夏に一匙ほどの思い出を残して、夏休みが終わった。九月に入り、これから礼陣の町はだんだんと秋へ向かっていくことになる。学校へ通う生徒の表情は様々で、充実した休みを過ごして晴れやかな者と、まだ休み足りずにぼんやりしている者とが入り混じっていた。
さて、二学期制が普通となった今、夏休みが明けた学生たちを待っているのは怒涛のテストラッシュだ。学力テストと、前期末テストの二段構えである。
「夏休み……結局みんなで勉強できなかったから、ちょっとは自分で頑張ったつもりだったんだけど。何よ、この点数は……」
夏休み終了後、すぐに行なわれた学力テストの結果に、詩絵はわなわなと震えた。中学三年生の学力テストは、公立高校受験と同じ一科目六十点満点、計三百点満点である。そのうち詩絵の得点は、合計百八十五点。相変わらずの六割だった。せめてあと十五点は欲しかったのだが。一科目につき三点ぽっちが、これ程遠いものだとは。
「国語四十点、社会四十二点、理科四十点、英語三十五点、数学二十八点……。ええと、暗記はがんばってきたのか……? 国語はもともとそれなりだったし……」
「わああ、バカっ! バカ新! 人の成績読み上げんな!」
昼休みにいつもの四人で集まったとき、詩絵は自分を戒めようと、わざと得点通知表を持ってきた。まさかそれを音読されるとは思っていなかったが。不動の学年トップの手から通知表を奪うように取り返すと、詩絵は「わかってるんだよ」と呟いた。
「こんなんじゃ、礼高も受かるかどうかわかんない。それなのに井藤ちゃんってば、アタシに北市女を受験してみろって言うんだよ。信じられる? お母さんにそれとなく話してみたら、『あら、いいんじゃない。応援するわよ』だって。あの人はヤシコー出身だから、事の重大さがわかってないんだああ!」
あいだに息を吸っているのかどうか疑うような詩絵の叫びに、春と千花は顔を見合わせて困り、新は呆れて溜息を吐いた。きっと詩絵の夏休みのほとんどが、その叫びに詰まっていた。
ちなみにヤシコーとは、礼陣の公立高校で一番学力が高いといわれている社台高校のことだ。まさか詩絵の母がそこの出身だとは、これまで誰も知らなかった。たった今、明かされた情報である。
「詩絵ちゃんのお母さん、頭良いんだね。だったら詩絵ちゃんもこれからだよ。期末テストで挽回すればいいじゃない」
「科目数多いのに? 時間がいくらあっても足りないよ」
春のフォローに、しかし詩絵は余計に頭を抱えてしまう。そして「この瞬間にも勉強してなきゃいけないんじゃないのアタシは……」などとぶつぶつ呟き始めた。
ところが、
「いや、期末テストはいけるんじゃないか?」
新はあっさりと、そう言ってのけた。
「アンタ、何言ってんの? 人の成績読み上げといて……」
恨みがましくこちらを見る詩絵に対し、新は少しも表情を変えずに、いたって冷静に答えた。
「さっきも言ったけど、暗記科目はがんばってる。そして、期末テストでは技術家庭科、保健体育に音楽、美術の筆記テストが加わるが、これらは全て暗記だ。つまり詩絵に有利なんだよ」
「なるほど! 新君の言う通りだよ、詩絵ちゃん。期末テストの平均点はかなり上げられる可能性があるよ!」
千花がぽんと手を叩いて、明るく言った。だが、あくまで「可能性」だ。本当にそうできるかは、詩絵もまだ自信がない。だいたい、暗記だってがんばってこの程度なのだ。科目数が増えると、覚えきれないのではないか。
「期末テストまであと二週間。大丈夫、詩絵ちゃんならできるよ。また私の家で、一緒に勉強しよう」
にっこりと笑った春に、詩絵は戸惑いながら頷いた。こんなに自分を応援してくれるのに、素直に「ありがとう」と言えなかった。
その日の放課後から、さっそく春の家で勉強会をしようということになった。ただし、後学期にある文化祭が最後の公演となる吹奏楽部に所属している千花は、まだ部活動がある。テスト休みは一週間前からなので、まだあと一週間は合流できない。新は家庭教師がついているうえに、親から寄り道自体を禁止されているので、春の家に近寄ることすらできない。そういうわけで、勉強会はしばらく二人きりだ。
春はすでに部活を引退して、あとは勉強に専念するばかりである。最後の大会の砲丸投げ種目でも大活躍だったので、内申点にいくらかのプラスがある。詩絵に勉強を教える余裕は十分にあるのだった。
学校に備え付けてある公衆電話の受話器を置きながら、詩絵は小さく息を吐いた。電話した先はもちろん自分の家だ。勉強をしたいから帰りが遅くなるということを伝えると、すでに帰り着いていたらしい弟の成彦が「家のことは僕がやっておくから、安心して」と言ってくれた。本当に良くできた弟である。姉への気遣いを常に忘れないのだ。
「勉強してきてもいいって。店にはバイトさんが来てるし、うちには成彦がいるし、何の心配もなく打ち込めそうだよ」
詩絵の電話が終わるのを待っていてくれた春にそう告げると、笑顔で頷きが返ってきた。
「そっか。じゃあ、心置きなく勉強、がんばろう!」
そう、心置きなくがんばれるのだ。両親も、弟も、実家の店でアルバイトをしている学生までもが詩絵の後押しをしてくれる。本当は、夏休み中だってそうだったはずなのだ。
講習にも参加した。宿題だって一人できちんと片づけた。学力テストに向けた勉強だって、していなかったわけじゃない。それでも成果が出なかった理由に、詩絵はとうに思い当たっていた。ただ、認めたくないのだ。――退路があって、そこに逃げ込めた、逃げ込んでいたということを。
「そうだね。期末テストまで二週間しかないんだ、みっちりやらなきゃ。春の監視もあるし」
「監視って……。私、そんなつもりないよ。ただ、詩絵ちゃんと一緒に勉強したら楽しいし、前に勉強会したときも、詩絵ちゃんの成績上がったでしょう? 一人でやるのが向いてる人もいるし、みんなでやったほうが印象に残って覚えやすいって人もいて、詩絵ちゃんは『みんなでタイプ』なのかなって思ったから……」
「わかってるよ。ごめん、ちょっと意地悪言ったね」
何気なく言った――いや、もしかしたらほんの少しの意識はあったかもしれない――詩絵の一言に、一所懸命に返す春。その態度が、こちらの「逃げ」を見透かしているようで、詩絵は一瞬だけ息が詰まるような心地がした。
友達と一緒なら、退路は断たれる。そこが自分の家でないのなら、無駄に動く必要はない。詩絵が向き合わなくてはならないものは、自然と「勉強」や「将来」に限られる。店の手伝いも、家事も、詩絵の「邪魔」はしない。
「それじゃ、行こうか。ちょうど昨日ね、ご近所さんから御仁屋のどら焼き詰め合わせもらったの。せっかく詩絵ちゃんが来てくれるんだから出しちゃおう」
ほんのちょっと、よく見なければ気づかなかっただろうけれど、春はホッとした表情をした。それからうきうきとした笑顔で、昇降口へ歩き出す。勉強のことではなく、合間のおやつのことを話題にして、詩絵の気持ちをなんとか楽にしようとしているのがわかる。
「これから春の家に行くたびに、おやつ出してくれるの? それじゃ、アタシも何か持って行かなきゃ失礼じゃん。ていうか、食べてばっかりだと太りそう」
「う……せめて飲み物はジュースじゃなくてお茶にしようか。太りたくはないし」
だから詩絵も、気にしていない、もう気にしないふうを見せる。春に気を遣わせたくないのではない。気を遣われると、こっちがもやもやするのだ。
他愛のない話をしながら須藤家に到着すると、いつものように笑顔の老人が迎えてくれる。二階の春の部屋に行って、折りたたんであったテーブルをセットしてから、詩絵は先に勉強道具を広げさせてもらった。そのあいだに春が、予告通り菓子鉢にどら焼きを盛って運んでくる。一緒に持ってきた飲み物は冷たい麦茶で、まだ残暑の時期なのだということを思い出させた。
そんなことを思う余裕すら、今の詩絵にはなかった。
「さて、うちでの勉強会は主に数英の復習にあてます。他の科目や暗記系はその合間と、詩絵ちゃんが家に帰ってからの時間を使ってもらいます。……って新が言ってたよね」
「うん。前に一緒に勉強会して、ものすごく伸びたのって英語だったからね。数学も教えてもらってから、少しはわかるようになったし。だからアイツのプランは妥当なんだけど……でもなんか悔しいなあ。アタシは全部お膳立てしてもらわないとできないのか」
「そんなことないよ。それに、ここで数学と英語をやるのは、私のためでもあるんだから。理数系科目はやっぱり苦手」
苦手だとは言うが、春の方が格段にできているのは事実だ。向こうは学年上位、こっちはど真ん中か、あるいは中の下。いつかと同じように、詩絵が春に一方的に訊きまくることになるだろう。春はきっとそれを邪魔だと思わない。むしろ復習になってちょうどいいくらいに受け止める。レベルがまるで違うのだ。
なにも学力のことだけではない。人間性からして、春のほうがずっと優れているように、詩絵には思えるのだった。
「……ごめん、春。この問題がどうしてもよくわからなくて……」
「あ、それ私もわかんなかったやつ。たしかね、こうやって図を描くと、ちょっとわかりやすくなるんだよ」
わからなかったと言いながら、そのあときちんと理解している。説明は易しく、詩絵もその場では問題が解けるようになる。けれども、別の問題でそれができるかどうかは別だ。そこからして、春との差は大きい。
新がいれば、この差をずばりと指摘して、「何度も教えただろ」と文句を言いながら解説するのだろう。今の詩絵には、そのほうが楽だった。こちらも「はいはい、すみませんね」くらい言い返せるからだ。春にはそれができない。千花にもだ。じわじわとこちらの理解が遅いことを思い知らされるのは、逆に苦しかった。
今回の期末試験で、成績の評定がほぼ決まるのに。まだこんなにできていないだなんて。夏休みの講習の、あの真っ赤になった問題集を思い出して、詩絵はぞっとした。あのときと何も変わっていない。――家事や店の手伝いに、逃げていたから。両立しようとしなかったから。
「詩絵ちゃん、大丈夫? 疲れちゃった?」
「え……、ううん、なんでもない。アタシに解けるかな、これ……」
「解けるよ。考えるの疲れたなーと思ったら、どら焼き食べてね」
こんなことで、疲れたなんて言ってられない。高校生になったら、部活も勉強も家事も店の手伝いも、全部やるつもりなのだ。今からこんなことでは情けない。そもそも、高校生になれるかどうかあやしい。
焦りに襲われながら、詩絵は必死で問題を追った。教えてもらった通りに解いて、答え合わせをしてみた。何がいけなかったのか、答えは用意されたものとは違っていた。また、ノートに赤い文字が増える。
家に帰ってからは、新にアドバイスされた通り、暗記をメインにした。言葉や文章をそのまま覚えるのは、それなりにできる。数字や図を覚えたり計算したりするのは苦手で、社会科や理科もそこでよく躓いている。歴史はできるが地理は苦手で、理科の二分野はいくらかできるが一分野は不得意なのだ。
本を読むのは実は好きで、そのおかげか、国語はあまり対策をしなくとも、いつも七割前後をいったりきたりしている。そもそも何の対策をすればいいのか、よくわからない。古語を覚える、などすればいいのだろうか。しいていうなら、論説文よりは小説のほうが好きだ。
英語は「異国語」というのがまず先に来てしまって、覚えることを頭が放棄してしまう。単語や文法といった仕組みよりは、なんとなくでも流れが掴める長文読解のほうが正答率が高かったりする。
数学はまるでわけがわからない。こんなものを考えた奴に文句を言ってやりたいと思う。
そういうことを冷静に分析したうえで(というよりは新にそうされて)、技能系科目の暗記をしてみると、なるほど、主要五科目よりずいぶん楽だった。ここで稼いでおくという作戦は、間違いではなさそうだ。
「縦横の太さが均等な書体をなんというか?」
「ゴシック体。……ありがとね、成彦。掃除と洗濯やってくれた上に、テスト勉強まで手伝ってくれて」
夕飯のおかずを拵えながら、詩絵は成彦に問題を出してもらっていた。技能系科目はあらかじめ問題のプリントが配られ、そこから選んで出題されることが多い。問題さえ読んでもらえば、何かをしながらでも、覚えたことの確認はできるのだった。
「いいよ。……それより、元気出してよ、姉ちゃん。学力テストの結果が出てから、なんだからしくないよ。『社台の女大将』はどうしたのさ」
「その呼び方やめてよね。……小学生の頃とは違うのよ。中学生になると、なぜかいろんなことが難しく思えてきて、それを三年も引きずっちゃうと、もう周りについていけないの。いつのまにか、すごく大きな差ができてるんだから」
最初にその差を感じたのは、中学一年生の夏休み明けだった。入学してすぐの実力テストと、そのあとの前期中間テストまでは、さほど周りと差はなかったのだ。今の詩絵からすれば考えられなかったが、それなりの点数は取れたのである。思えばそれは、まだ授業が基礎の部分であり、試験の難易度が低かったからだった。中学生活にも慣れ、授業が少しずつ応用や新しい内容に及んでいくと、生徒間に差が生まれ始めた。そしてそれは、順位というかたちで可視化される。
詩絵の順位は、だんだん下がっていった。二年生の学年末テストが、おそらくはどん底だ。三年生になってから少し上がったが、理由は明らかだ。友人たちの手助けがあったから、這い上がることができた。
けれどもその友人たちは、同じ学校を目指しており、詩絵よりずっと成績が良い。受験本番では、詩絵を置いていってしまうかもしれない。彼らが受かり、詩絵が落ちてしまう。そんな未来を、考えては打ち消し、打ち消しては思い浮かべてきた。
「成彦はお母さんに似て頭良いから、そんなことにはならないと思うけどね」
「田舎の平凡な小学生に頭良いも悪いも……。だいたい、そんなの上を見ればキリがないもんなんじゃないの? 姉ちゃんが僕に教えてくれたんじゃないか、人を羨んで妬むのは違うって。目標にするか、次元が違うと思って別のことに目を向けるかしたほうがずっと良いって」
それはいつか本で読んで、感銘を受けた考え方だった。これがあったから、佐山たちが千花に嫌がらせをしていたときも、毅然として立ち向かうことができた。千花を妬んで卑劣なことをしていた佐山たちが許せなかった。
けれども人を羨む気持ちは、詩絵だって持っていないわけではないのだ。自分より勉強のできる新を、千花を、春を、羨ましいと思っている。目標にするには、新は遠すぎて、千花や春にも届かない。目標にするか別のことで勝負するかといえば、後者を選ぶのが現実的だ。けれども、進みたい方向は友人たちと同じ方向なのだ。――この状況を、どうしたらいいのだろう。
「次元が違うから、別のことに……」
パターンはいくつか考えている。なんとか成績を上げて礼陣高校に行くか。礼陣高校への進学を諦め、南原高校か、さらにランクを下げて遠川高校を受験するか。あるいは――。
暗記をしながら夕食の支度を終え、先に成彦と二人で食べる。両親は店を閉め、片づけをしてから、居間にやってくる。そして詩絵の作った食事を、褒めながら食べてくれるのだ。そのあいだにも詩絵は勉強を続ける。教えてもらわなければ難しい英語と数学以外を、徹底的にやっておく。
「今度のテストも気合入ってるわねえ。またぐんと成績伸ばしてくるかしら。……うん、とっても美味しいわ、このチンジャオロース」
母が言っても、詩絵は答えない。頭の中に単語を詰め込むのでせいいっぱいだ。その様子を見て、母は小さく溜息を吐くのだった。一方、父は黙ったまま――もともと寡黙な人なのだ――ご飯をおかわりしていた。
両親の夕食が済んだら、食器を手早く洗ってしまう。それから詩絵は、社会科の参考書を片手に、店の厨房へ向かう。パン生地から、惣菜パンに使う炒め物や揚げ物、カレーにいたるまで、全てがここで作られる。父が毎日、丹精込めてパンを作り続けている場所だ。
夏休み中、いや、正確には修学旅行から帰ってきてから、詩絵は時間を見つけては厨房に出入りしていた。そして父の手元を眺めたり、惣菜を少しだけ作らせてもらったりした。それはパン屋を訪れるお客さんたちの相手をするのと同じくらい、楽しいことだった。
「お父さん、明日の仕込みは順調?」
参考書に目を落としたまま、詩絵は父に尋ねる。「ああ」とだけ返事があった。父の手元には、明日の朝早くに焼く予定のパン生地がある。触ってみたくなるのを我慢するために、詩絵は一所懸命に参考書の文字を追った。
「詩絵、こっちを見たいなら、それを置いてきなさい」
けれどもそわそわしているのはとっくにばれている。詩絵は参考書を居間に一度置いて、また厨房に戻ってきた。手をしっかり洗って、割烹着を着て、父の隣に立った。すると父が捏ねかけのパン生地を少しだけ分けてくれるので、それにそっと触る。詩絵が作るパンは売り物にはしないが、他のパンと一緒に焼いてもらえるのだ。
「勉強は、順調か」
詩絵がパン生地を捏ねて丸め、寝かせる準備をしていると、父が尋ね返してきた。曖昧に笑って、「どうかなあ」と答える。
「友達にも、成彦にも、たくさん手伝ってもらってる。でもさ、アタシ、物覚え悪いから。特に数学なんて全然だめ」
「数学は難しい。店の勘定さえできればいい」
「うちで仕事するならそうかもね」
数時間生地を寝かせて、早朝に形成して焼く。生地を寝かせているあいだに、父も休むのだ。それが加藤パン店の、店主の日々なのである。詩絵は幼い頃からその光景を見てきた。まだ祖父母が店を切り盛りしていた頃から、ずっと。
「詩絵、うちの仕事は楽しいか」
「楽しいよ。なんで?」
「夏休み中、よく手伝ってくれただろう。パンの作り方も覚えようとしていた。詩絵は、パン屋になりたいのか?」
「アタシは……」
仕事は見てきたし、触れているし、楽しいと思う。このまま店を継ぐということも、ずっと考えてきた。今手伝っているし、いつかは継ぐのだろうと思ってきた。
「パン屋になりたいなら、中学を卒業してすぐにうちの仕事をすることもできる。作り方を覚えて、うちを継ぐ準備をしていくという道もある」
だが、突然こう言われると、すぐに返事ができなかった。
珍しく饒舌な父は、さらに続ける。
「俺は親父から、中学生のうちからみっちりパン作りを仕込まれた。勉強より優先したから、せめて高校は出ようと思ったら、遠川高校にしか行けなかった。それでも店を継ぐには何の問題もなかったし、調理専門学校にも行った。……うちを継ぐつもりなら、そういうやり方もある」
店を継ぐなら、別に礼陣高校にこだわらなくてもいい。詩絵が成績で悩むこともない。父はそう言いたいのだろう。
礼陣高校は間口が広く、その先の進路選択も多様だ。大学へ進学する者もいれば、就職する者もいる。けれどもそれは他の学校だって、同じようなものなのだ。部活動だって、たしかに礼陣高校に行けば全国にも迫るレベルでできるかもしれないが、他の学校にないわけではないのだ。そもそも詩絵は、どんな部に入りたいのかも決めていない。
「礼高じゃなくてもいいのか……」
厨房を見渡して、小さく呟いた。父はさっさと作業を済ませて、もう休む用意をしていた。
翌日の朝、千花がにこにこして言った。
「お昼休みに勉強会すれば、新君も一緒にできるよね。図書室にノートとか持って行って、わからないところは新君に訊いちゃおうよ」
名案だった。そうすれば、互いを意識しあっている春と新を一緒にいさせることもできるし、当初の目的どおり勉強もできる。なにしろ学年トップの新がいるのだから、疑問があればすぐに解けるはずだ。
この提案は新と春のためであり、同時に詩絵のためでもあるのだろう。
「昼休みか。それならうちの親も口出しできないし、問題ないな。今日の昼から始めるか」
「良かった。ちょうど昨日、詩絵ちゃんと勉強してて、わからないねって言いあってたところがあったの。新がいればわかりやすく説明してくれるよ、詩絵ちゃん!」
新と一緒に勉強ができることで、春も嬉しそうだ。それを見ている千花も満足気で、とても「アタシのことはもういいよ」なんて言える雰囲気ではない。だから詩絵も頷いた。
どうせ進路を変えたって、テストは確実にあるのだ。勉強はするべきだろう。
「でも新、かなりスパルタだからなあ。アタシが何を訊いても呆れないでよ」
「質問による。でも、詩絵に完璧に理解させたら、オレも龍堂受かる気がするから、なんでも答えてやるよ」
新は龍堂高校に受からなければ、礼陣高校を受験することができない。そうまでして礼陣高校に行きたい理由が、新にはある。春や千花にも。はっきりしていないのは詩絵だけで、やはり別の道を行っても問題はなさそうだった。ただ、それを口にすることはできない。せっかく「みんなで礼陣高校に行こう」といっているのだから、空気を壊したくはない。
それに、昼休みの勉強会は驚くほど捗った。昨日、春と二人で苦戦していた難問も、新にかかればいとも簡単に分解され、そしてわかりやすくまとめられる。やらなければならないとなるとつらいが、わかると楽しいのも勉強なのだ。
「ほらな、変域出ただろ」
「さすが新だね。詩絵ちゃん、今の説明わかりやすかったよね」
「うん。悔しいけど、学年トップは伊達じゃないね」
新のおかげで問題が解けたところで、ためしに次の問いに取り組んでみる。同じ方法でできると新がいうので、説明を思い返しながら丁寧に解いた。昨日はこれも間違ってしまい、赤ペンで正答を書きこむ羽目になったが、今回はきちんと求められているところに辿り着けた。
「うわ、できた。アタシが数学解けた……」
「よし。塾の先生の真似もしてみるもんだな。夏休みが無駄にならずに済んだ」
新はそう言って笑った。自分が解いたわけではないのに、嬉しそうだった。「夏休みが無駄にならずに済んだ」のところで、詩絵の胸はちくりと痛む。新は仕方がなかったとはいえ、勉強漬けだった夏休みをちゃんと自分のものにしていたのだ。
「この調子でどんどんいこう。……と思ったけど、もう休み時間終わっちゃうね。またよろしくね、新君」
昼休みの勉強会は効果があると確信したのか、千花は明日以降も続けるつもりらしい。もちろん新と春もそのつもりだ。詩絵が加わらないわけにはいかない。実際、新のおかげで解けなかった問題がすんなりと解けるようになった。ちょっとした進歩なのだろうが、期待してしまう。もしかしたら、自分も彼らと同じ学校に行けるのではないかと。
そうでなくても、他の学校に良い成績で入ることができるようになるのではないかと。
午後の授業が終われば、今度は春の家で二人きりの勉強会だ。ここでわからないところをチェックしておいて、どうしても理解が及ばなかったところは、翌日、新に教えてもらう。数学と英語はこの方法でなんとかなりそうだった。
他の科目は、詩絵が家に帰ってから、成彦の協力を得ながら取り組む。技能系科目のペーパーテストは、おそらく良い点がとれるだろう。いや、成彦のためにもとらなければならない。
そのあいだも、詩絵はずっと悩み続けていた。礼陣高校か、他の学校か、実家で働くか。目標に届かなくても、他の選択肢はある。夏休み中、詩絵はずっと家の手伝いをしていたのだから。
テストの一週間前になると、放課後の勉強会に千花が加わるようになった。なんでもそつなくこなす千花は、詩絵の質問にもよく答えてくれた。特に英語は千花の得意分野なので、単語や連語、文章を覚えるのを手伝ってもらった。
「ええと、『彼女の手紙は私を喜ばせる』は……makeを使うんだっけ」
「そうだよ。主語にmake、人など、それから形容詞で、『何々をなんとかの状態にする』っていう意味になるの。詩絵ちゃん、やってみて」
間違っても、千花は詩絵ができるまで、根気よく優しく付き合ってくれる。ありがたいような、申し訳ないような、そんな気持ちが詩絵の中に生まれる。だってこんなことは、夏休み中にもっときちんと勉強しておけば、より早く理解できたはずなのだ。自信なさげに確認などしなくても、まず答えを書いてしまって、それから千花に見てもらえばいいだけのことだったのに。
数学についても同じで、千花と春に教えてもらいながら少しずつ解く。それでもわからなければ、あとで新に尋ねる。詩絵の悩みはともかくとして、テストの準備は着々と進んでいた。
テストを間近に控えた日の朝、春はいつもよりずっと早く登校してきた。休み時間や放課後はいつものメンバーで集まってしまうので、こっそり相談をするならこの時間しかないのだ。
鞄を教室に置いてから、職員室に向かう。今の時期、職員室には入室制限がかかっている。テストの問題が生徒の目に触れないようにするためだ。だから職員室の戸を叩いて、誰も出てこなければ、誰かが来るまで待つと決めていた。
しかして、ノックの音には反応があった。春たち生徒が思っているより、教師たちはずっと早くに学校に来て、授業の準備をしたり会議をしたりしているものなのだ。戸はすぐに開き、中から三年A組担任の服部が顔を出す。
「須藤か。おはよう」
「おはようございます。あの、井藤先生いますか?」
「ああ、呼んでくるから待っていなさい。おーい、井藤先生」
服部が井藤を呼ぶときは、いつも「先生」をつける前に少し間がある。普段から仲良くしているらしいので、改まった呼び方をするのに慣れていないのだろう。それを聞くと、春の緊張はほんの少し解けた。
そこへ三年C組、つまり春たちの担任である井藤がやってくる。人好きのする笑顔で、片手を挙げながら。
「おはよう、須藤。朝早いな」
「おはようございます。……あの、ちょっと相談があって」
「どうした? 場所変えようか。服部ぃー、俺が会議に遅刻したら言い訳しといてー」
「学校では呼び捨てにするな!」
もはや先生同士のやりとりではなくなってしまっている。春は堪え切れなくなって、ぷっとふきだした。それを見た井藤が、戸を閉めながら「やっと笑った」と言った。
「朝から深刻そうな顔してるから、事故でもあったのかと思ったけど。違うみたいだな」
「事故とかじゃないです。その……詩絵ちゃんのことで、相談したくて」
「加藤の?」
一瞬で真剣な表情になった井藤に、春は頷いた。
テスト勉強を始めた日から、ずっと引っかかっていた。詩絵の様子は、学力テストの結果を見たときから、日に日におかしくなっている。悔しそうに叫んだり、かと思えばぼうっとしたり。最近では春の家でテスト勉強をしているあいだ、ずっと元気がない。いや、本人はいつもどおり元気に明るく振る舞っているつもりなのだろうが、そこに中身がないことに、春はとうに気がついていたのだった。
そこで、以前井藤に言われたことを思いだした。――「結構溜めこむタイプ」だから、気にしてやっていてくれと。井藤は春にそう言ったのだ。だからしばらくは気にしているつもりでいたけれど、修学旅行以降の詩絵はそんなそぶりなど見せなかったので、次第に忘れていったのだった。
だが、そもそも詩絵は本当の悩みを表に出さない。成績のことだって、たまに愚痴を言いながらも成果をあげなくてはとがんばっていて、常に前向きでいるものだと思っていた。詩絵自身がそう見せようとしていたのだ。
「詩絵ちゃん、成績のこと、やっぱり悩んでるみたいなんです。新に教えてもらって問題が解けたときはすごく嬉しそうなんですけど、それ以外はなんだか焦ってるような……」
井藤に連れられて来た数学準備室(教材が雑多に置いてある中に、机といすが設えてあった)で、春はうまく説明できない考えを口にした。詩絵が悩んでいるのが、本当に成績のことなのか、それとも他に理由があるのかはわからないが、勉強しているときに様子がおかしくなるのはたしかだった。
ただし、新が加わる昼休みの勉強会のときは別だった。問題が解けることが、本当に楽しいようだった。だからきっと、勉強をしたくないというわけではないのだ。
「詩絵ちゃんは私たちをよく励ましてくれるけど、自分が弱音を吐くことってあんまりないんです。私のことも、いつも気にかけてくれるんだけど、私はそのお返しが全然できない」
「加藤に勉強教えるのは?」
「教えてるのは新や千花ちゃんで、私は一緒にやってる感じなんです。詩絵ちゃんはわからないことは訊くけれど、自分でちゃんとやってる。私が教える必要はないし、教えるような立場じゃないんです」
「入江はともかく、園邑も同じこと思ってそうだな。加藤に教えてるんじゃなく、加藤と一緒にやってるんだって」
井藤は頷きながら、穏やかに笑った。そして春の頭をぽんぽんと軽く叩く。春が顔をあげて首を傾げると、井藤は「大丈夫」と、ゆっくり確かめるように言う。
「勉強はしてるなら、テストが終わるまで様子を見てもいいな。加藤はがんばってるんだろ」
「はい、とっても。でも、がんばりすぎてないかな……。もしかしてそれで疲れちゃってるんじゃないでしょうか」
「入江に教えてもらってるときは楽しそうなんだよな。随分スパルタだって聞いたけど、負けてないなら大丈夫だと、俺は思うな。だから加藤が悩んでるのは、きっと勉強のことじゃない。期末テストが終わったら、俺から話をしてみるよ」
ずっと詩絵の担任をしてきた井藤には、詩絵の元気がない理由がわかっているのだ。春ができないことを、井藤ならできる。それがほんの少し嬉しくて、ほんの少し悔しかった。詩絵のために何かしたいのに、何もできないのが、春にはつらい。そんな気持ちも、井藤はちゃんと理解してくれているようだった。
「心配しなくても、須藤は加藤の力になってるよ。加藤が成績上げたのは、須藤たちと一緒に勉強するようになってからだろ」
「正確には、新が教えてくれるようになってからです」
「入江と加藤が知りあったのは、須藤がきっかけだろ。俺はちゃんと知ってるんだからな」
にやりと井藤が笑い、春は赤くなった。そうだ、新が女子三人組に加わることとなったのは、春がいたからなのだ。新が春を好きにならなければ、この関係は始まらなかった。普段から廊下であんなに堂々と喋っているのだから、井藤がそのことを知っていても、何もおかしくはない。
「だから須藤も、落ち込むことなんかないんだぞ。須藤や園邑や入江がいるおかげで、加藤は元気でいられるんだ。そうだな、しいていうなら、須藤と園邑は優しいから、加藤もちょっとは遠慮するのかもしれない。その点、入江は加藤に対して容赦ないから、一緒に勉強してどんなに呆れられても、その反応が当たり前だと思って落ち着くのかもな」
「たしかに新は、詩絵ちゃんに教えるときは平気で『さっき教えただろ』とか『なんでわかんないんだ』とか言います。私と千花ちゃんには言わないのに」
「それが加藤を楽にしてるんだろうな。そんなふうに言われたら、同じ調子で言い返せるだろ。だから昼の勉強会は楽しそうなんだ」
その推理は、まるで詩絵と井藤の掛け合いのようだった。井藤が詩絵に絡むと、詩絵は井藤に反撃する。協力するときはとことん協力する。詩絵と新の関係も、きっとそれと同じなのだろう。春は感心すると同時に、ちょっとだけもやっとした。自分では詩絵を楽にしてあげられないことと、もう一つの理由で。
「須藤。加藤にやきもち妬くなよ。いや、入江に妬いてるのか?」
「妬いてないですっ! ……じゃあ、私は詩絵ちゃんのために何ができるんですか」
心配しなくていいなら、落ち込まなくていいなら、春はどうすればいいのだろう。その答えも、井藤は用意してくれていた。
「いつも通りにしていればいい。加藤にとっても、須藤にとっても、それが一番良いことだ」
その日の昼休み、春と千花は「ちょっとお手洗い」と言って、少しのあいだ図書室を出た。ちょうど詩絵は苦手なタイプの問題の解き方を新から教わっていて、真剣にノートに向かい、新の言葉に耳を傾けていた。
春は井藤とした話の内容を、千花に全て伝えた。いや、やきもちのくだりは語らなかったが、それ以外はだいたい千花の知るところとなった。
「井藤先生の言うことは、きっと本当だね。詩絵ちゃんが強がりなのも、先生は知ってると思うし」
「前にも先生、詩絵ちゃんは溜めこみやすいみたいなことを言ってた。今は新に言い返したり、新のおかげで問題が解けることで、ストレスを吐き出してるのかな。……あ、もちろん千花ちゃんの教え方もすごくわかりやすいけど」
あわてて付け足した春に、千花は笑いながら手を振った。それからしみじみと、こう言ったのだった。
「私たち、新君と違って女の子だから」
「女の子だから?」
きょとんとする春に、千花は頷く。その目は、ちょっと困っているようで、けれども仕方がないというように、どこか遠くを見ていた。
「詩絵ちゃん、井藤先生に北市女の受験を勧められたって言ってたでしょう。北市女は、力試しではあるけれど、私と春ちゃんも受験する。あんまり良い言い方じゃないけれど、詩絵ちゃんが北市女を受験するとしたら、私たちは二回戦わなくちゃいけないんだよ」
千花の言葉に、春はハッとした。同じところを受験するということは、同じ場所に通うことを目指すと同時に、ライバルにもなる。ライバルから勉強を教わることは、詩絵にとって悔しいことなのかもしれない。ましてそれが二回になるかもしれないのなら。……考えたくはないが、詩絵が「負けるかもしれない」と思っているのなら。それはどんなに苦しいことだろう。
運動系の部活をやっていたこともあって、春にはその気持ちが少しは理解できた。同じ場所に立つライバルにアドバイスをもらうのは、感心すると同時に悔しくもある。自分の力が足りないことを思い知らされたときは、胸が締め付けられた。詩絵も同じ気持ちを味わっているのだとしたら、もしかして、春は詩絵を追い詰めていたのだろうか。
「春ちゃん、詩絵ちゃんを追い詰めたかと思ってる?」
まるで心を読んだかのように、千花は言う。どきりとした春に、千花は首を横に振った。
「違うよ。春ちゃんは詩絵ちゃんを追い詰めてるんじゃない。そんなこと詩絵ちゃんに言ったら怒られちゃうよ。だから私も言わないし、思わないようにしてるの。私たちは、同じところを目指す仲間。仲間は、お互いを高め合えるんだよ」
「仲間……」
「そう。その点では、新君はちょっとだけ仲間外れだよね。男の子だから北市女は受験しないし、求められてるレベルが私たちとは比べものにならない。だから詩絵ちゃんも、新君に教わるのは楽なんだと思うんだ」
だからやきもち妬いちゃだめだよ、と千花は井藤と同じことを言った。井藤と違って、どちらにとは言わなかったが、おそらく両方を指しているのだろう。春は苦笑して、それからもう一度、「仲間」という言葉を呟いてみた。
仲間なのだから、詩絵が気負う必要もない。詩絵も、春たちも、ちゃんと高め合っている。上を目指して進んでいる。それを早く伝えたいのだけれど、井藤や千花とこの話をしたことは、まだ詩絵には内緒だ。少なくとも前期末テストが終わるまでは、「いつも通り」にしていよう。
「トイレ休憩には長すぎちゃう。図書室に戻ろう、春ちゃん」
「うん。詩絵ちゃん、あの問題解けたかな」
今は、今やるべきことを。詩絵もきっと、そう思っている。だからあんなにがんばっている。それなら春も、遠慮なんかしないでがんばらなくては。
期末テストは二日間にわたって行われる。一日目は国語、理科、英語、そして技術家庭科と美術が一時間に半分ずつ。二日目は社会、数学、保健体育と音楽が一時間に半分ずつ。二日間とも給食は食べずに下校になる。
詩絵の苦手な数学と英語が分散されたのはラッキーだった。特に数学が二日目になったことで、勉強する時間が少し多くとれる。
とにかくまずは一日目を乗り切らなければならない。朝、詩絵はいつもより朝食をしっかりと摂り、そのあいだも英単語の復習をした。そうして出かける直前、成彦に呼び止められた。
「姉ちゃん、学校に着いたら英単語帳の最後の紙でも見て。いってらっしゃい」
首を傾げながら「いってきます」を言って、詩絵は学校に向かった。到着すると、多くの生徒が漢字や理科の用語や英単語の暗記をしていた。最後のあがきだ。詩絵もそれに加わろうとして、ふと成彦の言葉を思いだした。
英単語帳の一番最後の紙。それを見てみると、小学生にしては几帳面で丁寧な字で、日本語が書いてあった。「姉ちゃんは絶対できる」。昨夜にでもこっそり書いておいてくれたのだろう。詩絵にとっては一番力になる応援だった。
「詩絵ちゃん、おはよう。なんだか嬉しそうだね?」
「おはよ、春。これ見てよ、我が弟からのメッセージ」
「わあ! 成彦君、良い子だね。私もそう思うよ。詩絵ちゃんは絶対にできるからね」
春の笑顔にも励まされる。この笑顔に惚れ込んだという新の気持ちが、少しわかる。
進路をどうしようと、このテストは乗り切らなければならないのだから、絶対にやり遂げなくては。詩絵は春に「ありがとう」と言いながら、片手でピースサインをし、もう片方の手で単語帳を捲った。
テストの二日間は、休み時間に四人で集まるのはやめておくことにした。それぞれでテスト直前の時間を迎え、一日目が終わればすぐに帰宅して二日目の準備をする。苦手な数学と英語も、一人でやらなければならない。けれども詩絵の頭の中は、新たちから叩き込まれたことでいっぱいだった。そういう意味では、孤独ではない。
国語はいつも通り、それなりにできた。いや、今回は授業ノートの見直しをいつもよりきちんとしておいたので、いつもより出来がいいかもしれない。
理科は暗記しておいたことがほぼそのまま出た。けれどもやっぱり一分野は苦手で、思うように答えが書けなかった。
英語は千花や春に問題を出してもらいながら覚えた連語や単語を、思い出せるだけ思い出して書いていった。長文は授業でやった内容なので、ノートに書いたことを頭の中から探りだして、なんとか答えにしていく。
技術家庭科と美術は、成彦に手伝ってもらいながら暗記したことが役に立った。きっと今までで一番の結果になることが期待できる。
一日目が終わったら、帰ってすぐに二日目のための勉強に取り掛かる。昨日と今日は成彦が全ての家事をやってくれるというので、甘えることにした。昼食だけは自分で作って食べたが、ミックスベジタブルをご飯に混ぜて炒めただけのチャーハンだった。
勉強に集中したおかげか、はたまた成彦が料理上手なのか、夕飯は美味しかった。前日から仕込んでおいた鶏ハムを炙ってご飯にのせた鶏ハム丼に、サラダと豆腐の味噌汁。詩絵が味を思い切り褒めると、成彦は照れながら「姉ちゃんが作ったほうが美味しいよ」と謙遜した後に、「ありがとう」と小さな声で言った。
その日は無理をせずに早めに布団に入り、目を閉じながら数学の問題の解き方をシミュレーションした。新に教わったことを、問題を見ればすぐに結び付けられるようにしておきたかった。
二日目は社会科から始まる。用語などの暗記はバッチリだったのだが、数字などの資料が絡んでくるとやはり難しい。
最も苦手な数学は、その分最も気合を入れていたおかげか、良く解けた。応用問題になるとさすがに途中で手が止まってしまったが、中間点くらいは貰えるといい。いや、やはり全部解ききることができないのは惜しかった。応用だって、新は教えてくれていたのだから。
保健体育と音楽は、やはり暗記なのですらすらと解けた。多少間違っていても、大きな減点にはならないだろう。これも今までで一番の出来になりそうだ。
そうして前期末テストの二日間は、あっという間に終わってしまった。あとは結果を待つばかりとなった詩絵の肩を、春が近付いてきて叩いた。
「お疲れさま。千花ちゃん誘って、帰りに甘いものでも食べていこうか」
その言葉が心にしみて、詩絵は衝動的に春を抱きしめた。
「勉強手伝ってくれて、本当にありがとう。結果出たら、報告するから」
春は驚いたのか、少し間を置いてから「みんなで報告会しようか」と返事をした。それから帰りに千花を誘い(新は寄り道を禁止されているので、誘っても来られなかった)、商店街にある和菓子屋「御仁屋」で、甘い「おにまんじゅう」を思い切り頬張った。疲れた頭を労うような、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
成彦にもお土産を買ってから、その日は解散することにした。あとはもう、結果を見て、これからのことを決めるしかない。――詩絵の中では、成績にボーダーが設定されていた。今後の進路は、そのボーダーに従おうと思っていた。
テストが返却されるのは、次の授業だ。それまでに各教科の担当教諭は採点を終え、成績を記録する。その結果が、評定平均に大きく影響することになる。つまり、ランクに現れるのだ。評定が出たら、先日の学力テストとあわせて、現時点でのランクを確認することになっている。
三年生全員にとって、ランクが出るというのは緊張の瞬間だ。現在の自分の立ち位置がわかると、おのずと目標を達成できているか、目指さなければならないところまでどのくらいの差があるかが見えてくる。
毎時間返却されるテストの点数を見て、生徒たちは各々呻き、喚き、感嘆する。二科目以上返ってくると、そのたびにそれまでの合計点と平均点を計算し、予想される評定を出す。それを科目数分繰り返して、全科目が揃ったタイミングで得点通知表が配布された。学年順位と正式な評定の公開だ。
「ちゃんと親に見せて、判子もらってこいよ。親が忙しいからって勝手に判を捺して持ってこないこと」
以前に詩絵がやってしまったことを、井藤は注意した。だが、もうそんなことはしない。この結果で、詩絵は自分の進路を決めた。これまでの迷いを一切捨てることにした。
約束通り、この通知表は親に見せて判子を捺してもらってから、友人たちに公開するつもりだ。詩絵の進路への思いと一緒に。
「加藤、放課後ちょっと時間くれ。話がある」
井藤に呼び止められたのは、春と少し話してから帰ろうと思っていた、ちょうどそのときだった。家事や店の手伝い、それからテストの復習以外の予定はないので、従うことにする。春とは手を振りあって、教室で別れた。
進路指導室で、井藤と机を挟んで向き合う。ちょうどいい、詩絵からもちゃんと話をしておこうと思っていたところだ。三者面談のときと、状況が変わるのだから。井藤の今後の指導にも影響してしまうだろう。
「加藤、テストお疲れ」
「うん。今回はすごく疲れた」
軽く、普段通りの笑顔を浮かべて切り出した井藤に、詩絵も同じように返した。けれども道を決めてしまったおかげか、いつもより気持ちはすっとしている。何でも正直に話せそうだ。それがたとえ、口にするのもつらいことでも。
「がんばったな。平均七十五点。……数学の採点してて、俺はびっくりしたよ。俺の渾身の問題で、加藤が六十五点もとってくれるなんて」
数学の平均点は、けして高くはなかった。それでも詩絵は、いつも以上の点数を叩き出した。だから、これは詩絵のベストだ。今現在、できる限りのことを尽くした結果だ。他の科目も六割から七割、技能系科目に至っては八割とれたものもあった。――どの科目も、今までで最高の点数だった。
「井藤ちゃん。アタシね、期末テストの結果で、進路決めようと思ってたんだ。きっとこれ以上の力を出すのは、難しいって思ってたから」
詩絵はまっすぐに井藤の目を見て言った。井藤は微笑んだまま、頷く。
「ああ、それで?」
「平均点が中間テストより悪かったら、礼陣高校は諦めようと思ってた。遠川高校に行きながら、パン屋になる修行をさせてもらおうって。……でもよく考えたら、こんなの、一所懸命働いてるお父さんやお母さんに失礼だよね」
店を勉強が不十分だった理由にはしたくない。跡を継ぐことを逃げ道になんかしても、両親は喜んでくれない。だからこんなものは、すぐに捨てるべき考えだったと、詩絵は今反省している。
「中間テストより平均や順位が少しでも良ければ、そのまま礼陣高校を目指すって決めた。もう店とか家事とか、そういうやって当たり前のことなんかに逃げたりしない。ちゃんとみんなと一緒に受験しようって、絶対本気で勉強しようって、決めたの」
たとえ同じ学校を学年トップや上位者が受けても、他の学校からもたくさんの志望者が押し寄せるとしても、詩絵が行きたいと思った道を変えないと決意した。そしてそれは、達成された。詩絵は礼陣高校を受験して、友人たちと一緒に合格したいのだ。同じ学校で、高校生になりたいと、なろうと思った。
「それで、もし、もしも、中間テストよりずっといい結果が出せたら。……井藤ちゃん、言ったよね。アタシに北市女受けてみろって。それ、やってみようと思った」
そしてそれ以上に、もっと勉強をして、自分の力がどこまで通用するか試してみたいと思った。誰にも言ったことのなかった、諦めかけた夢でさえも、追いかけてみようと思った。詩絵は今、その道の前に立っている。
「出せたな、結果。一所懸命迷って、それでも諦めずさぼらず勉強して、一年前期中間以来の高得点を出した。順位もかなり上がった。……ただ礼高に行きたいという思いを諦めなくて良くなったんじゃない、挑戦してみようという気になった」
「うん。アタシ、北市女も礼高も受験する。それで、……ここからは本当に、誰にも言ったことないんだけど。……たぶんみんな無理だって言うと思ってたし、実家のことを思うと実現できるかどうかは難しいと思ってたから」
詩絵が言い渋っても、井藤は黙っていた。ただ目を細めて、詩絵の言葉を待っていた。一年生のときに担任として出会ってから、この教師はずっとそうだ。人の話を親身になって聞いてくれ、心からの助言をくれる。生徒にとって良いと思う道を作り、選択肢を増やしてくれる。生徒と一緒になって笑い、ときに叱り、励ましてくれる。詩絵は、そんな井藤が三年間担任をしてくれることが嬉しかった。
「アタシね、先生になりたいんだ。主要科目も芸術科目もそんなに得意じゃないけど、がんばって克服する。克服したうえで、体育の先生になりたい。そして、井藤ちゃんみたいに、生徒と真剣に向き合う先生になるんだ」
実家が店をやっていることや、そもそも成績がさほど良くないことから、口にも出さずに捨てようとした夢だった。一年生のときにちょっとだけ考えて、すぐに忘れようとした、そんな思いだった。でも今、初めて言葉にしてみて、わかってしまった。これが詩絵の、実現したいと思う望みなのだと。
井藤は詩絵が言いきると同時に立ち上がった。そして手を伸ばし、詩絵の頭をがしがしと撫でた。その顔は心底嬉しそうな笑顔なのに、目は少し潤んでいる。井藤でもこんな顔をするのだと、詩絵は初めて知った。
「……俺がどんな中学生だったか教えてやろうか」
詩絵の頭に手を置いたまま、井藤は口を開いた。
「本読んでばっかりで、あとはばあちゃんの家で飯の作り方を教わってるような、そんな中学生だった。小学生のときからそんな感じで、高校にあがる頃は調理師を目指そうと思ってた。でも、親が両方とも教師だったから、結局この道を選んだ。俺が教師になった理由なんて、そんなもんだ」
「え、そうなの?」
「ああ。数学もできるようになったのなんて高校に入ってからだし、たまたまその年の教育大の数学科枠が入りやすそうだったから、そっちに行ったんだ。加藤に、俺みたいになりたいなんて言われるほどのもんじゃない。……でも」
そっと手が離れる。井藤の顔がはっきり見える。詩絵の目標が、そこにあった。
「生徒からそんなふうに言われたら、教師になって良かったって、思えるものなんだな。今、めちゃくちゃ嬉しい」
詩絵は井藤のような教師になりたい。そのために、礼陣高校に行って、大学まで進みたい。親との相談はこれからだが、あの両親のことだ、反対はしないでいてくれるだろう。本当は店を継いでほしいとしても。
「井藤ちゃん、もうちょっとよろしくね。アタシが卒業するまで」
「卒業して礼高の制服着るようになってからも、頼ってくれていいんだからな。俺はいつでも先輩扱い大歓迎だ」
井藤とぎゅっと握手をしてから、詩絵は進路指導室を出た。今日は帰って、両親が夕飯をとる頃にこの話をしよう。テストの結果と、叶えたい夢と、それからもちろん、店の手伝いは続けたいということも。進路や夢と同じくらい、詩絵にとっては自分の育ってきた家も大切なのだから。
詩絵の得点通知表を見た新は、黙り込んでしまった。せっかく成績の上がった今こそ結果を読み上げるべきだと思うのだが、それができないほど感動していたらしい。
「お前、よくこんな……特に数学と英語、平均点から考えると前以上の伸びだぞ……。技能系科目もよくできてるし」
「春と千花だけじゃなく、成彦にまで手伝ってもらったからね。数学は、新先生のおかげです。みんな、本当にありがとう」
ぺこりと頭を下げる詩絵に、春と千花があわてて「頭上げて」「詩絵ちゃんががんばったからだよ」と言う。元の直立姿勢に戻った詩絵は、すっきりとした笑顔をしていた。
「それでさ。親とも話して、アタシ、礼高だけじゃなくて北市女も受けることにしたんだ。でもって、将来的には体育教師を目指すべく大学に行こうと思ってる」
「先生になるの?! すごい、きっと詩絵ちゃんなら、いい先生になるよ!」
「体育の先生なら、見本とかばっちり見せられるよね。部活の顧問とかやっても素敵!」
笑われると思っていた夢も、親や友人に話すと案外すんなりと受け入れられた。親は意外にも大喜びで援助を約束してくれたし、弟などは「じゃあ僕がパン屋やれば全部解決するね」とあっさり言ってのけた。もちろん、「夢があったらそっち目指してもいいんだよ」と家族全員で言ったが。
「高校卒業後まで考えるなんて、詩絵はすごいな。この調子で成績キープするか、上げるかしろよ。それと学力テストで点取れば、礼高合格圏内でちょっと余裕持てるようになるから。数学でも何でも、教えてほしかったらオレに言え」
そう言って得点通知表を返してくれた新に、詩絵も持っていた新のそれを渡す。
「はいはい、相変わらずの学年トップ様。……ていうかさ、みんなアタシのことそうやって褒めてくれるけど、アタシよりずっと成績良いよね。結局この四人では、またアタシがビリじゃん」
「詩絵ちゃんのおかげだよ。質問してくれたからこっちもちゃんと考えられたし、新のわかりやすい講義も聞けたんだから」
「私たちががんばろうって思えるのって、詩絵ちゃんが空気を作ってくれるからなんだよ」
「もう、なんでもアタシのおかげにしない! 照れちゃうから!」
「オレはそうでもない」
「新はちょっと空気読め! 本当に春のことしか考えてないな、この脳みそは!」
賑やかに、けれども新たな決意を持って、前学期が終わる。後学期に待っているのは、最後の文化祭と、受験の日々だ。どんなことがあっても、乗り越えていく自信はある。だって、仲間と一緒なのだから。