学力テストがあった日、全ての試験が終了したあとのホームルームで、三年C組担任の井藤幸介は生徒たちに告げた。

「テストお疲れ! 今日は帰って休んでいいぞ、と言いたいところだが……近く三者面談を行なうことになっている。自分の進路について、保護者の方としっかり相談しておくようにな」

 もともと、最初の学力テストの結果が出てからすぐに、三学年の全員を対象に、三者面談が行なわれることになっていた。保護者を学校に呼んで、おもに進学したい高校についての話し合いをするというものだ。テスト前から予告されていたこととはいえ、生徒たちのあいだには緊張したような、あるいはうんざりしたような空気が流れる。面倒な試験の後に、もっと面倒な進路の話をしなければならないのだ。頭はすっかり疲れてしまっていた。

「せっかくテスト終わったのに、今度は進路か……」

「詩絵ちゃん、高校どこ行くか決めてる?」

 ホームルームが終わってから、うなるように呟いた詩絵に、春は近づいていって尋ねた。一緒に勉強をしたり、部活のことなど世間話をしたりということはあったが、進学先について話し合ったことは今までにない。

 礼陣には各地区に一校ずつ、進学先となる高等学校がある。そのどれを目指すかは、話題にしやすいようでいて、なかなかあがってこなかった。必然的に悩み相談になりそうなので、無意識に避けていたのかもしれない。

「……今は、そんなことより、甘いもの食べたいなあ」

 春はともかくとして、詩絵はたしかにそうだった。成績に不安があるうちは、自分の希望を口にするのは、なんだか恥ずかしいような気がしていたのだ。

 

 翌日、礼陣にある小中学校は全て大人たちの監視の中で登校時間を迎えた。前日の夕方、中学生はみんな部活を終えて帰ったあと、この町で衝撃的な事件が起こったのだ。

 この町に住む女性が殺害された。犯人は見つかっていない。また何か事件が起こるかもしれないという不安が、礼陣中を覆っていた。

「警察とかカメラとか、すごかったね。大丈夫かな……」

「殺された人、礼陣高校に通う子供がいたんだって」

 中央中学校の生徒たちも、この異常事態にざわめいている。春たちは、互いが無事に登校してきたことを確認し合って、少しだけホッとした。

「しばらくは騒がれるかもね。千花の家が一番現場に近いけど、大丈夫?」

「うん。昨日の夜はさすがにお父さんもいてくれたし、ちょっと記者の人たちが多いけど平気。ついでに三者面談の希望日書いてもらっちゃった」

 いつも一緒にいる四人の中では、千花の家が最も事件現場に近い。怖くないはずはないのだが、千花は笑顔を作ってみせた。

「きっと、先生たちからも話があるよね。この町、どうなっちゃうのかな……」

 平和だった時が、崩れる音がする。春は胸を押さえながら俯いた。大好きなこの町が悪い方に変わってしまうのはいやだ。この町に来てまだ三年目の新は、この町をどう思っただろう。ちらりとその表情を窺うと、新が真剣な顔をして春を見ていたので、目が合った。

「……新?」

「春はオレが守る。何かあったって、オレがついてる」

 こんなときでも、新は春のことを一番に考えてくれていた。あまりにも真っ直ぐな目をしていたので、春の心臓はどきりとはねる。不謹慎だとわかっていても、嬉しいと思ってしまった。

 担任教師たちの「教室に入れ」という声で、春と詩絵、新と千花はそれぞれの教室に戻っていった。そしてやはり、事件のことと、その情報提供についての話があった。怪しい人を見たらすぐに大人に知らせること。記者たちに声をかけられても、余計なことは言わないこと。事件は警察が必ず解決してくれるから、必要以上に怖がらないこと。それが大人たちの決めた、子供達の行動のルールだった。

「三者面談のときに、保護者の方にも改めて話をするつもりだ。登下校はできるだけ集団で、変な道を通らないようにしろよ」

 珍しく眉を顰めている井藤を、春や詩絵たちC組の生徒は沈痛な面持ちで見ていた。

 

 数日後、三者面談の日程が決まった。事件のこともあるので、早めに予定を組み、さっさと終わらせようという教師陣の考えがあった。

 春と千花は翌週の木曜日、詩絵と新は金曜日の、それぞれ同じ時間に設定されていて、四人はやっと心から笑った。

「同じ時間って、井藤ちゃんと服部さんが仕組んだのかな」

「偶然にしてはできすぎてるよね」

 三年C組担任の井藤と、三年A組担任の服部は仲が良い。なんでも、同い年の上に同じアパートに住んでいるという、奇妙な偶然があったらしい。生徒たちはことあるごとに、その愉快な話を聞かされたものだった。

 春たちがこうして廊下で集まって話をしているのも、彼らは知っている。ときどき声をかけてくることもある。井藤も服部も、春たちだけでなく、中央中学校の生徒たちに人気があり、信頼されている教師だ。今年の三年生はそういった意味で、他の学年から羨まれている。

「でもさ、井藤ちゃんっていつもうちの店寄っていくから、わざわざ三者面談とかする意味あるのかなって思うよ。アタシ面談なしにしてもらえないかなあ」

 そう詩絵がぼやくと、千花がくすっと笑って「それはだめだよ」と言った。

「だって、詩絵ちゃんの進路の話とかするんだよ。他の人に聞かれたい?」

「それは嫌だけど、どっちにしてもこの町は噂が早いから、どこの子がどうなったとかあっという間に伝わっちゃうじゃない。現にこのあいだの殺人事件だって、もう被害者の子供って人が特定されて、みんなで生活を助けられないかって話があがってるんだから」

「へえ、そうなのか。そう考えると、やっぱり礼陣って狭い町なんだな」

 町を騒がす事件から、個人の進路まで。あらゆることが、礼陣の町を噂として駆け巡る。昔からここに住んでいる春や詩絵、千花はそれをよく知っている。新は知らないが、彼がこの町に越してきた二年前は、新しい住民がやってきたということもちゃんと話題になっていた。

 噂好き、話好きの礼陣の血は、礼陣っ子にしっかりと流れている。「進路といえば」と春が口を開いた。

「みんなは高校、どこに行こうと思ってるの? 私は部活を続けたいから、課外活動が活発な礼陣高校がいいなって思ってるんだけど」

 その問いに、千花は微笑んだままだったが、詩絵と新は言葉を詰まらせた。声が喉に引っかかって出てこないそのあいだに、千花が先に答えた。

「私も礼陣高校志望なの。吹奏楽のレベルが高いし、合唱部にも興味あるんだ。やっぱり部活やりたいなら礼高だよね」

 志望校が同じであることがわかって、きゃっきゃと嬉しそうにはしゃぐ春と千花を、詩絵は複雑な表情で見ていた。この二人は改めて言うまでもなく、詩絵より頭が良い。先日の学力テストの結果からも明らかだ。募集人数が多いにもかかわらず倍率が少々高いといわれている礼陣高校の合格枠にも、簡単に入れるだろう。そんな学生は、礼陣中に、そして礼陣の外にもいるはずだ。

 自分に話題が及ぶのを避けるようにして、詩絵は新を見た。

「アンタはどうなのよ。学年トップだし、社台とか?」

「いや、オレは……」

 新は少し迷った後、俯き気味に言った。

「親からは、龍堂高校に行けって言われてる」

「うそ、龍堂ってあの隣県の? めちゃめちゃ頭良い学校じゃん!」

 龍堂高校は、正式名称を龍堂大学附属高等学校という、隣県にある全寮制の男子校だ。毎年礼陣の男子中学生が記念受験をしては、一部を除いて散々な結果を出してくるという、ハイレベルな学校なのである。もっとも、新の学力ならば「一部」に入れるかもしれないが。

 しかし詩絵をはじめとする女の子たちからの尊敬の眼差しを、新は居心地が悪そうに受け止めていた。

「親がそうしろって言ってるだけだよ。オレは龍堂に行ってもやりたいことないし、第一、隣県の男子校なんて行ったら春と離れ離れになる」

「そりゃそうだよね」

「じゃあ、新君はどうしたいの?」

 また春が基準か、と呆れる詩絵と、首を傾げる千花。そして、どこか心配そうにも見える春。三人を順番に見てから、新はその答えを口にした。

「礼陣高校に、今年、すごく弓道の上手い先輩が入ったらしいんだ。オレはその人と一緒に弓を引きたい。だから、礼高に行きたいって思い始めてる」

 新がその話を聞いたのは、弓道部でのことだった。中央中学校にしか中学生が弓道に触れられるような設備がないために、他の学校からも生徒が集まってくるので、情報は広く手に入る。その中で話題になったのが、今年礼陣高校に入学したという、隣町の天才弓道少年のことだった。

 その人に会えたら、その人と並べたら、どんなにいいか。新は今年度になって、ようやく自分が高校でやりたいことを見出したのだった。

「……そっか、よくわかったよ」

 詩絵が頷く。春も、千花も、新も、同じ場所を目指している。そしてそれは、彼らだけのものではない。

「誰もアタシに合格枠を譲ってくれる気はないってことだね!」

「なんだ、詩絵ちゃんも礼高志望なの」

 詩絵もまた、礼陣高校を志望校にしている。今現在、詩絵は部活動に所属してはいないが、高校生になったら店の手伝いとうまく両立させながらやってみたいと思っている。実際、商店街の子供達はほとんどがそうしているのだ。

 それだけではない。礼陣高校は学力に幅のある多くの生徒を募集し、多種多様な進路選択ができるように指導をしている。将来のビジョンというものがまだはっきり見えていない詩絵は、ここでなら何か掴めるのではないかという期待を持っていた。

「春か千花、北市女とか行かないの?」

「北市は難しいもん。受験はするけど」

「それに、みんな一緒だと思うと、きっと勉強も捗るよ。頑張ろう、詩絵ちゃん」

「うう……本当に譲る気ないのか……」

 みんなで一緒に希望したところへ行けるのなら、どんなにいいか。この先も一緒にいられるのなら、それ以上のことはない。けれども、今の時点でそれを望むことは、同時にライバルになってしまうということでもあるのだった。

 

 部活の時間は、事件以来早めに切り上げられている。明るいうちに、大人たちが見守る中で、生徒たちはそれぞれの家に帰っていった。

 遠川に家がある春は、町の人とよそから来た報道関係者たちや警察官たちを横目に、時間をかけて帰宅する。引き戸を開けて「ただいま」と玄関から呼びかけると、居間のほうから「おかえり」と声が返ってきた。細工職人である祖父が作業場にいないということは、休憩中なのだろう。

 春が玄関からまっすぐ自室へ行き、普段着に着替えてから居間へ行くと、案の定、祖父はそこに座って待っていた。

「おじいちゃん、これ」

 手に持っていたプリントを差し出しながら、春は「三者面談」の文字を指さした。

「日程、来週の木曜日の午後四時からに決まったから。お願いね」

「ああ、行こうか。来週の木曜日だな」

 祖父は頷きながら、プリントを受け取った。しばらく文章を読みこんでいるようだったが、それでも春は心配だ。歳のせいで少々忘れっぽくなっている祖父が、はたして三者面談のことを憶えていてくれるだろうか。

「おじいちゃん、大丈夫? 時間忘れたり、間違えたりしない?」

「まだ呆けておらん。そんな心配いらんよ。じいちゃんはまだまだ現役だ」

 そう胸を張って、祖父は春にあいている手を伸ばした。そして「爪切りをとってくれ」と言ったが、当の爪切りは祖父のもう片方の手に収まっている。どうやら自分で持っていたことを、春と話したことですっかり忘れてしまったらしい。

 春は深く溜息を吐きながら、「持ってるでしょ」と指摘した。

 詩絵が自宅に帰り着いたのは、その少し前のことだった。忙しくしている両親の代わりに、家事を片付けようとしていたところへ、弟の成彦がやってきて尋ねた。

「姉ちゃん、三者面談っていつ? 日程出たんでしょ」

「え、なんで成彦が知ってるの?」

 ありがたいことに今日も店が盛況で、親に面談のことを話すタイミングは逃していた。詩絵からはひとことも、面談の日程が発表されたことなど言っていない。なのになぜ、ほとんど関係のない弟がそのことを知っているのだろう。

 答えは簡単だった。「さっきお客さんがお母さんに話してた」という弟の返答で、詩絵は全て納得した。この付近は情報がまわるのが早い。特に商店街では、お客から学校行事の話が出たり、他校の噂が耳に届くこともある。おかげで詩絵の行動も、色々な人に筒抜けだった。

 プライバシーはほとんどない。それがいやになるときも、ないことはない。けれども詩絵は、礼陣商店街の狭くて広い人間関係が嫌いではないのだった。何かがあれば、すぐに褒められたり心配されたりする。誰もが互いに顔見知りで、先日の事件までは不審者がいたなんてことも考えなかった。

 賑やかで温かい、そんな礼陣の町を、不穏な空気が覆うのは耐えがたい。だから詩絵は元気に声を張り上げ、笑顔で毎日を過ごす。何かがあれば、すぐに町の誰かが助けてくれるはずだから。

「さ、成彦。晩ごはんの支度手伝ってね! それから面談は来週の金曜だから、その日のご飯の支度はアンタにまかせた」

「わかったよ。姉ちゃん、今日の晩ごはんは何?」

 加藤家の姉弟は、仲良く並んで台所に立つ。晩ごはんの支度ができたら、洗い終わっているであろう洗濯物を干して、店じまいの手伝いをしなければならない。商店街の子供達は、まだまだ忙しい。

 同じ頃、千花は自宅玄関の壁にかかっているホワイトボードを見つめていた。これは普段忙しくてあまり家にいられない父親と連絡を取るためのもので、ほぼ毎日何かしらの書き込みがしてある。今は『今日も遅くなります。一人でいるのは危ないので、お隣で待たせてもらいなさい』という几帳面な文字があった。

 本当は父だって、千花の傍についていてやりたいのだ。その気持ちは痛いほど伝わってくる。なにしろ、近所で殺人事件があったばかりなのだ。けれども生活をしていくためには、父が働かないわけにはいかない。母は千花が幼い頃に、すでにいなくなってしまったのだから。

 そんな調子なので、三者面談に父が本当に来てくれるかどうか、千花にはわからなかった。一応予定は確認し、希望日も教えてもらったが、突然の仕事が入らないとも限らない。

 期待はしちゃいけない。でも、知らせることは知らせなければ。千花はそう思いながらホワイトボードに書いてあった父の字を消し、専用のペンを握った。

『木曜日に三者面談があります。PM4時より。』

 丸い字が、ホワイトボードの中心に小さく並んだ。

 家に帰った新に、母は開口一番こう言った。

「新、明日から家庭教師の先生が来ることになったから。せっかく部活が早めに終わるなら、時間を有効に活用しないと」

「は?! なんで勝手に決めるんだよ!」

 すぐに言い返した新だったが、対して母は「あなたのために決まってるでしょう」と呆れたように溜息を吐いた。

「このあいだみたいな寄り道は許しませんからね。こんな田舎の学校じゃ、たとえトップの成績でも、龍堂高校でやっていけるかどうか不安だわ。これから受験まで、みっちり勉強しなきゃ」

 テスト前、勉強会のために春の家に寄ったことを、母は良く思っていなかった。きっとそうだろうと思って黙っていようとしたのだが、結局は「どうしてこんなに遅く帰って来るのか」と厳しく問い詰められて、「友達の家で勉強をしていた」と話してしまったのだ。当然のように「そんなことで勉強がちゃんと捗るわけがないでしょう」と叱られた。

「新、ちゃんと聞いてるの?」

「聞いてるよ。……わかりました。寄り道はしません」

 母を見ずに、新は自室へと早足で向かった。この家では、ここだけが安らげる場所だった。けれども明日からは、自室すらも他人の監視のもとに置かれるのだろう。そうして親の望むとおりに、しっかりと勉強して、名門校へ進まなければならないのだ。

「三者面談のこと、言いたくないな……」

 ベッドに倒れこんで、新は眉を顰めた。けれども親が来ないとなれば、学校から直接連絡がいってしまうだろう。そうすると、今度は「どうして面談のことを言わなかったのか」と責められるのに違いなかった。

 仕方なく夕食時に三者面談が来週の金曜日であることを告げると、母は「そう」と無表情で返事をし、父は何も言わずに目の前の食事を咀嚼していた。――だから言いたくなかったのに。

 

 様々な思惑の中、週明けから三者面談が始まった。担任団は忙しくなり、放課後には保護者がやってくる。生徒たちは極力問題を起こさないようにつとめ、訪れた保護者には元気に挨拶をしていた。

 そうして木曜日――春と千花の面談の日になった。

 千花は朝からうきうきした様子で、春は困ったような顔をしてそわそわしていた。

「お父さん、来てくれるんだ」

 千花が弾んだ声で言った。仕事が忙しいはずの父は、娘のために半休をとってくれたのだ。何があっても必ず面談に来ると約束してくれた。千花はそれが嬉しくて仕方ないらしい。

 一方の春は、「おじいちゃんが心配」と言って難しい顔をしている。

「抜けてるとこあるから、今日のこと忘れてたりしないかどうか……一応今朝も確認はしてきたけど、本当に大丈夫かな……」

 溜息を吐く春と、「先生にお父さんを自慢するの」と浮かれている千花に、詩絵と新は顔を見合わせて苦笑した。

 後ほど、春の不安は別のかたちで実現することとなる。祖父はなんと昼過ぎに学校を訪れ、担任の井藤と春を困らせたのだった。「忘れんようにと思ってな」とのことだったが、早く来すぎるのもまいったものだ。

 改めて出直してもらい、午後四時が近づいた頃。春と千花は廊下で、保護者とともに鉢合わせた。

「千花ちゃん」

「あ、春ちゃん。紹介するね、父です」

「こんにちは。千花がいつもお世話になっています」

 千花の父は、パリッとしたスーツの似合うハンサムな男性だった。とても中学生の娘がいるようには見えないほど若そうで、穏やかな雰囲気が千花に似ているな、と春は思った。

「千花ちゃんのお父さん、かっこいいね」

「ありがと。でもね、お父さんってば焦って、三時前に来ちゃったの。私、先生に呼ばれちゃって、ちょっと恥ずかしかった」

「えーと……うちのおじいちゃんよりはマシだと思うよ」

 春と千花が小声で雑談し、春の祖父と千花の父が挨拶をしているところへ、各教室から呼び出しがかかった。いよいよ面談の始まりだ。あとで話の内容を教え合おうと約束して、春はC組へ、千花はA組へと、保護者とともに入っていった。

 

 先日の学力テストの成績を見ながら、井藤は春に「特に問題ないな」と言った。

「若干理数が苦手のように見えるけど、文系科目に比べればってだけだから。志望校はたしか礼陣高校だったよな」

「はい」

「今の成績なら、倍率が少しくらい高くても余裕もって受けられるぞ。北市女は受験するか? いいセン行くと思うけど」

 北市女――北市女学院高等部は、礼陣の北市地区にある、レベルの高い私立の女学校だ。龍堂が男子の記念受験校なら、北市女は女子の力試しの場といえる。もちろん北市女専願の者は、合格のために猛勉強をするのだった。

「北市も受験はしますけど、本命は礼高にします」

「うん、わかった。お祖父さんのお考えはいかがです?」

「私は春がしたいようにするのが一番良いと思っとります」

 祖父は初めから春の考えを尊重してくれている。たとえ春が「北市女に行きたい」と言っても、なんとか学費を工面して行けるようにしてくれただろう。――ふと、春は新のことを思った。親と考えが食い違っている彼は、いったいどうするのだろうか。一年後、春は新と一緒に礼陣高校に通えているのだろうか。

 そんなことを考えている間に、井藤と祖父の話は盛り上がっていた。

「お祖父さんの育て方が良いから、須藤も良い子なんでしょうね。でもなんでこんなに背は伸びないんでしょう?」

「飯はよく食うんですがね。毎日茶碗に二杯……」

「ちょっと、これ何の面談? 井藤先生もおじいちゃんもやめて」

 あわてて会話に割り込むと二人に笑われた。

 普段の生活のことなどを簡単に話して、少しだけ先日の事件の学校対応の説明をして、面談は終わりに差し掛かる。

「それじゃそろそろ終わるか。須藤、悩みや迷ってることはあるか?」

「今のところ身長が低いことくらいです」

「うん、なんかごめん。……まあ、冗談はおいといて」

 井藤は一拍置いて、春に向き直った。そして苦笑しながら言った。

「加藤のこと、よろしくな。俺、ずっとあいつの担任してたけど、結構溜めこむタイプらしいから。気にかけてやってくれよ」

「先生、意外と詩絵ちゃんのこと見てるんですね。わかりました」

 友達のことだ。気にかけないはずがない。これからもずっと仲良くしていくつもりなのだから。きっと詩絵も、同じことを言われればそう答えるだろう。

 

 A組では、服部が個人データを見ながら千花の長所をすらすらと並べていた。

「学力テストの成績はとても良く、普段の素行も全く問題ないですね。特に音楽の才に長けていて、吹奏楽部ではフルート担当としてなくてはならない存在です。どうでしょう、この能力を生かして北市女学院を目指してみるというのは」

「先生。私、礼陣高校に行きたいんですけど」

 しかし千花はそれを遮るように、手を挙げながら言った。そこへ父も「娘の希望に沿うようになればいいと思います」と加わる。服部は息を吐いて、手にしていた個人データの書類を机の上に置いた。

「……そうですか。毎年毎回、とりあえず北市女を薦めるようにと言われるんだが、うまくいかないんだよな」

「先生って正直ですよね」

 服部は真面目な教師だが、ユーモアがわからないわけではない。実際、多少厳しくとも生徒からは人気があるし、千花も服部のことは尊敬している。だからこの場は千花にとって嬉しいものだった。大好きな父と、大好きな先生を、引き合わせることができるのだから。

「ああ、でも、北市女狙えるのは本当だ。それくらい成績には余裕がある。同じ公立なら、礼陣高校より社台高校を薦めたいくらいだ」

「ありがとうございます。でも、私はどうしても礼陣高校に行きたいんです」

「……去年もそうやって突っぱねて、礼高に行った生徒がいたな」

 ふ、と服部が笑う。千花もにっこりして、頷いた。その生徒のことを、千花はよく知っている。隣の家に住む、姉も同然の先輩のことだろう。千花が礼陣高校に行きたいのは、また彼女と同じ学校に通いたいからという理由もあった。

「それはそうとして、いつ気が変わってもいいように準備しておくに越したことはない。今後も頑張れ」

「はい!」

「それから、最近入江とよく一緒にいるようだが」

「新君ですか? そうですね、仲良しです」

「千花が男子と? それは珍しいな」

 千花が服部に頷いてみせると、父は驚いた。普段は千花とまともに話すことも少ないので、交友関係もなかなか知る機会がなかったのだ。まさか男子の友達がいたとは思わなかったらしい。

「その入江だが、色々と複雑でな。たまに気にしてやってくれ」

「恋心は単純でしたよ」

「結構爆弾発言するよな、園邑は」

「恋……っ?! 千花、まさかその入江君って子と」

「違うよお父さん。新君が好きなのは、さっき会った春ちゃんだもん」

 こんな賑やかで楽しいやり取りができるのは、次はいつのことになるだろう。父が隣にいる幸せをかみしめながら、千花は面談を終えた。

 

 翌日は詩絵と新の面談がある。二人とも同様に、憂鬱そうな表情をしていた。春と千花のときとは大違いだ。

「嫌だなあ、面談……」

 呟く詩絵に、春は、「でも」と言った。

「詩絵ちゃん、学力テストの結果良かったって言ってたじゃない。きっと褒められるよ」

「テストあったこと自体、親に話してないもん」

「え、そうなの?」

 学力テストの結果は詩絵にしては良く、喜んでいたのだが、やはり春や千花に比べると大したことはない。詩絵はそれをずっと気にしていた。

 そして新は、いまだに親との不和を解消できていなかった。おまけに家庭教師がついて自由な時間が減ったことで、疲れてもいる。

「面談が嫌だっていうより、オレは親が来るのが嫌なんだよな。話し合いも何もしてないから、面倒なことになりそうでさ」

「うーん、そこは頑張るしかないんじゃない?」

 話し合いがこれまでにできていないなら、この機会にすればいいと春は思う。幸いこれは三者面談だ。服部が仲介に入ってくれれば、新も自分の気持ちをいくらかは話しやすいのではないだろうか。

「そうだよ新君、頑張れ! 春ちゃんの笑顔を思い浮かべてればばっちりだよ!」

「え?! 何言ってるの、千花ちゃん!」

「そうだな、俄然やる気湧いてきた!」

「新も乗らないでよ、恥ずかしいから!」

 千花のどこかずれた応援と、春の可愛らしさが、新を励ましてくれる。詩絵も「一緒に頑張ろうか」と言ってくれる。心に支えがある今なら、もしかすると親ときちんと話をすることができるかもしれない。新は少しだけ、期待した。

 そうして迎えた放課後、同じ時間帯に面談が設定されていた詩絵と新は、母とともに廊下にいた。

「まあ、こんにちは。いつも詩絵がお世話になっています」

 詩絵の母は、おっとりとしたきれいな人だ。昔は町で評判の美少女だったらしく、商店街ではときどき話題に上る。新も噂程度には聞いたことがあった。

「こちらこそお世話になって……」

「以前うちの新を帰りに寄り道させたのはあなた?」

 新が詩絵の母に頭を下げようとしたところで、空気を割るようなぴしゃりとした声が叩きつけられた。紛れもなく、新の母が発したものだった。新は、そして詩絵も、思わず動きを止める。それにかまわず、新の母は厳しい口調で続けた。

「うちの子の勉強の邪魔はしないでくださいね。この子にそんな暇はないんですから。お母様からもきちんとお話しておいていただけるかしら」

「母さん!」

 新が咎めても、素知らぬ顔だ。詩絵はとりあえず笑顔を浮かべて、新に向けて「自分は大丈夫だから」と声に出さずに伝えた。そのとき、ちょうど井藤が詩絵を呼びに来て、話はそこで終わった。

「詩絵、ごめん」

 新の言葉に、詩絵は笑顔のまま手を振って、教室へ入っていった。それから服部が、やりにくそうに新たちを呼びに来た。多分、やり取りは全て聞かれていたのだろう。新は気が重くなるのを感じながら、自分も教室に入った。

 

「加藤、このあいだのテスト頑張ったな!」

 席につくなり、井藤は詩絵に満面の笑みと試験結果をくれた。だが詩絵は、頬をひきつらせて返事の代わりにした。

「テスト? 先日あったんですか?」

 詩絵の母は首を傾げる。どうやら学力テストがあったことは、店の客からも聞いていなかったようだ。そしてその結果も、詩絵が伝えていないので知らない。今ここで、初めて見ることとなった。

「せっかく成績上がったんだから、報告すればいいのに」

「そうよ。詩絵がこんなにいい成績とるなんて、お母さん嬉しいわ」

「だって……」

 成績はたしかに上がった。勉強会の効果が確実に出ていて、これまでで一番良い結果を出せた。けれども、春や千花には及ばない。志望する進路につけるかどうかは、わからない。それをぼそぼそと呟くと、井藤と母は一笑した。

「なんだ、そんなこと悩んでたのか」

「比べなくてもいいじゃないの。そこまで期待してないわよ」

「お母さん、ちょっとそれ酷くない?」

「誤解しないで。詩絵が頑張りさえすればいいってことよ。春ちゃんや千花ちゃんはたしかに頭が良いけれど、詩絵には詩絵の良さがあるじゃない。それで勝負すればいいの」

 お母さんの言うとおりだ、と井藤も頷く。自分の良さって何だろう、と詩絵は思う。それは特別なものなのだろうか。いや、そうではないだろう。自分ではよくわからないが、きっと平凡並の何かがあるはずだと彼らは言っているのだ。

「それって、何よ。アタシは何で勝負したらいいの? 礼陣高校に行きたいとは思ってるけど、落ちたらどうすればいいの? 何にもわかんないよ……」

 俯く詩絵を、しかし井藤は笑みを浮かべて見ていた。それから母に「ちょっと失礼しますね」と言ってから、詩絵の頭を軽く、優しく叩いた。

「……何、井藤ちゃん」

「加藤は、須藤や園邑、入江のことをどう思ってる?」

「そりゃ、良い友達だよ。親友だよ。決まってるじゃん」

 何をわかりきったことを、と思い、詩絵は即答した。顔をあげて、はっきりと。すると井藤は頷いて、「そうだな」と言った。

「加藤は典型的な礼陣の子供だ。相手が、たとえ片親だったり両親とも喪っていたりしても、親はいるけど厳しくて子供の交友関係にまで口出しをしてくるような人だとしても、そんなのは関係なく相手と向き合い、付き合える。誰にでも手を差し伸べて、笑っていられる。俺はそれが加藤の良いところだと思うぞ」

「だってそんなの当たり前のことじゃん」

「それを当たり前だと思えるのが良いんだ。そういう奴はな、絶対あとで得をするんだ」

 詩絵が一年生のときから、井藤はずっと担任をしてきた。だから詩絵が誰にでも話しかけ、相手の心を開いていった姿を何度も見ている。千花や春も、そうしてできた友人だった。彼女ら以外にも、詩絵が声をかけて親しくなった同級生は数多くいる。詩絵となら話せる、詩絵になら相談できる、という生徒は、実際何人もいるのだ。

「今までそうやって培ってきた伝手を使って、学力も上げていけばいいじゃないか。実際上がったんだし。特に入江を引き込んだのは正解だな」

「あんまり教えてくれないけどね、新は」

 井藤が思うに、詩絵の武器は人脈だ。人を優先しすぎて、自分の気持ちを吐き出せず溜めこみすぎなければ、それ以外に問題はないはずだ。詩絵はもっと自信を持っていい。

「加藤、もっと堂々としてろ。そうすればきっと、行きたいほうに行けるから」

「……井藤ちゃんがそう言うなら、やってみる」

 詩絵が真面目な、けれどもさっきより随分と元気な表情で頷いた。それを母が、微笑みながら見守っていた。

 

「先生、新は龍堂高校に行かせます。成績は問題ありませんよね」

 服部が資料を出して口を開くより前に、新の母は先んじて希望を述べた。不意を突かれた服部は一瞬目を丸くしたが、すぐに落ち着きを取り戻して「そうですね」と返した。

「この成績なら、龍堂用の対策を少しやれば問題はないかと。……で、入江。龍堂を目指すか? そうなら、こっちもそれなりの準備をしなければならない」

 龍堂高校は名門だ。そこを目指すなら、教師陣も合格に向けて新専用の対策を講じなければならない。だが、当の新は、そこまでしてもらう必要はないと思っている。龍堂には、行きたくない。

 母は、そしておそらくは父も、新が龍堂に行くのはもう決まったことだと思っている。しかし新には目標が、望みが、できてしまった。実力のある先輩とともに弓道をやりたいという願いが生まれてしまった。

 それを告げるのは勇気がいることだ。これまで母が当然だと信じてきたことを、うち砕くことになる。おそらくは新の考えを改めさせるために、行動の制限を強いてくる。けれども、ここで言わなければもうチャンスはないと思った。

――春ちゃんの笑顔を思い浮かべてればばっちりだよ。

 千花が言っていたとおりのことをしてみる。初めて好きになった女の子のことを考えてみる。彼女と一緒にいるためにも、この選択をしたいと思うことは、実現させたいと口にすることは、必要だ。

「服部先生、オレは」

 今、ここで言わずに、いつ言うんだ。いつまで自分の気持ちを隠して、親をごまかしているつもりなんだ。

「オレは、礼陣高校に行きたいです」

 それを口にした新の表情は真剣で、服部はなぜか微笑んでいた。

 そして母は、激昂した。

「何を言っているの! 礼陣高校なんて、どれだけランク落とすつもり?! 私はこんな田舎に留まらせるために、あなたを教育しているわけじゃないのよ!」

「ランクの問題じゃない! オレにはやりたいことがあるんです!」

「やりたいこと? それはやるべきことをやってからにしなさい!」

「龍堂に行くのがオレのやるべきことなのか?! 行っても目標も目的もないのに、それでも行かなきゃ駄目なのか?!」

 その母に、新は自分の気持ちをぶつける。行きたいのはこっちのほうなんだ。これはオレの人生だ。そんな思いを、母に向かって全力で叫んだ。

 だが、母は席をたってしまった。「話にならないわ」と言い、教室を出ていこうとした。

「お母さん、お待ちください」

 それを服部が呼び止める。振り向いた新の母に、至って冷静に告げた。

「まだ時間はあります。親子でじっくり話をなさってください。そのとき、もし私の力が必要なら、いつでも仰ってください。もちろん、入江も」

「……はい。失礼しました」

 新は服部に一礼し、母とともに教室を出ていこうとした。その直前、服部は新を一度だけ引き留める。

「これだけ言わせてくれ。園邑のことを気にかけておいてやってほしい。このクラスで一番仲が良いのは、多分お前だからな」

「はい。……では、失礼します」

 戸が乱暴に開け閉めされるのを聞きながら、服部は思う。あの親子は大丈夫だろうか。いや、きっと何とかなるのだろう。新が友達の力を借りて、何とかするに違いない。

 そうだ、今の新には、強い味方がついているのだ。

 

 休み明け、詩絵と新の表情は幾分かすっきりしているように見えた。春と千花は顔を見合わせ、二人に何があったのかを聞こうか迷った。だが、尋ねるよりも先に詩絵から話してくれた。

「井藤ちゃんが励ましてくれたんだよね。アタシには、友達がついてるって。もっと堂々としてて良いってさ」

 そう言った詩絵の表情は、春と千花が最も信頼を置いている、いつもの明るい笑顔だった。

「もちろんだよ、詩絵ちゃん!」

「一緒に礼高行こう! 高校でも一緒にいよう!」

 春と千花に抱きつかれ、詩絵も二人を抱きしめ返した。絶対にみんなで一緒にいよう。こんなに可愛くて頼もしい友達と、離れたくなんかない。

 そして、新は。

「……オレもさ、親に言った。礼陣高校に行きたいって」

「言えたの?」

「勢いでだけどな」

 面談の後、新は家に帰り、母に猛烈な勢いで礼陣高校への進学を反対された。だが、それに屈することはなかった。どうして礼陣高校に行きたいのか、龍堂高校よりも価値があると判断した理由は何か、きちんと説明したつもりだった。

 結果、まだ受け入れてもらってはいない。父が加わっても、ほとんど母が叫んでいるばかりで、何も言ってはくれなかった。休みの間は家にいるのも息苦しいくらいだったが、しかし、これから少しずつ理解してもらうつもりだ。

「そっか、まだご両親は認めてくれてないんだ……。でも、一歩前進だね。おめでとう、新!」

 春が花の咲いたような笑顔で、新を見上げてそう言ってくれた。あのとき思い浮かべたのは、この笑顔だった。いつまでもこの笑顔を傍で見ていたいと思ったから、新は強くなれたのだ。

「その笑顔のおかげだよ」

「え?」

 新の言葉に、春は首を傾げる。千花と詩絵は、「本当に思い浮かべたんだ……」と半分呆れていた。だが、もう半分は春と同じ気持ちだった。新の前進と前途を祝い、応援したかった。

「これでみんな、礼高に行くって目標が決まったね」

「アタシも頑張らなきゃ。当然、千花たちも勉強教えてくれるよね?」

「当たり前だよ。詩絵ちゃんと新君と、一緒にいたいもん」

「だから、まだオレの問題は完全に解決したわけじゃ……」

 新がそう言ってあわてるが、春がその袖を引っ張った。自分より背の高い新を見上げ、にっこり微笑んだ。

「一緒に行こうよ。私は新と一緒がいいな」

 その一言だけで、何が何でも礼陣高校に行こうと思った新だった。

 

「ねえ、千花。なんでこの二人、まだ付き合ってないの?」

「なんでだろうねー」

 

 礼陣に、初夏の爽やかな風が吹いた。新しい季節が、もうそこまでやってきている。