出ているらしい。そういえばあの子は携帯電話を持っていたなと思いながら、詩絵は頷いた。出てきてしまったものを断れない。

「わかった、行くよ。でも髪とかぼさぼさだから、ちょっと待って。神社の境内で会おう」

「うん、そうしよっか。それじゃ、待ってるね」

 千花は詩絵を動かす方法をよくわかっていると、つくづく思う。行動してから連絡し、待っていると言って実行させる。無意識にしているのかもしれないが、これで詩絵は千花を放っておけなくなるのだ。どうしてその手を自分が虐められているときには使わないのかと、半分呆れ、けれどもやっぱりもう半分は愛おしく思う。

 電話を切ってから、羽織っていた半纏を脱ぎ、古くなっているセーターを外出できるようなものに着替える。髪を軽く梳かして整え、コートを着込んでマフラーを巻く。恰好をチェックしようと覗き込んだ鏡には、目の下にくまができた、覇気のない顔が映った。

「……こりゃ、解けるもんも解けないわ」

 自嘲して、やっぱり千花から電話があったのは良かったかもしれないと思った。そうでなければ鏡なんか見なかっただろう。

 部屋を出て玄関に向かう途中で居間を覗くと、弟はちゃんとそこにいた。電話からはそう離れていない。

「成彦、さっき電話鳴ったでしょ。なんで取らないのよ」

 文句と疑問を半分ずつ混ぜて尋ねると、弟はしれっと答えた。

「電話番号、千花さんのケータイだったから。姉ちゃんが取ったほうが早いと思って」

 そういえば親機には、相手の電話番号が表示されるのだった。よく千花の電話番号なんか憶えてたね、と言いかけて、出会った頃は頻繁に電話でやり取りをしていたことを思い出した。そのときに弟も、すっかり憶えてしまっていたのだろう。

「いってらっしゃい」

 何もかも見透かしたような顔をして、弟は詩絵に手を振った。「いってきます」と返して靴を履き、玄関の戸を開けると、たしかに目が覚めるくらい寒い。冬の礼陣は大抵底冷えするが、今日は特別冷え込んでいる。薄く雪の積もった道を、しゃくしゃくと音をたてながら、神社に向かって歩く。

 礼陣神社は、詩絵の家からずっと東に向かったところにある。社台地区の住宅街を抜けていけば、商店街側にある石段を上り下りしなくても済むのだが、坂があるので結局のところは、労力はさほどかわらない。

 境内に着くと、そこには裾がふんわりとした赤いコートを着た千花と、学校に着てくるのと同じ紺色のダッフルコートの春が待っていた。こちらに気づくと、二人とも嬉しそうに手を振ってくれる。

「なんだ、春も来てたの」

「千花ちゃんが誘ってくれたんだよ。受験前にお参りしておこうって」

 きっと春はすぐにオーケーしたんだろうな。そんな言葉を頭の中だけに留めておいて、詩絵は二人に駆け寄る。そして一緒に拝殿前に向かった。

 三人一緒に綱を掴んで鈴を鳴らし、二礼、二拍、そして一礼。幼い頃からしている動作の中に、今だからこその願いを込める。――受験をがんばりますから、どうか見守っていてください。

 合格させてくださいとは言わない。礼陣神社に祀られている鬼には、そこまでの力はないからだ。人間の願いを見守ること、傍で応援することが鬼の「手助け」なのだと、礼陣の子供は大人たちから教わる。最終的に結果を決めるのは、自分自身の力なのだ。それを知っているから、詩絵は「神頼みより悪あがき」と言ったのだ。

 参拝を終えてから、千花と春は詩絵の手を片方ずつとった。すぐには帰さないつもりらしい。

「詩絵ちゃん、お守りもらってこようよ」

「お守り?」

「うん。私たちのと、あと新の。今日も塾で来られなかったから、明日渡そうと思ってるんだ」

 お守りも願掛けと同じで、気安め程度にしかならない。けれども春が新に渡したいというなら乗ってやろうと、詩絵は頷いた。

 二人に引っ張られるように社務所に行くと、神主さんがすぐに「受験のお守りですね」と応じてくれた。この時期はやはり多いのだろう、こちらが言うより先に用意している。初穂料を納めて受け取ったお守りには、「学業成就」の四文字がまっすぐに刺繍されている。一つは袋に入れてもらって春がポケットにしまい、あとは一つずつ自分で持った。

「受験、応援してますよ。自信を持っていってください。あなたたちの未来が明るいことは、私が保証しますから」

 礼陣で、神主さんの保証ほど当てになるものはないという。なにしろ本物の神様だという話もあるくらいだ。詩絵は春と千花が笑顔で礼を言うのを見てから、少し遅れて、「ありがとうございます」と返した。

 すると神主さんは目敏く、「おや」と詩絵に言った。

「詩絵さん、あまり元気がないですね。顔色もあまり良くない」

「そんなことないですよ。ちょっと遅くまで勉強してただけで、元気です」

 あわてて肩を回してみせるが、神主さんの表情は変わらない。笑顔を浮かべてはいるが、心配そうだ。見ていられなくなって視線を逸らすと、両側にいる千花と春も、同じような表情をしていた。

「詩絵ちゃん、がんばりすぎ」

「ちゃんと寝ないと、本番に倒れちゃうよ」

 きっと千花は、そして春も、詩絵が焦っていることに気がついていた。千花が誘ってきたところをみると、先に気にし始めたのは彼女なのだろう。もしくは春が、千花に相談したか。いずれにせよ、詩絵の強がりはとうに二人の知るところだったのだ。

 ずっと一緒にいて、見抜けないはずがない。嬉しいことに、二人とも、詩絵のことを大好きでいてくれるのだから。

「……そりゃあさ、勉強してないと不安だよ。アタシは春や千花みたいに頭良くないし。でも、北市女受けるって決める前よりは、かなりできるようになったと思う。目標が見つかって、それに向かってがんばろうって思えるようになった。だから、怖がる必要なんて、そんなにないはずなんだけど……」

 直前になって急に足が竦んだ。そう最後まで言いきる前に、手が伸ばされる。詩絵を両側から挟むように抱きついた二人が、同時に「大丈夫」と言った。

「私たちの本命は礼高だよ? 北市女の勉強をがんばってる詩絵ちゃんなら、きっと大丈夫」

「神主さんも言ってくれたじゃない、未来は明るいって。どーんとかまえてようよ」

 ぬくもりに包まれながら詩絵が神主さんを見上げると、優しい笑みで頷かれる。この笑顔が、ずっとこの町の人々を救ってきたのかもしれない。困難を乗り越えさせ、絶望から立ち直らせてきたのかもしれない。これは神社に今でも足繁く通う母からも聞いた話だ。加えて詩絵には、弱ったときにそっと力を貸してくれる親友がいる。こちらがどんなに強がっても、異変を察して、手を差し伸べてくれる人がいる。

 この先にあるのが嬉しい結果でも、落ち込むようなことでも、親友たちはその気持ちを分け合ってくれるのだろう。たとえ北市女の試験がうまくいかなくても、それを引きずらないように励ましてくれるはずだ。それなら何も怖がらなくていい。今の詩絵の全力を、安心してぶつければいい。

 体に、心に、沁みていく温かさが、詩絵に元気をくれる。

「もし詩絵さんが望みを見いだせなくなったら、そのときは私を責めてかまいませんよ」

 神主さんの言葉に、詩絵は首を横に振る。そんなことにはきっとならない。

「目が覚めたんで、大丈夫です。千花と春もありがとう。良い気分転換になった」

 両手で二人を抱きしめ返したら、もっと温かかった。

 

 北市女学院高等部と龍堂高校の入試日程は同日だ。男子はともかく、女子はほとんど学校に来ないので、その日は試験のない三年生は家庭学習日になる。

 その前日は、春たちにとっても新にとっても、おさらいのできる最後の一日だ。

「これ、みんなお揃いなの。良かったら試験に持っていって」

 朝のうちに、春は神社で受け取ったお守りを新に差し出した。渡すなら今しかなかった。新は小さな包みを受け取り、中身を見ると、嬉しそうに笑った。

「ありがとう。春とお揃いなら合格間違いなしだな」

「ちょっと、春はみんなお揃いって言ったんだけど。相変わらずアタシたちのことは見てないんだから」

「まあまあ、新君ががんばれればそれでいいじゃない。受験会場、門市でしょう? 離れてても春ちゃんのこと思い出せるアイテムだと思って」

 北市女学院は礼陣にあるので、春たちは学校に赴いて受験することになる。一方の新は門市の大学の施設を借りて受験をする。全国から生徒が集まる龍堂高校の、いくつかある受験会場の一つだ。

「春たちとは離れるけど、一人じゃない。沼田と浅井も会場は同じだから、一緒にがんばってくる。そっちもがんばれよ。春と千花はもちろん、詩絵だって自信持っていいと思うぞ」

「そりゃどうも」

 返事は短かったけれど、詩絵はきっと嬉しいだろうなと、春は目を細める。みんなが互いにエールを送りあい、それを胸に最後の確認をして、翌日の試験に備える。

 そうして迎えた私立入試当日の礼陣の天気は、晴れ。きりっと冷え込みはしたが、午後にはそれも和らぐだろうということだった。門市も同じく天気は良好、交通機関への影響はなし。幸先の良い勝負の朝を、それぞれが迎えた。

 試験は二日間。一日目は学力試験、二日目は面接試験。受験票と筆記用具が鞄に入っていることを確認して、いざ。

 

 

 私立高校入試が終わると同時に、公立高校の最終倍率が出た。少し人数が動いて、礼陣高校は1.1になっている。他校も若干の変動があった。けれどももう、後戻りはできない。休む間もなく公立高校入試対策が始まり、私立入試で試験を終えた生徒以外は目をそちらに向ける。

 春たちも私立の自己採点を終えてから、それは終わったこととして、本命である公立入試の勉強に集中し始めた。そして私立入試を終えた新は、もう塾に通う必要もなくなった。

 最大の山を越えてしまった新は、気持ちにも時間にもかなりの余裕ができていた。公立高校の入試予想問題はこれまでやってきたものに比べれば易しい。だが、倍率が高い以上は油断はできない。二年生の時までのように、自力で勉強を続けた。

 そんな日々を送り始めた日曜日、携帯電話に着信があった。千花からのメールだ。

[午後三時に学校前に来てください]

 日曜日なのに学校に? と思ったが、新は深く考えず了解を返す。何も予定がなく、外出も以前より自由にできるようになったので、気軽にその返事ができる。

 時間が近づいたらコートを羽織り、春の手編みのマフラーを巻き、両親に外に出ることを告げる。「私立入試が終わったからって気を抜くんじゃないわよ」と母に注意されるが、その言葉が公立入試を前提としたものだと知っているから、嫌な気分になることもなく「手抜きはしないよ」と返しておく。そうして玄関を出ると、今日も入試の日と同じくらい晴れていた。

 二月も半ば。礼陣の空気が温かくなり始めるのは三月に入ってからだが、すでに町は少しずつ春めいてきている。ちょっとおしゃれな人なら、もうコートの生地が薄くなっているくらいだ。もうすぐマフラーもしまわなければならないのかと思うと、少し寂しくなる。

 住宅街を抜けて、大通を歩く、すっかり慣れた通学路を行くのも残りわずかだ。あとひと月もせずに、卒業式がやってくる。そのあとで公立高校入試の結果が出て、もう一度だけ中学校に行くことになるが、それが最後だ。――季節が巡るのは、いつもあっという間だ。退屈な日々でもそうでなくても。いや、楽しいことのほうが早く過ぎてしまうかもしれない。

 考えを巡らせながら、指定された時間ちょうどに学校の前に到着する。千花の姿はなかった。

「五分前には来てそうなものだけど……」

 首を傾げていると、再び携帯電話が鳴った。千花から、あと五分、とだけ書かれたメールが届いていた。何かトラブルでもあったのだろうか。そもそも、千花はどうして新を学校に呼び出しているのだろう。

 疑問を重ねて、さらに五分。そのあいだぼんやりと校舎を眺めていた新の耳に、足音が触れた。こちらへ走ってくるそれは、たしかに急いでいるようだけれど、さほど速くはない。千花の歩調とは違うそれに、新は覚えがあった。

 振り向けば、紺色のダッフルコートにピンクのマフラー姿の、背の低いおさげ髪の女の子。手に包みを持っているその姿は、去年のクリスマスと重なる。

「春? ……千花と一緒じゃないのか?」

 新の前で立ち止まり、肩を上下させて息をする春は、新の質問に対して首を横に振った。

「……千花ちゃんは、私の代わりに連絡とってくれてたの。私、新にメール送れないから」

 そう言って、やっと顔をあげた春は、困ったような笑みを浮かべていた。

「ごめんね。用があったの、私なの。明日でもいいかなって思ってたんだけど、千花ちゃんと詩絵ちゃんが『今日中に渡しておいで』って」

 まだ頭に疑問符を浮かべている新に、包みが差し出される。可愛らしい袋に、くるくると巻いたリボンがかけられているそれを見てもまだ、新は状況が掴めない。受け取らないままぼうっとしていると、包みを春に押し付けられた。

「え、これは」

「今日、バレンタインだから。詩絵ちゃんと千花ちゃんと、ちょっと息抜きしてお菓子作ろうってことになって。みんなには明日配るつもりだけど、新には……」

 全て説明してもらって、やっとわかった。そういえば、そんな話をしていた気がする。理解した途端に、一気に顔が熱くなった。

「それで渡しに来てくれたのか? あんなに一所懸命走って……」

「ちょっとラッピングに時間かかっちゃって。そのわりには大したことないんだけど、でも、貰ってくれたら嬉しいかな」

 少し早口に言う春の頬も赤い。あんまり可愛くて、伸ばしそうになった手を、なんとか引っ込めて包みを受け取る。ふわりと甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。

「ありがとう。なんか、春には貰ってばっかりだな」

「そんなことないよ。新だって、前にこれくれたし……」

 春がおさげをいじる。それをつくっている髪ゴムは、以前新がプレゼントしたものだ。こんな小さなもののために、どれだけお返しをしてくれるのだろう。

「それだけじゃなくて、私立入試まで、新はすごくがんばったから。だからひとまずお疲れさまっていうか……」

「それなら春だってそうだろ。詩絵や千花だって」

 どんな理由であれ、春がくれるものは嬉しい。また一つ、良い思い出が増えてしまった。

「それ、早めに食べてね。勉強のおともにでもして。……それじゃ私、千花ちゃんと詩絵ちゃん待たせてるから、帰るね」

 突然呼び出してごめんね、と踵を返す春に、新は何かを言わなくてはと思った。けれどもすぐには出てこなくて、結局もう一度「ありがとな」と言ったきりだった。

 手には包みが残っている。夢や幻なんかではなく、本当に春がくれたのだ。それを両手で包んでから、やっと頭に言葉が浮かぶ。

 好きだ。春のことが、新は好きでたまらない。けれども振られて以来、いつも伝え損ねてしまう。春はこんなにいろいろしてくれるけれど、それは友人だからなのか、それとも少しは新を好きになってくれたのか、気になるのに訊けない。

 普段は可愛いだとか、何かあったら笑顔を思い出すだとか、すぐに言えるのに。肝心な一言は、いつだって出てこない。

 そもそも最初に告白した時だって、新は春にちゃんと「好きだ」とは言えていないのだ。

 

 翌日、春と詩絵と千花は、友人たちみんなに手作りのブラウニーを配った。詩絵の家に集まり、三人で勉強もしながら行なったそれは、バレンタインを口実にした息抜きだった。

 筒井などは「本当に女子からチョコもらえた!」とはしゃぎ、他の者も男女関係なく、試験勉強の合間のおやつを喜んでくれた。すでに勝負が終わった小日向は、千花から「お疲れさま」の言葉も受け取って、ホッとしたように頷いていた。

 春が牧野にブラウニーの入った包みを渡したとき、「どうも」の次に続いた言葉がこうだった。

「入江にはもうやったのか?」

 どきりとして言葉に詰まった春の脳裏に、昨日のことがよみがえる。ほとんどは三人で作業をし、完成させて切り分けたのだが、新の分だけは別だった。春が最初から一人で材料を混ぜて、別個の型に流し、焼き上げたものなのだ。それをすぐに渡しに行くように促したのは千花と詩絵で、春がでもとかなんとか言っているあいだに呼び出しまでしてくれた。結局春は、新に「特別な」ブラウニーを押し付けるようにしてきてしまったのだ。

「あげたけど……ちょっと早めに」

「あっそ。さっさと付き合えばいいのに」

 牧野に「余計なお世話」と舌を出しながら、春は今朝の機嫌の良さそうな新の顔を思い浮かべていた。春が作ったブラウニーはうまくできていたらしく、素っ気なく帰ってしまったことも気にされていないようだった。新が喜んでくれたならそれでいい。まだ付き合ったりしなくてもいいのだ。……でも、新のほうはそう思っているのだろうか。

 公立入試が終わったら、と春は思っていたが、新はどうなのだろう。まだ、春と付き合いたいと思ってくれているかどうかも、春自身にはわからないのだった。

 他の誰から見ても、明らかなのに。当人たちばかりが迷っている。

 

 

 二月も終わりに近づき、いよいよ公立入試が間近に迫ってきた。その前に、私立入試の合格発表がある。龍堂高校のほうが北市女学院高等部よりも一日早く、結果が出た。

「私立受験したやつの結果は、ランダムに呼んで伝えるからな」

 井藤が先にそう宣言していたため、どんな順番で呼ばれようと、結果は他の者にはわからない。当人が言わない限りは、秘密は守られる。今日は龍堂高校を受験した男子が各クラスの担任に一人ずつ呼び出され、合否を伝えられるというわけだ。

「新、受かってるかな」

 朝のホームルームの後のざわつく教室で、春はぽつりと呟いた。詩絵はすぐにそれに反応し、「大丈夫でしょ」と言う。

「龍堂の過去問、最高得点出してたし。本番の後も落ち着いてたから、あれはできてるんじゃないの? 合格してなきゃ礼高受けられないしさ」

 新が行きたい進路に進めるかどうかは今日でほとんど決まるのだ。一番緊張しているのは新のはずなのに、今朝の彼はもう全てを受け入れる覚悟ができているかのような静かさだった。こんなに心臓がうるさく騒いでいるのは、もしかしたら春だけかもしれない。

「入江君もそうだけどさ、他に受けたやつらも受かってるといいよね。浅井とか」

 心配が最高潮に達しそうなところへ、ひかりが横から乗り込んでくる。そうだった、龍堂高校を受験したのは新だけではないのだ。頭の良い男子はみんな記念のつもりで受けている。私立試験の前期日程で龍堂高校を、後期日程で滑り止めになりそうな門市や御旗町にある私立高校を受験しているというのが、男子の定番のパターンだ。

 休み時間になるたびに、井藤が教室まで龍堂高校を受験した生徒を呼びに来る。放送で呼び出していたら他の教員とぶつかってしまうので、わざわざ職員室や数学準備室からここまで来るのだ。他のクラスも同じ方法をとっている。たぶん、この合格発表の重なるシーズンが、三学年担任団が一番体を使い気を遣う時期だ。

 三時間目の授業――となってはいるが、実のところは自習だ――が終わってから、春が何気なく廊下を見ると、新がA組担任の服部と歩いているのが見えた。いよいよ合否の発表なのだ。ぎゅっと胸を押さえながら、春は祈る。どうか、新にチャンスをください。

 一方、新は服部に連れられて職員室にやってきた。自分の運命が決まる瞬間だというのに、不思議と心は凪いでいる。どんな結果になっても、それを素直に受け入れられる気がしていた。そのあとのことは受け入れてから考えるつもりだ。

 今朝、家を出てくるとき、両親は落ち着かない様子だったけれども。父は珍しく「良い結果を期待している」と声をかけて仕事に出ていったし、母は「受験番号のメモ、間違っていないわよね。ホームページで開示されるはずよね」と何度も確かめていた。きっと新よりも、周囲のほうがずっと結果を心待ちにし、気を張っている。学校に来てから会った、春たちでさえそうだった。

「先生、龍堂受けたやつはみんな職員室で結果を渡してるんですか?」

「うちのクラスはな。B組は国語科準備室、C組は数学科準備室、D組は社会科準備室で話をしている」

 この学校の職員室は一階にあり、三年生の教室は三階にある。少々遠いが、服部が使えそうな英語準備室はほとんど外国人アシスタントの控室になってしまっているのだ。三年生の授業はもうないが、下級生たちは三月の下旬までまだまだ授業が残っている。

 やっと職員室に到着し、三学年担任団の島まで来ると、服部は机から封筒を取り出した。そのあとの行動はあまりにもあっさりしていて、落ち着いていたはずの新も呆気にとられた。

「はい、入江。この中に合格証と必要書類が入っている」

 ぽん、と渡された封筒は、少し厚みがある。ごく自然に「合格証」なんて言われたので、あやうく聞き逃すところだった。

「……先生、オレは合格したんですか、落ちたんですか」

「開けて見てみればいいだろう」

 確認すると、封筒を指さされる。おそるおそる封を開け、中に入っていた紙を取り出すと、そこにはちゃんと結果が印刷されていた。

 新の両親が、新が自分で決めた進路を実現させるために出した条件は、「龍堂高校に合格して実力を認めさせること」。――それはちゃんと、満たされていた。

「合格……先生、オレ、合格しました!」

「ああ、良かったな。これで親御さんも納得してくれるだろう」

 大きく太い二文字の印字は、母の期待に応えられたことを意味する。そして、新がようやく自分の行きたい進路へのスタートラインに立てたことを証明していた。

 龍堂高校、合格。今年の中央中学校では、ただ一人の快挙だった。

 昼休みには結果が春たちにも伝わり、一緒に喜んでくれた。一緒に受験した浅井や沼田は、「入らないくせに受かりやがって」と新を小突きはしたが、自分たちの結果はともかくとして新の合格を祝ってくれた。

「これで新君も、礼高受けられるね。良かった!」

「ちゃんと受かったんだもん、お母さんも認めてくれるよね。新が本当にがんばってたんだって、わかってくれるよね」

「ああ、認めてくれるはずだ。母さんは約束してくれた。ここまでやったんだから、反故になんかしないと思う」

 今の母なら、きっとわかってくれるはずだ。新の努力も、本当に行きたい進路にかける思いも。これまでのことに、けっして無駄なんかなかったのだと、新自身が実感できたのだから。

 そしてそのとおり、その日の晩、新の礼高受験は正式に両親に認められたのだった。

 

 北市女学院高等部の合格発表は、その翌日だった。男子の龍堂高校以外の私立高校合格発表も同日だったため人数が多く、したがって授業時間も関係なく、担任が呼びに来ることになっている。もちろん順番はランダムだ。どこのクラスもそうしている。

 いつ呼ばれるかわからない緊張の中、どのクラスもざわつく。生徒を呼びに来た教員が「静かにしなさい」と言っていくが、それでも話でもしているか、そうでなければ公立入試に向けた勉強を必死でやっているかしていなければ落ち着かない。

 A組では千花が、深呼吸しつつ気持ちを静めようとする小日向に付き添っていた。

「受かってなかったらどうしよう……。自己採点、思ったより良くなかったし……中間点は貰えるのかな……」

 試験日以来の不安が吹き出してくるようで、小日向はずっと俯きながら、暗い想像をしていた。千花はその傍で、「大丈夫」と繰り返している。頼りないものではなく、自信を持った「大丈夫」だ。

「小日向さん、きっと受かってるよ。北市女に合格するために、今までがんばってきたじゃない」

「がんばってきたから、落ちるのが怖いんだよ。これで駄目ならどうすればいいの……」

 小日向は北市女専願だ。受からなければ、二次募集で別の学校になんとか入るしかない。それを抜きにしても、がんばってきたからこそ不安だという思いは、千花の胸を痛ませた。北市女が本命でないにせよ、きっと詩絵も同じ気持ちだったのだと思ったのだ。

 一緒にお守りを授かりに行った時の、そして試験の前後の、詩絵の表情が頭に浮かんだ。唇を噛んで、必死で震えを止めようとして、お守りを握っていた親友の顔。自己採点が終わった後の、弱々しい笑顔。息抜きにとお菓子を作ったときだって、どこか不安そうだった。

 そんな詩絵の結果も、今日、知らされるのだ。

 などと考えていたら、小日向が服部に呼ばれていった。軽く手を振って送りだすと、入れ替わりに新が千花のところにやってくる。

「小日向さん、緊張してたな」

「それはそうだよ。今日で進路が決まっちゃうんだもん。私たちはこの後が本番だけど……」

「そうだな、これで終わりじゃない。春や詩絵だって」

 すでに結果を告げられた者たちが、それぞれ息を吐いている。それは安堵だったり、悔悟だったりする。女子は今のところ、悔しさを感じている者が多いようだ。北市女の試験は、今年もそれくらい難しかった。だから合格したほうも、手放しには喜べない。

 しばらくして、小日向が教室に戻ってきた。彼女にしては珍しく、廊下を走ってきたようだ。呼吸が荒く、頬は上気している。そして胸には、封筒をしっかりと抱えていた。龍堂高校とは違い、北市女をはじめとする多くの私立高校は、合格してもそうでなくても、まずは同じ小さな封筒に結果だけが入って学校に送付される。現時点では、小日向がどうなったのかは誰にもわからない。

「どうだった?」

 千花が尋ねるのを皮切りに、吹奏楽部に所属していたメンバーが小日向の周りに集まってくる。小日向は息を整えながら、封筒からそっと一枚の紙を取り出した。

「……受かった。北市女学院高等部、合格したよ」

 最後のほうはもう涙声で、千花たちに抱きしめられるままになっていた。小日向の努力は、ここまでまっすぐに目標に向かって進んできたその過程は、報われたのだ。元吹奏楽部メンバーは、自分の結果など関係なく、みんな嬉し泣きで小日向を祝った。

 しばらく「おめでとう」と「ありがとう」が繰り返されてから、タイミングを見計らっていたらしい、服部の声がした。

「次、園邑。職員室に来なさい」

 千花の番がやってきたのだ。輪から離れようとすると、小日向たちが声を揃えて「いってらっしゃい」と言ってくれた。だから千花も笑って、「いってきます」と返す。

 階段を下りて、職員室へ。服部の机の前に、事務用のイスともう一つ、パイプイスが置かれている。服部に言われるままにパイプイスに座り、封筒を受け取った。

「結果を先に言うと、合格だ」

 あっさりと服部が言うので、千花はちょっと口をとがらせる。

「そんなにあっさり……発表前のどきどきが味わえなかったじゃないですか」

「合格自体は予想できていたことだからな。それより、園邑にはもっと大事な話がある」

 不思議そうに瞬きをする千花に、服部は真剣な表情で告げる。周囲の教員たちも、目の端でこちらに注目しているのがわかった。

「園邑、本当に北市女学院に行く気はないのか」

 かつて三者面談のときにも、服部は千花にその道を勧めた。けれども、それは女子全員にまずは言ってみるという方針のせいで、千花自身も北市女に行くということは考えていなかった。そしてその気持ちは、今も変わっていない。

「北市女に行くつもりはないです」

「だが、お父さんと一度話をしてみて、それから決めてもいいんじゃないかと思う。率直に言うと、入試の成績が学力検査と面接試験ともに良かった。試験の後にやってもらった自己採点よりも、良い点数がとれていた」

 改めて言うくらいだから、千花の、そして周囲の想像以上の結果が出ていたのだろう。自分一人で勉強するだけでなく、詩絵に教えたり、春と問題を出し合ったりして、何度も復習し身につけていたのが、役に立っていたに違いない。そんなことをぼんやりと思いながら、服部の説得を聞いていた。

「どうだろう、北市女も音楽関係は強いし、そのまま大学進学も可能だ。俺は音楽のことはよくわからないが、担当の財部先生や他校の先生方も、園邑の力に注目しているそうだ。礼陣高校もいいが、北市女のほうが後々有利にはなる」

 音楽は好きだ。勉強も苦手ではない。北市女学院が芸術分野に力を入れているのも知っている。それでも千花は、にっこり笑って、首を横に振った。

「父とは何度も相談して、礼陣高校に行きたいって決めたんです。北市女に行きたくなったら、礼高から進学します。だから今は、北市女には行きません。三者面談のときから、ううん、その前からずっと、私の気持ちは変わっていません」

 みんなと一緒にがんばった。みんなと同じところを目指してやってきた。だから最後まで走りぬきたい。――千花は見た目に反して頑固だということを、服部もわかっていないわけではない。はっきりした返事を聞いて、ふっと笑みを浮かべ、「だろうと思った」と呟いた。

「やっぱりうまくいかないな。特に園邑に対しては」

「はい。私、決めたことには一直線なんです。詩絵ちゃんみたいに悩めるだけの選択肢も持たないし、新君みたいに誰かに強制されてるわけでもない。春ちゃんみたいに誰かのためになんとかしようって焦ることもないんです。……私は、いつだって自分の得を最優先にしてるつもりです」

「そのわりには黙って虐めに耐えようとしていたようだが」

「他の誰かに火が移らなければ、私はそれで良かったので」

 今では全部過ぎたこと。あとは未来を見て突き進むだけ。それが千花の答えなら、服部にはもう何も言うことはない。音楽教師が「もったいない」と口にしても、本人と担任は顔を見合わせてまた笑うだけだ。

「それじゃ、公立高校入試もがんばりなさい」

「はい。ありがとうございました」

 合格通知の入った封筒を抱きしめるようにして、千花は服部に一礼する。それから職員室にいる他の教員にも頭を下げて、「失礼しました」とその場を後にした。その仕草は優雅で、いかにも北市女学院に相応しいふるまいだったのだけれど、誰もその道を強制しようとは思わなかった。

 千花は自由であればこそ千花なのだ。三年間彼女を見てきた人たちならば、よくわかる。

 

 井藤に呼ばれて、春は数学科準備室にやってきた。以前、詩絵が悩んでいるのを見かねて井藤に相談に来たときも、ここで話をした。春の他にもたくさんの生徒が、ここで、あるいは進路指導室などで、井藤と話をしてきたはずだった。

 ときに冗談を言い合い、ときに真剣に自分の気持ちを伝え、そうして井藤クラスは教師と生徒の交流をしてきたのだ。

「さて、須藤の北市女入試の結果だが……」

 雑多な資料棚のあいだにしつらえられたイスに、ちょこんと座った春に向かって、井藤はもったいぶりながら薄い封筒を見せた。緊張している春にはそれがもどかしくて、つい「早くしてください」と急かす。

「自己採点が微妙だったので、受かったとは思ってません。だから悪い結果でも早く教えてほしいです」

「おいおい、決めつけるなよ。変なところでネガティブだよな、須藤は」

 苦笑しながら、井藤はそっと封筒の中身を取り出した。そして開いて、春が文章を読めるように見せてくれる。そこにあったのは、いつか遠い日に、春の母も受け取ったはずの言葉だった。

「北市女学院高等部の入学試験に合格したことをここに証明します。……そう書いてあるだろう?」

 井藤に読み上げられて、視界からだけだった情報が、耳からも入ってくる。頭でその意味を理解して、春は一瞬息を止め、それから大きく吐き出した。

「……よかったあ……。本当に、受かると思ってなかったんです。でもそんなこと声に出して言えなくて、千花ちゃんと詩絵ちゃんとは、私たちがんばったよねって励ましあうばかりで……」

 春だって不安だった。不合格は怖かった。でも自分よりも詩絵のほうが怯えていたから、それを増幅させないようにと、平気なふりをしていた。当たり前だ、春だって、本命じゃない学校にも受かれるものなら受かりたいし、落ちればショックを受ける。それが普通の感覚なのだ。あんなにがんばってきたのだから、どうでもいいことなんて一つもない。

 ともかくこれで一つ、春は勝負に勝ったのだ。これで安心して公立高校入試に向かえる。北市女に受かったなら、公立高校入試はよほどのことがない限り乗り越えられるだろう。

 安心して目を潤ませる春の頭を、井藤はぽんと軽く叩いて、穏やかな声で言った。

「自分の気持ちは言えないのに、人のために何かしたい、か。誰かのために何かをしたいなら、ちゃんと自分をさらけ出せ。自分が本当に相手にとって味方であることを、何も武器を持っていないことを、証明してみせろ。須藤はこれから、そこをもうちょっとがんばっていこうな」

 友達に気を遣いすぎて自分が疲れてちゃ世話ないぞ、という井藤の言葉を、春は胸にしっかりと留めた。きっとこれが、春が中学三年生になってから得た一番の「教え」になるだろうと確信していた。まだ一年が全て終わったわけではないけれど、井藤クラスになって良かったと、心から思っていた。

 北市女には進学せず、このまま公立高校の入試に向けて準備を進めることを確認してから、春は席をたった。井藤はもう次の封筒を用意しながら、春と一緒に数学科準備室を出る準備をしている。部屋を出る前に、春はもう一度口を開いた。

「あの、私が受かったんだから、詩絵ちゃんだって受かりましたよね。みんなで一緒にがんばったんだから、大丈夫ですよね」

 けれども井藤は答えなかった。笑みを浮かべたまま戸を開けて、春に廊下へ出るように促す。まだ結果を渡されていない生徒が、男子も女子も残っているのだ。春ばかりに時間をかけていられない。

 それでも、春は井藤が即答しなかったことに不安を覚えた。個人的なことだとしても、結果が良ければ、井藤ならこっそり頷いてくれそうなものだと思っていた。それがないことで、春はまた心臓を掴まれたような緊張を感じてしまった。

 

 ランダムというのは本当のようで、C組は男女の別も合否の別もなく、井藤に一人ずつ呼び出されているようだった。春は比較的最初のほうに呼ばれて合格を持ち帰ってきたが、その次に出ていった男子は難しい顔をして教室に戻ってきた。さらにその次は女子が呼ばれ、帰って来るなり「北市女ダメだった」と言って、友達に縋って泣いていた。

 ひかりもちょうど今戻ってきたところだ。封筒を手にし、へらりと笑いながら、春と詩絵に向かって告げた。

「ダメだったわ、北市女」

 笑顔を作ろうとしているのに、やっぱり目は赤くて、詩絵は「井藤ちゃんのところで泣いたんだな」と心の中で呟いた。いつもは気丈で元気なひかりですら、落ち込んだときは井藤の前で泣いたりするのだ。それがわかって、変なことだが、どうしてかホッとした。

「笹でダメならアタシもっとダメじゃん?」

「わかんないよ。詩絵、かなり成績伸びたし。面接だって真面目にやったんでしょ」

「そうだよ、詩絵ちゃん。結果を聞くまでわかんないよ」

 ひかりと春は励ましてくれるが、詩絵は苦笑しかできなかった。答えを返せないうちに、廊下から井藤が顔を覗かせ、次の生徒を呼ぶ。

「加藤詩絵。行くぞ」

 どうやら順番が来たようだ。「いってくるね」と席をたって、井藤について数学科準備室へ向かう。一年生の頃から、何かあればよく職員室とこの数学科準備室に足を運んだ。三年間井藤が担任だった詩絵にとって、ここは通いなれた場所だった。

 そこで今日、一つ目の勝負の行方が知らされる。不思議と緊張はなく、新が先だって「結果は出るけど緊張はしてないんだよな」と言っていたのを思い出した。きっとこんな感じだったのだろう。

 準備室に置いてあるイスに、井藤に言われる前に座ったのは、もうすっかりこの場に慣れてしまっているからだ。背筋を伸ばして座る姿は、井藤にはどう見えているだろう。少しでも、堂々とした、いかにも詩絵らしい態度に見えるだろうか。

「加藤、自分で結果を見るか? それとも俺から言おうか?」

 封筒を手にしながら、井藤が尋ねる。こういうときに判断を委ねてくれる井藤が、詩絵は好きだ。今更どんな伝えられ方をしても、結果は変わらないのだけれど。

「井藤ちゃんからお願い」

「そうか」

 今は自分の目よりも、井藤の声のほうが信じられそうで、納得できそうだった。だから詩絵はそれを選ぶ。そうして、その言葉を待った。

 封筒と紙が擦れる音。紙が大きな手で開かれる音。それを読み上げようと、息を吸う気配。耳からだけでなく、肌でそれが感じられる。

「北市女学院高等部の入学試験において選抜を行ないましたところ、残念ながら不合格となりました」

 予想していた言葉が、大好きな声で、告げられる。

 結果はもう、ほとんどわかっていた。自己採点をしたときに、千花や春、ひかりなどと比べて、やはり得点は劣っていた。ひかりが不合格だったと知って、予感は確信に変わった。覚悟はできていたから、今日を随分と落ち着いて迎えられたのだと思う。結果は違えど、心境だけは新と同じだったのは、そのせいだ。

「やっぱりなあ」

 小さく息を吐いて、詩絵は通知を受け取る。改めて自分の目で確かめた不合格の文字は、あまりに淡々とした印字だった。けれどもそれが、詩絵の勝負の結果だ。一回戦は、負けたのだ。

「俺が教師として、至らなかった。加藤、すまなかった」

「井藤ちゃんが謝ることなんてないよ。これがアタシの実力だったんだ。精一杯やった結果がこれなら、なんにも文句はない。ちゃんと受け入れられるし、引きずらないって決めてるから大丈夫」

 全部本当のことだ。嘘なんか一つもない。でも、どういうことだろう。

「文句もないし、大丈夫なのに、……すっごく悔しいのは、なんでかなあ……」

 口の端が歪む。でも歯はそれを堪えようとして食いしばる。眉を寄せながら、目頭が熱くなるのを感じる。目の端から零れて、頬をあとからあとから滑り落ちる雫を止められない。そのくせ頭の中にいる小さな自分が、笹もこんな感じだったんだろうな、と冷静に言っている。

 井藤がティッシュ箱を差し出しながら、あまりに穏やかな笑みを浮かべて言った。

「悔しいのは、加藤がそれだけがんばったからだ。全力を出したからだ。本当に惜しかったな。この一年で本当に、誰よりも伸びが大きかった」

 井藤の言葉にも嘘はなかった。三年間見ていてくれた井藤だから、本当のことを言ってくれる。この人は良くも悪くも、相手が子供だろうと大人だろうと、お世辞なんか言わないのだ。それがときに残酷なことになるとわかっていてそうするのだと、詩絵は知っている。

「ここで今のうちに大泣きしておけ。教室に戻ったら、そうもいかないだろ。加藤はみんなの前では、音痴だけど頼れる女大将でいたいんだろ」

「音痴は余計。でも、合ってる。その肩書、嫌だけど染みついちゃってるんだもん。みんながそうやって期待してくれるなら、応えたいじゃん。アタシは、強くないと……」

 それでも、春や千花には、ほんの少し弱みを見せられた。二人は詩絵が自己採点の後で結果をわかってしまってから、ずっと励まし続けてくれていた。こちらが気持ちを切り替えようとするのを手伝ってくれた。バレンタインのお菓子作りだって、そのために千花が春を連れて押しかけてきてくれたのだ。

 強くなくてもいいよ。強がり続けない、素の詩絵も大好きだよと、詩絵の大好きな親友たちは、それから井藤も、言葉にせずとも言ってくれていた。

 だから泣ける。思い切り泣ける。零れる涙をティッシュで押さえながら、喉の奥から声を漏らしながら、悔しくて悔しくて、でもやっぱり嬉しくて、詩絵は泣いた。がんばって良かったと、みんながいてくれて良かったと、心の底から叫びたかった。

 泣いたら、きっとすっかり切り替えられる。間近に迫った公立入試に専念して、今度こそ合格できるようにまたがんばれる。詩絵は春や千花や新たちの友人で、井藤の生徒なのだから。みんなに頼られる、頼られたい、礼陣の女大将なのだから。

 井藤がそっと頭を撫でてくれた。大きくて温かい手だなと、改めて思った。今だけはそれに、甘えておこう。慰められるのは、きっとこれが最後だ。

 

 入江家の居間には、龍堂高校の合格通知が額に入れて飾ってある。母がそれを眺めて誇らしげにしているのを見て、新はやっと試練を乗り越えたことを実感した。

 園邑家では、千花が父の帰りを待って、北市女に合格したことと進学を勧められたことを報告した。けれどもやっぱり礼陣高校に行きたいと言うと、父は微笑んで頷いてくれた。

 須藤家の仏壇には北市女の合格通知が、神棚には礼陣高校の受験票が供えられている。片方は報告、片方は願掛けだ。北市女は亡くなった春の母の母校でもあるので、お母さんと同じくらいの力が出せたかもしれないよと春は報告をした。

 加藤家はいつも通り、店の仕事をし、詩絵は公立受験のための勉強をして時間が流れている。けれども詩絵の北市女不合格を知った弟は、いつもより甘いココアとほろ苦いチョコレートを用意してくれて、気を遣ってくれているんだなと、応援してくれているんだなと、すぐにわかった。

 

 

 それぞれの日々が過ぎていく。日めくりカレンダーは少しずつ減っていき、ついに月替わりのカレンダーもその数字を変えたころ、礼陣の山々は雪が融け、町は少しずつ花のつぼみが見られるようになる。

 高校の卒業式があって、町から離れる準備をする人々が増え始める頃、ついに高校入試本番がやってくる。誰もが「これが中学最後の戦いになりますように」と願う。

 鞄の外にはお守り、中には筆記用具と受験票。歩くのは中学校への通学路ではなく、目指す高校。他校の制服を着た生徒もたくさん集まっている。中には見慣れない制服もあって、この町の外からも多くの受験生が来ていることを実感できる。

 他の高校を受験する、いつも勉強を共にしていたメンバーも、今頃は緊張しているのだろうか。それとも開き直っているだろうか。離れていてはわからないけれど、きっとやる気はみんな同じくらいある。当然全力だ。

「おはよう!」

 春は元気に、礼陣高校の門の前で待っていた三人に声をかける。礼陣高校も中央中学校と同じ中央地区にあるので、春の家からは相変わらず少し遠いのだ。

 千花と、詩絵と、それから新。いつもの顔ぶれでここに集まれることが、今は嬉しい。それが当たり前に続くことを祈り、続かせると誓って、憧れの門をくぐる。

 学力検査の教室は受験番号ごとに分かれていて、春たち四人は同じ教室で受けることになっているらしい。黒板の書きこみや掲示物が一切排除され、時計だけが黒板の上に設置されている教室は、ほんの少し大人っぽい気がする。

 受験票を机の右側に置き、筆記用具を十分に準備し、試験開始を待つ。心臓はどきどきしている。それが緊張なのか、期待なのか、怯えなのか、もうわからないくらいに鳴っている。

 もうどうであろうと関係ない。これを最後の勝負にする。

「始めてください」

 試験監督の合図で、一斉に机とシャープペンの芯のぶつかる音が教室を満たす。春たちにとっての入試本番、公立高校入試がスタートした。