礼陣の初夏は、スポーツの季節だ。五月になると運動会の練習が始まり、運動部の試合も徐々に増え始める。

 中央中学校も来たる運動会の準備が始まろうとしていた。実行委員が選ばれ、係を決め、全体での種目の練習が行なわれる。競技は個人種目と団体種目があり、それぞれの出走順は、体育の授業でタイムを計り、バランスを考えて決められる。

 春はいつもさほど足の速くないグループになる。短距離走は苦手だ。タイムはいつも並かそれ以下になってしまう。だが、それでも運動会は春の活躍の場だった。速く走れなくても、できることがあるからだ。

「それでは、用具係は須藤さんと牧野君に決定しました」

 学級委員長が告げると、拍手が起こった。春は毎年、運動会の用具係に立候補している。重い大道具を運ぶこともあり、体の小さな春には似つかわしくない仕事のようだが、それは他人から見てのことだ。春は誰よりも、自分がこの仕事に適していると思っている。

「今年も頼んだぞ、須藤。お前の力を大いに発揮してくれ」

「はい!」

 担任教師の井藤に、春は元気よく返事をする。その姿を、同じクラスで、運動会では記録係を務めることとなった詩絵が、微笑ましく見ていた。

 

 昼休み、いつものように春、詩絵、千花、新の四人が集まると、必然的に運動会の係決めが話題にのぼった。A組の二人、千花は放送委員なのでアナウンスを、新は詩絵と同じ記録係を担当するらしい。C組の春と詩絵も自分たちの役割を話すと、新が驚いたような表情をした。

「係、逆じゃないのか? 詩絵が用具係で、春が記録係ならわかるけど。というか、オレはそれを見越して記録係を引き受けたんだけど」

「目論見外れて残念だね、新。それに、春はいつも用具係をやるのが楽しみなんだもんね」

 詩絵がにやりと笑い、春は嬉しそうに頷く。

「うん。私、こういうときくらいしか役に立てないから……」

「そういう言い方しないの。春はいつだってできることをやってるじゃん」

 春と詩絵のやりとりが、新にはわからない。だが、そう言われてみれば、春は去年も一昨年も、運動会では用具係をしていたような気がする。なんだか妙に小さな子が、大きな道具を運んでいたのを見たような。仕事を押し付けられて大変だな、と思った覚えが、なんとなくではあるがよみがえる。

「どうして春が用具係なんだよ? 道具重いし、大変じゃないのか」

「だからだよ。重くて大変だから、私がやるの。……ねえ、新は、私がどうして陸上部に入ってるか知ってる?」

 小首を傾げる春を可愛いなと思いながら、新はその問いの答えを考える。そういえば、春が陸上部に所属していることは知っているが、その理由は聞いたことがなかった。だが、得意種目なら知っている――砲丸投げだ。

「あ、もしかして。春って、意外と力あるのか?」

「そうだよ。重いものとか全然平気なんだから。陸上もね、走るのは遅いから戦力にならないけど、砲丸投げなら、うちの部の誰にも負けないんだ。人より腕とか肩の力があるみたい」

 得意げに笑う春に、新は感心した。春は自分にできることをよくわかっていて、その上で人の役に立とうと、チームのために頑張ろうとしているのだ。背は低くとも、持っている能力はそれとは関係なしに高いのだろう。

「普段の体育のときも、春ちゃん、よく道具出したりしてるんだよね。詩絵ちゃんと仲良くなったのは、それがきっかけだっけ」

 千花が思い出したように言うと、春と詩絵は頷いた。まだ、新の知らないことがたくさんある。春のことは好きだが、彼女について知っていることはほんの少しだ。――だから以前に一度、振られているのだ。

 好きな女の子のことを知るために、詩絵や千花と友達になった。今では一緒にいることが自然になってしまって、打算的なことは考えていないけれど、そもそもはそのための付き合いだった。そうして春に近づいて、もっと好きになって、いつかは自分のことも好きになってもらおうと思った。

「春と詩絵が仲良くなったきっかけって何なんだ? 千花はたしか、詩絵を通じて春と仲良くなったって言ってたよな」

 新が尋ねると、詩絵はちょっと上のほうを見ながら、腕組みをした。そのときのことを思い出しているのだ。あのときのことは、よく憶えている。

「去年の今頃だったかな。体育の授業で使ったハードルや赤コーンを、春が一人で全部片づけようとしてたんだよね」

 運動会が近づくと、体育の授業も合同でやることが多くなる。そのときには各クラスの体育委員が協力して準備をし、片づけも行なう。だが、その日はどの体育委員も、片づけをそこそこにしてさっさと教室に戻ってしまったのだ。代わりを春一人に任せて。

 体育委員ではなかったが、人の手伝いを積極的にかって出る詩絵は、真っ先にハードルを運ぶ春に駆け寄った。

「一人で運ぶの大変そうだなって思ったのと、こんな小さい子に仕事押し付けて何やってんだっていう怒りと、半々の気持ちだったんだ。アタシが何とかしないとって思ったの。……まあ、結局余計なお世話だったんだけどさ」

 ハードルをとりあげようとした詩絵に、春は「いいよ、大丈夫」と返した。そして、片手でひょい、と三、四台ほどのハードルを持ち上げてみせたのだ。「こんなことしても平気なんだ、私」と言った小さな女の子から、詩絵は目が離せなかった。それくらいインパクトが大きかったのだ。

「余計なお世話なんかじゃなかったよ。詩絵ちゃんの気持ちは嬉しかったし、それがきっかけになって仲良くなれたんだから」

 微笑む春の脳裏にも、当時の記憶が浮かんでいた。体育委員の子から仕事を任された春は、別段気にもせずにそれを引き受けた。耳に入ってくる、「須藤さんなら怪力だから一人でも大丈夫だよ」なんて台詞も、ただ事実として受け止めていた。だから逆に、詩絵の行動は新鮮だったのだ。「一人じゃ大変でしょ、アタシもやるから」という言葉に驚くと同時に、胸が温かくなったのを憶えている。

 詩絵が、春が陸上部員だということを、そこで砲丸投げの選手として重宝されていることを知ったのは、その後のことだった。

「一緒に片づけしながら自己紹介して、それから詩絵ちゃんに千花ちゃんを紹介してもらったんだ」

「そうだったのか。……それにしたって、春に仕事を押し付けた奴は酷いな。いくら力があったって、一人じゃ大変だろ。詩絵が声かけてくれて、本当に良かったよ」

「詩絵ちゃんは、そういうの放っておけないタイプだもんね。私が一人でいたときも、話しかけてくれたから仲良くなれたし」

 春と千花が「ねー」と顔を見合わせて笑い合うと、詩絵は照れくさそうに頭を掻いた。そんな彼女らを見て新が思い出すのは、先月のこと。詩絵と千花が自分に接触してきてくれたおかげで、春と友だちになれた。ちょうどあんなふうに、この女の子たちも出会ったのだろう。

「詩絵って良い奴なんだな。見直した」

「見直したって……新、今までアタシをどんなふうに見てたわけ?」

 こんなに賑やかで楽しい時間も、もとはといえば詩絵のおせっかいが始まりだ。詩絵がいて、千花がいて、春がいるから、新の今の学校生活は楽しくなったのだ。「窮屈な家から離れられて、弓道ができる場所」だった学校は、「友達に会える場所」になった。それ以前に友達が全くいなかったわけではないが、気軽に何でも話せるような、親友といってもいいような関係は、これが初めてだった。

 

 放課後になると、部活動の前に、各クラスでの運動会練習が行なわれる。主に団体競技の練習になるのだが、三年生は特に気合が入っていた。なにせ、中学最後の運動会だ。中央中学校の運動会はクラス対抗戦なので、他のクラスに負けないよう、作戦を練って特訓を重ねる。団体競技の種目は、男女別の全員リレーと、男女混合の三十人三十一脚。混合種目は全員の息が合わなければ、完走することも難しい。四クラス中、もっとも短いタイムで走り切ったクラスに高得点が与えられるので、目指すは速く・転ばずだ。

「いい? 声出していかないと、タイミング合わないからね! どこよりも大声でいくよ!」

 C組のリーダーは、というよりも自然とそうなるのだが、詩絵が担っている。運動会は詩絵にとっても、最も輝ける舞台なのだ。なにしろ運動なら自信がある。勉強は苦手でも、体育の成績は常に、何をやってもトップだ。リレーでも、全員と選抜ともにアンカーをつとめることになっている。

「詩絵、結び目これでどうかな? 途中でほどけることはないと思うけど」

「おーい加藤、並び順再考しねえ? 速い奴を真ん中にして、少しでもタイム縮めるとか」

 そこかしこから詩絵を頼る声がする。そのたびに詩絵は動き回り、自分の考えた指示をしていく。持ち前の姉御肌は、思い切り発揮されていた。

「結び目はこれでいいと思う。この結び方、全員で統一しようか。あと、並び順? 全員ゴールラインを越えたときがタイムになるから、真ん中だけが速くたって意味ないよ。全員が走りやすい、ベストの並びが今の形だと思うけど?」

 男女ともに遠慮なく話し、意見を言い、相手の考えも聞いて柔軟に対応する。商店街育ちで、普段からたくさんの人と接している詩絵は、クラスのまとめ役も難なくこなしている――ように見える。誰だって、そう思う。だが、春はそんな詩絵の様子に少し注意していた。三者面談のときに担任の井藤から言われた、「結構溜めこむタイプらしい」というのが気になっていたのだ。

 今のところは平気そうだ。詩絵もこの状況を楽しんでいるようで、笑顔が絶えない。ホッとしながら、春は詩絵の指示通りに足首に巻かれた紐の結び目を直した。隣は右が女子で、左が男子だ。春より足が速くて背の高い二人に挟まれ、必死に声をあげて走る。それが春の役目だ。団体でも個人でも、春は競技ではあまり役に立てないという自覚がある。だからせめて、みんなの足を引っ張らないように、そして詩絵にばかり仕事を任せてしまわないようにしよう。

 ひとしきり練習をして、みんなで感覚を掴んだところで、今日の練習は終わった。この後グラウンドは、外で活動する運動部のためのものになる。

「詩絵ちゃん、私が片づけするよ。紐を集めればいいんだよね?」

「ありがと、春。いやあ、春が動いてくれると助かるわ」

 明日はリレーの練習もしたいね、と詩絵が言う。そういった調整も、詩絵はクラスのみんなから任されていた。そうして人からの信頼や、その裏返しになる押し付けを、全部受け止めている。井藤に言われて、春は初めて詩絵のそんな一面に気がついた。

 だから、春は春にできることで、詩絵を助けようと思った。出会った日に、詩絵が春に手を差し伸べてくれたように。――あのときは、春一人でもどうにかなってしまったけれど。それをわかっていてもなお、詩絵は一緒にハードルを運んでくれたのだ。

「……疲れたら、言ってね」

「ん、何か言った? ごめん、ちょっと聞こえなかった」

「ううん、当たり前のこと言っただけだから。みんなで一緒に頑張ろうねって」

 詩絵も、春も、一人じゃない。クラス全員で、戦う。

 

 A組の練習も順調に進んで、今日の分が終わった。グラウンドから、このまま部活に入る生徒以外がはけていく中、新は千花に声をかけた。

「C組の練習、見たか? 最初から息ピッタリだったよな」

 練習をしながら、新の視線は他のクラスに向いていたらしい。きっと春の姿を探していたのだろうなとわかって、千花はくすりと笑って返した。

「そうだね。多分、リーダーが詩絵ちゃんだからだよ。運動会とか、文化祭とか、詩絵ちゃんのいるクラスは盛り上がるんだ。運動会は特にそう。詩絵ちゃんは運動ができて、みんなを引っ張っていけるから。男子にだって負けないんだよ」

「さすが詩絵だな。本当に女子か、あれ……」

「女の子だよ。でも、小学生の時は『社台の女大将』って呼ばれてたんだって。……あ、これ、詩絵ちゃんに言っちゃだめだよ。不名誉だって怒るから」

 駅裏商店街のさらに向こうには丘があり、住宅街がある。社台地区と呼ばれるその地域には社台小学校があり、そこが詩絵の出身校だそうだ。小学校高学年のときの詩絵は、社台小を取り仕切るリーダーのような存在だったのだという。千花もこの話は噂や本人が苦笑しながら語ってくれたことで知ったので、実際に見たわけではない。だが、たくさんの子供達から信頼を寄せられる詩絵の姿は、容易に想像できた。

 新も同じだ。詩絵ならそんなエピソードがあってもおかしくないと思えた。

「オレもC組が良かったな。あのクラスなら運動会も優勝できるだろうし、なにより春がいて応援してくれるんだから。リレーとか、春の応援があったらもっと速く走れそうだ」

「勝ちたいならA組で勝とうよ。春ちゃんには、こっそり応援してもらったらいいじゃない」

 千花は新のぼやきを笑って流すと、「吹奏楽部も運動会の準備があるから」と言って、走っていった。新はその背中を見送ってから、自分も弓道場へと急いだ。

 

 翌日は体育の授業があり、A組とC組が合同で全体リレーの練習をすることになっていた。別のクラスではあるが、春と同じ時間に同じ授業を受けられるのは、新にとって嬉しいことだった。傍目から見ても――というのは、普段近くにいる千花や詩絵、春からということだが――新のテンションは高い。

 まずは男子から走ってみようという体育教師からの指示で、それぞれのクラスの生徒たちが並ぶ。女子はひとまず観戦にまわるが、詩絵はこれで男子の出走順を改める必要があるのかどうか見極めるつもりのようで、真剣にトラックを見つめていた。そんな彼女を挟むようにして、春と千花が三角座りをする。見る側にいる時は、クラスが別であろうと関係なく、おとなしくしていればいいということになっていた。

「どっちが勝つかな」

 位置につく第一走者を眺めながら、春が呟く。すると千花が、にんまりと笑って尋ねた。

「まだ練習だから、どっちが勝ってもいいけど。春ちゃんはどっちを応援するの?」

「え? それはもちろん、自分のクラス……」

「本当に? 新君を応援したいんじゃない?」

 千花の指摘に、春は返す言葉がない。たぶん、千花はちゃんとわかっていたのだろう。さっきから、春の視線が新を追いかけていたのが。特にそうしようと思っていたわけではないのだが、気がつくと目がそちらへ向いてしまうのだ。ここはC組を応援しなくてはならないのに。

「こ、今回だけは、新はライバルだもん。応援なんてできないよ」

「そうかなあ。春ちゃん、正直になっていいんだよ」

 にまにまと笑顔を送ってくる千花に、春は口をとがらせて「正直だもん」と返す。だが実際のところ、新を見てしまっているのだから、これは嘘になってしまう。

 新の出走順は、最後から二番目だった。アンカーではないが、そこへバトンを繋ぐ重要な役割だ。それまでに遅れがあれば取り戻して渡したい、そんな仕事だ。そこを任されるのだから、新の運動能力は高いのだろう。彼が得意なのは、弓道だけではないのだ。

 勉強も運動もできて、背は標準より少し高いくらい。なにより顔が整っている。さぞ女の子から人気があるだろうに、新はどうして自分のことが好きなのだろうと、春はずっと不思議に思っている。春には力くらいしかとりえがないし、新が普通に前を向いていれば、視界に入らないほど小さいのに。

 そんなことを考えながら、やはり自然に新を見ていると、目が合った。向こうも春を見つけたのだろう。嬉しそうに笑って、こちらへ小さく手を振っていた。春も振り返しかけるが、今はそれをしてはいけないと思い、ちょっと片手を挙げるだけに留めておいた。

 そんなことをしているうちに、第一走者が土を蹴る。男子の勝負が始まった。これは練習だけれども。

 出走順を待っている新は、こちらを見ている春に気がついてからというもの、頬が緩むのを必死で抑えていた。春に良いところを見せたい。クラスなど気にせずにそれだけを考えていたところへ、隣に座る他クラスの男子から声がかかった。

「おい、入江」

 無遠慮な物言いは、せっかく気分を良くしていた新をきょとんとさせた。話しかけてきた彼のことは知らない。名前は愚か、見たことがあるかどうかもわからない。同じ学年ではあるが、四クラスもあれば、一度も関わったことのない生徒だっている。だが、向こうは新の名前をちゃんと知っているようだった。

「お前にだけは負けないからな」

「……そりゃ、こっちも負けるつもりはないけど。どうしてわざわざ」

「こんなことを言うのかってか。率直に、お前のことが気に食わないからだよ」

 知らない相手から敵意を向けられても、新は首をひねるばかりだ。恨まれるようなことをした覚えは何もない。少なくとも、隣にいる彼には。だいたい、新の方は彼のことを少しだって知らないのだ。

「なんで気に食わないんだよ。オレ、何かしたか?」

 だからこちらも率直に尋ねた。すると、ややあって、よく耳を澄ませないと聞き取れないくらいの声で返事があった。

「……須藤に気安くしすぎだからだ」

 その頃にはもう、新と彼の出走順が近づいていた。前に座っていた二人が位置につき、バトンが渡るのを今か今かと待っている。状況はA組がわずかにリードしていたが、C組も負けじと追い上げていた。

「もしかしてお前、春のこと……」

「そうやって気安く呼び捨てにするのが腹立つんだよ。須藤も須藤だ。なんでこんなチャラそうなのと仲良くしてるんだか」

 目の前で、A組の生徒がバトンを受け取った。間をほとんどあけずにC組も。新と彼は、誰もいなくなった待ち位置に立った。次の選手にバトンが渡ったのはほぼ同時で、並走しながらこちらへ向かってきていた。

「知ってるぞ。入江、一度須藤に振られてんだろ。なのにいつまでもくっついて、しつこいんだよ」

 彼のその言葉に、新は何も言い返せなかった。その前に、バトンを持つ手がこちらに伸ばされていた。地面を蹴って、走りながら手にプラスチックの感触を受けたのは、隣の彼と同時だった。

 わけがわからないまま走る。自分以外にも春を好きな男子がいたこと、彼が春と同じクラスであること、そして彼の足が新よりもよく動いて、距離をあけていこうとすることが頭の中でぐるぐるとまわる。いや、余計なことを考えているから足がもつれているのだが、新は自分でそのことに気づけていなかった。

 C組に逆転された状態で、アンカーにバトンを渡す。A組のアンカーはもちろんクラス一の瞬足なのだが、当然C組もそれを狙って出走順を組んでいる。考えたのは男子のリーダーと詩絵だ。というよりは、詩絵が主導なのだろう。走り終えて春たちのいるほうを見ると、不敵に笑う詩絵の顔が見えた。手を祈るように組んで息を呑んでいるような千花と、どこか戸惑っているような春も。――ああ、格好悪いところを見せてしまった。いや、春はC組だから、C組の彼が勝った方がいいのだろうけれど。

 一緒に走った彼は見たことかとでも言いたげな笑みを浮かべていた。春の応援を受けるのは自分だ、と。

 呆然とする新をよそに、アンカーがゴールラインに入った。結果は、C組の勝利だった。

 続く女子のリレーも、C組が勝った。春とその前後でA組が優位に立ったものの、最後にはアンカー詩絵の圧倒的な速さが際立った。C組男子の「よっしゃあ!」という声が響く中で、新は先ほどのことをずっと考えていた。

 

「新と並んでたヤツ? 牧野だよ。陸上部で、アンカーの高嶋とタイムはそんなに変わらないから、それと同じくらい張りあった新はすごいと思った」

 昼休みにいつものように集まったとき、詩絵はそう教えてくれた。感心しているようで、どこか悔しそうなのは、自分の考えたオーダーでA組に追いつかれそうになったからだろう。「まさか新まで脅威になるとは……」と呟いていた。

「新、本当に速かったよね。牧野君、同じ小学校だったんだけど、そのときからずっと選抜リレーの選手で、今回も選ばれてるんだよ。部活でも期待されてるの。それなのに新、あんまり間をあけないで走るんだもん、ハラハラしちゃった」

 春は新を褒めているつもりだった。だが、新はあまり嬉しいと思わなかった。今この瞬間だけで、例の彼についての情報は十分なくらいに得られてしまった。こちらを敵視している彼の名前は牧野といい、春とは同じ小学校だった。そして今も、同じクラスで同じ部活に所属している。同じクラスだから、彼が負けそうになると春はハラハラする。――新が応援されることは、別のクラスである以上は、ありえない。

「……オレ、牧野に負けるかも」

「まあ、負けても仕方ないよ。アイツ速いし、なんてったってこのアタシが組んだ順番なんだからさ」

 ぼそりとこぼれた言葉は、詩絵に冗談のように拾われる。新が本当に負けてしまうかもしれないと思っている部分に、彼女はきっと気づいていない。新は無理やり笑顔を作ると、「調子に乗るなよ」と詩絵を小突いた。すると千花がぐっと拳を握って言う。

「そうだよ、詩絵ちゃん。新君は負けないんだから。本番には、絶対に勝つんだからね!」

「それはどうかなー。春の応援があればわかんないけど、運動会はクラス対抗だしねえ?」

「えっ、……そうだね。私はクラス違うから、新を応援できないね」

 残念、と春は困ったように笑う。そうだ、それが当たり前なのだ。春は牧野を応援し、牧野はそれに力をもらう。そして誰よりも速く走っていくのだろう。おいてけぼりをくらったような気持ちで、新は「そうだよな」と相槌を打った。

 明日は、こうして昼休みに集まることはできない。グラウンドの使用権が、三年生にまわってくるのだ。昼休みのグラウンド使用権は学年ごとに日が割り当てられていて、その日はクラスの全員が外に出て、団体競技の練習をする。男女別の種目に力を入れるか、全体種目に集中するかは、各クラスの自由だ。その分クラスのリーダーには責任がかかってくる。

 千花と新は詩絵を励ましてから、教室に戻った。詩絵はそれに親指を立てて応え、春は微笑んでいた。今は運動会など関係ないから、こうして互いを応援できる。そう、今だけは。

 どうして一言でも、「頑張ってね」と言ってあげられなかったんだろう。春がそう思っていたことを、新は知らない。

 

 各クラスが練習に練習を重ね、運動会当日は近づいてくる。しかし必要なのは競技の練習だけではない。その準備のために、係も手際よく動かなければならないのだった。

 春は自分が活躍できる場はここだと思っている。大道具を手際よく並べ、そして片付ける。それができるのが、自分の持っている力だ。

 競技の順番と必要な用具の出し入れ手順を完璧に頭に入れ、手早く進める方法を頭の中でシミュレートしていく。係も三年目となれば、一、二年生をリードすることも考えなくてはならない。三年生の競技の前後は、彼らに動いてもらわなくてはならないのだから。

「須藤、二年の運命走で使うボールだけど」

「大玉以外は箱に入れて置いておくから、補充のタイミングは中間に一回でいいと思うよ。大玉だけはそうもいかないけど」

「じゃあ大玉は俺がやるよ。須藤がやるより早いだろ」

「牧野君は足が速い分、大玉を転がしすぎないように気をつけてね。私なら持ち上げられるから、そんなことないけど」

「さすが怪力。チビのくせによくやるよな」

 同じく三年C組から出ている用具係の牧野は、小学生の頃から春をこうしてからかってくる。以前はそれが嫌で仕方なかったが、今ではもう慣れてしまったので、軽くあしらえる。「はいはい」と答えながら、大玉の担当に牧野の名前を書きこんだ。やってくれるというなら任せればいい。そんなふうに他のメンバーとも話し合って、大方の用具については、出し入れのタイミングや担当者が決まった。

 三年生の個人種目の一つ、借り物競走で使うものも、一年生と二年生が用意してくれた。何が当たるかは、三年生たちにはわからないようになっている。これだけは毎年、後輩たちの大仕事で、三年生からの期待がかかっているのだった。

「今年は何があるんだろうな。須藤、好きな人とか出たらどうするよ?」

「詩絵ちゃんに協力してもらう」

「まあ、うん……あいつ男前だしな」

 牧野のにやにや笑いを受け流して、春は用具準備の行程表を完成させ、必要なもののチェックリストの確認にとりかかる。作らなければいけないものはすでに用意してあり、もともとあるもので競技に使うものは一度体育倉庫などから出し、練習にも使用できるようにしてある。他に足りないものはないか、補充しなければならないものはないかを念入りにチェックし、リストの空欄を埋め終えた頃には、外は夕焼けの色に染まっていた。

「今日はここまでにしようか。みんな、お疲れさま。寄り道しないで帰ろうね」

 先月この町であった物騒な事件の後から、生徒が学校に遅くまで残ることは禁止されている。本当は、運動会そのものの開催も危ぶまれていたのだ。例年通り開催できることになったのは、生徒たちが「絶対に暗くなる前に帰る」「一人だけ残ったりしない」「帰りに寄り道をしない」などと大人たちと約束したからだ。おかげで、町にある小中学校の全てがこの時期に運動会を開けることになった。

 家が同じ方向の生徒はできる限りかたまって帰ることになっている。春も家が遠川地区にある生徒たちと一緒に学校を出た。牧野もその一人だ。

「須藤、家まで送ろうか? 殺人事件の犯人が出たら危ないし」

「家まではいいよ。牧野君もまっすぐ帰らないと、危ないよ」

「俺は男だから大丈夫だっての」

「それなら後輩たちを送っていってあげたら?」

 会話をしながら歩いていれば、いつの間にか大通りを越え、学校のある中央地区から家のある遠川地区に辿り着く。ここからは民家が多いので、近所の大人たちに見守られながら、それぞれで家に帰る。

「須藤、またな」

「うん、またね」

 しきりに牧野が話しかけてくることを、春は気にしていない。小学生の頃からのよしみだからだろうと思って、彼の気持ちには気づいていない。だが、知っている側からすればもどかしい。

 遠川地区に住む学生が集団で帰るのを、ちょうどこちらも記録係の会議が終わった新たちが見ていた。春の姿を真っ先に見つけた新だったが、その隣に並ぶ男子生徒を見て、思わず眉を寄せた。

「牧野……」

「うん? あ、本当だ。春もいるね。帰る方向一緒だからか」

 同じ記録係の詩絵が新の呟きに反応して、牧野と春を見つける。だが、詩絵はそれにかまっている暇などない。帰ってすぐに家事をしなければならないのだ。それに、今この町が置かれている事情は、よくわかっている。詩絵自身も商店街方面に行く生徒を捕まえて、一緒に帰らなければならない。

「新も早く帰りなよ。変な人がいたら即逃げること」

「ああ、詩絵もな。……それじゃ」

 この町の危機よりも、新は春と牧野のことが気になっている。あの二人に進展があれば、新は胸に抱えた気持ちを諦めなくては。……そんなのは、嫌だけれど。

「オレ、しつこいかなあ……」

 独り言ちながら、中央地区の分譲へ向かう生徒を見つけて、混ざって帰る。家に帰れば、今度は家庭教師と親の小言が待っている。なんだか、憂鬱なことばかりだ。

 

 それでも時間は流れるもので、ついに総練習の日を迎えた。進行は順調、種目は滞りなくクリアできている。

「運命走、焦ったわ……。何あれ、『ハゲヅラかぶせた担任か副担任』って。用具置き場行って、先生たちのところ行ってって、すっごい手間」

 プログラム通りに午前の競技を終えた後の昼休み、三年C組では給食を食べながら詩絵がそうぼやいた。禿げ頭のかつらは一年生の運命競技で使われるものなので、ちゃんと用意されたものの範囲内ではある。だがこうして遊んでくるということは、今年の後輩たちはなかなかに曲者なのだろう。

「でも、詩絵ちゃんが井藤先生にかつらかぶせて引っ張ってきたとき、盛り上がったよね。本番でもあのカード使うかどうかは別として、面白いことにはなりそうじゃない?」

 あのカードを用意した面々の先輩である春は、会場の反応に満足していた。自分がもっとまともな「赤コーン」のカードを引いたから、というのもあるが、何にせよ後輩たちの働きは褒めるに値するものだ。盛り上がれば盛り上がるだけ良い。町に流れている暗い雰囲気を払拭するくらいに、見ている人が楽しい気分になれば良い。そう思って、みんなで今日まで準備を進めてきたのだから。

「本番はもっとライトなの多めでお願い。……さて、午後はいよいよアタシたちの団体か」

「実際にB組やD組とも一緒にやるのって、初めてだもんね。今日の結果で、オーダー考え直すの?」

「それは実際にやってみないと」

 三年生の団体種目は、午後の部にかたまっている。一番の見せ場を最後に持ってきた結果こうなるのだが、昼食を食べすぎないようにするだとか、午前のうちに怪我などをしないように気を付けるだとか、そういった制約が出てくるプログラム構成でもあった。

 運動会を最高の思い出にするためには、やはり他のクラスに勝ちたい。たとえ負けてしまっても良い思い出にならないということはないのだろうが、どうせなら一花咲かせたい。詩絵はその一心で、クラスを引っ張ってきたのだ。

「詩絵ちゃん、張り切りすぎて自分が怪我しないようにね」

「春もね。事故でもあってその肩壊したら、運動会が残念になるだけじゃ済まないんだからさ」

 二人は手を叩きあって、午後も頑張ろう、と言った。

 一方A組では、新がリレーのことを考えながら悩んでいた。他の競技のことはまるで頭になく、ただあの牧野と並ぶ全員リレーのことが頭をめぐっている。彼が春の応援を受けるのだと思うだけで、勝てる気がしない。

 そんな新を見かねて、千花がそっと傍に寄ってきた。「新君」と声をかけられ、それまで俯いていた新はようやく顔をあげる。

「具合悪いの? 借り物競走の『青ハチマキ』がそんなにショックだった? 黄色なら、春ちゃんの借りられたかもしれないのにね」

 運動会で生徒が着用するハチマキは、クラスごとに色が決まっている。A組が赤、B組が白、C組が黄色、D組が青といった具合だ。だが、今の新の悩みはハチマキの色なんかではない。だから千花も、わざと春の名前を強調して出した。

 先日から、新に元気がないことには、千花はとうに気がついている。そこに「春の応援を受けられないから」という理由があることもわかっていた。

「千花。もしも好きな人が、自分以外の人を応援してたら、スルーできるか? しかもその相手が、好きな人のことを好きだったら……」

「ややこしいけど、話はなんとなくわかったよ。つまり、春ちゃんのことを好きな男子がもう一人いるんだね。しかもC組に」

「相変わらず話が早くて助かる。オレ、そいつとリレーで当たってるんだよ……」

「例の牧野君のこと? そっか、彼、春ちゃんが好きなんだ。春ちゃん、モテ期だね」

 ふむふむと頷きながら、千花は新の「ややこしい話」をのみこむ。それからちょっと考えて、「A組の私としては」と切り出した。

「新君が拗ねて、ちゃんと走らなくなると、勝てなくなるから困るなあ。でも新君にとって一番の燃料になるはずの春ちゃんは、クラスが違うから大っぴらに応援してもらうことはできないよね。表向きだけでも、同じクラスの人に頑張れーって言っておかないと」

「だよな。仕方ないのはわかってるんだよ。でも、あの牧野の得意げな顔見るのが嫌で嫌で」

「そんなことがあったんだ。……でも、そんなに気落ちすることないと思うな」

 新の席から離れながら、千花は「春ちゃんの友達の私としてはね」という言葉を残していく。新は頭を抱えながら、また考えに耽る。千花に相談したおかげか、少しだけ気は軽くなっていたかもしれない。

 仕方ない。それはわかっている。わかっていても落ち込んでしまうのは、これまで大事な場面で、いつでも春の笑顔を思い出すことで何とかしてきたからだ。今回はそれができないのだ。その笑顔が向けられるのは、自分ではないから。

 だが、そんなことで自分のクラスに迷惑をかけてもいけないのだ。千花の言う通り、「勝てなくなるから困る」のだ。――牧野に、一つだけでも勝たなければ。あの得意そうな表情を見なくて済む方法は、それしかない。

 

 総練習では午後の種目も問題なく行なわれ、三年生の団体種目もスムーズに進んだ。初めて対戦するクラスの実力に慄いたり、本番なみの迫力で応援合戦を繰り広げたりと、とても練習とは思えないような場面がいくつもあった。

 三十人三十一脚の接戦ぶりと、全員リレーの抜きつ抜かれつの様子には、後輩たちも目を見張っていた。これが本番、また展開が変わって、迫力もさらに加わるということを考えると、本番が楽しみだ。そこにいたほとんどの人が、そう思っていた。

「リレー、A組はなんで今日になって、あんなに速くなったかな。特に終盤」

 詩絵が悔しそうに呟く。三十人三十一脚でのC組の見事な勝利は、このまま本番まで持って行きたい。だが、男子全員リレーではA組に勝ちを譲ってしまった。B組に僅差で競り勝ち、二位につけたが、本番ではもっと余裕を持って一位になりたい。それはもちろん、女子にも言えることだ。女子全員リレーはD組に負けてしまった。詩絵の足をもってしても、追い抜くことはできなかった。

「これまでは牧野が新をなんとか引き離してくれてたから、アンカーも楽に走れた。でも今回はその新が、牧野に食らいついた」

「新、速かったよね。いつもの練習より集中してた感じ」

 後片付けをしながら考察を続ける詩絵に、春は思わず弾んだ声をかけてしまう。気がついて口を閉じたときには、もう詩絵がにやにやとした笑みをこちらに向けていた。

「……春、アンタちょっと嬉しそうだね?」

「そ、そんなことないよ! 新のことは応援できないんだもん。自分のクラスを応援しなくちゃいけないのに、負けて嬉しいなんて……」

「応援しちゃいけないってことはないんじゃないの」

 詩絵の笑顔が穏やかになる。そうして、春の頭を軽く、優しく叩いた。目をぱちくりさせた春に、詩絵はいつも通り、明るく笑ってみせた。

「個人として応援するのは、いいんじゃない? アタシだって、千花が走ってるときは千花を応援してるし。千花だってアタシたちにそうしてくれてるよ」

「そうだったんだ……」

「だから春も、素直になっちゃえよ。うちにとって脅威だろうが、そんなの気にしないでいいからさ」

 むしろ接戦のほうが燃えるし、盛り上がる。そんな詩絵の言葉に、春は頷いた。違うクラスである以前に、新は友達なのだ。それに、場が白熱すればするほど、この町を明るくすることができる。応援してはいけないなんてことはない。

 新に届けたい言葉を、伝えたいことを、言おう。きっと、いや絶対に、それが一番良いことだ。

 

 総練習の翌日であり、運動会本番の前日の朝。今日は昼休み以降を準備や練習に費やす。だからいつもの四人が集まれるのは、今だけだ。

 だが、新は難しい顔をしていた。眉を寄せ、寝不足なのか、目の下にはくまができている。そんな表情で登校してきたところを女子三人に捕まったのでここにいるのだが、できることなら不機嫌そうな顔は春には見せたくなかった。

 昨日、リレーで牧野に勝った。だが、気分は一向に晴れることがなかった。勝ちさえすれば、彼の得意げな顔を見ずに済めば、それでいいと思っていた。けれどもそうではなかった。新は、牧野を見たくなかったのではない。春の笑顔が、言葉が、自分に向けばいいと思っていた。そのことに改めて気づいてしまって、しかしそれは得られないということを思い返してしまって、寝付けなかったのだった。

 春と顔を合わせれば、またそのことを思い出してしまう。でもきっと、優しい彼女のことだから、この酷い顔のことを心配してくれるだろう。今はそれが辛い。

「新、疲れてるの? 大丈夫?」

 予想通りの春の台詞に、新は曖昧に「ああ」と返した。

「ちょっと遅くまで勉強してて。……運動会の練習とか、部活とかもあったし。だから今日は、先に教室行って休むよ」

 用意しておいた言い訳を並べて、新は春に背を向けようとした。春が口を開いて何か言いかけたようだったが、気にしないふりをしようとしていた。

 だが、

「ちょっと待って、新」

「休む前に、春ちゃんと話したら良いよ。そうしたら、きっと疲れもとれやすいから」

 詩絵と千花が、新の行く手を阻んだ。これ以上先には、春の話を聞かなければ行かせてもらえないらしい。振り向けば、こちらを見上げる春と目が合う。少し困ったような笑顔が浮かんでいた。

「……無理はしてほしくないけど」

 細い指が伸びて、新の手に触れた。どきりとしてそちらに意識を向けた瞬間、耳に届く。

「私、新のこと、応援してる。明日の本番、新が走るところ、ずっと見てるから。だから、また昨日みたいに速く走ってほしい」

 もう一度春の顔を見れば、そこにはふわりとした笑みがある。欲しくても手に入らないだろうと思っていたものが、手の届くところにあった。

「頑張れ、新」

 その一押しで、どこまでだって駆けていける。だって、新は単純なのだ。春が笑ってくれさえすれば、何だってやろうと思える。春の手を握り返して、疲れなんか振り切って、新は大きく頷いた。

「頑張るよ。オレも春のこと、全力で応援するからな!」

「うん。ありがとう!」

 眩しい笑顔が、新に向けられている。新が好きになった、そして苦難のときはいつでも思い出して力をもらえる、その顔が。

「もちろん千花ちゃんも応援するからね。でも、A組には負けないよ」

「私も春ちゃんと詩絵ちゃんのこと、応援してるよ。でもC組に負けないように頑張るから」

 友達としての応援でもいい。これは新へ送られたものだ。春が望むなら、牧野にだって負けないくらい速く走ってやる。今度は、もっと速く。

「新、アタシへの応援は?」

「詩絵はオレを負かそうとしてるからなあ……」

「C組として、A組に勝ちたいだけ。新単体じゃ、個人種目でしか直接的な点は稼げないでしょうよ」

 いつもの四人に戻ったところで、予鈴が鳴る。新は名残惜しみながら、春から手を離して、千花とともに教室へと向かった。

 春も新に触れ、握られた手に残る熱で、なぜか顔まで熱くなるのを感じていた。

 

 最後の練習、最後のミーティングを終えて、迎えるのは運動会当日。朝から見事に晴れ渡っている空に、開催を知らせる花火の音が鳴り響いた。その日、運動会を行なうのは中央中学校だけではない。礼陣にある全ての中学校で、それぞれの戦いが始まる。

 

 

 吹奏楽部の奏でるマーチに合わせて、入場行進が始まった。生徒会役員が掲げる校旗がそれに続き、その後を一年A組が準備期間中に制作した学級旗を持って追いかける。三年生の入場は最後で、しかし一際華やかな旗を観客に見せるようにして、堂々と行進をする。行動のひとつひとつが、中学校生活最後のものとして意識される。

 開会式が滞りなく終わると、早速競技に移る。徒競走に使用される順位の書かれた旗を用具係である春たちが即座に準備し、記録係の詩絵や新らは順位と得点の記録につとめる。プログラムや結果を読み上げるのは、放送委員である千花だ。用意ができたところで、一年生男子から競技が開始された。号砲が空に響くと同時に、応援の声が飛ぶ。生徒席から、観覧席から、走る子供達へ向けて送られる。ゴールした生徒らの笑顔は、町の写真館のカメラマンや、観覧席にいる人々が逃さず残す。

 その様子は、最近この町で物騒な事件が起こったなどということを感じさせない。会場を包む温かな雰囲気に、春は用具の準備をしながら安心し、そして嬉しく思っていた。見たかったのはこの光景だ。これを、もっともっと盛り上げる。ここにいる、中央中学校の人々で。

「須藤先輩、交代です。三年生集合ですよ」

「ありがとう。よろしくね」

 自分たちの出番が近づくと、春たち三年生は後輩たちに仕事を託す。連携は今のところ問題なくできていて、何度もミーティングを重ねた成果があらわれていた。

 

 徒競走は各学年最初の種目であり、定番の個人競技だ。一つの並びには各クラスから二人ずつ選手が出て、計八人で勝負する。最も速く走りぬいた者が所属する組に高得点が入り、五位以下は一点ずつ組に得点を投じることになる。

 新は、そしてきっと向こうも総練習の時に初めて気づいたのだが、ここでも新と牧野は競うことになっていた。これが勝負の第一戦目だ。号砲の前に新が思い浮かべるのは、クラスが違っても応援してくれる春の笑顔。これさえあれば、負ける気はしない。

 空に向かって破裂音が響くと、反射的に足が動く。飛び交う「頑張れ」の声の中、脇目も振らずにゴールを目指す。走り始めてしまえば、余計なことを考える暇などない。全力疾走の果てに新が手にした旗は――三位だった。ふと見ると、牧野が二位の旗を持っているのが見える。第一戦は、制することができなかった。単純に、そのことが悔しかった。

 男子が全員走り終えたら、次は女子の番だ。春はすぐに出走順がくるので、立って待機する。後ろから詩絵の「頑張れよ!」という声が聞こえたので、笑顔で頷いて返事にした。

 春は足が速くはない。だから、競技でクラスの役に立つことはできない――というのは間違いだ。走れば必ず、一点をとることができる。一点のための確実な仕事をしよう。そう思い、号砲を合図に土を蹴った。よそからどう見えているかはわからないが、春の体はみるみるうちにゴールへと近付く。自分にできる精一杯の力で走りぬき、手にした順位は五位。あと少しで四位になって、二点を得られたのに。少しだけ落ち込みそうになった気持ちを支えたのは、係をしていた後輩たちや、観覧席からかけられる声だった。

「お疲れさま」

 走り切ったのだから、この言葉を聞けたのだから、この一点は落ち込むようなものではない。

 中盤には千花が出た。同じ並びの中では速いほうである千花は、意識をゴールだけに向けてひた走った。結果は二位。A組に四点をもたらした。でも、なにより千花が嬉しかったのは、その結果ではない。観覧席からこちらへ手を振る、父の姿だった。今日のために休みを使ってくれる大好きな父に、千花は大きく手を振り返した。

 三年生最後の走者の中に、詩絵はいた。すでにゴールした友人たちの応援を受けて、誰よりも速く駆けてみせる。そして堂々と、一位の旗を振りかざした。C組に五点が入る。もう一人のC組走者も三位に入ったので、合計八点を勝ち取った。クラスの隊長ともいえる詩絵に、C組全員からの拍手と、カメラのレンズが向けられる。この得意げなピースが卒業アルバムに使われるといいな、と詩絵は思った。いや、それとも、最後のリレーで勝ってからそちらを選んでもらおうか。

 これで一つ、競技が終わる。中学生活最後の徒競走が。

 

 徒競走と同じ得点構成ではあるが、運動会をさらに盛り上げる個人種目が、運命走だ。基本的には途中でカードを引き、それに書かれてあることを実行するという形式になっている。今年は一年生が変装、二年生が球技、三年生が毎年恒例の借り物をする。普段運動に自信がない生徒も、カードの内容次第ではここで大番狂わせが期待できる。

 中でも他の生徒や教員、観客まで巻き込む三年生の借り物競走は、絶大な人気を誇っている。この競技をいかに面白くするかは、一、二年生の手腕と、三年生の機転にかかっているのだ。

 何はともあれ、まずは一年生の競技からだ。三年生は準備や応援にまわる。運命走のサポートで要となっているのが、並んでいたカードの内容を読み上げるアナウンスだ。

「ただいまのカードは『禿げかつら白衣』『アフロヒーロー』『鼻眼鏡三年ジャージ』『鬼ネクタイ』『ひげ料理長』『ロングヘアー二年ジャージ』そして『そのままの君』が二枚です!」

 妙なお題をふきださずにすらすらと述べなければならない、このアナウンスの現在の担当は千花だ。淀みなく流れる声に、生徒席にいた春と詩絵は感嘆した。

「さっすが千花だわ……。聞くだけで笑っちゃいそうなお題を、噛まずに言い切るなんて」

「千花ちゃんが喋ると、あんなにへんてこなお題なのに、呪文みたいに聞こえるんだよね」

 変な言葉が並ぶのに、うっとりするような声。そしてそれに沸く生徒や観客。走っていた一年生がゴールに辿り着くと、「『そのままの君』、B組ゴールしました!」と明るい声が響く。楽しそうな調子が、そのまま会場中に伝播する。記録をつけていた新も、千花の特技に感心していた。仕事をしながらなので、じっくり聴けないのが残念だ。

 競技が終わり、生徒席に戻ってきた千花を、春と詩絵、そしてこちらも戻ってきた新が出迎える。

「千花、お疲れ!」

「放送、良かったよ!」

「楽しそうに喋るんだな、お前」

 女の子二人に抱きつかれて、千花は嬉しそうに、名前の通りの笑顔を咲かせた。

 二年生の競技のあいだに、三年生の借り物競走の準備が進んでいく。個人種目一番の盛り上がりどころが、幕を開けようとしていた。

 三年生の運命走、借り物競走。中央中学校の伝統競技に、最初に挑むのは春だ。ここで良いカードを引いて、クラスに貢献できればいいのだけれど。そう思いながらスタートラインに立つ。号砲とともに走り出すと、やはり他の生徒よりは遅れてしまったが、この競技の勝負どころはこれからだ。

 春がカードに辿り着いて、裏返しだったそれを捲ると、そこには借りる「物」ではなく「者」が書かれていた。しかも、これは必ず観客の力を借りなければならない。生徒の中に、該当する者はいないからだ。

「『卒業生』の方、助けてください!」

 カードを高く掲げて、観覧席に向かって叫ぶ。カードの内容は『中央中学校卒業生』。年度は指定されていないので、はるか昔にこの学校に通っていた大人でもいい。呼べば誰かしらが来てくれるはずだ。春の祖父である須藤翁でも当てはまる。

 しかして、そこに颯爽と現れた長身の少年は、姿を見せるだけで生徒も観客も沸かせられるような人物だった。当の春も驚いて、これからゴールまで走らなければならないのを一瞬忘れてしまったほどだ。

「行くぞ、春ちゃん!」

「へ、あ、はいっ!」

 彼は春の手をとって、ゴールに向かって駆け出した。危うく転びそうになるくらい速くて、ついていくのがやっとだったが、それでもなんとか足を動かす。夢中になって彼を追うように走っていたら、いつのまにかゴールラインを越えていた。

 手渡された旗の示す順位をそっと見上げる。――三位。春にとっては快挙の数字だった。

「わ、わ、三位なんてすごい! ありがとうございました!」

 一緒に走ってくれた彼に、春は満面の笑みで礼を言った。すると彼は、春の頭をぽんぽんと優しく叩いて、さわやかに微笑んだ。

「どういたしまして。やっぱこの競技いいよな、卒業してもまだまだ参加できるんだから」

 観覧席から、「よっ、お祭男!」と声があがる。それに応えるように、彼は声のしたほうへ向かって手を振った。するとさらに歓声が沸き起こる。この町の名物は伊達ではない。

 その様子を見ていた新が、前に座って出走を待っている詩絵の肩を叩く。表情には焦りがあった。

「なあ、詩絵。今、春と一緒に走ってた人って有名なのか? なんかかっこよかったけど」

 借り物競走で人が指定されたときは、本当にテーマに該当する人物なのかどうか確認しなければならない。例えば春の引いた「卒業生」ならば、何年度卒業の誰なのかを言うとか。だがそういった確認をした様子もなく、春と走った彼はただ現れただけでお題通りの人物だと認められたようだった。

 新にとっては不思議だったが、多くの人にとってはそれが当たり前らしい。

「ああ、あの人。『礼陣のお祭男』って呼ばれてる、この学校の卒業生だよ。本名は野下流先輩。心配しなくても、春がとられることはないから安心しな」

 詩絵もそんな新を一笑し、それから「かっこいいかもしれないけど、曲者なんだよね」と呟いた。

 たぶん、いや間違いなく、「お祭男」野下流は、この借り物競走で人も借りる対象になることをわかっていて見に来たのだ。単に卒業生だからというだけではなく、自分が「祭り」に参加するために。場を賑わせることのできる彼は、礼陣の人気者だ。その彼がC組の春を助けてくれたのはありがたいが、きっとこの先も自分が出られそうなときには出るのだろう。他のクラスの生徒に味方した時は、要注意だ。

 そうこうしているうちに、今度は千花の出走順がまわってきた。もともと足は速いので、あとは運が味方してくれるかどうか。詩絵は小声で、新は堂々と、「頑張れ」と声をかける。千花はそれに、振り返り、にっこり笑って返事の代わりにした。

 号砲で走り出した千花は、誰よりも先にカードをとって内容を見た。そして迷わず観覧席に向かうと、手前のほうで競技を見ていた少年にカードを見せた。すると相手は頷き、千花と一緒にまっすぐにゴールへ向かった。春のように叫んだりせず、千花はスムーズに一位を手にした。そしてこれまた、人を借りたときの本人確認はないも同然だった。放送によると、千花が引いたカードはどうやら「剣道をやっている、もしくはやっていた人」らしいのだが。

「詩絵、今のは?」

 再び新が説明を求めると、詩絵は頬に手を当てて、なぜかうっとりしたような表情で答えた。

「この町では剣道といえばだいたい心道館門下生だから、道場に通ってる生徒ならすぐわかるんだよ。しかも今、千花が連れて行ったのは、心道館最強で商店街の花とも名高い、水無月和人先輩! 呉服店の息子さんで、美形で素敵なんだよねえ……」

 一緒に走れるなんていいなあ、と詩絵が羨ましがっているのを、新は呆れたように見ていた。

 その頃、走り終えた千花は、無言の頼みにすぐに応じてくれた和人に礼を言っていた。

「突然のお願いをきいてくれて、ありがとうございました」

「ううん、千花ちゃんの役に立てて良かった。流も走ったんだし、僕も少しは卒業生として頑張らないとね」

 和人はふわりと微笑んで、じゃあね、と手を振り観覧席に戻っていった。千花がすぐに彼の姿を見つけられたのは、春が流と走ったからだ。流と和人が礼陣で有名なコンビであることは千花も知っていたので、流がいるなら当然和人も来ているはずだと思ったのだった。今日の千花は、すこぶる運がいい。

「千花ちゃん、お疲れさま。和人さんと走ってくるからびっくりしたよ」

「春ちゃんのおかげだよ。ありがとう」

「? よくわかんないけど、どういたしまして」

 千花は上機嫌で、春の後ろに座った。あとはここで、詩絵と新を待つばかりだ。

 少し間があいて、詩絵の出番がやってくる。総練習では担任の井藤と走るはめになったので、今度は普通に用具か何かを借りたいものだ。

 号砲とともに土を蹴り、真っ先にカードに辿り着く。手にしたその内容を見て、詩絵は眉を寄せた。それから間髪入れずに用具置き場に向かい、一年生が運命走で使った猫耳のカチューシャを引っ掴む。だが、これで終わりではない。借りるものは、この猫耳カチューシャをつけた人だ。

「井藤ちゃーん!」

 職員席に向かって大きく手を振る。呼ばれたほうは目を丸くして、けれども急いで駆けてきてくれた。そして詩絵と手を繋ぐと、ゴールに向かって二人で走る。

「井藤ちゃん、これ付けて」

「よっしゃ! ……お前の三年目の運動会、これでいいのか?」

「いいのいいの。最後まで井藤ちゃんと走れるなんて思ってなかったけど!」

 結果は四位だったが、詩絵は満足だった。普通に用具を借りるほうが、もちろん楽だ。でも、楽しい思い出をつくるなら、三年間担任をしてくれた井藤とがいい。総練習のときといい、つくづく縁があるようだし。

「『猫耳カチューシャをつけた担任または副担任』……はい、オーケーです!」

 記録係の後輩に認められ、詩絵と井藤はハイタッチで競技を締めくくった。

「詩絵ちゃん、また井藤先生だったんだ」

「猫耳可愛かったねー」

「また一段と、卒業アルバムが楽しみになったよ」

 詩絵はすとんと腰を下ろし、スタートラインに立つ最後の出走者たちを見る。春と千花も、そちらへ目を向けた。そこには新が、緊張した面持ちで立っている。

 できれば普通に用具を借りたい、と新も思っていた。人を連れて行くなんて、なかなか勇気のいることだ。春のように叫ぶことも、千花のように知り合いに頼ることも難しい。詩絵のように、担任だったらまだいいか。とにかく、できるだけ人は避けたい。

 だが、運命は新を思いもよらない方向へと導く。引いたカードを見て、新は一瞬動きを止めた。それから意を決したように前を向くと、ゴールへと駆けた。

「ありゃ、ラッキーカードだったのかな」

 様子を見ていた詩絵が呟く間に、新はこちらへやってきた。ゴールラインは越えないように、走り終えた生徒たちの集合場所へとたどり着く。そして、その名を呼んだ。

「春、力を貸してくれ!」

「え、わ、私?」

 戸惑う春の手をとり、新はその場から離れた。そしてさっきは避けたゴールラインを、今度はしっかりと踏み越えた。他の生徒はまだ辿り着いていない。新が一位だった。

「まさか、『好きな人』とか……?」

「そんな、まさか。……まさか、ね」

 千花の言葉に、詩絵が声だけで笑おうとする。一方、連れて行かれた春は何が何だかわからずに、新を見つめていた。

 こんなに大事な局面で、別のクラスの春を連れてくるだなんて。いったいカードの中身はなんだったのだろう。まさか、本当に、「好きな人」? 春は思わず胸を高鳴らせた。

 記録係が新からカードを受け取り、春を見る。そして頷きながら、その内容を告げた。

「はい、『自分より背の低い女子』、オーケーです」

「背……?」

 カードを用意した用具係の後輩たちが、くすくすと笑いながらこちらを見ている。目の前の記録係も、困ったような笑顔でこちらを見ていた。そして新は、なんとも気まずそうに、笑みをつくっていた。

「……ええと、ごめん。真っ先に思い浮かんだの、春だったんだ」

 たしかに春は背が低い。おそらく、学年で一、二を争う低さだ。だが、平均よりも背の高い新よりも小さい女子は他にもいたはずだ。千花や詩絵だって例に漏れない。

「たしかに、私なら確実だけど! こんなの酷いよ、新!」

「ごめんって! 小さくて可愛いといえば、オレの中では春なんだよ!」

「か、かわ……っ、今はそれ関係ないでしょ!」

 顔を真っ赤にして、怒っているのか照れているのかわからない春。それもまた可愛いなと、そして一緒に走るという夢みたいなことが、ほんのわずかな間でも叶ったのは嬉しいと、新は思っていたのだった。

 

 個人種目が終われば、続くは団体種目だ。ここからは得点も大きく動く。まずは一年生男女混合の大縄跳びに始まり、そのあとには二年生男女混合の、並んだ背中の上を船頭役が渡っていく「遠川天竜下り」がある。午前の部は、それで終了となる。三年生の男女混合団体競技である三十人三十一脚は、午後の一番目だ。

 係の仕事をしながら、三年生は後輩たちの活躍を見守り、応援する。そうして大いに盛り上がり、お腹がすいたところで、昼の休憩時間となった。

 二年生が使った道具を片付けてから、春は観覧席で待つ祖父のもとへ向かった。須藤翁は商店街の弁当屋で注文しておいた二人分の重箱を用意しながら、孫を迎えてくれた。

「春、お疲れさん。さっきまで海も来ていたんだぞ」

「海にい? 私が来るまで待っててくれればよかったのに……」

「これから部活があるんだそうだ。和人と連れ立って、高校に行ったよ」

 せっかく見に来てくれていたのなら、少しくらい会いたかった。忙しい幼馴染を少しだけ恨めしく思いながら、春は手を拭き、重箱を開けた。彩りの良い弁当は、目でも舌でも楽しめる。運動会のちょっとしたご褒美だ。

「それにしても、良かったなあ、春。新君と手を繋いで走れて」

 だが、せっかくの弁当を祖父の一言で吹き出しそうになってしまった。にやにやと笑う祖父に、春は顔をりんごのように赤くして返す。

「あれは、そういう競技だから……それに、背の低い女子で私を選ぶとか、新だって失礼だよ」

「実際小さいんだから仕方ないだろう。ほら、背を伸ばしたいならちゃんと食え」

「ご飯中断させたのおじいちゃんでしょ……」

 頬が膨れているのは、おかずを思い切り口に含んだからというだけではない。春はちょっと拗ねながら、でもやっぱり、ほんの少しだけは、新が自分を真っ先に頼ってくれたことが嬉しいと思いながら、弁当をきれいに平らげた。

 千花は父と、そしてお隣に住む葛木一家とともに、少し豪華な昼食をとっていた。たくさんのおかずが華やかに並ぶ弁当は、葛木家が用意してくれたものだ。

「千花ちゃん、速かったね。放送もきれいだった!」

 お隣の三姉妹の次女で、千花の一つ後輩の玲那が、可愛らしい俵型のおにぎりを手にして言った。それに同意するように、長女の莉那も頷く。

「吹奏楽も良かったよ。千花ちゃん、大活躍だね」

「ありがとうございます。玲那ちゃんの船頭もすごかったよ。納得の一位だね!」

「えへへ、ありがと」

 玲那は二年生の団体競技で、B組の船頭役をつとめていた。不安定な人の背中の上を渡っていくのは怖いことだろうに、玲那はそれを立派にやり遂げたのだった。

「玲那も千花ちゃんも頑張ってるし、これは午後も期待できそうだね。実那と一緒に、応援してるから」

「お姉ちゃん、千花ちゃん、ファイトー!」

 葛木家三女の実那の可愛い応援があって、頑張らないわけにはいかない。それに千花には、父もついていてくれるのだ。

「千花は、団体競技が二種目残ってるのか。ちゃんと見ているからね」

「うん。お父さん、応援よろしくね」

 大好きな人たちがいるからこそ、千花は全力を出せる。午後も走り切ってみせよう。

 その頃、詩絵は弟の成彦とともに昼食をとっていた。成彦が作ってくれたという、山菜と錦糸卵のちらし寿司は絶品だ。とても小学四年生の手によるものとは思えない。

 両親は、運動会の昼食の仕出しのために町中の中学校をまわっている。加藤パン店のサンドイッチやベーグルを待っている人がいるのだから、仕方がない。ただ、ぎりぎりまで競技は見てくれていたらしかった。

「成彦、アタシの活躍はどうよ」

「姉ちゃんはさすがだね。お父さんとお母さんも褒めてた。すごく『社台の女大将』らしいよ」

「それ禁句。……ちらし寿司、もうちょっとちょうだい」

 紙皿を成彦につき出して、ふと周囲を見ると、新の姿があった。一人でぽつんと座って、コンビニのおにぎりを食べている。あの過激な親は、今日は来ていないのだろうか。

「ごめん、成彦。ちょっと待ってて」

 詩絵は成彦に紙皿を持たせたまま、新のところへ走った。気配でわかったのか、詩絵が近づくと、新はこちらを向いた。

「どうした、詩絵? 家族は?」

「それはこっちの台詞。アンタのところ、誰も来てないの?」

「うちの親、勉強以外のことに興味ないから」

 別に来なくてもかまわないし、と新はコンビニのおにぎりをかじる。午後を戦うには、それだけでは少し足りないのではないか。全員参加の団体競技二つに加えて、新には選抜リレーもあるはずだ。だいたい、育ち盛りの中学生男子がこんな昼食ではいけないと、詩絵は思う。

「アタシのとこ来なよ。弟と二人だけど。なんと、我が弟お手製の山菜ちらしがあるんだよね」

「弟? 親は?」

「パン屋は忙しいのさ。いいから来なって。美味しいよ、ちらし寿司」

 半ば強引に、詩絵は新を引っ張っていく。そして客に驚く成彦に、新の分もちらし寿司を用意するように命じた。新から見ても、たしかにそれは美味しそうだった。

「姉がいつもお世話になってます。これ、どうぞ」

「あ、どうも……」

 成彦が差し出したちらし寿司の皿を、新は礼を言いながら受け取った。詩絵に割り箸をもらい、一口食べてみると、感激するほど美味かった。

「え、これ、山菜だよな?」

「そうだよ。礼陣って山に囲まれてるでしょ。だから山菜はたくさん採れるんだよね。時期も時期だから、今年の春の山菜はこれが最後かな」

「へえ、山菜って地味だと思ってたけど、こんなに美味いんだな。これをちらし寿司にできるなんて、詩絵の弟はすごいな」

「成彦です。褒めてくださりありがとうございます」

 兄弟のいない新には、弟という存在も新鮮だ。中学生活最後の運動会にして、初めて誰かと一緒に昼食をとった。友達の弟に会った。今まで意識してこなかった食べ物を、美味しいと思った。それだけで、このことは良い思い出になる気がした。

「春と手も繋げたし、美味しいものも食べたし、これで午後も万全でしょ。本気でうちと戦ってよね」

「ああ、全力でいかせてもらう」

 最後の運動会の、最後の時間が始まろうとしていた。

 

 午後の最初の種目ということもあって、三年生全体が気迫に満ちている。各クラスで円陣を組み、勝利を手にしようと誓いあう。

「みんなたくさん練習してきた。総練習でも勝った。今日も勝つよ!」

「おー!」

 C組のリーダーはやはり詩絵だ。気合は十分、あとは声をあげて、全員の足並みをそろえて走るだけ。全員をその気にさせる詩絵を、春だけでなく、C組全員が認めていた。こんなことは考えたくないけれど、もし負けてしまったとしても、誰もみんなのために頑張ってきた詩絵を責めることはしないだろう。

 クラスの団結力が試される、三十人三十一脚が始まった。一番短いタイムでゴールできたクラスの勝ちとなる。一位は四十点もの得点を手にすることができ、次に三十点、二十点、十点と続く。この競技だけでも大差がつくことになってしまうのだ。あるいは、逆転の可能性だってある。

 くじ引きで順番が決まり、D組、A組、B組、C組の順に走ることになった。まずは最初のクラスが、基準となるタイムを出すこととなる。以降はそれを縮められるかどうかが勝負だ。

 号砲と同時に、D組が掛け声も大きく前に進む。転ばず、順調にゴールした。出た記録は総練習のときよりも速い。が、当時のC組には及ばない。

 続くA組は、声こそ出ていたが、途中で出す足があべこべになってしまい、一度転んだ。A組は個々の力はあるのだが、全員で合わせようとするとうまくいかないことがある。それが本番でも出てしまい、結局D組よりも遅いゴールになってしまった。これで二位以下が確定する。

 B組は速かった。途中で転びそうになってもなんとか体勢を立て直し、結果はD組を上回った。現時点で一位になり、歓声があがる。逆にA組とD組からは溜息が漏れた。

 そしてついにC組の出番。足首を結ぶ紐はしっかりと結ばれている。肩は互いに組まれ、全員がゴールに集中している。

「行くよ!」

 詩絵の声の後に、号砲。「一、二」の掛け声。他のどのクラスよりも響き、リズムはどこよりも速い。一人では速く走れない春も、みんなと並べば大丈夫だ。遅くなんかない。役に立てないなんて思う必要もない。なければならない一人として、このグラウンドを走ることができる。

 ゴールとともに、再び号砲。タイムの発表に、全員が息を呑んだ。

「ただいまの記録は――」

 告げられた数字に、歓声が上がった。これまで何回も練習してきた。そのたびにタイムも測ってきた。その中で一番の数字が、今、出たのだ。文句なしに、C組の勝利だった。

「詩絵ちゃん、やった! 勝ったよ!」

「うん、完璧だった! この調子で、全員リレーも勝つよ!」

 改めて気合が入ったところで、男女別団体競技が始まる。これがクラス全員で戦える、最後の勝負だ。

 一年生男子から順に競技は進められる。形は様々だが、リレー形式が多いので、このあたりの競技の並びは「リレーゾーン」とも呼ばれる。その最大の盛り上がりが、三年生の全員リレーと全学年合同の選抜リレーなのだ。

 競技中の用具係としての最後の仕事を終えた春が生徒席に戻ると、再び円陣が組まれようとしていた。春も急いで加わり、リーダー詩絵の言葉を聞く。

「これが、三年C組で戦える最後の競技になる。バトン、繋ぐよ!」

「おー!」

 そしてA組も、同じく円陣を組んでいた。委員長がまとめ役として言葉を紡ぐ。

「リレーなら、他のクラスにだって負けない。切り替えていこう!」

「おー!」

 個々で全力を出していけるリレーのほうが、A組には有利だ。運動能力の高いC組にだって勝てる。まずは男子が、戦いの舞台へ向かった。

 新の隣には、相変わらず牧野がいる。真剣な顔をして、こちらは見ずに、けれども明らかに新に向かって告げる。

「負けないからな。こっちには須藤がいるんだ」

 だが、もう新がこの台詞に怯むことはない。新だって、もらっているのだ。春の「頑張れ」の一言を。

「オレだって負けない。……春は譲らない」

 号砲で、第一走者がスタートした。現時点でのトップはB組だが、第二走者にバトンが渡ると順位は入れ替わった。A組とC組がぐんと前に出る。競っているうちに、次へとバトンがまわる。そうして新と牧野が走り出したのは、ほぼ同時だった。

 バトンの受け渡しは両者ともスムーズ。何度も練習と改良を重ねた結果があらわれている。曲線コースで牧野は新を引き離そうとしたが、見事に食らいついてくる。この瞬間、新の頭の中には春の笑顔があった。手には春の指先が触れたときの温かさがよみがえっていた。その新が、牧野に負けるはずはないのだ。春さえいれば、新は何でもできるのだから。

「頑張れ!」

 その声が生徒席から聞こえた。彼女は自分のクラスを応援しているのかもしれない。でも、新を応援してくれているのだと思ってもかまわないだろう。だって、好きな女の子が、応援してくれると言ったのだから。

 アンカーにバトンが渡る。無事に渡せた。牧野との勝負は互角といっていいだろう。だが、これはリレーだ。勝負は全員でするものだ。それでいうなら、新は、A組は、――。

 女子のリレーも圧巻だった。C組は春の番で一時失速するも、次の走者で巻き返してきた。それができるようにと、詩絵が組んだオーダーだ。

 A組は千花にバトンが渡ってから勢いを増し、トップに立った。だが、それすらも終盤メンバーが追い抜いていく。

 最後はバスケ部所属のD組女子と詩絵の勝負になった。応援の声は一層大きくなり、その中をアンカーが駆け抜けていく。そして、遂には――。

 

 選抜リレーが始まる前に、春と千花は詩絵と新に駆け寄った。もちろん、これから始まる最後の種目を応援するためだ。

「私たちの運動会、最後の種目だね」

「詩絵ちゃんと新に、全部託すよ。頑張ってきて」

 選抜リレーも得点にはなるし、当然自分の所属するクラスに勝ってほしい。でも、もう、同じ学年の間での戦いではない。この舞台に選ばれた友達を、心置きなく応援できる。

「任せときなさい。全力疾走でアンカーをつとめあげるからね」

「オレは繋ぎをなんとか頑張るよ。さっきみたいに」

「今度は負けないよ、新」

「こっちも女子の仇をとるつもりだ」

 三年生の全員リレーは、男子の一位がA組、女子の一位がC組だった。大接戦の末に、それぞれが勝利を手にしたのだ。そうして迎える選抜リレーは、勝てば全学年に得点が入る。後輩たちのためにも、負けられない。

「位置について――」

 中央中学校運動会、最後の種目が、号砲とともに始まった。

 

 閉会式も終わると、各クラスでの講評や、休み明けの連絡事項伝達が行われる。その合間に集合写真を撮ったりもするのだが、三年C組は笑顔の花がたくさん咲くに違いなかった。今だって、すでに嬉し涙まじりの笑顔が見える。

「みんな、よく頑張ったな。井藤クラスは運動会に強い、という伝説を打ち立ててくれたこと、本当に感謝する」

 担任の井藤は大喜びだった。なにしろ受け持ったクラスが三年間優勝し続けたのだ。今年は三年生として、総合優勝した。だがこれは、振り返ってみれば、こうも言えるのだった。

「井藤クラスが強いっていうか、加藤が三年間井藤ちゃんのクラスだったからじゃねえの?」

「うん、詩絵の功績が大きいよね」

 三年間井藤クラスだった詩絵は、三年間行事のリーダーでもあった。運動会では特に、というのは、もうお決まりのことだった。

「加藤はよくみんなをまとめてくれたな。偉い偉い」

「アタシは色々口出ししただけだし。みんなが頑張らなきゃ、総合優勝はなかったよ」

 大きなトロフィーと賞状を抱えて、詩絵が明るく笑う。一人じゃなかったから、手に入れることができたものだ。

「係やってたやつもお疲れさま。まだ片付けとかあるけど、休みはしっかりやすんでくれ。で、近々行われる前期中間テストに向けての勉強を忘れずにな」

「井藤ちゃん、一言多い!」

 笑いが起こる中、春も達成感があった。春自身は、走るのは得意ではない。でも用具を運ぶことでみんなの役には立てるし、団体の一部として役割を全うすることもできた。三年間の集大成としては、全く文句のない運動会だった。

 それに、新と一緒に走れた。応援できた。そのことが嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちでそわそわしていた。

「春、写真撮るって。行こう!」

「あ、うん!」

 とにかく、色々なことがありすぎて、楽しくて仕方がなかった。だから写真の中の春は、詩絵は、三年C組のみんなは、笑っている。

 

 優勝を逃した悔しさと、一つ行事が終わってしまった寂しさと、それでも心に残る達成感で、三年A組の生徒たちは泣いていた。全員がそうだったわけではないけれど、こみ上げる気持ちは同じだった。

「まだクラスが団結しなければならない場は残っている。とりあえずその一つが終わってしまっただけだ。また、休み明けから頑張ろう」

 担任の服部は、落ち着いた声でそう言った。「服部先生」「服部さん」と縋って泣き始める生徒もいる。そんな生徒の背中を、服部は優しく叩いてやるのだった。

「運動会、終わっちゃったんだな」

 新がぽつりと呟くと、千花が頷く。

「そうだね、終わっちゃった。でも服部先生の言うとおり、まだ修学旅行とか文化祭とかあるからね。新君は、春ちゃんとの思い出をいっぱいつくるといいよ」

 そうして微笑む千花に、新は照れたように笑ったあと、「オレと春だけじゃなくてさ」と言った。

「千花や詩絵も一緒だ。オレたちで、楽しい思い出をたくさん残そうな」

「……うん。そうだね。そうだよね」

 中学校生活最後の運動会は、友達と一緒にいられた、素晴らしいものだった。千花も、新も、そう思っている。だからこれからの行事も、そうしてあとになって「良かったね」と思えるようなものにしたい。きっと、そうなる。自分たちなら、そうできる。

 

 もうすぐ夏がやってくる。季節はどんどんめぐっていく。だから、後悔を残さないように、余すことなく味わおう。喜びも、つらさも。