礼陣を取り囲む山の色は、すっかり桜色から新緑の爽やかな色に変わってしまった。窓から見える景色に季節が過ぎていくのを感じながら、詩絵は深く溜息を吐く。景色に見惚れているのではなく、ただ単に憂鬱なのだ。

 大型連休も間近に迫った、四月の下旬。何をして遊ぼうか、などという計画を立てる者もいるが、その前に越えなければならない壁がある。県で一斉に行なわれる中学統一の学力テストだ。この時期に行なわれる三年生のテストは、前二学年分の範囲がきちんと身についているかどうかを確認するものである。それを乗り越えなければ、大型連休の楽しみはない。

 もっとも、詩絵の場合は連休などあってないようなものである。実家はパン屋をやっていて、詩絵は両親の代わりに家事をしたり、ときどき店の手伝いをしたりして過ごすので、のんびり遊んでいる暇はほぼない。それでも、苦手な勉強よりは楽しく思える。

 ともかく、学力テストを目前に控えた今、詩絵の口からは幾度となく、憂いの溜息がこぼれているのだった。

「あーあ、明日の学力テストやだなあ……。憂鬱だよ」

 声に出すと、いつものようにすぐ傍にいた春が困ったように笑って頷いた。「そうだねー」という返事に、詩絵はほんの少しだけ安心する。

「私、一、二年の時のこと、忘れちゃったもん」

「だよねえ。点数取れなくても仕方ないよね」

「うん。八割くらい取れたら安心しちゃうかな」

 しかし、詩絵と春とでは「安心」の度合いというものがまるで違うようだった。詩絵はちょっと首を傾げて、春の言葉を頭の中で繰り返す。八割――彼女は今、そう言った。

「……八割って、おいしいの?」

「詩絵ちゃん、食べ物の話はしてないよ?」

 どうやら詩絵の考える「安心」は、春の「安心」よりもかなり下にあるようだ。なにしろ詩絵は、「六割も取れれば喜んでいいだろう」と思っていたのだから。

 それを春にそのまま言うと、「えっ」という短い悲鳴の後に、さっきよりももっと困ったような笑顔が返ってきた。頭の良い春は、まさに反応に迷っていたのだろう。詩絵は乾いた笑いを漏らし、それからもう一度深い溜息を吐いた。

 

 春と詩絵は三年C組に所属している。A組にいる友人達と話をするときは、いつも廊下の隅にかたまるようにしているのだが、それは傍から見れば不思議な光景かもしれない。女子が三人に男子が一人――そうなったのはつい先日からのことだ。

「二年の学年末の平均が六十五点? 低っ……」

 テストの話をしてまず素直な反応を示したのは、グループで唯一の男子である新だ。彼はどういうわけか、詩絵には遠慮も容赦もしない。それが詩絵にとっては楽でもあるのだが、同時に怒りの種にもなる。

「う、うるさいな! 数学が苦手なだけだってば! ……あと、英語と理科と社会と国語も」

「数学だけじゃないだろ、それ。得意科目は?」

「体育だけど」

「典型的な体育会系バカだな」

「バカっていうな! だいたい、そういう新はどうなのよ?!」

 沸騰した薬缶のように、詩絵は喚いた。だが、すぐに「訊くんじゃなかった」と思った。

「どうって、オレは……学年トップだけど」

 新はこの中学校で、常にトップの成績を保ってきたのだった。この学校では基本的に本人とその保護者にしか成績がわからないようになっているので、最近仲良くなった新の成績を、詩絵だけでなく春ともう一人の友人である千花も知らなかった。感嘆の声をあげる二人と、心底苛ついた詩絵の、表情のギャップがすごいなと新は思った。

「ああもう、腹立つ! 罰としてアタシに勉強教えなさいよ!」

「罰を与えられるいわれはない! ていうか、それ罰なのか?!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぐ詩絵と新を、春と千花は面白そうに見守っていた。新が友達の輪に加わってからというもの、こんな光景が当たり前になった。女子三人の中に男子が一人だけというのは恥ずかしくないのだろうかと思ったこともあったが、新自身はそんなことを気にしてはいなかった。寧ろ彼は、少しでも長く、恋焦がれる春の傍にいられるのが嬉しいらしい。

 千花はにやにやと春を見、春はそれに頬を染めながら苦笑を返す。いまだに新の気持ちに応えられるかどうかがわからないのだ。ただ、一緒にいると楽しい。笑顔が増える。それだけはたしかなことだった。

 しかしながら、そろそろ騒ぐ詩絵たちを止めなければ、貴重な休み時間が終わってしまう。千花が詩絵をおさえ、春が言い合いをしていた二人の間に割り込み、その場を収めた。

「まあ、落ち着こうよ、詩絵ちゃん」

「そうだよ。何なら、みんなで一緒にテスト勉強しよう。今日の放課後は全部の部活動がお休みだし、私の家においでよ。ね、新もそうしない?」

 春がにっこり笑って提案する。どうせみんな同じテストに挑むのだ、一緒に勉強したほうがわからないところも教えあうことができる。春の家は学校から少し離れてはいるが、数人で集まるのには最適な広さを持っていた。これまでも詩絵と千花を呼んで、三人で勉強をしたものだ。

「オレもいいのか? 春の家に?」

「もちろん。それに、新は学年で一番なんでしょう? 私もわからないところとか教えてほしいな」

 好きな女の子がここまで言ってくれるのならば、乗らないわけにはいかない。新は顔と胸のあたりが温かくなるのを感じながら、春にまっすぐ向き直った。

「正装していく」

「え?」

 あまりの嬉しさにとんちんかんな返答をした新の背後から、詩絵が「よし言ったな、正装とやらに着替えて来い」と言葉を投げた。

 

 中央中学校は礼陣の町の中央地区というところにある。そこから南のほうへ行くと、川に沿った住宅地、遠川地区がある。遠川地区はその特徴からさらに東西に分かれており、日本家屋の多い東側は和通り、新しい欧風建築の多い西側は洋通りと呼ばれる。

 春の家は遠川地区の和通りの、中央地区に比較的近い場所にある。和通りの多くの住宅がそうであるように、春の家も和風の石塀と庭をもつ。家屋は二階建てで、一階には居住スペースとともに祖父の仕事場が設けられている。庭の一角には、仕事で使ったものだろうか、竹や木材が積まれていた。

「相変わらず和風だねえ。うちとは全然違うな」

 家を見上げて、詩絵がしみじみと言う。

「他の家よりはハイカラなほうだよ。中は和風ってほどでもないし」

 そう返しながら、春は戸に手をかける。そのとき、日本庭園のミニチュアのような庭を見ていた新がぽつりと呟いた。

「普段着まで着物とか、そういうことはないよな……」

 何気ない独り言のつもりだった。いや、心の中で思っただけのつもりだったのが漏れてしまったのだ。「春の和服なら見てみたいけど」という余計なおまけまで口にしてしまい、詩絵と千花に「スケベめ」「逞しい妄想力だね」とからかわれる。ところが、あわてて「違う」と言いかけた新の声を遮ったのは、さらなる衝撃の事実だった。

「……寝るときは浴衣で寝たりするよ。外で着られないのとか、部屋着にしちゃうの」

 がらり、という引き戸の音よりも、よほど新の耳に響く春の言葉。男子中学生の妄想は一気に膨らみ、顔が赤くなる。にやにやしている詩絵がもう一度「スケベ」と言ったが、もう何も言い返せなかった。

 春が苦笑しながら友人たちを家の中へと招き入れると、その声や音を聞きつけた老人が玄関へやってきた。にこにこ顔の好々爺こそ、礼陣が誇る細工職人「須藤翁」、春の祖父である。

「おじいちゃん、ただいま」

「おう、おかえり。友達を連れてくるなんて久しぶりだな、ゆっくりしていきなさい」

 伸びた顎鬚を撫でながら、須藤翁は孫の友人たちを快く迎えてくれた。詩絵と千花も頷きあって、「おじゃましまーす」と声をそろえる。

 だが、新だけはぴしっと直立し、須藤翁に向かって早口で言った。

「はじめまして、入江といいます! 春さんとは仲良くさせてもらって」

「黙れ、落ち着け」

 準備していたのであろうその台詞を遮るように、詩絵が新の背中に蹴りを入れた。詩絵のほうも、どうせこんなことになるだろう、という予想はしていたのだ。だからいつでも普段通りのツッコミを入れられるように待機していた。千花も落ち着いた様子で静かに微笑んでいる。

 そんなやりとりを須藤翁はかっかと笑いながら見ており、春はひたすら苦笑いしていた。

「ほ、ほら、いつまでもそんなところにいないで。私の部屋に行こうよ」

「なんだ、二階に行くのか。居間で遊んでもいいんだぞ」

「遊ぶんじゃなくて勉強するの。それに、居間だとおじいちゃんの仕事が気になっちゃうでしょ」

 詩絵に蹴られて少しだけ冷静になった新の目に、春と祖父のやり取りは平和なものに見えた。いつもこんな調子で会話をしているのだろうかと思うと、微笑ましい。上がり框に足をかけると、春のにおいがするようで、こっそり深呼吸してみた。木の匂いに混じって、ほんのり甘い香りがする。春は毎日、この場所で生活しているのだ。

「良い家だな」

「そう? ありがとう」

 やっと屈託なく笑った春に、新の胸は高鳴る。好きな女の子の家に来るということは、こんなにも心が踊るものなのか。

「おお、そうだ。春よ」

 友人たちを連れて行こうと二階に上がろうとした春を、須藤翁が思い出したように呼び止めた。振り向いて首を傾げる春に、こう告げる。

「明日、海が来るそうだ。さっき連絡があった」

「海にいが?」

 その名前を繰り返した春の顔が、ぱっと明るくなる。その変化を、新は、そして詩絵と千花も見逃さない。鼻歌でも歌いだしそうな調子で、春は続けた。

「わあ、なんだか久しぶり! 会えるの楽しみだなあ。あとでちゃんとお掃除しなくちゃ」

 たった一人の名前が出ただけで、友人三人を招くよりも機嫌が良くなったように見える。「楽しみ」だと言って、掃除まできちんとしようとしている。呼び方も「海にい」となんだか親しそうで、新の胸にはもやっとした何かが生まれた。

「親戚か?」

 そのもやを拭い去るために呟いたが、しかし、詩絵がさらりと追い討ちをかけた。

「あの喜びようだし、彼氏だったりして」

「!」

 その可能性は十分にあり得るものだった。なにしろ新から見て、春は可愛く、彼女を好きになる男が他にいたとしても、何もおかしいことはないのだ。そう、彼氏という存在がいても、それは自然なことだった。

 ショックでわなわなと震えだす新を見て、詩絵と千花はぎょっとする。まさか冗談で言ったひとことで、新がこんなにも泣きそうな表情になるなんて、こちらは思いもしなかった。

「冗談だから! 本気でショック受けるなよ!」

「そうだよ新君。 だいたい、彼氏なんていたら春ちゃんはすぐに私たちに報告してくれるはずだよ。それがないんだから、きっと親戚か誰かだよ」

 新と彼を励まそうとする詩絵と千花を、このやりとりが聞こえていなかった春は不思議そうに見る。そして「どうしたの、早く二階においでよ」と、何の悪気もなく、随分と楽しそうに言うのだった。

 二階に上がってすぐにある襖の向こうが春の部屋だ。室内は畳敷きで、そこに学習机や本棚が置いてある。青い猫型ロボットの出てくるアニメの、登場人物の少年を連想させるような室内を、新はきょろきょろと見回した。

 詩絵と千花は以前にも来たことがあるので、もう慣れたものだ。適当な場所に荷物を置くと、足をたたんで立てかけてあったテーブルと積んであった座布団をてきぱきと設置し始める。春が礼を言いながら、階下の台所へ飲み物と菓子をとりに行った。

 部屋のセッティングが終わると、詩絵が落ち着かない様子の新の背中をぽんと叩く。ここで春が生活しているという事実と、先ほどあがった「海にい」という謎の人物のことで頭がいっぱいの新に、「しっかりしなさいよ」と言う。

「アタシの点数かかってるんだから、ちゃんと教えてくれないと困るのよ!」

「オレはお前の教師役か! 嫌だぞ!」

 せっかく励ましてくれていると思ったら、やはり詩絵は自分の成績が気になるようだ。今日は勉強をしに来たのだから当然のことではあるのだが、なんだか納得のいかない新だった。千花はその様子を、すでに座布団に腰を下ろし、ノートや教科書などを広げながら眺めていた。

「千花は何かわからないのあるか? どうせ教えるなら、春と千花に教えたい」

 おとなしくしていた千花に、新が振り返る。詩絵が不満げに睨むが、気にしない。

「何よ、その言い方」

「ふふ、ありがとう」

「だいたいね、春も千花も成績いいんだから、新が教えられる隙なんてないよ。アンタはアタシにしか教えられないんだからね!」

「それってお前だけやばいってことか、詩絵」

「うるさい、黙れ!」

 こうして互いに名前で呼び合うようになったのは、新と春がそうするようになったからだ。四人が友達になったその日に、詩絵と千花も新を名前呼びするようになり、新も二人を春に対してそうするのと同じように呼ぶようになった。すると名字で呼ぶよりも、ずっと距離が近くなったような気がしたし、一緒にいて気が楽だった。あのとき、四人は本当に友達になったのだ。

 部屋に残っていた客組でわいわいと騒いでいるうちに、春が四人分の麦茶と、この町の名物であるまんじゅうやもなかといった菓子を、盆に載せて持ってきてくれた。礼陣の人々のお茶の時間には、定番の品だ。しかし新は感心したように、菓子鉢の中を覗いた。

「やっぱり春の生活って和風なんだな。お茶うけまで和菓子なんて」

「うん? これは普通じゃないかな」

「私の家もお茶うけは御仁屋のおまんじゅうとかもなかが定番だよ。新君のお家は違うの?」

「御仁屋? ……って、駅裏の商店街にある和菓子の店だっけ」

 新の言い方の何が不思議だったのか、三人の女の子は顔を見合わせた。怪訝な顔をしている新に、春が「もしかして」と口を開く。

「新、ここ数年で礼陣に来たばっかりだったりする?」

「ああ、中学からこっちに来た。その前は大城市に住んでたんだ」

「遠いところから来たんだね。それじゃ、その反応も無理ないか」

 頭に疑問符を浮かべている新の顔を見て、春たちは笑いあう。麦茶のグラスを一つずつ丁寧にテーブルの上に置きながら、春は母親が子供に物語を聞かせるような口調で話しだした。

「『礼陣一の嗜みは、水無月の着物に御仁屋の菓子。これに茶をもて和みなり』って言われててね。お客さんが来たら、御仁屋のお菓子を出すのが、この町のほとんどの家の定番なの。だからもし千花ちゃんや詩絵ちゃんの家に行ったとしても、同じようなものが出てくると思うよ」

 新の口から、へえ、と感嘆の声が漏れる。礼陣に来て三年目にして、初めて聞いた話だった。そもそも誰かの家に行くという経験があまりなかったので、こんなことは知る機会がなかったのだ。

「家によってはもっとグレードの高い生菓子が出てきたりするんだよね。新の家はどうなの?」

「特別な客なら、ケーキとか……? 普段はクッキーやチョコレートだな、多分」

「なるほど、それが大都会のスタンダードなんだね」

 客が居合わせた数少ない記憶を頼りに引っ張りだした新の答えに、今度は春たちが感心する番だった。こんなことでも興味深げに聞くなんて、と新は少しばかり感動する。

 それと同時に、昔にしたほんの僅かなやりとりも思いだした。

――お母さん、今日ね、学校でね……

――そんなことより、もうすぐ家庭教師の先生がいらっしゃるでしょう。予習は終わっているの?

 ちくりと刺すような胸の痛みをごまかすように、新はわざとらしく咳払いをする。

「それはいいとして、勉強するんだろ」

「そうだね、始めようか。わからないところは訊きあおうね」

 全員がテーブルに向かい、シャープペンを手にとった。あとに響くのは、ペン先とテーブルがぶつかる音ばかり。

――だった、はずなのだが。

「早速だけど、この問題ってどう解けばいいの? この公式使ってもうまくいかないんだけど」

「あ、それはこっちの公式を使うといいよ。そうしたら解けると思う」

「そっか。……じゃあ、これは?」

「これは前の問題がヒントになってるから、順番に丁寧に解いていけばいいよ」

「……ねえ、新はこの問題わかる?」

「あー、あのさ、詩絵」

 先ほどから絶え間なく質問を続ける詩絵に、とうとう新がストップをかける。

「全然訊きあえてないよな、オレ達。詩絵が一方的に質問しててさ」

「……ごめん」

 取り組んでいる科目は数学で、詩絵が最も苦手とするものだ。けれども詩絵以外は滞りなく解けている。すると、自然とわからないことを訊くのは詩絵だけになってしまうのだった。申し訳なさそうに縮こまる詩絵に、千花が励ますように微笑みかける。

「わからないところを訊くのは悪いことじゃないよ、詩絵ちゃん。どこがわからないの?」

「千花ぁ……」

 詩絵がノートを千花に見せ、わからないらしいところを指で示す。それを千花が優しく、わかりやすく解説してくれる。傍目に見ていても、詩絵が理解しにくいポイントを、ちゃんとおさえている説明だった。

「詩絵と千花は良いコンビだよな。オレのところに押しかけてきたときもそうだったけど。いつから一緒にいるんだ?」

 感心した新が思わず尋ねると、詩絵が問題を解き始めたのを見計らって、千花が答えた。

「中学生になってからだよ。私ね、詩絵ちゃんに助けてもらったんだ」

「あのときは、助けたつもりはなかったんだけど。……あ、できた! ありがとう、千花!」

「どういたしまして」

 こんなに息が合っているのに、出会って仲良くなってからほんの一、二年しか経っていないという。小学生のときから仲が良いのならまだしも、中学生になってからこんなにも仲良くなれるものなのだろうか。新には今まで、小学生の時ですら、そんな相手はいなかった。――ここにいる女の子たちを除いては。

「もしかして、春も?」

「うん、私は二年生の時に詩絵ちゃんと仲良くなったんだよ。そのときにはもう詩絵ちゃんと千花ちゃんは親友で、詩絵ちゃん繋がりで千花ちゃんとも友達になったの」

 どうやら人と人を結びつけるのは、詩絵の得意とするところらしい。現に新も、詩絵と千花のおかげで春に近づくことができた。今こうして同じテーブルについて勉強をしているのは、間違いなく詩絵たちが声をかけてくれたおかげだ。

「勉強は苦手なのに、おせっかいは上手いんだな」

「勉強苦手は余計。……あ、これも同じ方法でいける?」

「そうそう。そこは同じ公式でやってみて」

 勉強会はそれぞれのペースで、かつ詩絵を助けながら進んでいく。そうしていつの間にか、時計は五時過ぎをさしていた。春の家に来てから、二時間近くが経っている。春の「そろそろ休憩する?」の言葉を合図に、四人はノートから目を離した。

「詩絵は全然進んでないけどな」

「うるさいな。アタシにしてはやったほうよ」

 新の意地悪い言葉に詩絵が膨れるのを笑いながら、千花が「でも」と言った。

「休むのも大事だよ。それに、せっかく春ちゃん家に来たんだし、ちょっとお話しようよ」

「それもそうだな。オレも詩絵のせいで疲れたし」

「事実とはいえ、いちいちむかつくわね、アンタ」

 文句を言いながらも、寛ぎの時間が始まった。足をのばして、麦茶を飲み、菓子鉢の中の菓子を食べる。まさに先ほど春から聞いた、礼陣の「和み」だなと、新は思った。

 気が抜けると、ふと疑問が湧いてくる。この家に来てから、春の家族は祖父しか見ていない。両親は共働きなのだろうか、姿がなかった。

「春のご両親は仕事か? 今日はおじいさんしかいないみたいだけど」

 率直に聞いてみると、春はまるでそれを肯定するような調子で、全く違うことを返した。

「あ、私、両親いないの。小さい頃に事故で死んじゃったから」

 なんでもない世間話をしているようだった。出た言葉はとても重いのに、全く気にしていないふうに、春はその言葉を口にする。だから新は、自分の耳を疑った。すぐに返事ができなかった。

「……ごめん。無神経だった」

「ううん、普通は気になるよ」

 やっと出た謝罪にも、春は「どうして謝るの?」とでも言いたげだ。もう何度も尋ねられて、答え慣れているのだろうか。それとも小さい頃のことだからと、割り切ってしまっているのだろうか。春はいつもどおりに笑みを浮かべていた。

 そこへ突然、千花の明るい声が割り込んでくる。

「家族が少なくて寂しそうだと思ったら、新君がお婿に来れば良いんだよ」

「え、ちょ、千花! 何を大胆なことを!」

 顔を真っ赤にして慌てる新を詩絵は笑い、春は頬に手を当てて恥ずかしそうにしていた。そして新をからかったそのままの表情で、千花は続ける。

「礼陣には、親がいない子って少なくないの。私もお母さんが小さい頃に死んじゃって、今はお父さんと二人暮らしなんだよ」

「そうなのか?」

「うん。でもね、あんまり寂しくはないの。私はご近所さんに仲良くしてもらってるし、良い友達もたくさんいるから」

「千花ちゃんのいうことわかるなあ。私もおじいちゃんと二人だけど、今は寂しいと思わないもの」

 春は頷きながら、千花と微笑みあった。

「友達も……千花ちゃんも詩絵ちゃんも、それから新もいるし」

「春……」

 自分の名前もあがったことで、新は全身が温かくなるような心地がした。春が寂しく思わない要素の一つに、自分の存在もあるということが嬉しい。つい先日、やっと友達になったばかりなのに。あまりに幸せで、ついまた春の手をとりそうになった。

「あと、海にいも遊びに来てくれるし」

 だが、それはこのひとことで止められた。石のように固まってしまった新の代わりに、詩絵が「はいはい、気になるね」と言って、春に尋ねてくれた。

「さっきから名前が出てる、その海にいって誰? アタシたちも聞いたことないんだけど」

「あ、言ってなかったっけ」

 それは盲点だった、と春がぺろりと舌を出す。その仕草が可愛くて新は悶えそうになったが、なんとか堪えて種明かしを待った。

「海にいは幼なじみのお兄ちゃんなの。といっても、一つしかかわらないんだけどね。ほら、心道館っていう剣道の道場があるでしょう? あそこの先生の息子さんなんだ」

 心道館は礼陣の町で知らない者はいないというほど有名な道場で、少年団の剣道教室が週に四回開かれている。春たちの同級生にも、心道館で剣道を嗜んでいる者は少なからずいる。まさかそこの息子が春と幼なじみだとは、詩絵と千花も思っていなかったが。

「しかし、幼なじみかあ……漫画とかだと、恋愛の王道だよね」

「やめろよ、詩絵! お前はどこまでオレを不安にさせる気だよ!」

 詩絵の言葉に不安を一層深めた新だったが、春があわてて手を振り否定した。

「違うよ、海にいは本当にただの幼なじみ。赤ちゃんの頃から一緒だから、兄妹みたいなものなの。海にいもきっとそう思ってるよ」

「なーんだ」

「そっか、そんなに長い付き合いなんだね」

「そうなの。だ、だから……その」

 春は頬を染めて俯きながら、新を見る。必然的に上目遣いに見られることになって、新の胸はどきんと跳ねた。

「新も落ち込まないでね……?」

 とどめはこのひとことだ。新が完全復活するには十分すぎた。

「落ち込んでない、大丈夫だ!」

「そっか、良かった」

 ホッとしたように、春は笑う。それがどういう意味のものなのかを想像して、詩絵と千花はにやりとした。

 新はというと、春の言葉と表情に期待を抱いていた。もしも彼女の言葉が、新を好きになってくれて出たものだとしたら。もう一度告白したら、今度こそ付き合ってくれるんじゃないだろうか。にやけるのを抑えられないまま勉強の再開となった。

「ねえ、新。もう一回訊いていい?」

 始まると同時に詩絵はわからないところが出てきたらしく、新に質問しようとする。さっきまでの新なら鬱陶しげに応じるところを、今度は満面の笑みで返してしまう。

「どうした、詩絵? 見せてみろよ」

「……なんか笑顔が不気味なんだけど」

「失礼だな」

 勉強会の時間は、時折笑い声をあげながら、穏やかに過ぎていく。

 

 六時頃、外も暗くなったので一同は解散することになった。できるだけ同じ道の、明るいところを通って帰るようにと須藤翁が言う。元気に返事をして、帰る方向が同じ三人は須藤邸を出ていった。

 春は三人が見えなくなるまで見送って、家の中に戻る。祖父はそれを、詩絵や千花と同じにやにや笑いで迎えた。

「賑やかだったな、春」

「でしょ? 新も加わって、二年生の時よりもっと学校が楽しくなったの」

「ほう、春の彼氏の下の名前は新というのか」

「えっ?!」

 にやあ、と笑う須藤翁を、春は「違うもん!」と言いながら、顔を真っ赤に染めてぽかぽかと叩いた。

「まだそんなんじゃないんだってば!」

「ほう、『まだ』か」

「もー、おじいちゃんってば!」

 新が彼氏かどうかはさておき、須藤翁は素直に嬉しかった。孫の友達が増えて、笑顔でいる時間が長くなるのは、喜ばしいことなのだ。泣いて暮らしていた、幼い頃のことを思い出せば。

「さて、晩飯を作るぞ、春。今日は彼氏が来たから赤飯でも炊くか」

「だから違うってばー……」

 天国があるのなら、そこに春の両親がいるのなら、今を幸せに暮らしていることを報告したい。春がたくさん友達を作って、毎日笑って過ごしていることを伝えたい。そうすればきっと、彼らも喜んでくれるだろうから。

 

 翌日の学力テストで詩絵が見事に勉強の成果を発揮して大喜びしたのは、また別の話だ。