ぬるい風が肌を撫でていく。墓石を磨く手を一旦止め、額に浮かんだ汗を拭った。
毎年、夏休みの最初の日はここに来ている。礼陣の街のはずれ、山の麓にある、穣山霊園。ここには礼陣に住む人々の先祖が多く眠っている。須藤家の墓もここにあり、春と祖父は毎年ここを訪れている。
「もう十一年か。春も大きくなるわけだ」
祖父が呟く言葉が、胸にしみた。十一年、春はずっと祖父と二人で暮らしてきたのだ。そのうちに小学生になり、中学生になり、そして今年、中学生活も最後の一年となった。新しい友達ができ、それから。
「お父さん、お母さん。私ね、好きな人ができたんだよ」
墓周りの掃除を終えてから、そっと手を合わせて、心の中でそう報告した。生きていたら、彼らは驚くだろうか。なにしろとても小さかった頃に別れてしまったので、どんな反応をするのかわからない。でも、祖父や知人の語ってくれる思い出の通りなら、父はあわてるだろうし、母は詳しいことを聞きたがるだろう。修学旅行の話だって、一日では話しきれないようなことを、全部聞いてくれただろう。
「夏休み中にも、遊ぶ約束してるんだ。楽しみだな」
友達を家に呼んで、両親に会わせることを想像したこともあった。母が作ってくれた寒天菓子を、父の面白い話を聞きながら食べるのは、きっと楽しかっただろう。
夏休みとはいうが、本当に休んでいられるわけではない。全国大会に進んだ部は夏休み中に試合があったりするし、そうでなくても全学生が学校から多くの課題が出されていたりする。長い休みがあっていいね、と大人は言うが、学生は学生で大変なのだ。特に、受験を控えている学年は。
中央中学校でも、午前中に夏期講習を開講している。事前に受講希望者を募り、七月のあいだに学校に生徒を集め、特別授業をやるのだ。受験を控えている三年生は出席率が高い。そのほか、前期中間テストで赤点をとってしまった者は強制的に参加させられる。
夏休み一日目、その夏期講習を受けるために、新は普段通りに学校に来ていた。午前中に学校の夏期講習を受けた後は、午後には列車で隣町に行って塾での講習がある。そして家に帰ってからは、夕食後に家庭教師がやってきて、また勉強。その合間に学校で出た課題をこなしたり、弓道場で弓を引いたりする。そんな夏休みのスケジュールを聞いて、同じく学校の講習を受けに来ていた詩絵と千花は溜息を吐いた。
「新君、忙しいね……」
「いくらなんでも詰め込みすぎだと思うけど。まだお母さんは、アンタを龍堂高校に行かせるって言ってるの?」
高校への進学について、新は親と揉めていた。母は、息子を学力の高い隣県の男子校に進学させたいと思っているのだが、新はここ、礼陣にある礼陣高校に行きたいと考えている。弓道をやっている新にとって憧れの先輩がいること、さらには春が礼陣高校への進学を希望していることが理由だ。けれども母は、新が礼陣高校へ行くことを許していなかった。
「いや、状況は変わったんだ。母さんはともかく、父さんは礼高に行くことに反対しないって言ってくれた」
「あ、そうなの? お父さんが味方なら、礼高行けるじゃん」
「条件があるんだよ。龍堂もちゃんと受験して、合格しろって。実力はあるってことを見せて、母さんを納得させたら、礼高に行っても良いってさ」
あまりにハードな条件に、詩絵は言葉を失い、千花は「えー」と声をあげた。隣県の龍堂高校に行くには、非常に難しい試験を受けなければならない。礼陣の男子中学生でも勉強ができる者は記念受験をすることがあるが、合格率はけっして高くはない。中央中学校では年に二人も合格が出れば大快挙だ。それだけランクの高い学校に合格しなければ、本命の学校に行けないなんて、無茶にもほどがある。
「でも父さんがそう言って、母さんがやっと『それなら認めてもいい』って言ってくれたんだ。ようやくここまできたんだよ」
「まあ、あれだけ反対されてたからねえ。それにしたってどうかと思う条件だけど」
「新君ならできるよ。そのために、そんなに忙しい夏休みにしようとしてるんでしょう?」
千花が言うと、新は首を横に振った。夏休みがこんなにハードになったのは、新としても予想外のことだったのだ。
「このスケジュール組んだのは母さん。学校の講習は受けなくていいって言われてたんだけど、それはオレが来たかったから入れることにした。七月中だけだし、講習でしか春に会えないかもしれないし……」
そうしてあたりを見回すが、春の姿はない。先ほどからずっと待っているのだが、一向に現れない。もうすぐ講習の一時限目が始まってしまうというのに。
その様子を見た詩絵が、苦笑した。
「あのさ、新。今日は春、来ないよ」
「え、なんで?! 講習受けるんだよな?」
たしかに、春は「学校の講習には参加する」と言っていた。それなのに来ないだなんて、体調でも崩したのだろうか。心配する新に、千花が変わらぬ調子で言った。
「春ちゃん、今日はお墓参りだから。夏休みの一日目はいつもそうなんだって」
「墓参り? 誰の?」
「お父さんとお母さん」
そういえば、春には両親がいないのだった。本人は事故で死んでしまったのだと言っていた。それを思い出して、新はきまりが悪そうに俯く。
「そうか、墓参りか……。じゃあ、今日は会えないんだな」
「春ちゃんに会えるのは明日以降だね。今日は残念だけど、講習がんばろう」
そろそろ始まりの時間だ。新と千花は発展コースの教室へ、詩絵は標準コースの教室へと別れて入った。
標準コースの講習を受けるのは、いつもの四人では詩絵だけだ。明日からは春も講習に参加することになるが、発展コースの授業を受けることになっている。コース分けは前期中間テストの結果で決められていて、詩絵がなんとか中堅にいるのに対し、新はもちろん学年トップで、千花と春も上位三十人以内に入っている。それでクラスが分かれてしまったのだ。
成績は確実に上がっている。でも、他の三人に追いつけない。みんなと同じ学校に行くという目標は、まだ遠く感じた。
「標準コースは、一応は礼陣高校や南原高校に合格できるくらいのレベルを目指している。もちろん発展コースにも、この二校を志望しているやつは大勢いるから、ライバルはさらに多いと考えてくれ」
コースを振り分けられたとき、担任の井藤がそう言っていた。詩絵の今の成績では、いくら礼陣高校の間口が多いとはいえ、ぎりぎり滑り込めるかどうかといったところだ。毎年、礼陣高校はこの町の多くの学生が受験し、加えて町の外からも人を受け入れている。部活に強い学校なので、部活経験が合格の判断材料になるともいわれている。しかし、詩絵は部活もしていないのだ。運動能力は高いので、多くの部から勧誘を受けてはいたのだが、全て断って実家の店の手伝いや家事に専念していた。
つまりは、詩絵は礼陣高校を受験するにあたって不利なのである。よほど勉強ができるか、内申点が良くなければ、たくさんの受験者の中から選ばれることはなくなってしまう。この夏休みにどれだけがんばれるかがカギになるのだ。
でも、講習用の問題集には、先ほどから真っ赤な書き込みが増えるばかりだった。間違っているところに正答を書いているのだが、その赤い字がないところが少ない。ついこのあいだ、テストでやったばかりのところも間違っていたので、悔しさで叫びそうになった。
あんなに春や千花、新に教えてもらったのに。テストが終わり、修学旅行に行って帰ってきたら、もう半分以上忘れていた。自分で自分が腹立たしい。
もし礼陣高校に合格できなかったら、南原高校の商業科に空きがあれば、そちらの二次募集枠で受験することになる。空きがあればの話だ、確定ではない。それもだめなら他の道を考えなくてはならない。――考えるだけで気が滅入る。
千花、春、新が礼陣高校へ行くというのなら、やはり自分も行きたい。進学したら、今度こそ部活をやって、店の手伝いと両立させながら思い切り楽しみたい。こんなにやりたいことがあるのに、どうして能力が追い付かないのだろう。
歯痒さを感じながら一時限目を終えた後、教壇に立っていた井藤が詩絵を呼んだ。
「加藤、ちょっと黒板消すの手伝ってくれ」
「はーい」
素早く黒板の前に立ち、黒板消しを手に取って、白や黄色で書かれた字を消していく。詩絵の苦手な数字が、どんどん消えていく。消えるごとに習ったことを忘れそうで、怖くなる。
それをわかっているのかどうか、井藤は軽い調子で詩絵に言った。
「加藤さ、北市女受ける気ない?」
「……は?」
詩絵は思わず手を止める。黒板には消し跡が残っていて、もう一拭きくらいはしなければきれいにならなさそうだった。
「なんで北市女? アタシにはレベル高すぎるよ、受かるわけないじゃん」
「女子はみんな力試しに受けるぞ。受からなくてもいいんだよ、加藤の本命は礼高なんだから」
「でも……」
北市女学院高等部は、礼陣の女子中学生の力試しの場であり、勉強ができる子でなければ合格は難しい。男子が記念受験をする龍堂高校ほどではないが、このあたりの難関私立高校の一つであることには間違いない。だから詩絵は、最初から北市女学院を受けるつもりはなかった。
北市女学院に落ちたら、きっと公立高校受験まで引きずってしまう。だから受けるのが怖かった。しかし井藤はいつもの調子の良い笑みを浮かべて、黒板をきれいに拭きながら続けた。
「北市女の問題を解くことによって、公立入試までに必要な対策を知ることができる。受かっても受からなくても、自分がどれくらいのことを身につけられているかがわかる。北市女受けて損はないと思うけどな」
詩絵本人が落ち込みすぎなければ、落ちても問題ないのだ。井藤の言う通り、損はない。すっかり濃い緑色を取り戻した黒板を見て、詩絵は黒板消しを置いた。
「夏休み中に考えておいてくれ。親御さんとも相談しろよ」
「はーい……」
不合格なら落ち込むだろうというのは、きっと春や千花も北市女学院を受けるからだ。あの二人は「力試しに」と受けることをもう決めている。頭の良い二人のことだ、ほぼ確実に合格するだろう。そうして、詩絵は一人不合格になって、置いて行かれたような気持ちになるのだ。たぶん、それが一番怖いことだった。
学校での講習が終わったら、千花や詩絵への挨拶もそこそこに駅前まで走り、コンビニで昼食のパンを買って、隣町行きの列車に乗り込む。車内で少しだけ宿題を進め、目的の駅に着いたら、駆け足で駅の向かいの通りにある学習塾へ入る。フリースペースを借りてパンをかじりながら、講座が始まる時間まで宿題の続きをする。しばらくはこんなふうに慌ただしいのが、新の日常になる。
この調子じゃ、休み前に話していたように、みんなで遊びに行くなんてことはとても無理だ。春の案内で山に行ってみたかったし、買い物だってしたかった。一緒に宿題をするというのも楽しそうだったけれど、どれも叶いそうにない。
こうなれば、夏休みなんか早く終わってしまえばいいのにと思う。どうせ勉強しかできないような休みならいらない。春に、詩絵や千花に会えないなら、夏休みなんかどうでもいい。新は宿題を片付ける手を止めずに、溜息を吐いた。
塾と家庭教師の予定は、母が勝手に組んでいた。日曜とお盆は休みがあるが、外で遊んでくることはきっと許されないだろう。このスケジュールに抗議はしたが、聞く耳はもってもらえなかった。そのとき、母はまだ「新は当然、龍堂高校に行くべきだ」と思っていたからだ。
昨日の夜、やっと父がこの話に入ってきてくれた。相変わらず母がぐちぐちと「どうして龍堂高校に行こうとしないの」などと言っているところに、父が「そんなに龍堂高校は嫌か」と口を挟んだのだ。そんなことは初めてだった。
新ははっきりと「龍堂高校は嫌だ。礼陣高校に行く」と返した。そこへ母がまた何か言おうとするのを遮って、父が言ってくれたのだ。「それなら礼陣高校に行けばいい」と。そして母が激昂する前に、例の条件を出した。
龍堂高校の入試に合格しなければ、礼陣高校にも行けない。結局、新には「龍堂高校に合格する」という道しかないのだった。
せめて今日、春の顔を見ることができたなら、少しは元気になれたかもしれないのに。ついでに修学旅行最終日にプレゼントした髪ゴムをつけてくれていたら、なお良かったのに。――とうとう夏休み前の登校日の最後まで、春が新の渡した髪ゴムをつけてくることはなかった。千花が「お気に入りは大事な時に使いたいんだよ」とフォローしてくれなければ、立ち直れなかったところだ。
春に会いたい。明日が待ち遠しい。今日はまだ、先が長すぎた。
夏休み二日目、春は通常通りに学校へ来た。おさげの髪ゴムはいつものシンプルなものだ。新にもらったほうは、本当に特別な時にだけ使おうと思っている。
新を好きだと自覚してからも、特に関係が変わるということはなかった。新が再び告白してくることはなかったし、春から告白することもない。互いに想いながらも、「友達」のままだ。この夏休み中に一緒に遊びに行ったりして、その流れで告白できたらと思っていた。
けれどもどうやらそれは難しいらしいということを、春は一日遅れで思い知ったのだった。
「おはよう、新。……なんか、疲れてる?」
「春、おはよう。ちょっと昨日のスケジュールがハードで……いや、今日もなんだけど」
事情を聞くと、どうやら夏休み中の新はひどく忙しいらしい。それも龍堂高校に合格して礼陣高校に行くためというややこしいことのせいらしいのだが、一緒に遊びに行くような暇はないようだった。
「山とか行きたかったけど、ちょっと無理っぽい。ごめんな」
「ううん、謝ることはないよ。でも、大丈夫? 疲れで倒れちゃったりしない?」
「大丈夫。心配してくれてありがとうな」
新は疲れているが、彼の進路についての状況は少し前進したらしい。だから、そこはきっと喜んでもいい。夏休み中に、特に八月に入ってからあまり会えなくなるのは残念だが、新の未来のためなら仕方がない。
でも、許されるのなら一日だけ、どうしても一緒にいたい日があった。
「ねえ、新。日曜日はお休みなんだよね」
「ああ。でも、きっと宿題や塾の課題で精一杯だろうな」
「……そうだよね。新が良ければ、八月の夏祭り、一日でいいから一緒に見に行きたかったんだけど」
それじゃ無理かあ、と呟いた春に、新は首を傾げた。
「夏祭り?」
「新、見たことない? 礼陣は毎年八月に夏祭りがあって、人がたくさん来るの。出店とかあって、楽しいんだよ。今年は四月に怖い事件とかあったから、どのくらいの規模でやるのかまだちょっとわからないみたいなんだけど、でも毎年すごいんだ」
礼陣に来て三年目の新は、もしかすると見たことがなかったかもしれない。でも、町がだんだん華やかになっていく様子を見たり、お囃子の音を聞いたことくらいはあるはずだ。しばらくして、新は「ああ、あれか」と頷いた。
「わかった。ポスターとか貼られてるもんな。オレは見に行ったことないんだけど、そんなに面白いのか?」
「すっごく! 見たらきっとびっくりするよ。この田舎の町が、人であふれかえるの。出店の食べ物は美味しいし、ちょっとしたステージだってあるんだから。去年は瑠月樹里ちゃんとか来たんだよ」
「誰?」
「隣町出身のアイドル。知らない?」
「アイドルとかは興味ないからな」
新をその気にさせるために、本当はもっと祭りについて語っていたかったが、そろそろ講習の一時限目が始まる頃だ。詩絵と千花はもうそれぞれの教室に行っていた。春と新も、あわてて同じ教室に駆け込んだ。
受講するコースが同じということは、同じ教室で授業を受けるということだ。これまで一度も春と同じクラスになったことのなかった新にとって、それは新鮮なことだった。席は離れてしまっているが、同じ空間に春がいるのだ。
春は千花の前の席に座っている。アイウエオ順に座ると、須藤、園邑と並ぶのだ。春は千花から、昨日どこまで講習が進んだのかを教わっているようで、休み時間になると二人の可愛らしい声が聞こえた。
それを聞きながら、新は春の話していた夏祭りに思いを馳せていた。祭りがあるのはお盆を過ぎた土日だったはずだ。日曜日なら、多少無理やりにはなるが、外に出ることができるかもしれない。春が「一緒に見に行きたい」と言ってくれた祭りなのだから、なんとかして参加したい。
夏休みのほとんどは勉強しかしないのだ。それくらいは許されてもいいのではないか。それにこの落ち着いた街が人であふれかえるだなんて、どんなことになるのか見てみたい。そんなことを考えていたら、春が少しだけ大きな声をあげた。
「え、千花ちゃん、八月はいないの?」
「うん。八月に入ったら、お父さんと旅行に行くの。だからしばらく日本から離れるけど、夏祭りまでには帰ってくるよ。やっぱり夏祭りはちゃんと参加しないとね」
千花はよく父親と海外旅行に行くと聞いたが、どうやら八月がその時らしい。それでも夏祭りまでには帰って来るというのだから、礼陣の人々にとっての夏祭りは、よほど重要なものなのだろう。
「新も千花ちゃんも、忙しいね。詩絵ちゃんもお店があるし……なんだか私たち、講習でしか会えないみたい」
「そんなことないよ。そうだ、週末に、門市にお買い物に行こうよ。詩絵ちゃんと新君も誘って、みんなで」
「あ、いいね!」
一瞬元気をなくした春の声が、千花の提案でまた明るくなる。きっと新は、その誘いも断らなくてはならないだろうけれど、春たちが夏休みのひとときを楽しく過ごせたらいいと思った。そして夏祭りだけはどうにかならないものか、うまくスケジュールを調整することにした。いや、親の目をごまかすことを考えるほうが先かもしれない。
礼陣の隣町である門市は、山の向こうにある。修学旅行で行った町ほどではないにしろ、田舎町である礼陣から見れば十分に都会だ。賑やかなショッピングモールには全国展開のおしゃれな店が並び、大きな映画館では人気映画を何本も上映している。
門市に行くというのは、礼陣の子供にとって特別なイベントだ。小学生の時は家族に連れて行ってもらうことを楽しみにし、中学生は自分のお小遣いで友達と一緒に遊びに行くことで、少しだけ大人になったような気分を味わう。
一方で、門市には有名進学塾も数多く存在する。ただ遊びに行っているわけではない子供たちもいるのだ。だから門市に向かう列車には、これから仕事や勉強が待っている憂鬱な顔をした人々と、遊びに浮足立っている人々の両方が乗り合わせている。
「行きだけでも、新君と一緒で良かったね」
近くで参考書を眺めている学生たちの迷惑にならないよう、千花がこっそりと言った。
土曜日、春と千花と詩絵は約束した通りに門市へ遊びに行くことにした。新は塾での講習があるので断ったのだが、塾が門駅前にあると聞いた千花が「それなら時間を合わせて一緒に行けばいいんじゃないかな」と誘ったのだ。
「千花が言ってくれなきゃ、そんなことできるとも思わなかった」
座って学校から出された課題を進めながら、新は笑った。憂鬱なはずの塾通いが、今日は少し楽しい。門駅に着くまでの短い時間ではあるが、春と一緒に過ごせる日が一日増えた。それだけでも嬉しい。
「でも、新はこんなところでまで課題やってるんだね。本当に忙しいんだ……」
春のほうは、少し寂しかった。新が列車の中でも課題をやるほど忙しいということがわかってしまって、これでは八月の夏祭りなど無理かもしれないと思ったのだ。
「春、そんな顔するなよ。これから遊びに行くんだろ」
「だって、新は一緒に行けないじゃない。このままじゃ、お祭りもきっと……」
「だから今やってるんだよ。祭りには行く。そのために課題を片付けないとな」
けれども新はさらりと答えた。目を丸くする春の代わりに、詩絵が尋ねる。
「夏祭り行けるの? お母さんとかに咎められない?」
「たぶんすごく嫌な顔されるだろうけど、勝手に無理なスケジュールにしたのは母さんだからな。一日くらい遊んだっていいだろ」
「言うようになったねえ。良かったじゃん、春。夏祭りは新と一緒だよ」
詩絵に頭を撫でられて、春は「わ」と声をあげる。その表情はもう拗ねていなかった。やっと自然な笑顔になった春を見て、新はホッとする。
「というわけで、今日はごめんな。祭りの二日目は行くから」
「ううん、忙しいのに邪魔しちゃってごめん」
「邪魔にはなってない。……やっぱり春は笑顔じゃなきゃな。せっかく可愛い服着てるんだから」
「か、かわ……」
笑ったと思ったら、今度は真っ赤になる春を、許されるならずっと見ていたいと思う新だった。けれども列車は定刻通りに門駅に到着し、新は塾へ、春たちは街へと向かう。
映画館に行って今夏一番怖いと評判の映画を観て、それからショッピングを楽しんだり、礼陣にいる時はめったに行かないファストフード店で食事をしたりしたが、春の頭の中は新のことでいっぱいだった。
「春さ、新と付き合わないの?」
そこへ詩絵のこの問いだ。春はアイスティーのカップを危うく落としそうになりながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「む、無理だよ! 新は忙しいのに、邪魔できない!」
好きだと気付いても、それを伝えるタイミングは今ではない気がした。新がこの忙しさから解放されるまでは、付き合うなどということは考えられない。
「新君のご両親、厳しそうだしね。……でも春ちゃんと両想いだってことがわかったら、新君はもっと頑張ると思うな」
千花がにっこり笑って言うが、春はそれでも首を振る。
「親が厳しいなら余計にだめだよ。それに、これ以上頑張ったら、新はどうなっちゃうの?」
ただでさえこれから大変なのに。一緒に夏祭りに行くことですら、スケジュールを調整しなければ難しいのに。
全て終わったら、安心して気持ちを伝えられるようになったら、そうしよう。今日の新の様子を見て、春はそう決めた。
先ほどまで見ていた春の私服姿を記憶にしっかり留めたまま、新は塾に到着した。めったに見られないパフスリーブのワンピースは、春にとても似合っていた。思い出すとついにやけてしまうので、頬を叩いて気を取り直してから、講習を受ける教室に入る。
塾での講習も、学校でのそれと同じように、進路や実力別にクラスが分かれている。新は講習前に行なわれた実力テストの結果によって、見事「龍堂高校コース」に入ることができた。母からすれば入って当たり前なのだろうが、クラスが他に比べて少人数であることから、やはり難関の部類にはなるのだなと思った。
実力はある。だからといって合格が確実というわけではない。この塾に通う学生以外にも、龍堂高校を目指す者はたくさんいるのだ。それこそ、全国規模である。だが彼らを踏み越えていかなければ、新は望む進路へ行くことができないのだ。
新が龍堂高校に合格することで、募集人員から外れてしまうかもしれない人がいる。それを思うと、行くつもりもないのに合格しようとしているのは、なんだか申し訳ない気がする。そんなことを言ったら、本気で龍堂高校を目指している人に失礼になるので口にはしないが。
「さっきの小テスト、難しかったよな。俺、龍堂行けるのかな……」
同じクラスで講習を受けている、名前も知らない生徒が呻く。話しかけている相手は同じ学校の生徒なのか、それとも普段からこの塾に通っていて顔見知りなのか、随分と親しいようだ。
「自信持てよ。このクラスにいるってだけで勝ち組なんだぜ。龍堂行って、有名大行って、いいとこに就職するんだろ」
「人生設計上はそうだけどさ」
そんな人生設計とやらを考えている学生が、日本中にたくさんいるのだとしたら、新はその邪魔になるのだろう。龍堂高校に合格して礼陣高校に行くというのは、この二校を目指す学生を両方蹴落とすということだ。それを思うと、なんだか憂鬱になる。
――誰もアタシに合格枠を譲る気はないってわけか。
いつか詩絵が冗談のように、けれどもきっと半ば本気で言ったであろう言葉が、新の脳裏をよぎっていった。一瞬、やはり龍堂高校を目指すことにして、礼陣高校に行くのは諦めようかと思う。けれどもすぐに「それは駄目だ」と考え直した。そんなのは詩絵が許さない。何より新自身のためにならない。礼陣高校には、みんなで行くと決めたのだ。
「入江君、さっきの問題解けた? 三つめのやつ」
「ああ、一応……」
そのために彼らと競わなくてはならないのが、心苦しい。
八月に入って、学校での講習が終わると同時に、千花は父とともに海外へ旅立ち、詩絵は実家の店の手伝いに忙しくなった。新は相変わらず、平日の午前は部活動や課題の消化に費やし、午後は塾に通っている。四人が会うことは、祭りの日までなくなった。
春は宿題を一人で進めながら、夏休み前まで考えていたことを思い返していた。休みになったらみんなで山に行こうとか、お菓子を一緒に作ろうとか、宿題もみんなで一緒にやればいいだとか、やりたいことはいくらでもあった。けれどもそのほとんどがなくなってしまって、残ったのは夏休みも終わりに近づく頃にある、この町の夏祭りだけ。他の予定は、来年に持ち越しだ。
来年、新がこの町にいれば、だが。
新が龍堂高校にさえ合格すれば、礼陣高校に行かせてもらうことができる。けれどもそれは、龍堂高校への入学手続きをしてしまえば、新を遠くにやってしまうことも可能だということだ。
いったい、新の両親は何を考えているのだろう。わからないのは、春に両親がいないからだろうか。素直に新の選んだ進路を応援してくれればいいのにと思うのだが、それではいけないのだろうか。
「……ねえ、おじいちゃん」
「どうした、春」
夏は風通しの良い居間で勉強をすることが多い。傍らでは祖父が、竹の籠を編んでいた。話しかけると、手を止めることなく、返事をしてくれる。
「おじいちゃんは、私が礼高行きたいって言っても反対しなかったよね。北市女や社台高校に行きなさいなんて、言わなかったよね」
「そりゃあ、春の人生だからな。それ以前に、あっちに行きなさいだとか、じいちゃんには難しくて言えんのだ。……ああ、でも、北市女に行きたいと言われたら少し困ったかもしれん。うちはそう裕福なわけじゃないから、学費が工面できたかどうか」
お母さんは北市女の生徒だったから、行きたいなら行かせてやりたいがな。祖父はそう言って、仕事を続けた。祖父の考え方は、新の両親とはまるで違うものらしく、春の疑問を解くものにはならなかった。
「どうしておじいちゃんは、私が選んだ進路を応援してくれるの? お父さんが、礼高出身だから?」
「いいや、どこにいったってかまわんよ。元気でいてくれれば、それで十分。じいちゃんは春のじいちゃんだが、親は子供のためを思っているもんさ」
もしそうなら、新を龍堂高校に入れたいという両親の考えも、新のためを思っているからこそなのだろうか。たとえ、新が嫌だと思っていても、それが新のためなのだろうか。
「でもな、親も未来が見えているわけじゃあない。子供のためにと思ってしたことが、全くの逆に働いてしまうことだってある。じいちゃんだって、春のお父さんとお母さんを、旅行になんて行かせなければ良かったと何度も思った。そうすれば、飛行機の事故になんて遭わずに、まだ生きていたんじゃないかってな」
「そんなこと……」
祖父に良くないことを思い出させてしまった。春が首を横に振って見つめると、祖父は「いかん、いかん」とごまかすように苦笑した。
「夏は感傷的になってしまうな。とにかく、じいちゃんが何を言いたいかっていうと、春のしたいことをできる限りさせてやることが、じいちゃんの親心だってことだ。親は子供のことを考えているから親なんだよ。ときどきは自分勝手になるが、それは人間の考えることだから仕方がないのさ」
たとえ子供の望まないことでも、それが子供のことを思ってのことならば、親心には変わりない。祖父はそういうが、おおらかでこちらの意思を尊重してくれる祖父に育てられた春には、やはり新の親のことはよくわからないのだった。
春がわからなくても、せめて新が両親に気持ちをわかってもらえたらいい。今頃は新も、塾で勉強していることだろう。それが龍堂高校に合格するためではなく、礼陣高校に行くためのものであることを、春には祈ることしかできなかった。
夏祭りを間近に控えたある日のこと、春は商店街にある加藤パン店を訪れた。詩絵の実家である。布製の買い物袋には、パンを買うための財布と、千花から届いた外国の絵はがきを入れてきた。千花は、今年はドイツにいるのだという。
「千花ちゃん、お父さんとお休み楽しんでるみたいだね。そろそろ帰って来るんだよね?」
自分と祖父が好きなパンをトレイに載せながら、春は店の手伝いをしている詩絵に話しかける。詩絵は焼き立てのパンを運んだり、お客に元気に応対しながら、春に答えてくれていた。
「うん、お土産いっぱい持って帰って来るんじゃないかな。夏祭りには絶対間に合うようにするはず」
「夏祭りは詩絵ちゃんと千花ちゃんと、新とも一緒にまわれるよね。夏休み、みんなほとんどばらばらだったから、ちょっと寂しくて」
パンの載ったトレイをレジに置き、詩絵の母に会計をしてもらいながら、春は困ったように笑った。すると詩絵は「寂しがりだなあ」と言いながら、はめていたビニールの手袋を外して、春の頭を撫でてくれた。
「たしかに、思ってたより集まれなかったね。それに、祭りの当日は、アタシもうちの出店の手伝いがあるからなあ」
「え、じゃあ一緒に行けないの?」
詩絵に縋るように、春は尋ねた。今度は詩絵が困る番だったが、すぐに詩絵の母が「大丈夫よ」と言った。
「詩絵と成彦には、お祭りの日くらい遊んでもらわないと。当日は大人だけでどうにかできるから、子供はお祭りを楽しんでいらっしゃい」
あまりにもあっさり許しが出た。詩絵は何度も「いいの?」と確認したが、母は「遠慮なんかしないで、春ちゃんたちと遊べばいいでしょう」と背中を押してくれる。それが礼陣の子供のつとめだ、と。
「でも、春はアタシと千花が一緒で良いの? 新と二人きりになれないよ」
「みんなで一緒が良いの。新と二人は……受験が終わってから考える」
「随分先だね。いや、あっという間か。あーあ、早く受験終わらないかなあ」
夏休みが終われば、毎月テストがあって、どんどん受験本番に近づいていく。楽しめることは今のうちに楽しんでおかなければ、来年に持ち越しになってしまう。他の色々なことが、そうなってしまったように。
夏祭りは年に一度だけ。せっかくみんなで行けるのならば、そうしなければ損だ。
「一日目は新が来られないんだよね。やっぱりアタシも、神輿行列が終わったら店の手伝いにまわろうかな。遊びに行くのは二日目にしよう」
「うん。あ、二日目の夜は花火があるけど、一緒に見られるかな?」
「新の都合次第だろうね。新がだめなら、アタシたち三人で一緒に見ようか」
詩絵と約束をして、春は店を出た。千花の帰国が、新と会える時が、待ち遠しい。
駅には夏祭りの開催を知らせるポスターが貼ってある。構内にも装飾が施され、駅前の通りも華やかだ。塾から帰ってきた新は、夕暮れの中に浮かぶそれらを見て溜息を吐いた。
日曜日以外の毎日、この駅前通りを歩いているが、夏祭りの日が近づくにつれて街が活気づいているように見える。聞こえてくる話によると、駅裏商店街のほうが賑やからしい。だが、そちらまで行く機会はない。すぐに家に帰らなければ、夕食を食べ損ねたまま家庭教師の授業を受けなければならなくなる。
急ぎ足で家へ向かう途中、同じ年頃の少年二人組とすれ違った。新は俯き気味に歩いていたので彼らに気づかなかったが、「入江?」と呼び止められて誰なのかわかった。
「一人でどっか行ってたの? それともデートの帰り?」
「筒井と沼田か。そっちこそこんな時間に何してるんだよ」
修学旅行以来、急速に仲良くなったクラスメイトの筒井と沼田だった。いつも使っているスクールバッグを持って、こちらに手を振っている。
「俺らは塾の帰り。北市地区に個人でやってる塾があってさ、夏休みとか冬休みに講習開いてくれてるんだ」
「毎年お世話になってるんだよ」
「なんだ、礼陣にも塾あるのか。オレも塾行ってたんだ、門駅前の大きいところ」
塾通いが自分だけではないことがわかって、新は少しホッとした。けれども筒井と沼田は驚いたように顔を見合わせ、それから新に詰め寄った。
「門市まで塾通いしてんの?! 社台高校の対策くらいなら、俺らが行ってるとこで十分だぞ」
「筒井が目指してるのは南原の商業科だけどね。入江はどこを志望してるの?」
そういえば、仲良くはなったが、彼らと進路の話をしたことはなかった。自分の置かれている状況が複雑なため、なかなか説明しにくかったのだ。
「オレは礼陣高校に行きたいんだけど、親が龍堂高校に行けって言ってて……」
「龍堂って、隣県の私立の? めちゃくちゃ頭良いとこだけど、男子校じゃん。女子いないじゃん」
「龍堂高校なら、門市の塾に通うのも納得だ。でも、入江は礼高に行きたいんだ?」
「弓道やりたいし、県外の男子校なんて行ったら春に会えなくなるからな。それでなんとか親に交渉したら、龍堂に受かったら礼高を受験してもいいってことになった」
「うわ、お前の家めんどくせえ」
率直に感想を述べた筒井の頭を、沼田がすぱんと叩く。それから「俺は社台高校志望だけど」と切り出した。
「お互い、行きたいところに行けるのが、一番良いよな。まあ、頑張れよ、入江。学年トップなんだし、龍堂くらい軽く受かっちゃえよ」
「軽くは無理だな……。でも、ありがとう。頑張る」
ほんのわずかな時間だったが、クラスメイトに会って話せたことは、新の気持ちを随分と楽にしてくれた。いや、もうただのクラスメイトではない。彼らも新の友人だ。「そっちも頑張れよ」と言って別れた後、やはり礼陣高校に行きたいという気持ちが強くなった。
筒井は南原高校に、沼田は社台高校に行こうとしている。学校は別々になってしまうが、同じ町にいれば、こうして会うことはできるのだ。礼陣に残りたい。一人で県外に行きたくはない。いつかはそうしなければならないのかもしれないが、それは今ではないと新は思うのだ。
「あ、ちょっと待った、入江!」
別れたはずなのに、後ろから大声で呼び止められた。振り向くと、筒井が手をメガホンのようにして叫んでいた。
「夏祭りは行くよな?! 中学生神輿、参加できるのは今年が最後だぞ!」
夏祭りに神輿行列があるのは、新もポスターなどで知っていた。神社の大神輿を先頭にして、中学生や小学生が学区ごとに担ぐ小さな神輿が連なり、町を練り歩くらしい。けれどもそれは祭りの一日目のイベントだった。
「一日目は塾があるから無理だ」
新も声を張って返す。だが、残念な気持ちが出てしまって、声は少し沈んだ。それを察して、筒井は苦笑交じりに、けれども元気に言ってくれた。
「これだから門市の塾は……。まあ、残念がるなよ! 高校生になったら、大神輿のほうに参加できるようになるからさ!」
だから礼陣に残れよと、もし県外に行くことになっても帰ってこいよと、彼は言っている。沼田も頷いていた。新には何よりも嬉しい励ましだった。
夏祭りは毎年、お盆過ぎの土日に開催される。今年のお盆は土日だったので、祭りはその翌週だ。礼陣の多くの小中高生にとっては、この夏祭りが夏休み最後の大イベントになる。そして町の住民全員にとって、夏祭りは一年で最も大切な行事の一つなのだ。
礼陣は良くも悪くも田舎の町だ。ここに手紙を送るなら、住所は「門郡礼陣町」と書く。面積はそこそこ広く、町の特色として子供が多いので、学校を多く抱え、学区は細かく区切られている。しかしそれでも市の扱いにはならなかったという歴史がある。
その田舎町の人口が、夏祭りの日には増える。かつて礼陣にいた人々が帰ってくることや、礼陣の土地にまつわる不思議な話や、歴史の魅力に惹かれて来る人々の存在があるからだ。
加えて今年は、四月の終わりに町で殺人事件が起こったことで、変に話題になってしまった。毎年組まれている礼陣夏祭りツアーは、今年は参加希望者が例年以上だったと、礼陣観光協会から発表があった。初めこそまだ殺人者が捕まっていない危険な土地だからと、客足が遠のくのではないかという危惧があったものの、その予想は裏切られたのだった。
かくして、夏祭り当日の駅前は、人でごった返していた。隣町の塾へ向かおうとしていた新は駅の混雑ぶりに慄き、門市へ向かう列車がいつもより空いていることにさらに驚くこととなった。どうしてこんな状況を、去年まで知らなかったのだろう。いや、興味がなく、外に出なかったから、気に留めることがなかったのだ。
「たしか、祭りは神輿行列から始まるんだっけ……」
賑わいから離れていく列車で、新は祭りに思いを馳せる。できることなら、中学生神輿とやらに、自分も参加してみたかった。みんなで一つのことに取り組む楽しさを知ってしまった今は、一人で塾に向かわなければならないことが寂しかった。きっと去年までなら、平気だっただろうに。
中学生神輿は、各中学校の有志が集まって担ぐ、小さな神輿である。学校ができたときに当時の生徒たちが作ったものを、修繕を繰り返しながら、毎年担いでいるのだ。小さくとも、つくりが拙くとも、礼陣を守るという「鬼」たちを祀るための立派な神輿なのである。
中央中学校の生徒たちも、代々受け継がれてきた神輿を、揃いの法被を着て担いでいる。あくまで有志の参加であり、強制ではないのだが、礼陣の人々の夏祭りを大切にする心を宿している子供たちは積極的に集まるのだった。
実際に神輿は交代で担いでいる。町を練り歩くので、要所要所で三年生から一年生へ、一年生から二年生へ、二年生からまた三年生へと担ぎ手は代わっていく。やり方は各中学校で異なるが、中央中学校はこうして神輿行列に参加している。
「須藤は怪力なのにチビだから、神輿担いでも傾けちまうんだよなあ」
毎年同じことをぼやくのは牧野である。修学旅行の際に春に告白して振られて以来、数日はおとなしくしていたのだが、すっかり元の悪態吐きに戻った。これが一番自然な春との付き合い方なのだと思ったらしい。春もそのほうが楽だ。
「牧野君のその意地悪はもう聞き飽きたよ。傾けないように腕を伸ばしてるから、私にも御神輿運ばせてよね」
「当然だろ。お前の怪力が頼りなんだから」
慣れたやり取りをしたあと、牧野はきょろきょろと周囲を見回した。そして首を傾げると、声の調子を少し抑えて、春に尋ねた。
「なあ、入江は来てないのか? あいつ、須藤がいるところには絶対来ると思ったんだけど」
「新? うん、今日は来ないよ。門市の塾に行ってるの」
「なんだよ、あいつ須藤より勉強のほうが大事なのか」
いつもくっついてるくせに、と文句を言う牧野に、春は困ったように笑う。
「そりゃあ大事だよ。将来がかかってるんだもん。私が邪魔することはできないよ」
それできまりが悪くなったのか、牧野は黙ってしまった。奇しくもそれと同時に、中央中学校生徒会長が声をあげる。
「行くぞ、中央中! どこよりも声出そう!」
出発の掛け声は、生徒会長の役目だ。会長が参加できなければ、一番元気のある三年生が仕切る。他の三年生や後輩たちが「おおー!」と応えて、神輿行列は始まる。始まってしまえば、それまでにどんな気まずいことがあっても関係ない。声を張って唄いながら、先陣を切る大神輿についていく。
「もっともっと、元気に行くよー! 他の中学に負けるなー!」
生徒会役員ではないが、運動会などでの活躍で全校生徒から人気のある詩絵が、行列をさらに盛り上げる。どこかから「さすがは“元社台の女大将”だ」と声が聞こえるが、今日はそれも気にしない。
詩絵の声に応えるように、神輿の後方にいた千花が神輿唄を朗々と唄う。きれいな声が響くと、一部は聞き惚れてしまって、一瞬自分が唄うのを忘れてしまった。それを元に戻したのは、あわてて唄に声を合わせたひかりだ。迫力のある声で、再び中央中集団が賑やかになる。
もちろん春も、神輿を掲げるように支えながら、大きな声で唄った。とても小さな子供神輿を担いでいた、幼い頃から唄い続けてきたものだ。誰もが詞を諳んじることができる。
――やまさとに、すみしありたる、れいのたみ。とわにわすれじ、おおおにのおん。
昔から、少しずつ変わりながら伝わってきたというその唄が、礼陣の夏を鮮やかに彩る。これを新にも聞かせたかった、できることなら一緒に唄いたかったと、春は思うのだった。
そうして礼陣の町を一周した神輿は、神社へ帰る大神輿以外は中央地区の大広場に集まる。ここで子供たちは、待っていてくれた大人たちから飲み物と菓子をもらうのだ。礼陣を守るという「鬼」のために、暑い中、神輿を担いだ者たちへのご褒美である。春と詩絵と千花は、三人でジュースの缶を開け、一気に飲み干した。
「はー、お疲れさま! 神輿行列の後の一杯は最高だね!」
「詩絵ちゃん、張り切ってたもんね。ときどき会長さんよりリーダーらしかったよ」
「千花ちゃんは声がきれいだったよね。みんなが唄うの忘れちゃうくらい」
「これが楽しみで日本に帰って来たんだもん。つい大きな声が出ちゃった」
千花は照れてぺろりと舌を出し、春と詩絵はそれに笑う。とても清々しい気持ちで、子供たちの神輿行列は終了した。神輿は祭りが終わるまで大広場に展示しておくので、今日はこれで解散となる。
ジュースの缶をごみ袋に捨ててから、詩絵は商店街へと走っていった。両親がやっている、駅裏商店街の出店を手伝いに行くのだ。加藤パン店は毎年種類が豊富なミニ蒸しパンを売っていて、とても人気がある。つまりはこれから忙しいのだった。
残された千花と春は、一緒に出店を見てまわることにした。ちょうどお昼時で、菓子だけじゃ足りない程度には空腹だ。まずは焼きそばでも値切りに行こうかと、二人は歩き出す。駅裏商店街に出ている店だけでできる値切りは、中学生以下の子供にのみ許された特権だ。できるのは今年が最後になる。
「去年の春ちゃんの値切りはすごかったよね。一舟三百円のたこ焼きを、二百円にしちゃったんだもの」
「今年はできても二百五十円くらいかも。商店街のおじさんたち、こっちの年齢が上がると、だんだん厳しくなるから」
「それでも値切れるんだからすごいよ。新君にも見せてあげたいくらい」
「さすがに値切りを見られるのは恥ずかしいかな……」
春の値切り交渉は幼なじみの仕込みで、去年まではちょっとした自慢だった。けれども好きな男の子が現れて、初めて恥ずかしいと思った。ましてそれが、礼陣の祭りを体験したことのない新ならばなおさらだ。店の品物を値切るなんて、行儀が悪いと思われるかもしれない。だから明日は封印することにしていた。
それに明日は、今日のように法被を羽織るのではなく、浴衣を着るつもりなのだ。できるだけお淑やかにしていたい。新の前では、そうありたい。
「春ちゃん、女の子らしくしたいんだね。もともと可愛い女の子だと思うけど、新君の前では特にそうありたいって思ってるんだ?」
「可愛くないから、可愛くなりたいの。千花ちゃんとか、羽田さんとか、すごく可愛い子が新の周りにはたくさんいるんだもん。それに比べたら、私なんてチビだし怪力だし……」
「春ちゃんは可愛いよ。それに、そんなこと考えなくったって、新君は春ちゃんしか見えてないから大丈夫」
千花が朗らかに笑って言うので、春は赤面した。何も言葉を返せないうちに、千花はさらに続ける。
「だから、明日は新君にもらった髪ゴム、つけておいでよ。そうしたらもっと可愛くなるよ」
塾での講習を終えた新が礼陣に帰ってみると、まだ街は人で賑わっていた。しきりに駅舎や装飾の写真を撮っているのは、旅行者だろうか。駅前通りに並ぶ出店からは、良い匂いが漂ってくる。空腹を覚えたが、出店で買い食いなんかしていったら親に叱られてしまうので、我慢する。
明日のために、親の、とくに母の機嫌は損ねたくなかった。だから今日まで行儀良くし、塾でも好成績を保ってきた。家庭教師も褒めてくれている。おかげで母は最近、新に勉強勉強とうるさく言うのを控えるようになっていた。できればずっとこのままでいてほしいのだが、後学期に文化祭の準備が始まれば、そうもいかなくなるだろう。
とにかく、今は明日を凌ぐことができればいい。春に会えれば、一緒に祭りを楽しむことができれば、それで十分だ。
「出店は明日まわればいいよな。……春と一緒に」
言葉にしてみると、嬉しさがこみあげてくる。なにしろ夏休みのあいだ、ほとんど春に会えていないのだ。春が携帯電話を持っていればメールくらいはこっそりできたかもしれないのだが、春自身が「携帯電話を持つのは高校生になってから」と決めているらしいので、実現しなかった。この計画は来年以降に持ち越しだ。
そのかわり、すでに携帯電話を父に持たされている千花とは、ときどき連絡をとっていた。彼女を通して得た情報によると、「春ちゃんは明日、おめかししてくるよ」ということだ。今度こそ、あの髪ゴムをつけてきてくれるだろうか。もしつけてこなくても、恰好が可愛ければいい。いや、何をしても可愛いに違いない春に会えるだけでいいのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、ポケットの中で携帯電話が震えた。確認すると、母からの「塾が終わったなら、寄り道なんかしないで早く帰ってきなさい」という旨のメールが届いていた。――外では祭りをやっているようだけれど、そんなものを見ている暇はないでしょう。そんな母の思いが伝わってきて、新は溜息を吐いた。
一番気に入っている、淡い桃色の地に小花がちりばめられた浴衣。それに濃い赤紫の帯を締めて、鏡で何度もチェックする。
「デートとなると余念がないな」
そう言って、祖父はかっかと笑った。春は顔を赤くし、口をとがらせて返す。
「デートじゃないもん。みんなで遊びに行くんだもん」
本当は、デートだったらいいなと、ほんの少しだけ思っている。けれどもみんなで遊びに行くことがとても楽しみだったのも事実なのだ。
夏祭り二日目。夏休み最後の思い出を作る、大切な一日が始まる。
待ち合わせ場所は商店街の入口だ。出店をまわるなら、駅前よりも駅裏商店街のほうがお得なのだ。値切りは恥ずかしくてできなくても、向こうからちょっとしたおまけをしてもらえることが多い。それに、なんといっても礼陣の活気というものをわかりやすく感じられる。新を案内するなら、まずは絶対に駅裏商店街と神社に行こうと決めていた。
春が商店街入り口のアーチの下に到着すると、すでに詩絵と千花が待っていた。詩絵はノースリーブのブラウスに七分丈のパンツという普段着だったが、千花は赤地に撫子柄の浴衣に白と紅の二色帯を合わせている。
「千花ちゃん、今年も可愛いね。詩絵ちゃんも浴衣着ればよかったのに」
「アタシは千花と春の可愛い浴衣姿が見られれば十分。そもそもアタシはがさつだから、浴衣なんて着てもすぐに着崩れちゃうって」
「詩絵ちゃん、絶対に浴衣似合うと思うのに。来年こそは着せようね、春ちゃん!」
「そうだね、詩絵ちゃんにも着てもらわなくちゃね」
千花と来年の詩絵について作戦を立てながら、春はまだ見えない姿を捜す。約束の時間にはまだなっていないが、いつ現れるのかと思うとそわそわする。それに気づいた千花が、巾着から徐に携帯電話を取り出して、画面を春に見せた。
「新君、ちょっと遅れるって。お母さんを説得するのに苦労してるみたいだよ」
「あ、そっか……。やっぱりお母さんは、新が遊びに行くことを良く思ってないんだね……」
春が少し気落ちしたのは、新が遅刻してくるからというだけではない。友達であるはずの千花に、わずかでもやきもちを妬いたことに、自己嫌悪したのだ。携帯電話を持っているのは新と千花だけなので、二人が連絡をとりあうことはおかしいことではないのだが、ちょっと羨ましい。
声のトーンが落ちた春の背を、詩絵が少し強めに叩いた。
「春、笑いな。新は絶対に来るし、ここに来たらまずは春を見るよ。そのとき笑顔じゃなかったら、もったいないじゃん」
詩絵の励ましに、春は頷いた。そうだ、笑顔でなくてはもったいない。せっかく久しぶりに、みんなで集まれるのだから。
参考書を買いに行きたいからと母を説得し、やっと外に出られたのは、約束の時間になってからだった。
「遊んでくるんじゃないでしょうね。そんな暇はあなたにはないのよ」
その言葉だけで、何分留められてしまったか。長い休みのたった一日、遊んでくることの何がいけないのか。少しばかりいらいらしながら家を出た新は、急いで商店街へと向かった。
今日も礼陣の町には人があふれていて、なかなか前には進めない。途中で千花に「もう少しで着く」とメールを送って、人混みを掻き分けながら、なんとか商店街入口のアーチが見えるところまでやってきた。けれども待ち合わせ場所にはまだ遠い。あと何メートルだろう。あと何歩だろう。あと、……。
「新!」
人の壁の向こうから、ずっと聞きたかった声がした。向こうは自分を見つけてくれたのだ。人のあいだをすり抜け、ようやく辿り着いた待ち合わせ場所には、見覚えのある花のついた髪ゴムでおさげを結った、浴衣姿の小柄な女の子がいた。
「春……」
「来られて良かった。遅くなるって千花ちゃんから聞いてたし、この人混みだから、もうちょっとかかるかと思ってた」
ずっと会いたかった笑顔が、目の前にある。とびきり可愛い恰好をして、ここにいる。抱きしめたくなる衝動を抑えながら、新は春に近づいた。
「髪ゴム、つけてくれたんだな」
「あ、うん。……せっかく新がくれたものだから、特別な時につけたかったんだ」
「浴衣もすごく似合ってる。可愛すぎて、感動した」
「そんな大げさな……」
頬を染めて笑う春が愛しい。一緒にいられることが嬉しい。新が感極まっていると、そこに呆れたような声が割り込んできた。
「ほんのちょっと会わなかっただけで、感動の再会みたいだね」
「新君、久しぶり。やっぱり春ちゃんしか目に入ってなかったね」
普段着の詩絵と、浴衣姿の千花が並んで立っていたことに、新はここでようやく気付いた。照れ笑いしながら二人に向き直り、「久しぶり」と返す。
「千花、連絡ありがとうな。浴衣似合ってるよ。詩絵は普段通りなんだな」
「ふふ、ありがとう」
「春に比べて、千花のことは随分あっさりとした褒め方だこと。アタシは動きやすさ優先だからこれでいいの」
こうして四人揃ったのは、いつ以来だろう。夏休み最初の土曜日に、一緒に門市までの列車に乗ったのが最後だった。けれどもそれも移動のあいだだけのこと。今日は一日中、みんなで遊べるのだ。母に何と言われようと関係ない。自由を満喫してやる。
「最初はどこに行くんだ? 駅前に、出店がたくさん並んでたけど……」
「礼陣のお祭りは、駅裏商店街のほうが楽しいよ。でもまずは神社にご挨拶に行こうか」
春を先頭に、新たちは商店街へと入っていく。両脇に出店が並ぶ通りを、目移りしながら東側に抜けると、そこに石段が現れる。その上には深い緑色の鳥居と、礼陣神社の境内がある。礼陣の夏祭りは、本来、この神社を中心としたものなのだ。
石段を上り、人がひしめく境内に足を踏み入れる。手水舎で手と口を清め、拝殿に向かい、参詣する。礼陣を守る神が「鬼」だということは新も人から聞いて知っていたが、お参りに来たのは初めてだ。
「鬼を祀ってるなんて珍しいよな。昔話では大抵悪者なのに」
神社を去る間際、新はつい呟いてしまった。春はそれを聞き逃さず、答えてくれる。
「礼陣の鬼は良い鬼なの。昔、礼陣が酷い飢饉に襲われたとき、大鬼様が降り立って土地をよみがえらせてくれたんだって。あ、大鬼様っていうのは鬼たちのリーダーで、この神社の神主さんなんだよ」
「へえ……」
後半は意味が掴みにくかったが、とにかく「鬼」が礼陣にとって味方であることはわかった。この夏祭りは、そんな「鬼」にあやかるものなのだ。新もとりあえずは、鬼に感謝することにした。
お参りを終えたら、いよいよ出店巡りだ。食べ物の店以外にも、何やらゲームのようなものができる店が並んでいる。そういうところには小学生から中学生くらいの子供たちがたまっていて、はしゃぎながら遊んでいた。
「まずは御仁屋の鈴カステラかな。これなら一袋買えば、分けて食べられるからね」
新が射的の屋台を見ているあいだに、詩絵がさっと和菓子屋が出している店に行って、紙袋を持って戻ってきた。女の子たちが中身をつまんでから、新も一つもらって食べてみる。ふわふわして甘い鈴カステラは、初めて食べたのに懐かしい味がした。
「美味い。御仁屋って、まんじゅうや最中だけじゃないんだな」
「今日は混んでて無理そうだけど、機会があったらお店でお菓子を食べるのもいいかも。たとえば、卒業祝いとか、合格祝いとか」
「結構先だな、それ」
春に笑って返しながら、新は再び射的の屋台に目をやった。やったことがなく、それでいて面白そうなものは、どうしても気になる。それに気づいた千花が、新の背中をぽんと叩いた。
「新君、春ちゃんのために射的で何かとってきたら? 弓道やってるし、狙いはばっちりなんじゃない?」
「弓道と射的は違うだろ……。でも、そうだな。やってくる」
屋台で百円を出すと、ノリのよさそうなおじさんが弾を五つくれた。筒先にしっかりと弾を詰め、少し大きめのキャラメルの箱を狙う。あれなら的が大きく、中身は軽そうだ。
けれども屋台のおじさんは、だてにこの商売をやってはいない。キャラメルの箱は意外に重く、なんとか弾が当たってもなかなか倒れてくれなかった。それが悔しくて、結局新は十五発も撃ち出してしまった。
「兄ちゃん、残念だったな。ほれ、おまけだ」
完敗した新に、おじさんは小さなキャラメルの箱をくれた。サイコロを模した箱は可愛らしかったが、自分で勝ち取ったものではないので、新は苦笑しながら礼を言った。本当は春にかっこいいところを見せたかったのだが、そうそう上手くはいかないらしい。
「狙いは悪くなかったと思うんだけどな……」
「うん、当たってたよね。小学生までなら、当たった時点で景品くれるんだけど、中学生以上には厳しいんだよ」
駅裏商店街の出店は、どこもそんなルールがあるのだという。子供には甘く、大人になるにつれて厳しくなっていく。食べ物の出店の「値切り」もそのルールに則っているらしく、小学生は上手にやれば半額でものを手に入れられるのだが、中学生ともなるとそうもいかない。
「たこ焼き、五十円しかまけられなかった」
詩絵が値切ってきたたこ焼きを、みんなで分けて食べた。もちろん各自一人分の代金を詩絵に払ってからだ。食べながら、新は「値切り」について訊いてみた。
「祭りでは売り物を値切ってもいいのか? あんなことしてたら、売上が正確にわからなくなるだろ」
「そうだね。だから誰でも値切るのを許されてるわけじゃないんだよ。やっていいのはお小遣いが少ない子供だけ。場所は駅裏商店街の店に限られる。だからやりようによっては、駅裏の出店のほうがお得ってわけ」
「高校生以上の人も、たまにおまけしてもらえるんだよ。さっきの新のキャラメルみたいに」
おまけなら、射的でだけでなく、さっきから何度かしてもらっている。詩絵は商店街の人気者らしく、「いつもがんばってるから」と焼きそばを大盛りにしてもらった。千花は「昨日の神輿行列の唄、良かったよ」とかき氷の山を受け取っていた。春は「須藤の爺さんにはいつも世話になっているから」と、大きめのお好み焼きを選ばせてもらった。そして新も、「これから商店街を贔屓にしてくれよな」と串刺しのから揚げを一個多くしてもらった。商店街の人々は、サービス精神旺盛だ。そして、人をよく憶えている。
昼食に十分な食べ物を手に入れてから、四人は駅裏商店街を一度離れることにした。これから駅前の大広場に設けられたステージで、出し物があるのだという。特に詩絵がそれを見たがっていた。
「飛び入りパフォーマンスがあるんだよね。それが毎年面白いんだ」
「私もあれ好き! 新も楽しめるといいんだけど」
そういえば、春が祭りに誘ってくれたとき、ステージがあると言っていた。去年はアイドルが来たらしいが、今年はものまね芸人が来るらしい。
しかし、本職の人はもちろん面白いのだが、通の見どころは素人の飛び入りなのだそうだ。詩絵もそれが見たくて、大広場に行きたいようだ。
「新君はびっくりするかも。普段、テレビとか見る?」
「いや、全然」
「それなら、今後テレビ番組はよっぽど興味があるものじゃないと見られなくなるかもね」
かなりの期待がかかっているステージのようだが、しかし、所詮は素人だろう。新はそうたかをくくって、春たちとともに大広場へやってきた。
小さな神輿が脇にずらりと並べられ、大きなステージとたくさんの椅子が設けられた大広場は、すでに人でいっぱいだった。座るところはないので、立ったままステージを見る。まもなくして司会者がやってきて、まずはゲストだというものまね芸人を紹介した。
観客のリクエストに応えて、即興でものまねをしてみせる芸に、会場は沸いた。新はこの芸人のことは知らなかったし、出されるお題の元もほとんどわからなかったが、ものまねは素直に面白いと思った。ときどきお題が「このステージの司会者」だとか、「礼陣商店街の八百屋のおじさん」とかいう、これは無茶だろうと思うものにもなったのだが、芸人はそれを見事にやってのけた。笑いながらもそんな芸ができることを不思議に思っている新に、春が教えてくれた。
「あの人、礼陣大学出身なんだよ。生まれは県外なんだけど、大学時代に礼陣を大好きになってくれたんだって。そういう人がいるって、嬉しいよね」
春が新を夏祭りに誘ってくれたのも、礼陣を好きになってほしいからなのだろう。まだここに来て三年目で、一年目こそ山の色の移り変わりや、田舎ののんびりした空気が新鮮だったが、だんだんそれを眺める余裕もなくなってきた。そんな新に、春は自分の生まれ育った町のいいところを見せたかったのだ。山に遊びに行こうという話が出たのも、同じ理由だったはずだ。
夏休みにもっと余裕があったなら、春や詩絵、千花と一緒に、この町のまだ知らない魅力を知ることができたかもしれない。けれども、夏休みはもう残り一週間程度しかなくて、きっと今日遊びに出ていることが母に知れたら、うかつに外になんか出られなくなる。
この夏祭りが、新の唯一の、夏休みの楽しい思い出になるのだ。
ほんの少しの感傷はあったが、ものまねは新の腹筋を鍛えるのに十分な衝撃だった。春と詩絵と千花も思い切り笑っていて、終わってもまだひいひいと息を漏らしている。「特に晴山楽器店の店長の真似が最高だった」と言い合っているので、今度機会があったら実物を見に行ってみたいと新は思った。
だが、ステージはこれで終わりではない。これから飛び入り参加の、町の人々による出し物が始まるのだ。先ほど盛り上がりすぎたので、素人が何かすると会場が冷めてしまうのではないかと、新は少々心配になっている。けれども詩絵が、呼吸を整えてから、ステージに目を向けつつ言った。
「さて、ここからが大本命。芸能人は芸能人で面白いけど、それとは別次元の楽しみがあるんだよ」
これから出るのは素人なのだから、当然次元は違うだろう。新は心の中でそう返したのだが、その考えはあっという間に覆されることとなる。
「まず登場するのは、礼陣のお祭り男と商店街の花! 二人の美声をお楽しみください!」
司会者の言ったフレーズは、いつか聞いたことのあるものだった。どんな状況で耳にしたのか思いだそうとしていると、ステージの上に見覚えのある少年二人が現れる。
「あ、運動会の……」
中学校の運動会、借り物競走のときに積極的に協力してくれた、高校生の少年たちだ。片方は春と一緒に走り、もう片方は千花を助けた。そのときに詩絵が、彼らのことを教えてくれたのだった。
「やっぱり今年も出てくれた! 和人さんと流さんが出るの、期待してたんだよねえ」
はしゃぐ詩絵に、千花が「詩絵ちゃんは和人さんのファンだもんね」とにこにこしながら言う。こころなしか春も目を輝かせているように見えて、新はちょっとだけ妬いた。
しかし、やきもちはすぐに吹き飛んだ。壇上の背の高い少年――流というのだったか――が、すう、と息を吸い込んだかと思うと、マイクを手にしてよく通る声で観客に呼びかけたのだ。
「年に一度の礼陣夏祭り、盛り上がってるかー!」
たったそれだけで、会場が大きく沸いた。さっきのものまね芸人に引けをとらない。そこに立っているだけで人を惹きつける人間というのは、本当にいるものなのだ。
「さっきのものまね、すっげー面白かったよな。俺のものまねもしてもらえば良かった」
「それはさすがに無理でしょう。……さ、僕だって緊張してるんだから、歌うなら早くやろう。みんな待っててくれてるし」
少年たちの掛け合いに笑いが上がり、それから一瞬静まり返る。テンポを刻むトントンという音のあとに、流が抱えていたギターの音色が響き出す。新も門市に行ったときによく耳にする、最近流行しているらしいバラードだった。たしか、原曲は女性アーティストが歌っていた。それをマイクを持っている和人という少年が、綺麗な声で歌いだした。女の子である千花とはもちろん質が違うが、男性にしては少し高めの、耳触りの良い柔らかな声だ。流が爪弾くギターに、よく調和している。
予想外の感動を覚えていると、隣からも同じ歌がとても小さく聞こえてきた。ステージからの音楽に合わせて、春と千花が口ずさんでいたのだ。その向こうでは詩絵がうっとりとステージの上を見ている。穏やかで幸せな時間が、ここにあった。
二曲目はパワフルなロックをアレンジしたもので、ギター一本とボーカル二人に、会場の手拍子が加わって大いに盛り上がった。春に促されて、新も手を叩く。参加すると、もっと楽しくなってきた。歌はよく知らないので一緒に歌うことはできないが、手拍子だけで場と一体になっている感覚を得られる。ステージの上も、観客も、誰もが気分を高揚させ、笑顔を咲かせていた。
「ああ、楽しかった! 和人さんも素敵だったし!」
ステージを最後まで見終えた詩絵は、満足そうにかき氷を崩していた。シロップはレモン味だ。千花と春はイチゴ味、新はブルーハワイを食べている。新がかき氷を食べるのは、生まれて初めてだ。
あの後も、ステージでは様々な演目が繰り広げられていた。どれも誰かが誰かを楽しませるための、そして自分も楽しむためのものだ。つまらないはずがない。たとえちょっとだけ滑りそうになったとしても、すぐに例のお祭男が出てきて、場を盛り返してくれる。なるほど、町で人気があるわけだ。
新は礼陣が、この町の人々が好きになっていた。運動会の時も思ったが、この町の人々は基本的にお祭り好きで、町に住む人々や町の雰囲気も大好きなのだ。よそから来た人にも思い切り自慢して、歓迎して、仲間に引き込もうとする。そんなところに、来訪者たちは惹かれるのかもしれない。
「礼陣に引っ越してきて良かった」
ぽつりと呟くと、春が首を傾げて新を見た。
「突然、どうしたの? 引っ越してきて三年目なのに」
「改めて思ったんだよ。今まで、楽しい部分をあまり知らなかったから。景色がきれいで、のんびりしているところだと思っていたけれど、こんなに面白い町だなんて知らなかった。……だから」
かき氷のシロップと同じ色の、夏の空を見上げる。この空を、この景色を、手放したくない。ここの人々と暮らしていきたい。町を離れるなんて、もう考えられなかった。高校生になってからも、この町にいたい。
「来年も春と一緒に、みんなと一緒に、こんな時間を過ごしたい」
「……そうだね。私も、来年も、その先も、新と一緒に一年を過ごしたいな」
眩しい笑顔が隣にある日々を、これからも送りたい。そのためならなんでもしてやる。龍堂高校に合格するという難題だって、乗り越えてやる。新はそう決意した。
「二人の世界に入ってるところ悪いんだけど、今夜の相談していい?」
「え、今夜?」
詩絵の声にハッとして、春とともに顔をあげる。呆れたような、でもどこか楽しげな表情で、詩絵は続けた。
「花火大会。打ちあがるのは遠川河川敷だけど、一番よく見えるのは神社の境内かな。色野山展望台でもいいんだけど、子供だけで行くにはちょっと遠い。だからそれは来年以降のお楽しみね。どう? 新は一緒に見られそう?」
これが夏の、最後の思い出になる。できることなら、花火が終わるまで楽しんでいたい。けれども、今の新にそこまでは許されていないのだった。
先ほど携帯電話を見てみたら、家からの着信で履歴が埋まっていた。母が帰りを待っている。家に着いたら、まず説教をされるのだろう。遊んでいる場合じゃないでしょう、と。
「……ごめん。せっかくだけど、花火までは無理だ」
「そっか、残念。じゃあ、来年のお楽しみだね」
今年の夏休みに、何もできなかったわけではない。来年に取っておく楽しみが増えたのだ。新は、春は、詩絵と千花は、そう思うことにした。
礼陣神社の境内からは、遠川河川敷からあがる花火が何の邪魔もなく見える。同じことを考えている人はたくさんいて、境内は人でごった返していたが、大人たちは良い場所を子供に優先的に譲ってくれる。春と詩絵と千花は、夜空に咲く大輪の花を、ときどき歓声をあげながら見た。
花火の音は、家の自室で参考書を広げる新の耳にも届いていた。実物を見るのは来年だ。今はそのための準備をしておこう。長い説教だって平気だ。「一日くらい遊んでもいいだろ」と、言い返すのも怖くなかった。
夏祭りの終わりは、礼陣の夏の終わり。夏休みが明けたら、秋が来る。季節は巡って、冬を乗り越えれば、待ち望んだ春になる。
「春のために、か」
呟いて、新は笑う。
同じ頃、神社の境内では、春が笑っていた。来年、ここに新もいることを、想像しながら。