街があって、お屋敷があって、森があって、海があるの。
まあ、なんて単純な。それでいて、めちゃくちゃ。
まるで子供の、おもちゃ箱の中みたい。


街の屋敷の地下室で、男が呪文を唱えていた。
シルクハットを深くかぶり、手には光沢の美しいステッキを持っている。ステッキは、まるで指揮棒のように優雅に振られていた。
やがて歌のように紡がれる呪文に合わせて、床が光を放ち始める。いや、正確には、床に描かれた魔法陣が、だ。それを見た男は、「儀式」の成功を確信して、笑みを浮かべた。
男の目的は、悪魔を呼び出すこと。契約を交わし、その力を手にすること。――目的というのは語弊がある。これは本当の目的に向かうための、手段の一つでしかないのだから。
やがて魔法陣の中心に姿を現した悪魔に、どこか小馬鹿にしたような、しかしわずかに期待も持っているような視線をくれつつ、男は言った。
「私に世界を渡る力を与えたまえ」
悪魔は男をねめつけると、どこか諦めたような声で返事をした。
「代償に、お前は死ねなくなる。どんなに望んでも、不老不死の体から魂を切り離せない。生きる苦しみが永遠につきまとうだろう」
「永遠をも手にすることができるのか。それは素晴らしい」
男は悪魔の言葉に喜んだ。どうせ喜ぶとわかっていたから、悪魔は諦めたのだ。呼び出しに応じてしまった時点で、悪魔は自分の負けを認めなければならなかった。負けてどうなるか――この破棄することのできない契約で、男と悪魔は結ばれてしまった。悪魔は悪魔でありながら、この男に仕えなければならなくなってしまったのだ。
「我が名は悪魔ベルゼブブ。……契約は名をもって完了する」
「名、か。……では」
シルクハットをかぶった兎耳の男は、ステッキで床をとんと突くと、口元だけで笑った。
「私のことは、男爵と」
それを聞いた瞬間、男よりも体躯の小さな、少年のような容姿の悪魔ベルゼブブは、この呼び名を絶対に使わないと決めた。

男爵は街の屋敷に住んでいて、多くのことを伝え聞くことができた。噂話を糧にして生活していたといっても過言ではない。街で起こる様々な出来事が、男爵の楽しみだった。
そこへ、強力な悪魔の名を持ちながら、力が半人前であるためにいともたやすく使い魔として呼び出されてしまったベルゼブブ――略してベルは、男爵の小間使いとして働かなければならなくなってしまった。悪魔の召還に成功した男爵にとっては、新しい楽しみが増えたことになる。すなわち、命令をして遊ぶことのできる相手ができたのだった。
「ほう、街でまた殺しがあったようだよ。手斧のようなもので何度も叩かれ、遺体はズタズタだそうだ」
新聞を読みながら、男爵は楽しそうに言う。その声を聞きながら、ベルは屋敷の掃除をさせられていた。本来ならばこんなことは悪魔の仕事ではないのだが、ベルに染みついてしまった性格と、男爵の命令が、この体を動かしてしまっているのだ。
「そうかよ。そんな記事を愉快そうに読むお前は悪趣味だな」
「だって愉快じゃないか。私はたくさんの物事を知っているのに、どういうわけかこの殺しの件に関しては新聞で読むことしかできていないんだよ。私がまだ触れていない物事があるというだけで、この世界はまだ楽しむ余地がある。しかも題材は死だ。私にはもう訪れることのなくなってしまった死なんだよ。それを他者に与える存在がどのようなものか、ベルは気にならないかい? それとも虫ごときには、この気持ちがわからないかな?」
「虫って言うな」
男爵はしばしばベルを「虫」と呼んでからかう。それは普段は少年の格好をしているベルが、蝿などに姿を変えることができるからなのだが、そんな能力も男爵にとっては笑い話にしかならなかった。
どうして自分はこんな男に呼び出され、縛られてしまったのだろう。自らの未熟さを悔いるも、どうすることもできないので、ベルはただただ絶望していた。
一方の男爵は愉しげな表情を変えることなく、ベルに告げた。
「そうだ、ベル。この殺し屋さんに会いに行ってみたいな。どんな表情で、どんな気持ちで殺しをするのか、私はそれを知りたい」
ベルはその言葉に、思い切り嫌な顔を返事の代わりにしてやった。男爵はよくこんなふうに無茶なことを言うのだ。宇宙の成り立ちを調べてこいだの、神に会わせろだの。今回はそれらよりはずっとましではあるが、しかし顔も居場所も知らない殺し屋に、どうやって会うというのか。――不幸なことに、方法はある。
「探しに行けベル。まずは殺しの現場をおさえ、私に知らせろ」
ほら、きた。ベルは深く溜息を吐くと、「嫌だね」と今度ははっきり答えた。
「お前の我儘にはもう散々付き合ってるんだ。これ以上は」
「お前は私の使い魔だろう、ベル。虫ごときが主に逆らうのか」
だが、召還を成功させた男に、結局は抗えないのだ。強い瞳に命じられて、ベルは口をへの字に曲げながら、律儀にも掃除を手早く済ませた。そして渋々と蝿に姿を変えると、屋敷の窓から飛び去っていった。

男爵が毎日読んでいる新聞には、ほぼ連日のように殺しの記事が載っていた。というより、それしか書いていないのではないだろうか。
ベルが不本意にも仕入れてしまった情報によると、殺しがあった場所は街に限られていて、しかしながらいたるところで発生している。大通りに死体が転がっていることもあれば、路地裏にぼろ屑のようになった体が横たわっていることもあるという。とにかく街は殺しの舞台だった。
だから今夜も、飛び回っていれば、どこかで殺しの現場を見ることができるかもしれない。毎日のように不快な思いをさせてくれる、殺戮者の顔が拝めるかもしれない。そう考えながら、一匹の蝿は暗い街を行く。
ガス灯が照らす通りには、しかし誰もいなかった。今夜が雨の晩ということもあるのだろう、街の住人達は建物の中に引きこもっているようだ。――そもそもベルは、この街に人がいるのを見たことがないのだが。けれども街の住人が皆、兎耳の人々であることは知識として知っていた。ここはそういう世界なのだ。
……ったく、雨は冷てえし、あの兎男は悪魔使いが荒いしで最悪だぜ。元の世界に帰りてえな……
ベルは独り言ちながら飛び続ける。別に元いた世界に帰れないわけではないのだが、帰ったところで、どうせすぐに男爵に呼び戻されるのはわかっている。そうでなくとも、馴染みの死神女などに現状を嗤われるのがおちだ。最悪の契約を交わしてしまった以上、帰省に安らぎなど求められないのだった。
そうしてあてもなく街を一周して、そろそろ屋敷に戻ってもいいだろうかと思ったときだった。路上に小さな生き物の影を見つけて、ベルは空中で羽根以外の動きを止めた。
「なんだあれ。……ガキ?」
年の頃は二つかそこらだろうか。冷たそうな石畳の上に、兎耳の子供がぺたりと座っていた。ブランケットのようなものを体に巻き付け、宙をぼうっと見ているようだった。その脇には明かりのついた家があったが、中から誰かが出てくるような様子はない。
「放っておいたら風邪ひいちまうだろ……この家の奴は何やってんだ?」
悪魔のくせに心配性なベルは、家の前までついっと飛んでいく。玄関のドアは開いていた。――何故か、開け放たれていた。
この家が子供の家ならば、何故中に入ろうとしない? 何故大人が外にいる子供を引き入れようとしない?
そして、なんだ。この妙な匂いは。作業中の肉屋より酷い、血のにおいがする。
おいおい、マジかよ。そんな言葉を頭に浮かべながら、ベルは家の中に滑り込んだ。蝿の姿なので、誰にも気づかれずに侵入することができる。
かくしてそこに広がっていた光景は、予想通りというべきか、それともそれをはるかに超えたものであったというべきか。とにかくベルの気分を害するものであったことには間違いない。家具や壁や床、さらには天井に至るまで錆びた鉄の匂いのする真っ赤な液体に彩られ。綺麗だったはずの服を身につけた家主らしき兎耳は、全身を切り刻まれ、頭や腹の中身をぶちまけた無残な姿に。何度も手斧の刃を振り下ろされれば、そうならざるをえなかったのだろう。
死体を見下ろしながら凶器を手にしているのは、被害者と同じ兎耳。全身を返り血で真っ赤に染めた――ベルが最も驚いたのはこの部分だった――ほっそりとした、美しい少女だった。
前髪から覗く虚ろな目からは何の感情も読み取ることはできない。そもそもこの少女は、相手を殺したことに何の思いも抱いていないようなのだ。きっとそれは彼女にとってただの作業。肉屋が肉を解体するのと、何も変わらないのだろう。
息を呑むベルの目の前で、少女は手斧を一旦手放すと、外へ向かった。そして先ほど路上に座っていた子供を抱いて連れてくると、死体や血塗れの部屋には目もくれず、真っ直ぐにバスルームへと歩いていった。
しばらくして出てきた少女と子供は、きれいに体を洗い、ほこほこと温まっていた。ついさっきまで血塗れ真紅の装いだったのに、今は子供ともども白い兎耳に、白い肌。着替えた清潔な服は、この家のもののようだ。
それから少女は台所にあった食べ物を適当にかき集めると、子供に食事をさせた。自分はほとんど何も口にせず、子供の腹だけを満たそうとしていた。一連の動作は流れるように行われ、そのあいだ、少女と子供はただの一言も喋らなかった。

「素晴らしい!」
ベルの報告を聞いた男爵の第一声は、そんな嬉しそうなものだった。話している方は気分が悪かったのだが、そんなことは男爵にとってはどうでもいいことだった。
「殺し屋が少女だったとは! しかも鮮血の似合う美少女だなんて、私の理想そのままだ!」
お前にしてはよくやったよ、ベル。そんなふうに褒められても、ベルはちっとも喜べなかった。見てしまった光景は今でも目に焼き付いて離れないし、少女の虚ろな瞳は恐ろしいというより哀しかった。ベルは悪魔のくせに、そういった感情を持ってしまうのだ。
「虫もたまには役に立つものだな。ますます殺し屋に会ってみたくなった。……情報は十分だ、今度は私自らが彼女に会いに行こう」
「会ったら殺されるぞ」
浮足立っている男爵に、ベルは言葉を投げる。実際、あの少女は相手を殺すことを何とも思っていないようだったから、会えば男爵もきっと手斧の餌食になるだろう。だが、男爵はその言葉を笑ってかわした。
「殺されないよ。だって、私は死なないんだろう?」
不死を得たこの男は、死を恐れない。痛めつけられる可能性すら考えてはいない。ただあの殺し屋少女に会うことだけを望んでいるのだ。ベルは舌打ちをして、「本当にこの男があの少女に殺されてしまえばいいのに」と思った。
けれども一方で、何故少女が殺しをするのかが気になっていた。それだけではない。あの子供は、いったい彼女の何なのだろうか。子供だけは殺さず、むしろ生かそうとしているようだった。殺しの瞬間を見せず、全てが終わってから風呂で体を温めてやり、食べ物を与える。まるであの子供の親ではないか。
……そんな、まさか。親にしては若すぎるっての」
少女はせいぜい十代半ばか、いいところ後半だろう。それが二歳程度の子供をもっているだなんて。……全くありえない話ではないが、いずれにせよ彼女と子供は良い環境にあるとはいえない。誰かを殺すことで生活しているのだとすれば、それが良いことであるはずがない。
ベルは悪魔だが、そう思うだけの倫理観は持っていた。そして男爵には、そこまでの倫理観はおそらくなかった。そもそも悪魔を呼び出し従えた時点で、彼に倫理はないのだ。

翌日の晩、男爵はコートを羽織り、少年の姿のベルを従えて、街に出た。男爵が屋敷の外に出ることは珍しい。出たところで、せいぜい庭の範囲内だ。今夜のように屋敷の敷地から出ることは、ベルが知る限り初めてのことだった。
引きこもっていたにしては堂々と、男爵は夜の街を歩いた。昨夜と違って月の綺麗な晩ではあったが、住民の姿は見当たらない。それもそのはず、もう日付が変わるのも近い、夜中なのだ。多くの人々は寝に入ってしまっている。
けれどもガス灯だけは消えずに道を照らしていて、ベルはこの街を改めて妙なところだと思った。妙といえば、ほとんど屋敷から出なかったわりに街の構造をよく知っている男爵もそうだ。彼が少しも迷うことなく足を運び、止めた場所は、昨夜ベルが子供を見つけた場所、すなわち殺し屋の少女がいた家の前だった。
「まだ血のにおいがする。ここで少女が殺しを……
「よく場所がわかったな」
「新聞に番地が書いてあった」
喜びに打ち震える、という様をベルは初めて、それも見たくもないかたちで目にした。男爵から目を逸らし、現場に向き直る。たった一晩で、そこはずっと廃墟だったかのような佇まいになっていた。開けっ放しのドアの向こうは闇。――事件があったというのに、閉鎖などはされていなかった。新聞に載っていたから、ここで殺しがあったことは公になっているはずなのに。
そんなことだから、男爵の軽々しい侵入も許してしまう。ベルはその後を慌てて追いかけた。止めることはおそらく無理だろう。どうせまた「虫のくせに逆らうのか」などと言われるに決まっている。
家の中は暗くとも、散らかっていて血に塗れたままであることがわかった。昨夜との違いは、そこに死体がないことと、少女と子供がいないこと。あの少女らは、どこに消えたのだろう。
「ああ、惜しい。今夜ならばまだ、ここに留まっているかと思ったのに」
男爵が残念そうに呟いた。
「どうしてそう思う?」
ざまあみやがれ、と言いたいのを隠して、ベルは男爵に尋ねる。
「少女はこの家の住民を殺したあと、子供を連れてきてバスルームへ行ったのだろう? そしてこの家にあったと思われる服を自分と子供で着用し、この家にあったものを子供に食べさせた。まるで巣を奪うために先住者を殺したようだと思ったから、ここでしばらく暮らすんじゃないかと期待したんだが……
「殺し屋が一所に留まるかよ。そんなことしたら、あっというまにお縄だぜ」
「オナワ? ……お前の言っていることはよくわからないが、とにかく私の期待は外れてしまったということだ。彼女は移動している。ということは、また新しい衣食が必要だ。今夜でなければ近いうちに、また殺しをするだろう」
微笑みを浮かべながら、男爵は「次こそは」と言う。そんな彼の表情に呆れながら、ベルは今の会話を頭の中でゆっくり繰り返していた。
この世界には、「悪事を犯せば法に裁かれる」という概念がないのだろうか。ベルが崩した言葉を使っていたとはいえ、そもそも殺しをしたものが捕まるという感覚を、男爵は知らないらしかった。そういえば新聞も、出来事を書きはするが咎めはしていなかったように思う。
この世界に呼び出されて間もないベルには、その全容を掴み切れないでいた。この世界には、まだ謎が多く残っている。この男爵という兎耳の存在だって、ベルは把握できていないのだ。
「とにかくここにはもう用がない。他をあたるとしようか」
そう言ってそこから離れる男爵は、あまりに自由すぎる。誰に見止められるということもなく、悠々と彼の生活をしている。屋敷から出ずに済むのは何故なのだろうか。殺し屋に異様ともいえる執着を見せるのは、本当にそれを娯楽の一つとしてとらえているからなのだろうか。
結局その晩、男爵は街中を歩き回ったが、少女や子供に会うことはできなかった。やけに綺麗な月夜なのに、ベルの心は晴れなかった。

次の夜は霧がかかっていた。この世界の天気は安定しない。窓の外がほとんど見えないような状態なのに、男爵はまたコートを羽織っていた。今夜は手に大きな鞄を持っている。二晩連続で外に出ようとするなど、よほど殺し屋少女に会いたいらしい。
「ベル、行くよ。今日は会える気がするんだ」
「どこからくるんだよ、その期待は」
「ちゃんと理由はあるよ。天気が良くないからさ」
男爵は片手に鞄を持ち、もう片方の手でステッキを振りまわしながら、霧の街に出ていった。ベルは仕方なくそれを追い、再び男爵とともに歩いた。
「君が彼女を見た晩は、雨が降っていた。彼女が先住者を排除して手に入れたかったのは、衣食だけではない。やはり雨をしのぐ屋根も必要だったのだと、私は考えた」
訊きもしないのに、男爵は思いついた「理由」とやらを語った。
「しかし殺しのあいだ、雨の中に子供を放置していたら、風邪を引くだろう。そのままでいれば症状は悪化し、最悪の場合死ぬかもしれない。彼女は子供を大切にしていたそうだから、きっとそんな状況を避けようとするだろう。そのために必要なのは、きちんとした食事と清潔な衣服、そして温かな寝床に、もしかしたら薬も求めるかもしれないね。だから今夜は、きっとそれらを手に入れようとするはずだ」
こつ、と男爵の持っていたステッキが石畳を突いた。その場所は、街に構えられた診療所の前。
「ここが、今夜襲われるっていうのかよ」
「彼女に常識があれば、おそらくはね」
殺しに常識も何もあったものではないと思うが、とベルは口に出さずに呟いた。そのあいだに男爵は持っていた鞄を足元に置き、留め金を外してそっと開いた。
「何してるんだ?」
「もしも目的が遂行できなければ、彼女は今夜、街を彷徨わなくてはならなくなる。そこを私が拾ってやれば、私は彼女に恩を売ることができるだろう」
……どういうことだ」
ベルが真意を聞き出すより先に、鞄の中から小さな生き物がわらわらと出てきた。ジンジャークッキーのような人型をしているが、厚みがある。手と思われる部分で、それぞれがこれまた小さな刃物を持っている。それらはきゃいきゃいと騒ぎながら、診療所のドアに向かっていった。
「ベルは初めて見るだろう。あれはこどもたちだよ。私が創りだしたんだ」
男爵がそう言って微笑む間に、「こどもたち」と呼ばれた小さな生き物たちは、診療所のドアを刃物でつついて、あっというまに自分たちが入りこめるだけの穴を開けてしまった。そしてそこから、虫の大群のように内部に侵入していく。
怪訝な表情でそれを見ていたベルの耳に、次の瞬間届いたのは、悲鳴だった。
「何だ、今の? 診療所の中から聞こえたぞ」
こどもたちが仕事をしているんだよ」
悲鳴を追いかけるようにして、たくさんのガラスが割れるような音が立て続けに響く。きゃっきゃとはしゃぐ子供のような声も混じっている。そしてドアにあいた穴から漂ってくる、血のにおい。今、この建物の中では何が行なわれているのだろうか。
ベルはとっさにドアを開けようと手を伸ばした。だが、男爵に止められた。彼は笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「やめたほうが良い。君も巻き込まれるよ」
「何にだよ!? こどもたちとかいう奴らは何をしている? まさか、この診療所を襲っているんじゃないだろうな?!」
「どうせあとで同じ目にあうんだから、今そうしても変わらないだろう?」
男爵は平然と、ベルの問いを肯定した。これ以上何を言っても無駄だと即座に判断したベルは、蝿の姿になると、ドアの穴から診療所に入り込む。そして音の正体を目の当たりにした。
はたしてそれは、少女が作りだしたものよりも、よほど「地獄絵図」と呼ぶにふさわしかった。細かく――首などの急所から耳の縁や眼球に至るまで切り刻まれた兎耳の住人達が、床に転がっている。薬が入っていたらしい瓶は、ほとんどすべてが砕け散り、中身を床にぶちまけていた。そこで「こどもたち」は楽しそうに声をあげながら、とんだりはねたり、すでにこと切れている兎耳たちをさらに刃物で切りつけたりして遊んでいた。
「こどもたち」は無邪気だった。何の悪意も感じない。本当に彼らは、ただこの建物の中で、自分たちのおもちゃを使って、遊んでいただけなのだ。
ベルは入ってきた穴から外に出て、男爵の前で少年の姿に戻った。そして俯いたまま、「あれは何だ」と改めて問うた。男爵は売り物の説明をする商人のように、大仰な身振りで答えた。
こどもたちは私が創りだした、自分で勝手に動いて、自分の力で生きる、画期的な道具だ。持ち主自身の痕跡を残さずに邪魔なものを排除することができるし、数を増やせば戦争にだって使える。私は世界を越えて、あれを多くの人々に提供したいと考えているんだ。ちょうど今夜試用ができそうだったから持ってきたんだけど、お前の表情を見るに、うまくいったみたいだね。さすがだ」
それから男爵は、診療所に向かって拍手をした。するとドアの穴から「こどもたち」がわらわらと出てきた。入っていったときと違うのは、みんながみんな血塗れになっているということか。彼らはたくさん遊ぶことができて満足だというふうに、鞄の中へ帰っていった。
「さて、これで彼女があてにできるものはなくなった。しばらく見張ってみようか、ベル」
もう、返す言葉も思いつかない。自分が呼び出された目的を知ってしまった今、ベルがしなければならないことはただ一つで、しかしそれはどうにも不可能なことだった。
男爵から、逃げなければ。でないと、この男はこの世界だけでなく、他のあらゆる世界まで破滅に導く。もとよりそのつもりで、この男は悪魔召還の儀式を行なっていたのだ。

深い霧の向こうに、人影が浮かんだ。何かを大切そうに抱えている。それが子供と手斧だとわかったとき、そのシルエットはもう診療所の前に来ていた。
男爵の予想通りに現れた兎耳の少女は、今日も虚ろな目をしていた。けれどもどこか焦った様子で、診療所の看板を確認すると、手斧で木製のドアを叩き壊した。そうして自分が入れるだけの大穴をあけると、中へ入っていった。
けれどもさほど時間が経たないうちに、彼女はまた外に出てきた。当然だろう。診療所の中はすでに荒れ果てて、求めるものは何一つとして無事ではない。とうに全て破壊されてしまっているのだ。
少女の腕に抱かれた子供は、息を荒くしていた。霧に阻まれていてもわかるくらいに顔を赤くしていて、熱があるのは一目瞭然だった。少女は一瞬、その虚ろな瞳を心配の色に染めて子供を見ると、また街を歩き始めた。――男爵の思った通りになったのだ。
「予想以上に美しい少女だ。あれはぜひとも欲しい」
この状況を招いた当の本人はご満悦の様子で、ベルは内臓の奥から苦いものがせりあがってくるのを感じた。
「血に染まればもっと美しいだろうな。……そしてそれを永遠のものとするためには、やはり手元に置いておかねば」
男爵は少女の後を追う。ベルは歩くのも嫌になり、蝿に姿を変えて、男爵を見張ることにした。
少女は背後からの気配に、すぐに気がついたようだった。片手で子供を抱き直し、もう片方の手で手斧をかざして振り返る。少女を正面から見た男爵は、嬉しそうに目を輝かせた。
「美しいお嬢さん、お困りですか?」
労わりなどかけらもないのに、そんな言葉を吐く。少女はさすがに警戒しているのか、それとももとより他人を信じていないのか、手斧を構えたままだ。
「見ればその子は、熱がある様子。このままでは死んでしまうでしょう」
男爵がそう言うと、少女は重いものを抱えていることを感じさせないような素早さで斬りかかってきた。「死」という言葉に反応したように、ベルには思えた。彼女は何の躊躇いもなく他人を殺すのに、腕に抱いた子供の死だけは許せないらしい。
しかし振り下ろされる手斧をひらりと躱した男爵は、少女に口づけでもしようかというほど近づいて囁く。
「でも、私なら助けられる。この子も、貴女も、救って差し上げましょう」
どの口が言うんだ。彼女が欲しいだけのくせに。けれども縋るものが他にない者にとっては、その言葉は神の啓示にも等しいのだろう。少女は男爵に襲いかかるのをやめ、しかし警戒は解かずに、そろそろと手斧を下ろした。
「ついておいで、Ms.Murder
男爵は少女を導く。全てを知っていてもなお貴女を救いましょうという言葉の上澄みの底には、欲望の澱が溜まっている。
だが、ベルは少女が男爵についていくのを止めなかった。男爵が彼女に興味を示しているうちは、他の世界に兵器をばらまくということから意識を逸らしてくれるのではないかと思ったのだ。つまりこの少女は、生贄なのだ。
これでは誰が悪魔かわかりゃしない。

少女が目を覚ますと、そこは見知らぬ屋敷の中だった。体は柔らかなベッドに横たえられていて、その初めての感触に一瞬うろたえる。
いや、それよりもっと重要なのは、大切にしていた子供が傍にいないことだ。少女は飛び起きると、辺りを見回した。するとちょうどこの広い部屋に、誰かが入ってきた。
「よう、起きたか」
それは黒髪の少年だった。この街の住人のように、長い耳を持ってはいない。けれども似たような赤い目をしている。見知らぬ人物に、少女は飛びかかった。「愛用」している手斧もどうやら手元にないようなので、そうすることしかできなかったのだ。
しかし少年は、驚きはしたものの、怯むことなく言葉を紡いだ。
「おい、待てって。オレはお前に何もしてない。もちろん子供にもだ。……子供は隣の部屋で寝てる。熱はすっかり下がって、目が覚めたらすぐにでも飯が食えるはずだ」
少女が掴みかかった手を緩めると、少年は「こっちだ」と手招きした。警戒しながらその後をついて部屋を出て、その隣の部屋に入る。落ち着いた寝息が聞こえて、ようやく少女は安堵した。子供はちゃんと生きていて、昨夜知らない男が言った通りに、救われていたのだ。
――
少女は小さく、唸るような声をあげて、眠る子供に近寄った。そっと手を伸ばして撫でた額は、もう熱くはなかった。少年は、そしてあの男は、嘘を吐いていない。敵だと認識せずとも良さそうだと、少女は初めて他人にそういう判断を下した。
「お前、もしかして言葉が話せねえのか」
少年が問う。少女はそこまで理解してくれるものなのかと驚きながら、頷いた。少年はそれを確認し、「そうか」と呟いて、ほんの少しのあいだ考え込んだ。
……それなら、きっとその子供もまともに喋れないんだろう。わかった、オレがお前に字を、子供に言葉を教えてやる。せめてそれくらいはできるようにならねえと、この屋敷の主人に飼い殺されるかもしれないからな」
「!」
少女は「殺される」という言葉に身構えた。すると少年は息を吐いて、「そういう意味じゃねえよ」と首を横に振る。
「オレはお前と子供に、危害を加えるつもりはない。この屋敷の主人も、そんなことは今のところ考えちゃいないようだ。ただ、お前たちは今後、この屋敷に住むことになる。主人の許可がなければ外を出歩くことはできない」
そういう意味だ、と少年は言う。少女は首を傾げながら、しかし子供と自分の生活がどうやら保障されるらしいということは理解した。これまでとは、生き方が変わるのだ。
これまで、生きるためには何でもしてきた。自分を殺そうとした親は殺し返してやったし、無理やり純潔を奪った男も殺した。産まれた子供を奪おうとした女も殺し、子供を生かすためにたくさん殺して殺して殺した。
「子供の身の安全は絶対に守る。それだけは約束する」
だが、この少年と、この屋敷の主人は殺してはいけない。そうすると、また子供に寒くて苦しい思いをさせてしまうかもしれない。それに、自分ではできない教育を子供に施してくれるというのなら、託したほうが良い。
少女がもう一度頷こうとしたとき、低く、しかし柔らかな声が部屋に響いた。
「ベル、彼女が目を覚ましたらすぐに報せるように言ったじゃないか」
その声は間違いなく、昨夜、少女を救ったものだった。この屋敷まで導いてくれた彼が、少年の背後に立っていた。
「目が覚めたらまず子供に会いたいだろうと思ったんだよ」
「なるほど、気を利かせたつもりか。虫のくせに」
背の高い男は少年を通り過ぎると、少女に手を差し伸べた。そして、優雅に微笑んで言った。
「おはよう、『Ms.Murder』。昨夜はよく眠れたようだね、顔色が良くなっている」
そういえば彼は、昨夜も少女をそう呼んでいた。「殺人者さん」――少女がこれまでにしてきたことを、全て知っているということの証明だった。
「貴女はこれから、この屋敷で暮らしていい。子供の安全も保障しよう。その代り、私の頼みをいくつかきいてもらうことになる」
少女の手――手斧を握りしめ、多くの者を殺してきたその手――をとって、彼は自らの呼称を告げた。
「私は男爵。どうぞよろしく、Ms.Murder
男爵の表情は、あまり見たことはないが、たぶん、嬉しそうだった。

新しいおもちゃを手に入れた子供だ、とベルは男爵の表情を解した。これでしばらくは、よその世界に侵入しようなどということから意識を逸らせるだろう。ただし、少女とこの街の住民には犠牲になってもらうが。
男爵は、少女の「殺し」を、そして帰り血に塗れた美しい少女の姿を見たがっている。これから始まるのは、街の住民を対象にした殺戮だ。少女がこれまでやってきたことは、これからも変わらない。それが子供を生かすためではなく、男爵の娯楽のためになるだけだ。
せめてもの見返りとして、ベルは自分が彼女の子供を守ろうと決めた。この子供だけは、絶対に男爵の手にかけさせない。少しでもまともに育つようにしてやる。それがベルにできる償い、いや、ベルのための慰めだった。
男爵が少女に夢中になっているあいだに、ベルは機を見て、こまめに自分の世界に帰ろうと考えていた。他の世界に影響を及ぼそうとする者がいるということを、もっと高位にある存在に伝えて、どうにかできないか打診するつもりだった。
けれども、それができるまでには長い年月がかかるのだろう。なにしろ偉い方々は腰が重いのだ。技量の足りない悪魔のベルを、他世界の者の使い魔にさせて、放っておくくらいには。
「ベル、何をしている。朝食の支度だ。彼女と、ちょうど今目が覚めた子供に、温かな食事を」
「はいよ。ちょっと待ってな」
ちっぽけで力の弱い、けれども名前だけは大悪魔のものを受け継いだ少年の、密かな戦いが始まった。
少女と子供の、新しい日々とともに。


秩序のない、ごちゃごちゃのおもちゃ箱。
遊ぶときには必要な分だけ取り出して、遊び終わればまた箱へ。
飽きるまで続く、人形遊び。