本を読むのは好きだ。他にやることがなかったから、という理由から始めた読書だったけれど、物語を楽しむのは面白い。非日常の世界――リアルな描写もわたしが経験したことのないものであれば非日常だ――の体験は、心を満たしてくれるような気がする。いつもはからっぽな、わたしの心を。
普段は他人に追従し、自分個人の考えを持つことのないわたしだけれど、本を読んで面白いと思う気持ちは本当だと言える。ただ、他の人に「それは面白くない」と否定されてしまえば、「そうだよね」と従ってしまうかもしれないけれど。そんなことがあれば、もう二度と読めなくなってしまうかもしれない。
だからわたしは極力、自分が好きだと思ったもの、素敵だと感じたものは、隠すようにしている。周りに合わせていれば生きていくには間違いないからと、周りの好きなものをわたしの好きなものにしようと、そういうことにしておこうと振る舞っている。
長らくそんなことだったわたしだけれど、高校生になって色々なことを話せるように……いや、聞き出されるようになってきたせいもあって、つい口を滑らせてしまった。
朝、学校で時間を設けて、読書をする。定期テストが近くなると自習時間になるけれど、普段は堂々と好きな本を読める、僅かな時間。でも、わたしは本にしっかりとカバーをかけて、それが何であるかは見えないようにしている。
「から子は朝、何を読んでいるんだい?」
梧君がそう尋ねるのも、特段変なことではない。わたしがその時間と家にいる時以外は本を開かないようにしているというのもあって、気になったのだろう。そうでなくても、梧君は「知りたがる」。
わたしの名前は空子、「から子」ではなく「そら子」だ。でも梧君はわたしを「君はからっぽだね」と言って、から子と呼ぶ。
「ええと、これは」
口が滑ったとはいえ、一瞬は言葉に詰まった。言って良いものかどうか。否定されたらわたしはもう、この本を読めなくなるかもしれない。でも一方で、梧君なら、わたしの「本質」を一目で見抜いたこの人なら、とも思った。隠し事をしなくてもいいのではなく、隠しても仕方がない人なのだ。
わたしは本のタイトルを梧君に教えた。すると彼にしては珍しく、作者と他の著作も訊いた。もう何年もその人の作品の隠れファンだったわたしは、自分でもびっくりするほど饒舌に、簡単な内容も付け加えて答えた。梧君はそれを頷きながら聞いて、笑った。
「から子はよっぽどその人の作品が好きなんだね」
「う、うん……。誰にも言ったことなかったんだけど、好きなもののことを話すって、楽しくて嬉しいんだね。聞いてくれてありがとう、梧君」
大好きな作品のこと。描かれている物語やその情景、登場人物の表情や行動、わたしを励まし勇気づけてくれるような言葉の数々。それを口にし、誰かが耳を傾けてくれることは、思った以上に幸せなことだった。
誰に従ったわけでもない、「わたしの好きなもの」。これさえあればわたしはからっぽじゃないと、そう言えるのかもしれないと、梧君に対しても胸を張れるような気持ちだった。
「僕も読んでみるよ。から子との共通の話題が欲しいし」
「うん。そうだ、梧君の読んでる本も教えて。わたしも読んでみたいな」
「僕の? ……ごめん、僕は読んでいないんだ。朝読書の時間は、こっそり参考書を見てる」
「あ、そうなの……
そういう子は梧君以外にもいるから、問題ではない。でも、せっかくその時間があるのに本を読まないのはちょっともったいないなと、わたしはどうしてもそう思ってしまうのだった。

梧君に話せたのだからと、わたしは梓ちゃんと佳純ちゃんにも、お昼休みに本の話をしてみた。何か読まなきゃいけないから惰性で適当な本を読んでいる、という梓ちゃんだったけれど、わたしの話は聞いてくれた。佳純ちゃんはもともと読書家を自称しているだけあって、作家さんの名前も著作も知っていて、以前に読んだことがあるという作品の話で盛り上がった。もっとも、佳純ちゃんがたくさん話してくれたおかげで、わたしが口を挟む隙はほとんどなかったのだけれど。でも聞いているだけで作品の内容を思い出せて、楽しかった。
「二人がそんなに良いっていうなら、読んでみようかな。図書室にある?」
「あ、わたしが貸すよ。何冊か持ってるから、佳純ちゃんが言ってたのを持って来るね。あ、でもネタバレしてるから楽しめないかな……
「いいよいいよ。あたし、映画とか結末知ってても観られる方だし。ストーリーを知ってるなら、その演出とか音響を楽しめばいいじゃない? 本もさ、ほら、文体とか装丁とかは、まだ知らないわけだから。貸してくれるなら嬉しいな。ただ、読むの遅いから、長期間借りちゃうかも」
梓ちゃんの楽しみ方には好感が持てる。そうやって視点を変えることで、本は何度でも楽しめるんだと、あらためて気づかされた。佳純ちゃんも頷いて、「梓ちゃん、意外と頭良いのね」と言う。「意外と、は余計」ととがらせた口で、梓ちゃんは紙パックに刺さったストローを吸った。
これからはもっと、好きなものの話をしてもいいかもしれない。それからわたしは、梓ちゃんや佳純ちゃんの好きなものももっと知りたい。みんなで好きなものについてお喋りできるというのは、みんなのことを知れるというのは、幸福な時間だということがわかった。
「空子ちゃんが梓ちゃんに本を貸すなら、私もおすすめを空子ちゃんに貸そうかな。ちょっと昔のSFなんだけど……
「SF? 佳純ちゃんが読んだのなら面白そう!」
「この流れでいくと、あたしは佳純ちゃんに貸さなきゃいけないの? 何かあったかなー……
「無理しなくていいよ。梓ちゃん、あんまり本読まないんでしょ? それより、映画の方が詳しそう」
「引っかかる言い方だけど、まあ、おすすめの映画ならなくはない。ホラーは大丈夫?」
中学生の時はできなかった、わくわくするような会話。わたしも入っていくことのできる話。そういう時間を一緒に過ごせる友達が、わたしにもできたのだと思うと、表情が緩んでしまうのを抑えきれなかった。

好きだ、と思ったものを、それはおかしい、と否定されてしまう。話そうとした傍から、自分は嫌いだ、と言われて話を持って行かれてしまう。そのものへの悪態の方向へ。そんな経験をしてきたから、わたしはそれが怖くて、ずっと好きなものの話をすることを避けてきた。好きだと思ったら隠そうとしてきた。そうして、相手の好きなものに合わせようとした。
アイドルの話、最新曲の話、流行のファッションの話にはなかなかついていけなくて、ただただ相手の話を聞いていた。「空子もそう思うよね?」と言われたら、よくわからなくても頷いた。あとでつじつまが合わなくなって、「嘘つき」と、「都合がいい」と罵られると、知っているのに。
でも、もしかしたらわたしも相手の話に興味を少しでも持って接していたら、何か違ったのかもしれない。わたしが本の話をするのに、梧君や、梓ちゃんと佳純ちゃんが付き合ってくれたように。佳純ちゃんが梓ちゃんの好きな映画の話を聞いたように。
そうしたら、世界ももうちょっと開けたかもしれないな、今頃アイドルをテレビで見てはしゃぐようなわたしがいたのかもしれないな、と思った。想像してみると、ちょっと恥ずかしくて、でもけっしてつまらないことではなかった。
ああ、でも、そんなわたしなら。梧君が近づいてくることはなかったのだろう。彼は、わたしが「からっぽ」だから興味を示してくれたのだ。
梓ちゃんに貸すと約束した本を開いてみる。少し切ない物語が、優しい言葉で綴られて、笑顔と涙を一緒に誘う。わたしに幸せをくれる。からっぽだった心が、言葉で満たされていく。梓ちゃんもこんな気持ちになるのかな、佳純ちゃんもこんなふうに思ったのかな。――梧君にも、この気持ちは伝わるのかな。
梧君に本のことを尋ねはしたけれど、正直、彼がどんな本を読むのか、わたしには想像がつかない。人の内面を覗き込むのが得意な彼のことだから、たくさんの情報に触れて、それを分析していそうなものだけれど。だとしたら、ノンフィクションとか、随所にヒントが鏤められた推理小説とかが好きかもしれない。
わたしは梓ちゃんに渡すものとは別に袋を用意して、本棚から昔に書かれたとても有名なミステリー小説を取り出して、詰めた。梧君はもうとっくに読んでいるかもしれないな、それでも話はできるな、と思いながら。

土日を挟んで、月曜日。本を入れたおかげで少し重くなった鞄を提げて、わたしは駆け足で学校に向かった。こんなに楽しみな週明けが、今までにあっただろうか。お母さんにもにやにやしているところを見られてしまった。
「良いことでもあったの?」
この問いに素直に頷けることが、どんなに嬉しかったか。わけを話せることが、どんなに幸福だったか。仕事で忙しいお母さんと良いことを話せるなんて、素敵な週末だった。
そんな話をしたら、梓ちゃんや佳純ちゃんは「甘えてる」なんて言うかな。普通は親と話すことなんかないって、おなじみの愚痴を聞くことになるかもしれない。でも今日は、それを止められる術がある。わたしはわたしの話で、二人を笑顔にさせられる自信がある。
学校で二人に会ったら、まずは持ってきた品物の交換。わたしは梓ちゃんに本を、梓ちゃんは佳純ちゃんに映画のDVDを、佳純ちゃんはわたしに本を。ぐるりとまわるのが面白くて、まだ作品の中身に触れもしないうちから、またやろうね、なんて言葉が飛び交った。
にやけるのを抑えられないまま自分の席に戻ると、後ろから浦家君が話しかけてきた。
「稲田さん、機嫌いいね」
「おはよう、浦家君。あのね、おすすめの本とか映画とかを交換してたの。浦家君は何かある?」
「俺はゲーム専門。朝読書の時間もこっそりゲームやってる。稲田さんはゲームやらないでしょ」
たしかに読書の時間、真後ろから聞こえてくるのはページをめくる音じゃなくて、小さなボタンを押すような音だった。わたしはゲームはあまりやらないけれど、ストーリーが面白いものなら興味が湧くかもしれない。そう浦家君に返そうとしたら、もう彼は画面の中の世界に没頭していた。
苦笑して前を向いたところで、声が降ってくる。
「おはよう、から子」
いつまでたっても直してくれない、その呼び方。
「梧君、おはよう」
でも彼が持つトートバッグから、よく知っている背表紙がいくつも見えた。わたしが好きだと言った本の著者の名前が、たくさん。わたしが持っていないものもある。
「それ、どうしたの?」
「読んだよ、全部。図書館で借りられるだけ借りた」
「それ全部?!」
なかなかの量だと思うのだけれど、梧君はまさか、この週末で全部を読んでしまったというのか。もともと頭の良い人だし、行動力もあるけれど、そういうこともできてしまう人なんだ。彼にはいつも驚かされてしまう。
「ど、どうだった?」
「その話は放課後にでも。昼はどうせ、女子だけで集まるんだろう」
本の話ができる。早く話したい。わくわくしながらの朝の読書はいつもより数段面白く感じたし、授業中もちっとも退屈じゃなかった。梧君は、あの物語をどう思っただろう。彼でも笑ったり、泣いたり、するんだろうか。感動して涙が止まらなくなるような話もたくさんあったはずだ。でも、梧君が泣くのは想像できないな……などと考えているうちに、時間は過ぎていった。
放課後、梧君はわたしを空き教室に呼び出した。彼のことだから、そこが部活にも使われておらず、放課後には誰もいなくなることを、調査済みなのだろう。
梧君に渡そうと思って持ってきた本を抱えて教室を出ようとすると、しかし、低い声に呼び止められた。
「稲田、待て」
「新見君?」
振り返れば、不機嫌そうな顔があった。でもこれは新見君のいつも通りの表情で、今は彼が怒っているわけではないのだとわかる。
「どうしたの、何か用事でも?」
「梧に呼び出されたんだろ。……行かないほうが良い」
彼が、わたしが梧君と一緒にいるのを止めようとするのも、よくあることだ。新見君は梧君が好きではない。その原因にわたしも関わっているので、好きになれとは言わないけれど。
「ええと、どうしてそう思うの?」
「梧が大量に本を持ってた。同じ作家のものばかり。何か企んでるんじゃないか」
「それは、先週にわたしがその人の書いた作品を好きだって言ったから……。梧君、休みのうちに読んでくれてたんだよ。これから本の話をするの」
「あいつは本の話なんかしやしない」
からっぽな、人に流されやすいわたしだけれど、さすがにこの物言いにはちょっとムッとした。わたしがずっと楽しみにしていた時間を、どうして邪魔するようなことを言うんだろう。新見君はいつも不愛想だけど、梧君のことは好きじゃないって知ってるけど、こうして行く手を塞がれるまでの理由はあるのだろうか。
「どうしてそういうこと言うの? 梧君だって、本くらい読むよ。読んだら話をしたくなるはずだよ」
わたしにしては珍しく言い返したのに驚いたのか、新見君は半歩後退って、俯いた。そこにさらに訴える。
「わたしが梧君と本の話をしたいの。せっかくの共通の話題で、機会なの。新見君にはわからない?」
……でも、それなら、なおさら」
まだ何か言おうとする新見君を、わたしは無視してしまった。早く梧君のところに行かなければ、時間がもったいない。あれだけの量の作品を読んだのだから、話すことはたくさんあるはずだ。いつもはちゃんと言うはずの「さようなら」も、今日は言わなかった。
せっかくのわくわくが、新見君のせいで少し萎んでしまった。でも大丈夫、あの本の話をすれば、すぐに復活できる。そう思って、わたしは空き教室の戸を開けた。駆け足で来たから、少し胸が苦しかった。
「やあ、から子」
梧君は本を開いて、待っていた。ページの端から付箋が覗いているのが見えた。

わたしがこれまで、図書館で借りたり、本屋さんで買ったりして読んだ、たくさんの本。一番好きな作家さんをあげるとしたら、絶対にこの人の名前を一番に言うだろうと思っていた、その人の著作。描かれている世界は、切なく苦しいことも、優しく温かい文に救われる。わたしはその世界に癒しと、日々を乗り越えていける力をもらったものだった。
「全部目を通して、著者がやっているSNSの投稿も見た。SNSは、から子は知ってたかい?」
梧君が携帯電話を操作しながら、こちらを見る。
「知ってたけど、まだ見たことない……。ホームページは、新刊をチェックするのに覗いたことがあったけど」
「ふうん、そう」
本を全部読み、作家さんから発せられる情報までチェックするなんて、そんなに好きになってくれたのだろうか。だとしたら話のし甲斐がある。わたしが梓ちゃんや佳純ちゃんにもまだ話せていない、本の感想や感動した箇所について、たくさん語りあえるかもしれない。
そう期待したのだけれど。
「いくつかの著作に共通している点は、母親という存在が何度も敵対するものや主人公らに何らかの危害や心的外傷を与えるものとして描かれているということだった。人々に支えられることでやっと生きている、自分勝手な行動をとる、という描かれ方をしているものもあったね。対して父親は、家族を守るもの、優しい存在として描かれているけれど、登場することは少ない。そしてSNSなどに見られた著者本人の体験談にも、母親は子供の言うことを解さないもの、子供を無理やり思い通りにしようとするものとして書かれがちなのに対して、父親のことはほんのわずか、それもかなり美化されたような思い出が綴られている。さらには物事の正しさの多様性を解いておきながら自らの意見は押し通そうとする強引さも、そこから見えた。随分と自分の信じたものにこだわるタイプなのかな、意見があればわざわざ引用して、反論を試みている。それはまるで、著者が敵として描いた母親を彷彿とさせた」
梧君の言葉の波が、わたしを一気に襲った。わたしが戸惑っているうちに、さらに重ねてくる。
「この人の態度および主張は、いわゆるダブルスタンダードというもののようだ。結局は全て自分を肯定するものであり、作品世界も自己肯定に基づいて構成されているように見受けられる。母親に対するコンプレックスが投影された世界から、最終的には人々が救われるような物語は、似たような境遇の人々や、もしかするときれいな言葉で包みこむことでそうではない人々の心も動かすのかもしれないけれど、結局は自己愛の塊だ。可哀想な自分をベールに包んで著すことで救済している。誰かのため、使命感、なんて言葉を何度か見かけたし、読者も自分が救われたなんて宗教じみた感想を抱いているようだけれど、単純な現実逃避、まやかし、自己愛だ。他人を否定せず正しさを多面的に見ようと言いながら自分の主張が一番正しいとしているのは、あまりにわかりやすい矛盾じゃないか。だが狂信者はその事実を見ようとしないで、その人こそが正しいと思い込んでついていく。恐ろしい話じゃないか」
わたしは何か言い返さなくてはならないのかもしれない。そんな話がしたいのではないと、そもそも梧君は本当に作品を読んだのかと、もしかしてまったく別のものを見てはいないかと。でも、少しも声が出なかった。わたしの心の中は、梧君の言葉でどんどん埋め尽くされていく。
「でも作家だって人間だ、神様じゃない。だから僕は矛盾を許そう。だがから子、君が狂信者になっていくのだとしたら、それは見過ごせない。これら全ては正しくないと、君にわかってもらわなくてはならない。君はこんなまやかしで心を満たしたような気になっていたのかもしれないが、結局は自分では何も考えていないのだから、からっぽのままだ。僕が君を満たそうとしているのに、こんな偽の経典に寄り掛かろうとする意味はないだろう」
「そんなこと、考えたことも……
ない、と言ってしまったら。わたしは梧君の言葉を認めてしまうことになりそうでできなかった。これまでわたしが大切にしてきたはずのものは、誰かに言われてそうしてきただけなのだと、そう思いこまされてきたのだと。
ああ、違う、そんなことを言いたいんじゃない。わたしは、本の話を。ただ、温かな作品世界の話をしたかっただけなのに。
「著作物は人の心を表す。作り手の心も、受け手の心もだ。本を薦めあっていたようだけれど、それは誰かに自分をわかってほしい、受け入れてほしいという願望を行動にしたものだ。薦めたものを否定され、自ら全てを否定された気分になったことはないか? から子ならあるだろう。そして良いと言われれば、それが自分の作ったものでないにもかかわらず、満足感と自己肯定感を得るだろう。それに慣れていないから子は、この数日で相当浮かれていたんじゃないか?」
浮かれていたのはたしかで、その願望とやらも否定できない。俯きかけたわたしの目に、本に貼ってあった付箋が飛び込んでくる。「コンプレックス」「自己肯定」「救済策」といった書きこみがあった。……たしかに、梧君はこれを全て読んだのだ。いや、目を通したのだ。
梧君は、本を読まない。その向こう側を推測する。彼が見ているのは物語ではなく、それを生み出した人間であり、生み出すに至った経緯。ただの推測、それも邪推だと、すぐに反論すれば良かったのに、わたしにはできなかった。
梧君の言葉ですっかりいっぱいになってしまったわたしの心は、立っていられないほど重くなっていたのだ。
「から子なら、わかるね?」
わかりたくないから、これ以上は聞きたくないから、わたしは首を縦に振った。そうしていれば、梧君は「帰ろう」と微笑んでくれる。本を片付け、……付箋を全部剥がして捨ててから、図書館にまとめて返してしまうのだろう。
わたしはその日、帰っても本を読まなかった。せっかく佳純ちゃんが貸してくれたのに、表紙を眺めて重さを確かめる、それすらもしなかった。

翌日の朝読書の時間を待つのが、こんなにつらかったことがあっただろうか。一応、佳純ちゃんに借りた本を持ってきてはいたけれど、とてもページを開く気になれない。本にカバーをかけようと触れただけで、梧君の言葉を思い出してしまう。
わたしはわたしを肯定するために、本を利用するのだろうか。内容に流されて、また自分が満たされたような気になって、本当はからっぽだということから目を背けるのだろうか。
悶々としていると、「おはよう!」と高く響く元気な声がした。顔をあげると、梓ちゃんが笑っていた。胸にわたしが貸した本を抱いて。――今はその表紙を見ただけで、呼吸がつかえてしまう。
「おはよう、梓ちゃん」
「どうしたの? 具合悪い? だめだったら保健室行きなよ。……ていうかさ、この本すごい感動するんだけど! 昨夜だけでめちゃめちゃ泣いた!」
梓ちゃんは、あまり本を読まないと言っていた。でも、映画が好きで、ストーリーや演出にとても興味があるとも言っている。だからつまり、中身をわかろうとはするのだった。その梓ちゃんが。
「ちょっとしか読めてないんだけど、なんか悲しいっていうより、あんまり優しすぎて泣けてくるよね。主人公もいいけど、あたしは最初のほうで出てくる先生とか好きだな」
物語を、登場人物を、好きだと言ってくれている。
わたしと同じ気持ちを抱いてくれている。ううん、もしかしたら少し違うのかもしれない。わたしは主人公にとても共感して読んでいたと思うから。でも、違っていい。それが作品を読んでくれたことの、何よりの証拠だから。
「わたしは、……先生の言葉の一つ一つが好き。もっと先を読んだら、もっと泣けちゃうよ。でね、主人公がその言葉を受け止めて、前に進もうとするのに、とても勇気をもらったの」
口にしてみて、無理だ、と思った。わたしには、この本を二度と読まないなんて、できるはずがない。何度だって読み返して、そこにある言葉に救われたい。それが現実逃避だと、まやかしだと言われても、大切にしていきたい。そうして、この気持ちを誰かに話したい。分かち合いたい。
そうして自分を肯定して、満たされることは、たとえ梧君が何を言おうと、間違ったことじゃない。ここでそれを間違いだと思ってしまったら、読んで感想を話してくれた梓ちゃんは、佳純ちゃんは、どうなるのだろう。わたしには二人を、この作品を読んだ人を、間違っているだなんて言えないし思えない。
「空子ちゃんが優しいのはさ、こういうのを読むからだよね。心をきちんと洗濯してるんだよ。梧なんか絶対読まないだろうなあ」
うん、梧君は読まなかったよ。最初から読む気なんかなかった。それは読者ではないのだから、そんな人の言葉は忘れていい。
「ありがとう、梓ちゃん。呪いが解けたよ」
「呪い? まあなんでもいいけど、お礼を言うのはこっちだよね。今度自分で買う」
良かった、今日からまた読書を楽しめそうだ。わたしは読書を楽しんでいいんだ。作品の世界に浸っていいんだ。そうして、梓ちゃんや佳純ちゃんと、好きなものの話をしていいんだろう。
ごめんね、梧君。今回はわたし、あなたの手を離すね。からっぽで、誰かに導いてもらえなければ動けないわたしかもしれないけれど、迷子になってもかまわない。
そうはっきり言える日が来るのは、まだ少し遠いかもしれないけれど。わたしにも、行きたい道があるの。