中学三年生。行事がある度に「中学生活最後の」とか「義務教育最後の」とか、そういう枕詞がつく学年。体は大人に近づいていくのに、心はなかなかそれに追いつかず、もどかしく悩ましいその時期。

 季節は春。山を彩っていた桜は、遅咲きのものがわずかに残っているのみ。爽やかな季節が、ここ礼陣にやってくる。新しい学年にも慣れ始め、心も浮き立つその時期、昼休みの中央中学校の片隅に二つの影があった。

 片方は男子。背は平均的な中学生男子より高く、少し伸びた髪を小さな尻尾のように結っている。もう片方は女子。身長は中学三年生にしては低く、髪は二つに結っておさげにしている。

「スドウさん」

 男子生徒が思い切ったように口を開いた。目は真っ直ぐに女子生徒へ向けられている。頬は紅潮して、心臓はうるさいくらいに鳴っていた。今日こそ秘めてきた想いを伝えるのだと、決心したのだ。絶対に逃げずに、この気持ちを知ってもらうのだ。

「お、オレと、……付き合ってください!」

 言った。言い切った。あとは彼女の返事を待つだけだ。男子生徒は女子生徒から目を離すことなく、相手の声を聴き逃すまいとしていた。

 やがて、女子生徒がためらいがちに声を発した。

「え……ええと、……私……」

 高く細い声が、恥ずかしそうだった。少なくともその時の男子生徒にはそう聞こえた。受け入れてもらえるだろうか、それとも断られるだろうか。頭の中は、彼女の答えがどうなのかということでいっぱいだ。

 だから、こんな答えは予想していなかった。そう、全くもって、そんなことになるとは思っていなかったのだ。

「“スドウ”じゃなくて“ストウ”なんだけど」

 彼女にしてみれば、彼の告白はあまりにも突然で、あまりにも失礼だった。よりによって、ずっと名前の読みを勘違いしていただなんて。

 

 須藤春、中学三年生になって数週間。もうすぐ十五歳の誕生日を迎えるが、これまで生きてきて初めて恋愛の類の「告白」をされた。たぶん。

 なにしろ名前を間違えられていたので、それが本気のものだったのかどうかわからないのだ。だから「付き合い」はお断りさせていただいた。そのときの相手の表情は、ぽかんとしていたような気がする。

 放課後、そのことをクラスメイトで、中学に入ってからの友人である加藤詩絵に話すと、苦笑しながら聞いてくれた。

「名前間違ったからって振っちゃったんだ。相手は気の毒だねー……」

「だって、イタズラかもしれないでしょ? 本当に好きなら、名前間違ったりしないよ」

 春の苗字は「すとう」と読む。よく「すどう」と間違えられるが、「と」の字を濁さずに読むのが正しい。しかし、漢字で書くとどちらなのかわからないので、他人は大抵一度は、告白してきた男子生徒のように「スドウさん」と呼ぶ。

「申し訳ないけど、アタシも最初は間違ったよ?」

「詩絵ちゃんはちゃんと憶えてくれたからいいの!」

 呼ばれる度に訂正し、そうして憶えてもらってきた。それが半ば自己紹介の一部のようになっている部分もあり、春は慣れていたのだが、「告白」という仮にも大事と思われる局面で間違えられるのは納得がいかない。

 何だったのだ、あの男子生徒は――そういえば、名前を知らない。

「……あの人、誰なんだろう」

「え? 知らないの?」

 彼はどうして春のことを知って、どうして告白なんてしてきたのだろう。これまで春の名前を正しく知らなかったのに、どうしてそんなことができたのだろう。

「相手、名乗ってないの?」

「うん、一度も」

「そりゃダメだ……」

 詩絵が呆れたように尋ねるので、春は率直に頷いた。たぶん、春が即座に名前を訂正して彼の申し出を断り、逃げるようにその場から離れてきてしまったせいもあるだろう。相手の名前は、とうとう聞かないままだった。

「どんな人だったの? 印象でわからないかな」

「えーと……」

 訊かれるままに、春は相手のことを思い出そうとした。記憶にあるのは、長髪で、学ランを着ないワイシャツ姿。中学生にしては少々派手にも見えた。もしかしたら、いわゆる不良という部類の人物なのかもしれない。

「なんかチャラチャラしてそうな人」

「印象悪いな」

 それをそのまま詩絵に伝えると、そんな答えが返ってきた。そう、印象はけっして良くはない。名前は間違えるし、見た目は「チャラい」し、春の好みとは違うような気がする。もっとも、初恋もまだの春には、好みの男の子なんていたことがなかったのだけれど。

 情報がこれだけでは、個人を特定するのは難しいかもしれない。この中央中学校は近隣の学校でも大きいほうで、春に告白してきたような男子も少なくはないのだ。加えて春は、彼の顔をまともに見ていない。恥ずかしかったのと、名前を読み間違えられた不満感で、その印象はおぼろげだった。

 しかし、その状況は案外簡単に解決した。

「それ、うちのクラスの入江君じゃないかな」

 ひょっこりと現れた、別のクラスの友人である園邑千花が、そう言って話に加わってきたのだ。

「なんでわかるのよ?! ていうかいつ来たのアンタは?!」

 詩絵の畳みかけるようなツッコミにも動じることなく、千花はにこにこと笑っている。こんなことは日常茶飯事なのだ。今年になってクラスが別れてしまってから、千花は特に神出鬼没さを際立たせていた。春からすれば、そんな詩絵と千花のかけあいが楽しい。もっともそれは、自分が恥ずかしい話題の中心にいなければ、の話だが。

「千花、アンタがその……入江だっけ? 春に告白してきたのがソイツだと思う根拠は何よ。まさか、チャラいってだけじゃないでしょう」

「うん。昼休みが終わってからね、ふらふらーって教室に入って来て、机に倒れ伏して、『ごめんストウさんマジごめんホントごめんなんで確認しなかったんだオレだめだホントだめだ』ってぶつぶつと呪文のように唱えてたから」

「それは確定だわ。ていうかアンタ、よくそれ聞いて憶えてたね」

 春が口を挟めないまま、入江という人物についての話は進んでいく。千花のいうことが確かなら、春に告白してきた男子生徒は彼で間違いないのだろう。それにしても、そんなに落ち込んでいるとは。もしかして、ただのイタズラではなかったのだろうか。――まさか、本気だったのだろうか。

 胸のあたりがもやもやしてきた春の耳に、千花と詩絵の会話が引き続き入ってくる。

「今は多分部活やってると思うよ」

「泣きながら? 何部?」

「弓道部だよ。少年団扱いで、中学生ではやる人少ないから、私もよく憶えてるんだー」

 あの見た目で弓道部か、と春はぼんやり思った。なんだか似合わないような気がする。剣道をやっている幼なじみがいるせいか、「なんとか道」というものをやっている人は、もっと外見からして真面目そうなイメージがあった。

 そんなことを考えていたら、詩絵がぽんと手を叩いて明るく言った。

「じゃあ、覗きに行ってみよう!」

「えぇ?!」

 おそらく、詩絵は春と千花二人の話から、入江という人物に興味が湧いたのだろう。このあとは帰って、実家でやっている店を手伝うだけという彼女には、それを実行できるくらいの余裕があった。

「ねえ、春。向こうは色んな意味で痛いくらい反省してるみたいだし、もう一回くらいは会ってみてもいいんじゃないの?」

 それに加えて、彼女は世話焼きな性格なのだ。春のことも、きっと入江という彼のことも、心配なのだろう。それはこれまでの付き合いで、春もよくわかっているつもりだ。

 でも、春にはそんな余裕はないのだ。まだ頭の中は混乱していて、何が本当で嘘かもしれないのかがわからない。たとえ詩絵や千花を間に挟んだとしても、告白してきた相手とまともに向き合える自信はなかった。

「わ、私も部活だから! もう行くね!」

 だから、このあとの予定を楯にして逃げた。後ろから「あ、逃げた」「詩絵ちゃんが面白がるからだよー」という声が聞こえたけれど、ひとまずは聞こえないふりをした。今日のことを全部忘れられるくらい、今は部活に打ち込みたかった。幸い、春は運動部に所属している。思い切り体を動かせば、少しの間は悩まなくて済むかもしれない。

 

 春がその場から逃亡した後、詩絵と千花は本当に弓道部の活動を覗きに行っていた。詩絵は部活動に所属しておらず、千花はたまたま所属している吹奏楽部が顧問の都合で休みだったため、偵察にはちょうど良かったのだ。

 入江という少年はすぐに見つかった。千花の指さした方向には、ジャージ姿で正座をさせられている、長髪を結った人物がいた。春の印象通り、見た目は軽そうだと詩絵は思った。

「ほほーう。あれが入江か」

「そう。入江新君」

「アラタっていうのね。チャラそうだけど、顔は結構かっこいいじゃん。道着すら着ないで正座させられてるけど」

 中央中学校の弓道部は、この町の弓道少年団のような扱いになっている。中学生が使えるような弓道場が備え付けられているのはここだけなので、他校生の姿も見える。だが、その中でもジャージ姿の中三生らしき人間は入江新だけのようだった。

 あまり実力はないのだろうかと思っていた詩絵に、千花が隣からフォローを入れた。

「今日はうまくいってないんだね。たしか、本当はすごく上手なはずだもの。よっぽど春ちゃんのことが気になって、部活に身が入らないのかな……」

 もしも千花の言う通りなら、このままでは春にも入江新にも良くない。なにしろ自分たちは中学三年生なのだ。中学生活最後の年がもったいないことになるなんて、詩絵は嫌だ。たとえそれが、自分以外の人のことであっても。

「一肌脱ぐか!」

「さすが詩絵ちゃん!」

「面白そうだし!」

「本音漏れてるよ、詩絵ちゃん!」

 ぐっと拳を握り、詩絵は弓道場のほうへ向かった。千花はそんな親友を頼もしく思いながら、そのあとについていった。

 入江新を呼び出すのは、千花がやった。彼と同じクラスなので、普段から顔は合わせている。新のほうもクラスメイトが用事があるらしいと聞いて、すぐに来てくれた。ただ、その表情は怪訝そうで、不機嫌そうだった。

「園邑、何か用? あと、それ誰?」

 ぶっきらぼうな声と「それ」扱いされたことに、詩絵はかちんときた。何か用かと訊かれたのは千花だが、率先して話を進める。

「どーも、はじめまして。C組の加藤詩絵です。ちょっと入江君とお話したいなあと思いまして」

 かすかに青筋を浮かべてはいるが、つとめて笑顔で詩絵は言う。新は詩絵が「C組」、すなわち春と同じクラスだということに気づいたのか、そこに少しばかりの反応を見せた。だが、すぐに詩絵たちに背を向けて弓道場に戻ろうとした。

「オレ、部活中なんで」

 しかしそんな反応は想定の範囲内だ。新が一歩も進まないうちに、詩絵がしかける。

「須藤春に告白したそうじゃないの」

「……っ?! なんでそれを」

 振り向いた新を、今度は千花が追撃する。

「だって、春ちゃんは私たちの友達だもの」

「え? 園邑、須藤さんと仲良かったのか?」

「詩絵ちゃん繋がりでね。結構仲良しなんだよ」

 新の声から毒気が抜けた。クラスメイトの千花が、好きな女の子と仲が良いとわかったせいだというのが明らかで、詩絵と千花はにんまりと笑う。

「春と親しくなりたいなら、アタシらに頼ってみてもいいと思うな。何だったら、春のあんなコトやこんなコトなんかも教えてあげるけど?」

「……!」

 詩絵の言葉に、新は揺れる。振られたとはいえ、それは名前を間違えたためと、たぶん向こうが自分のことを知らないせいだ……と思いたい。それに、新も春のことをもっと知りたい。ここで春の友人だという二人を味方につけられたら、新としても心強い。一人で悶々と悩むよりは、頼れる人がいたほうがいい。

「……手っ取り早く頼む」

「よし」

 入江新は、こうして陥落したのだった。

 話をしてみると、新が春を見初めたのはどうやら三年生になってかららしかった。知っている情報は、春が三年C組所属であることと、陸上部に所属していること、小柄な見た目からは想像がつかないが走るよりも投げる種目の方が得意だということくらいだった。

「春の苗字と交友関係は知らなかったくせに、そういうところは見てたんだね」

「う……」

 詩絵の鋭い指摘に、新は項垂れる。特に名前の読みを間違っていたことに関しては、完全に失敗だったと思っているため、返す言葉がない。千花の「詩絵ちゃん、あんまり入江君虐めちゃだめだよー」という台詞も、追い討ちにしかならなかった。

 だが、その顔を上げさせたのもまた、詩絵だった。

「いい? 『春だけ』を『陰から』見てたのがアンタの敗因よ。もし、まだ春と付き合いたいと思うなら」

 新の目の前に、詩絵の手が差し出される。千花の笑顔も見える。

「まずアタシたちと、友達になりなさい」

 これからの道が、示される。

 きっとそれが、今のところ最善の方法だと、新にもわかった。あんな振られかたをした後に、再度春に直接話しかけるのはとてつもない勇気がいる。間に入ってくれる人がいるなら、まだマシかもしれない。

 それに、この二人は春の信頼を得ているのだろう。これ以上ない味方であることは、疑いようがなかった。

 新は頷いて、応えた。

「……園邑はともかく、加藤はちょっと……」

「蹴り飛ばすよ、この振られ男が!」

「詩絵ちゃん、どうどう……」

 何にしろ、新は伸ばされた手をとることに決めたのだ。好きな女の子のことをもっと知って、近づくために。

 

 翌日、春は寝不足のまま登校した。昨日の部活中も、家に帰ってからも、ずっと告白のことが頭について離れなかったのだ。

 千花の言っていた入江という彼の様子が本当のことなら、あの告白はイタズラではなく本気だったということになる。これまで男の子からそういった好意を向けられた覚えがない春にとっては、衝撃的なことだ。そのことを考えると、とたんに顔が熱くなって意識が覚醒してしまう。結局寝つけたのは、かなり遅くなってからだった。

「春、おはよう!」

「おはよ、春ちゃん」

 そこへ詩絵と千花から声がかかる。多少眠くても、この元気な声を聴けば、春もつられて元気がわいてくる。だから顔をぱっとあげて、明るく挨拶を返そうとした。

「おはよう! 詩絵ちゃん、千花ちゃん、……」

 しかし目の前には、もう一人いた。昨日初めて顔を合わせた男子生徒の姿が、何故か詩絵と千花と一緒に並んでいたのだ。どういうことかわけがわからず、春の頭の中はパニックになった。

「な、なんで? なんでなんで?」

 詩絵に縋りついて、それだけを繰り返す。それを新が「朝から可愛いな」などと思って見ていることなどつゆ知らず。

「まあ、落ち着きなさいって。入江君とは昨日ちょっとお話して、友達になったの」

 春の頭をぽんぽんと軽く優しく叩いてから、詩絵は新の側に立った。

「これで不審人物じゃないでしょ?」

「不審人物って……」

 何か抗議したげな新を、春は初めてまともに見た。昨日はほとんどわからなかったが、よく見ると整った顔立ちをしている。長髪は少し軽い印象があることに変わりないが、この学校にはそんな生徒は他にもいる。全員が全員、不良というわけではないだろう。

 それになにより、詩絵と千花が「友達」だというのだ。悪い人じゃないはずだ。

「……下の名前、教えて?」

 春は新を見上げて言った。その目をきちんと見て、彼のことを知りたいと思った。

 途端に新の目は輝き、頬は紅潮した。そして突然春の手をとると、一息で答えた。

「新です! ぜひそう呼んでください!」

「え、あ、うん……」

「オレも春って呼んでいいですか?!」

「い、いいよ!」

 勢いにのせられるまま、春も返事をしてしまった。あまりのことで、横で詩絵が腹を抱えて笑っていることにも、それを千花があわてて止めていることにも、気がつかなかった。

 さて、新には言わなければならないことがある。やはりこれだけは、ちゃんと謝っておくべきだろう。

「昨日は、名前間違えてごめん」

「ううん、もう気にしてないよ。慣れてるし」

「でも……」

 新は昨日、詩絵たちから聞いたことを思い出す。たしかに春が名前を読み間違えられるのはよくあることだが、春自身は実はそれが不満なのだ。訂正するのが面倒だからということではなく、その名前に誇りを持っているから。

「礼陣の須藤翁」とは、春の祖父のことである。昔から須藤家は竹や木を使った細工物を作る職人として、代々その技を引き継いできた。それが春の、須藤家に生まれたことの誇りなのだった。だから名前を間違えられるのは好ましくないのだ。

「……そうやって、加藤達から聞いたから。悪かった」

「うん、そうだよ。でも、もういいの。だって、……」

 須藤の名前には誇りを持っている。けれども、春という両親がつけてくれた名前にも、同じくらいの思い入れがある。だから、

「これからは、春って呼んでくれるんでしょ?」

 そう呼んでもらえることも、嬉しいのだ。

 にっこりと笑った春を、新は「今すぐ抱きしめたい」という衝動に駆られたが、予鈴と詩絵の「そろそろイチャつくのやめなさい」という台詞でおし止めた。

「それじゃ、これからはお友達としてよろしくね!」

「ああ。よろしくな、春!」

 別のクラスの二人は、ここで離れなければならない。でも、話そうと思えばいつだって話せるようになった。だって、友達なのだから。

「……友達、か……」

 呟いた新の背中を、千花がぽんと叩いた。

「まだこれからだよ、頑張って」

 そして春はというと、

「春、どこまで行くの? アタシたちの教室こっち」

「え、……あ!」

 新に「春」と呼ばれた瞬間、胸が高鳴ったことを意識していた。