感謝しているから、その分お礼をしなければ。
ついこの間覚えたばかりにしては綺麗な字で、彼女はそう書いた。
その「お礼」がまともなものなら何も言わないのだが。

「またなの?」
濡露の目つきは途端に真剣なものへと変わる。
さっきまでどうでもいい話

――それこそ笑い飛ばした後ごみ箱に捨ててしまっても問題のないような――

をしながらベルをからかっていたのに、彼女のことになるとまるで別人のようになってしまう。
いや、正確には「彼」の話だった。
「そう、また殺させた」
ベルは息を吐いて、目を伏せた。
使い魔として主人に反抗できないことが特に腹立たしく思うのは、決まって彼女が関わった時。
兎男爵が、拾った少女に誰かを殺させた時だった。

男爵は彼女を「Ms.Murder」と呼ぶ。男爵以外誰もそう呼ぶ気にはなれない。
けれども彼女に名前はない。だからベルも、「お前」とか「アイツ」などという表現を使う。
元々親を殺して逃げ、その後も次々と誰かの命を奪ってきた少女だった。

男爵は寧ろそれを気に入り、彼女を「保護」している。
そしてことあるごとに殺しを依頼する。
それは相手が気に入らないからではなく、鮮血を浴びる彼女が見たいから。自分が最も愛する彼女を作り上げたいから。
彼女は男爵の頼みを、自分と子供を助けてくれた恩返しとしてきいていた。

それが恩返しになると信じていた。

報告を聞いて、濡露は額をおさえる。自分には何もできないことを悔やむ。
「うさこには判らないんだわ。今までそうすることで生きてきたし」
今の彼女には何を言ってもわからない。自分がいるのが籠の中と知っていて、その戸が開いていても、彼女は自分ではそこから出ない。
もちろん男爵は彼女を手放す気などない。いつまでも飼っておいて、自分のためだけに生きることを望む。
「濡露から説得できないのか?」
「無駄よ。境界の庭にあの子が来れるのは、あの兎男が扉を開いてくれるからだもの。監視付きで何を言えっていうの」
その前に彼女は濡露を信じなくなるかもしれない。

なにしろ彼女の男爵への信頼は計り知れないものなのだから。
彼女が混乱して男爵のもとへ戻ろうものなら、もう二度と外へは出されない。

完全に彼女の世界は閉じられる。
逆に彼女の自由を奪うことにもなりかねない。
現実を理解すれば食べられる、か」
「何だよそれ」
「こっちの話よ。でも解るでしょう、あの子が本当のことを知ればアイツに剥製にされてしまうってこと」
「どうせ知らなくても、そのうちお人形さんだ。いずれそうなるか、すぐにそうなるかの違いだけだろ」
今想定される彼女の運命は一つ。老いず美しい姿のまま、不老不死の男のコレクションに加わる。
それを回避し別の未来を用意することは、ベルや濡露には難しい。
「歳神女に時間止めてもらって、こっちの世界に避難させることは?」
「無理に決まってるでしょう。第二世界の住人が第一世界で生きることは不可能よ」
「第三世界に送り込むのは?」
「異端のものとして殺されるか、良くても迫害されるのがオチね」
やはり打つ手なしか。ベルは席を立ち、時渡の扉を開く。
「アイツの様子は見続ける。何かあったらまた報告するぜ」
「頼んだわよ」
扉の向こうへ消えていくベルを見つめながら、濡露は再び考え始める。
死神が人を生かそうなんて、馬鹿なことを考えているのは解っている。
それでも少女には、幸せになって欲しかった。
「もしかしたら今が幸せなのかもしれないけどね
空になったグラスの向こうに、歪んだ景色。
それは明かりに照らされ、きらきらと輝いていた。