あの日出会った不思議な女の子のことを、僕は忘れない。
僕に勇気をくれたあの子を、絶対に忘れるものか。
たった数時間分しかない彼女との思い出を胸に、僕は今日も図書館へ向かう。
「こんなに天気が良いのに、屋内に引きこもろうっての?」
…え?
あの時は冬だったから、もっと暖かそうな格好をしていた。今は春だから、それよりも軽装なのはわかる。
だけど変化はそれくらい。あとは何も変わっていない。
変わらなさ過ぎて逆に戸惑い、語尾のイントネーションが上がる。
「ミトシ…?」
あの少女の名を、目の前の彼女は自分のものとして受け取った。
「そうよ。でかくなったじゃない、勇太」
もうすぐ七年経つというのに、彼女は全く変わらない背格好だった。
僕は時の流れに逆らわず、歳もとったし背も伸びた。
あの時ミトシが新しい年をあきらめていたら、現在の僕はいなかった。
だけどミトシはあきらめてもあきらめなくてもそのままだった。
何しろ彼女は「神様」だ。僕にとって不思議な現象も、彼女にとってはきっと当たり前。
「どうしてまた、ここに?」
「ちょっと野暮用があって、そのついでに寄ってみたの」
「また世界を滅ぼしに来たのかと思った」
「あー…それね、あの後兄様に怒られちゃったからナシで」
神様も怒られるんだ。なんだか面白い。
僕がつい笑ってしまうと、ミトシは思い切り睨んできた。
「背だけじゃなく態度もでかくなったみたいね」
「何も言ってないししてないよ、僕は」
「その口ぶりがムカつくのよ」
こんなにも人間らしいのに、僕はミトシを神様だと信じている。
彼女がそう自称し時間を止めて見せたのだから、そうなのだ。
それにずっと体が子供のままだなんて、彼女が人間じゃない証拠だろう。
何があったのかは知らないけれど、こうしてまた出会えたことが嬉しかった。
「勇太、図書館に行くんじゃないの?」
「あ、うん…でもミトシがいるし」
「知り合いに会ったら従妹とか言ってごまかせばいいじゃない」
「一緒に行くんだね…」
突然のことだけれど、僕はもう一度ミトシと共に町を歩くことになった。
あれから随分町の様子も変わったんだよと言うと、ミトシは知ってると返した。
僕が知らない間に見に来ていたかのように、新しく出来た道路をすたすたと行ってしまう。
あの時は行っていなかった図書館の場所もちゃんと分かっていた。ちょっと悔しい。
「こんなところに何しに来てるの?」
「本を読みに」
「本当に?」
僕の本当の目的まで見透かしているようだ。さすが神様。
ミトシに隠し事なんて出来ないと理解し、僕は本を読むふりはしないことにした。
でも周囲の目は気にして、数冊適当に棚から引っ張り出してから席へ向かう。
さりげなく座った席の向かいには、いつものようにその人がいた。
「…なーるほど、ね」
ミトシがにやりと笑う。見た目は子供の癖に、察しが早い。
僕は苦笑して、本を開く。でも読まない。
目は文章ではなく、向かいの席にいる彼女を見ていた。
髪は短めで、服装はいつも落ち着いている。見かけるたびに別の本を読んでいるけれど、どれも僕が知らないもの。
とても清浄で、触れると崩れてしまいそうなイメージ。
ミトシが隣にいることを忘れて、僕はずっとその人を盗み見ていた。
「勇太も思春期の男子なんだね」
「…子供に言われたくないなぁ」
「悪いけど勇太よりずっと長生きよ、わたし」
忘れかけると思い出させる。やっぱりミトシは僕の中から、そして今は傍から離れない。
そうやっていつも僕に勇気をくれていた。
何かあるとミトシを想った。中学校に入学したときも、高校受験のときも。
ミトシがついててくれると勝手に思うことで、僕は行動できた。
そのおかげで学級委員長にもなったし、生徒会役員にもなった。
だけど一つ、たった一つだけ、まだ勇気が足りない。
それが目の前の彼女のこと。
「まだ声もかけられないんでしょう」
「何で知ってるんだよ」
「見てりゃわかるよ」
全てお見通しか。
だったら、またあの時のように勇気をくれないかな。
僕に行動する勇気を、直接くれないかな。
そう思っていたことも彼女には筒抜けなのか、隣でぼそりと呟く声。
「わたしは歳神であって、縁結びは請け負ってないわよ」
うん、僕が甘かったよ。ミトシが何とかしてくれると思ってるだけじゃだめなんだよね。
恋に関してだけは、そうやっていつもチャンスを逃してきたんじゃないか。
僕が深く溜息をつくと、ミトシはやれやれといったように首を横に振った。
「名前負けしてるね」
七年前と同じ台詞を言いながら。
結局今日も何一つ進展させられないまま、僕は帰路についた。
ミトシも後をついてくる。
「母さんに見つかるよ」
「大丈夫。わたしを誰だと思ってるの?」
僕の家で神通力を使うつもりだ。ややこしいことにならなきゃいいけれど。
そういえば、ミトシはどうしてここに来たんだっけ。
たしか用事があるとか言ってたような気がする。
「ミトシ、用はいいの?」
「…あぁ、それね。ちょっと時間かかりそうだから、暫く世話になるわ」
「えー…」
「嫌そうな顔しないでよ」
暫くってどのくらいだろう。僕の家族や知り合いの目を、どうごまかす気なんだろう。
ちゃんと策があるから言っているんだろうけど…
「ただいま」
少し重い気分で家に入ると、母さんが玄関まで出てきた。
いつもは台所から声をかけるくせに、今日に限ってここまで来るなんて。
ミトシのことをどうしようか迷っていると、母さんが先に口を開いた。
「あら、ミトシちゃん連れてきてくれたの?」
「え」
なんでミトシのことを知ってるんだ?
混乱する僕の横で、ミトシは当然のように母さんと会話をしていた。
「うん、お兄ちゃんが駅まで迎えに来てくれたの!」
「そうなの?勇太ってば、ちゃんと言ってくれればおやつを買うくらいのお金は渡したのに」
僕としてはありえないくらい可愛らしく振舞っているミトシと、それを本当に可愛がっている母さん。
この状況は一体なんなんだろう。これもミトシの神通力の一種なんだろうか。
母さんに言われて二階へミトシを連れて行くと、物置にしていたはずの部屋が何故か片付いていた。
「…ミトシ、これどういうこと?」
「わたし言ったじゃない。誰かに会ったら従妹って言えって」
じゃあミトシは今、僕の従妹なわけだ。誰もがそう認識している状態なんだ。
改めてミトシの力をすごいと思う。やっぱり彼女は神様なんだ。
「一度こっちで過ごしてみたかったんだよねー。やっぱり数時間じゃ足りないって!」
「それがしたかっただけなんじゃないの?」
「だけじゃないけど、六割はそんな感じ」
割合多いな。メインであるはずの用事より多いじゃないか。
つまり僕は今、ミトシの宿として利用されているんだ。
「ミトシぃー…」
「なによ。用事が終わったら帰るから、文句言わないでよね。っていうか言わせないから」
相変わらずとんでもない発言をする子だ。
僕が溜息をつくと、彼女はぱっと笑った。
まるで花みたいな笑顔だった。
朝、ミトシに見送られて気がついた。
周囲のミトシに対する認識は「従妹」というだけで、学校に通わなきゃいけないとか、どうしてここにいるのかとか、そういったことは考えの外にあるのだ。
だから彼女は学校に行かないし、家にいることを誰も不思議に思わない。ミトシがそう思わせないようにしている。
こんなに力を使って、またいざというときに発動しなくなったらどうするんだろう。
それとも僕の知らない間に、ミトシも成長したんだろうか。
頭の中をミトシでいっぱいにしていても、足は勝手に学校へ向かってくれる。慣れとは便利なものだ。
僕は自分の成績では合格ラインぎりぎりだと言われていた高校に進学し、思っていたよりも過ごしやすい環境を得られている。
これが全部ミトシのおかげだって言ったら、彼女はどう反応するだろう。
ミトシは歳神であって、学業の神様じゃない。だけど…
「鈴木、何かいいことでもあったの?ニヤニヤしっぱなし」
顔に出ていることを指摘されるほどに、僕はミトシにもう一度会えて嬉しかった。
今度は前よりも長い時間を過ごせることに喜んでいた。
ミトシがいれば何でもできる気がしていたんだ。
生徒会で少し遅くなったけれど、図書館はまだ開いているはず。
今日は色々なことがうまくいったから、あの人にも会えるんじゃないかと思っていた。
ミトシ効果はすごいものだった。自信がなかった英語の解答も堂々と言えたし、生徒会役員会議では意見を臆せず出せた。
今ならミトシがついているから大丈夫だと、調子に乗っていた。何がどう大丈夫なのかは自分でも分かっていないけれど。
図書館に着いて辺りを見回すと、そこにはあの人の姿があった。今日はとても良い日だ。
声をかけてみようか。でも、なんて言えば良い?ずっと見てました…じゃ、怪しすぎる。
どうしてこれだけはうまくいかないんだろう。良い考えが思いつかない。
「学校では完璧だったのにね」
「そうなんだよ、学校では…」
…うん?
「遅いと思ったら、あの子をストーキングしてたんだ」
「違うよ!」
どうしてミトシがここにいるんだ。
しかも学校でのことをどうして知ってるんだろう。
あぁ僕思わず叫んじゃったよ、ここ図書館なのに。
色々な思いが交錯してパンク寸前の僕の前から、あの人はいつのまにか姿を消していた。
「ミトシぃー…」
「わたしの所為じゃないからね」
分かってる。これはミトシじゃなく、僕の不甲斐なさが招いたこと。
あとほんの少し、僕に勇気があれば。
そうすればたった今思いついた言葉を言えたかもしれないのに。
ミトシによると夕飯は魚らしい。鮭の切り身パックが入った袋を振り回しながら、彼女は早く帰ろうとせがんだ。
「どうして学校でのこと知ってたの?」
先ほどの疑問をミトシに投げかけると、軽く放られ返ってきた。
「勇太が何してたかなんて、わたし知らないよ」
「じゃあ何でさっき…」
「機嫌よさそうだったから、学校では上手くできたんだなって思って」
何だ、当てずっぽうだったんだ。でも見事。
僕がてっきり千里眼で見られてたのかと思っていたと言ったら、ミトシはそんな趣味はないと怒った。
図書館でタイミングよく現れたのも、おつかいの帰りに僕を見かけたというだけ。
ミトシが神様であることを知っているせいか、僕は全てが彼女のおかげで、彼女の都合どおりに回っているような気がしていた。
「そんなことより、勇太はいつからあの子のこと好きなの?」
「ちょっと前から。図書館で本を読んでたら、あの子が来たんだ」
「最初はちゃんと読書してたのね」
ミトシは神様だけど、こんな俗っぽい話をする。まるで普通の女の子みたいに。
案外そうなのかもしれない。ちょっと変わったことができるだけで、そこらの子と同じなのかも。
母さんや父さんと話してる時のミトシはどこにでもいる小学生みたいだった。
買い物袋を揺らしながら歩いている姿は、ただの子供だった。
「ミトシって変だね」
「失礼ね!」
その反応も、僕と変わらない普通の人間のものだった。
僕がいない間、ミトシは僕の家族と上手くやっている。
ずっと前から家族だったみたいに…そう錯覚させているからかもしれないけれど、とても自然に。
そして家以外での振舞いも、ずっとこの町に住んでいるみたいだ。
僕の帰宅ルート、つまり学校が終わってから、図書館に寄って、帰路に着くということを知ったミトシは、図書館で僕を待ち伏せるようになった。
しかも母さんに行き先を告げて、心配させないようにしている。
従妹ではなく、仲のいい妹のようだ。もっとも僕には兄弟がいないから、こんな感じなのかな、という想像でしかないけれど。
「…で、あの子に声かけないの?」
この問いかけがなければ、本当に彼女が家族でもいい気がする。
今日も僕は図書館で、あの人を見ているところをミトシに捕まったのだった。
「かけられないよ…いきなり知らない男が話しかけたら、びっくりされるって」
「出会いなんてそんなもんでしょ。それともわたしが手伝ってあげようか?」
この返事は予想外だった。ミトシなら、自分で頑張れって言うと思ったのに。
「い、いいの?」
「いいよ、別に神通力使うわけじゃないし。ちょっときっかけをあげるだけ」
にぃっと笑ってから、ミトシは走り出す。図書館で走っちゃ駄目だって…
「きゃっ」
「わっ」
ほら、言わんこっちゃない。ミトシは人にぶつかって、しりもちをついた。
けれどもそれがわざとであったことが、僕にはすぐにわかった。
ぶつかった相手が…あの人だったから。
「す、すいません…」
初めて聞いたあの人の声は、気をつけなければ聞こえないくらいの細い声。
場所を考えれば不思議でもなんでもないのだけれど、それでもどこか違和感がある。
何故か僕には、ぶつかってきたミトシに対して、あの人が怯えているような気がした。
「ごめんなさい、おねえちゃん…」
ミトシがそう言いながら、僕のほうへちらりと視線を投げかけた。
ここで声をかけろってことか。乱暴なことするなぁ…。
「あ、だ、大丈夫ですか?」
ミトシのお膳立てがあっても、僕の声は裏返って、奇妙な音になる。
それでも初めて、あの人に声をかけることができた。
「…大丈夫です」
一瞬驚いたような表情で僕を見てから、その人はすぐに俯いた。
いや、違う。その人はミトシを見ていた。
そしてミトシも、その人を見ていた。けれどもすぐに目を逸らし、僕の袖を引っ張る。
「おにいちゃん、ぶつかっちゃった…」
この言葉には、さっさと会話を続けろ、という意味が含まれていた。
僕は慌てて言葉を紡ぐ。
「あ、あの、すいませんでした。この子が…」
「い…いえ、構わないです。妹さんですか?」
僕には決して目を向けようとせず、その人は言う。
「従妹ですけど…」
「…そう、ですか」
ただミトシを見ながら、困ったような顔をしている。
ここから先、どうしろというんだ。
「おねえちゃん、おなまえは?」
ミトシが言う。そうか、名前を聞けばよかったんだ。
その人は戸惑った様子で、答えを返してくれた。
「とわ子…央とわ子です」
その夜、僕は上機嫌だった。
「ミトシ、ありがとう!まさかメールアドレスまで聞けるなんて思わなかった!」
「そこはあんたが頑張ったんでしょ。わたしだって、あの後会話が続くなんて思ってなかったわ」
とりあえず、とわ子さんと読書スペースに移動して、少し話した。
周りに人が少なかったからできたことだ。そうでなければ注意されている。
ミトシがぶつかったことをもう一度謝ってから、とわ子さんの持っていた本の話をした。
僕も読んだことのあるそのファンタジーは、とわ子さんが一番好きな本なのだという。
途中でミトシにつつかれ、本以外の話もした。
とわ子さんがこの近くの女子校に通っていることや、僕の一つ下であること、そしてメールアドレス。
今日一日で随分進展したと思う。これもミトシのおかげだ。
「やっぱりミトシは僕の神様だな。君のおかげでいろんなことが上手くいってる」
「勇太の実力よ。わたしは何にもしてない」
なのに、何故かミトシはそっけない態度だ。
僕がとわ子さんと話している間、放っておかれたのが気に障ったのだろうか。
お礼のお菓子も、あまり喜んでくれていないようだ。
「…ミトシ、機嫌悪い?」
「べっつにー」
充分不機嫌そうだ。どうしたら機嫌を直してくれるんだろう。
嬉しいことは、できるだけミトシと共有したいのだけれど。
「そうだ、とわ子さんがやけにミトシのこと気にしてるみたいなんだけど…」
携帯電話に届いたメールを開く。
ぶつかった時から、そして僕が送ったメールにくれた返事まで、とわ子さんの興味はミトシにあった。
名前がミトシで、一応従妹であると、今返したのだけれど…。
「しらなーい。もうこれ以上は手を貸さないから、勝手に告白するなりなんなりしたらー?」
当の本人はこの様子。さすがに僕もカチンとくる。
「その言い方なんだよ。ミトシには感謝してるけど、どうして機嫌が悪いのかわからないんじゃ、こっちだってお礼のしようがないよ」
「お礼なんか要らない」
「ミトシ…」
どう言葉を続けたらいいのかわからなくなっていたら、彼女はさっさと部屋を出て行ってしまった。
結局、ミトシの不機嫌の原因はわからずじまいだった。
首を傾げる僕の傍らで、携帯電話の音が鳴る。とわ子さんからの返信だった。
「…へぇ」
不思議なこともあるものだ。
ミトシは、とわ子さんの知っている女の子と名前が同じで、見た目もそっくりなんだという。
もしかしたらミトシは、僕の知らないところで、僕以外の人にも接触していたのかもしれない。
それがミトシの不機嫌の原因に繋がるのだろうか。…まさかね。
とわ子さんがミトシの機嫌を損ねそうな人だとは、とても思えない。
事態がおかしくなったのは、次の日の朝だった。
学校が休みなので、僕はのんびりと仕度をして、週末課題なんかをやっていた。
「勇太」
呼ばれて振り向くと、ドアの陰からミトシが顔だけ出していた。
「…どうしたの?退屈?」
僕がそう言うと、彼女は部屋に入ってきた。なんだか神妙な顔をして。
「とわ子のことだけど」
「とわ子さん?」
昨日の続きでもするんだろうか。もう不機嫌なミトシは見たくないんだけど。
それとも、機嫌を直したから話をするんだろうか。いや、表情からしてそんな感じじゃなさそうだ。
「どうかしたの?」
「…あの子に、あまり優しくしないでね」
「どうして?」
ミトシらしくない発言だと思う。僕のことはあんなに助けてくれたのに、とわ子さんに優しくするなだなんて。
僕の疑問はそのまま顔に出ていたようで、ミトシは一歩引いた。
けれどももう一度、はっきりと言った。
「優しくするだけなら、あの子のためにならないの。それに勇太のためにもならない。…助けるなってことじゃないよ」
ミトシの言っていることは、僕にはわからなかった。
助けるのはかまわないけれど、優しくはするなって…どういうことなんだろう。
「…それだけ言いたかったの。それじゃ、わたしは帰るから」
「ま、待ってよ!ちゃんと説明してくれなきゃわからないって!」
「説明したところで、勇太が信じてくれるとは思えない」
「説明されてないのに、そんなことわからないだろ!」
ミトシだけが知っていることがあって、それが僕のとわ子さんに対する振る舞いに関係してくるのなら。
僕はそれを、聞き出さなくちゃいけない。
それに。
「ミトシが神様って時点で、僕に信じられないことはないよ」
もう、僕には何も疑う余地はない。彼女の存在を認めてから、多くを肯定せざるをえなくなったのだから。
「…じゃあ約束して。聞いたらわたしの言うとおりにするって」
聞く前からこんな条件を提示してくる、めちゃくちゃな彼女だけれど。
僕達人間と、ほとんど何も変わらない女の子だけれど。
「聞かせて欲しい」
彼女は確かに、神様だ。
「とわ子とわたしはね、…あれが初対面じゃないの」
予想していた通りの言葉で、少し拍子抜けした。
あんな条件を出すくらいだから、もっと重大なことなのかと思っていた。
「なんだ、そんなこと?」
「最後まで聞いて」
いつか見たものと同じ、ミトシの真剣な表情。
従わないわけにはいかず、僕は再び口を閉じた。
「とわ子は、この世界に嫌気が差している。現実に向き合いたくないと思うほどに…」
ミトシが言うには、とわ子さんには友人と呼べるような人がいないらしい。
それもあって、いつこの世界を捨ててもおかしくない、不安定な状態にあるようだ。
その言葉が意味するところを、僕は自分の言葉に直したくなかった。
「だからこそとわ子は、わたしたちが本来いる世界にも、時々訪れることができる。そしてわたしたちは、それを利用させてもらうことができる」
ミトシの見ている「世界」がどんなものかはわからないけれど、僕の考えるそれとはスケールが違うということは理解できる。
そしてとわ子さんが知っている女の子は、確かにミトシだったのだろう。
「でも、このままじゃとわ子はわたしたちの世界に逃げ続けてしまう。この世界では生きられなくなってしまうかもしれない」
今の僕には、ミトシの言葉をありのまま受け止めることしかできない。
理解しがたい、大きすぎる話ではあるけれど、それはきっと彼女の事実で、疑いようのないものなのだろうから。
「とわ子がこの世界で生きていくためには、現実と向き合う勇気が必要なの。それを勇太から得られればって思ったんだけど…」
「…けど?」
「優しくするだけじゃ、それはできないの」
――そのとき脳裏によみがえったのは、僕とミトシが出会った、あの日。
ミトシは僕に優しくしてくれたわけではない。
でも、助けてはくれた。
もしもあの時、ミトシがただ僕に優しいだけだったら、今の僕はあっただろうか。
今度は僕が、ミトシになる番…?
「心配しないで、ミトシ」
「心配よ。勇太はあの子を受け止められる?あの子の逃げ場を変えられる?」
「ミトシは僕を変えてくれたよ」
僕より小さな神様の、その頭を撫でる。
ばちあたりかな?…大丈夫だよね。
「ミトシが変えてくれた僕だから、とわ子さんが変わる手伝いもきっとできる。
もちろん本人がそう思わないとできないけれど、せっかくミトシが機会をくれたんだ。やるしかないよ」
そのためには僕がとわ子さんに信頼されないといけないかー、と笑って見せる。
小さく「そうよ」と呟く、ミトシ。
「いい?わたしが手伝ってやったんだから、絶対とわ子を幸せにしなさいよ!
あの子が信頼できるような友達にならないと、承知しないからね!」
「わかったよ。約束する」
ミトシが僕の支えであるように。
僕がとわ子さんの支えになれたら。
それはきっと、とても素敵なことだと思うから。
課題を終わらせて下に降りたら、母さんがケーキを作っていた。
すでに焼きあがったそれに、母さんは首をかしげながら包丁を入れていた。
「どうして作りたくなったのか、わからないのよね」
そう言って切り分けたケーキは、母さんと父さんと、それから僕の三人分。
多分ミトシのために作っていたんだろうな。だから、彼女がいなくなった今は、その行動の意味を忘れているんだ。
突然現れて、突然去ってしまう。
いつかもそうだったな、と思いながら、ふと笑みがこぼれた。
またいつでも来れば良いのに。従妹でもなんでもいいから。
僕がしっかりやっているかどうか、時々は見にきてよ。