中学最後の運動会のあと、怒涛の勢いで前期中間テストが終わり、部活動の大会もほぼ一段落した。しかし人心地ついたところで、礼陣の夏はまだまだこれからだ。中央中学校の三年生には、まもなくやってくる夏休みの前に、中学生活最大のイベントが待っている。

「修学旅行は海と都会、か。たしかにここにはないものだな」

 配布されたプリントを眺めながら、新はぽつりと呟いた。そこには間近に迫った三泊四日の修学旅行の行程が印刷されている。

 海に近い場所や、この辺りよりもずっと賑やかで都会らしいところを巡る、何県にもまたがる旅。しかしそもそも小学生のときまではこの山に囲まれた礼陣の町ではなく、県内ではあるが少し離れた大きな町に住んでいた新にとっては、あまり心惹かれるような内容ではない。だいたいにして、行く先々で研修や見学といった勉強会があるのだし、自由に見てまわれるというわけではなく団体行動だ。さほど面白いものではないだろう。

 これが春と同じクラスなら、少しは楽しみにも思えたのだろうが。運動会の時に思い知った通り、彼女は別のクラスである。

「修学旅行、何を楽しめっていうんだ……」

「え? 新君、春ちゃんの水着楽しみじゃないの?」

 周りに聞こえない程度の小声で呟いていたつもりだった。しかし、いつものことながら彼女は突然傍にやってきて、しっかりと言葉を拾っていく。

「……千花、驚かさないでくれ」

「新君が周り見てないだけだよ」

 顔をあげた新に、千花はにっこりと笑ってみせる。よくあることなのだが、新はいまだに彼女の神出鬼没癖に慣れないでいた。もっとも、千花との付き合いが長い詩絵でも驚くというのだから、そう簡単に慣れられるものでもないらしいのだが。

 それはともかくとして、先ほど千花から聞き逃してはいけないような台詞が飛び出さなかっただろうか。新は千花に向き直り、彼女の言葉の続きを待った。

「それより、修学旅行。せっかくだから楽しもうよ。海水浴場での自由行動はクラス関係ないし、なんと春ちゃんの水着姿が見られるチャンス!」

「よし、楽しみにしておく」

 どうせ面白くないだろうと思っていた修学旅行だが、千花の一言が新に希望の光を与えた。そういえば、千花はいつも、悩んでいる新に話しかけてきてはやる気をくれているような気がする。そう思うとなんだかありがたくて、新も笑い返した。

「千花はオレに期待を持たせるのが上手いよな。ありがとう」

「どういたしまして。……まあ、こっちも新君がちょっとはやる気出してくれないと、面白くないからね」

 きっとあとで、この反応をネタにして詩絵たちと一緒に新弄りをするのだろう。でも、今の新はそれが嫌ではない。ちょっとした楽しみができればそれでいい。千花たちと行動を共にするようになってから、新はそんな考えをするようになっていた。

 何はともあれ、好きな女の子の水着姿が拝めるというのはありがたい。いやらしい気持ちではなく、もっと単純で、純粋に。

 

 中央中学校の修学旅行は、夏休み直前の三泊四日。一日目はほぼ移動になるが、普段の生活ではなかなか縁のない海沿いの県へ行き、そこで宿泊する。二日目は漁場見学と、海水浴。そして少し移動して、また別のところで宿泊。三日目はこれまた礼陣の田舎っ子たちには縁遠い大都会に移動し、各班に分かれて企業や専門学校などを訪問する研修がある。最後の宿泊のあと、四日目は都会での買い物を楽しんでから帰宅……というスケジュールになっている。

 海も都会も、山っ子である礼陣の子供達にとっては貴重な場所だ。このあたりで都会といえばせいぜい隣町の門市くらいなもので、それですら普段あまりお小遣いを持っていない中学生には遠く感じる。さらに海となれば、まるで外国にでも行くようで、自然とわくわくしてしまう。礼陣っ子とはそういうものなのだ。

「詩絵ちゃん、海だよ! 貝殻拾えるかな?」

 めったに礼陣から出ることのない春は、小学校の修学旅行以来の海が楽しみで仕方がない。しかも今度は、以前よりももっと離れた場所に行くのだ。どんな景色が見られるか、今から想像を膨らませている。

「貝殻って。春はそんなのでいいの? 可愛いねえ。アタシは四日目の買い物が楽しみだな。こっちじゃ買えないグッズとか服とか見たい」

 一方、詩絵の楽しみは都会側にある。強調するが、とにかく田舎の礼陣は、最先端のものが届くのが遅い。流行も一歩か二歩は遅れてやってくるし、本や音楽CDなどの入荷も必ず一日は後になる。詩絵が最近好きなアイドルグループのグッズなど、ここではなかなか手に入らない。修学旅行は、それらを一挙に、世間のリアルタイムで見て触れることのできる大きなチャンスなのだった。

 しかしこれはあくまで「修学」旅行。一番の目的は団体での見学や研修だ。そのための班を決めなくてはならないのだが、これが旅行の思い出を左右する重要なものになる。男女合わせて三十人のクラスを五つの班に分け、四日間のほぼ大半を一緒に過ごさなくてはならないのだから、班内での揉め事などは当然ないほうが良い。

 班分けの方法は、C組では生徒が自由に決めて良いことになったので、春と詩絵はもちろん同じ班になった。これで二人だが、あとの四人をどうするか。リーダータイプの詩絵は他の子たちからの誘いがあったのだが、なかなかちょうどいい数にならない。C組はみんな仲が良すぎて、うまく六人ずつに分かれないのだ。

「仲間外れは嫌だけど、まとまりすぎるのも厄介だなあ。井藤ちゃんは自由にしていいって言ったけど、うちのクラスは出席番号順とかでも良かったかもね」

「どっちにしろ、私と詩絵ちゃんは同じ班になれるからね。班決め、他のクラスはどうしてるんだろ……」

 プリントを手に二人で額をつき合わせていると、横から「おーい」と声がかかった。顔をあげると、ポニーテールがチャームポイントの体育会系女子が手をひらひらさせている。

「詩絵と須藤さん、一緒に行動するんでしょ? あたしも仲間に入れてよ」

「笹。なんだ、広瀬たちと一緒じゃないの?」

 詩絵が「笹」と呼ぶのは、同じクラスの笹木ひかりだ。詩絵とは小学校からの付き合いだと、春は聞いている。

「みんなで詩絵をとりあった結果、勝利をおさめまして。それにどうせヒロ達とはホテルの部屋で一緒になるでしょ。というわけでいい? 須藤さん」

「もちろんだよ! 私が詩絵ちゃん一人占めって、なんだか申し訳なかったんだ」

「取りあいって……ただアタシに班長やらせたいだけじゃん」

「そうじゃないって。詩絵がいると班が盛り上がるんだもん」

 そうは言うが、詩絵と同じくひかりもクラスの人気者だ。きっと引き留められたに違いない。人気者二人に挟まれて、春は緊張でちょっとだけ萎縮する。ひかりはそれに気づくのも早く、春の肩を叩いて「やーだあ、須藤さん」などと笑ってみせた。

「あたしのこと怖がらないでよ。そうだ、あたしも春って呼んでいい? タイミング窺ってたんだよね」

「怖がってなんか! 呼び方は好きなようにどうぞ」

「それじゃ、春。あたしのことは笹でもひかりでもいいから、楽に呼んでね」

 これまでちゃんと話したことはなかったが、ひかりは詩絵と同じタイプの良い子らしい。春はほっとして、「よろしく、ひかりちゃん」と返した。

 それを見計らったように、男子が三人近づいてくる。浅井と塚田、そして牧野。まず口を開いたのは浅井だった。

「笹木達、組むの決まったのか? だったらさ、俺達と組んで六人にしないか?」

 先ほどの春よりも緊張している様子の浅井に、詩絵はほほう、と頷いた。修学旅行をきっかけに気になる相手に近づこうと考える奴が、まさか本当にいるとは。

「アタシは笹と春がいいならいいけど」

 にやりと笑って浅井を見ると、耳まで赤くして目を逸らした。ひかりに話しかけるのも、相当な勇気がいることだっただろう。背中を押したのは、塚田と牧野か。

「私はいいよ。ひかりちゃんは?」

「うーん、まあいっか。それじゃよろしくね、浅井」

 こうして研修の班は決まったものの、詩絵には一つ気がかりがあった。牧野が春を好きらしい、ということは運動会の直後に新と千花から聞いている。はたして牧野までも同じ班にして良かったものか。春にその気がないからいいか、とは思うが、新からはあとで文句を言われそうだ。

 今も牧野は春を横目で見ている。だが春のほうはまるで気付いていない。みんな青春してるなあ、空回りしてるけど。詩絵はそんなことを心の中で呟きながら、このメンバーで四日目にどこを見に行けるかを考え始めた。

 

 昼休み恒例の集まりで班決めが話題にのぼると、案の定、新は詩絵に詰め寄った。

「なんで牧野を同じ班にしたんだよ……。せっかく運動会以降引き離したかと思ったのに!」

「浅井と笹を一緒にしたら、牧野がついてきたんだもん。しょうがないじゃんか」

「誰だよそれ! せめて牧野が春に近づかないように見張っててくれよ」

「それは牧野次第だなあ。アタシは春がより幸せになれればそれでいいし」

 新が詩絵にこそこそと文句を言っている間に、春は千花とのおしゃべりを楽しむ。まったく、いつもの光景だ。

「千花ちゃんたちのところは、班決まった?」

「うん、一応ね。こっちも研修班は男女混合で、私と新君は同じ班。あとは筒井君に沼田君、佐山さんに羽田さん」

「佐山と羽田?」

 千花が言った名前に、詩絵が珍しく鋭い声で反応した。表情も険しく、新は初めて見る顔の詩絵に驚く。春も詩絵と千花を交互に見ながら戸惑っていた。

「千花、その班大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。だって、新君がいるもの。あのね、新君が班に誘ってくれたんだよ」

 にこにこと笑顔を浮かべながら、千花は答える。それはたしかに事実だった。筒井と沼田が新を誘い、そこへ佐山と羽田の二人の女子が加わった。そこで新は、残り一人としてまだどこにも加わっていなかった千花を誘ったのだ。

「佐山と羽田がどうかしたのか? オレ、何かまずいことでも……」

「いや、新がいるなら大丈夫……だと思いたいかな。でも新、千花のこと気をつけてあげてよ」

「詩絵ちゃん、本当に大丈夫だから。新君も気にしないで」

 千花は笑みを浮かべながらも、ぴしゃりと話を打ち切った。だが詩絵の表情は硬いままで、春は不安そうなままだった。事情がわからない新は、自分のしたことが何かいけなかったのかと悩む。四人の間に不穏な空気が流れたまま、予鈴が鳴ってしまった。そのあとも、千花のいる前でこの話をすることはなんとなく憚られて、誰も班の話題を出そうとしなかった。

 

 その週の土曜日の午後、春は礼陣駅前にいた。修学旅行に行くのにも、色々と準備が必要だ。けれどもその中身には同性の親がいなければ相談しにくいものもあり、それができない春は同じ境遇にある千花と、母はいるものの忙しくて一緒に買い物に行けない詩絵との三人で揃えに行こうと約束したのだった。

「春ちゃん、お待たせ」

「あ、千花ちゃん。待ってないよ、今来たところだもん」

 普段は学校で会っているので、見るのは制服姿ばかりだ。今日のように私服で待ち合わせるのはあまりないことなので、なんだか照れくさい。春はチュニックに七分丈で折り返したジーンズ、千花はふわりとしたワンピースに薄手のカーディガンを羽織っている。そして少し遅れてやってきた詩絵は、半袖のシンプルなポロシャツに細身のパンツといういでたちだった。格好にそれぞれの個性が出ているのは、互いに見ていて面白い。

「遅れてごめん! 午前中で家事終わらせようとしたんだけど、なかなかうまくいかなくてさ。成彦にバトンタッチしてきちゃった」

「大丈夫、時間には間に合ってるよ」

「詩絵ちゃん忙しいんだから、ちょっとくらい遅れてもいいのに」

「楽しみにしてたのに遅刻なんて、もったいないじゃん。さて、行きますか」

 準備の段階から、修学旅行はすでに始まっている。いつもより多めのお小遣いをもらって、普段はなかなか買い揃えられないようなものを選ぶのは、ちょっとしたイベントだ。それも商店街の店ではなく、駅前のおしゃれな佇まいの店で買い物をするのだから、なんだか少しだけ大人の女性に近付いたような気分になる。でも、もっと大人っぽい子は隣町まで行って買い物をするのだと思うと、やっぱりまだまだ自分たちは子供なのだなとも感じるのだった。

 必要なのは、まず大きな鞄。それからタオルや、寝間着代わりのTシャツにハーフパンツ。洗面道具に風呂道具。そして難しくてちょっぴり恥ずかしい下着類。女の子だけで来なければ買えないものがたくさんある。

 いくら礼陣が田舎といっても、駅前の大きなショッピングセンターに行けば、大抵のものは揃ってしまう。そこにはテナントがたくさん入っていて、ティーンズ向けの可愛い服やアクセサリーも豊富だ。とはいえ、さすがに隣町やそれ以上の都会には敵わないのだが。それでも女子にとっての礼陣駅前は、十分に宝箱のようなものだった。

「水着も自由だったら良かったのにね。これなんか、詩絵ちゃんに似合いそう」

 千花がオレンジを基調としたタンキニをとって、詩絵にあてようとする。それをかわした詩絵は頬を赤くして「やめてって!」と叫ぶ。

「アタシ、海水浴自体が憂鬱なんだから! スタイル良くないから、水着になりたくない! 同じ理由でホテルのお風呂もあんまり……」

「えー? 詩絵ちゃん、スレンダーでかっこいいよ。羨ましいけどなあ」

 明るくはしゃぐ千花を見て、春は安心していた。ここ最近はみんなで集まってもなんだか変な空気になってしまっていたので、こんなふうに自然なやりとりができるのは嬉しい。別のクラスにいる千花の様子は、春にはよくわからないので、元気に笑っている姿を見ることで「大丈夫だよね」と思うことができる。

「春ちゃんもそう思わない? 詩絵ちゃん、シュッとしてて良いよね」

「うん。私、ちょっと太ってるから羨ましいよ」

「春は太ってるんじゃなくて、つくべきところにちゃんとついてるだけでしょうよ。むしろ胸以外は細いくらいじゃん」

「そうなの? これから下着選ぶけど、春ちゃんのサイズは?」

「な、内緒! 千花ちゃんこそどうなの?」

 普段はできないような会話をしながら、必要なものと、ちょっとしたおまけも買う。鞄に付けていようと約束してお揃いで買ったチャームは、手の中できらきらと光っていた。クラスの違いのせいで乗るバスが違っても、泊まる部屋が違っても、これさえあれば三人一緒にいられるような気がする。

 一通りの買い物を終えたあとは、商店街まで移動して、飲食スペースのある和菓子屋「御仁屋」でおやつタイム。こればかりは馴染みの場所でなければ落ち着かない。最後に買った鞄の中に荷物をひとまとめにした三人は、どこか旅行に行って帰ってきたような格好で店内に入った。

「はあー……疲れたけど楽しかったね」

 冷たくしたほうじ茶を飲んで、詩絵は大きく息を吐いた。そうしながらも、ちゃんと品書きを春と千花によこしてくれるあたりが、やっぱり姉貴分だ。

「一緒にお買い物なんて初めてだったもんね。またお小遣いがあるときにしようよ」

 千花が品書きを見て、即「おにまんじゅう」を指さす。春と詩絵も同じにしたので、結局三人とも学生の財布に優しくかつ美味しい、礼陣名物を選んだ。

「夏休みに門市まで行ってみるのもいいかも。今度は新も誘って」

「春ちゃん、やっぱり新君が一緒のほうがいいんだ」

「そりゃあ、友達だもん。……今回みたいな買い物は、一緒じゃできないけど」

 女の子だけで遊ぶのは楽しかった。けれども、春はときどき物足りなさを感じていた。ここに新がいたら、ということをふとした瞬間に思うのだ。いつもの四人じゃないと、なんだか落ち着かない。

 そんな様子の春に、千花はにんまりと笑って言う。

「新君のことが気になるなら、早く認めちゃったほうがいいと思うな。同じクラスの羽田さんが、新君を好きみたいだから」

 突然の爆弾発言に、春と詩絵は動きを止める。羽田といえば、研修で新と千花と同じ班になったという女子だ。これまで春たちが触れてこなかったことを、千花のほうから出してきたことには驚いた。もちろん、その内容にも。

「羽田が新を? そう言ってたの?」

「うん、佐山さんがそれを応援してるの。そのために二人は新君と同じ班になったんだよ」

 詩絵の表情が焦ったものに変わり、春もはらはらする。けれども千花は涼しい顔で、運ばれてきたおにまんじゅうを二人に配りながら続けた。

「そしたら新君、私のことも誘ってくれるんだもん。……ちょっと、勘違いされちゃったんだ。私が新君のことを好きなんじゃないかって」

「いや、それはおかしいでしょ。普通そういうことがあったら、新が千花を、って思わない? ……あ、でも佐山と羽田ならそういう思考になるか」

 深い溜息を、今度は呆れたように吐いた詩絵。そしてそれに困ったような笑顔を向ける千花。春はその原因を知らないので、途方に暮れてしまう。はたして訊いていいのか、知らないふりをしていたほうがいいのか。

 迷っていると、千花のほうから切りだしてくれた。

「あのね、春ちゃん。新君には内緒にしておいてほしいんだけど、私、佐山さんと羽田さんとはあんまり仲良くないの」

「向こうが勝手に千花に偏見持ってるだけでしょ。それどころかあの二人、前に千花をクラスでハブろうとしてたことがあったんだよ」

「詩絵ちゃん、そこまで言わなくても……私が二人の機嫌を損ねちゃっただけだよ」

「千花は何にも悪くない」

 たまたま巡りあわせが悪かっただけだ、と千花は言う。けれども詩絵からしてみれば、その出来事は立派な虐めだった。一年生の頃から、佐山と羽田は千花に対して無視や陰口などの嫌がらせをしていたらしい。それを詩絵が一度やめさせたのだが、現在のクラスでまた状況が悪くなっているようだ。

 だから詩絵は、班決めの話が出たときに心配していたのだ。千花の修学旅行が、あの二人によって台無しにされてしまわないかどうか。――千花は「新がいるから大丈夫」と言っているが、羽田が新に好意を持っていることがわかった今、不安要素は増えてしまった。むしろ新があいだにいることで、より一層険悪なことになるのではないか。

「……ええと、羽田さんは新のことが好きで、千花ちゃんもそうじゃないかって思ってるんだよね。新が千花ちゃんの味方をしたら、二人が付き合ってると思われちゃうんじゃ……」

「春の言う通り。あの二人は思い込みが激しいから、千花を攻撃するかもしれない。もちろん新たち男子には見えないところでね。……ああ、なんでアタシが同じクラスじゃないんだろ。千花の傍にいてあげられたら良かったのに」

 悔しそうに拳を握りしめる詩絵に、しかし千花は首を横に振った。そしてまた「大丈夫だよ」と繰り返す。

「あのときとは状況が違うもの。私だって、強くなったつもりだよ。心配しないで、詩絵ちゃん。もちろん、春ちゃんもね。多分新君がとられることはないと思うけど」

 冗談めかす千花に、けれども春も笑顔を返せない。新がどうこうではない。それが全く気にならないというわけでもないが、なにより千花が心配なのだ。

「千花ちゃん、何かあったらすぐに相談してね」

「何もないと思うよ。……でも、気持ちは受け取るね。ありがとう」

 千花はお揃いで買ったチャームを片手に握りしめながら、いつものように花のような笑顔を見せた。

 

 研修班は、二日目の漁場見学と三日目の企業や専門学校の訪問、そして四日目の自由研修で行動を共にする。そのうち二日目はほぼ全員で動くことになるので、班というよりはクラス単位だ。だから班ごとの研修は、都会でのものが主になる。自分たちで訪問場所や移動手段などを考えるのも、この部分だ。そのために班で集まって話し合うことも多くなる。

 週明け、新たちの班は、筒井を班長に、佐山を副班長にして、都会での行き先を確認していた。企業訪問はあらかじめ学校側でリストを作ってあり、そこから選ぶだけだ。けれどもそのあとの自由研修は、自分たちで行きたいところにあたりをつけ、計画を立てなければならない。

「やっぱりタワーは展望台まで行かないとな。あそこ、土産物も充実してるみたいだし」

「でも、入場料高くない? これで服とか買えるんだけど」

 目的地である都会の街には、高い電波塔がある。観光客が必ず行くというそこに、筒井と沼田の男子二人は行きたがっている。けれども佐山と羽田の女子二人はその足元の街で買い物を楽しみたいようで、さっそく意見が分かれていた。千花は双方の話を聴きながら頷いて、手元のメモ帳に内容を書き留めている。そんな光景の中、新は詩絵に言われたことを思い出していた。

――千花のこと気をつけてあげてよ。

 どうやら、千花と他の女子二人はあまり親しくないらしい。しかし今のところ、それが表に出ている様子はない。ただ、女子たちから千花に話が振られるということもないようだ。彼女らは二人で話をし、二人で行きたい場所の候補を挙げている。

「入江は? 行きたいところとかない?」

 男子は新によく意見を求めてくる。新がそれにうまく返せたことはない――なにしろ展望台のあるという「ミヤコタワー」にもすでに行ったことがあるので、今回は行っても行かなくてもかまわないくらいなのだ――が、それでも会話があるだけいいのだろうか。

 特に行きたい場所もないので、班の決定に任せる。そう返事をしようとして、新はちらりと千花のメモ帳を見る。これまでにそれぞれがあげた候補地が、箇条書きで並んでいる。それを可能な限り憶えてから、一班に一つずつ配られている地図を広げた。

「オレは特に行きたい場所っていうのはないけど、……千花がちゃんとメモとっておいてくれたからわかるんだけど、筒井や佐山さん達がさっきから挙げてるのはミヤコタワー周辺だろ。だったら、タワーにはみんなで行って、それから周辺を見てまわるのがいいと思う。目印があったほうが迷わないだろうし」

 こことここと、というように地図を指さしながら、新は提案をしてみた。千花が「楽しもう」と言ってくれたのだ、ここで消極的になってどうする。自分から動いたほうが、新自身のためにも、千花のためにもなるはずだ。

 すると、男子は感心したように頷き、女子は一瞬だけ眉を寄せたものの、すぐに笑顔になって同意を示した。

「入江君の考えに賛成。ていうか、この際別々に自由に行きたいところに行って、最終的にミヤコタワー前に集合すれば良くない?」

 そこへ羽田が思いついたことを付け加える。班での行動が原則なので、別れて好きなところに行く、なんてことはできないはずなのだが。けれども班はその路線で盛り上がってしまい、結局最初にタワーの展望台までは全員で行くことにして、あとは自由行動をしようということになってしまった。

 提案をしたときには、こんなはずじゃなかったのに。新が溜息を吐くと、同時に千花が苦笑していた。どうやら同じことを考えていたらしい。妙な安心感を覚えたのもつかの間、沼田が新の背中を叩く。

「入江は俺らと一緒に行動するよな。男子は男子で動こうぜ」

「え、でも、それはまずいんじゃ……だいたい、班の意味がないだろ」

「どうせ女子の買い物なんて、俺らには理解できないって」

 そんなことをしたら、千花とはぐれてしまうかもしれない。詩絵から千花のことを頼まれているのに。そう思って千花のほうを見ると、声を出さずに口だけが動いていた。「大丈夫」――たしかに千花は、そう言っていた。この言葉が出るのは、もう何度目だろう。千花の言う「大丈夫」は、本当に大丈夫なのだろうか。さすがに新も不安になるが、筒井と沼田がミヤコタワーの中にある土産物屋や飲食店、アトラクション施設の話を振ってくるので、それについていくのがやっとになってしまう。

 女子のほうは相変わらず、佐山と羽田の二人だけがきゃあきゃあと騒ぎながら行きたい店の話をしていて、千花には目もくれなかった。

 あとで提出した計画表は、見かけは新の提案通りにミヤコタワーを中心として全員で行動することになっていた。担任の服部もそれで了承したので、その場はごまかせてしまったことになる。新はなんとなく胃のあたりが重いような気がして、この気分はいったいなんだろうと考える。――ああ、そうだ。これは「後ろめたさ」だ。そう気づいたときには、計画表は旅行のしおりの中におさまってしまっていた。

 

 

 修学旅行のしおりには、行程表と荷物のチェックリスト、そしてメモ欄が多めに綴じこまれている。春は荷物を確認し、それからメモのうちの一ページを使って書いたお土産リストを見た。祖父に、幼馴染の家。それから他にも、普段お世話になっている人たちへ。物だけではなく、出来事も楽しい土産話として語れますようにと思い、しおりを閉じてバッグの中にしまう。大きな荷物とは別の、持ち歩き用の軽いショルダーバッグには、詩絵と千花とお揃いで買ったチャームがきらりと光っていた。

 まだ解決していない不安要素はある。でも、それにとらわれていてもまた仕方がない。無事に過ごせることを祈り、そして万が一何かあったときにはすぐに対応できるようにしておこうと気をとり直しながら、数日は戻らない玄関で靴を履く。

 見送りに出てくれる祖父に、大事なことを告げるのも忘れずに。

「それじゃ、おじいちゃん。私がいないあいだも、ちゃんとご飯食べてね。仕事に没頭しすぎないように!」

「わかっとる、わかっとる。本当に口調がお母さんに似てきたな。……楽しんでこい、春」

「はあい! いってきます!」

 旅行鞄を持って、春は自宅を出る。いつもよりずっと早い朝は、少し涼しく感じた。でも天気は旅の始まりにはちょうどいい、真っ青な晴天だ。――今日は全国的に晴れらしい。

 修学旅行一日目。春は元気に出発した。

 

 定刻通りに中央中学校から出ていった四台のバスは、これから山を越え、県境を越え、海のある土地を目指していく。今日はほぼ移動で時間を使ってしまう予定なので、メインイベントはバスガイドによる名所案内と、バスの中でのお喋り、それから現地での宿泊だ。

 C組のバスではさっそくバスガイドとの交流が行なわれ、実に賑やかな山越えが始まった。

「これからみなさんと、ちょっとしたゲームをしながら進んでいきたいと思います。まずは今配った紙に、自分の名前と誕生日、血液型、趣味を書いてください。あとで名前を伏せて発表して、それがいったい誰のことなのかを当ててもらいます。……っていうのを、井藤先生が考案してきてくれました。あ、近くの人に見られちゃだめですよ」

 紙に指示されたことを書きこみながら、子供達は口々に「これ考えたの井藤ちゃんじゃないだろ」「絶対去年とかもやってるよね」などと言う。引率で担任の井藤がごまかすように笑っているところを見ると、図星なのだろう。

「千花に聞けば、去年もやったかどうかわかるんだけどね。あの子、仲のいい先輩いるし」

「そうなんだ。……A組は今、何やってるのかなあ」

 バスの隣同士の席で、詩絵と春は喋りながら記入を終える。書き終わった紙は回収され、井藤がわざわざ持ってきた菓子の空き箱の中に入れられた。

 このゲームでは、クラスメイトのことをどれだけよく知っているかが試されるのだそうだ。友人同士であれば誕生日でわかってしまいそうなものだが、ヒントは書いたのと逆の順番、すなわち趣味、血液型、誕生日の順で出される。普段仲が良いのに、意外な趣味を書いていたら、なかなか当てられないかもしれない。

「それでは一人目。趣味はゲーム!」

「はいはいはい! ゲームといえばヨータ!」

 そしてもう一つ。このゲームをクラス全員参加でやるためには、遠慮などしていられない。互いに名前を挙げても嫌がらないようなクラス環境でなければ成立しないので、C組にはうってつけのゲームなのだろう。

「春はわかる? クラスメイトの趣味とかさ」

「私、当てられないかも……。あ、でも、詩絵ちゃんはわかるように頑張る!」

「いや、詩絵こそ謎でしょ。少なくともあたしはわかんないなあ。あ、お菓子食べる?」

「ありがと。……っていうか、笹、諦め早くない?」

 通路を挟んだ向こうの席から、ひかりがおやつを提供してくれる。詩絵と春もそれぞれ持ち寄ったものをお礼に返すと、「どーも」と言って、隣の席の子と分けていた。

 ゲームは賑やかに進んでいる。趣味の公開だけではなかなか当たらず、血液型でなんとか当たることもあれば、誕生日を挙げてもまだ正解がでないこともある。三年間一緒だったのに、誕生日を初めて知ったという声もあがった。

「次はですね……趣味は工作」

 バスガイドが次の紙を読み上げる。と、即座に詩絵が手を挙げた。そしてよく響く声で断言する。

「須藤春!」

「ピンポーン、正解です! こんなに早く当たったの、初めてですね!」

 嬉しそうなバスガイドと、隣に座っている春に、詩絵は両手でピースを決める。春のほうは「え、なんでなんで?」と驚いていたが、同じ小学校出身のクラスメイト達は納得したように頷いていた。

「須藤、木工とか上手かったもんな。じいさん仕込みで」

「あー……そっか、牧野君達は知ってるし、詩絵ちゃんもうちに来てるからわかるよね。意外なところ狙ったと思ったんだけどなあ」

「やっぱり狙ってたか。アタシはごまかされないもんね」

 得意気に笑う詩絵は、これがきっと千花のことでも当ててみせたのだろうなと、春は思う。これをきっかけに一層盛り上がったC組一行を乗せて、バスは目的地へと向かう。

 

 A組のバスでは、別のゲームが行なわれていた。座席の縦列ごとに色紙とサインペンが一つずつ配られてから、バスガイドが説明を始める。

「みなさんにはこれから、担任の服部先生の似顔絵を描いてもらいます。ただし、一人につき顔のパーツを一つずつ描きこんでいってもらって、最後の人が完成させるようにしてください。審査員は先生ですよ。……ですよね、服部先生」

 このゲームも、A組引率兼担任の服部が用意したらしい。だが、その発案者については正直に暴露した。

「バスの中で何ができるか、町で卒業生捕まえて考えてもらった。四クラス全部、違うゲームをしている」

「うわ、すごいな。その卒業生……」

 新が呆れるやら感嘆するやらしているあいだに、色紙がまわりはじめる。C組に比べるとおとなしいA組には、さほど喋らなくてもできるゲームがちょうど良かった。けれども色紙が手に渡ると、そこに描かれたもののアンバランスさと、完成品はいったいどうなっているのかという想像に、自然と笑いがこぼれる。新が色紙を手にしたときには、テーマが服部だということを疑いたくなるような奇妙な絵がすでに完成間近だった。眼鏡らしきもののおかげで、なんとか服部だと言い張れそうだ。

 千花のいる列はどんなものができているのだろうか。他の列に比べて、進みが遅い。女子がくすくすと笑いながら、色紙とサインペンを後ろへと送っている様子は、楽しげではあるがどこか違和感もある。その正体がわからないまま、新は自分が一筆加えた色紙を次に送った。

「うわ、これ酷い!」

「服部さん、ごめん!」

 完成した色紙が前方に戻って公開されると、どっと笑いが起こる。服部も苦笑しながら、「前衛的だな」などと呟いた。どの列もそれぞれに遊び心が詰まった担任の肖像は、甲乙つけがたいほどに面白いものになっていた。

 新も笑いをこらえきれず、ふきだしてから千花の席に目をやった。きっと彼女も明るく笑っているだろうと思ったのだ。だが。

「……?」

 千花は少しも動いていないようだった。笑っているのなら、肩が動いていてもおかしくないはずなのに、俯いたままピクリともしない。バス酔いでもしてしまったのだろうか。新は手を挙げて、服部に千花の様子を知らせようとした。

 しかし、挙げかけた手は隣に座っていた筒井に止められる。戸惑っていると、こそりと告げられた。

「やめとけ。せっかく盛り上がってるんだから、空気読めよ」

「何言ってるんだよ。千花が具合悪そうにしてるんだぞ」

「違う。……女子の問題は放っておいたほうが良いぞ、面倒だし」

 皮肉めいた笑顔を浮かべながら、筒井は前に視線を戻した。何が起こっているのか、彼にはわかっているらしい。新の行動を止めるくらいには、事態を把握しているようだった。――女子の問題。その言葉に、詩絵たちとのやりとりが重なる。それから、さっき女子から漏れていた奇妙な笑い声。

 新は察しの良いほうではないという自覚がある。それでも、ここまで言われれば、女子達が千花に何かしたのではないかという想像くらいはできる。詩絵の心配はこれだったのだ。新に気をつけていてほしいといったのは、こういうことだったのかと、いまさらわかる。

「先生、園邑さんの具合が悪そうです」

 放っておくことなんかできない。新は今度こそ手を挙げて、服部に訴えた。筒井が「やめとけって言ったのに」と呟いても気にしない。何もしないよりは、行動したほうが良いはずだ。

「園邑? ……どうした、大丈夫か」

 新が声をあげると、服部はすぐに千花の傍に行ってくれた。女子のあいだで何かがあったにしても、本当に千花が気分を悪くしているのだとしても、服部がついていてくれたほうがいいだろう。新はそう思っていた。だが。

「はい? 笑いすぎてちょっと酸欠気味なだけですよ。うふふ、あの絵、見てるだけで面白い」

 千花は何事もなかったかのように、そう言った。

――嘘だ。だって、さっきまで全然笑ってなかった。今、突然笑いだしたんだ。すぐにでもそう叫んで詰め寄りたかった新だが、またそれを封じる言葉が千花から発せられる。

「私、大丈夫です。……入江君も、心配かけてごめんね」

 まるで他人みたいに、笑顔を貼りつけて、千花はその台詞を紡ぐ。服部もそれを聞いて息を吐き、「そうか」と千花から離れてしまう。

「だが、笑いすぎて酸欠は危ないな。乗り物酔いするといけないから、念のため袋を持っておくか」

「あ、ありがとうございます」

 服部はバスの後方へ行き、用意してあった不透明の袋を一つとって戻ってきた。そして千花に渡すと、「本当に具合悪くなったらすぐ言いなさい」とだけ言い残し、自分の席についてしまった。

 一連を見ていた新は、胸のあたりがもやもやしていた。どうして千花は嘘を吐いたのか。どうして服部は何も気づかないのか。こちらのほうが気分が悪くなりそうだった。

 

 昼の休憩は、名勝地として知られている公園に降りてとることになっていた。バスからぞろぞろと出てきた中学生たちは、外の空気を思いっきり吸い込む。ここでの行動は自由なので、別のクラスの友人同士が一緒になって、持参した昼食を広げている姿もちらほらあった。

 今のうちにバスの中であったことを詩絵に報告しようと、新がC組のバスのほうへ向かおうとしたときだった。服部が「入江」と声をかけてきたので、新は睨み返すように振り返った。

「何ですか、先生」

「さっきは園邑のこと、ありがとうな」

 何も気づかなかったくせに、何もしてくれなかったくせに、この人は何を言っているんだ。そんな気持ちがこみ上げてきて、新は服部を睨んだまま低い声で言った。

「……根本的には何も解決してないですよ。先生は気づかなかったかもしれませんけど、千花はあのとき、」

「わかってる。すまなかった」

 新の言葉を遮るようにして、服部は紙を一枚差し出してきた。小さく折りたたまれたあとの残るそれには、女子特有の丸い字で、その形に似つかわしくない言葉が書かれていた。

『これから園邑のことはハブってね』

 紙を手に取り、食い入るように見つめる新に、服部は続ける。

「色紙と一緒に、後ろまでまわっていた。入江に言われる前に、さっさと気づいて取り上げるべきだったな」

 服部がバスの中で取りに行ったのは、袋ではない。最後尾にいた女子が持っていた、この紙だったのだと、新はようやく気がついた。ならば当然、服部は千花の嘘に気がついているはずだ。わかっていたから、ああ言ったのだ。――本当に具合悪くなったらすぐ言いなさい。

「ホテルの大部屋は、幕内先生によく見てくれるように頼んでおく。……それからその紙は、加藤達には見せないほうがいい。園邑が嫌がるだろう」

「わかりました」

 千花はあのとき、事を荒立てたくなかった。だから「大丈夫」と言った。服部は心苦しくも、その意思を汲んだのだろう。でも、本当にそれで良かったのだろうか。新は紙を握りしめて、乱暴に制服のポケットに突っ込んだ。

 バスの周りからはもう人がはけて、それぞれが好きな場所で昼食をとっている。新もとりあえずそうしようと、空いている場所を探していると、横から肩を叩かれた。

「新、元気? まさかバス酔いなんてしてないよね」

「詩絵……」

「ほら、春と千花が待ってるから行くよ」

 いつも通りに笑う詩絵は、いつもの四人で昼食をとるために、わざわざ新を迎えにきたらしかった。「こっちこっち」と背中を押しながら、しかし誰にも聞こえないよう小声で囁く。やはり詩絵も、気になっていたのだ。

「千花の様子、どうだった?」

「……あんまり良くない。本人は平気なふりしてるけど」

「やっぱりか。……まあ、だいたい何があったかは、さっきA組女子の会話を盗み聞きしたから把握してるよ」

 新や服部が気を回すまでもなく、詩絵は情報を集めていた。だから新も、「夜は幕内先生が見回り強化してくれるってさ」と情報を提供した。詩絵はこくりと頷いて、それ以上は何も言わなかった。

 先に待っていた春と千花は、新と詩絵を見つけると大きく手を振ってくれた。春の笑顔にはもちろんのこと、今は千花が笑っていることにも、新は安堵する。そうだ、あれが千花の本当の笑顔だ。さっきのような笑い方は、できればもうしてほしくはない。

「新、遅いよ。せっかく四人でご飯食べられるのに」

「春ちゃんってば、さっきからずっと新君のこと待ちわびてたんだよ」

「千花ちゃん、その言い方はちょっと……間違いではないけど……」

「ああ、ごめんな。いやあ、春と一緒に昼飯食えるなんて幸せだな」

「はいはい、さっさと食べるよー。あ、ここ湧き水出るらしいから、あとで汲んでこない?」

 新の好きな春がいて、姉御肌の詩絵がいて、心から微笑む千花がいる。この時間がいつまでも続けばいいのに。新は心からそう思っていた。

 昼食から集合時間まで、四人は湧き水の出る場所へ行ってみたり、バスの中でのゲームについて――もちろんA組で起こっていたことは伏せて――話したりして過ごした。

 C組の人当てゲームですぐに特定されてしまったことを春が話すと、千花は「わかりやすいよー」と笑っていたが、新はどこか焦ったような表情をしてどこか遠くを見ていた。もし新がその場にいても、多分わからなかったのだろう。好きな子のことも、まだよく知らないことが多い。その上詩絵に「牧野もすぐわかったっぽいよ」とまで言われては、本当に負けている気がする。

 A組の似顔絵ゲームについても、千花から話題を出した。完成した服部の肖像がどれも眼鏡しか合っていなかったことを聞いた詩絵と春は、「それ見たい」「服部先生に頼んだら、見せてくれないかな」と盛り上がっていた。

 空いたペットボトルに汲んだ湧き水は、冷たくて、水道水とも売られているミネラルウォーターとも違う味がした。これに一番感動していたのは新で、どうにかして持って帰れないかと思案していたほどだ。もちろん、生ものを長時間持ち歩くことなどできないので、最終的には諦めたのだが。

「水一つではしゃぎすぎじゃない、新?」

「オレには新鮮だったんだよ」

 詩絵が呆れると、新が口をとがらせて反論する。そこに千花がにこにこと加わっていく。

「新君、元都会っ子だもんね。でも、湧き水くらいなら礼陣にだってあるんだよ」

「え、本当に?」

「周りの山にそういうところがあるの。ね、春ちゃん」

「そうだね。夏休みに、新の都合が良かったら行ってみよっか。山はね、私、得意なんだよ」

 礼陣はただの田舎だと思っていた。でも、周りの山々には豊かな自然があって、人々はそのことをよく知っているのだ。新はそのことを思い返す。中学一年生で初めて田舎に住むことになり、四季ごとに移り変わる山の色に感動したことを、しばらく忘れていた。

「春が案内してくれるのか? それって……その、デート、とか」

「えっ?! み、みんなでだよ! ね、詩絵ちゃんと千花ちゃんも行くよね!」

「アタシ、うちの店が忙しいからなー」

「私はお父さんと旅行の予定があるんだー」

「もう、二人とも……」

 まだ旅行一日目だが、離れてきた町が少しだけ恋しくなる。せめて旅行が終わるまで、ずっとこんなふうに、楽しいことばかりならいいのに。

 またバスに戻るのはなんだか惜しいなと思ったのは、きっと新だけではなかった。

 

 公園の広場で集合写真を撮ったあと、バスはまた走り始める。ここからはバスガイドの案内が多くなるので、ゲームなどはお預けだ。県境を越えると、海に接する土地に入るが、まだその景色は見えない。けれども礼陣から随分と離れてしまったことだけは感じる。

 途中でトイレ休憩を挟んで、さらに進むと、ようやく今日の宿に到着する。聞こえてくる音と流れてくる潮の香りが、ここが海に近い場所であることを教えてくれる。実際、宿泊するホテルの上の階からは、海が見えるのだそうだ。山側から走ってきたので、ここまで海を見てはいないが、たしかにここは山の町とは違うのだった。

「みなさん、お疲れさまでした。今日はゆっくり休んで、明日からの研修に備えてくださいね」

 バスのドアが開くと、引率教員を先頭に、生徒たちがぞろぞろと降りてくる。自分の荷物をおろしてもらい、持ってきてから並び、点呼をとる。宿に入るのはそれからだ。最初に揃ったクラスからホテルのエントランスへ行き、迎えてくれる従業員たちに挨拶をして、各部屋に荷物を置きに行く。ここできちんと集団行動ができなければ自由研修の時間が減らされてしまうかもしれないので、生徒たちはみんな行儀よく振る舞っていた。

 今日の部屋は大部屋だ。各クラスとも男女を半分ずつに分け、計十六部屋を使わせてもらうことになっている。風呂の時間もクラスごとに決められていて、守れなければ後々影響が出てきてしまう。一日目を何事もなく終えることができれば、それが二日目からの信頼に繋がる。修学旅行とはそういうものだと、教師陣も事前に説明していた。

 ただ、A組女子はすでに状況が良くない。バスの中でこっそりまわしていた、千花を仲間はずれにしようという内容の手紙が、担任の服部の手に渡っている。これが原因で行動を制限されるであろうことは、とうに予想ができていた。

「自由研修の時間、短くなると思う?」

「スケジュール通りにいかなくなるかもね。……園邑が入江君に媚びたから」

 荷物を部屋に運び入れながら、A組の女子の一部がひそひそと話し合う。他の子は、関わり合いになりたくないので黙っているか、そもそも自分は手紙に触れてすらいないので関係がないと考えているかのいずれかだった。何にせよ、千花の味方をしようとする者はいない。そんなことをすれば、たちまちに自分も敵意の対象になってしまう。悪意が千花一人に向いて済むのなら、それに越したことはないという考えを、みんながみんな、無意識にも持ってしまっているのだ。

 それでも千花は、どんなに悪意ある囁き声が聞こえようとも、誰もそれを止めようをしていなくても、俯かなかった。俯けば、「大丈夫」ではないことが知られてしまう。「大丈夫」であり続ければ、誰にも迷惑をかけずに済むのだ。そう思いながら自分の荷物を部屋の隅に置く。できる限り、他の人の邪魔にならないところを選ぶ。四日間、そうして過ごしていれば、みんなが楽しい思い出をつくれる。千花はそう自分に言い聞かせていた。言い聞かせながら、笑みを浮かべていた。

 集団行動のスケジュールは分刻みで、だらだらしている時間はない。荷物を置いて、すぐに夕食が用意されている大きな広間に集合しなければならない。ここでは四クラス全ての生徒と引率教員が揃い、全体への連絡がなされてから食事をすることになっている。

 広間にずらりと並べられたお膳に、生徒たちは感嘆の声をあげる。クラスごとに分かれてはいるが、席は特に決まっていない。仲良し同士だと自然と男女別になることが多いが、C組などは性別すらも気にしない。各自好きなところに、好きなように座って、まずは先生の話が始まるのを待った。

「みなさん、本日は移動が多くて疲れたでしょう。公園ではたくさん遊びましたか? 湧き水は飲んでみましたか? ガイドさんから興味深いお話もたくさん聞けたことと思います」

 仲居さんたちが小さな鍋の下の燃料に火をつけてくれるあいだ、教頭が話をする。静かに耳を傾けることも、修学旅行を楽しむためのルールだ。たとえ友人同士でかたまって座っていても、このときはきちんと口を閉じて、教頭の話に集中する。

「明日からはいよいよ、研修が始まります。今日は美味しいご飯を食べ、温かいお風呂に入り、しっかり寝てください。消灯時間を守れているかどうか、先生たちが見回りますからね。……それでは、他の先生たちから何かありますか?」

 そう言って教頭が服部を見ると、A組の女子達はぎくりとした。それを感じとった男子達も、思わず身構える。しかし、教頭の視線はそのまま服部を通り過ぎ、学年主任でD組担任の舟見に止まった。

 舟見はこれからのタイムスケジュールと注意事項を一通り言ってから、「それでは」と咳払いを一つした。

「美味しい食事を用意していただいたことだし、いただこうか。もう鍋もちょうど良く温まってる頃だ。では、いただきます!」

「いただきます!」

 声を揃えた生徒たちは、一斉に箸をとる。長い移動に長い話、加えて漂ってくる美味しそうな匂いに、もう我慢ができなくなっていた。鍋の蓋をとると、なるほど、ちょうど良く具材が温まっていた。まるで教頭や舟見が計算していたかのようだ。

「美味しい! 野菜もお魚も、こっちでとれたものなのかな」

「ご飯っておかわりできねえの? これなら軽く二杯、いや三杯はいけるのに」

 料理そのものの味はもちろん、空腹も相まって、旅行一日目のご馳走は生徒たちの舌を満足させる。賑やかに食事が進む中、春と詩絵は隣同士で座って、A組の様子を見ていた。

「千花ちゃん、やっぱりちょっと他の子と距離があるみたい……」

「うん。服部さんと椿先生が一緒に座ってくれてるから、よく見ないとわかんないくらいにはなってるけどね」

 鍋に入っていた魚と野菜のホイル焼きをつつきながら、二人は遠くの席にいる千花を見守る。千花の傍には服部と養護教諭の椿が座り、一緒に食事をとっていた。A組のバスの中で起こったらしい事件について言及はされないようだが、千花をさりげなく守ろうとする動きはあるらしい。夜の部屋の見回りも強化してくれるようだと、新も言っていた。

 でも、これで千花が安心できるかといえば、そうではないだろう。別のクラスにいる春や詩絵にできるのは、千花と一緒にいられるときにめいっぱい楽しむこと。千花が旅行を振り返って「楽しかった」と言えるような思い出をつくること。どう考えても、それが一番だった。

「とりあえず、今はあれでいいかな。服部さん、色々考えてくれてるみたいだし。アタシたちも楽しまなきゃ、千花がもっと辛い」

「そうだね。……あれ、詩絵ちゃん、玉ねぎ食べないの? まさか苦手?」

「……自分で料理するときは、気にならないようにみじん切りにしたりしてるんだけど。こうもどーんと乗っかってちゃ、食べにくいというか……」

 苦笑する詩絵に、春はくすくすと笑う。それを遠くにいた新が見つけて、心を和ませているのも知らずに。

 新はA組男子でかたまって食事をしていたのだが、その中でも端にいたので、隣には羽田が陣取っていた。だが、彼女のほうを見ることはほとんどない。視線はだいたい春のほうへ、そして時々千花に向けている。もっとも、千花は先生たちのガードがあるので、さほど心配せずに済んでいる。加えて春の可愛らしい笑顔が見られるので、今の新は落ち着いていた。

「ねえ、入江君。明日の海水浴楽しみだよね。海は行ったことある?」

 そこへ不意に羽田が話しかけてきた。急だったので危うく口に入れたものを丸呑みしそうになったが、なんとか防いで、しっかり咀嚼してから喉を通す。遅れながらも、羽田にはちゃんと返事をした。千花と仲が良くないとはいえ、クラスメイトであることには変わりないのだから、無視するわけにはいかない。

「行ったことあるはずだけど、よく憶えてない。海水浴はほぼ初めてだな」

 かつて住んでいたところからさほど離れていなかったこともあり、海自体は別段珍しいものでもなかったが、海水浴の経験はない。新の家は勉強第一なので、家族でどこかへ遊びに行くなどといったことはほとんどなかった。かといって、海水浴自体にはあまり興味を惹かれない。新の目的はあくまで春と、友達と過ごすことなのだ。

「そうなんだー! あたしもね、海水浴は久しぶりなんだー。じゃあさ、明日良かったら一緒に泳がない?」

「羽田さんは佐山さん達と一緒に、女子同士で遊んだほうが楽しいんじゃないか? オレも明日は」

「入江、女子に誘われてんなよ! 明日はビーチバレーだかんな!」

「……というわけだから」

 先ほどから男子のあいだでも、二日目の海水浴は話題になっていた。ただし、泳ぎよりも浜辺で遊ぶほうが楽しみらしい。新も強制的にビーチバレーに参加させられることになっていた。……本当は春達とずっと一緒にいたいのだが、どうやらそれは難しいようだ。

 少しむくれて黙ってしまった羽田にこれ以上何と言って良いのかわからず、新は男子の話の中に戻りながら、また春達をちらちら見始めた。すると一瞬、春と目が合った気がして、心臓がどきりと大きく跳ねる。だが、すぐに目を逸らされてしまったので、気のせいだったかと思い直した。嬉しいような、残念なような。

 しかし事の真相はこうである。春は本当に、新のほうを見ていたのだ。彼が羽田と話をしているところを、ばっちりと。

「……羽田さん、だっけ。新のこと好きなんだよね」

 ぽつりと呟いた春に、詩絵はデザートに伸ばしかけた手を止めて頷く。

「らしいね。まあ、黙ってりゃそこそこイケメンだし、好きになる子がいてもおかしくはないと思うけど。気になる?」

「……ほんのちょっとだけ」

 そうして新に向けていた目を逸らした春を、詩絵はにやにやしながら見ていた。この修学旅行を機に、春と新ももっと進展すればいいのに、なんて考えているのだ。もちろんそのためには、あちこちに潜んでいる罠をクリアしなければならないのだが。羽田の存在もその一つだし、牧野だってそうだ。

 春はだんだん新のことが気になってきていると、詩絵は、そして千花も確信している。そしてもちろん新は、春一筋だ。他の女の子に目移りすることなど、彼に限ってはないだろう。このままうまくいけば、それに越したことはないのだ。もともと新の恋を応援するために、詩絵達は彼と友達になったのだから。

「修学旅行ってさ、結構好きな人に告白しちゃおうって奴がいるみたいなんだよね。新も羽田に告白されたりして」

「そうかなあ……。で、でも、私にはそんなこと関係ないもん。新が誰に告白されたって……」

 ぶつぶつと呟きながら、春はデザートのゼリーをとって食べ始める。夏みかんのゼリーは、なんだかすっぱすぎる気がした。それを思わず顔に出すと、詩絵がそれを見て笑った。

 友達が楽しそうに食事をしている様子を覗き見ながら、千花もおかずとご飯をきれいに食べ終える。クラスの女子から遠巻きにされても、教師二人が近くにいるので寂しくはなかった。それに服部とクラスの子たちの会話や、養護教諭である椿が話しかけてきてくれる内容は、本当に面白かった。

「服部先生。普段、こんな豪華なご飯食べてる?」

「ここまで豪華ではないが、おかずはだいたい井藤先生が作って持ってきてくれる」

「同じアパートに住んでんだっけ。井藤ちゃんがご飯作るとか、超ウケる!」

 昼間の事件など忘れたかのように、女子も、そして男子も服部に絡んでくる。結局のところ服部は人気のある先生なのだ。そして椿は、のほほんとすまし汁を啜って、幸せそうに息を吐いている。

「私は給食以外のまともなご飯久しぶりー。園邑さん、これ食べた? 美味しいよー」

「はい、美味しかったです。そろそろデザートにうつろうかと」

「あ、このゼリーも美味しそうだよねー。給食のさ、ちょっと凍った状態のゼリーあるじゃない? あれも美味しいけど、こういうちゃんとしたのもそれはそれで良いよねー」

 椿ののんびりとした口調に、千花もつられて和む。詩絵と春、そして新が遠くても、ここはここでいい席だ。先生たちは千花を心配して来てくれたのかもしれないが、それを感じさせないようにしてくれるのも嬉しい。あまり気を遣われると恐縮してしまうし、あとで更なる反感をかう元にもなってしまうから。

 ゼリーまで残さず食べ終えると、お腹がいっぱいになった。食事の時間はもうすぐ終わりだ。ここからは何があっても、千花が自分でなんとかしなければならない。そのための鋭気は、たっぷりと蓄えた。

 

 各部屋のリーダーが集められて連絡を受けているあいだは、他の生徒達は自由になる。大広間から部屋に戻ってみるとすでに布団が敷かれてあって、各々が自分の今日の寝床を決める。特に仲が良い者同士、布団に入ったままお喋りをしやすいように。要するに、今夜はまともに寝るつもりがないのだ。教員が見回りに来たときには、おとなしく寝ているふりをしてやりすごす。きっと旅行中は寝不足のままだろう。たとえお喋りには加わらなくとも、夜中まで続く笑い声を聞きながらでは、熟睡することは難しい。

 そういうことを思うと、一番端の布団をあてがわれたのはむしろ幸運だったかもしれない。追いやられたのではなくここを選ばせてもらったのだと、千花はそう考えることにした。自分の布団の上で部屋着代わりのTシャツとハーフパンツに着替えるあいだも、周りの声は否応なしに聞こえてくる。

「服部先生、何も言ってこないね」

「なんでまわした紙、すぐに隠さなかったのよ。自由時間減らされたら困るんだけど」

 文句を言っているうちに、部屋長が戻ってくる。そしてメモをしてきたらしい「お知らせ」を読み上げた。内容は風呂の時間の確認と、消灯および起床時間、朝の支度と朝食について、そして明日の予定だ。A組女子達が危惧していた「手紙の処分」については、一切話が出なかったのだと聞いて、みんなあからさまにホッとしていた。

「研修に影響はないんだよね?」

「うん、今のところ何もなかったことになってる。……だから園邑、余計なこと言わないでよね。こっちが迷惑するんだから」

 お咎めなしとわかった途端に、千花に矛先が向く。びくりと肩が震えたが、なんとかごまかして笑顔をつくり、応えた。

「何も言わないよ。気にしてないもの」

「あっそう。そうだよね、何かあっても入江君が守ってくれるんだもん、気にしないよねー」

「あと加藤とかね。強い奴味方につけようとか、あんた卑怯だから」

 クラスでも発言力のある子は、遠慮せずに思いついたことをぽんぽんと投げつけてくる。佐山もその一人で、率先してA組女子を動かしている。手紙をまわし始めたのも、バスで前のほうに座っていた彼女だった。佐山の機嫌を損ねるとA組のおとなしい女子は目をつけられてしまうので、千花が暴言を浴びせられていても庇えない。

「園邑さんのことはいいから、お風呂いかないと。A組から順番に、三十分ずつしかないって」

「風呂の時間も少ないよね。マジ融通きかないんだけど」

 言いたい放題のまま、同じ部屋の子たちはさっさと準備をして大浴場へ向かっていく。千花はみんなが出ていったあとに、部屋の電気を消し、部屋長が忘れていった鍵を持った。早足で部屋長を追いかけ、嫌な顔をされるのを承知で呼び止め、鍵を渡す。部屋長は「ああ、うん」と言って鍵を受け取ったきり、千花を見ようとはしなかった。

 大浴場で体を洗う順番も、千花にはなかなかまわってこない。おかげで浴槽にはほぼ浸かることができずに、風呂の時間が終わってしまった。予想はできていたことだ。でも思った以上に露骨だった。誰にも気づかれないように溜息をついて部屋に戻ると、もう「寝ない準備」が整っている。賑やかにお喋りを楽しむ子たちの邪魔にならないよう、千花は自分の布団に足を突っ込んで、持ってきていた本を読み始めた。

 

「入江は誰が好きなわけ?」

 風呂からあがった男子達が話題にしたのは、普段あまり多くを語らない新のことだった。そもそも、新は礼陣に来たばかりだった一年生の頃から、自分から友人をつくろうとはしてこなかった。何を話題にしていいのかわからなかったし、もともと社交的なほうではないので、わざわざ友人を求めなくてもいいと思っていた。だからそれでこれまで通してきたのだが、春を好きになったこと、そして詩絵と千花が「アタシたちと友達になりなさい」と近づいてきたことから、大きく状況が変わったのだ。

 その様子を周囲から見ていたほうからすれば、新の変化は不思議だったのだろう。これまで男子とすらまともに言葉を交わしたこともなかったような新が、女子とばかり一緒にいて、楽しそうに喋るようになったのだから。

「園邑のことが好きだから、今日も具合悪そうとか言ったの?」

「同じ班に誘ったのも?」

 ここぞとばかりに投げかけられる質問に、新はたじろぎながらも答えようとする。

「そりゃ、千花は友達だから。具合悪そうにしてたら心配するのは当たり前じゃないのか。班に誘ったのもそうだよ」

「女子との友情は成り立つ派か。入江、もしかしてオネエだったりすんの?」

「オネエではないつもりだけど、そういうふうに見えるのか?」

「それかチャラ男だな。女子とばっかり話してると、俺たちが妬むぞ」

 もっと俺達と仲良くしようぜ、と男子たちは言う。もしかして、ずっとそんなふうに思っていてくれたのだろうか。明日のビーチバレーに誘ってくれたのも、そういうことなのか。それならありがたいなと、今の新は素直に思える。そんなふうに思えるようになったのも、きっと春や詩絵、千花が心をほぐしてくれたからだった。

「じゃあ、入江は誰が好きなんだ? 加藤……は、オトコオンナだからないか。スドウも小さいけど怪力だし」

 だが、どんなに新と親しくしたいと思ってくれていても、許せないことはある。一分は認めざるを得ないが、一部はきちんと否定しておかなければ。

「スドウじゃなくてストウだよ。名前間違えたら、本人が嫌がるからやめろ。詩絵が男らしいのは認めるけど、春は駄目だ。あと、怪力じゃなくて人の役に立てる力だからな」

「あれ、加藤と須藤じゃ扱い違うんだな。須藤のこと語りすぎ」

 にやにや笑いをこちらへ向ける男子たちに、新は赤面を隠せない。こういうときに有効なのは、この台詞だ。――そんな判断ができるようになったのも、詩絵達のおかげだった。

「そういうそっちはどうなんだよ。好きな女子とか、いないわけじゃないんだろ」

「そりゃ、まあ。……正直、入江が園邑と仲良いのは羨ましいと思ってる」

 一人のその告白をきっかけに、次から次へと「千花は可愛い」といった話が出てくる。特にあの筒井からも声があがったのは意外なことだった。千花に好意があるのなら、どうしてバスの中で千花を助けようとしなかったのだろう。その疑問を真っ向からぶつけてみる。

「そんなに千花が可愛いっていうなら、なんで筒井はオレを止めたんだよ? 面倒だとかいって……」

「だって、女子ってなんかめんどくさいじゃん。誰が媚びてるだのなんだのって。うちのクラスなんか特にそうだろ。あそこで男子全員が園邑の味方をしたら、確実に園邑は女子からハブられてるぞ」

 実際はもうそうなってしまっているのだが、新が思っているよりも男子はクラスに起こっている事態について考えているらしかった。少し安心するとともに、新は自分の行動も考え直してみなくてはと思い直した。下手な行動はとれないが、突然よそよそしくするのもおかしい。

「オレは千花にどうしてやったらいいんだろうか」

 思い切って訊いてみると、沼田が微笑みを浮かべながら言った。

「俺は、入江はそのままでいいんじゃないかって思うよ。もともと園邑と仲良いんだから、そうしてるのが自然だろ。俺たちがいきなり乗り込んでいったら不自然だし、女子も不審に思うだろうけど、入江ならできるじゃん。ていうか、俺はそうしてほしい。いざとなったら、俺たちは入江の味方をするからさ」

 みんなが頷くので、新は胸がいっぱいになってしまった。自分のしたことは間違ってはいなかったのだという安心感と、何かあってもこいつらなら助けてくれるんじゃないかという心強さが、新の不安だった心を支えてくれていた。

「……ありがとう。なんか、ホッとした」

「そっか、それなら良かった。じゃ、ウノでもやろうぜ! 夜は長いぞ!」

「明日海に入るんだから、程々にしておけよ。先生ももうすぐまわってくるだろうし」

 男子部屋は和気藹々としたムードに包まれる。もっと早くクラスにうちとけておけば良かったなと、新はそれだけをほんの少し惜しんだ。

 

 C組の風呂の時間が終わり、春達はタオルを肩にかけ、いつもは結んでいる髪を解いた状態で廊下を歩いていた。部屋に戻る前に飲み物を買っていこうと、自動販売機のあるスペースへ向かっているその最中、詩絵はずっと虚ろな目をしていた。

「詩絵、いいかげん元気出しなよ。あんたは痩せてるんだからそれでいいじゃん」

 ひかりが半ば呆れたように、けれどもどこか面白がりながら言う。すると詩絵は「嬉しくない」と呟いて、春の胸元へと視線を落とした。さっき初めて見たTシャツの下の膨らみを思い出すと、さらに虚しい気持ちになる。

 プールの授業が始まって、春の体型は見慣れていたと思っていたが、素肌を見ると絶望感が増すのだということは初めて知った。あまりにも詩絵と違いすぎる。春はそうは思っていないのだが、詩絵には相当なショックだった。

「詩絵ちゃん。私、痩せてる詩絵ちゃんを羨ましいなって思うよ。だから、そんなに見ないでほしいな……」

 思わず腕を組んだ春に、詩絵は首を横に振る。これが見ずにいられるか。しかも一緒に風呂に入る機会は、まだあるのだ。明日の海水浴のときだって、平常心ではいられないだろう。

「わかってたよ。一緒に下着選びに行った時だって、春だけサイズおかしかったもん。いや、おかしいのはアタシか。アタシがなさすぎるのか」

「し、詩絵ちゃん、そんなことないって」

「春の栄養は身長じゃなくて胸にいってたんだよね。よく見たら笹より大きかったもんね。普段は着痩せしてたから気にしなかったけど、脱いだらすごかったんだね!」

「ちょっと、詩絵ちゃん! 声大きい! 誰かに聞かれてたら恥ずかしいから、」

 やめて、と言おうとした春は、自分たちがすでに自動販売機のある共有スペースに来ていたことに、一瞬気づけなかった。ここがそうだとわかったのは、そこで見知った姿を見てからだった。――そこにはクラスメイトとともに飲み物を買いに来ていたらしい、顔を真っ赤にした新の姿があった。

「……あ、新、今の……」

 どうか聞かれていませんように。そんな願いが頭をよぎる。

「ええと、うん。詩絵の声でかいなーって思ってて、なんか、……ごめん」

 けれどもそれは見事に打ち砕かれた。そんなことは、彼の表情を見たときに、もうわかっていた。それどころか詩絵が新に気づくなり、近づいていって胸倉を掴み、さらにまくしたてようとしたのだ。

「ちょっと新、春ってばすごいんだから! 中学三年生であんなに大きかったら、この先どうなるの?! 来年にはもうすっごいバインバインに」

「詩絵ちゃん、やめて! 新には言わないでー! ていうか、なんで新はここにいるの?!」

「オレはクラスの奴とウノやってて負けたから罰ゲームで! おい、詩絵、放せ! これ以上はオレが春に嫌われる!」

 ぎゃんぎゃんと騒ぐ三人を、通りすがる人々がなんだなんだという目で見ていく。幸いというか、むしろ不幸なことなのか、みんな同じ学校の生徒たちだ。どこかから「井藤ちゃん呼んできたほうがいいかな」という声がしたところで、ひかりがあわてて詩絵と、春、そして新の頭を平手で思いきり叩いた。ちなみにバレー部である彼女の平手はかなり痛い。

「いいかげんにしなさい! 騒いだら他の人に迷惑でしょうが!」

「……ごめんなさい」

「ひかりちゃん、止めてくれてありがとー……でも痛い……」

「笹、本当に容赦ないね……。でもアタシが悪かったわ。ごめんね、春。あと新」

 ひかりのおかげで、その場は先生を呼ばれずに収まった。集まってきていた生徒たちを散らしてから、詩絵の奢りで紙パックのジュースを買う。そのあいだに春は、恥ずかしそうに新に向き直った。

「さっき詩絵ちゃんが言ってたこと、全部忘れて。修学旅行で、ちょっと変なテンションになってただけだから」

「わかったわかった。わかったから……」

 お互い、顔を真っ赤にして向き合う。しかしさっきより少し落ち着いたせいか、相手の容姿を改めてまじまじと見てしまった。新はいつも短い尻尾のように括っている髪を下ろしているし、春は二つに結んでいる髪を解いている。いつもとは違う印象だなと思うと、余計に目がいってしまうのだった。

「おーい、入江。そろそろ行くぞ。みんな待ってる」

「春、イチゴオレ買ったからそのへんにしときな」

 声をかけられるまで、春と新はしばし見つめあったままだった。我に返るとまた恥ずかしくなり、けれども軽く手を振って、「おやすみ」と言って別れた。心の中で、声にならない叫びをあげながら。

 このあと、春は部屋でひかりに「入江君と付き合ってるの?」「付き合ってないなら、両片思いってヤツ?」と散々問い詰められたが、ドライヤーの音で聞こえないふりをしてごまかした。たとえまともに答えられたとしても、付き合ってはいないし、自分が新を好きかどうかもまだわからない。そう、この期に及んでもなお、春には「わからない」のだった。

 

 

 修学旅行二日目の朝は、誰もが寝不足のまま、しかし元気に迎えた。朝食はまた大広間に用意してもらったものをしっかり食べ、部屋の片づけも荷物のまとめもきちんとして、一行はホテルをあとにした。

 今日はこれから漁港に行って、漁師の方々の仕事や漁場を見学させてもらうことになっている。その後はお楽しみの海水浴だ。疲れている暇なんかないのである。

「千花、昨日はよく眠れたか?」

 バスに乗り込む前に、新は女子の様子を窺いつつ、千花に話しかけた。千花はにっこり笑って、「眠れたよ」と返事をしたが、目の下にうっすらとできたくまは隠せていない。

 本当は昨夜、千花は誰よりも先に寝てしまおうと布団に入ったはいいものの、他の女子がはしゃぐ声でなかなか寝付けなかった。あまつさえ、彼女らはトランプで遊んだあとの罰ゲームと称して、千花のいる布団を蹴り飛ばしにまできたのだ。じっと我慢していたら、「コイツ起きないよ」などと笑われたのだが、そんなことを新に言えるはずはない。B組担任で女性教諭の幕内が何度も見回りに来たが、それを巧妙にすりぬけてのことだったので、教師陣も知らないだろう。

「ほら、新君。早くバスに乗ろう。おいていかれちゃう」

「ああ……。いいか、具合悪くなったらすぐ先生に言うんだぞ」

「わかってるよ。さ、早く早く」

 新にこれ以上心配をかけないよう、千花は明るく振る舞う。佐山と羽田の視線も感じていたので、接触しているのもあまり良くないだろう。

 一方、春と詩絵は欠伸をしながらバスに乗り込んでいた。こちらはお喋りが弾みすぎてしまっての夜更かしが原因だ。途中で見回りに来た先生に叱られたが、それでもやめられなかった。

「眠そうだね、二人とも。今日は泳ぐんだから、ちゃんと目を覚まさないと溺れるよ」

「ひかりちゃんは元気だね……」

「笹の趣味はバレーと深夜ラジオだからね。激しい練習の後でも遅くまで起きてるのが普通なんでしょ」

 ちょっとやそっとの夜更かしでは、ひかりの体力は削られないらしい。そんな彼女に元気をもらって、春と詩絵の目も完全に覚めた。移動中、何人かの生徒は寝てしまっていたが、春達はだんだんと海へ近づく景色を見ることができた。

 太陽に水面がきらきら輝いている。空の色を映した海は、思わず声をあげてしまうほどきれいだった。礼陣では絶対に見られない、春にとっては小学校の修学旅行以来になる光景。うっとりと眺めているうちに、今日の最初の目的地に到着する。

 バスを降りて、整列し、漁場を案内してくれるという漁師のおじさんに挨拶をする。「よくできた生徒さんですね」と言ってくれた漁師さんに、教頭が礼を返していた。

 漁場見学はクラスごとに行なう。研修班ごとにかたまって列をつくり、乱さないように見て歩く。港につけてある船。たくさんの水揚げされた魚たち。それを運んだり、仕分けたりする、仕事中の人々。山間部の土地では見られない生活だが、人がここに生きているのは同じだ。

「礼陣の、商店街の人達によく似てるね。威勢が良くて、仕事にまっすぐで」

「うちの父さんはあんまり喋らないけど。……でも、そっか。全体的に見たら似てるかも。八百屋のおじさんとか、魚屋さんご夫妻とか」

 礼陣でも海の魚は手に入る。でもそれは、誰かがこうして働いて、届けてくれるものだ。今度から魚をもっと味わって食べられるかも、と春が思ったところで、案内をしてくれていた漁師さんが言った。

「お昼はとれたての魚をたっぷりのせた、美味しい海鮮丼を召し上がっていってください。生魚だけじゃなく、フライもいいですよ。たくさん用意しているので、おかわりも歓迎です」

 さっそく巡ってきた嬉しい機会に、春は急にお腹が空いてきた。このぶんだと、おかわりもできてしまうかもしれない。

 貴重な話はしっかりとメモを取り、見学したことはしっかり目に焼き付ける。そうして迎えた昼食の時間に、生徒全員が目を輝かせた。とれたての魚を鮮やかな刺身にしてもらい、漁場で働くおばさんたちが丼によそってくれたご飯に、各自自由にのせていく。完成したオリジナルの海鮮丼にわさび醤油をちょっとかけ、思い切り頬張れば、魚の脂が口の中でとろける。その美味しさといったら、こう言っては魚屋さんに申し訳ないが、礼陣で食べるものとは段違いだった。

「美味しい……幸せ……」

「春、ハムスターみたいになってるよ。その栄養が身長にいけばいいのにね」

「前におじいちゃんと井藤先生に同じこと言われたよ、詩絵ちゃん」

 からかいの言葉も、美味しい海の幸の前ではどうでもよくなる。この食事を、千花や新も楽しんでいるだろうか。ここから二人の様子は見えないが、そうだと良い。

 そんなことを春が考えているあいだ、千花はまた引率教員たちに交じって海鮮を味わっていた。クラスの子たちから離れてしまったところを、教師陣がぐるりと囲んだのだ。そのときは驚いたが、話に加わっているとだんだん楽しくなってきた。

「やっぱり本場の魚は美味いな。刺身は無理でも、フライならなんとか再現できないかな」

「井藤は飯を食うとすぐ料理脳になるな。ホテルでもそうだったんだろう」

「私は個人的な旅行で、もう一度ここに来たいわね。椿先生も一緒にどう?」

「あーいいですねー。私は美味しいご飯が食べられればどこへだって行きますよー」

「みなさん、食事に夢中になるのもいいですが、引率だということを忘れないように。生徒たちの様子にちゃんと気を配らないと……」

「まあまあ、舟見先生。みんな行儀良くしているようですよ。園邑さんはちゃんと食べてますか? 普段から小食なんですか?」

 ご飯も美味しいし、会話は面白い。これならあとで詩絵や春、新に良い報告ができそうだ。井藤と服部の漫才じみたやりとりも、幕内と椿のまるで少女同士のような笑い声も、生徒や教員全員の保護者のような舟見と教頭の言葉も。仕事をしつつも、一緒に旅行を楽しんでいる者のそれだった。

 みんなで食事をする楽しさと、一人で過ごす寂しさの、両方を千花は知っている。今は楽しいとき。笑っているべきときだ。――いや、こんなに美味しい食事なのだから、笑顔にならないはずがない。

 ふと男子のほうを見ると、新も笑っていた。同性の友人達とあんなに楽しそうにしている姿は、初めて見たかもしれない。春に向けるのとも、詩絵や自分に対するのとも違うものだ。あんな顔もするんだなと、千花は目を細めた。

 その新が男子たちと何を話していたかというと、このあとの海水浴のことだった。大盛りにした丼飯をかっ食らいながら、真剣にビーチバレーと砂遊び、そして女子の水着について語りあっていた。

「水着、自由なら良かったのにな。いつものスクール水着とか、全っ然魅力を感じねえ」

「いや、他のクラスの女子見れるのは良いだろ。特に入江」

「やめろよ……一晩そのネタで人のこと弄っておいて、まだ足りないのか」

 新が春を好きなことは、今ではA組の男子全員に知れ渡ってしまった。昨夜の自動販売機前での騒動も全て明かされ、散々からかわれている。でもそれを嫌だと思わないのは、こんなふうに話をするのが楽しいことだと知ったからだ。

「で、入江はどんな水着が好みなの?」

「は? そんなの何でもいいよ」

「だよな。入江は須藤が着てれば何でもいいよな」

 すっかり弄られ役になってしまったが、悪くない。家から離れて、他愛のない話をしながら食事ができるというだけで、新にとっては十分に心休まることなのだ。

 

 漁場をあとにした一行は、海水浴場へと移動した。まずはここで集合写真を撮って、それから着替え、準備運動。海に入るのはそれからだ。

 ちょうど重くなっていたお腹も楽になり、運動するにはいい頃合い。爽やかな青色の空と海をバックに写真を撮ってから、更衣室を借りて水着に着替え、生徒たちは次々に浜辺に出てくる。平日で、海水浴シーズンの本番にはまだ少しだけ早い今、海水浴場はほぼ貸し切り状態だ。準備運動を終えた者から、ビーチボールを投げ始めたり、海に足をつけてその冷たさに叫んだりしていた。

 男子は短パンタイプの水着に名前を書いた小さな布を縫いつけ、女子はスクール水着の胸のあたりに同じようなものをつけている。プール授業のときとそう変わらない恰好だが、クラスごとに分かれる必要はない。授業ではないので、絶対に泳がなければならないというわけでもない。それぞれが自由に遊ぶことができる。

「千花、ボート借りてきたよ! アタシが押して泳ぐから、乗りな!」

 詩絵が二、三人は乗れそうなビニールボートを抱え、千花を呼ぶ。一日目の昼同様、クラスの垣根を越えられるときこそ、詩絵と春が千花に手を差し伸べられる機会だ。千花はぱっと笑って、詩絵のところへ駆けてきた。

「詩絵ちゃん、本当に押すの?」

「うん。考えた結果、海に入ってたほうが体型が目立たないという結論に至ったんだよね。春と並びたくないし」

「詩絵ちゃん酷い……。私の体型のことはもういいじゃない……」

 頬を膨らませる春に、詩絵は心のこもらない「ごめん」を言う。それからボートを水に浮かべ、春と千花に乗るよう促した。言われた通りに二人がおそるおそるボートに座り込むと、詩絵が浜に向いているほうから思い切り押す。そしてある程度の深さのところで、ボートに力を加えたまま泳ぎ出した。水の上をゆっくりと進む感覚に、春と千花は声を揃えて「わあ」と歓声をあげた。

「詩絵ちゃん、すごい! 重くないの?」

「意外と平気」

「私も泳げたら、詩絵ちゃんと代わってあげられるんだけどな」

「春、プールでもあんまり泳げないもんね。まあ、気にしないで、アタシに任せときなさいって!」

 運動全般が得意な詩絵にとっては、こんなこともお茶の子さいさいといったところだ。海水浴場の制限範囲ぎりぎりまで行くと、今度は浜に向かって戻っていく。周りから「なんか楽しそう」「俺たちもやろうぜ」という声が聞こえてくると、ちょっとだけ得意な気分になった。

 その様子は、浜辺でビーチバレーを楽しんでいた新の目にも入った。女の子三人がはしゃいでいるのを見ていると、やはり安心する。と、同時に気になってしまうのが、春の水着姿だ。旅行前、千花からも「楽しみ」として告げられていたその姿は、思っていたよりもずっと健康的だった。昨夜から少し、いや、かなり気になっていたが、スタイルもいい。

「入江、よそ見すんな!」

「え?! ……うわっ」

 見惚れていたら、ビーチボールが飛んできた。とっさに受けたが、うまく返らずに砂に落としてしまう。周りから呆れたような声があがった。

「お前なー、女子に見惚れんなよ。俺たちだって女子見たいのに!」

「須藤って背は小さいのに胸でかいんだな。入江は巨乳好きだったのか……」

「違う! あと春をそういう目で見るな!」

「いや、見てたのお前だろ」

 A組男子だけでわいわいと騒いでいると、そこにC組男子が集団でやってきた。筆頭が牧野なのを見て、新はまさかと思う。――はたして、予感は当たった。

「おい、A組! ていうか入江! 運動会のリレーのリベンジだ、勝負しろ!」

 新をびしっと指さして、牧野は高らかに告げる。こちらが返事を返す間もなく、さらにこちらに近づいてきて、新だけに小声で続けた。

「須藤のことじろじろ見てんじゃねえよ。このスケベ野郎」

「そういうつもりで見てたんじゃないんだけど」

「見てたなら同じだ、バカ」

 二人の間に火花が散るのが、周りにも見えた……気がした。とにかく、クラス対抗というのは運動会以来で面白そうだ。A組はC組の申し出を受けて立った。かくして、男子のビーチバレー勝負が始まったのだった。

 男子が何やら面白いことになっているらしい、という話を聞いて、春達も浜に戻ってきた。すでに集まっていたギャラリーを掻き分けて前のほうへ出ると、A組男子とC組男子がボールを打ち上げあっているのが見える。近くにいたひかりが「いいなあ、あたしも混ざりたい」と呟いていた。

「そういえば、A組男子がビーチバレーするって言ってたっけ。でも、なんでうちのクラスの連中まで?」

 詩絵が首を傾げているあいだにも、両チームのラリーが続く。どうやら運動会のリレーのリベンジらしいという情報に納得したところで、C組のマッチポイントとなった。牧野がにやりと笑い、新が悔しそうに眉を寄せる。

 知らぬ間に事の発端となっていた春は、何の気もなく、いや少しはあったのかもしれないが、手を拡声器代わりにすると大きな声で叫んだ。

「がんばれーっ! 新ぁー!」

 運動会の時と違って、これは遊びだ。だからクラスの違う友人を堂々と応援できる。そう思ってかけた言葉が、試合を動かした。新の原動力は春であり、春がついていてくれると思うだけで何でもできるのだ。逆に牧野は焦り、戸惑い、チャンスを逃す。リレーのときと同じだ。A組に再び追い風が吹いた。

「春ちゃんはやっぱり新君の燃料だね」

 千花に言われて、春はハッとする。自分の行動を振り返ると、顔が熱くなっていく。昨夜散々からかわれたばかりということもあって、意識し出すと恥ずかしい。

 結局、勝負はやる気が倍増した新の活躍と、ショックを受けて動きが鈍ってしまった牧野によって、決着と相成った。A組の勝ちである。

「入江、ナイス!」

「牧野、自分から勝負ふっかけておいて負けるとか、格好悪いぞ」

 囃し立てる声の中、新は牧野に勝ち誇ったような笑みを見せる。いつぞやのお返しだ。悔しそうな牧野を、一緒に試合をしていた浅井と塚田が慰めていた。

「もう諦めろよ。入江には勝てないって」

「……いや、まだだ。まだ本当の勝負はついちゃいない」

 ぼそりと呟くと、牧野はゆらりゆらりと歩き出す。向かう先には春がいた。まだ頬を赤くしている春に、牧野は冗談めかして「須藤」と呼びかける。

「なんでお前、自分のクラス応援しないんだよ。負けたの、お前のでかい声のせいだからな。背はこんなにちっちゃいくせに」

 コンプレックスのことを突然口にされて、春はいつもの自分を取り戻す。ムッとした顔で牧野を見上げると、牧野の腕をがしっと掴んだ。もう顔の火照りはおさまっている。

「この手のせいでしょ。人のせいにしないでよ、牧野君のばか!」

「痛いって。怪力で掴むんじゃねえよ、チビ」

「チビって言わないでよ!」

 小学生の頃からお互いを知っているからこそできるやりとりだ。牧野はわざと春を挑発して、接近する。いつもならそれもさらりと流せる春も、さっきまで恥ずかしさでいっぱいだったせいでそれができなくなっている。今の二人は、小学生の頃の、よく軽口を叩きあっていた二人に戻っているのだった。

 新にはこれができない。知りあってまだ三か月ほどで、しかも春にわざと暴言を吐くなんてとても考えられない。幼なじみならではの距離が羨ましくて悔しくて、血の涙も流せそうだというところで、筒井と沼田に肩を叩かれ「ドンマイ」と言われた。

 まだ時間は残っている。ボートを返してきた詩絵が提案したのは、残りの時間で春を泳げるようにしようということだった。

「せっかく海に来たんだし、やっぱり春も泳ごうよ。ねえ、千花」

「そうだね。私も詩絵ちゃん見てたら泳ぎたくなったし」

「泳げるようになるかなあ……」

「なるって。先生連れてきてあげるから」

 そう言って詩絵は男子の集団に遠慮なく入っていく。そして新を引っ張って連れてきた。ちゃんと本人と周囲の了解を得たらしい。

「はい、新先生。さっきは大活躍だったね」

「え、詩絵ちゃん、もしかして新に私の指導を任せようとしてる?」

「春の指導? バレーの?」

「いや、泳ぎ。春さ、プールのときも泳ぎきれてなくて。新、泳げるでしょ?」

 千花から聞いて知ってるよ、と詩絵が新の背中を押す。新にとってはありがたい展開だが、春は素直に受けて良いものかわからない。しかしこの場に春の味方はいないのだ。千花も「がんばってね、春ちゃん」と良い笑顔で手を振っている。春は諦めて、新に少し染まった頬で笑いかけた。

「よろしくね、新。……全然泳げないからって、呆れないでね」

「呆れたりなんかしない。じゃあ、ちょっと深いところまで行こうか」

 ぎこちなく海に向かう二人を、詩絵と千花は手を叩きあって見送った。それからこっそり、後を追った。

 岸から離れ、春の胸が隠れるくらいの深さまで水に浸かったところで、試しに泳いでみる。春は足や手をばたつかせるのだが、水が跳ねるだけでちっとも前に進まない。おかげでいつも二十五メートルすら泳げずに足をついてしまうのだ。

「……春、なんか溺れてるみたいになってたぞ」

 水から顔をあげた春に新が放った一言がこれだった。

「泳いでるの! ほら、やっぱり呆れるでしょ」

「呆れてはいないけど、予想以上だったというか……」

「それを呆れるって言うんじゃないの」

 頬を膨らませる春に、新は「ごめん」と笑う。投げたり運んだりといったこと以外の運動は、春は得意ではないようだ。それがよくわかった新は一つ息を吐いてから、両手をすっと差し出した。春は手と新の顔を交互に見る。

「何?」

「手、掴め。とりあえず進めるようになろう」

 早く、と新が言うので、春はおずおずとその手に自分のそれを重ねる。なんだか子供みたい、と思いながら――実際、昔に町営のプールで、幼なじみにそうして泳ぎを教えてもらったことがあった――、その手に全てを委ねる。

 水を叩くんじゃない、蹴るんだよ。そんな当たり前で、でも優しい声が、春の耳に届く。鼓膜を震わせるその声は、いつも聞いているものなのに、いつもよりも心地よい。そのくせ、心臓の音だけが普段よりもうるさく響くのだ。

 その合間に思い出すのは、新と同じクラスの羽田が彼を好きなのだということ。A組の一部の女子は、千花が新を好きなのだと思っているということ。でも新が本当に好きなのは、多分、まだ、春――自分なのだということ。彼が心変わりしていなければ、だが。

 じゃあ、春は? 新のことを、どう思っている? 昨日ひかりたちに問い詰められてから、知らないふりこそしていたけれど、それを考えるようになった。ただの友達? いや、そうは言えないだろう。ならば、親友だろうか。親友だというのなら、新が他の、春が知らないような女子と話しているときにもやっとしたり、こうして手を繋いでいるときにどきどきしたりするだろうか。

 少なくとも、新のことを男の子だとは思っている。それだけは、はっきりしているのだが。

「春、息! 息継ぎしないと死ぬ!」

「……ぷはっ! ぼうっとしてた!」

「水の中でぼうっとするなよ! びっくりした……」

 深い溜息を吐いた新に、今度は春が「ごめん」と言った。

 それから間もなくして、放送で集合の合図がかかった。とうとう春は一人では泳げずじまいだったが、それでもかまわないと思えた。そんな様子を、詩絵と千花が微笑ましく、といえば聞こえはいいが、実のところはにやにやしながら見守っていた。

 

 シャワーを浴びて着替えた後は、今日の宿に向かう。海水でべとべとになってしまった髪の毛や肌は、水だけで洗い流してもそう変わらない。早く風呂に入りたいと思いながら、一行はバスが宿に到着するのを待った。

 今日の宿は、ペンション風の建物だ。各クラス男女別に分かれて、建物を一つずつ、教師たちの泊まるものも含めた計九つ利用する。それぞれのオーナーが夕食や風呂、寝床などを用意してくれることになっている。

 バスから降りると、ペンション村の温かな雰囲気が生徒たちを迎えてくれた。修学旅行生らしくきちんと挨拶をしてから、各々の泊まるペンションに行き、荷物を置いてからまずは風呂に入った。時間は決まっているが、ホテルのようにクラスでの順番待ちをしなくていい。すぐに海水の染み込んだ体を洗うことができた。

 A組女子は相変わらず千花から距離を置いている。千花が風呂から出る頃には、もうみんな着替えを済ませてダイニングに向かっていた。遅れて席についた千花を、ペンションのオーナー夫妻以外の全員が、冷たい視線か見ないふりで迎える。それでも千花は、また困ったように笑って「遅れてすみません」と言った。

 食事をしながら聞こえてきたのは、佐山を中心とした目立つグループの子たちの会話だった。佐山が隣に座る羽田を、「今夜しかチャンスないよ」と唆している。

「明日は研修だからずっと他の奴と一緒だし、ホテルも二人部屋になって男女の行き来ができないんだから。告白するなら今夜しかないって!」

「えー、でも……先生とかに見つからないかな」

「私たちがなんとかするから! みんな、協力するよね?」

 佐山が全員をぐるりと見回して、それから千花を睨んだ。意図はわかる。邪魔をするな、だ。どうやら佐山は、羽田が新に告白するのを手伝おうとしているらしい。決行は今夜、食後の自由時間だ。

 もちろん千花には邪魔をする気など毛頭ない。新の返事もわかりきっている。けれども佐山たちはそうは思っていないようで、「園邑のこと見張っといてね」などとこそこそ話している。そもそもバスに乗ったときから、佐山と羽田は機嫌が悪く、ずっと千花に敵意の眼差しを向けていた。おそらく、海水浴のときに新に接触できなかったからだろう。おまけに千花たちで、新と春を接近させようとしてしまった。春に迷惑をかけなければいいがと思っていたが、そんな話題は出ていない。千花はそのことにホッとしていた。

 女子達の励ましというのか、後押しというのか、そんなことがあって、羽田は「入江君に告白してくる」と宣言する。周りから「頑張ってね!」「うまくいくといいね」という声が上がる中、千花は静かに、洋風にあつらえられた夕食を口に運んでいた。

 C組女子のペンションも、同じ頃に夕食をとっていた。パンとスープ、それに魚をメインにした欧風の料理に、生徒達は舌鼓を打つ。不思議なことに、昨日から魚ばかり食べているというのに、飽きることはなかった。それだけこのあたりの新鮮な魚が美味しいのだ。

 春も昼間のどきどきはどこへやら、誰よりもこの夕食を味わっていた。美味しいものを食べることこそ幸せだと、春は信じている。同時に、祖父はちゃんと食事をとっているだろうかと心配になった。自分ばかりが楽しんでいては、なんだか悪い気がする。

 そこへ、ひかりの提案が舞い込んできた。

「このあと、ちょっとだけなら外に出ても良いことになってるよね。散歩にでも行かない?」

 ひかりと仲の良い子たちは「いいね」「行こう」と頷く。詩絵も「面白そうだね」と言った。それから、春のほうへ向き直る。

「春は? 夜の散歩、行かない?」

 夜といっても、夏なのでまだ外は明るさを残している。真っ暗闇ではない。だから少しの外出なら許可されているのだ。春もこの近辺には興味があるので、「行く」と答えた。先ほど他のペンションで飼われているらしい犬を見かけたのだが、もしかすると触ることができるかもしれない。

「じゃあ、決まりだね。あとで外に出てみよっか」

「うん。……あ、これって他のクラスの子は誘えない? 千花ちゃんも一緒にどうかな」

「いいんじゃない。それじゃ、A組のペンションにも寄ってみよう」

 そのほうが千花を守ることもできるかも、と詩絵も思っていた。二人でいるときなどに、さりげなくA組の様子を尋ねたりして探ってはいるのだが、千花はやはり「大丈夫」と繰り返すばかりで何も言わない。しかし聞こえてくる噂は不穏なので、できる限り千花をA組女子の、特に佐山を中心とするグループからは引き離しておきたかった。

「春、入江君は誘わなくていいの?」

 不意に、ひかりがにやりと笑う。問いを投げかけられた春は、あわてて返した。

「だ、男子は駄目だよ! 変な誤解されてもいけないし!」

「誤解ねえ……。まあ、いいか」

 あやうく、また昼間のどきどきが戻ってくるところだった。新との件についてはそっとしておいてほしいのだが、周りがそうさせてくれない。ご飯くらいはゆっくり食べさせて欲しいなと思いながらも、春は新のことを考えだしてしまった。

 今頃、向こうも夕食だろうか。美味しいものを食べているだろうか。――今、何を考えているだろうか。

 そんなこととはつゆしらず、美味しい夕食をすっかり平らげたA組男子は、部屋で寛ぎながら今日のできごとなどを話していた。

「入江さ、須藤と二人きりになってただろ」

「……目敏いな、沼田」

 詩絵と千花が「いつもの四人で遊んでるように見せておくから」と言っていたが、あまり効果はなかったようだ。「バレーのときも応援してもらってさー」「本当に付き合ってないのかよ」と投げられる言葉に、もういちいち返さない。そんなことをしなくたって、十分に新の考えは伝わっているはずだと、今なら思える。

 しかし、傍目には新は春と付き合っているように見えるのだろうか。今日の応援や水泳の練習は、二人の関係をそう見せられるようなものだったのか。だとしたら、新としては嬉しい。周りからそう見られることがというわけではなく、春がそれを嫌がらずに受け入れてくれることがだ。何度も考えたことだが、もう一度告白したら、今度こそは気持ちが伝わるのではないか。そんなふうに期待してしまう。そして春も自分を好きになってくれたなら、それ以上に幸せなことはない。

 今日は朝以外は千花も元気そうだったし、新としては満足な一日だった。春と牧野を一度だけ近づけてしまったことは不覚だったが、春と海で遊ぶことができたのでこの際どうでもいいことにする。このまま二日目が平和に終わってくれればいい。

 そう新が願っていたとき、夕食後に外に出ていた一部の男子が部屋に戻ってきた。そして新を呼ぶと、にやにやしながら言った。

「女子が呼んでる。早く行ってやれよ」

「女子? 詩絵達か?」

「いや、うちのクラスの女子だよ。集団で来てるぞ」

 わざわざ集団で来られるようなことをしただろうか。新には覚えがないが、周りはなぜか納得しているようだ。首を傾げながら外に出ると、そこにはたしかにA組女子が数人、待っていた。

「何か用か?」

 尋ねると、女子達はしばらくきゃあきゃあ言ってから、ようやく喋り始めた。

「あのさ、入江君。ちょっと裏に来てくれない?」

「話したいことあるんだよね。すっごく大事だから!」

 クラスの女子が数を揃えて言いに来るほどの、大事なこと。新は一つだけ思い当たって、厳しい表情になる。

「もしかして、千花のことか?」

 誰が主犯なのか新にはわからないが、彼女らはバスの中で手紙をまわしてまで千花を仲間外れにしようとした。そのことについて何か情報をくれるのか、それとも千花に謝ろうと思ってくれているのか。新は一瞬、期待する。

 しかしその名前を出した途端、女子の表情が変わった。眉を顰め、苛立ったように見えて、新は鳥肌が立った。だがすぐに彼女らはその表情を引っ込めて、にこにこしながら「違うよー」と口々に言った。

「園邑さんは関係ないし」

「じゃあ、何だよ」

「いいから来てよ。早く!」

 千花が関係ないなら、他にどんな用事があるというのか。不審に思ったが抗えず、新は女子に囲まれながらペンションの裏へと向かった。

 

 ここはまだ海が近い。外に出ると、波の音と、近くの森の木々のざわめきが混ざり合って、耳を掠めていく。散歩をしているとそれが心地よい。

 C組女子のペンションはA組女子と隣合っていたので、春と詩絵はすぐに千花を呼びに行くことができた。連れ出すのには少し難儀するかと思っていたのだが、意外にあっさりと合流でき、詩絵は拍子抜けする。

「佐山たちに睨まれるんじゃないかと思って、ちょっと覚悟してきたんだけど」

「ああ、佐山さんたち……さっき、出てったから」

 千花はどこか戸惑った様子で、きょろきょろしながら出てきた。そして小さく息を吐くと、笑顔で「どうしたの?」と尋ねた。

「散歩でもしない? 明日から班行動多くなるから、千花とあんまり遊べないじゃん。だから今のうちに遊ぼうと思って」

「散歩……そうだね、ちょっとなら」

 頷いて出てきた千花は、やけに周りの様子を気にしながら歩き始めた。詩絵と春は顔を見合わせて首を傾げるが、先ほど佐山たちが出ていったというので、きっと鉢合わせたくないのだろうと思い何も言わなかった。

 ざわ、と風が吹く。慣れた森の匂いに、潮の香りが混ざり、礼陣とはまるで違う空気を作りだす。花火とかがあれば良かったのに、という声がどこからかした。もちろん花火があっても修学旅行中にやるなんてことはできないのだが。でもそれは面白そうで、春は詩絵と千花の間に入って手を繋ぎ、二人の顔を交互に見て言う。

「夏休みになったら、みんなで遊ぼうよ。門市にお買い物に行くのもいいし、うちの庭で花火するのもきっと楽しいよ。ときどきはおうちの手伝いとか、受験とか、そういうの忘れちゃってもいいと思うんだ」

 修学旅行が終われば、すぐに夏休みがやってくる。受験生である春達にとっては、忙しくなるであろう夏休みが。でも、勉強だけじゃない。中学生最後の夏休みだ、遊びも欲張りたい。それに礼陣の夏には、祭りだってあるのだ。その楽しみを、みんなで分かち合いたい。

「そうだね。昨日も、山に行こうって話をしたよね。やりたいことがいっぱいあって、夏休みだけじゃ収まり切らないかも」

「ていうか、今この瞬間、アタシは家のことも受験のことも忘れてたんだけど。逆に思いだしちゃったよ」

「ごめん、詩絵ちゃん。帰ってもまた、こんなふうに一緒にいられたらいいねって話だから」

「何言ってんの、一緒でしょ。だって春と千花と、それと新にも、夏休みにはアタシの宿題を手伝ってもらわなきゃならないんだから」

「そっか、宿題もあるんだよね……じゃあ、夏なんて忙しくて、あっという間に過ぎちゃうんだろうな」

 修学旅行も、もう二日目の夜なのだ。半分が終わってしまう。終わってしまったら、次の行事は夏休みを過ぎれば、秋の文化祭。それも終われば受験勉強の日々が待っている。みんなで同じ高校に行こうと言ったけれど、それを現実にできるかどうかはまだわからない。解決していない、しなければならない問題が残っている。

 来年の今頃、自分達はどうしているだろうか。そんなことをふと考える。春と詩絵と千花は、手を繋いだまま、無言で立ち止まった。

 そうして何気なく空を見上げたとき、思わず三人同時に声が漏れた。

「……わあ」

「きれい……」

「すごいね」

 寂しくなった心を、覆いつくしたのは星空。さっきまでまだ明るかったのに、いつのまにか陽が沈んで、星が輝き始めていた。ちょうど他の明かりがない場所なので、小さな光も見える。礼陣でも星は見えるが、遮蔽物がない分、よりきれいな気がした。

 そのままの状態で、詩絵がおもむろに口を開く。

「あのさー。いつか修学旅行じゃなく、友達同士で旅行しようよ。そうしたら、千花も変に気を遣わなくていいし、何よりアタシ達が楽しいじゃん」

「詩絵ちゃん、やっぱり心配してくれてたんだ」

「当たり前でしょ。昨日、来るときのバスの中で何があったかも知ってるよ」

 ごめん、勝手に調べた。そう言った詩絵に、千花は何も言わなかった。沈黙が重くて、今度は春がそれを破る。

「明日も、一緒にいられたらいいんだけどね。でも、明日は班行動だし、新がいるからちょっと安心かな」

 目を空から離して千花を見ると、千花も春と向き合って、頷いた。声に出さずに、「大丈夫」と言っている。あの危なっかしい「大丈夫」だ。本当に「安心」できるのだろうか。春は自分の言葉を疑う。

「……ま、春の言うとおり、新が近くにいるうちは何もしてこないと思う。でもね、千花。つらかったらすぐに逃げな」

 詩絵は春と手を繋いだまま、空いているもう片方の手を千花の肩にまわした。ちょうど輪になるように顔をつき合わせた三人は、困ったように、でもなんとか、微笑みあった。

 そこへ突然、ざりざりと地面を踏む音が響く。近づいてきたそれに驚いて音のほうを見た春達の前には、慌てた様子のひかりがいた。

「詩絵、春、ちょっと来て! 大変なことになってる!」

 叫ぶように、でも他に聞こえないような小声で、ひかりは春達を呼んだ。詩絵は怪訝な表情になり、首を傾げる。

「どうしたの、笹?」

「説明するより見たほうが早い!」

 そう言ってきた道を駆け足で戻っていくひかりの後を、詩絵と春、そして手を繋いだままの千花も追った。ついた場所にはC組女子数人が、ペンションの陰に身を潜めている。その視線の向かう先には、A組女子がこれまた数人。

 それを見た瞬間、千花の体がこわばるのが、手を繋いでいた春に伝わってきた。

「笹、あれ何?」

「静かに。……春さ、入江君と本当に付き合ってないわけ?」

「え、何? 付き合ってないよ」

 ひかりの唐突な問いに、春は早口で答える。そうして改めてA組女子のかたまりと、その向こうを見た。――そこには、見知った姿があった。

「……新?」

「羽田さん……」

 春の呟きとほぼ同時に、千花がその名前を口にする。詩絵がその両方を聞いて、ひかりを振り返った。

「ちょっと、笹。もしかしてあれ、これから告白とかするつもり? 集団で」

「そうみたいだよ。……あ、羽田以外いなくなった。でも覗き見てるんだろうなあ、あたしたちみたいに」

 告白、と聞いて、春の胸がどきんと大きく震えた。実際はそんな気がしただけなのだが、たしかに緊張はしていた。

 新が、告白される? そう心の中で呟いてみると、今度は胸が締め付けられたように痛くなる。思わず千花の手を強く握ってしまったのか、握り返された。

 新の声も、羽田の声も、ここからでは聞き取れない。ただ、これだけははっきりしている。新がこれから羽田に何と答えようと、春が、ここにいる誰もが、それに介入することはできないのだ。

 

 新をペンションの裏まで連行してきた女子達は、羽田だけを残して去って行った。「がんばってね」「応援してるから」と声をかけていく様子は、一見爽やかだ。だが彼女らが千花を傷つけようとしたのだと思うと、とても気持ちの良い光景だとは思えない。

 残された羽田は、指を組みながら新を見つめている。もじもじしながら「入江君さあ、」と言葉を紡ぎ始める彼女以外にも、こちらにたくさんの視線が集まっているような気がする。それを訝しんでいたら、羽田の声を聞き逃した。

「……いるの?」

「え? 何?」

 尋ね返すと、彼女は「だからあ」と拗ねたように体をくねらせる。

「好きな人とか、彼女とか、いるの?」

 どうしてそんなことを、と思うと同時に、条件反射で頭をよぎる笑顔があった。それを初めて見た日から、新の気持ちは変わっていない。失敗もしたけれど、そのおかげで後押ししてくれる友達ができた。そうして、あの笑顔により近づくことができたのだ。

 でも、それを羽田に言う理由などあるのだろうか。疑問に思いながらも、明日からの班行動のことを考えると彼女を邪険にすることもできないので、正直に答えた。

「彼女はいないけど、好きな子ならいる」

「えー、誰? 同じクラスの人?」

「そこまで言う必要あるのか? オレが誰を好きかなんて、気にしても仕方ないぞ」

 新は曖昧にごまかそうと笑みをつくるが、羽田はこちらをじっと見たままだ。いや、目つきが変わっている。さっきまで新の機嫌を窺うような視線だったのに、急に冷たくなったような感じがした。思わず後退りそうになった新を止めたのは、彼女の次の一言だった。

「園邑さんのこと、好きなの?」

 どうしてここで千花の名前が出てくる。たしかにクラスではよく一緒にいるし、班に誘ったのも自分だ。――誤解されても仕方がないようなことを、してきたのだろうか。もしや、本命にまで誤解されてなどいないだろうな。新は焦って応じた。

「千花は友達としては好きだけど、彼女とかそういうのじゃない。千花だって、オレのことはただの友達だと思ってるよ」

「そうかなあ? 園邑さん、いっつも入江君にくっついてるじゃない。……まあ、それはいいからさ。好きな人はいるけど、まだ彼女じゃないってことだよね。だったら、あたしを彼女にしてほしいなあ」

 氷のようだった視線が、急にとろけるくらい熱いものに変わる。その変化についていけず、新は戸惑いながら羽田の台詞を頭の中で繰り返した。

 好きな人は、いる。でも、まだ彼女じゃない。それは事実だからいいとして。だからって、どうしてそれが羽田を彼女にすることに繋がる?

「あたし、入江君のこと、ずっと好きだったんだよ。一年生のときかな、かっこいいなあって思って、三年生でやっと同じクラスになれた。でもさ、そしたら園邑さんも同じクラスじゃん? あの子のせいで入江君に全然近づけなくって、あたし、超つらかった」

 ああ、そうなのか。羽田はオレのことが好きだったのか。新はようやく事態を飲み込む。どうやらここに連れてこられたのは、彼女が自分に告白するためだったらしい。しかし。

「園邑さんって可愛い子ぶってるけど、何考えてるかわかんなくない? あたしならそんなことないよ。入江君に何でも話すし、ずっと一緒にいてあげる」

 羽田の言葉に、新は何一つとして同意できなかった。千花は可愛い子ぶってなんかいないし、神出鬼没なところはあるが何を考えているのかはわかっているつもりだ。友達には、ちゃんと話してくれる。そしていつでも傍に来てくれて、新に助言をくれるのだ。

 新に近づきたいなら、詩絵と千花がそうしたように、ただ来てくれればよかったのに。千花のせいで、なんてことはないはずだ。

「だからさ、あたしと付き合って」

「付き合わない」

 どんなに羽田が新を好きでいてくれても、新はそれに応えられない。振られるショックは知っているけれど、それを別の誰かに与えるのかと思うと心苦しいけれど、新の心は決まっている。ただ一人を想い、それを応援してくれる人がいる限り、この返答が覆ることはない。

「ごめん、羽田さん。羽田さんとは付き合わないよ」

「……園邑さんのせい?」

「千花のせいじゃない。オレが応えられないんだ。オレには好きな子がいて、その子を諦めることができないから、他の子とは付き合わない」

「好きな子って誰?」

「言う必要はない。でも、千花じゃない。だから千花に嫌がらせするのはやめろよ」

「……!」

 強く言うと、羽田の顔色がさっと変わる。バスの中でのことを新は許していないし、羽田が、あるいは羽田と仲の良い佐山がそれに関わっているということは予想できていた。バスでの席の並びを考えると、関係ないことはないはずだ。だから新は羽田を好きになれない。今後何があろうとも、友達を傷つけた人間の一人である彼女に好意など持てないだろう。

「これで話はおしまいな。オレ、戻っていい?」

 そうして話を切り上げて踵を返そうとする。だが、羽田は手を伸ばし、新のTシャツの裾を掴んだ。それから大きく息を吸い込むと、顔をあげ、大きな声で叫び出した。

「うわあああん!」

 いや、ただ叫んだのではない。叫ぶように泣き出したのだ。驚いて身動きがとれなくなった新のもとへ、さっき退散していったはずの女子達が再びぞろぞろと集まってくる。このためにずっと待っていたとしか考えられない。告白が失敗しようと、成功しようと、関係なく羽田を励ますという名目で集合していただろう。

「入江君、女子泣かすなんてサイテー!」

「はねちゃん、入江君のこと本当に好きだったのに。どうして付き合わないのか、意味わかんない」

 わけがわからないのはこっちのほうだ。いきなり連れてこられて、友人を貶すような告白をされて、徒党を組んで責められて。新が戸惑っていると、今度は別の方向からよく知る声が聞こえてきた。

「アンタたち、何やってんの!? 寄ってたかって新に文句言うんじゃないよ!」

 詩絵だ。いつの間にここに来ていたのだろう。その後ろにはさっきの場面を一番見られたくなかった人物の姿も見える。もうすっかり暗くなったというのに、別のクラスの新がよく知らない女子生徒たちの中に、春と千花の姿が妙にはっきりと見えた。

「加藤には関係ないでしょ?! ていうか、覗いてたの?」

「通りすがったの。見たくて見たわけじゃない」

「覗いてたっていうなら、そっちこそそうじゃん」

 C組の女子――たしか春が「ひかりちゃん」と呼んでいた彼女も応戦してくる。彼女も気が強いらしく、A組女子に全く臆さずにくってかかる。場は女子の喚き声と泣き声で、騒然としていた。

 それに教師陣が気づかないはずはない。いるはずのペンションから井藤と服部を先頭にしてこちらに走ってくると、すぐさま生徒の集団の中に割って入ってきた。

「こら! お前たち、何やってる!? 自分の部屋に戻れ!」

「騒ぐとペンションの人達や、関係ない生徒にまで迷惑がかかるだろう。……入江、早くA組男子のペンションに戻りなさい。女子はそれぞれのクラスに、速やかに戻ること。幕内先生と椿先生についていってもらう」

 服部に言われて、新は「はい」とペンションに帰る。泣きわめく羽田のことも、先ほどの一部始終を見ていたかもしれない春や千花のことも気になるが、ここは教師の指示に従わなくてはならない。振り返らずに、逃げるように戻った。

 女子はそれぞれ、A組は養護教諭の椿に、C組はB組担任の幕内に連れられて、自分のいるべき場所に戻っていったようだった。

 

 ペンションに戻ったA組女子は、今夜はここで一緒に過ごすこととなった椿の目を盗んで、こっそり話し合っていた。

「絶対、加藤呼んできたのって園邑だよね」

「あそこにいたし、それしかありえないでしょ。はねちゃん、やっぱり入江君は園邑に騙されてるんだよ。あんなの振られたうちに入らないって」

 泣きじゃくる羽田を慰めながら、女子達は千花への敵意を強める。こそこそしているつもりでも、それは千花にはちゃんと伝わっていた。今は椿がいるので手を出されることはないが、明日以降は今まで以上に風当たりが強くなるだろう。

 鞄につけたチャームを握りしめながら、千花は心の中で「大丈夫」と繰り返す。もう、新にも詩絵にも、春にだって迷惑はかけられない。

 でも、明日になるのが怖い。とてもとても怖くて、今夜も眠れそうになかった。

 一方C組女子は、幕内の説教と監視のもとで今日の夜を過ごすことになった。当然、もう外に出ることはできない。詩絵とひかりが真っ先に全員の前で頭を下げて、軽率な行動をとったことを詫びた。

「本当にごめんなさい。アタシが熱くなって飛び出したりしなきゃ、もう少し穏便に済んだかもしれないのに」

「あたしも。腹が立ったからって出ていくんじゃなかった」

 この騒ぎは、全体の自由研修に影響してしまうだろう。時間が十分短くなるだけでも、スケジュールは変わってしまう。みんなの楽しみを潰してしまうことに、詩絵達は罪悪感と反省の念を持っていた。

 けれども、あの場にいた他の女子達はそうは思っていない。詩絵達が出ていかなくても、A組女子がきっと騒いでいた。どうしようと結果は同じだっただろう。

「詩絵ちゃんとひかりちゃんが、そんなに責任感じることないよ。私も止めなかったし」

 春は二人にそう言いながら、心の中では少し違うことを考えていた。――二人が出ていってくれて、良かった。新を助けてくれて、本当に良かった。それから、新が羽田の告白を断ったことにも安堵していた。言っていることはよく聞こえなかったが、あれだけの騒ぎになったのは、きっと新が羽田を拒んだからだ。安心しただなんて、とても言えないけれど、それが春の本音だった。

 誰と付き合おうと、新の自由だ。春はそう思おうとする一方で、新が女子に告白されるということ自体が嫌だった。そんな気持ちに、気付いてしまった。

「春、なんでアンタがしょげてんの。……まあ、そっか。自由時間、減っちゃったしね」

「そうじゃないよ、しょげてなんか……。あ、でも、やっぱり千花ちゃんのことは気になる。明日から、大丈夫かな……」

 胸を締め付けるものは一つではない。A組のペンションに戻っていった、千花のことも心配だ。今夜は椿がついているというが、明日からの班行動では何が起こるかわからない。新に振られた腹いせに、羽田や佐山が何か仕掛けてこないとも限らないのだ。

「千花のことはアタシも気になってる。これ以上変なことにならなきゃいいけど……」

 同じ危惧は詩絵にもある。新と羽田の会話の内容はよく聞き取れなかったが、羽田がしきりに千花の存在を気にしていたことはわずかに耳に入ってきていた。新が千花を好きだから付き合うのを断ったと思われるのも、新が本当に好きな人を知られるのもいけない。千花だけではなく春にまで悪意が向けられるようになるのは避けたい。もちろん、千花のことも守りたい。

 でも、いったい何ができるのか。先ほど詩絵がA組女子達の前に出てしまったことで、事態はおそらく悪化した。それが悔しくて、詩絵は唇を噛む。こちらも今夜はろくに眠れそうにない。