前期の成績が出て、少しの秋休みを挟み、そして迎えた後学期。

「すっかり秋だね。山の色がちょっとずつ変わってきたよ」

「そろそろ色野山あたりに、紅葉狩りの人たちが来るね。私たちも行けたら良かったんだけど」

「それも来年か。受験勉強ばっかりじゃ、頭がどうにかなりそう……」

 十月初め、制服も冬服になり、寒い朝にはときどきカーディガンを羽織るようにもなった。けれども昼頃には窓から暖かい日差しが入ってくるので、イスにかけてしまう。寒暖の差が大きなこの土地では、お馴染みの光景だ。

 昼休みである今、春たちもカーディガンは教室に置いて、廊下に出ている。新も学ランを置いてきたようで、指定のワイシャツ姿だ。着る物が変わっても、四人で集まることは変わらない。

「受験勉強ばっかりじゃないだろ。たしかにテストは多いけど」

「月一でテストがあるだけで憂鬱だよ。またお願いします、新先生!」

「詩絵はこういうときばっかりオレに頼る……」

「まあまあ、いいじゃない。詩絵ちゃんと勉強すれば春ちゃんもついてくるんだから。ね?」

「千花ちゃんはまたそういうことを言う……」

 小春日和の中、会話の内容はすっかり受験に向けてのものになってしまった。けれども、秋のイベントはなにもテストばかりではない。その分、三年生はバランスをとることが難しくなるのだが、楽しむときは思い切り楽しんでもいいと、教師陣も言っている。

「それより、もうすぐ文化祭準備期間だよね。今年は何がどこのクラスにあたるのかな」

 礼陣の町の中学校が、まもなく祭りの色に染まる。中央中学校も、文化祭に向けての動きが始まるのだ。

 

 中央中学校には、クラス対抗の勝負事が年に二回ある。一つは春に行なわれる運動会。運動系の部活で活躍している者や、そもそも運動能力が高い者が多いクラスが有利になる。そしてもう一つは運動能力など関係ない、いや、腹筋の力は多少必要になるのだろうか。しかしながらクラスの団結力が試される一大イベントであることには変わりない。

「では、合唱コンクールの指揮者と伴奏者、各パートのリーダーを決める。委員長、進行を頼む」

 文化祭に合わせて行なわれる、合唱コンクール。課題曲である校歌のほかに、各クラスで自由曲を選び、混声四部合唱で歌い上げる。審査員は校長、教頭、PTA会長など。声量や音程、ハーモニーなどを考慮して、全校の最優秀賞と各学年の優秀賞が選出される。

 最優秀賞はたいてい三年生の中から選ばれるが、一年生や二年生がもっと素晴らしければそちらにもチャンスはある。つまり三年生だからと気を抜いていいわけではない。最初の一歩から最後の総仕上げまで、全て大事だ。

「ソプラノのパートリーダーは園邑さんが良いと思います!」

 そんな大事な第一歩に、千花の名前が挙がった。推薦したのは千花と同じ吹奏楽部に所属する、小日向だ。

「園邑さん、声きれいだし、歌も上手だもの。是非パートリーダーをやってほしいんだけど……」

 千花の歌がどれだけ綺麗で響きが良いか、多くの者が知っている。昨年の合唱コンクールでは、各パートのソロがある曲で、見事にその大役をつとめあげた。けれどもまさかリーダーに推薦されるとは思っていなかった千花は戸惑い、「ええと……」と俯いてしまう。

 そこへ背中を押すように、別の声がかけられた。

「あたしも園邑がパートリーダーやるのは賛成。歌は無駄に上手いと思うし」

「佐山さん……」

 夏の修学旅行までは、千花を嫌っていたはずの佐山だったが、どうやら今ではかなり千花のことを認めてくれているようだった。口調は乱暴だが、それは彼女の特徴だ。

「どうかな、園邑さん。ソプラノのパートリーダー、任せてもいいかな」

 委員長に改めて尋ねられ、千花は覚悟を決めた。そんなに言ってくれるなら、他にやりたい人がいないというのなら、やってやろうじゃないか。

「やります。やらせてください!」

 三年A組に、一斉に拍手が沸き起こった。担任の服部は安心したような顔をして、「では、次」と委員長を促した。

 

 運動会の時はあっさりと係が決まった三年C組だったが、合唱コンクールの担当決めは難航した。というのも、飛びぬけて実力があるという生徒が、今回の場合はいないのである。いつもクラスの中心にいる詩絵も、このときばかりはおとなしかった。

「伴奏はピアノが弾ける人の中から選ぶとして……指揮者はどうするよ?」

「経験ある人のほうが良いんじゃない? 去年は誰がやったっけ」

「指揮者はクラスまとめなきゃいけないんだろ? 加藤はやんないの?」

 自分の名前が挙がって、詩絵はどきりとした。ここは何が何でも断らなければ。あわてて立ち上がろうとしたところで、しかし、担任の井藤が先に言った。

「いや、合唱コンクールまで加藤に頼っちゃだめだろ。運動会でめちゃめちゃがんばってもらったんだから、他の人がやりなさい」

 そういえばそうだ、とクラスのみんなが納得する。詩絵はホッとして、視線で井藤に礼を言った。そう、こればかりは引き受けるわけにはいかないのだ。でなければ、最優秀賞どころか、優秀賞すら危うい。最悪、詩絵のせいで最下位だ。かといって他の仕事をすることも、今回ばかりは難しい。詩絵には詩絵の、深刻な事情があるのだった。

「じゃあ、浅井は? 二年のときはやってないけど、一年のときは指揮者やってたじゃん」

「俺で良いならやるよ。そのかわり、牧野がバスのパートリーダーな」

「そうきたか」

 一つが決まれば、あとは推薦で枠が埋まっていく。そうして無事に、詩絵は役付きにならずに済んだのだった。胸をなでおろす詩絵を、春は苦笑しながら見ていた。

――本当に詩絵ちゃん、音楽は苦手なんだなあ……。

 そうなのだ、詩絵が最も苦手な技能科目は、実は音楽なのである。楽器を鳴らせばおかしな音が出て、リズムをとれば次第にずれていき、歌えば音程が驚くほど狂う。だから音楽の成績は、鑑賞の際の感想文と、期末の筆記テストでなんとかカバーしてきた。

 昨年の合唱コンクールは、井藤クラスは学年優秀賞をとったのだが、それには詩絵と千花が同じクラスだったからというのが理由の一つとしてあった。千花が詩絵の音痴を、誰も気づかないほどにカバーしていたのである。けれどもその千花は、今年、別のクラスにいってしまった。

 C組に利があるとすれば、遠川小学校出身者が他のクラスより少々多いことだろう。遠川小学校では毎年三回か四回は合唱コンクールを行なっている。歌いなれているし、音程やリズムを上手に取る方法を会得しているのだ。声量も申し分ない。

「アタシも声のでかさだけは自信あるんだけどね。歌うとなれば別」

 係決めの前、詩絵は春にそうぼやいていた。昨年は同じことを、千花に言っていたのだろう。そうして遠川小学校出身である春に、「音程ください」と半分冗談、半分本気で頼んでいた。

 だが、音程指導も手伝ってあげることはあまりできなさそうだ。曲は混声四部合唱で、春と詩絵のパートは見事に分かれてしまったのだった。春はソプラノ、詩絵はアルトだ。そういうわけで、詩絵の主な音程指導は、同じアルトであるひかりに託された。

 

 翌日の朝、いつもの四人は「おはよう」と集まって、前日のクラス会議での結果を報告しあった。千花がパートリーダーになったことを報告すると、春と詩絵は喜んで拍手をした。

「千花、去年はパートリーダー断っちゃってたもんね。指導するほど自信ないからって。今年はやることにしたんだ?」

「うん。小日向さんも、佐山さんも、推薦してくれたから。今年はちょっとがんばってみようって思って」

「へえ、佐山が……。変わったねえ、アイツも」

 詩絵が感心しているあいだに、春は新のほうを向く。目が合って一瞬どきりとしたが、平静を装って尋ねた。

「新はどのパートになったの?」

「テノール。リーダーが筒井になったんだけど、あいつ音楽のことになると真面目なんだな。春はソプラノか?」

「うん。パートのサブリーダーになったんだ。遠川小出身だからって……」

「小学校関係あるのか?」

 そういえば、新は中学生から礼陣に来たのだった。そのことを思い出して、春は自分の通っていた遠川小学校が頻繁に合唱コンクールを行なっていたことを説明した。新は納得したように頷いて、それからぽつりと「じゃあ、牧野もか」と呟いた。

「そう、牧野君はバスのパートリーダーなの。ああ見えて、歌も上手なんだよ」

「……へえ」

 春が牧野を褒めるたびに、新は闘志を燃やす。運動会では、リレーではなんとか勝ったが、総合優勝は逃してしまった。今回は個人戦は一切なしだが、総合優勝が十分に狙える。なにしろあのときとは、クラスの一体感が違うのだ。

「春には悪いけど、今回は勝ちにいかせてもらう。こっちには千花がいるしな」

「歌うのに勝ち負けとかあるかなあ、とは思うけど。こっちも本気でいくからね」

 運動会の時とは違う春と新の雰囲気に、傍で見ていた詩絵と千花は安心する。安心したところで、心配するのは自分自身のことだ。

「詩絵ちゃん、今年もアルト? 音程はとれそう?」

「自由曲、けっこう難しい曲になったからなあ……。なんとか笹に手伝ってもらってがんばる」

「そっか。私もパートリーダーがんばるね」

 もしもA組の人間関係の問題がまだ解決していなかったら、千花はパートリーダーをやろうなんて思わなかっただろう。ここ数か月で大きな変化を、詩絵は改めて感じる。そうして、自分もがんばらなければと思うのだった。

「今日は発表の担当を決めるんだよね。C組が劇だったらいいなあ」

「やめてよ千花……。もうアタシ、舞台には上がらないからね。できれば展示か、校内装飾がいい」

「詩絵が舞台に上がると不都合でもあるのか?」

「不都合じゃないけど、詩絵ちゃんは去年ね」

「春、余計なこと言わない」

 歌は今日から練習が始まる。各クラスの発表の内容は、今日の放課後に委員長会議で決定する。その前にクラスでやりたいものの決を採るのだが、それが反映されるかどうかはわからない。

 

 そんな話をした次の日の昼、図書室に頭を抱える詩絵と、苦笑する春、ちょっと楽しげな千花と、笑いを堪えきれなかった新の姿があった。今度の学力テストの勉強をしようとしていたのだが、それどころではなくなってしまったのだ。

 文化祭の出し物が、昨日の放課後に決まり、今朝発表になった。C組は演劇を担当することになり、すぐに社台高校から台本を借りてきたらしい。町の高校で最も演劇部の質が高い社台高校から、学生制作の脚本を借りてくるというのは、中央中学校の伝統だ。

 休み時間を使って、役者や裏方の係を決めていたのだが、詩絵が頼まれたのはよりによって舞台に上がる役者だった。しかも、男役だ。脚本の内容は家族ものなのだが、そこに一家の長女とその彼氏が登場する。長女役を担当する女子から、ぜひとも詩絵に相手役をやってほしいと言われてしまった。

「去年、加藤さんがやった男役、すっごくかっこよかったもの! だからまたやってくれない?」

 絶対に舞台になんか上がらない。男役なんかもうこりごりだ。詩絵はそう思っていたのだが、頼まれると断れないのも、また詩絵の性分なのだった。

「そっか、去年も男役だったのか。もっとよく見ておけばよかった」

「笑うな、新! 結局こうなっちゃうんだよなあ。仕方ないから全力で男になってやるけど」

「詩絵ちゃんの男役、本当にかっこいいから楽しみだなあ。春ちゃんは何やるの?」

 千花がにこにこと話を振ってきたので、春は普通の笑顔に戻った。新からもなにやら期待の視線が向けられているが、多分その期待は裏切ってしまうことになる。

「私は道具係。大道具も小道具も、作らなくちゃいけないものはまとめて見ることになったの」

「なんだ、春は舞台には出ないのか……」

「春ちゃん、器用だもんね」

 思った通り、新は少しがっかりしていた。でも、春はこのポジションが自分のベストだと思っている。道具を作るのも運ぶのも、得意とするところだ。詩絵が隣で「アタシも裏方がよかった」と呻いているが、それではもったいないと春と千花は思っている。詩絵は舞台に立ってこそ映えるのだ。

「A組は何やるの?」

「オレたちは展示。……まあ、複雑な心境だけど」

「ね。まさか修学旅行に騒ぎを起こしちゃった私たちが、修学旅行報告をするなんて……」

 三年生の伝統として、展示をやるクラスは修学旅行の報告をすることになっている。他のクラスの分も含めて、写真を飾ったり、研修の報告を模造紙に大きく書いて貼ったりして、後輩たちや観覧に来た保護者達に見てもらうのだ。今年はそれを、修学旅行で大問題を起こしてしまったA組がやることになった。特に佐山と羽田は気まずそうだったのだが、決まってしまったものはもうどうしようもない。C組が演劇の準備に動き出したように、B組は開会式の演出を、D組は校内装飾を担当するために、すでに作業を始めている。

「できるだけ楽しい修学旅行の思い出を展示できるようにするつもりだから、協力お願いね」

「もちろん。良い展示になるよう、アタシたちも応援するよ」

 合唱コンクールの練習に、出し物の準備。文化祭のための動きは着々と進んでいる。それと同時に、学力テストも近付いている。三年生は大忙しだ。休む暇もないけれど、これも全部、「中学最後の思い出」になる。最高のものにしたいという思いは、みんな一緒だ。

 

 

 合唱の練習は、主に音楽の時間を使って行なうことになっている。本番が近づけば昼休みや放課後も使うのだが、まだその段階ではない。

 パートごとに音が入ったCDを再生して、よくメロディーを聞く。そしてパートリーダーの指示に従いながら、少しずつ声を合わせていく。もちろん歌詞は暗記しなくてはならないが、何度も歌っていれば自然と覚えられる。

「聴いてもらった通り、この曲は最初、伴奏がありません。だから指揮者をよく見ながら、正確に音を出していかないと、そのあとも崩れてしまいます」

 音楽教師の言葉を、千花は頭に叩き込む。最初の音が肝心。それはどの曲をやるにも同じなのだけれど、A組の選んだ曲はとくに気を遣わなければいけない。誰よりも早く音を習得し、みんなを引っ張っていかなければならないのがパートリーダーだ。千花はその責任を果たさなければならない。

「それじゃ、各パートに分かれて練習を始めてください。助けが必要なら呼んでくださいね」

 その合図でクラスのみんなは四つに分かれる。ソプラノのメンバーが千花の周りに集まると、緊張が高まった。中には修学旅行の時まで千花に嫌がらせをしていた子もいたが、今はそんなことを気にしているときではない。

「まず、最初の音を出してみるね」

 音はしっかり確認した。お腹に空気を溜めて、喉を開く。千花の耳が正しければ、正確な音を出せているはずだった。この音を基本に、まずは発声練習から始める。

 初めはなかなか声が出ないものだ。照れもあるし、そもそも腹式呼吸をなかなか思いだせない。千花はわずかな違いを何とか聞き取って、音が揃っていないところを探した。もう少し声が出るようになれば、きっと音のぶれも直ってくると思うのだが。

「もうちょっとがんばって、声出してみよう。私が先に声出すから、合図でついてきて」

 一旦声出しを止めてそう言うと、誰かが小さく呟く声がした。

「園邑のくせに偉そう」

 気をつけなければ聞こえないくらいの声だった。今の千花が、全員の声をよく聴くために耳を澄ませていたからこそ入ってきてしまった。佐山たちがいじめをやめても、まだ千花を良く思っていない生徒はいるのだ。急に仲良くなれるわけもないし、絶対に仲良くならなければならないというわけでもないので、千花は気にしないようにしていた。

 けれどもパートリーダーとしてみんなを引っ張って行く側になって、仲良くはならずとも、多少は歩み寄らなければならないことを実感する。

――やっぱり、詩絵ちゃんはすごいな。ちゃんとリーダーできちゃうんだもん。

 詩絵のようになれれば。「アタシについてきなさい、責任は全部とるから!」なんて、格好良いことが言えたら。それを本当に実行することができたら。もう少し信頼してもらえるだろうか。

 でも今はそんなことを考えている場合ではない。気を取り直して声を出そうとしたときだった。

「偉そうって何よ。園邑さんがリーダーになるって言ったとき、反対しなかったんだから、文句言う資格なくない?」

 女子の一人に食って掛かったのは、羽田だった。千花は、そして他の女子もびっくりして、羽田と相手の女子、藤原を見た。さっき呟いたのは彼女だったらしい。以前は佐山の取り巻きの一人だったが、今では自分がグループのリーダーとなって、気に入らない子の陰口を言っている。もとは羽田と藤原もそれなりに仲が良かったはずなのだが、修学旅行を境に距離ができていた。

「パートリーダーは園邑さんなんだから、指示通りにやるのが普通じゃん」

「羽田さあ、何をそんなにマジになってんの? 佐山が園邑をターゲットにするのやめたら、金魚の糞みたいについていって。あんたうざいよ」

 その二人が今、言い争っている。同じソプラノパートのメンバーなのに、こんな言い合いなんかしている場合ではないのに、千花を巡って騒ぎを起こしてしまった。他のクラスメイトもこっちを見ていて、教師は「何を騒いでいるんですか」と急いでやってきた。

「真面目にやる気はあるんですか、あなたたちは。修学旅行のときも、何か騒ぎを起こしたようですね。こんなことで合唱なんかできるわけがないでしょう」

 叱られて、羽田と藤原は口を噤む。教師は次に千花を見て、呆れたように溜息を吐いた。

「園邑さん、パートをまとめられないようでは、今後リーダーとしてやっていけませんよ。部活と同じで、一人だけ上手でも駄目なんですからね」

「すみません……」

 音楽教師は千花の所属する吹奏楽部の顧問でもあるので、付き合いは長い。部活でも千花はよく、「一人だけ上手でも駄目なんです」と言われていた。聞き慣れてはいるが、耳の痛い言葉に、千花は頭を下げることしかできなかった。

「わかったら、きちんと練習してくださいね。……いつまでもこんなことなら、最優秀賞どころか優秀賞だって無理ですよ」

 気まずさの中、他のパートは練習を再開した。けれどもソプラノだけは、千花がもう一度声出しを促しても、統一感がまるでない。藤原や彼女の取り巻きはやる気がないし、羽田はきちんと声が出ていない。他の子も気まずそうに、そろそろと声を出すので、まるで響かないのだ。これでは音がとれているかどうかすらもわからない。

 やはりパートリーダーなんて、荷が重かったのだろうか。千花が自分にそんなことはないと言い聞かせても、周りからそう思われてしまった。アルトパートのリーダーをしている小日向が、申し訳なさそうにこっちを見ているのがわかる。申し訳ないのは、千花のほうだった。

 

 奇しくも次の時間はC組の音楽の授業で、廊下で詩絵とすれ違った新は、ことのあらましを簡単に話した。

「離れてたからよくわからなかったけど、たぶん藤原さんが千花に何か不満を言ったのを、羽田さんが咎めたんだと思う。……ちょっと騒ぎすぎかなとは思ったけどな。千花は気にしてないみたいだったし」

「一年生のときからの問題だから、そう簡単に解決するとは思ってなかったけどね。そっか、藤原がねえ……パートリーダーも難しそうだ」

 詩絵は横目で、まだ廊下の隅にいた羽田と、彼女に何か言っている佐山を見た。「あそこは無視するところだったでしょ」と聞こえたので、新の言っていた出来事について叱っているのかもしれない。羽田はしゅんとしていた。

「ここで揉めたから、展示の準備も荒れるかもね。服部さんにも相談してみたほうが良いかも。ただし、千花にはパートリーダーを辞めさせないこと。推薦とはいえ、最終的にやるって決めたのはあの子なんだから」

「ああ、先生には話してみるよ。でも、千花にはリーダーはやっぱり重荷なんじゃ……」

「そんなことない。やるっていったらやるよ、千花は」

 詩絵が言いきったので、新も頷くしかなかった。千花のことは、詩絵のほうがよく知っている。だったらそうなのだろう。この苦境を、千花はきっと乗り越える。そのために新ができることがあったら、そのときは迷わず手を差し伸べようと決めていた。

 さて、千花の問題を把握した詩絵だったが、こちらはこちらで問題を抱えている。A組と同じように、自由曲の音源を聞き、それぞれのパートに分かれて練習が始まったのだが。

「詩絵、音合ってない」

 アルトパートは、リーダーであるひかりの容赦ない指摘が飛んでいた。ソプラノパートの練習をしている春もハラハラするほど、はっきりと名指しで注意されている。

「一人だけ別に練習したほうがいいかもしれない。他の人がひっぱられちゃう」

「ごめん……」

 申し訳なさそうに項垂れながら、詩絵は少し離れて、ひかりの指導を受ける。そのあいだ、アルトパート全体を率いるのはサブリーダーだ。詩絵が外れると練習はスムーズになるのだから、外されたほうは余計に落ち込んでしまう。

 ひかりの声に続くように歌ってみるのだが、二人の歌声はまるで別の曲のようだ。詩絵自身もわかってはいるのだが、どうしてもうまく歌えない。思ったように音が出ない。抑揚のない声は、まるでお経のよう。いや、お経のほうがはるかに音楽的なんじゃないだろうか。そんな絶望が、歌うたびに詩絵を襲う。

 他の人に影響が出ないようにわざと声を小さくしたり、口パクで乗り切ることもできる。けれどもそれだけは誰かに言われても絶対にしたくない。パートリーダーという役目を果たそうとしている千花のことや、今年が最後の文化祭であることを考えると、そんなずるいことはしたくない。詩絵は詩絵の力を出し切って、合唱コンクールを成功させたいのだ。だからまずは、輪の中に戻ることから始める。ひかりの指示通りに少しずつ音程を合わせて、体に覚えさせていく。

 曲の難所は高低差の激しい部分で、しかもそこが特に強く歌わなければならないところでもある。これをクリアできなければ、C組が評価を得ることは難しい。

「この曲は厳しかったかな……。詩絵、朝練やろう。じゃないと練習に追いつけない」

「はい、笹先生……。ていうか、朝練付き合ってくれるの?」

「もちろん。放課後は劇の練習や準備にあてたいから、そこしか時間ないし」

 音楽が苦手な自分にはうんざりする。けれども勉強と同じで、助けてくれる人には恵まれている。詩絵は井藤がいつか言っていた言葉をかみしめながら、もう一度最初から音を合わせ始めた。さっきよりも少しだけ、音程がマシになった気がする。

 授業時間が終わってから、まだ楽譜を見ながら小さな声で歌っていた詩絵とひかりに、春は加わっていった。パートは違うが、詩絵の練習には協力したい。同じC組なのだから。

「ねえ、朝練するなら私もいいかな。アルトパートの音も覚えたから、ちょっとは役に立てると思うんだけど」

「春、偉い! いてくれるとありがたいなあ」

「むしろアタシからお願いしたかったよ。全然音とれなくて、さっきから笹に怒られっぱなしなんだから」

 我ながら酷いわ、と苦笑する詩絵に、春は「大丈夫」と笑う。きっと詩絵は、この状況を乗り越えられる。本気を出せば、詩絵はぐんと伸びることを、春はよく知っている。

 

 昼休みは恒例の勉強会兼報告会だ。新の薦めた問題集を解きながら、詩絵は千花の様子を窺う。特に落ち込んでいるような表情は見られない。それどころか嬉しくて、でもそれを報告していいのか迷っているようで、そわそわしている。

「千花ちゃん、何かいいことあった?」

 春もそれに気づいていて、そっと尋ねる。すると迷ったように首をひねってから、答えがあった。

「心配しないで聞いてほしいんだけど。……羽田さんがね、助けてくれたんだ」

「助けてくれた?」

「うん。パートリーダーを引き受けたのはいいけど、私じゃうまくできなくて。だから当然不満も出てくるんだけど、それを羽田さんが庇ってくれたの」

 ちょっと言い合いになっちゃって、それを止められなかったんだけど。千花はそう、申し訳なさそうに言った。千花の中では、あくまで自分の力不足が招いた出来事になっているのだと、新と詩絵は把握する。責任を背負い込みながら、物事の良い部分を見ようとするのは、千花の長所でもあり短所でもある。

「千花、たまには強く注意することも大事だよ」

「オレたちに助けを求めてもいいんだからな。今は千花の味方のほうが多いんだし」

「ありがとう。そうだよね。真面目にやってくれないなら、ちゃんと注意しなくちゃ」

 力強く頷く千花は、修学旅行以前のように現状を「仕方ない」と諦めてはいない。できること、やるべきことは、全てやってみる。一度は怖気づいてしまったが、次は自分の力で何とかしよう。認めてくれる人がいるのだから、応えなければ。

 決意を改める千花の手をとって、春が「がんばれ」と言う。その手を見ながら、千花はくすくすと笑った。

「がんばるよ。……なるほど、これが新君の気持ちかあ。たしかに春ちゃんの応援は、とっても元気が出るね」

「何言ってるんだよ、千花。当たり前だろ」

「もう、二人とも……」

 なぜか新が得意そうに胸を張り、春は照れて困ったような顔をする。そこへさらに詩絵が、頷きながら言った。

「そうなんだよね。春がいてくれると本当に心強いんだよ。歌の朝練にも付き合ってくれるし」

「もう朝練するのか、C組」

「アタシだけね。春と笹を巻き込んじゃうけど」

 新は頭の上に疑問符を浮かべ、それから思い当たったように「ああ」と呟く。そのあと口を噤んだところをみると、それなりに同情しているのだろう。腹が立った詩絵は、机の下で新の足を蹴った。

 

 放課後はクラス発表の準備だ。C組は役者メンバーで台詞の読み合わせをし、裏方メンバーが打ち合わせを始める。背後で詩絵が自分の台詞を格好良く言っているのを聞きながら、春は必要な大道具をリストアップしていた。

 必要なのは最低でも、背景となる家の中の絵と、開閉のできるドア、テーブルとイス。イスは技術室のものを借りてくるのがちょうど良さそうだ。テーブルは机を組み合わせてそれらしくするか、それとも作るか。ドアはそれらしいものを作るしかなさそうだ。

「どうせだから全部作ろうぜ。塚田、木材の申請頼む」

 春が悩んでいたところを、牧野がすぱっと決めてしまった。今回も同じ仕事に携わることになったが、牧野とはとくに気まずくなることもなく、小学校以来の友人関係が続いている。ただ、以前よりは「須藤」と話しかけられる回数は減った気がする。

「背景を描くのに時間が必要だね。テーブルは私がぱぱっと作っちゃうよ」

「任せた。他に必要な道具は……」

 大道具だけでなく、小道具も用意しなければならない。ティーセットは壊さないことを絶対条件に、家庭科室から借りることになった。道具の手筈が整っていく中、教室に役者たちの声が響く。

「部屋から出ておいで。ちょっと前まで、俺にはあんなに懐いてくれてたじゃないか」

 少し低めに声色を変えた詩絵が台詞を読み上げるたびに、女子がうっとりする。この劇の主人公はいじめがきっかけで引きこもるようになってしまった少女なのだが、それを説得する主人公の姉の彼氏は、思った以上に格好良いものになりそうだった。台詞も登場シーンも少ないのに、存在感がある。

「詩絵ちゃんの男役、やっぱり良いね」

「加藤は男より男前だからな。見ろよ、父親役の浅井より貫録あるぜ」

 他クラスの女子からも期待されているらしく、ときどき教室を覗いていく。このまま本番を迎えたなら、今年のヒーローは詩絵で決まりだろう。それくらい注目されている。当の詩絵は複雑そうな表情をしていた。

「須藤は何かの役やろうとは思わなかったのか? 舞台に立ったら入江が喜ぶだろ」

 牧野が唐突に新の名前を出したので、春はびっくりして、慌ててぶんぶんと首を横に振った。

「私が舞台なんてだめだよ! 小学生の時の『村の子供2』でさえ緊張しちゃってちゃんとできなかったんだから。新に変なところ見せたくないもん。それに、私ものづくり好きだし……」

「わかった、わかった。変なところ見せたくないとか、本当に入江のこと好きなんだな」

 顔真っ赤だし、と意地悪く笑う牧野を睨みながら、春は思う。そういえば、新も「春は舞台には出ないのか」と言っていた。舞台で、詩絵のように堂々と演技ができたなら、それによって新を喜ばせてあげることができただろうか。春の晴れ姿を、見てくれただろうか。

 そんなことを考えていたとき、突然教室の外から叫び声が聞こえた。高い、女子生徒の声だ。それが誰のものなのか、どこから聞こえたのか、春にはわかった。詩絵も同じことを思ったようで、二人は顔を見合わせた。

 

 A組では修学旅行の写真や感想文などを厳選して、まとめる準備をしようとしていた。これを展示できる状態にするのだが、選ぶ段階で難しい。全四日間の行程で、何を中心に報告するか。大きなイベントはもちろんのこと、旅の途中であったちょっとしたことも加えなければならない。

 たとえばバスの中でやったゲームは、それぞれのクラスで違うらしいので、他のクラスから情報を集めてくるという作業が必要だ。

 そもそもA組のゲームは、結果的には面白い似顔絵が完成したということで終わったことになっているが、その裏では陰湿ないじめが行なわれていた。

「後輩のためにも真実を伝えた方がいいと思う」

 これからエピソードをまとめようというときに、藤原がそう発言した。クラスの空気は一瞬にして凍りつき、藤原のとりまきだけがにやにやしていた。

「一日目のバスの中で、佐山さんが園邑さんを無視しろって書いた手紙を寄越して来たこと、みんな憶えてるよね。そういう悲しい事件があったってこと、後輩たちが繰り返さないように、ちゃんと伝えるべきなんじゃない?」

 藤原はターゲットを佐山に絞ってきた。手紙の内容を知っていながら回し続けた自分たちのことは棚に上げ、発端である佐山だけを責めるように仕向ける。当の佐山は俯いたままだ。

「先生たちは何も言わずに、この事実をなかったことにするつもりだよ。それじゃ園邑さんが可哀想。佐山さんに逆らえずに、いじめられてたのに……」

 藤原は必死に訴える。泣きだしそうな声で、千花のほうを見る。千花はあわてて「そんなことない」と首を横に振った。

「私、全然気にしてない。佐山さんは謝ってくれたし、修学旅行報告に入れるようなことじゃ」

「園邑さん、無理しないで。いじめ、つらかったでしょう」

 音楽の時間に千花を「偉そう」と言ったその口で、藤原は猫なで声で千花の言葉を遮る。それから佐山に視線を注ぎ、「だから」と続けた。

「真実はちゃんと公表しないと。そう思わない?」

 この状況に我慢ができなくなった誰かが、大きく息を吐いたのが聞こえた。何か言おうとしたのかもしれないが、その前に佐山が口を開いた。

「勝手にすれば。本当のことなんだし」

 言い捨てた言葉が、藤原の口角をあげた。クラスの多くの生徒は、この状況に戸惑っている。だからすぐには何も言い返せない。「真実」という言葉に、正しささえ覚え始めた者もいる。顔を見合わせて、声には出さずに「どうしようか」と言い合う。

「佐山ちゃんだけが悪いんじゃないじゃん! みんなだって手紙まわしたでしょ?! 藤原さんだって!」

「一緒に面白がってた羽田が言う? サイテー」

 羽田の反論も、藤原とそのとりまきに取り上げられてしまう。それをきっかけに、「そうだよね」「羽田もやってたよな」と声が上がりはじめる。藤原が全部言ってくれるから、とりまきはただクスクス笑っているだけでいい。佐山は黙って項垂れ、羽田は勢いで立ち上がったまま顔を真っ赤にして、動けない。クラスメイトも、職員室へ服部を呼びに行こうとすらしない。

「やめてよ! 藤原さん、もうそんなのいいから!」

 千花が叫んでも届かない。「可哀想な」目にあった当人だから。千花のような被害者を出さないために真実を公表するべきだと思い始めた生徒達の耳には、それが千花の強がりや優しさにしか聞こえず、だからこそ「助けたい」という気持ちを助長させる。

 ここで必要なのは、投げやりになってしまった当人、被害者として認定されてしまった者の声ではなかった。

「藤原さん。それ、千花のためじゃないだろ」

 ざわめきだした教室内を再び静寂に戻したのは、新だった。立ち上がり、藤原を見据え、つとめて冷静な口調で話しだす。

「そんなの、ただ千花を晒し者にして、佐山さんを悪者に仕立て上げるだけだ。そんな展示の何が後輩の役に立つっていうんだよ。藤原さんのやろうとしてることは、いじめの続きだ」

「入江の言う通りだよ。それに藤原の言う『真実』は間違ってる」

 そこに沼田が加勢する。我に返った筒井も、「そうだそうだ」と囃し立てた。それがさっきとは違うざわめきを生む。男子は新の意見に同意しはじめ、小日向たち吹奏楽部の女子もそれに加わる。「悪いの、佐山さんだけじゃないじゃん」「わたしたちだって手紙まわしちゃったし……」と、複雑な気持ちが入り混じる。悪者になるのは、佐山だけではないのだ。自分たちを脅かすような危険を冒したくはない。――「真実」は、いじめがあったことと、A組の誰もがそれを見て見ぬふりをしてきたということ。そんなことが公になったら、一大事だ。文化祭当日には、後輩たちだけでなく、保護者らのような一般のお客さんも来るのに。

 こちらが劣勢とわかったのか、藤原は小さく舌打ちをしてから、しおらしく「そっかあ」と言った。それが合図となって、とりまきも笑うのをやめる。

「あたしはただ、園邑さんが可哀想って思ったんだけど。みんながそこまで言うなら、展示は当たり障りのないものにしたほうがいいね」

 棘の残る言葉で、その場はおさまった。それと教室の戸が開いたのは同時で、みんな一斉にそちらを見る。そこには職員室にいるはずの担任、服部がいた。

「クラスが騒がしいという報告があったんだが」

 知らせたのは、この異常に気がついた詩絵と春だった。二つ先のクラスまで聞こえる叫び声――それは羽田のものだった――なんて、尋常じゃない。クラスメイトに断りを入れて、二人は職員室へ走った。呼んでくるのは服部でも、井藤でも、先生なら誰でも良かった。ただ、この騒ぎがおさまれば。

「ごめえん、服部さん。つい議論が白熱しちゃって」

 藤原がいけしゃあしゃあというので、新はまた口を開きかけた。けれども佐山が「そう、なんでもない」と相槌を打ったので、何も言えなくなってしまった。千花と顔を見合わせ、このことは黙っていることになった。

 服部は異常を察しながらも、これ以上の追及はしなかった。「議論は静かにやるように」とだけ言って、職員室へ戻っていく。

 結局、例年通りの写真と作文を並べての、「当たり障りのない」展示をすることに決めて、A組のその日の準備は終わった。

 その後の吹奏楽部の文化祭講演練習のとき、千花は小日向たちから謝られた。そして彼女らの正直な気持ちを聞いた。

「入江君がああやって言わなきゃ、藤原さんのいうことに賛成するところだった。……そうだよね、もう佐山さんたちと園邑さんはなんでもないし、文化祭で報告するようなことじゃないものね」

 佐山たちは千花に謝った。だから、もうそのことは解決していて、触れる必要はない。千花は小日向たちに頷いて、はっきり返した。

「私、可哀想なんかじゃないよ。だからみんなで、楽しい文化祭にしよう」

 

 

 準備期間の途中に学力テストを挟み、その結果に一喜一憂しながらも、当日は近づいてくる。合唱の練習も佳境に入ってきて、パートごとの練習よりも全員で合わせることが多くなってきた。C組は浅井の指揮で校歌と自由曲の全体練習を始めたが、アルトパートから調子外れな声が聞こえてくるので、やむを得ず途中で止めることがしばしばある。

 そのときの浅井の表情といったら、申し訳ないような、でも笑いを堪えているような、何とも言えないものになっている。

「はっきり言ってくれたほうが楽なんだけど」

 詩絵が顔を赤くして言うと、浅井は「ごめん」と返す。その肩はプルプルと震えていた。二人とも可哀想になってきたのか、ひかりがずばりと言ってしまう。

「詩絵、せめて指揮に合わせて歌いなよ。もう音痴は仕方ないから」

「合わせてるつもりだよ! 指揮は見てるから!」

 音程だけでなくリズム感も危うい詩絵は、指揮に少し遅れて声が出る。おかげで合唱からは浮いてしまい、そんなときは一旦止めるより方法がなかった。去年は本番までに間に合わせたのだが、一年経ってしまうとまた追いつけなくなる。これでも練習が始まったときよりは、随分とマシになったのだ。

「加藤、朝練やってるんだっけ。音程は合ってきてると思うよ。もともと反射神経は良いんだから、指揮に遅れないように練習しようか。俺も手伝う」

 浅井が言うと、塚田がぼそりと「やるじゃん」と呟いた。

 詩絵が失敗をしても誰も責めないのは、日頃の行いが良いからだ。なかなか合唱の練習が進まなくても、「仕方ないか」と流してくれる。ちょっと不満があっても、気心の知れたひかりたちが代わりに言ってくれるし、詩絵も素直に受け入れて努力するので、ちゃんと解消される。それでも万が一詩絵が悪く言われるようなことがあれば、春やひかり、浅井がやめさせるつもりだ。

「気持ち早めに、でも走らないように。加藤はそれを意識して。それからバス全体、もう少し声出して大丈夫。ソプラノとのバランスとりながら、もう一回やってみよう」

 す、と浅井が手をかまえると、C組全員の視線がそこに集まる。言われたことを心の中で繰り返しながら、詩絵は口を大きく開いた。

 

 千花ばかりが目立つ。A組の指揮者をつとめる沼田が、通し練習で指摘したのはそれだった。ソプラノパートは相変わらずやる気のある者とない者の差がはっきりしている。藤原と仲のいいメンバーは練習すらもまともにしようとはせず、千花が何を言っても聞く耳を持たない。せめて自分ががんばって歌おうと千花が声を出せば、もともととびぬけて歌が上手いので、一人だけが目立ってしまうのだった。

「だからさ、園邑さん。一人だけ上手くても駄目なんだよ。俺も最初は先生の言ってることがよくわからなかったけど、今理解した。ソプラノがリードしなきゃいけないのに、全然息が合ってない」

「沼田、そういう言い方ないだろ」

「言い方、ってことは入江もわかってるんだろ。上手いのは悪いことじゃない。でも、パートリーダーならパートの全員がちゃんと歌うようにしないと、責任を果たしたことにならないよ」

 新の抗議に、沼田は冷たく言い放つ。千花は俯かずに、けれども唇を噛みながら、それを聞いていた。その表情を確認するように見てから、沼田はもう一度口を開く。

「当然、パートリーダーがちゃんと働けるように、協力するのが他のメンバーだ。俺は園邑さんだけを責めるわけじゃない。ソプラノ全体がおかしいんだ。藤原と青野と山谷、お前ら真面目にやってないだろ。約半数が不真面目で、残りはろくに声出しができてない。そんなので合唱なんかできるわけがない」

 苦言が刺さり、羽田らは思わず胸を押さえる。藤原とそのとりまきは、名指しされたことに腹を立てて、舌打ちをした。千花はその様子を見て、沼田に向かって言った。

「ごめんなさい、私がリーダーとしてちゃんとしてないから。だから全部私の責任で」

「聞いてなかった? 全部じゃないんだよ。互いに真面目にやろうとしなくちゃ、こんな練習無駄なんだ。もう一度言うよ、園邑さん。一人だけ上手くても駄目なんだよ」

 無駄だの駄目だの、きつい言葉を並べる沼田だが、それは彼が指揮者であり全体のリーダーであるという責任を背負っているからだ。千花も言うべきところはきちんと言わなければと思ってやってきたが、藤原たちにはどうせ千花だからと侮られている。実際、修学旅行のときに佐山たちに立ち向かったような気迫は、今の千花にはなかった。

 授業時間が終わってから、新は千花に駆け寄った。音楽室の自分の席で考え事をしていたようだった千花は、新に名前を呼ばれて笑顔を浮かべた。たぶん、いつものとおりに笑ったつもりだったのだろう。けれども新には、元気がないのに無理やり表情を作っているように見えた。

 こうなる前に、せめて詩絵に相談できれば良かったのかもしれない。けれども最近は、学力テストの勉強や、それと入れ替わるようにして入ってきた昼休みの文化祭準備があって、それもできなかった。加えて千花自身が、詩絵や春に心配をかけたくなかったのだろう。

 練習が佳境に入ってきた現在、パートが違うと練習に使わせてもらうスペースも細かく分けられるようになった。だから新すら合唱練習中の千花をほとんど見ておらず、ソプラノパートで何が起こっているのか把握できていなかった。

 あんなにひどい状態になっているなんて、知らなかった。気づかなかった。いや、気にするのを忘れていた。服部から、千花のことを気にしておくように言われていたのに。最近だって、ずっと千花にとってよくない状況が続いていたのに。詩絵や春が傍にいられないなら、一番近くにいる自分が何とかしなければならなかった。

「千花、無理してるんじゃないか? やっぱり……」

 パートリーダーなんか辞めてしまったほうがいいんじゃないか。そう言いかけて、詩絵の台詞が頭によみがえる。「辞めさせないこと」と言っていた。「やるっていったらやるよ、千花は」と強い瞳で新に告げた。

 言い淀んだ新に、千花は困ったように笑って、自分からその言葉をこぼした。

「やめたほうが、いいのかな」

 新自身が言おうとしていたはずなのに、本人の口から聞くと、胸に重いものを落とされたような感覚に陥った。千花がこんなことを言うとは思わなかったなんて言葉が、ふっと頭を掠めていった。

「私、みんなに迷惑ばっかりかけてる。私がリーダーじゃなかったら、藤原さんたちはちゃんと歌ってたかな。山谷さんも、サブリーダーを気持ちよく引き受けてくれたかな。もしかしたら、私より良いリーダーになってたかもしれないね。……こんなんじゃ、推薦してくれた小日向さんや佐山さんにも、申し訳ないなあ」

 そんなことない、なんてどの口が言えるんだ。さっきまで、辞めさせようとしていたのは新だったのに。

 だったら、言えるのは誰だ。千花の決めたことを信じて、千花ができると信じていたのは。

「……新君?」

 気がついたら、新は千花の手をとって歩いていた。三年生の教室が並ぶ廊下の、A組の前を通り過ぎて、C組の戸を開ける。ちょうど時間は昼時で、給食の準備が始まっていた。誰もが驚いて動きを止め、新と千花に注目する。もちろん、詩絵と春も。

「ちょっとどうしたの、新? 千花も」

「何かあったの? なんか新……」

 怖い顔してる。春はなんとかその言葉を飲み込んで、二人の前に立った。千花が戸惑っているのを見て、春はもっと混乱する。それから、最近あまりこの二人に会ってないことに気がついた。朝は詩絵の歌の練習に付き合い、休み時間ごとに劇で使う道具の準備をして、昼休みと放課後もクラスでの活動に集中していた。そのあいだに、新が怒るほどの何かがあったのだ。

 新は千花の手を握ったまま、詩絵に向かって言った。

「昼飯を食べ終わってからでいい。少しだけでいいから、時間をくれないか。オレにはどうすればいいのかわからない。千花を助けられないんだ」

「いいよ、そんな……詩絵ちゃんにまで迷惑かけられないよ。新君だって、私のことなんか気にしなくていいんだよ」

 千花は笑って流そうとして、口元を歪めた。詩絵はその様子を見て、小さく息を吐く。それから新と千花の肩を軽く叩いた。

「千花はあとでアタシが迎えに行く。だからまず、お昼食べてきなさい。お腹が空いてたら、落ち着いて話もできやしない」

 そのタイミングで、どこかから「ぐう」と音がした。あわててお腹を押さえたのは、詩絵の後ろで神妙な顔をしていたはずの春だった。新の表情が一気に緩み、千花もやっと自然な笑顔を浮かべる。そのまま詩絵は二人を押し返して、戸を閉めてから、春に向かって親指を立てた。

「ナイスタイミング」

「こんなのナイスじゃないよー……。でも、何があったんだろうね。新があんなに怒るなんて……」

 あんなに、千花の手を強く握って。千花を助けようとしていた。そのために詩絵を頼ってきたのだ。春の心に、もやもやしたものが残る。

「A組が良く無い状態なのはわかってたのに、千花や新と話してなかったからなあ。まあそういうわけだから、今日の昼練ちょっと抜けさせてくれる? その分放課後と明日の朝はがんばるから!」

 手を合わせて頼む詩絵に、ひかりをはじめとするクラスメイトはみんな、しかたないなあというふうに頷く。詩絵がたくさんの人に頼られることは知っているし、みんなそんな詩絵が好きなので、このくらいのことは許してくれる。

「詩絵ちゃん、私も……」

「春はみんなといなさい。新にも待っててもらうつもりだから。あ、別に春や新が必要ないって言ってるわけじゃないんだよ。二人とも優しいから、千花にびしっと言ってやれないでしょ」

「びしっと言うの?」

 話を聞いていなくても、最近なかなか会えなくても、詩絵には何が起こっているのかわかっているようだった。春にはそれを読むことができなくて、もどかしい。修学旅行のときは千花に助けてもらったのに、千花のためにしてあげられることがない。春はいまだに、恩返しができていなかった。

 あのとき、佐山の追及から救ってくれたときの千花は、堂々としていて格好良かった。一歩も引かず、春を守ってくれた背中は、頼もしかった。だから千花が合唱のパートリーダーをすると聞いたときには、絶対にできると、立派に務め上げるだろうと思っていた。でも。

――そういえば千花ちゃんは、リーダーがうまくできないっていってたっけ。

 新が「助けを求めてもいい」と言っていたけれど、千花はそうしたのだろうか。また一人で背負い込んでしまってはいなかっただろうか。だから新は、あんなに焦って、千花を連れてきたのではないか。

 詩絵はさっさと給食を食べ終えて、A組の教室へ行ってしまった。春はそれを、手を祈るように組んで見送った。

 

 ついて来ようとした新を止めて、詩絵は千花をA組の教室から連れ出した。千花は遠慮がちな笑みを浮かべていたが、あまり人の来ない階段の踊り場まで来て、それもできなくなった。

「リーダー、うまくいってないの?」

 詩絵がいきなりそう切り出したので、いつものように「大丈夫」と笑ってみせることができなかった。ごまかしがきかなくなった千花は、躊躇ってから、頷いた。

「練習しようって呼びかけても、集まらないの。朝の練習には、羽田さんたちも来られなくて。音楽の時間の練習も、藤原さんたちはお喋りしてて……ちゃんとやろうって言っても、聞こえてないみたい。だから私だけでも大きな声で歌わなきゃって思ったんだけど……」

 それでは駄目だった。最後まで言わなくても、詩絵にはわかっていた。そんな状態になっても、千花は自分を責めるばかりで、誰かに相談しようともしなかった。現状を打開する方法を見つけられなかった。

「藤原たち、やっぱりいうこときかないか。でも合唱だもんね、千花が一人だけがんばってても、そりゃあ良くはならないよね」

「うん。……私、詩絵ちゃんだったら良かったなあ。そうしたら、きちんとパートのみんなをまとめられたのに。きっと、かっこよくできたのに」

 はは、と千花が乾いた笑いを漏らした。そんな千花に、詩絵はきっぱりと言った。

「駄目だよ、それじゃ。千花はアタシじゃないんだから」

「……そうだよね」

 千花はずっと、詩絵のようにできたらもっとうまくいくのではないかと思っていた。でも、自分は詩絵ではないから、はっきりとものを言えないし、信頼も得ていないから、そんなふうにはできないとも思っていた。

「詩絵ちゃんじゃないんだもん、私にパートリーダーなんて無理だったんだね。推薦してもらって、舞い上がっちゃってた。それでみんなに迷惑かけて、どうしようもないよ」

 そう自嘲すると、詩絵が深く溜息を吐いた。呆れられたな、と思って、千花は俯く。身の丈に合わないことをしようとしたばっかりに、クラスメイトにも、友人にも、迷惑をかけてしまった。やっぱりパートリーダーは辞めよう。今更辞めるだなんて言ったら非難されるだろうけれど、サブリーダーをしている山谷にまとめてもらえば、藤原たちも真面目に練習をするだろう。そのほうが、現状よりもずっといい。

 千花がそう言おうとする前に、詩絵が口を開いた。

「アタシは自分が千花なら良かったって、最近ずっと思ってるよ」

 とても静かな、水の底にゆっくりと沈んでいくような、およそ詩絵らしくない声だった。

「それって、どういう意味?」

「そのまんま。アタシさ、千花も知っての通り、絶望的な音痴じゃない? それなのに声ばっかりでかくてさ。そのせいで全体練習がなかなか進まなくて、ときどき一人だけ隔離されて練習してんの。朝練には指揮者やってる浅井までつきあわせて、せめてリズムだけでもちゃんととれるようにしようとしてるんだ。もうみんなに迷惑かけまくり」

「でも、詩絵ちゃんになら、みんな協力するよね。好かれてるもん」

「手間をかけさせてることはかわりないよ。だって、アタシなんか放っておいて、声を小さくしてごまかすようにさせるとかでもいいんだよ。一番いいのはアタシがちゃんと歌えるようになることだよね。千花みたいにきれいな声で、完璧な音程とリズムで。だからアタシは千花になりたい」

 詩絵が神妙に言うものだから、千花は困ってしまった。何と返していいのかわからず、えっと、とか、その、とか繰り返していると、不意に詩絵が「ね」と声をあげた。

「こんなこと言われても、困るでしょ」

「……そう、だね」

 おかしなことを言って、詩絵を困らせてしまったのか。千花はさらに肩を落とそうとしたが、詩絵の言葉がそれを止めた。

「千花さ、ぶち切れちゃえばいいじゃん。修学旅行のとき、佐山にやったみたいに。春を助けたときみたいに、いいかげんにしてって叫んで、思いきり睨んで。それで藤原たちが簡単にいうこときいてくれるとは思わないけど、侮られることはなくなるでしょ」

「え、で、でも……それで余計にこじれちゃったら」

「はっきり言って、これ以上こじれることはないよ」

「う……そうかも」

 よくある雑談をするのと同じ調子で、詩絵はばっさばっさとものを言う。そんな詩絵に合わせて、千花も顔をあげた。でもまだ元気は出ないところに、詩絵がばんっと背中を叩いた。

「しっかりしな、千花。推薦してもらって、嬉しかったんでしょ。やりたいって思ったんでしょ。だったら最後までやり抜くのが、責任ってもんじゃない?」

「いたた……。そうだね、詩絵ちゃんの言う通りだよ。私には無理かもって思ってたけど、本当は、逃げたかったんだね。うまくいかなくて、いやになっちゃったの。そんなの、わがままだよね」

 リーダーなんて、初めて任された。以前は仲が良くなかった人からも認められたようで、嬉しかった。張り切りすぎていたのかもしれない。いきなり理想を高く持ちすぎたのかもしれない。そのせいで最低限のこともできなくなるなんて。呆れを通り越して、笑ってしまう。

「最後まで……本番の最後の音まで、がんばってみる。小日向さんも、佐山さんも羽田さんも、新君も、みんな味方だもの。私のために声をあげてくれたんだもの。がんばらなきゃ、失礼だよね」

「その意気だよ。あとね、何かあったら、ちゃんと服部さんに言ったほうがいいよ。服部さんも『俺は生徒に頼りないと思われてるのか』なんて悩んでたから。ほら、展示の内容で揉めてたとき」

 そういえば、展示で揉めたときに服部を呼んでくれたのは、別のクラスにいたはずの詩絵と春だった。あとでそう聞いたのだ。まさかそんなことまでこぼしていたとは思わなかったが。これからはたとえ一部に「チクられた」などと陰口を叩かれても、服部に相談しようと千花は思った。A組の担任である以上、無関係では絶対にないのだから。

 ようやく自然な笑顔を取り戻した千花に、詩絵は「そういえば」と切り出した。

「羽田もソプラノで、千花に助け船を出そうとしてくれてたんだよね。それ以来、特に動きはないの?」

「そういえば羽田さん、展示の話し合いのあとから、元気ないかも……。合唱のときもなかなか声が出なくて、展示の準備のときも……」

「それに対して佐山は何か言ってる?」

「それが、佐山さんもおとなしくて……というより、やっぱりなんだか元気がないみたい」

「ほーう……?」

 詩絵は何やら思案して、それから人差し指をぴんと立て、千花に言った。

「千花、明日の朝、ソプラノパートの朝練をすることを提案してみて。藤原とそのとりまきは断るかもしれないけど、そうしたらそいつらからは引いていいから。でも、羽田とか、ちゃんと練習をしてくれる子にはなんとしてでも集まってもらって、これまでの分を取り戻そう」

「え、うん……。わかった、がんばってみる」

 千花は力強く頷いた。パートリーダーを引き受けたときと同じ、いや、もっと誇らしい気持ちで。こんなに素晴らしい友達が、親友が、傍にいてよかった。

 だから藤原たちに翌日の朝練の話を持ちかけて、「そんなのめんどくさーい」と断られても、全然平気だった。新に励まされ、放課後のちょっとだけ空いた時間で詩絵と春に朝練を一部だけでやることを報告して、また励まされた。特に春は心配してくれていたようで、千花をぎゅっと抱きしめてくれた。「助けてあげられなくてごめんね」とも言われた。

「春ちゃんが謝ることなんて、何一つないんだよ。私が弱かったの。勝手に独りになってたの」

 千花は春の温かさを、大切に受け取った。

 

 翌朝、まだ早い時間。昇降口に三人組の影があった。くすくすと笑いながら、下駄箱から上履きを取り出すと、それを持って歩いていく。その子らの足は、もう上履きをきちんと履いていた。手にしている上履きは、昇降口前にある廊下のゴミ箱へ――。

「おはよう、藤原。あと青野と山谷も」

 突然かけられた声に、三人の影――少女たちはびくりと肩を震わせた。声の主は、彼女達もよく知っている。

「千花が朝練やろうって言ったの断ったくせに、妙に早い登校だね。あとそれ、どうするの?」

 今まさにゴミ箱に捨てられようとしていた上履きを指さして、詩絵は尋ねる。返事を待たずに、言葉は続いた。

「捨てようとしてた上履き、羽田のだよね。で、山谷が持ってるほうが佐山の。アンタたち、最近ずっと二人に嫌がらせしてたんだね」

「……待ち伏せしてるなんて、羽田あたりがチクったの?」

「誰もチクったりなんかしないよ。アタシがここにいるのは、あんまり音痴だから朝練でもして矯正しなきゃいけないから。今日はちょーっと早く来て、自主練始めてようかと思ったんだよね。だからただの偶然。……偶然だけど、見過ごすつもりはもちろんない」

 詩絵の鋭い眼光に慄き、藤原は後退る。上履きは手から離れ、床の上に落ちた。山谷は持っていた上履きを放り投げ、その場から逃げ出そうと振り返った。しかし。

「あれ、山谷さん。藤原さんと青野さんも……もしかして、朝練来てくれたの?」

 そこには驚いた顔をした、千花がいた。早く来て準備をしておくつもりだったのを、昨日詩絵たちには話してあった。

「千花、おはよう。さっそくだけど、服部さん呼んできてくれる? もう職員室にいるはずだから」

「あ、詩絵ちゃん。おはよう」

 詩絵の指示に首を傾げながら、千花はとりあえず挨拶を返す。それからふと床を見て、上履きが転がっていることに気がついた。踵のところに「佐山」と書いてある。その向こうにあるものには「羽田」。どうしてそんなものが、こんなところに落ちているのだろう。

「……藤原さんたち、何してたの?」

 近くにはゴミ箱がある。上履きは擦ったような汚れがついていて、それがたった今ついたものではないことが千花にもわかった。脳裏に、ずっと元気がなかった佐山と羽田の顔が浮かぶ。その原因は、もしかして。

「何してたの?」

 もう一度、今度はもう少し語気を強くして尋ねた。山谷と青野は顔を見合わせて黙り込んだが、藤原は自棄を起こしたように千花に向かって怒鳴った。

「園邑、あんた佐山と羽田にいじめられてたよね?! だからあたしたちがいじめ返してやってんのよ! あいつら急に良い子ぶって、本当にイラつく。なんにも言わないあんたもムカつく!」

 千花はきゅっと唇を結び、肩で息をする藤原を見ていた。ほんの数秒そうしていただけなのに、まるで何分も黙って立っているようだった。

 それから、千花は山谷の横を通り過ぎて、落ちている靴をそっと拾った。ゴミ箱の傍にあったものも拾い上げ、胸に抱える。制服が汚れるのも気にせずに。そして真横にいる藤原にもう一度目をやった。

「……何よ。文句でもあるの?」

「あるよ」

 藤原の問いに、千花は即答した。上履きを抱きしめて、静かに、けれどもどこか抗いがたい迫力を感じる声で、続けた。

「いじめ返すなんて、何の意味があるの。佐山さんと羽田さんを傷つけて、誰が得するっていうの」

「あんたがされてたことを、やり返してるだけでしょ」

「そんなことしないで!」

 高い声が広い空間に、わん、と響いた。藤原が、青野と山谷が、驚いて目を見開く。詩絵はそれをただ見て、そしてそっとその場を離れた。

「なんでよ。あんた、佐山たちが憎くないの?」

 やっと言い返した藤原の声は震えていた。千花に見つめられ続けて、胸が締め付けられるように痛かった。少しも視線をそらさずに、千花は答える。

「憎くなんかないよ。もう気にしてないんだから、憎む必要ないもの。こんな卑怯なことをする理由なんかない。私はね、藤原さん……私になら何しても気にしないでいてあげるけど、私の友達を傷つけた人は、心から謝るまで絶対に許さないよ」

 青野と山谷が泣き始めた。ごめんなさい、ごめんなさいと呟きながら。藤原は声も出なかった。それくらい、本気で怒った千花は恐ろしかった。瞳に炎が燃えていて、その炎に焼かれてしまいそうで、総毛立つくらい怖かった。ただ、そこにいて、こちらをじっと見つめてくるだけなのに。

 そのとき、玄関が開いた。やってきたのは、三年A組のソプラノパートの面々だった。羽田もいる。羽田に寄り添うように、ソプラノではないはずの佐山の姿もあった。

「園邑、何やってんの……」

 目の前に広がる光景にぎょっとして、佐山が口を開く。その声にハッとした千花は、そこから離れ、佐山と羽田に靴を差し出した。

「おはよう、佐山さん、羽田さん。……ごめんなさい。靴、持ったままだった」

「靴? ……ああ、フジたちが捨ててたやつね。わざわざ取り返して説教してたの?」

 佐山は毎朝藤原たちに靴を捨てられていることを知っていた。羽田はショックを受けて人に言えずにいたが、佐山はこうされるのも当然のことだと受け止めて、特に誰かに言ったりはしなかった。このまま知らないふりをしていれば、卒業までには終わるだろうと思っていた。

 まさか千花が動くなんて、思ってもみなかった。

「説教なんてしてないよ。ただ、許せなくて怒っちゃって……」

「それを説教っていうの。まあいいや。フジ、あたしはどうでもいいから、はねちゃんには謝って、もう二度としないって約束してくれる? その様子じゃ、そうしたほうがいいって思ってんでしょ?」

 靴を受け取りながら、佐山が言う。羽田はおどおどと千花、佐山、藤原を順番に見ていた。そこへ青野と山谷が駆け寄ってきて、勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさいっ!」

「もう嫌がらせとか二度としないから! だから許して!」

 羽田はしばらく戸惑ったあと、「うん、いいよ」と答えた。藤原がよろよろとこちらへやってきて、「ごめん」と呟くように言ったのと、詩絵が職員室から呼んできた服部とともにやってきたのは同時だった。

 

 結局その日の朝、A組のソプラノパートの面々が練習をすることはできなかった。服部からのきつい説教で、朝のホームルームまでの時間は潰れてしまったからだ。服部に連れられて教室に入ってきた女子の一部は泣いていて、その後ろを千花と羽田、そして佐山までもが真面目な顔で歩いてきたのを見て、新は何があったのかと混乱した。

 だが、ホームルームで服部が「何か気になることがあったら報告するように」と念を押したのを聞いて、ソプラノパートのメンバーのあいだで何か決定的なことがあったのだということは理解した。青野と山谷がしゃくりあげ、藤原が顔を蒼くしているところを見ると、これまで不真面目だったことが服部に知れて叱られたのかもしれない。

 ということは、詩絵に励まされた千花が、動いたのだ。こっそりと見たその表情は堂々としていて、昨日みせた弱々しさなどかけらもなかった。そのかわり少し鳥肌が立ったのは、新がこれまでに見たことのないような顔をしていたからだ。あのいつも笑顔の千花が、今朝は微笑みすら浮かべていない。たぶん、怒っている。

 けれどもそれは朝だけで、一時限目の授業が終わってから話しかけたときには、千花はもういつものにこにことした朗らかな女の子に戻っていた。首を傾げて、「どうしたの、新君」と普段通りに応えてくれる。

「今朝、何かあったのか? 朝練するって言ってたけど、どうなった?」

「うん、練習はできなかった。だからお昼にしっかりやるよ」

 はっきりとそう言った千花に、もう悩んでいる様子や憂いはない。そして宣言通り、昼休みにソプラノパートのメンバーは練習をしていた。千花の指示のもと、声を揃えて。それはクラスの誰もが初めて見る、きちんとした練習の光景だった。

 一方、春も朝のうちに、詩絵からことのあらましを聞いていた。練習のあとに、ほんの少しではあったけれど。

「千花ちゃん、怒ったんだ。本気で怒ったら、迫力あるもんね。藤原さんたちもたじたじだったんじゃない?」

「アタシは途中までしか見てないけど、少なくとも青野と山谷は泣くほど怖かったんだろうね。……まあ、それだけじゃないだろうけど」

 きっと上靴を捨てていた彼女らには、罪悪感があったのだろう。うわべでは藤原の言う通り、「かつては佐山たちがやっていたことだから」と思っていたのかもしれないが、本心は後ろめたかったのだ。自分たちがやっていることが許されないことだと、わかっていたのだ。

 ぶち切れちゃえば、と千花に言ったのは詩絵だ。そのきっかけになりそうなことに思い当たって、服部に職員室で待機してくれるよう頼んだのも。でも、千花が本当に本気で怒って、それに藤原たちが慄いたのは、正直なところ予想以上だった。

「とにかく、今日からはちゃんと練習するでしょ。千花も今までより楽に主導権を握れるだろうし。服部さんもやっと仕事ができて、内心ほっとしてるんじゃない?」

「そうだね。服部先生の悩みまで解決できたし、あとは一所懸命に練習するだけ。A組、さらに強敵になっちゃったね」

 私たちもがんばらなくちゃ、と拳を握った春の表情は、意気込むというより、安心していた。千花の、友達の悩みが解決するのは嬉しいことだ。でも、きっとそれだけではない。

「千花の件は解決したから、新が千花にかまいすぎることもなくなるんじゃない? もう手を繋いで乗り込んでくるなんてことはないだろうから、春もやきもち妬かなくて済むよ」

「な……っ、詩絵ちゃん、私、そんなこと」

 考えてない、と言いきれるだろうか。新が千花の手をとってC組に来たとき、動揺したことは否定できない。繋いだ手から目を離せなかったのは、事実だ。新が千花のことで必死になっているということが、あんな状況だったのに、羨ましいと思ってしまった。

「……やっぱり、私、最悪だね。千花ちゃんは大変だったのに、新に心配してもらえていいなって、ちょっとだけ思っちゃった」

 正直なところを詩絵に打ち明けると、思い切り背中を叩かれた。痛くて、ああ怒られたのかな、なんて思いながら表情を伺うと、詩絵は明るく笑っていた。

「素直でよろしい! でもそんなに落ち込む必要はないよ。新の考えてることの八割は春のことだし、それに」

 そっと春の耳に口を近づけ、詩絵は囁く。

「誰かのために必死になる新を見て、かっこいいとも思ったんじゃない?」

 だから余計にやきもち妬いたんだよ。その詩絵の言葉は、春の気持ちにかちりと当てはまった。

「うん、そうだね。……すっごく、かっこよかったなあ」

 噛み締めるように言うと、詩絵に肘でつつかれた。顔を真っ赤にしながら、春はもう一度思い出す。ちょっと怖かったけれど、千花のために一所懸命だった、新の格好良かった瞬間を。

 

 

 合唱の練習も大事だが、他にもやらなくてはならないことはたくさんある。C組では劇の稽古が、もう通しで行なわれるようになっていた。歌はまだまだの詩絵だが、台詞を口にし少し大げさな身振りをする姿は、それでもばっちり決まっていて、誰が見てもうっとりする。出番はほんの少しなのに、そのほんの少しを見るためにわざわざ作業の手を止めて見に行く者もいるほどだ。

「気が散ってしょうがないよ。台詞忘れるところだったじゃん」

 通し稽古が終わったあと、詩絵はため息交じりに呟いた。けれども台詞を忘れたり間違えたりということはなかったので、まったく問題はない。通りすがりの下級生たちにも見られていたようで、詩絵のファンは着実に増えていた。文化祭本番には、もっと増えるだろう。

「劇がミュージカルじゃなくて良かったね」

「ミュージカルだったら、アタシが役なんてもらってるはずないでしょうよ」

 ひかりと喋りながら、今度は衣装を選ぶ。男役なので男子から服を借りるのだが、なかなか探しているような大人っぽい服はない。かといって高校生の兄がいるという人に持ってきてもらった服は、詩絵には少々大きく、だぼついてしまう。それでは格好がつかない。いっそ作るか、と衣装担当のひかりが一度提案したのだが、クラスに割り当てられた予算も文化祭までの時間も、そんなに余裕がない。

「うーん、やっぱりTシャツに上着羽織るのが無難かな。できれば舞台映えするような明るい色がいいよね」

「チャラくなりすぎない程度にね。なんてったって役は長女の彼氏だもの。劇自体もシリアスだし」

 あれこれと話し合う二人の様子を、春は少し離れたところから見ていた。大道具は少しずつ準備を進めてきたので、必要なものは揃いつつある。たとえば、春が作ると宣言したテーブル。ベニヤ板に足をつけただけの簡単なものだが、テーブルクロスをかければいい感じになる。もうとっくに完成しているので、稽古中も使われている。背景となる部屋の壁の絵も色を塗り終われば完璧だ。

 手作りドアは、ちょっと苦戦していた。ひねることはできなくても取っ手があって、蝶番でちゃんと開くようになっているドアだ。これのために予算をかなり割いてしまった。これも枠とドアの間の隙間をほんの少し余裕を持ってとることで、スムーズな開閉ができるように工夫していた。問題はあまりに開きやすいことだろうか。いざ使ってみたら、ドアは振動を加えると勝手に開いてしまうようになっていた。設定では、引きこもり少女の部屋のドアのはずなのに。

「枠を削りすぎたな。須藤、これどうする?」

「もうちょっと慎重になれば良かったね。作りなおすわけにはいかないから、……そうだ、取っ手。今からでも回るようにできないかな。留め具をつけておいて、取っ手をひねると外れるようにして」

「そんなことできんの?」

 大道具係は男子ばかりだ。なので春は男子にまじって作業をすることが多くなる。小道具は女子で担当しているので、そちらにかかっているときは女子同士で軽くお喋りなんかしながら必要なものを用意しているのだが、男子と一緒のときは終始真面目だ。

「ええと、イメージとしてはこんな感じかな。細かい部分は客席からは見えないし、なんとかごまかせると思う」

 傍にあった紙にさらさらと絵を描いて、春が見せる。すると男子たちから、おお、と声が上がった。どうやら納得してもらえたらしい。春はホッとしながら、「なんだったら、私が作っちゃうよ」と言った。しかし。

「須藤ばっかりに作ってもらってるよな。いいよ、この図わかりやすいし、俺らでなんとかする」

 大道具を用意するのに、最も春を手助けしてくれているのが牧野だった。物を運ぶのにも「俺が持つ」と言ってひょいと持っていってしまい、テーブルを作るときも、工具や木材を揃えてくれた。そのたびに、ふっちゃったのに優しいなあ、なんて春は思っていた。きっと小学生の頃からの延長なのだろうとも。なんだかんだで、長い付き合いなのだ。

 さて、ドアに細工を加えることは決まったが、材料が少しばかり足りない。春の描いた図を見ながら、大道具担当の男子たちは相談を始めた。

「これ作るのに、追加で木材もらえねえかな。技術の授業で使った余りとか」

「他のクラスで余ってるのを分けてもらうとか?」

「そんなことしなくても、生徒会に追加申請すれば、ちょっとは融通してくれるよ。どういうのが使えるのか見たいし、それだけは私が行ってくるね」

 各クラスに割り当てられた予算は決まっているが、たしかある程度は交渉に応じてくれるはずだ。技術室に行くことはともかく、他のクラスに協力を仰ぐなんてことは、最終手段でいいだろう。さっそく春が教室を出ようとすると、牧野も「俺も行く」とついてきた。

 廊下でも各クラスが、舞台発表の準備や練習、展示物の制作をしている。それをなんとか避けながら、あるいは道を作ってもらいながら、春と牧野は生徒会室に向かった。たぶん、生徒会担当の教員が、そこに待機しているはずだ。春たちと同じように、材料などの追加の申請をしてくる生徒が来るのを、待っていてくれることになっている。

「ねえ、なんで牧野君も来たの?」

「大道具担当のリーダーが行かないでどうするんだよ。あとチビに交渉なんかできるかどうか不安」

「身長は関係ないでしょ。ていうか、交渉じゃなくて申請だから」

 じろりと牧野を睨んだ瞬間、足元に目が向いていなかったせいで、何かに躓いた。「わっ」と声をあげて春が倒れかけたところを、牧野が腕を引っ張って助けてくれる。

「ほら、こういうときとか」

「……ありがとう。でも今のは牧野君のせい……」

 もしも四月に新から告白されなかったら、つまりは新と出会っていなかったら、春は牧野の告白を受け入れていただろうか。いや、現状でどう考えても、牧野は気の知れた幼なじみだ。たまには頼りになるけれど、基本的には春をからかってばかりだし。

「相手が入江だったら、そんな文句言わなかったか?」

 今もこんなことを言って、春をぎくりとさせる。

「そ、そもそも新はチビなんて意地悪なこと言わないもん。文句を言う理由がないよ」

「あー、そうか。あいつ絶対そういうこと言わなさそうだよな。紳士的、ってやつ?」

 反論した春に、牧野はどこか投げやりに応えた。それから少しだけトーンを落として、ぽつり、と口にした。

「龍堂高校向きだよ。頭良い優等生で」

 ぴたり、と足が止まる。周囲は文化祭の準備でかなり騒がしいはずなのに、一瞬全ての音が消えた気がした。

「……知ってるの? 新の進路のこと」

 春の動きが止まったことに気づいて怪訝な表情をしたまま、牧野は「少し」と言った。

「先生たちが話してるの、聞こえたんだ。入江が龍堂高校受けるってことと、このままいけばきっと合格できるだろうって。あいつ、龍堂行くの?」

「行かないよ!」

 反射的に春は叫んだ。教師たちが新に期待しているのはわかる。とても偏差値の高い龍堂高校の合格者が出れば、それは中央中学校にとって好評になる。新の成績が飛び抜けて良いのも事実だ。けれども、新は龍堂高校に行く気はない。春と同じ、礼陣高校に行きたいと言っている。

「……たぶん」

 しかし、新の母親が、それをあまり良く思っていないらしいのもまた事実なのだった。この先どうなるのかは、春にもわからない。

 急に叫んで、それから語気を弱くした春を、牧野は目を丸くして見ていた。それから頭を掻きながら、難しい顔をして、春に向き直った。

「悪かったな、テキトーなこと言って」

「ううん、新が龍堂受けるのは本当だから。でも、本人は行きたがってないの。……こういうこと、私が勝手に言っちゃ駄目なんだろうけど」

 それきり、会話は途切れた。黙ったまま生徒会室に到着し、材料の追加申請をして、技術準備室にまとめてあるから持って行っていいと承諾を得た。

「結局技術室にあるんじゃねえか」

「そうだね」

 やっと交わした言葉も、続くことはない。技術準備室の、「文化祭用」と書かれた段ボール箱の中から、ちょうど良さそうな木材をいくつかとって、教室へ戻る。

 一年生の教室が並ぶ廊下を通り抜けていこうとすると、ここにも文化祭の準備をする生徒たちがいた。展示の準備か、はたまた劇で使う道具を作っているのか、ボール紙をカッターで切っている。なにやらお喋りをして、ふざけあいながら。

 楽しそうだなと思いながらその横を通り過ぎようとしたとき、春の指に何かが強く当たった。一瞬のことだったので痛くはなかったが、指先を見る前に牧野が怒鳴った。

「お前ら、ふざけてカッターなんか振り回してんじゃねえよ!」

 びっくりしながら、春は牧野を、それから一年生の子たちを見た。自分の指を確認したのは最後で、そのときにはもう赤い色がじわりと浮いてきていた。どうやら一年生がふざけながら振ってしまったカッターの刃が、春の指に当たったらしい。小さな傷で、さほど痛みもないけれど、血は出てくる。一年生が泣きそうな顔で、春に「ごめんなさい!」と頭を下げた。

「いいよいいよ、大したことないし。絆創膏でも貼っておけば大丈夫だから」

「でも下手すりゃ大けがになってたかもしれないんだからな。須藤、保健室行って椿先生に診てもらえ」

 荷物は俺が教室に持って行くから、と牧野は言ったが、もう少し一年生に説教をするつもりなのだろう。「早く教室に戻ってね」と言いおいて、春はとりあえず保健室に向かった。消毒して絆創膏でも貼ってしまえば、問題はないだろう。

 

「痛っ」

 一瞬指がひやりとして、それから痛いような痒いような感覚がじわじわと襲ってくる。新は展示に使う写真のコピーの、必要なところだけをカッターで切り取っていたのだが、見事に手を滑らせた。

「入江、不器用だなー。早く保健室行ってこいよ」

 筒井が苦笑いしながら教室の戸を指さす。そう大した傷でもないし、「不器用」と言われたのも少しだけ腹が立ったので、新は手をぶらぶらと振りながら返した。

「こんなの舐めとけば治るよ」

「血出てんじゃん。展示物汚されたらたまんないから、絆創膏くらい貼ってこい」

 しっしっと追い払われるように手を振られ、新は渋々と席を離れ、教室から出た。廊下は自分たちと同じように文化祭の準備をしている生徒でごったがえしていて、なかなか前に進めない。人や物を避けながらC組の前を通りかかると、なぜか目立った人だかりができていた。何かあるのだろうか、顔を傾けつつ、なんとかちょっとだけ中を覗いてみる。

 劇の練習をしているのだろうか。詩絵が大袈裟な身振りで、わざとらしい台詞を言っていた。集まっている女子生徒たちは、どうやら詩絵が目当てらしい。口々に「かっこいい」「やっぱり男役いいよね」などと話している。本人の不本意なところで大人気になっていて、新は苦笑した。

 どうせならと春の姿を捜したが、どうやら今はいないらしい。奥では大道具を作っているようなのに、そこにいるのは男子だけだった。タイミングが悪かったなと思いまた歩き出し、D組の教室も通り過ぎて、階段を降りる。

 中央中学校の校舎は三階建てで、三年生の教室は三階にある。やっとのことで保健室のある一階まで降りて、一年生の教室の前を通り過ぎようとしたとき、見慣れた姿があるのに気付いた。

 牧野が一年生に何か言っている。いや、叱っている。叱られているほうはしゅんとして、下を向いてしまっていた。

「牧野、一年生いじめんなよ」

 つい声をかけると、牧野は新を見て眉を顰めた。嫌な奴に会った、といったところだろうか。一年生に「次から気をつけろよ」と言うと、こちらへやってきた。

「入江、ここで何やってるんだよ。ていうかいじめてねえから」

「いや、三年生が一年生に絡んでたらいじめてるようにしか見えないって。オレはこれ」

 さっき切ってしまった指を牧野に見せると、さらに嫌そうな顔をされた。傷を見るのは苦手なのだろうか。新も嫌だが。

「保健室、行くのか」

「行ってこいって言われた。こんなの唾つけとけば治るのにな」

「……タイミング悪すぎだ」

 はあ、と牧野が溜息を吐く。いったい何のタイミングなのかわからなかったが、そのまま牧野は新の横を通り過ぎて階段を上がっていってしまったので、聞き出すことはできなかった。そもそも、興味もなかったが。

 首を傾げながらやっとのことで保健室に辿り着いた新を待っていたのは、ドアの前に提げられた札だった。――『ちょっと先生不在です。鍵は開いているので、勝手にどうぞ。』、なんとも気の抜ける、養護教諭の椿の字で、そうあった。

 のんびり屋でいいかげんなところもある椿らしいと思いながら戸を開けると、先客がいた。背の低い、おさげ髪の女の子の後姿。たまに見かけるだけでも嬉しくなるその姿は。

「春?」

「え、新?」

 振り返った顔はちょっと驚いていて、丸く見開いた目が可愛い。まさかこんなところで会うとは思わなかった。いや、ここで会うということは、もしかして。

「春、けがでもしたのか? それとも具合が悪いとか……」

 あわてて駆け寄った新に、春はぶんぶんと首を振った。

「ち、違うの。ちょっとアクシデントがあって、指をほんのちょっとだけ切っちゃって……」

 その言葉に導かれるように春の細い指先を見ると、たしかに左手の人差し指に絆創膏が巻かれていた。大けがじゃなくて良かったが、本当は春にはほんのちょっとのけがでもしてほしくない新は、思わずその手をとった。

「本当に大丈夫か?」

「だ、大丈夫だよ。新こそ、どうして保健室に?」

「ああ、忘れてた。オレも指切ったんだ」

 これ、とできたばかりの、けれどももうほとんど血が乾いてこびりついてしまっている傷を見せると、春は眉を顰めた。

「新のほうが傷大きいじゃない。そこで手洗って、ティッシュで水気取って。消毒して絆創膏貼ろう」

 言われるまま新が手を洗っているあいだに、春はてきぱきと絆創膏と消毒液を用意する。そうして新が戻ってくると、そっと手をとって、消毒液をちょんとつけた。それがあんまり丁寧で優しくて、新はつい見惚れてしまった。ぼうっとしているうちに絆創膏がくるりと巻かれて、手当てが終わる。

「新も左手の人差し指けがするなんて、なんかおかしいね。変な偶然」

「そうだな。……春にはけがなんかしてほしくなかったけど」

「私だって新にけがしてほしくないよ。これ、どうしたの?」

「展示に写真の拡大コピーしたのを使うんだけど、それを切り取ろうとして手が滑った」

「えー? 新って意外とドジなんだね」

 こんなふうに喋ったのは、なんだか久しぶりな気がする。お互い自分のクラスのことで忙しくて、しばらくはちゃんと会ってもいなかった。千花のことを詩絵に頼みに行ったときだって、春と新はまともに言葉を交わしていない。だからだろうか、毎日のように会っていたときよりも、嬉しかった。新も、春も。

「春はなんでけがしたんだ? 大道具の準備か?」

「事故だよ、事故。人が持ってたカッターに手をぶつけちゃったの」

「そんなことってあるのか?」

「あったんだよ。でもちょっとぶつかっただけだから、全然平気」

 同じ指に、同じように絆創膏。そんなお揃いも、なんだかおかしくて、喜んじゃいけないことのような気がするのに、にやけてしまう。新は抑えきれなくなって、思ったことを口に出してしまった。

「薬指だったら、お揃いの指輪みたいだったんだろうな」

「何言ってるの……」

 ここで完全に呆れてしまえばよかったのに、春はそうすることができなかった。恥ずかしくて、顔が熱くなる。俯きながら、詩絵ちゃんがいれば茶化してくれたのになあ、と思った。今は詩絵も千花もいない。他の生徒も、先生も、誰もここにはいないのだ。つまり、二人きり。そう考えると、胸がどきどきしてきた。

 新はじっと春を見つめる。春も思わず顔をあげ、見つめ返す。

「あのさ、」

 そう新が口を開いたとき、がらりという音がした。

「あらー、お二人はどうしたの? けがでもした?」

 養護教諭の椿が、保健室に戻ってきた。本当にちょっとのあいだ、席を外していただけだったのだ。春と新はあわてて離れて、口々に椿に釈明する。

「あ、あの、指をちょっと……」

「もう手当したんで、大丈夫です。それじゃ、失礼しました!」

 会釈もそこそこに、勢いよく部屋を出ていく新を追いかけるようにして、春も保健室をあとにした。そうだ、教室に戻らなければ。牧野は先に戻っただろう。まさかまだ一年生に説教をしているなんてことはないはずだ。

「ねえ、新」

 小走りになりながら、春は新を呼び止めた。新が少し待ってくれたので、そのまま一歩ほど遅れて歩く。牧野の様子も、大道具の作製がどうなったかも気になるが、一番気になるのはさっきの続きだ。

「さっき保健室で、何言いかけたの?」

 あのさ、の次はどんな言葉がくるはずだったのだろう。

「うん、また今度な。教室戻って準備しなきゃいけないだろ」

 尋ねても、振り向いた笑顔は曖昧だった。

 保健室から顔を出していた椿が「青春だねー」と呟いていたのは、二人には聞こえなかった。

 

 

 クラスごとの出し物の準備も、合唱コンクールの練習も、全力で取り組んだ。

 A組の合唱はソプラノパートが真面目に練習をするようになったことで飛躍的に上達したし、C組では詩絵が指揮に合わせて歌えるようになったことで随分と響きが良くなった。

 C組は劇の仕上がりも上々で、A組の展示物もそれはきれいにつくりあげられている。全てを披露する当日が、いよいよやってくる。

 三年生にとって、中学最後の文化祭の日が。

 

 文化祭の日程は平日の二日間。保護者の観覧は自由となっている。今年は四月に町で事件があったので、人の出入りの制限はほんの少しだが厳しくなった。けれども緊張感とわくわくした気持ちが同時にあるこの雰囲気は、いつだって変わらない。

 校内は三年D組の面々によって、礼陣の山々の四季をテーマとした装飾に彩られている。春の心躍る桜色、夏の艶やかな緑、秋の鮮やかな赤や黄色、冬の穏やかな白。それぞれが校内の随所にちりばめられていて、目に楽しい。廊下を歩いているだけでも季節の移り変わりを見ることができる。

 一階の廊下を通り、体育館に並ぶ生徒席に座る。後ろには保護者席があって、そこはたくさんの大人たちで埋まっていた。まもなく始まるのは開会式。三年B組が担当し、趣向を凝らしたオープニングだ。

 生徒と教員、保護者たちでいっぱいになった体育館の照明が落とされると、いよいよ中央中学校文化祭の始まり――。

「この日のために、私たちは、毎日準備や練習に取り組んできました」

 流れるアナウンスとともに、ステージ上のスクリーンに映像が映し出される。合わせて流れ出す曲のテンポで、映像は切り替わる。それは文化祭の準備をする生徒たちの写真。劇の練習、木材やダンボールを組み立てているところ。衣装を着てピースサイン、合唱の練習中の真剣な表情。全て三年B組が毎日校舎をまわって撮った写真で、生徒たちが一所懸命に頑張る光景が、一枚一枚丁寧に切り取られていた。中には大道具を運ぶ春や、舞台の上で演技をする詩絵たち、展示用のパネルを持ち上げる新たちに、楽器を手に真剣な目をしている千花たち吹奏楽部の面々もあった。写真が映し出されるたびにそこかしこから歓声が上がり、最後の一枚とともに。

「保護者の皆様も、生徒のみんなも、どうぞ最後までお楽しみください」

 中央中学校文化祭と書かれた大きな横断幕が張られた校舎が映し出される。ということは、このスライドの最終編集は昨日なのだ。ぎりぎりまでがんばっていたのだろう。

 わっと拍手が起こり、体育館が明るくなる。ステージの上にはB組の委員長が立ち、優雅にお辞儀をした。

「ただいまのスライドは、全校のみなさんの協力で完成させることができました。ありがとうございます。それではこれより、中央中学校文化祭をはじめます!」

 もう一度拍手が起こり、それからは通常の式次第。校長の挨拶のあと、一年生たちがそろそろと動きだした。そう、開会式のあとは、いよいよ合唱コンクール。

 一日目はこの合唱コンクールがメインになる。一年A組から順番に、舞台に上がる前に声出しをしてから、課題曲と自由曲を披露する。課題曲は校歌の二部合唱。最も力を入れてきた自由曲は四部合唱。全てのクラスがこの編成をとっている。

 自分のクラスの順番が来るまでは、他のクラスは静かに聞き役に徹する。出番が最後になる三年生は、しばらくはおとなしくイスに座っていることになる。まずは後輩たちのお手並み拝見、いや、拝聴だ。

 

 三年生の順番はお昼前。お腹が空いている時間帯に歌うのは少々不利な気もするが、後輩たちへのハンデと考えればまあまあ納得できる。

 けれども、ハンデなど与えなくとも、一年生と二年生の合唱は素晴らしかった。校歌は歌った回数が違うせいか、二年生のほうがはっきりと歌えていた。だが、自由曲は優劣の判断がなかなか難しい。どのクラスも全力を出しきったことは明らかで、とてもいい響きだった。

「俺たちだって負けてられない。三年生らしいところを見せなくちゃな」

 A組は声出しをしてからの出番の直前、円陣を組んでいた。指揮者の沼田が珍しく熱いことを言うので、新はちょっとびっくりした。

「沼田でもそういうこと言うんだな」

「そういうことって……たまにはリーダーらしくするさ」

「じゃあさ、もっと良い台詞あるんじゃねえ? 運動会のときは言えなかったヤツ!」

 少し恥ずかしそうにした沼田に、筒井はかまうことなくにやりと笑って言う。その意図がわかって、クラスの全員が互いに目配せをした。運動会の頃はまだこのクラスはまとまっていなくて、むしろ女子の中のわだかまりが強かった。あの頃にはこんなこと、できなかった。それを考えるとこのクラスは、随分成長したと思う。

「服部さんのためにも、俺たちみんなのためにも。最優秀賞、とるぞ!」

「おおー!」

 声をかけ合いながら、新と千花も目が合った。千花は笑っていた。本当に、どこまでも楽しそうな、本領発揮の笑顔だった。それを新だけでなく、沼田や筒井、小日向や佐山に羽田、藤原や青野や山谷にまで向けている。クラスのことでこんなに楽しそうにしている千花は、文化祭で初めて見た。このクラスがまとまる機会が、文化祭で最後だなんて、信じられない。

 そう、文化祭が一年の大きなイベントの、最後のものなのだ。みんながまとまる、最後のチャンスなのだ。それにクラスの空気が間に合って、本当に良かった。

「三年A組、自由曲は――」

 呼ばれて、隊列を組んだクラス一同はステージに立つ。雛壇になっている、その自分の場所につくと、生徒たちと先生たち、それから保護者たちがよく見えた。

 そこに千花は、嬉しいものを見た。保護者席からこちらを見て微笑んでいる、男の人。間違いなく、父だった。普段は忙しくて会うこともままならない、大好きな父だ。今日のために半休をとってくれたのだろう。

 きっと良い声が出ると思った。嬉しくて、幸せで、伸びやかな声が出せると思った。でも、もう千花だけが目立つことはきっとない。だって、ソプラノパートのみんなで、そしてクラス全員で、これまでの分を取り戻すように、たくさんの練習を重ねたのだ。真面目に練習をすれば、ソプラノはすぐにまとまりのある良い合唱ができるようになった。

 沼田が手をかまえる。まずは課題曲である校歌からだ。ピアノ伴奏者に向かって指を振ると、美しい音色が前奏を始めた。

 この合唱コンクールが終わったら、次に校歌を歌うのは卒業式になる。もうあと五か月も経たないうちに、その日になってしまう。それまでわだかまりが残らなくて良かった。みんなで歌えて良かった。

 校歌を歌い終えると、いよいよ自由曲だ。前奏はなく、最初が肝心。声出しと校歌で、今日のクラス全体のコンディションが非常に良いことははっきりしている。きっときれいに歌える。この歌で、会場を感動させることが絶対にできる。

 沼田の指揮に合わせて、A組一同は大きく口を開けた。そして最初の一音を、丁寧に、しかししっかりとリズムにのせた。

 

 声出しを終えたC組は、一瞬呆然としてしまった。音が合った。ただそれだけのことなのだが、C組にとっては驚くべきことだったのだ。

「詩絵の声に違和感がない……」

 思わずひかりが呟いた言葉が全てだった。詩絵が音程をはずすことなく声を出せたのは、本番である今日が初めてだ。今まではずっと、だんだん直ってきてはいたのだが、たしかにずれていた。そのずれが全くなかったのだ。

「え、アタシ、ちゃんと音合ってた?」

 当の詩絵は違いがわからず、周囲の反応に戸惑う。けれども頷きが返ってきたので、本当に正しい音が出せていたのだと確認した。

「うん。その調子で歌うときもよろしく」

「がんばろうね、詩絵ちゃん!」

 とるに足りないことだ。今まで合わなかったほうがおかしいのだ。けれども、詩絵は嬉しかった。俄然やる気も湧いてきて、緊張はどこかへ吹っ飛んでいった。練習を重ねた効果はあった。きっと歌える。もし本番で音を外してしまっても、きっとみんながカバーしてくれる。カバーできる程度には、自分も歌えるようになっている。そんな練習をしてきたのだから。

「加藤も大丈夫そうだし、胸張っていこうか。A組の上手さにはびっくりしたけど、団結力でならこっちも負けてないはずだからさ」

 浅井の言う通り、A組はとんでもなく素晴らしい合唱を披露した。三年生の最初だからということも抜きにして、それまでに歌ったどのクラスよりも、はるかに美しいハーモニーを実現させたのだ。今までにあったわだかまりなど、初めからなかったかのように。

 けれどもそれをいうなら、C組は最初からまとまっている。詩絵の音痴も協力して矯正できるほどに。だからきっと、この合唱でも、井藤に最優秀賞を持ち帰ってやれるはずだ。去年の井藤クラスは運動会と文化祭の二大対決の連覇を達成したのだから、今年もやってやろうじゃないか。

 円陣を組み、目を合わせる。このクラスは最強だと信じて。

「行くぞ、C組!」

「おおー!」

 気合を入れたところを狙ったように、アナウンスが入る。

「三年C組、自由曲は――」

 ステージの雛壇に並ぶと、客席が見える。春は保護者席に祖父を見つけて、自然と笑顔になった。それから、生徒席にいる新と目が合った気がして、どきりとした。いや、平常心を保たなければ。

 詩絵はやる気と、改めて湧き上がってきた緊張のあいだにいた。失敗しても周りがカバーしてくれるだろう。でも、もし取り返しのつかない、本当にひどい失敗をしてしまったら。――心臓が大きく音をたてて脈打っているのを感じる。

 保護者席に見知った顔を見つけたのは、そのときだった。本当なら、実家の店にいて働いているはずの時間なのに、母があたりまえのような顔をしてそこにいた。片手にはビデオカメラを持っている。どこから引っ張り出してきたのだろう。

――店ほっぽって、何やってんだか。

 呆れた。でも、なぜか安心した。どうしてだか、詩絵の母には、人を安心させるような雰囲気があるのだ。

 浅井が手をかまえる。それを詩絵は真剣に見つめる。みんなに手伝ってもらったんだ、この舞台が成功しないわけがない。大きな声で、高らかに、歌いあげよう。

 まずは課題曲である校歌を。そして、みんなで決めてみんなで練習した、自由曲を。堂々とした指揮と、ピアノのメロディーにのせて、胸を張って。

 

 いつもより少し遅い給食を食べたあとは、展示担当クラスや文化部活動の発表を見る時間になっている。春と詩絵は相談をして、A組にいる新と千花を展示回りに誘うことにした。

「でも春、いいの? 新と二人で見にいかなくて」

「そんなこと考えなくていいよ。だいたい、最近四人で集まれることなんてなかったんだから、この貴重な時間を大切にしないと」

 これは本音だ。文化祭の準備が忙しかったから、以前のように休み時間に四人で集まるということがとても珍しいことになってしまっていた。というか、そんな機会はしばらくなかった。春は純粋に、四人で一緒に行動できることが嬉しかった。

 もちろん新と千花は了承して、展示の案内に当たらなければならない時間以外は一緒にいてくれることになった。

「集まるの、久しぶりだね。新君は春ちゃんと二人が良かったかもしれないけど」

 千花も詩絵と同じことを言うので、春は苦笑いし、新はごまかすように咳払いをした。二人きりになる瞬間は準備期間中にあったので、それでいい。途中だった言葉の続きは聞いていないし言っていないけれど、たぶんそのうち、また機会はあるだろう。

 四人は今までお預けになっていた分、めいっぱいお喋りを楽しみながら展示を回った。春と詩絵がA組の合唱が素晴らしかったことを褒めると、特に千花が喜んだ。あれだけのことがあったあとに合唱を仕上げられたことが、本当に嬉しかったのだった。

「終わったあとにね、佐山さんと羽田さんが『おつかれ』って言ってくれたの。藤原さんたちとはまだうまくお話できてないけど……」

「でも、真面目に練習やってたよな。やっぱり千花がリーダーで良かったよ」

「千花ちゃん、おつかれさま。明日の吹奏楽部の公演も楽しみにしてるね」

「そうだ、千花はまだ出番があるんだ。忙しいね」

「詩絵ちゃんもね。明日の劇、しっかり見ておくから」

 久しぶりに交わす言葉は、ころころといろいろな方向に転がっていく。なにしろ話したいこと、伝えたいことが多すぎて、いっぺんにはまとまらない。美術部や手芸部の展示などを巡り、校内装飾にも気を留めながら、たくさんのことを話した。

「文化祭もいいけど、詩絵、今度のテストは大丈夫なのか?」

「う……今それを思い出させる? 大丈夫なように勉強はしてるよ。でもやっぱり一人じゃ捗らないから、全部終わったら昼休みの勉強会再開させてよ」

「そうそう、合唱ね、お父さんが見に来てくれてたんだ。今日は普通にお仕事に行ったと思ってたのに。もしかして中抜けかな」

「千花ちゃん、お父さん大好きだもんね。良かったね、見に来てくれて。うちのおじいちゃんも来てたから、もしかしたら会ってるかも」

「そういえば、詩絵ちゃんのお母さんもいなかった? ビデオカメラもって」

「あ、見た? そうなんだよね、店はどうしたんだろ。あ、でも今日吉崎さんが来てくれる日だから手は足りてるのか……」

 話をしながら見た一年生や二年生の展示も、なかなか面白かった。一所懸命にやった感じが伝わってきて、微笑ましい。こっちが知らなかったようなことも発見できて、なかなかやるじゃん、なんて思ったりもした。

 例の春の指を切ってしまった一年生たちは、どうやらダンボールやパネルを利用して、教室を丸ごと使った迷路を作っていたらしい。途中にクイズなどもあって、見ごたえは十分だった。これなら牧野も感心するんじゃないかと思い、春はくすりと笑った。

「うわ、意外に難しいね、このクイズ。頭の良い新、答え分かった?」

「いや……。オレ、勉強はできるけど、こういう機転を利かせるクイズって苦手で」

「新君にも苦手なものあるんだね。春ちゃんはできた?」

「うーん……右にあって左にないもの……。あ、わかった! 動物の名前だ! ほら、右側の言葉には全部動物の名前が入ってる!」

「さすが春。これでやっと進めるな」

 たくさん遊んで、たくさん笑って、校内をぐるりと一周した。そうして三年生の教室に戻ってきて、最後に見るのは三年A組の展示。「修学旅行報告」だ。

 楽しい思い出も、つらい思い出も、それぞれあった。A組がそれをどんなふうにまとめたのか、春と詩絵は興味津々だ。ここからは、新と千花は案内役。来場者となった二人を教室に通し、それまで案内をしていたクラスメイトとバトンタッチした。

 黒板にカラフルなチョークで大きく書かれた「修学旅行の思い出」という文字と、その周りを飾る写真たち。どれも笑顔で、楽しそうで――実際修学旅行は、楽しい思い出がたくさんあった。たとえば、一日目の休憩で立ち寄った、湧き水のある公園とか。

「あ、私たち四人の写真がある!」

 春が見つけたのは、湧き水を汲んでいるところを写した一枚。春、詩絵、千花、新が一緒に写っている、貴重なものだ。湧き水に感動している新と、それを笑いながら囲む春たち。クラスが違うので別々の行動が多かった四人が、一つの枠に収まっている、珍しい一枚だ。あとで写真を注文するときに見つけて、嬉しかった憶えがある。

「あれは絶対使いたかったんだ。だから昨日、勝手に貼らせてもらった」

「勝手にじゃないよ、新君。私、ちゃんと小日向さんに貼っていいか訊いたもの。そしたらなぜか、傍にいた佐山さんが『貼れば』って言ってくれたんだよ」

「佐山、千花のこと気にしまくりだなー……」

 そう言って笑った詩絵の後ろに、誰かの気配が立った。振り向くと、佐山と羽田の姿。どうやら彼女らも、この時間の案内役らしかった。

「別に園邑のこと気にしてるわけじゃないし」

 わざわざそれを言いに来たのか、と詩絵が返す前に、羽田がにこにこと言った。

「佐山ちゃんね、園邑さんにお礼言いたいんだよ。それでずっと機会を窺ってたの」

「ちょっと、はねちゃん!」

「お礼? 私、佐山さんに何かしたっけ」

 千花が首を傾げると、佐山は一瞬だけ目を逸らし、けれどもやっぱり千花に向き直った。そして詩絵たちがいるのもかまわずに、その言葉を口にした。

「ありがとうね。はねちゃんの靴……と、あたしのも、取り返してくれて。あれからフジたちもおとなしくなったし、ていうか、またちょっと話すようになってきたし。主に園邑怒らせたらやばいよねって話だけど」

「あはは……そんなにびっくりされてたかな、私」

「普段キレない奴がキレたら怖いって。……あたしはさ、園邑はもっと自分のことでも怒ったりしたほうがいいと思うよ。あたしが言えたことじゃないかもだけど」

 佐山はそうして、その場を離れていった。それを追いかける前に、羽田も「園邑さん、ありがとう」と手を振ってくれた。

 ぴたりと動きを止めてしまった千花の顔を、春はそっと覗き込む。そしてびっくりして、思わずその腕にとびついた。

「千花ちゃん、大丈夫?!」

 詩絵と新も慌てて千花の前にまわって、ぎょっとした。千花の大きな目から、ぼろぼろと涙がこぼれている。けれども悲しそうなんかではなくて、びっくりしたような表情で、ただ涙だけが出ているようだった。

「千花?! アンタどうしたの?」

「今のでなんで泣くんだよ……」

「うん、私もびっくりしてる。……嬉しくても、泣くんだね、私」

 春に渡されたハンカチで、千花は涙を拭った。そしていつものようににっこりと笑って、春を抱きしめた。

「さ、展示はまだまだあるよ。詩絵ちゃん、このあと劇の練習あるんだよね。どんどん進んで!」

 千花としても、もちろん新も、見てほしいものはたくさんある。クラスの問題が一段落してから、準備が大きく進んだのだ。雰囲気も良くなって、パネルを文章や絵を書いた模造紙や写真でいっぱいにするのが楽しかった。他のクラスからも作文や写真を集めて、楽しかったこと、ためになったことをまとめた。

 一日目の移動でのゲームは、各クラスから話を聞いて、文章と一緒にイラストも添えた。A組で完成させた服部の似顔絵が、コピーではあるがずらりと並べられて、見る人の笑いを誘った。もちろん詩絵と春も堪え切れず、声をあげて笑っていた。そのときにあったはずの陰湿な手紙の回しあいには一切触れられていない。小さくではあるが、公園で湧き水に感動したという新のエピソードが使われていて、じっくり読もうとした春を新が止めようとしたが、それを千花が抑え込んだ。

 二日目の漁場見学や海で遊んだことも、明るい調子の文章とイラストでまとめられていて、写真もふんだんに使われていた。そこに大盛りの海鮮丼を頬張る春の写真があって、本人は真っ赤になった。

「な、なんでこんなの使うの?!」

「春ちゃんなら事後承諾でも許してくれるかなーって思って」

「いい食いっぷりだしな。これなら後輩たちも修学旅行が楽しみになるんじゃないかと」

「たしかにね。ここで春を使うのは大正解」

「もう、みんなしてそういうこと言う……」

 たしかにあの海鮮丼はとても美味しかったのだけれど。ハムスターのように頬を膨らませた自分の写真を、春は複雑な気持ちで見ていた。

 二日目の夜に起こった事件には触れられていなくて、その代わりにペンションでの美味しい食事や、綺麗な星空のことが書かれていた。

 三日目の企業・専門学校研修は、それぞれの班から作文を集めてきて記事を作った。その中には詩絵が修学旅行から帰ってきたあとに書いた作文もある。

「新、これどういうことよ」

「井藤先生から許可は貰った」

「くそう、井藤ちゃんめ……」

「詩絵ちゃんは文章だからいいよ。私なんて完全に本人特定できちゃうじゃない……」

 そして四日目の自由研修。たくさんの班の、たくさんの笑顔が、花が咲くように並んでいる。ミヤコタワーでのものが多かったが、その中でもとくに目を引いたものが。

「あ、みんなで撮ったの。使ったんだ」

 新や千花たちA組の班と、春や詩絵たちC組の班が合流して、ミヤコタワーで一緒に撮った写真。それまでの心配事やぎくしゃくした雰囲気がなくなった、思い出深い一枚が、そこにあった。その一枚は春たちもそれぞれ持っていて、修学旅行の一番の思い出になっている。――そう、やっぱり、あのイベントは楽しかったのだ。乗り越えて得たものは大きく、今でも支えになっている。

「これはね、絶対に使いたかったんだ。佐山さんは恥ずかしがってたけど」

「千花がどうしてもって言ったんだよな。そうしたら羽田も乗ってきた。仲良くなったよな」

 そして今回の、文化祭の準備中には互いに助け合った。嫌がらせがあったことが嘘だったかのように、今の千花たちは、A組は、一つのクラスとしてまとまっていた。それは合唱コンクールでも証明している。

「良い展示だね」

 しみじみと詩絵が言ったタイミングで、後ろから大きな影が差した。先生か保護者かと思って四人が振り向くと、そこにいたのは笑顔を浮かべた老人と男性だった。

「うむ、実に良い展示だ」

「楽しかったのが伝わってきますね」

 春と千花が目を丸くする。ついでに、詩絵と新も。

「おじいちゃん!」

「お父さん?! お仕事に戻ったんじゃなかったの?」

「うわ、春のおじいさんと千花パパ」

「え、春のおじいさんはわかるけど……千花のお父さん?」

 突然のことに目を白黒させる四人を、春の祖父と千花の父は愉快そうに見ていた。それから千花の父は丁寧に頭を下げ、春たちに「こんにちは」と言った。

「千花の父です。娘がいつもお世話になっています。今日は君たちに会いたくて、仕事は朝のうちに引き継いで早退してきました」

「お父さん、そんなことしていいの?」

「千花が頑張っている姿を見たかったからね。明日の吹奏楽の公演も見に来るよ」

 須藤さんとも話が弾んでね、と話す父を見る千花は嬉しそうだ。春には祖父が、千花には父が、そして詩絵にも母が短い時間ではあったが来ていたのを、新は知っている。話にも聞いたし、合唱のときも壇上からその姿を見つけた。けれども新自身の親は、ついにこういうイベントには一度も顔を顔を出さなかった。

「春と千花のところは親一人子一人だから、可愛いんだろうな。詩絵のところも、子供をすごく大事にしているし」

 思わず呟くと、詩絵が隣に立った。

「来なかったの、新の家の人」

 やはり聞こえていたのか。それとも、気付いていたのか。新は苦笑しながら、「ああ」と答えた。

「相変わらずこういうの興味ない人たちだから」

「運動会とか修学旅行の写真は見せたの?」

「見せてない。見せても無駄だと思って」

「見せればいいのに」

 詩絵は新の親に一度会って、その様子を知っているはずなのに、それでもまだこんなことを言う。それはそうだ、どんな親であれ子供のことを想っているはずだと、そういう考えを持っているのだから。新とは違って。

 春と祖父、千花と父が楽しげに話しているのを眺めながら、新は独り言のようにこぼした。

「小学生のときだったかな、遠足の写真を親に見せたんだ。そうしたら、何て言われたと思う? 『こんな行事が勉強の役に立つのかしら、時間の無駄よ』だってさ。うちの母親はそういう人だよ。父親は写真を見ようともしなかった。そもそも当時は忙しかったらしくて、家にもなかなか帰ってこなかったんだよな」

 以来、親に写真を見せたり、行事のことを話すことはしていない。一年生のときに、弓道をやりたいと話したときも躊躇ったのだ。結局言わなければ始まらないと思って、父に話した。好きにしなさいと、それだけ返ってきた。

 弓道の大会にだって、親は一度も顔を出していなかった。あの人たちは新の成績にしか興味がないのだなと、ずっと諦めてきた。

「詩絵の母さん、店を抜けてまで見に来たんだよな。さすがだよ」

「運動会のときと違って、そんなに忙しくはないはずだからね。……でもさ、新のところだって、昔のまんまとは限らないんじゃない? よく知らないアタシが言うのも変だけど、やっぱりちゃんと話したほうがいいと思うよ。だって、いるんだから。生きてれば、人間、変わるものだよ」

 詩絵と一緒に、もう一度春と千花を見る。親一人子一人の家族で生きてきた彼女らを。理解のある親が一人だけなのと、はたして理解する気があるのかわからない両親が揃っているのとでは、どちらが幸福なのだろう。――たぶん幸福かどうかは、付き合い方や向き合い方の問題で、親がいるかいないかなど関係ないのだ。きっと。

「あ、カメラマンさん来た! 詩絵ちゃん、新、写真撮ってもらおうよ!」

「お父さんたちも一緒に撮ろう!」

 はしゃぐ春と千花に、ほら行くよ、と手を引っ張る詩絵。親を諦めるのを少しだけやめることができたのは、この友人たちのおかげだ。だからきっと、もう少し前に進めるんじゃないかと、今の新は思っている。

 クラスがほんのちょっとのできごとで大きく変わったように、とまではいかなくても。ほんのちょっと新が動けば、状況はまだまだ変えられるかもしれない。

 

 保護者への公開の時間が終わると、生徒たちは二日目に向けて動き出す。二日目の舞台発表に出演するクラスでは最後の練習が始まり、吹奏楽部の生徒は公演の通し練習に向かう。何もなければ、そのまま下校だ。

 まだ春と詩絵、千花が残っている校舎を振り返りながら、新は先に帰った。家に帰れば家庭教師が待っているのだろう。今日は、いや今日も、親と話す時間はあまりなさそうだった。

 せめて下校中は楽しいことを考えようと思って、今日のことを振り返る。

 

 文化祭二日目にして最終日。午前中は学級ごとの舞台発表が続き、午後には部活動の舞台発表がある。それから合唱コンクールの表彰式と、閉会式が行われる。今日で終わってしまうのかと思うと、本当にあっという間だ。

 三年C組の劇は、プログラムの三番目に上演となる。その前に一年生の劇と、二年生のダンスがあるのだ。話を聞くに、二年生のダンスは毎年恒例のよさこいらしい。高知や北海道で行なわれている踊りをこの県風にしたものだ。なかなか迫力があるので、劇もそれに負けないくらい見ごたえのあるものにしなくてはならない。

「あー、緊張するねー……」

 主役をつとめる子と、主人公の姉役の子が手をとりあいながら息を吐いている。詩絵はそこにさっと行って、二人の肩を優しく抱くと、声を低くして囁いた。

「大丈夫。きっとうまくいくから」

 すると二人は顔を真っ赤にして、背筋を伸ばした。

「は、はい! 加藤さんがいてくれるなら大丈夫です!」

「がんばって演技します!」

「うん、その意気その意気。本番はよろしくね」

 たとえ初めは気がのらなくても、やるとなったら徹底的に。男役モードの詩絵はとにかく格好良い。その切り替えを少し離れたところから見ていた春とひかりは、心底感心していた。

「さっすが詩絵。もうなりきっちゃってる」

「また詩絵ちゃんファンが増えるね」

 生徒と教員、保護者が体育館に集まる。そこまでは昨日と同じ。違うのは、至極簡単に二日目開始の挨拶があったこと。そうして舞台発表の時間が始まった。

 一年生の笑いを誘う劇が終わり、二年生のよさこいが始まったあたりで、三年C組の準備が始まる。役者は衣装に着替え、道具係は大道具と小道具を舞台袖に運び込む。音楽が止み、拍手が響けば、もうカウントダウン。幕が下りて引き揚げてくる二年生と入れ替わりに、ステージの上にスタンバイする。

「ありがとうございました。次は、三年C組による演劇、――」

 アナウンスが流れたときには、もう準備は完了している。春たちが作った背景やテーブル、開閉のできるドアはちゃんと機能することを確認済みだ。春の役目は、このあとを見守ること。そして詩絵の役目は、完璧に演じきること。

 ブザーが鳴り、幕が上がる。三年C組の演劇が、始まった。

 ストーリーは至ってシンプル。いじめがきっかけで引きこもるようになってしまった少女と、周囲の人間の行動や変化を描いたものだ。テーマは家族。舞台の上は一枚のドアを隔てて、リビングと少女の部屋に二分されている。

 主人公の、引きこもりの少女の台詞から始まって、その時はライトが少女の部屋側に当たっている。家族が話をする場面では、ライトはそちらに切り替わる。二つの部屋の対比に、観客の気持ちも揺れた。――と、思ったら。

「お邪魔します。花ちゃんは、元気ですか? あ、元気ですかというのは、病気とかしていませんか、ってことなんですけど」

 女子なのに、可能な限りの低い声。格好も男子のもの。表情は真剣で、けれどもちゃんと心配そうで、見るものを一気に惹きつける。千花の周囲からもうっとりとした溜息が漏れ、彼女の人気を、魅力を、感じさせ伝染させていく。

――こういうのをカリスマっていうのかな? ねえ、詩絵ちゃん。

 くすりと笑ってから、ふと新を見ると、周りの女の子たちと同じように、詩絵の演技に引き込まれていた。去年までは気にも留めていなかったというが、今年はどんなふうに見えているのだろうか。あとで訊いてみよう。

 しかし尋ねるまでもなく、午前の部――三年C組の劇のあとは、一年生のダンスと二年生の劇が続いた――が終了し給食を済ませたあと、いつもの四人は集まり、新は興奮気味に詩絵に言った。

「詩絵、お前、男だったな! 他の誰よりも男らしかった!」

「褒めてんのか、貶してんのか!?」

 言われた詩絵は反射的に新の頭に手を伸ばして、すぱーんといい音をたてて叩いた。「男らしかった」はもう散々言われてきたが、言った相手を叩いたのは初めてだ。ちょっとすっきりした詩絵であった。

「いって……。褒めてんだよ。あの演技力すごかったぞ」

 頭をさすりながら、新は改めて感想を述べた。劇中、詩絵の出番はそう多くはなかったのだが、存在感は圧倒的だった。どうして去年の劇は真面目に見なかったのかと、新は後悔したくらいだ。

「褒めてくれてんならありがと」

「褒めるにきまってるよ。詩絵ちゃん、本当にかっこよかったもん。次に控えてた一年生の子たちにきゃあきゃあ言われてたよね」

 春の予想通り、詩絵はまたファンを増やしたらしい。これが最後になるのを残念がられたくらいだ。劇が終わったあとの集合写真のときもまだ男役が抜けきっていなくて、たぶん出来上がった写真にはかなりのイケメンが写っているのだろうなとクラス一同思っている。

「こっちのクラスでも好評だったよ。詩絵ちゃんはもちろんだけど、劇自体が良かったって。ドアを隔てた演出とか」

「そっか、よかった。あのドア、作るのに苦労したんだよー」

「え、春ちゃん作ったの?」

「ああ、C組で何か作ってたでかいのってドアか……」

 とにかく、劇は大成功だった。春と詩絵は手を叩きあって喜び、それから。

「さて、午後は千花の番だね」

「吹奏楽、三年生の公演はこれが最後だよね。がんばって!」

 舞台発表のトリをつとめるのは、吹奏楽部の公演だ。三年生が演奏するのはこれが最後になるので、特別な思いで練習してきた。――「一人だけ上手くても駄目」。その意味が、今の千花にはよくわかる。音楽は調和しなければいけない。けれどもそれは千花がレベルを落とすというわけではない。互いを高め合いながら、良いものをつくりあげていくということだ。

「すごくいい演奏ができると思うよ。楽しみにしてて」

「その後の表彰式も楽しみだな」

「千花は応援するけど、新の言い方がなんか引っかかるな。合唱はアタシたちだって負けてなかったと思うんだけど」

「詩絵ちゃんも新も落ち着いて。一緒に千花ちゃんたちの演奏聴こうよ」

 体育館に集合してください、と放送がかかる。文化部の舞台発表が始まる。春たちも生徒席の、自分の位置に戻った。吹奏楽部の出番は一番最後だが、午後一番だった演劇部の発表が終わってすぐに、千花たちは席を離れていった。

 音楽室での最後の練習のあと、再び体育館へ。今度は自分の楽器を持って、舞台袖に。舞台上の発表を見ながら、春たちは吹奏楽部の様子も気にする。会場が暗いので、千花の姿は捉えられない。

 一つ演目が終わるごとに、拍手が響く。最後の公演を終えた三年生が涙を拭うのが見えた。そうして中学校生活が一つ、終わっていくのだ。こちらもなんだかしんみりしてしまう。

「文化祭の演目も、これが最後となりました。吹奏楽部による発表です」

 アナウンスがそのときが来たことを告げ、生徒や保護者の視線が舞台へと集まる。大きな楽器が運び込まれ、奏者たちが並ぶ、そこへ。

「今日のために、私たち吹奏楽部は練習を重ねてきました。これが三年生にとっての、中学最後の演奏になります。曲の終わりまでお楽しみください」

 舞台が照らされ、指揮棒が掲げられる。たった一人のフルート奏者である千花は、真剣な表情をしていた。独りで奏でるのではない。全員で曲を完成させる。その思いが、春や詩絵、新、そしてたくさんの観客に伝わってくるようだった。

 演奏が始まる。音が響き、重なる。誰が卓抜しているだとか、そういうことはなかった。奏でられる音は調和して、一つの壮大な音楽が出来上がる。頭に、胸に、塊となってぶつかり、しっとりと沁みていく。中央中学校吹奏楽部の、これが最大の力だ。これまで積み重ねてきた全てだ。

 最後の一音まで、丁寧に、しかし力強く。指揮に合わせてぴたりと音が止まっても、余韻はまだまだ残っていた。盛大な拍手とともに、そこにたしかに存在していた。きれいに一礼した奏者たちに、言葉なき賛辞が送られる。

 これで全ての演目が、終了した。

 

 吹奏楽部の面々が記念撮影を終えて席に戻ってから、しばらくの間があった。午後の演者たちに「おつかれさま」「良かったよ」と声がかけられ、会場はざわめく。しかしそれも、再び体育館内が暗くなるまで。

 いよいよ合唱コンクールの結果発表が始まろうとしていた。

 ライトに照らされた壇上には審査委員長である校長が立ち、その傍らに賞状を持った教頭とトロフィーを持った音楽教師が控える。生徒たちの中に緊張が走る。カメラのシャッター音が、やけに耳に響いた。

「これから、合唱コンクールの結果発表を行ないます。まずはじめに、各学年の指揮者賞の発表です」

 評価されるのは合唱だけではない。各学年から優秀な指揮者が選ばれ、同時に発表となる。指揮者をした生徒は、そしてもちろん他の生徒たちも、その瞬間を固唾を呑んで見守る。発表は、一年生から順番に。もったいぶる校長が、このときばかりはほんの少しだけ意地悪に見える。

「一年生指揮者賞――」

 指揮者のクラスと名前が告げられると、クラス全体が沸き、大きな拍手が起こる。初めて指揮者をやった一年生は嬉しそうで、二年生も同じく喜んだ。それぞれ叫んだり、抱き合ったり。そしてその流れは、三年生へ。

「三年生指揮者賞」

 静けさを取り戻した会場に、唾を飲み込む音が響くようだった。間をあけて、校長がその名をマイクに向かって言う。

「三年C組、浅井寛也君」

 瞬間、三年C組の全員が立ち上がった。浅井の近くにいた男子たちは浅井と肩を組んで、「よくやった!」と声をあげた。拍手をしながら、女子たちからも「おめでとう」が飛び交う。浅井は目を丸くしていたが、その表情はすぐに笑顔に変わった。

「浅井、やったね!」

 詩絵が声をかけると、浅井は照れたように返した。

「加藤のおかげかも。練習量多かったし」

「うーん、悪かったのか良かったのか……まあ、結果オーライか」

 一笑いして、興奮が冷めないまま席につく。もっと喜びたかったが、静かにしなければ次に進めない。

「それでは各学年の優秀賞の発表です」

 いよいよこのときがきた。指揮者と同じく、一年生から順番に発表される学年優秀賞。この中から最優秀賞は選ばれる。校長が口を開いたとき、一年生だけではなく、生徒全員が息を呑んだ。

「一年生優秀賞、D組」

 発表された瞬間に、一年生がわっと声をあげる。それは学年優秀賞に選ばれたD組の生徒たちの歓喜の声だったり、悔しそうに泣く他のクラスの生徒たちのものだったりと、様々な感情が入り混じっている。中学生になって初めての合唱コンクールで、初めての結果発表だ。解けた緊張は一斉に叫びや涙となってあふれ出した。

 それが収まった頃に、二年生の優秀賞が発表される。

「二年生優秀賞、B組」

 今度は二年生から歓声が上がる。他のクラスは残念ながらも、納得しているようだった。自分たちも精一杯やった。けれども二年B組の合唱は、誰もが認める素晴らしいものだった。それこそ、三年生を超えるのではないかというほどに。

 そうしてついに三年生の番。どのクラスも自分のクラスが選ばれればいいと思っている。けれどもどこかで、きっとあのクラスだろうという予想もできていた。諦めたわけではない。最後まで堂々と歌いきり、これまでで最高の歌声を披露できたという自信がある。けれども二年生と同じで、それでも敵わない相手がいるということは認めていた。

「三年生優秀賞、A組」

 どこよりも上手かった。どこよりも調和していた。苦難困難を乗り越えた先にあったものは、みんなが認める歌だった。手をとりあったり、抱き合ったり、肩を組んだりしてともに喜ぶことができる。それはついこのあいだまでのA組からは、考えられないような光景だった。けれどもこうして、実現している。

 筒井たちと手を叩きあっていた新の目に映ったのは、優秀賞よりも嬉しいものだった。千花と小日向が抱き合っていたところへ、佐山と羽田、そして藤原たちまでやってきて、互いに手を伸ばしあう。しっかりと握られた手と、目の端に涙を浮かべたまま明るく笑う千花が、まぶしかった。

 最優秀賞は三年A組。手に入れたものは、賞状とトロフィーと、それからクラスの団結。ばらばらだった気持ちは、今や一つになっていた。

 

 

 閉会式が終われば、各クラスでのホームルームが待っている。三年C組は浅井の指揮者賞受賞で盛り上がっていて、しかし合唱そのものは学年三位だったことを惜しんでいた。

「浅井おめでとう! そしてがんばってくれてありがとう! みんな、良い合唱だったよ」

 井藤が笑って言うと、まず浅井を讃える拍手が起こって、それから少しだけ泣き声が混じり始めた。やっぱり、悔しいものは悔しいのだ。たとえ他のクラスの出来栄えが良いと、素直に思っていたとしても。

「井藤ちゃんに運動会と文化祭の連覇をプレゼントしたかったけど、できなかったな」

「そうだね、それやりたかった!」

 口々に言い合う生徒たちに、井藤はもう一度「ありがとう」と言った。それからニッと口の端を持ち上げる。

「今回はA組に譲ってやろう。服部先生、苦労してたし」

 

 合唱コンクールの最優秀賞を服部に贈ることができた。それが三年A組の生徒たちが誇らしげにしている理由だった。なにしろ運動会では優勝できなかっただけでなく、まだクラスがまとまっていなかった。それどころかつい最近まで問題ばかり起こしていたのだ。それだけに、この結果は大きな意味を持つ。

「最優秀賞、おめでとう」

 噛み締めるように、服部は言った。

「この三年A組というクラスが、まとまらなければならないときにはきちんとまとまって、一つの目標に向かっていけるクラスだと実感させられた。普段はそれぞればらばらでも、仲違いがあっても、こうして合唱というかたちで一つになれたことを、俺は嬉しく思う」

 途端に、生徒の一部が泣きだした。藤原たちからはじまり、女子だけでなく男子にまで伝播していく。でもこれは嬉し涙だ。いくらでも流していいものだ。今までできなかったことを成し遂げた、それを喜ぶものだ。

 最優秀賞をとれたことでではない。合唱で一つになれたことでではない。他でもない、これまで迷惑をかけ続けてきてしまった服部に、少しは立派に成長したことを見せられたこと。それを服部が喜んでくれたことが、A組にとって一番の宝だった。

「服部先生、ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

 沼田に続いて、クラス全員で服部に礼をした。服部は穏やかに微笑んで返した。

「こちらこそ、ありがとう」

 

 ホームルームの後に軽く後片付けをして、下校の時間になった。廊下で待ち合わせていたいつもの四人は、会うなり互いに手を叩きあった。

「千花、新、合唱コンクール最優秀賞おめでとう!」

「千花ちゃん、吹奏楽もすごく良かったよ! 感動してちょっと泣いちゃったよ」

 千花の右手を詩絵が、左手を春が握る。温かくて優しいその手を、千花もきゅっと握り返した。

「ありがとう。でもね、どっちもみんなでやったからできたことだから」

「そうそう。合唱もまさかあそこまで持っていけるなんて思ってなかったからな、オレ」

 やっぱり千花がパートリーダーを辞めなくてよかった。辞めたほうがいいなんて、口にしなくてよかった。新はあのときのことを、思い出してはホッとしていた。そのあとの自分の行動も、正しかったのだろうと思っている。やはり千花には詩絵の言葉が効くのだろう。いや、千花にだけではない。詩絵には新自身も助けられているのだから。

「A組の最優秀賞は、A組だけじゃ成し得なかったよ」

「そうだね。詩絵ちゃんと春ちゃんも応援してくれたもの」

「あーあ、思いっきり塩を送っちゃった感じだね。まあいいか、運動会では勝ったんだし」

「自分のクラスが選ばれなかったのは残念だけど、千花ちゃんと新が嬉しいなら、私も嬉しいよ」

 クラスが一致団結する、最後の行事。それぞれにドラマがあって、結果があった。また振り返りの作文を書かされることになるのだろうけれど、作文用紙は良い思い出で埋められそうだ。

 お喋りをしながら昇降口まで歩いていって、不意に詩絵が「でもさ」と言う。

「新にはちょっと物足りなかったんじゃない? ここ最近、春との接点が全然なかったじゃん」

 お互いにクラスのことで忙しかったもんね、と千花も頷く。新は言葉につられるように春を見て、春も新を見上げた。

 保健室での一件は、実は二人とも、詩絵や千花にすら話していない。絆創膏が同じ指に巻かれていたことにも気づかれなかった。その絆創膏も、今はもう傷が治って、剥がれてしまっている。

「……まあ、接点はこれからいくらでもできるから。な、春」

「受験勉強しなくちゃいけないしね。新にたくさん質問しちゃおうかな」

 春と新が笑いあうと、詩絵と千花もにやにやした。けれどもそれからすぐに、「あーあ」と溜息が漏れる。祭りは終わってしまった。ここから先は受験に向けてまっしぐらだ。

「春には悪いけど、アタシのほうが質問数は多いかも」

「だな。勉強に限っては春より詩絵のほうが心配だ」

「悔しいけどその通りなんだよなあ……」

 また近いうちにテストがある。学力テストと、後期中間テストだ。それに向けてもう動き出さなければならない。昼休みの勉強会も再開しなければ。

 ふと、春の脳裏に牧野の台詞が過ぎった。――「龍堂高校向きだよ」、そう新のことを言っていた。それはたぶん、他の人から見ればその通りなんだろうと、春も思う。これから接点がいくつできるかは、実際のところ、わからないのだった。

 それに保健室で言いかけた言葉の続きを、まだ聞いていない。あのとき新は、何と言おうとしていたのだろう。それを教えてくれるのは、いつになるのだろう。今は聞き出せそうにないので、そのうちまた思い出したら改めて……と考えているうちに、足が遅れていた。

「春、早くおいで!」

「ごめん、待ってー!」

 校外に出た春の足が、かさりと枯葉を踏んだ。追いついて、待っていてくれた友達と並んで歩きながら、秋の空と山々を眼に映す。文化祭準備が始まった頃よりも一層深くなった季節の色が、春たちを取り巻いていた。