秋もますます深まり、朝起きるのがつらいほど寒さを増してきた礼陣。山々の木々も葉を落とし、次第に色を冬のそれへと変えていく。制服の上に着るカーディガンが厚手のものになり、コートを羽織って登校してくる生徒も増えた、今日この頃。

「……新、髪どうしたの?」

 新のチャームポイント、あるいはトレードマークであった後ろ髪のしっぽが、消えた。

 いつもの四人の中で、家から学校まで一番遠い春は、朝に何も予定がない限りは一番最後に登校してくる。今日もいつも通りに学校へ来て、いつも通りに三年生の教室のある三階の廊下に来たところ、いつもとは違う新が目に入った。後ろ髪だけではなく、前髪も少し短くなっている。「おはよう」を言う前にそれに気づいてしまったので、そのまま挨拶をするのを忘れてしまった。

「あー……これな。今週、願書の写真撮るだろ? それで切ったんだけど……」

 たぶん、この説明は二回目か三回目だ。新の傍にはもう詩絵と千花がいて、新の髪型をまじまじと見ている。二人とも珍しいものを見たような顔だ。当然だろう、出会ったときにはもう新の髪は長くて、結われたしっぽを見慣れていたのだから。しかもある程度伸びれば、こだわりのように切りそろえられて、また結われ続けてきたものだった。

「詩絵も千花も、同じ反応でさ。そんなに変かな、これ」

 苦笑する新に、春はあわてて、ぶんぶんと首を横に振る。変じゃない。変じゃない、けど。

「新、あの髪型にこだわってたみたいだったから、びっくりしちゃって。受験のためなら切っちゃうんだね……」

「まあ、受からないとやばいし。龍堂って見た目にも厳しいらしくて、あの髪型のままじゃだめかなと思ったんだけど」

「チャラかったからね、あれ」

 詩絵が新の頭を眺めたまま頷く。そもそも初めて会ったときに「チャラい」というイメージを持った原因が、あの髪型だった。そのせいで春からの第一印象も良くなかったのだし、もっと早くに切ってしまってもおかしくはなかったのだ。

「でも、どうせなら貫き通してほしかったかな。あれが新君らしかったし。ねえ、春ちゃん?」

「うん、そうかも……」

 千花に言われて、春は自分の戸惑いの原因に辿り着く。受験のためとはいえ、すっかり馴染んでしまった「新らしさ」がなくなってしまったのが、少し寂しかった。たぶん、そういうことだ。

 春の返事を聞いた新は、頭を掻きながら困ったように笑った。

「そっか。じゃあ写真撮り終わったら、また伸ばすかな」

「面接試験あるんだから、それまでは維持しなきゃだめでしょ。礼高はともかくとして、龍堂が厳しいなら二月までは保たなきゃ」

「だよなあ……」

 詩絵に言われて、新は大きく溜息を吐く。その表情を見た春は、やっぱり新は髪型を変えたくなかったんじゃないかと思った。あれだけこだわっていたのだし。それに新のことを知るごとに、あの「チャラい」と思っていた髪型が好きになっていった。やっぱりどう考えても、もったいない。

「ていうかさ、そもそも今まで髪を伸ばしてた理由は何だったの?」

 思い出したように詩絵が尋ねると、新は眉を顰めてから、俯きがちに答えた。

「うーん……意地、かな」

「意地?」

 首を傾げた春に、新は頷く。それから間を置いて、言葉を継いだ。

「うち、親がうるさいだろ。でも自分で進路を決めるまで、いや決めてからも、それに逆らう方法とかがよくわからなくて。髪型なんて本当にちっぽけなことだけど、反抗してたつもりだったんだ」

 春にはいまいちピンとこなかったが、詩絵にはわかったらしい。「あのお母さんなら、あの髪型は嫌がるかもね」と呟いていた。新以外で新の親に会ったことがあるのは、詩絵だけなのだ。

 新や詩絵から聞いた話によると、どうやらかなり厳しいらしい、新の母親。しかし龍堂高校に合格しなければ礼陣高校の受験を認めないという条件といい、この髪型のことといい、親の思惑通りに事が運んでいないだろうか。春の胸に、一抹の不安が過ぎる。もしかして新はこのまま、礼陣高校ではなく、龍堂高校に行ってしまうのではないかと。

 行かないよね、と一言確かめたかったけれど、その前に予鈴が鳴った。まだコートを着て鞄を持ったままの春は、詩絵と一緒に急いで教室に入らなければならなかった。

 

 文化祭が終わってしまえば、残る大きなイベントは受験当日と卒業式くらいだ。つまり、それに向けて勉強するばかりの日々になる。月に一回はあった学力テストも、十一月分が終わり、十二月の総合模試を残すのみとなった。それまでのあいだに、後期中間テストがある。

 勉強漬けの日々に、詩絵だけではなく、春と千花もいよいよ頭を抱え始めた。というのも、学年主任の舟見が用意してくれた北市女学院高等部の過去の入試問題が、予想以上に難しかったのだ。もちろん詩絵は撃沈していた。そして結果を見てさらに落ち込んでいた。

 過去問が模範解答とともに返却されたのが、朝のホームルームでのこと。結果を見せあって女子三人で落ち込んだのが、恒例となった昼休みの図書室での勉強会でのこと。それを見た新は思わず唸った。詩絵の結果は予想していたが、まさか春と千花までもが苦しむことになるとは。

「平均点的には、春と千花は合格ラインではあるんだよな。詩絵は残念ながら……だけど」

「はっきり言いなさいよ、合格無理な点数って」

「でも難しかったー……。数学の最後の問題、全然わかんなかったもん」

「私もだよ。なんとか途中まではがんばってみたけど、わけがわからなくなっちゃった」

 ちなみに三人が三人とも解けなかった数学の最後の大問だが、新には解けてしまった。というのも、女子が北市女学院の過去問に取り組んでいたのと同時に、男子は龍堂高校の過去問を解いていたのだ。こっちのほうが内容は難しく、合格ラインに到達できた生徒は学年全体でたった三人だった。新はその三人にトップで入っている。数学には女子が解けなかった問題と似たものがあったが、新はそれを完璧な解答でやっつけていた。

「それじゃ、今日の課題はこれだな。説明するから、ちゃんと理解すること」

「お願いします、新先生」

「今日は詩絵ちゃんだけの先生じゃないね。問題が難しかったおかげで、ちょっと得しちゃったね、春ちゃん」

「得かなあ、これ……」

 千花の言い分はともかくとして、一人でも解ける人間がいるのはありがたい。しかも新の説明はわかりやすく、あんなに悩んでいたことが嘘だったように、するりと疑問が解決してしまった。詩絵が「もう一回!」と言っている横で、春は感心して息を吐く。

 やはり新はすごいのだ。学年トップで、難関校に合格できるくらいの力があって、当然親からの期待もかかるだろうと納得してしまう。だから余計に不安になるのだ。

――龍堂高校向きだよ。

 新のことをそう言っていた牧野の声が、また聞こえた気がした。

「あれ、須藤たち、ここで勉強してんの?」

「あ、牧野君」

 いや、気のせいではなかった。いつのまにか牧野と、それから浅井と塚田のC組男子三人組が、図書室にやってきていた。手にはめいめいノートとペンケース、そして参考書を持っている。ここに来た目的は、たぶん春たちと同じだった。

「なんだよ、邪魔するなよ。こっちは詩絵でいっぱいいっぱいなんだから」

 新が牧野を睨み、詩絵が新の頭を叩いた。牧野たちはそのいつものやりとりに動じることなく、近くの席に陣取る。

「邪魔なんかしねえよ。こっちはこっちで忙しいんだ。舟見先生にやらされた龍堂の問題、あれ全然わかんなかったんだから」

 はたしてそれは本当のようで、牧野は春にすら絡まなかった。浅井と塚田と一緒に、龍堂高校の過去問を囲んでいる。解答も一緒に配られているのに、なかなかその解に辿り着かないようで、ああでもないこうでもないと小声で議論を交わしていた。

 けれどもしばらくして、不意に新のほうを見たかと思うと、「あのさ」と話しかけてきた。それが牧野ではなく浅井だったので、新も無碍にはできない。ちょうど詩絵に問題の解き方を再度説明し終えたところだったこともあり、「何?」と返事をしてしまった。

「入江って、この過去問も学年トップだったよね。井藤先生から聞いたんだけど」

「なんかそうみたいだな。で?」

「教えてくれない? さっきからちょっと聞こえてたんだけど、たぶん俺たち、加藤と同じように躓いてるから」

 例の北市女学院のものと似ている問題のことだろう。頼んでいるのが牧野だけなら即行で断ったのだが、浅井と塚田がいてはそれもできない。おまけにまだ昼休みが終わるまでは時間があるときた。新の説明はわかりやすい上にテンポが良く、あっという間に終わってしまうのだ。

「アタシは自分で考えてみるから、そっちに教えてあげなよ」

 詩絵にまでこう言われては逃げられない。新は渋々ながらも、C組男子三人組に解答の説明をすることにした。

 結果、とても感心された。牧野まで素直に「すげえ」と漏らすほどだ。

「やっぱり入江、頭良いな。龍堂受けるって話はマジ?」

 塚田が尋ねる。その質問に春がどきりとしたのも知らずに、新は頷いた。

「受けるのはマジ。でも行くつもりないよ」

「行くつもりなくても、合格ライン余裕超えじゃん。行かないのがもったいないくらい」

「言うほど余裕でもないぞ。龍堂受ける中学三年生は全国にいるし、やっぱり礼陣の学力水準じゃ都市部の奴には敵わない。夏休みに門市の塾に通って思ったけど、龍堂専願の奴はもっと勉強ができるし、そのための環境も整ってるんだ」

 新は思ったことを何気なく言っただけだった。夏休みに塾で同じ龍堂高校進学コースだった者は、当然ながらほとんどが龍堂専願で、学校でもレベルの高い授業を受けているらしかった。それに比べれば礼陣の、この中央中学校の授業は追いついてはいない。発展問題はとばすことが多いし、上を目指すなら塾に通うなど、自分でなんとかするしかない。

 それは本当のことなのだけれど、春はなんだか胸がもやっとした。そんな言いかたをしなくても、と思ってしまった。

「まるで礼陣の環境が悪いみたいなこと言うんだな」

 そんな気持ちを代弁するように、牧野が呟く。それで新も自分の言葉を考え直したようで、あわてて手を振った。

「いや、そんなつもりじゃなかった。礼陣は礼陣だ、比べるようなことじゃなかったよな。実際頭良い奴だっているし……」

「新に言われてもねえ。まあ、仕方ないか。アタシの面倒ばっかり見てりゃ、礼陣の学生の学力が心配になるのも無理ないよ」

 詩絵から軽い調子のフォローが入り、塚田がそれに「加藤見てるなら仕方ないな」と重ねる。塚田は詩絵に消しゴムを投げつけられ、千花と浅井が場を宥めた。けれども牧野はまだ機嫌が悪そうに新を睨んでいたので、春はいたたまれなかった。

 やっぱり新は「龍堂向き」で、そちらに行くことになってしまうのではないか。そして新も、礼陣高校に行きたいとは言っているけれど、それは部活面での話で、学力面を考えるともっと上を目指したいのではないか。それならそれで、新が行きたいほうへ、進むべきほうへ、行ったほうが良い。

 そもそも新は、この県で一番の都会である大城市なんてところから来たのだし。礼陣に留まっているほうが、それこそもったいないのかもしれない。

 あれこれと考えているあいだに、予鈴が鳴り響いた。春たちは急いで机の上を片付けて、教室に戻ろうとした。

「それじゃ、続きはまた明日だな。中間テスト対策もしなくちゃいけないし」

 新がそう言って、少しぎこちない笑みを浮かべたので、春も返した。

「そうだね。また明日」

 笑ったつもりだったけれど、たぶん、引き攣ってしまった。

 

 千花も部活を引退したので、放課後の勉強会は女の子三人でするようになった。新は相変わらず家庭教師がついているので、こちらには参加しない。今日も急いで帰っていった。

「この調子だと、門市の塾の受験直前講習とかも参加させられるんだろうね。新君は忙しいなあ」

 コンビニに寄り道をして、勉強のおともにするおやつを選びながら、千花が言う。新と同じクラスである千花は、おそらく春と詩絵よりも新の状況を聞いていた。携帯電話でメールのやりとりができるということもある。

 春も高校生になったら携帯電話を持たせてもらうように祖父と約束をしているが、最近はそれが待ちきれなくなってきた。自分用の電話があれば、たとえ新が礼陣を離れることになっても、個人的にやりとりができる。そう思ってしまってから、いつもちょっと落ち込むのだが。

「新が忙しいのも、受験に条件が付いてるのもわかるけどさ。今日の言い方はちょっとなかったと思うな、アタシ。あの礼陣の水準じゃ云々っての」

 最近はまっているというグミを棚から選んで、詩絵が少しだけ不機嫌そうに言った。それが意外で、春は目を丸くする。

「え、だって詩絵ちゃん、新をフォローしてたよね?」

「あのままだったら牧野と衝突しかねないし、図書室で騒いだら今後の勉強会が危ういでしょ。あの場は冗談で収めといたほうがいいって判断したんだよ」

「そのわりに詩絵ちゃん、塚田君とケンカしようとしてたよね。あのスピードで消しゴム投げたら、ちょっとした凶器だよ。あ、高校入ったらソフトボールとかやったらどうかな」

「千花、アンタねえ……」

 詩絵の告白は意外だったが、春はちょっとホッとした。あのとき少しいらついたのは、自分や牧野だけではなかったのだ。礼陣で育ってきた春としては、やっぱり新の「水準」発言はショックだった。都会の子たちとの差はわからないわけではないが、改めて都会から来た人間に言われるのは、正直なところ腹が立つ。礼陣の何がわかるの、と言い返したくなる。

「……私も、実は新にちょっとイラッとした。あんな気持ちになったの、名前を読み間違えられて以来かも」

「それって新が春に告白したときの? うわー、なんか懐かしいね」

「本当。今年の四月のことなのに、随分前みたい。いろいろありすぎたんだね、きっと」

 千花の言う通り、いろいろあった。あのときは春自身、新を好きになるなんて思っていなかったのに。今では離れたくない、遠くに行ってしまうかもしれないと不安、というほど新のことばかり考えている。それを本人には、まだ言っていないのだけれど。だから新は春に振られたままだ。

 あれから新の気持ちは変わっただろうか。好意はもってくれていると思うが、それは恋のままだろうか。そんなふうに思うから、なおさら、新が髪を切ったことや龍堂高校に合格するための勉強をしていることに不安を感じるのかもしれない。新が変わってしまうことが、距離ができてしまうことが、怖かった。

 そんな気持ちをわかってか、千花が春にチョコレートを差し出しながら微笑んだ。

「大丈夫だよ、春ちゃん。新君、あのあとすぐに弁解したでしょう? たぶんそっちが本心だよ。礼陣も、春ちゃんのことも、新君は大好きだよ。だってみんなで、礼陣の良さをいっぱい教えたじゃない。同じくらい、春ちゃんの魅力もあのときよりもっともっと伝わったと思うし」

「千花ちゃん……」

 たしかに変わってはいる。新の礼陣に対する認識も、きっと。でもそれは良い方向にであって、けっして悪いことではない。そう信じたい。怖がらなくてもいいことだと思いたい。春はチョコレートを受け取って、レジに持って行った。最近学校の女子のあいだで美味しいと評判のもので、春は初めて食べる。たしかひかりが絶賛していたはずだから、きっと春の好みにも合うのだろう。よくよくパッケージを見ると、「もっとおいしくリニューアル!」と書かれていた。

 コンビニを出た三人は、冷たい風に震えながら中央地区の住宅地を目指した。今日の勉強会は千花の家でやる。というのも春の家まで行くと、帰りに詩絵と千花がとても寒い思いをしながら長い距離を歩かなければならなくなるからだ。おやつをわざわざ買ったのは、春の家のように菓子を常備しているわけではないので、という理由だった。

「ただいまー……って、誰もいないけど。さ、入って入って」

 白い壁に、ステンドグラスの窓が可愛い、少し小さめの二階建ての家。隣の家も大きいが似たような造りになっていて、そちらは千花が毎日のように世話になっている一家が住んでいる。普段は帰ってきてすぐにそちらへ行ってしまうので、よほどのことがない限りは、千花の家におやつなどは置いていないということだ。

「おじゃましまーす。千花の家久しぶりだね」

「私も人を呼んだのは久しぶり。お友達が来たって知ったら、お父さんが喜んでくれるかも」

 玄関の壁にかかっているホワイトボードには、その父が書いたと思われる字で、「夕飯はお隣さんにお願いしてあります」と書かれている。忙しい父は、きっと今日も帰りが遅いのだ。

「千花ちゃんって、いつもお夕飯はお隣で食べてるの?」

「そうだよ。小さい頃からすっごく良くしてくれて、私もすごく甘えちゃってるの。だからお掃除やお洗濯は自分でできるけど、お料理はそんなにしないかな」

「だから調理実習でとんでもないもの生み出すんだよね、千花は。豚汁をベーコンで作ろうとするなんて、もうやらないでよ」

 呆れながら言う詩絵に、もうしないよーと千花が返事をする。千花とは一度も同じクラスになったことがない春は、他の二人が同じクラスだった去年はそんなことがあったのかと思い苦笑した。それから、高校ではみんな同じクラスだったらいいなと思った。今はいない、新も。

 勉強はリビングで、温かいココアとさっき買ったおやつを用意してから始めた。数学や理科の一分野の問題は新に教えてもらったほうがいいと判断して、国語や英語、社会に手をつける。英語は千花の得意分野なので、質問するとはりきって教えてくれた。けれども新ほどスパルタではないので、詩絵もほどよく気が抜けている。勉強しながら、お喋りも弾んだ。

「それにしても、北市女の試験って本当に難しいよね。アタシ井藤ちゃんに受けるって宣言しちゃったけど、実際に解いてみてちょっと後悔……」

「大丈夫。だって英語はほら、落ち着いてやったらできたでしょう?」

「単語とか文法とかはね。自由英作文とか最悪……」

「自由英作文は私も苦手だなあ。千花ちゃんは得意そうだよね」

「私はそこでなんとか稼げないかなって思ってるよ。単語とか連語とか、文章じゃなく一部だけ抜き出されるとよくわからなくなっちゃうから」

 新は理数系科目、千花は英語、詩絵はあえていうなら体育。それぞれ得意科目があるが、春にはこれといって自信のある科目はない。絶対に一つ以上あげなければいけないと言われたら国語を、技能系を含めてもいいなら技術家庭科といえるのだが、教えられるほどではない。成績は良いほうだけれど、突出したものはこれといって見当たらないのだ。それに国語の問題についていつものメンバーから質問されることはまずない。勉強が不得意だという詩絵だって、国語ならいつもそれなりの点を取れる。

 誰かに頼られることがなくて、いつも助けられてばかりで、ちょっと情けないなと思う。だからもっと頼りがいのある人になりたいと思って、力仕事のある係を引き受けたりもしてきた。それでもやっぱり何か足りない気がしている。

「私も教えられるようなことがあればいいんだけどな」

「春はアタシと二人で勉強してたときにたくさん教えてくれてたでしょ」

「でも中途半端だったから……」

「ううん、春ちゃんが詩絵ちゃんのわからないところをうまく導き出してくれたから、あとで私や新君が教えてあげられたんだよ」

「そうそう、アタシ一人じゃわからないことがわからない状態だった。そう気にしなさんな」

 千花や詩絵はそう言ってくれるが、春の悩みは晴れなかった。なんだかいろいろなことで、悩んでばかりだ。

 

 

 入学願書の写真を撮ったのは、翌日のことだった。デジタルカメラで撮ってその場ですぐ確認ができるのだが、がちがちに緊張した自分の表情を見て、春は溜息を吐いた。

「どうした、須藤。撮り直すか?」

 傍らで生徒の髪型や服装のチェックをしていた井藤に声をかけられ、春は首を横に振った。

「これでいいです。きっと何度撮っても同じだと思うので……」

 これより良い写真ができるとは思えなかった。前髪も整えたし、いつものおさげもきちんと結んである。制服も襟やスカーフが曲がったり折れたりしていない、ほぼ完璧な写真だ。ただ、表情が硬いだけで。

「後悔するなよ。試験結果も大事だが、見た目も重要だからな」

「後悔しません。教室戻りまーす」

 この時間は自習になっていて、撮影が終わった順に教室に戻って課題プリントを解くことになっている。詩絵が先に戻っているはずなので急ごうとしたところで、同じタイミングで写真を撮り終えたらしい千花に会った。

「春ちゃん、撮り終ったの? なんだか元気ないけど」

「表情が硬くて。これが高校にいくとなると、緊張しちゃって……」

「高校だけじゃないよ。これ、卒業アルバムにも載るんだって」

「嘘っ?! 井藤先生そんなこと一言も言ってなかったよ」

 どうしてそういう肝心なことを教えてくれないのか。いつもの井藤なら、ちゃんと連絡してくれるはずなのに。「たぶんアルバムに載るって知ったらふざけちゃうからじゃないかな」と千花は言うが、わかっていたらあんなに緊張しなかった。

 あれが中学卒業後も、ずっとずっと残るのだ。春は思わず頭を抱えて、千花に笑われた。

「そんなに深刻に考えなくてもいいんじゃないかな。だって笑顔の写真は、他のページに載るわけだし。今回のは高校受験がんばるぞっていう意気込みを感じられればいいものだと思うよ」

「意気込み、かあ……」

 先に撮ったはずの詩絵や新はどうだったのだろう。詩絵には教室に戻ってからすぐに訊けるが、新の感想は昼休みまでおあずけだ。礼陣高校だけではなく、龍堂高校にふさわしい写真ができただろうか。――こう考えると、また気分が落ち込んでくる。話を変えて、気を紛らわせることにした。

「千花ちゃんはうまく撮れた?」

「すっごく真面目そうに撮れたよ。……なんて、私も緊張してただけだけど」

 だからみんな同じだよ、と笑う千花は、とても緊張していたようには思えない。けれども千花には千花なりの悩みがあったようだ。

「私、油断するとへらへらしちゃうから。そうならないように、いつもより真面目にしようとしたんだ。たぶんあれで大丈夫」

 一回撮り直ししたんだよ。そんな千花の言葉が、春には意外だった。千花はいつでも笑顔で、そこが可愛くていいなと思っていたのだが、当人はそれを気にしていたらしい。

 千花と別れて教室に戻ると、詩絵がプリントと格闘していた。その隣にはひかりがいて、これまた苦戦しているようだ。二人で解き方を確認しては、溜息をついている。

「あ、春。写真どうだった?」

 こちらに気づいて、詩絵とひかりはやっと笑顔になる。でも、少し疲れているようだった。

「緊張しすぎてがちがちだよ。あれ、卒業アルバムにも使うんだって」

「うわ、マジ? アタシすごく恐い顔になったかも」

「卒アルに使うんだったら、別に撮ってほしいよね。じゃないとピースとかできないじゃん」

 憤慨するひかりの手元を覗き込むと、プリントはまだほぼ白紙だった。一問目から躓いているらしい。詩絵も同じで、二人の間には計算式が不規則に書き込まれたノートがあった。それにまじって、「わかんなーい」だとか「?」だとかいうものが見える。春が戻ってくるまでの、戦いの記録らしい。

「そんなに難しいの? そのプリント」

「井藤ちゃん特製らしいよ。これが解けたら社台高校にも行けるって」

 町の公立高校では最もランクの高いところに設定してくるあたり、井藤らしい。難関私立に合わせてこないだけまだよかった。春もプリントを教卓からとってきて、詩絵の前の席を借りて解こうとしてみた。

「ゆっくりやってみようよ。解けない問題ではないはずだし」

「この時間内にやらなきゃいけないってわけでもなさそうだしね。あ、昼休みに新に訊いてみるって方法があるな」

 詩絵が言うと、ひかりがばっと顔をあげた。その目はぎらぎらと輝いている。

「そうだね、入江君なら解けるよね。成績トップだとか、龍堂行けるとか、あたしも聞いたことあるし。ねえ、詩絵たちがいつも昼休みに図書室行くのって、勉強しに行ってるんだよね。あたしもまぜてくれないかな」

 お願い、と手を合わせるひかりは必死そうだった。おそらく先日の北市女学院の過去問に打ちのめされた一人なのだろう。そして今目の前にあるものも難しくて解けずにいるのだ。何でもいいから縋りたいという気持ちはよくわかる。

「ひかりちゃんもおいでよ」

「浅井たちも来てたし、いいんじゃない? 中間テストの対策もすると思うよ」

「うわあ、助かる! 別に社台とか北市女には受からなくてもいいんだけどさ、やっぱり礼高受けるんだったら、競走率高いから勉強できたほうがいいじゃん? 一人で勉強してもできてるかどうかわかんなくて、不安だったんだよ」

 ひかりも礼陣高校を受けるらしいというのは初めて知ったが、ともかく一緒にがんばる仲間が増えるのは悪いことじゃない。給食を食べ終わったらみんなで図書室に行くことにして、今は自分でプリントに取り組もう。春もシャープペンを手に、詩絵とひかりの相談する声を聞きながら、問題を眺めた。

 

 昼休みの図書室は、いつもより人が多かった。ただ多いのではなく、いつも春たちが座っている辺りに人がかたまっている。その光景に唖然としている春たちに声をかけたのは、A組の筒井だった。

「や、加藤と笹木と須藤。先に入江借りてるぜ」

 傍らには呆れたような新。筒井だけでなく、同じA組の沼田、昨日も来ていた浅井と塚田、牧野もいる。男子だけでなく、女子も増えていた。A組の小日向、それから佐山と羽田まで。

「筒井君と沼田君は、新君に勉強を教えてほしいんだって。佐山さんと羽田さんは二人で勉強する場所を探してて、小日向さんは偶然図書室に来てたの。せっかくだからみんなでやろうってことになって……」

 千花の説明で状況はわかったが、急に大人数になって驚いた。春はおそるおそるまだ空いていた千花の隣に座り、詩絵とひかりもイスを引っ張ってきて大所帯の中に入る。そして今日の自習プリントと北市女学院の過去問を広げた。男子たちが龍堂高校の問題を広げているように。

「悪い、今日はこっちで手いっぱいだ。女子は女子でなんとかしてくれ。千花に簡単な解説はしておいたから」

 新は自分で言う通りの状態で、とても質問などできそうにない。そもそも新に頼りすぎだったかもしれないと反省しながら、春たちは千花の力を借りながら、自分で問題に取り組んでみることにした。

「園邑、これ訊いていい?」

「いいよ。これはね……」

 その千花も佐山や羽田に教えることが多く、さすがの詩絵も質問のタイミングを逃した。しかし一人で考え続けても埒が明かない。そこで試しに、もう一人のA組女子に話しかけてみた。

「小日向さん、数学得意?」

「得意ってほどではないけれど、苦手でもないつもり」

 これは詩絵よりはできる人の言い方だ。それにひかりも乗っかって、二人で小日向に例のプリントを見せてみると、「たぶんこうじゃない?」と言いながら解いてくれた。これならいける。

 春は周りの様子を見ながら、一人で勉強をしようとした。ところがそこへ羽田が声をかけてくる。

「ね、須藤さんって英語できる人? 北市女の過去問、何点だった?」

「ええと、七十点だけど……」

「じゃあできるほうだよね! あたし四十二点だったんだー、やばくない? それでね、ちょっと教えてくれるとありがたいなーって思ったんだけど」

 春も自分のことだけやっていればいいわけではなさそうだ。羽田の質問に答えながら、いつも新は大変な思いをしていたんだなと実感した。今日はもっと大変そうだったが。

「なあ入江、放課後も教えてくれない? 俺さ、参考書でどうしてもわかんないとこがあって。沼田に訊いても教えてくれないんだよ」

「放課後はだめだ。うち、家庭教師来るから、すぐ帰らなきゃいけないんだ」

「カテキョ? 何それ大学生とか?」

 少々話が脱線してきてもいるようで、新は四方から飛んでくる問いをなんとか受け止めようとしていた。ときどき沼田が「筒井、真面目にやれ」などと言って助けてくれているようだ。

 図書室なので声をひそめてはいるが、おおわらわな昼休みだった。結局、春と新は一言も言葉を交わすことなく、その時間を過ごしてしまった。

 しかもそれだけでは終わらず、その日の放課後も新以外が図書室に集まり、みんなで勉強をすることになった。どうしてだか、そういう流れになってしまったのだ。解散するときに、筒井が「放課後もよろしく」と言ったせいだっただろうか。

 放課後、図書室に残れる時間は長くはない。四月の終わりにあった事件や不審者情報などがいまだに尾を引いていて、あまり遅くなると教員が見回りに来る。それまでの時間、ノートを広げ、できるかぎりのことをやってみる。

 なにも、新がいなければ問題を解くのが不可能というわけではないはずだ。ただ、ちゃんと「勉強をする」時間は減ったが。

「なあ、腹減らね? 帰りに肉まんとか買ってこうぜ」

「俺はから揚げ串がいい。誰かの奢りで」

「奢りならあたしも食べたい!」

 時間が経つにつれて無駄話が多くなってくる。誰かと一緒にやったほうが勉強が捗るという詩絵でさえうんざりしたようで、さっきからなかなかペンが動かない。こういうことはあまり人数がいすぎてもうまくいかないようだ。

「筒井と塚田、あと羽田は少し黙れよ。勉強しないなら帰ってコンビニでもどこでも行けばいい」

「沼田、どうどう……。塚田たちはさっきわからないって言ってたやつ、解けた?」

 イライラしてくる者や、それを宥める者も出る。そうしているあいだにも時計の針は進む。まだ何問も解かない間に、下校時刻がやってくる。

 各自あまり進められないまま、見回りに来た教員に図書室から追い出され、春たちは昇降口へやってきた。そのとき牧野が、溜息交じりに言った。

「入江がいなきゃ問題が解けないってことはないけど、いたほうが捗るんだな。こっちを見下してるような態度が癪だけど」

 まだ昨日の新の発言を気にしているようだ。春はあわてて「違うの」と首を振った。

「新は人を見下してるんじゃなくて、率直な感想を言っただけなんだと思う。小学生のときまでは大城市にいたみたいだし、お家の人が勉強面で厳しいみたいで……」

「へえ。ま、どっちにしろ俺たちとは見てる世界が違うんだろ」

 そう言い捨てて、じゃあな、と牧野は先を行く。帰る方向は春と同じなのに。他の子たちも三々五々、帰路につく。春は詩絵や千花に手を振って、一人で歩いて家へ向かった。――帰ったら、今日は結局解けなかった問題に、もう一度挑戦しなければ。新がいなくても、できるように。

 

 

 翌日の朝、詩絵から放課後のぐだぐだな勉強会の話を聞いて、新は溜息を吐いた。心底呆れた、といった様子だ。

「それじゃ、昨日はろくに進んでないんだな」

「小日向さんに教えてもらったところくらいかな。千花と春は佐山たちに教えてたし」

 もちろん帰ってからも勉強したけど、と詩絵が付け加えても、新は難しい顔をしていた。それからおもむろに「中間テストだ」と呟いた。

「もうあんまり日にちがないから、今日の昼からは中間テスト対策一本に絞ろう。それならみんな範囲や条件は一緒だから、男女の別とか気にしなくていい。オレも教えるのが楽だし、詩絵たちだってあちこち訊きまわらなくていい。どうせ今日も筒井たちは来るんだろうし」

 昨日の調子なら、きっと今日も大人数での勉強会になるだろうと予想はできていた。それにそろそろ中間テストの勉強に集中しなければならないのも事実だ。

「新は? 教えるって言うけど、自分の勉強はいいの?」

「中間テストくらいなんてことない。普段やってることが出るだけだろ。それをわからないって言ってる奴がいるから教えにまわってるんだ」

 新の言うことは間違ってはいない。けれどもなんだろう、この違和感は。春はまた胸がもやもやするのを感じた。それが何なのかはっきりする前に、千花がぽつりと言った。

「なんだか新君、教える側にこだわっちゃってるみたい」

 春ではうまく言い表せなくて、詩絵はきっと説得力がないからと抑えていた言葉だった。そういうことを気安い相手には容赦なく、悪気なく言えてしまうのが、千花なのだった。

 それを聞いた新は目を見開いた。それから少し間があって、「そうだな」と口にする。

「みんなオレに教えろって言うから、そうしなきゃいけないのかと思った。オレがいなきゃ、何人集まってもろくに勉強もできないのかと思ったよ」

 吐き捨てるような言葉には、たしかに苛立ちがこもっていた。春のよく知っているはずの優しい新ではない。なんだか怖くて、心臓がどくどくと脈打つのが聞こえるような気がした。どうして新はこんなにイライラしているのだろう。みんなで「教えて」とせがんだからだろうか。人数があまりに多すぎて、疲れてしまったのだろうか。

 春が考えを巡らせているあいだに、千花がまた口を開いた。

「そういう言い方はないと思うな。たしかに、みんな新君を頼りにしすぎちゃったかもしれないけれど」

 千花にしては厳しい口調だ。たぶん、春や詩絵、それからみんなの代わりに言っているのだ。春がちらりと詩絵を見ると、唇を結んだまま俯いていた。

「別に頼ってくれるのは問題ない。オレも復習になるし、それでみんながわからないことをわかるようになるなら良いことだ」

 そう返した新は、それでもやっぱりどこか投げやりだった。今までとは態度が違う。一昨日は牧野の言葉にすら、すぐに「そんなつもりじゃなかった」と弁解していたのに。でも、春には聞けなかった。「何かあったの」とすぐに声をかけてあげられたらと、あとになって後悔した。

「いや、でも頼りすぎたよ。ごめん、今度からは自分でちゃんとするから。いずれはそうしなきゃいけなかったもんね、新は忙しいんだし」

 そうすれば、詩絵が無理に笑顔を作って、こんなことを言うことも、それに新が答えあぐねて困った顔をすることも、千花がめったにしない怒ったような顔をすることもなかったかもしれないのに。

 

 昼休みの勉強会のときには、新はいつもの新だった。また集まった大人数に、宣言通り中間テストに向けた対策に絞って、質問されたことには答える。けれども詩絵が新に質問しに行くことは一度もなく、難しい問題があれば、千花や春、ひかりや小日向などに訊いていた。

 意外にも活躍したのが沼田だった。筒井が軽い調子で「沼田は社台高校行くんだよな」と言ったおかげで、沼田も勉強ができるという認識が広まり、新ほどではないにしろ質問に対応していた。ただし使う言葉が少々難しかったので、相手に理解させるという点でも新には及ばなかったが。

 そんな周囲の様子を見ながら、春は新の態度について考えていた。急にきつい言葉を使うようになったのには、何かわけがあるはずだ。新は理由もなく棘のある言葉を吐いたりしない。少なくとも、これまではそうだった。

 けれども春が新と知りあったのは今年度に入ってからで、まだ半年ほどしか経っていない。優しい面ばかりを見てきたけれど、それが新の全てではないだろうと、春も頭では理解している。――たぶん、春は新のことを、まだよく知らないのだ。かつて新が、春の名前を間違えたように、春も何か間違えている可能性は十分にありえた。

 もしそうなら、間違えたままは嫌だ。新のことはちゃんと知りたい。きっと新がこの半年間、そうしてきてくれたように。

「沼田が社台高校行くのはわかったけどさ、そういう筒井はどうなんだよ? ていうかみんな進路どうすんの?」

 春を物思いから引き戻したのは、牧野の声だった。参考書とノートを交互に見ながら、唐突に口にする。新のいるところで進路の話になると、春は最近ぎくりとしてしまう。

 そんなことにはもちろんかまわず、筒井がシャープペンを回しながら答えた。

「俺は南原高校商業科。勉強好きなわけじゃないし、高校卒業したらすぐ働きたいんだよな」

 すると佐山が眉を寄せ、「げ」と呻いた。羽田はその隣で苦笑いをしている。

「筒井と一緒か……。それはやだな、今から進路変えよっかな」

「なんだよその言い方。佐山も南原?」

「ムカつくけど、あんたと同じ理由でね。だって早くお金稼げるようになりたいじゃん。高校入ったらバイトもしなきゃ」

 怒ったように見えるが、これは佐山の通常の顔だ。心からそう思っているのだろう。羽田は「あたしも」と言いながら、ちょっと俯いた。目線の先には、あまりページの進んでいない参考書がある。

「ほんとは、佐山ちゃんと同じとこがいいなって思ってるんだけど。今のとこ、服部先生には厳しいんじゃないかって言われてるの。遠川高校に変えることも考えておきなさい、だってさ」

 誰もが順調に進路に向けて歩みを進めているわけではない。羽田のように、ボーダーライン上にいる悩みを抱えている生徒は、もっとたくさんいる。

「羽田さんも進路変更の話されたんだ。俺もなんだよね」

「え、浅井まで? お前、礼高か南原の普通科ならほぼ確実って言われてたじゃん」

「ああ、塾で奨められて変えたんだ。社台高校を目指してる。でもいざ学力テストや模試を受けてみたら、思いっきりボーダーライン。塾の先生も頭抱えちゃって」

 まいったなあ、と浅井は笑っているけれど、本当は笑いごとではないのだろう。せっかく上を目指すと決めたのに、それを応援していたはずの人に「やっぱり無理かも」なんて思われるのだから。

「塚田は一年生のときから変えてないよな。礼高」

「野球続けたいしな。やっぱ礼高がこの辺では一番強いし。牧野も陸上続けるんだったら……」

 部活に力を入れたいなら礼陣高校へ、というのはよくいわれることだ。少なくとも、この町では。しかし選択肢は、それ以外にもある。もっと広く見れば。

「いや。俺、礼陣から出る。門市の東が丘高校」

 牧野がその視野を持っていることは、この瞬間まで誰も知らなかったが。

「走るならあっちのほうが良いって、井藤先生とも話した。親も応援してくれてる」

 牧野自身、同級生に話したのは初めてなのだろう。ぎこちなく笑って、視線を自分から逸らそうとした。

「須藤はやっぱ礼高? 陸上続けるなら、そのうち選考会とかで会えるかもな」

「私はそうだけど……。牧野君が出てくなんて考えもしなかった」

「俺の話はもういいだろ。加藤と笹木も礼高だよな。園邑さんと小日向さんは北市女?」

「ううん、私は礼高。春ちゃんたちと一緒」

「あ、そうなんだ。わたし、園邑さんは北市女なのかなって思ってたんだけど。わたしは北市女専願なの」

「小日向さん、やっぱり頭良いんじゃん。しかも雰囲気合ってる!」

 それぞれにそれぞれの望む道がある。壁がある者もいる。でもそれは大抵、自分の実力だ。春は思わず新の顔を覗き見て、息を呑んだ。

 表情を失くした、今まで見たことのない新が、そこに静かに座っていた。

 春の様子に気づいた詩絵が、それから千花が、それまで喋りながらも動かしていた手を止める。連鎖的に他の者もただならぬ空気を感じとり、口を閉ざして新を見やった。視線を一気に注がれたほうは、顔をあげて口元だけの笑みを見せた。

「何か用か?」

 吐き出した声は低い。誰もが何かを答えることもできずにいると、新はそのまま立ち上がり、ノートや筆記用具を片付け始めた。

「おい入江、勉強は?」

 筒井がやっとのことで声を出すと、新はそちらを見ることもせずに自分の荷物を抱えた。

「喋りながら勉強なんてできるのかよ。やる気ないなら、オレは先に教室戻るから」

 席を離れ、図書室から出ていこうとする。誰もそれを追えなかった。春ですらも。追いかけていったら、もっと怒らせてしまうような気がした。――そうだ、あれは、怒っていた。

「なんだよあいつ……今の話、何かまずかったか?」

「喋りながらなんて、いつもだったよな」

「いや、勉強そのものに関係ない無駄話って意味だと思うけど」

「進路の話だぜ? 関係なくはないだろ」

 男子たちは小声で口々に言い合い、女子たちも怪訝な表情で目配せし合う。けれども、春と詩絵と千花には心当たりがあった。ずっと新が悩んでいた、その進路に大きく立ちはだかる壁のこと。何があったのか詳細に聞いたわけではないが、そこに何か良くない変化があったのはたしかだった。そうでなければ、新の態度が冷たくなるはずがない。

「……今朝、私が新君を問い詰めちゃったからかな。あれから話しかけてないの」

「千花のせいじゃないよ。たぶん、家で何かあったんだ。本格的に受験勉強が始まったから、また親と揉めたのかもしれない」

 蒼い顔をする千花に、詩絵は冷静に言った。わかっていたから、詩絵は新から何か言うまで待とうとしていたのだった。もちろん、自分が新の負担になっているということも意識していた。春は何も知らない。知っていても、何も言わなかった。ただ新の様子に、おろおろするばかりで。そんな自分が情けなくて、春は顔をくしゃりとゆがめた。

「ああもう、春もそんな顔しない! 今のは誰も悪くないし、誰だって虫の居所が悪いことはあるでしょうよ」

 詩絵が春の頭を少し乱暴に撫でていると、沼田がぽつりと「そういえば」とこぼした。

「入江って、龍堂合格しないと礼高行けないんだっけ」

「え、なんで沼田がそれ知ってんの?」

「前に本人から聞いた。……入江なら龍堂も合格圏内のはずだけど、受験が近づいて焦ってるのかもな。だとしたら、やっぱり俺たちは悪いことをしたよ。進路の話はするべきじゃなかった」

 それを聞いた牧野が眉を顰めた。進路の話を始めたのは牧野だ。沼田の一言が一番胸に刺さっていた。

 

 図書室を出た新は、そのまますぐには教室に戻らなかった。階段の踊り場の隅、ちょうど窓からの光が入らない薄暗い場所で、壁に寄り掛かって立ち尽くしていた。

 最低なことをしてしまった。そんな言葉が頭をよぎる。せっかく沼田や筒井と仲良くなれたのに。浅井や塚田とだって、修学旅行のとき以来で話せるようになったのに。――あの場には詩絵や千花、春もいたのに。春にはこんな自分は、絶対に見せたくないと思っていたはずだった。

「ちくしょう……」

 呟きながら思い出すのは、髪を切った日のこと。後ろ髪と前髪を切ったら、母親が笑みを浮かべて言ったのだった。

――やっと真面目に受験に向かう気になったのね。

 まるで今までが不真面目だったかのような言い草に腹が立って、同時に結局親の望むとおりにしてしまったのだという苦い思いが胸を満たした。だから翌日の朝、春たちについ言ってしまったのだ。これまで髪を伸ばしていた経緯を、情けないと思いながら。髪を伸ばすことでしか反抗を示すことができなかった自分も、そのくせ親の要求に従ってしまった自分も、嫌になっていた。

 その上、礼陣の学力水準がどうのと偉そうなことを無意識とはいえ口にしてしまい、しかもそれを牧野に指摘された。悪かったとすぐに思ったが、嫌な気分は晴れることなく、胸に溜まった澱がかきまぜられて広がったような気さえした。

 その次の日には、筒井と沼田に龍堂高校の過去問で解けなかった部分を教えることになっていた。まるで龍堂高校を受験することが当然になっているように感じて、少しだけ苦しかった。でも、少しだけだ。頼ってもらえるのは嬉しかったし、他人の役に立てることで自分がここにいることを許されたように思った。

 でもそれは学校でだけのことで、家に帰ればまた母親からの重圧が待っていた。

――学校は、あなたにはレベルが低すぎるんだから。家でちゃんと勉強しなさい。

 まるで先日の自分の発言をそのまま繰り返されたような言葉に、吐き気がした。こんなに嫌な気持ちになるようなことを、春たちの前で口にしてしまったのかと、酷く後悔した。

 けれども今日の朝、詩絵から聞いた話はこの学校の生徒の「レベルの低さ」を裏付けてしまうような内容だった。詩絵は「もう散々だったよ」と笑っていたが、新には笑いごとではなかった。このままではここにいるみんなを下に見続けてしまう。せめて認められるようなところまで押し上げないと。そんな奇妙な焦りが言葉に出た。そしてそれは千花に咎められた。

 新自身の考えが誤りであることは、その瞬間にわかっていた。学力水準だとかそんなものは関係なく、この学校の友人たちは、この町の人たちは、みんな下に見ていいような人物ではない。むしろ新にないものをたくさん持っている。新にはできないことができる。そう思うと、今度はそれが羨ましくなった。

 自分はこんなに押さえつけられているのに。行きたい学校を選ぶのにも条件がつけられて、それでもまだ認めてもらっていないというのに。進路の話を暢気にできる同級生たちが、親に応援してもらっているという彼らの現状が、酷く恨めしくなった。そんなことができるのはその程度のレベルだからだと、真っ黒な渦を巻く胸の中の自分が囁いた。

「結局オレも、母さんと同じじゃないか。みんなを、友達を、見下したりなんかして。そんなんで居場所を許されるはずないだろ……」

 しかも苛立ちを一方的にぶつけて、飛び出してきてしまった。もうあそこには戻れない。春にだって軽蔑されたに違いない。もう、好きになんかなってもらえない。現に、誰も追ってこなかった。……追ってきてほしかったのか、と自嘲が漏れる。

 そのうちに予鈴が鳴って、新は図書室周辺の様子を窺いながら、ふらふらと教室に戻った。そしておとなしく午後の授業を受け、帰りのホームルームが終わるとさっさと帰宅した。今日もまた、勉強しなくては。行きたくはない、龍堂高校に合格するための勉強を。

 

 放課後、春は詩絵と千花とともに、職員室に来ていた。中間テストを控えてはいるが、まだ入室制限はかかっていない。詩絵が「失礼しまーす」と先陣を切って、千花と春がそれに続く。向かう先は三年生担任団のいる島だ。

「なんだ、三人揃って。テスト前にわからないところでもあったか?」

「井藤ちゃん、服部さんは? 部活?」

「服部先生なら進路相談室。あと職員室では一応先生っていいなさい」

 この時期だ、誰かが進路相談に来ていてもおかしくないだろう。それが新でないことはたしかなのだが。もし服部の手が空いていたら、新のことを相談しておきたかったが、今日は難しそうだった。溜息を吐いた三人を見て、井藤が腕組みをする。

「どうしても服部先生じゃなきゃだめなことか?」

「A組のことはA組担任に話した方がいいかなと思ったんだけど」

「申し送りならしておくぞ。このメンツでくるA組のことなら、入江のことだろ」

 井藤が察してくれたので、話が早いと詩絵は頷いた。そしてここ数日の新の態度について、思いつく限り、まとまらなくても話してみた。もちろん「いつもと違う」ということを強調して。でなければ、ただ新の性格に問題があるだけのように聞こえてしまう。井藤ならそんなふうには思わないとわかっていても、他の教員もいるところでそうとれる話はしたくない。

 一通り話を聞いてから、井藤は納得したように頷いた。

「キレるならいつかなと思ってたんだけど、やっぱりなあ」

「え、井藤ちゃん予想してたの?」

「先生、な。俺じゃなく服部先生が心配してたんだ。俺はどっちかといえば、お前らがいるから大丈夫じゃないかと楽観的に考えてた」

 本当に大丈夫だったら、どんなに良かったか。新の抱えているものを軽くしてあげられたら、今日のようなことにはならなかったんじゃないか。ずっと思っていた事がまたせりあがってきて、春は目を潤ませる。頼りがいのある詩絵や新と頻繁に連絡が取れる千花はともかく、春には何もできなかったのだ。今にも涙をこぼしそうな春に、井藤はあわててティッシュの箱を差し出した。

「須藤、泣くな。入江がイライラしてるのはお前のせいじゃないだろ。ていうかお前にイライラする入江なんか想像できない」

「だって、私、新に何もしてあげられないんです。いつもたいしたことできなくて、誰かに頼ってばっかりで。新がどうしてつらいのかも、きっと半分もわかってない。だって私、新が龍堂に行っちゃうんじゃないかってことを心配してばっかりだったし……」

 新が悩んでいたであろう時に春が考えていたのは、新と離れてしまうかもしれないということばかりだった。勝手に不安を覚えて、新本人の気持ちをないがしろにしていた。三年生になってからやっと行かせられるのではなく行きたい高校を見つけて、そのために親とぶつかって、提示された厳しい条件をクリアしようとがんばってきた新のことを、もっと考えるべきだった。いや、せめて一言でも声をかければよかった。

 後悔で頭がいっぱいになる春の両手を、詩絵と千花がそれぞれ握る。「そんなことないよ」と言ってくれている。それでも春は、顔をあげられなかった。

「……まあ、なあ。入江がどうするかは入江本人が決めることであって、それに対してものを言える人間っていうのは限られてくる。言ったところでどうこうできるわけじゃないし」

 あいつ意志強そうだからなあ、と井藤が言い、詩絵はたしかに、と頷く。新は単純だが、それゆえにまっすぐだ。そうと思い込んだらなかなか考えを曲げない、一途で厄介で、でもだからこそ味方になりたいと思わせる、そんな人物だ。

「どうこうできるわけじゃないが。今まで入江が学校で楽しそうに過ごせていたのは、お前たちが入江の味方として堂々と口出しのできる存在だったからだと、俺と服部先生は思うんだよ。なんなら証言してもらおうか?」

「証言?」

 首を傾げる詩絵と千花、そして俯いたままの春の前で、井藤ははす向かいで何か作業をしていた舟見を呼んだ。舟見は視線をこちらによこすと、普段通りの厳しそうな顔で「入江のことですか」と口にした。

「聞こえてましたか」

「至近距離で話されてたら聞こえます。それに、入江のことは私も気になっていましたから。去年まで二年間、うちのクラスで様子を見ていましたからね」

 家庭訪問に行ったこともあるので、親のことも知っています。舟見はそう呟いてから、生徒三人に向けて語り始めた。

「二年の終わりまでの入江は、今みたいによく笑ったり、友人と喋ったりするような生徒じゃなかったよ。クラスにうちとけようとすることも、私の知る限りなかったな。弓道部の活動だけが楽しみで、学校に来ているような印象だった。進路のことだって、親に言われた通りにしなくちゃいけないと思っていたようで、自分の希望なんか私には言ってくれたことがない」

 それが変わったのは、今年の春。新が舟見の手を離れてからのことだった。ずっと教室で参考書に向かっているような生徒は、いつのまにか廊下で友人たちと楽しそうに会話をするようになっていた。初めのうちは服部が何かしたのかと思ったが、そうではなかった。

「自分を受け入れてくれる味方ができたから、安心して素を出せるようになったのかと納得したものだ」

「そっか、先生たちはそう考えてるんだ。アタシたちが何かしたわけじゃないんだけどな」

「新君が自分で動いたんだと思いますけど。でもそのきっかけは……」

 詩絵と千花が、同時に春を見る。春はやっと顔をあげて、両脇の友人たちを交互に見た。それからあの四月の日を思い出して、頬が熱くなった。――始まりは、新が春に告白したあのとき。新がそうしようと思ったそれから、きっと彼の世界は変わった。何もしなかったら、きっと今でも状況は舟見の知るそのままだった。

「なんだ、入江は自分で動けるのか。だったら須藤が何かしてあげなきゃなんて変に責任感じることないよな」

「でも、それとこれとは状況が全然……」

「人見知りが自分から相手に近づこうとするのには、ものすごい勇気とエネルギーがいるんだよ。昔の俺がそうだった」

「井藤ちゃんたまにその話するけど、信じられないよね」

 それだけの力が今の新にもあるだろうか。つらくてもそれを吐き出せなかったから、こうなってしまったのではないか。

「先生。もし新にそのエネルギーがない時は、自分で動くのがしんどい時は、どうすればいいですか。私たちが何か言って、大丈夫ですか」

「そんなに構えないでも、いつも通り話しかければいいんじゃないか。明日の朝、おはようって声かけてさ」

 そうして、新は応えてくれるだろうか。笑って「おはよう」と返して、詩絵や千花にいじられながら、春と話をしてくれるだろうか。何事もなかったように。

 服部先生には話しておくから、と井藤に送りだされ、春たちは職員室をあとにした。これから図書室に行って勉強しても集中できないような気がして、今日はもう解散しようか、と詩絵が言い、春と千花は頷いた。一旦教室に戻って、荷物をとってから、昇降口へ向かう。

 そのあいだ、春はふと思い当たる。前にも自分には何もできないなどと言って、井藤に相談に行かなかっただろうか。たしかその時は、詩絵のことで悩んでいたのだ。そうして今日と同じことを言われた気がする。いつも通りに、と。

 同じことを繰り返してしまった。私って学習能力ないなあ、と思いながら階段を降りている途中で、詩絵がこちらへ振り向く。思っていたことが漏れていただろうかと一瞬焦ったが、すぐにそうではないことがわかった。

「アタシさ、明日はいつも通りってわけにいかないと思うんだよね。たぶん新に徹底的に避けられると思う。千花にも話しかけられないように、休み時間は教室からいなくなって、きっと昼休みも図書室に近づかない。そんな気がする」

 気がする、とは言うが、詩絵の言葉はほぼ断定だった。どうしてそんなことがわかるんだろうというくらいに。春が目を丸くしていると、千花が頷いた。

「そうなっても、あわてないようにしなくちゃね。新君は私たちを嫌いになったわけじゃないと思うし。簡単にそうなれるような人じゃないもの」

 春もそう思う。でも本当に避けられたら、絶対にショックを受ける。早く井藤のいうような「いつも通り」に戻りたいけれど、新がそれを拒んだらどうしようもない。

「じゃあ、私たちはどうしたらいいの? ずっと新と話せないなんてやだよ」

「ずっとこのままにはしない。……でも明日一日かけてでも、みんな冷静になる必要があると思ったんだよ。それとも熱くなってんのってアタシだけ?」

 むしろ今は、詩絵のほうが冷静に見える。春は首を横に振って、「違う」と呟いた。千花もばつが悪そうな表情をする。互いにそれを確認してから、また階段を降り始めた。

「大丈夫だよ、春。夏休みのときなんて、みんな何日も会えなかったじゃん。それに比べたら一日なんて短いもんよ」

「そうだね。たった一日だよ、春ちゃん」

 詩絵と千花の声は、どうしてか明るい。春を元気づけようとしてくれているのだろうか、それとも。

 

 

 はたして詩絵の予想通り、翌朝、新は予鈴が鳴る頃になっても現れなかった。ホームルームが始まるすれすれに教室に入ってきて、一時間目の授業が終わったら教室を出ていき、二時間目が始まる直前に戻ってくる。短い休み時間はその繰り返しで、昼休みは図書室に来なかった。

 そうして本当に、丸一日、春は新と顔を合わせることがなかった。

「学校には来てたんだけど、誰も捕まえられない感じかな。でもお昼休みはどっちにしても来られなかったのかも。服部先生に呼ばれてたから」

 千花からの報告で様子だけは知ることができる。服部に呼ばれたということは、昨日の相談が伝わったのかもしれない。

「進路相談は服部さんがしてくれたね。それで新がどうするのかは、本人から聞き出さないと」

「え、聞き出すの? どうやって?」

 誰も捕まえられないような行動をしていた新から何かを聞き出すのは、難しいのではないか。明日もまた逃げられ続けたら、次に会えるのは来週だ。それとも服部と話して何か変わっていて、明日には話せるという確証が詩絵にはあるのだろうか。

 ところが詩絵は、春の期待とは真逆のことを言った。

「まず、新は明日も逃げると思う。朝はぎりぎりまで来ないだろうし、休み時間はどこかへ消えておいて、放課後は即帰宅しようとするんじゃない?」

「それじゃ話せないよ。また顔も見れないで終わっちゃう」

「何もしなければね。でも、アタシはそんなに気が長くないの。今日一日会わなかったんだから、明日絶対に片をつける。昼休みが勝負かな」

 言い切った詩絵に、千花も頷く。本当に一日しか新を放っておくつもりはなかったようだ。そして詩絵と千花の中では、もう何をするかが決まっているようだった。まだ春が何の策も思いつかないでいるあいだに。

 でも、たった一日会わないだけで、言いたいことはたくさん思いついた。今までどうやって新と接してきたのか、どういう会話をしたのか、思い出せるだけ思い出した。それを伝える手段がなくて、困っていただけだ。

「春は今まで、自分の力が最大限生かせるところを考えて、係の仕事とかをしてきたよね」

 詩絵が春の肩に手を置く。浮かべている笑みはとても優しい。

「よく『何もできない』なんて言うけど、ちゃんと自分の役割を果たしてた。今回だってそれでいい。新を捕まえるのはアタシと千花がやるから、春はいつも通り、新と話して」

 捕まえるという時点でいつも通りではない気がするが、本当にそれだけでいいのだろうか。春が尋ねる前に、千花が手をとりながらにっこり笑った。

「新君のエネルギー源は、いつだって春ちゃんだもの。今の新君に一番必要なのは、春ちゃんの声と笑顔だって、私と詩絵ちゃんは思ってるんだ」

 だから任せた、と二人は言う。それが春の役目だと。それをどうして、「それだけのこと」なんていえるだろう。それどころか大役だ。顔も見せなかった人物に面と向かって話しかけるのだから。

「わかった。……私が話す」

 聞いてもらえるかどうかはわからない。それでも春は、新と話したかった。

 

 翌日、新は遅刻すれすれで教室に入り、周りを見ないように自分の席で俯いていた。やっていることは昨日と同じだ。春たちに会わないように、家を出てから遠回りして学校へ来た。休むという選択肢はない。仮病なんか通用しないし、親の機嫌を損ねるとまた面倒だ。余計な気を遣いたくない。

 さて、今日の休み時間はどこで過ごそうか。教室には千花も筒井たちもいるので居づらい。廊下に出る時も、春たちと会わないように注意をはらう。昨日は服部に呼ばれたが、今日は昼休みをやり過ごす場所も考えなければ。

 わざわざこちらが避けなくとも、嫌われたなら、向こうから何かしてくることもないかもしれない。いや、やっぱり陰口くらいは言われているだろうか。目を合わせたら逸らされたり、睨まれたりするかもしれない。それくらい酷い態度はとってしまった。

 でも、春や詩絵や千花がそんなことをするとも思えない。彼女らにまでそんなふうに応じられたら、親に何と言われようと引きこもるかもしれない。万が一に嫌われないまでも、今まで通りの友達のままでいられるとも思えない。

 つまり新は、現実を見るのが怖かった。だからあんなに必死になって逃げたのだ。そして今日も逃げ回るつもりなのだ。そんなこと、いつまでも続けているわけにはいかないのに。

 わかっていても、授業が終わるたびに足は教室の外へ向く。四時間目の授業が終わり、給食をあまり噛まずに飲み込んでから、素早く片付けて、すぐに参考書だけを持って教室を出た。とりあえず、誰もいない場所を探そう。そう考えて階段のほうへと向かっていると、後ろから床を蹴る音が聞こえた。走ってはいけないはずの廊下で何をやっているのかと、新は気になって、思わず振り返り、そしてぎょっとした。

 詩絵がこっちに向かってくる。間違いなく新をめがけて来ている。その姿を見て反射的に逃げた新は、階段を降りようとした。しかし、

「待て、こらあっ!」

 中ほどまで来たところで、真横を布が飛んでいった。女子の制服の、スカートの色だ。一瞬まさかと思ったが、目の前の踊り場にそのスカートが降り立ったのを見て、認めざるを得なくなった。十二段ほどの階段を、上から一気に飛び降りて着地を決め、詩絵は新の前に立ちはだかった。

「なんて無茶を……」

 呟いて戻ろうとすると、上の段には千花がいた。挟まれては逃げられない。千花が階段を降りてくるので、新は詩絵のいる踊り場側へと追い詰められた。

「な、なんだよ……。何か用か?」

 二人の顔を見ないように俯きながら、新は声を絞り出す。問いを口にしてしまってから、しまったと思った。これでは二人と話さなくてはならなくなってしまう。

「何か用か、だって? 用がなきゃこんなことまでしないって」

 不機嫌そうな詩絵の声。一昨日のことについての説教でも始まるのだろうか。それにしてはやりすぎな気がするが。

 新が唇を噛んで黙っていると、詩絵はわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「いやあ、アタシも血迷ったこと言ったもんだ。『頼りすぎた』って、それ以前に新が自分で『数学でも何でも、教えてほしかったらオレに言え』なんて言ったんじゃん。思い出したらありがたいけどちょっとムカつくわ。いっつもアタシには上から目線で」

「……え?」

 どうして今、そんなことを。たしかにいつぞやにそんなことを言ったような気がするが。新が少々混乱しているところへ、千花も笑いながら口を開いた。

「でも新君、詩絵ちゃんを侮ってるわけじゃないんだよね。私のことも、みんなのことも。春ちゃんのことは言わずもがな」

 いったい何の話だ。挟まれたときは責められるのも覚悟したのに、まるでいつもの調子だ。おそるおそる顔をあげると、詩絵の表情は全然不機嫌ではなかったし、千花は普段通りににこにこしている。それから。

「わ、本当に捕まえてる……」

 遅れて階段を降りてきて、新の目の前に立ったのは、背の低いおさげの女の子。まっすぐに新を見た大きな目は、一日会わなかっただけなのに、久しぶりなような気がする。

「新、忙しいのにごめんね。私が話をしたくて、詩絵ちゃんと千花ちゃんに新を引き留めてもらったの」

「春……」

 もう話しかけてなんかもらえないんじゃないかと思っていた。あんな態度をとったから、軽蔑されたのではないかと。でも春はそんなふうはまるで見せず、新と向かい合っていた。

「なんで、話がしたいなんて。オレの態度、最悪だったのに。しかも昨日は、春たちに会わないように逃げてたのに」

 新がおそるおそる言うと、春は首を傾げて、困ったように笑った。

「そうなの? 態度なんて気にしてないよ。ちゃんと勉強しなきゃいけないのに、私たち、お喋りしすぎちゃったし。真剣にやってた新が怒りたくなるのも無理ないと思う」

「違う。そうじゃないんだ。あれは八つ当たりみたいな感じで……心の中では、どうしてそんなに暢気でいられるんだって、行きたい方向に行くことを許してもらえるのが羨ましいって思ってた」

 しどろもどろに言うと、春は目を丸くした。それからどうしてか、ふんわりとした笑顔を新に向けた。びっくりしたが、それ以上に可愛くて見惚れてしまう。

「新は、正直でまっすぐだよね。そういうところ、いいなあって思う」

「そんないいものじゃないって。もっと酷いことも考えてたんだぞ。みんなのこと、下に見たりもしたんだ。オレの母親と同じことを思ってた」

「悪いと思ってるなら、いいんじゃないかな。普段の新は、あからさまにそういうことしたりしないでしょ」

 だから、と春は言葉を続ける。優しい微笑みを、少しだけ寂しそうにして。

「どうして突然そんな態度が出てきちゃったんだろうって思って。良かったら、話してみてくれないかな」

 弱音を吐くのは、あまりかっこいいことではないと思っていた。だから春にはあまり言いたくなかった。でも溜めこんだものを醜い形でぶつけてしまうよりは、ずっとマシかもしれない。それに春なら、もしかしたらかっこ悪いなんて思わないでいてくれるかもしれないという希望が、今はあった。

 だって、あんなに酷い態度をとった新を、許してくれるのだから。

 この数日にあったことを、新はぽつぽつと話し始めた。抱えてきた自己嫌悪を、親と同じだと思って苦しかったことを、人を見下すような発言を後悔していることを、とりとめなく。そんな自分は、春たちからも嫌われてしまっても仕方がないと、学校にはもう居場所がないと思ったことまで。

「そして昨日の昼、服部先生に呼ばれた。進路について困ってることはないかって。……いや、困ってることはあると思うけど、何か相談したいことはあるかって」

 新はそのとき、志望校を龍堂高校に変えようかと思った。どうせ人とうまくやっていけないのなら、春たちに嫌われるくらいなら、いっそ遠くに行ってしまおうかと。最近早く帰って勉強をしていることで、親の機嫌もいいことだし。新が龍堂高校に行けば、全てが丸く収まる気がした。

「でも、はっきり言えなかった。服部先生に『オレは龍堂高校に行った方がいいですか』って、訊いたんだ。そうしたら、すごく困った顔された」

 服部に「どうして」と訊き返されて、新は返答に困った。せっかくクラスの運営もうまくいっていて、あとは進路に向けて一人一人ががんばるだけなのに、交友関係でまた服部に迷惑をかけたくはないと思った。だから言葉を探して、ごまかした。

 龍堂高校にも弓道部はあるし、学力的にも手の届かないところではなくなってきた。どうせ親からの条件で、合格しなければ礼高にもいけないのだし、それなら龍堂高校専願にしてしまったほうが親も安心するんじゃないか。たしか、そんなことを言ったと思う。そうしたら服部は、「礼高でやりたいことがあるんじゃないのか」と返してきた。三者面談のときのことを、ちゃんと憶えていたようだった。

 親の反対を押し切ってまで行きたいといっていた学校を、諦めたいのか。服部に問われて、新は言葉を詰まらせた。同時に脳裏を声が流れる。――私は新と一緒がいいな。そう言ってくれた、愛しい声が。

「やっぱり礼高に行きたいんだなって、春と一緒にいたいんだなっていうのを、実感しちゃってさ。昨日は春たちに嫌われたかもっていうので頭がいっぱいだったから、それが余計につらくて。諦めたくないけど、どうしたらいいのかわからないって返事した」

 すると服部は、勝手なことを言うなと思うかもしれないが、と前おいてから、新の肩を掴んだ。

――諦めたくないなら、貫き通しなさい。入江はそれができるんだから。

「一晩悩んだよ。いや、さっきまで悩んでたかな」

「……新は、どうしたいの?」

 春が訊く。今はもう、何も恐れなくていい。その選択をしていいのだと、目の前の彼女が思わせてくれた。

「春に嫌われてなくて安心したから、もう迷わなくていい。オレは礼高に行くよ。そのために、絶対に親に認めさせる」

 切った髪も、難関校用の参考書も、これまでの積み重ねも、全部新自身が選び取りたい未来のためだ。そしてその未来を後押ししてくれる人や、一緒に道を歩いてくれる人が、新にもちゃんといる。

「やっぱり新には春が一番効くんだよな。アタシたちの存在まるっと忘れてたでしょ」

「私たちだって、新君と同じところを目指す仲間だからね。たまにはそれを思い出して」

 いつだって窮地を救ってくれる友人が。

「一緒に礼高行こうね、新。来年こそは同じクラスになりたいな」

 前に進む力をくれる、好きな女の子がいる。

「ああ。一緒に、な」

 もう迷ったりしない。たしかな道しるべを手に入れることができたから。

 気が付けば随分話し込んでいたらしく、昼休みも終わりそうだ。教室に戻るために階段を上りながら、四人はすっかりいつもの調子に戻っていた。

「あーあ、今ので昼休み一日分無駄になったな。みんなオレなんかにかまってないで、勉強したかったんじゃないか?」

「無駄じゃないよ。だって新がいないと困るもん。昨日のお昼なんか、集まったは良いけどみんな黙り込んじゃって」

「たぶんみんな、新君のことが気になってたんだよ。念のため言っておくけど、あの程度で新君のことを嫌いになるような人はいないからね」

「むしろ責任感じちゃってるんだから、一言くらい謝らせろ。そんでもって、またアタシに勉強教えなさい」

「はいはい、『オレに言え』って言っちゃったからな。来週から顔出すようにするよ。中間テストの追い込みもしなきゃいけないし」

 階段を上り切ったところで、予鈴が鳴った。教室に入ろうとして、今日も図書室に行っていたらしいメンバーと鉢合わせた。とっさに新は「ごめん」と言おうとしたが、その前にC組の前にいた牧野が口を開いた。

「入江、悪かったな」

「……なんでお前が謝るんだよ。勝手に癇癪起こしたのこっちだろ」

「きっかけ作ったの俺だから。進路の話したの、わざとなんだよ。俺が自分の進路にいまいち自信持てたなかったから、誰かに聞いてほしかったんだ」

 成績にまだ不安を抱えている者や、進路自体に自信がない者など、悩みはそれぞれにある。新も牧野も、そのうちの一人、同じように悩んでいる者同士だ。ただ暢気なわけじゃなく、色々なことを考えている。比べて羨ましがるのは、きっと他人の芝生が青く見えるようなものなのだ。それを思い、新はまた少し恥ずかしくなって、でも心は軽くなった。

「ごめんな、牧野。みんなも」

「それこそ何を謝ってんのかわかんねえ。授業始まるから、教室入れよ」

 みんなが教室に入ってから、新は最後に戸を閉めた。

 

 次の一週間で、それまでの雰囲気も進度も取り戻すかのように勉強に打ち込んだ。そうしてさらに次の週、後期中間テストがあり、さほど待つことなく採点をした答案が返却された。最後の追い込みが功を奏したらしく、一緒に勉強をしていたメンバー全員がこれまでの成績をキープするか、それ以上の成績をとることができた。その情報交換とテストの復習も、昼休みに集まってやった。

 休む間もなく、今度は総合模試が行なわれる。参考となるランクが出る、最後のテストだ。それに向けての勉強会と、模試本番、そして結果発表までが終わったとき、礼陣の町はすっかり冬になっていた。

 

 

 窓からちらつき始めた雪を眺めながら、三年生は放課後の受験に向けた講習を受けるようになった。けれども新は相変わらずホームルームや掃除が終わったら家に帰り、家庭教師の授業を受ける生活だ。冬休みになれば、塾での講習のために、また門市まで通わなくてはならないことになっている。

「憂鬱だけど、それはみんな同じだからな。オレはせいぜい、オレのためにがんばるよ」

 そう言って今日も先に帰る新に手を振ってから、春は詩絵と千花とともに講習が行われる教室へ向かった。これからの講習は第一志望校を基準にクラスが振り分けられているので、三人とも同じクラスだ。正確には礼陣高校志望の生徒は成績をもとに二クラスに分かれているのだが、最近の詩絵は以前より春や千花に追いついてきている。

「もうすぐ今年が終わっちゃうのか……早いもんだねえ」

「詩絵ちゃん、おうちでクリスマスケーキの予約が始まってからずっと言ってるよね。今年も結構注文あるの?」

「さすがに専門のお店には敵わないけど、当日忙しくなりそうなくらいは入ってるよ。アタシも少し手伝うつもり」

 詩絵の家はパン屋だが、ケーキやクッキーといった洋菓子などもほんの少し扱っている。今の時期はクリスマスケーキの予約も受け付けていて、当日はアルバイトを増員して受け渡しを行なっているという。つまり忙しいので、去年もクリスマスに遊ぼうと誘ったら断られてしまった。今年は勉強もしなければならないし、遊んでいる暇はないのだが、プレゼント交換くらいはしようと話している。

「千花ちゃんはお隣?」

「今年はお父さんも忙しいみたいだし、お隣だね。春ちゃんは?」

「おじいちゃんと二人かな。もしかしたら幼なじみが来るかもしれないけど」

「新君には何かしないの?」

 プレゼントはそれぞれで学校に持ち寄ることにしているが、それとは別に、ということだろう。にんまりと笑う千花と詩絵に、春は赤くなりながら小声で答えた。

「……本当は、駅前大広場のクリスマスツリーとか見に行きたかったけど。新は忙しいから……」

 毎年礼陣駅前の大広場には、クリスマスが近くなると大きなクリスマスツリーが現れる。カップルや親子連れが来ては、その電飾の美しさに心を奪われるのだった。いつか好きな人と見に行きたいというのは、礼陣の女の子の憧れでもある。

 新を意識するまでそんなことを考えたことがなかった春も、今年はいいなと思っていた。

「今年はイブが木曜日で、当日が金曜日だもんね。ツリーは二十五日までだから、二十五日の夜にでも」

「無理だよ。家庭教師さん来るはずだし、家から出られないんじゃないかな」

「新君に話してみたら? 春ちゃんに会うためなら何か手段を考えるかもしれないよ」

 思えば夏祭りのときだって、新は一緒に遊びに行くために急いで課題を終わらせたり、なんとか家を抜け出してきてくれたりしていた。またその苦労を強いるのは少し気が引けるけれど、話すだけはしてみようかなと春も思った。

 そうして翌日の朝、春は緊張しながら新に切りだしたのだった。

「新のクリスマスの予定ってどうなってるの?」

 尋ねられたほうは、困ったように笑いながら答えた。

「二十三日から、塾の冬期講習が始まるんだ。だから学校が終わったら、列車で門市通い。そのかわり、帰りが遅くなる二十四日と二十五日は家庭教師は来ないことになってる」

「あ、そうなんだ。やっぱり忙しいよね……」

 クリスマスだなんて浮かれてる場合じゃないよね、と春は引き下がろうとする。だが、千花がそれを引き留めた。

「チャンスだよ、春ちゃん」

「え、何が?」

「列車通いってことは、帰りに待ち合わせれば広場のツリーを見に行けるよ。ねえ新君、塾から帰って来る列車って、何時に礼陣駅に着くの?」

 そういえば夏休みに一緒に出掛けたとき、列車の時間を新が塾に行くときに合わせる作戦を考えたのは千花だった。こういうときに機転が利くのはすごいなあ、と春は感心する。

 塾の講義が終わるのは午後九時、それから列車に乗って、礼陣に到着するのは十時過ぎになってしまうという。でも次の日が休みになっている二十五日なら、遅くなっても大丈夫だ。

「新、二十五日の塾が終わったら、駅前の大広場にちょっとだけ寄ってくれないかな。ほんのちょっとでいいんだけど」

 春の申し出に、新は驚いたようだった。でも笑って、「わかった」と言ってくれた。

「でも、ちょっとだぞ。中学生が遅くまで外にいたら、補導されるかもしれないし。前にあった事件の犯人だって、まだ捕まってないんだから危ないぞ」

 やりとりを傍で見ていた詩絵は、ちょっと首を傾げる。いつもの新なら、散々あわてた後に春の手を握って「ぜひ!」なんて言いながら目を輝かせるはずなのに。まさか恋心まで落ち着いていないだろうな、と思ったが、口にはしなかった。そんなことを言ってしまって、春がまた不安になってはいけない。

 

 学校は二十六日から冬休みに入る。二十五日はたっぷり授業をやったあと、午後の最後の一時間で全校集会をやり、帰りのホームルームのあとに解散になる。もちろん三年生の多くは、それから講習があるのだが。

 春はそわそわと落ち着かず、詩絵と千花はそれをにやにやしながら見守っていた。一方で詩絵は、新が今日も比較的落ち着いていたことが気になっていた。こちらのほうが緊張していてもいいはずだが。

「春ちゃん、今日告白するの?」

 こそりと千花が尋ねる。でも春は、頬を染めながら首を横に振った。

「受験が終わったらにする」

「でも新君はわかんないよね。もう一回告白するかも。そうしたら、どうするの?」

 もしも新から告白されたら。それを考えると、春はさらにどきどきしてきた。今の春が新を好きな以上、振るということは考えられない。かといって、付き合ってもいいものなのだろうか。

 悩んでしまった春の頭を、詩絵が軽く叩く。

「大丈夫だって。付き合っても、それでやらなきゃいけないことがおろそかになることはないでしょ。新も春も真面目だしさ。受験に響くことはないんじゃない」

 そんなにやわじゃないでしょ、と言ってくれる詩絵に、春はこくりと頷いた。

 

 講習が終わって家に帰り、祖父と二人の夕食を済ませてから、春は時計を見ながらこっそり支度を始めた。そして十時をめがけて、コートをしっかり着こんで、紙袋を持った。

 ポケットには二十四日のプレゼント交換で詩絵にもらったクッキーの残りと、千花にもらったマスコットキーホルダー。新からは門市のデパートで買ったというマカロンが配られたのだが、それはその日のうちに食べてしまった。めったに食べられないお菓子は、甘くて美味しかった。

 髪には修学旅行のときに新がくれた、花の髪ゴム。ちゃんときれいに結び直したおさげは、変になっていないかどうか何度もチェックした。

「おじいちゃん、ちょっと外出てくる」

 祖父に声をかけると、「こんな時間にか」と怪訝な顔をされた。「すぐに帰って来るから」と、春は止められる前に家を飛び出す。

 駅前大広場までの道は、普段学校へ行くのとほぼ同じだ。住宅街を抜けて、大通りに出たら、右に曲がったところに大きなクリスマスツリーが見える。その周りには大人のカップルらしき人たちや、友達同士で遊びに来た大学生らしい姿があった。その真ん中でクリスマスツリーは電飾をピカピカと光らせながら、うっすらと雪をかぶっていた。――春が支度をしているあいだに降りだした雪だ。気温の下がった街には、冷たい風が吹いている。

 身を縮こまらせながら、春は一人で大広場の入口に立っていた。抱きしめた紙袋が、ほんのり温かいような気がする。広場からは楽しそうな声が聞こえていた。

 まもなくして、聞き慣れた声が春を呼んだ。

「春、待ったか?」

「新。こんばんは」

「こんばんは。寒かっただろ」

 新は笑顔を見せてから、きょろきょろとあたりを見回した。そして首を傾げながら、春に尋ねた。

「詩絵と千花は? まだ来てないのか?」

「え?」

 二人が一緒だなんて、春は一言でも言っただろうか。もしかしてずっと、四人で集まる話だと思われていたのだろうか。それならそれでも、良かったのだけれど。

「……詩絵ちゃんと千花ちゃんは、来ないよ。私が新と、あのツリーを見たかったんだから」

 一応声はかけたのだが、二人は「邪魔はしないよ」と断った。それから、「あとで報告してね」とは言っていた。にんまりと笑って。

 新はそれを聞いて、目を丸くした。それから急に焦り始めて、しどろもどろに言い訳を始めた。

「オレ、てっきりみんなで集まるものかと……。ていうか、春に誘わせて期待させておいて、またオレをいじる気じゃないかって思ってた。千花と相談してたみたいだったし」

「二人はそこまで意地悪じゃないよ。千花ちゃんは会えるタイミングを見つけてくれただけ。……これは、私の意思」

 告白はしなくても、それだけ言うのに、春は随分緊張した。心臓の音が新にまで聞こえてやしないかと思った。

 周りはすっかり暗いが、ツリーの電飾の明かりと街灯のおかげで、新の顔ははっきり見えた。何か言おうとしているのか、口は開いたり閉じたりしているけれど、声は出ていない。頬は寒さのせいなのか、それとも別の要因なのか、真っ赤になっていた。

「行こう。ツリーの点灯、今日までなんだ」

 広場に入っていく春に、新がついてくる。人々に混ざって、星のように輝くツリーを見上げると、隣に新が立って同じようにする。空気はひんやりしているのに、新のいる右側だけがほのかに温かい気がした。

「……ちょっと待ってろ」

 しばらくツリーを見ていた新は、突然春の傍から離れたかと思うと、一番近い自動販売機に向かい、何かを買ってから戻ってきた。そしてそのうちの一つを春の手元に差し出す。

「ごめん。寒いのに一人で待たせて」

 温かい缶のココアを、春は片手で受け取る。「ありがとう」と言いながら、財布を持ってきていないことに気がついた。

「あ、お金」

「いいよ、奢り」

 でも、返せるものが何もないわけではない。春はずっと抱えていた紙袋を新の手に渡した。喜んでもらえるかどうかは、わからないけれど。

「これは?」

「勉強の合間に、ちょっとずつ作ってたの」

 作ってたと聞いて、新の表情が変わった。「開けていいか」というので、頷く。がさがさと袋を開ける音が、春の胸の音と重なったような気がした。

 ココアの缶のプルタブを開けて、春は新の反応を待つ。温かい飲み物は、いつもなら気持ちをほっとさせてくれるけれど、今はあまり効果がなかった。

「……マフラー?」

「うん。もし嫌だったら、捨てちゃってもいいから」

「そんなことするわけないだろ」

 取り出したマフラーを、新はさっそく首に巻いた。コートを着ただけで、他には何も防寒をしていない新を見て、春はずっと寒そうだなと思っていたのだ。思っていたよりもマフラーは似合っていて、やっと少し安心する。

「いいな、これ。毎日使うよ。ありがとう」

「でも、巻いていったらお母さんに見つかって、変に思われない?」

「あの人はオレの成績以外のことに興味ないから大丈夫」

 そう言ってから、新は決まりが悪そうに、曖昧な笑みを浮かべる。春が不思議に思って首を傾げると、低い声で話してくれた。

「春や千花には、親の愚痴とか言わないほうがいいかなって思ってたんだ。オレには鬱陶しい親かもしれないけど、親がいない春たちからすれば、そんなの我儘なんじゃないかって。で、詩絵にたまに愚痴ってた」

「そんなの気にしなくていいのに」

 新がどんなことを思ったって、それが新の環境で考えなのだから、春は頭ごなしに否定したりしない。ただ、全てをわかってあげることはできないかもしれないのが、少しだけもどかしい。そういう点では詩絵に相談していたのは正解かもしれないなと、春も思う。

「……話せることは、私にも話してね、新」

「うん。春もだからな。オレじゃ詩絵や千花みたいに、気の利いたことは言えないかもしれないけど」

「それは私だって同じだよ。それでも聞きたいの。新のこと、まだ知らないことだらけだから。もっともっと、知りたいんだ」

 それが春の本音だ。ただ新のことが知りたいから、話してほしい。こっちのほうがずっと我儘だと思う。でも、新は笑ってくれた。

「オレだって、春のことをもっと知りたい。それにはあと三か月じゃ足りないんだ。そのあともずっと春と一緒にいて、色々な話をしたい」

 好きだとは、お互いに言わなかった。でも、同じ気持ちを持っているのが嬉しかった。「寒いし遅いから」と広場を出て、「またね」と別れてからも、春の胸はぽかぽかと温かかった。

 

 クリスマスが終われば、もう年末。そして新しい年がやってくる。町に踊る「新春」という言葉に、春は、そして新も、にやけてしまうのを止めるのに必死だった。