梧君はわたしをからっぽだと言います。自分の意見を持たず、人に付き従ってばかりいるから、からっぽなのだと。だからわたしの「空子」という名前も「そらこ」ではなく「から子」と呼びます。
出会ったときから、彼はわたしがからっぽな人間であると見抜いていたようです。梧君というのは不思議な人で、人を見るとすぐにその性質がわかってしまうようなのです。わたしも、梓ちゃんや佳純ちゃん、新見君に浦家君まで、梧君に心の弱いところを見透かされ指摘されました。
そうすることが梧君の趣味らしいのです。彼は「人間観察」と言っていました。みんなそれぞれに傷つくようなことを言われたのですが、まだ誰も、何一つとして反論できていないので、梧君のいうことは間違ってはいないのでしょう。
けれども、わたしには一つだけ、梧君に知られていないことがありました。それはきっと、わたしがからっぽではなかったことのある証で、密やかにしておきたいことだったのです。
わたしは中学生の頃、恋をしていました。たぶん、恋だったと思います。わたしはわたしの意思で、その人を好きになったのでした。

彼は、周囲から遠ざけられていました。それは周囲にうまく溶け込めず、人に付き従うことでなんとか振る舞っているようなわたしから見ても、はっきりしていました。
原因は、彼の父親が誰だかわからないからという、ただそれだけのことでした。彼のお母さんが夜に仕事をする人だということが、その事実に様々な尾ひれをつける要因となったのかもしれません。どんなに成績が良くても、どんなに剣道が上手でも――小学生の頃からやっていたそうです――彼は周囲に認められていないようでした。認められていないがゆえに、いつも独りぼっちでした。
わたしの通う中学校は、地区でも真面目で優秀だという噂があったので、彼のような生徒がいるということはあまり良いことではなかったようです。親たちも眉を顰めて、彼の家のことを噂していました。そして学校側はその問題を公にしたくはなく、彼から目を背けていました。
わたしも母子家庭でしたが、母は多くの女性を雇っていた工場に勤めておりましたので、学校関係者とも顔見知りでした。ですから、彼のように遠巻きにされることはなく、それなりの立場を保つことができていたのです。加えて、独りになるのは母に迷惑をかけるような気がして嫌でしたから、人に追従することで仲間に入っているように見せかけていたのです。
見せかけていた、ということに気づいたのは、高校生になってから――梧君と出会って、指摘されてのことでしたが。
そんなわたしが、誰からも無視されるような彼に興味を持ち、恋という気持ちを芽生えさせたのですから、やはりこのときだけは、わたしはからっぽではなかったのです。他の人とは違う気持ちを、自分で大事に持っていたのですから。大事すぎて、伝えることはできませんでしたが。
彼はいつも独りでしたが、真面目でした。成績も優秀でしたし、運動もできました。ただ、周囲が彼に近づかないというだけで、彼は素晴らしい能力を持った人だったと思います。
わたしが彼を好きになったきっかけは、母に買ってもらったキーホルダーを拾ってもらったことでした。
倹約家で、プレゼントなどめったにすることのなかった母がくれた、クマのぬいぐるみのキーホルダー。淡い水色のそれを、わたしはお店で一目見るなり気に入ってしまったのです。一緒に買い物に来ていた母はそれに気付き、「テストで良い点とったから、特別よ」と言って、それをわたしに贈ってくれたのでした。
そんなに大切なものを、わたしは一度手放してしまったのです。ある日のお昼休みのこと、付き合いのあったクラスメイトがふざけて、わたしの鞄についていたそのクマをとり、犬をおもちゃで遊ばせるように「とってこーい」と言って放り投げたのでした。
わたしは「やめて」とも言えず、ただあわててクマを追いかけました。クマは、廊下の隅に落ちました。けれどもそこは暗くなっていて、わたしはそれを見つけられずに、必死で捜したのでした。
休み時間が終わる前に見つけなければ、クマは誰もいない場所に放置されることになります。クマが手元を離れることは、まるで母を失うかのようで、わたしは怖くて焦りました。そんなわたしを、クラスメイトは「必死過ぎ」と笑っていました。
どうしよう、と思ったわたしに、予鈴直前に差し出された手がありました。その上には水色のクマが、ちょこんと載っていました。驚いて顔をあげると、彼がいつもどおりの不愛想な表情で、わたしを見ていました。
「捜してるの、これか?」
そこに落ちてた、と彼は廊下の隅を指さしました。わたしは勢いよく頷きながら、クマを両手で受け取りました。
彼はすぐに去ってしまったので、お礼を言い損ねました。同じクラスなのに、それからずっとお礼を言えず、ただ彼を目で追うだけでした。追い続け、気にすることが、わたしの恋でした。恋と呼んでいいのなら、そうだったのです。

それから月日は流れ、わたしは高校生になりました。
彼は中学卒業後に引っ越してしまい、そして引っ越し先で、唯一の肉親であったお母さんをも喪ってしまったそうです。その原因は世間を騒がせた殺人事件でしたので、情報に疎いわたしの耳にもすぐに入ってきました。
彼がそのあとどうしたのか、わたしはしばらく知ることがありませんでした。
けれども、高校三年生の冬、わたしは彼に再会したのです。地元の本屋さんでのことでした。
「日暮君」
あまりに懐かしくて、でもすぐに彼だとわかって、わたしは思わず声をかけてしまいました。皮肉にも梧君に散々鍛えられたわたしは、思ったことをすぐに口に出せるようになっていました。
彼はわたしの声に振り返ると、目を丸くしました。誰だかわからなくて、驚いたのでしょうか。そう思っていたら、逆にわたしが驚かされました。
「ええと、そうだ。稲田さん。中学の時、同じクラスだった」
彼はわたしのことを、憶えていたのでした。
……憶えててくれるなんて、思わなかった」
「そっちこそ、よくオレのこと憶えてたな。元気だったか?」
中学生の時と、彼は随分印象が変わったようでした。独りで不愛想にしていた記憶の中の彼は、今ではとても元気そうで、微笑みさえ浮かべてわたしを見てくれていました。
「うん、わたしは元気。日暮君は、その、引っ越してから大変だったみたいだけど……
「向こうはオレみたいのがいても何とかしてくれるところだったから、平気」
ああ、彼は引っ越し先で変わることができたのでしょう。わたしが高校に進学してから、梧君たちに出会って、少しでも自分を変えることができたように。
「今日はどうしてこっちに?」
「こっちの教育大目指してんだ。受かったら、またこっちに住むつもり」
「そうなんだ……こっちに……
彼はこっちに戻ってきます。でも、あの頃の彼とは違います。今の彼なら、きっとたくさんの人と接して、関係を築いていくのでしょう。引っ越し先の土地では、すでにそうして暮らしてきたのでしょう。
わたしは、あの頃の「特別な想い」を手放さなければならないと感じました。もう彼を好きなことは特別でもなんでもないのです。
「また、会えるかな」
「会えるんじゃね? あ、アドレス交換するか?」
……ううん、また会える可能性があるのなら、それだけでいいです」
わたしの淡い初恋の思い出は、永遠にしまっておくことにしました。梧君にでも知られたら、ひどく狼狽されるでしょうから。彼は自分のおかげで、わたしがからっぽではなくなったと思っているのです。その思いを壊してしまったら、可哀想ですから。
「それじゃ、また」
「ああ、またな」
わたしは彼と別れました。そして、梧君と待ち合わせている、本屋さんの隣の喫茶店へと向かいました。
外は雪がちらついていました。