成すべき事を成さないというのは、どの世界においても非難される事。
正しい道へと戻してやるのは、いずれの世においても他者の役目。
ただそれだけのこと。それだけの。
けれども、その当然のことを拒み続けて、結びに迎えたのは。
これは一体、誰の幸い?
太陽がすっかり空に上っているというのに、布団から出ない少年。
その傍らで足をぶらぶらさせながら、退屈そうに歌う日本人形。
人形の姿をしているが、彼女は死神であった。名を濡露という。
未だ夢から醒めようとしない少年、珱の魂を回収すべくこの世界に降り立った。
それが彼女の役割だった。そして今も、継続している。
珱が死ぬまで傍にいて、時が来ればすぐにその魂を持ち帰る。
濡露に課された仕事は、まだ果たされていなかった。
本来ならば、一年も前に片付いているはずの仕事だった。
それを濡露自身が変えてしまった。死ぬはずだった珱を、生き長らえさせてしまった。
一年前に、彼は手首を切って、それから首を吊って、自ら命を絶つことになっていた。
濡露は彼が最初の行動に及ぼうとしたところで、それを止めた。
彼女の短気が呼んだ、あるはずのなかった物語。もう終わってしまったはずの生。
いつまでも続いていてはならないものだった。
だからその時が来て、自分がとても驚いたことで、濡露は自分がいかに落ちぶれてしまっていたかを思い知った。
「濡露様」
この世界で聞くはずのない声で、濡露は歌をやめる。
視線をカーテンの閉まった窓へ向けると、一匹の狐が宙に座っていた。
「……棗なの?」
「えぇ、棗でございます。久しゅうございますね」
濡露が口にした名に、狐は頷いた。
しかしその表情は再会を喜ぶようなものではない。
「私が何故参じたか、お分かりですか?」
分からないはずはないでしょう、と、その目が言う。
棗狐は濡露の父神に仕える、伝令であった。
その言葉は棗の声で語られるが、父神のものである。
濡露は逆らうことができない。
「一年待ちました。いつになったらお帰りになるのです?」
「それは、役目が終わったら……」
「では何故、役目を果たさないのです?」
「珱が……対象の肉体が滅びていないから、魂を持ち帰ることができないのよ」
肉体が死ななければ、魂を運ぶことができない。
濡露が死神として未熟であった故、珱が死ぬまで待たなければならなかった。
彼が死ぬまで傍にいられると思っていた。
「濡露様、お父上はあなたが死神としての役割を忘れているのではないかと心配しておられます」
「忘れてはいないわ。いくつか魂を送ったじゃないの」
「あなたの仕事は、そこにいる木原珱の魂を持ち帰ることです。他の魂をいくら送ったとしても、意味がありません」
棗は尻尾をふさと振る。すると光の珠が現れ、濡露の手へ収まった。
「特例です。それを使って魂を回収し、すぐにお父上のもとへお戻り下さい」
これまで手にすることが許されなかった、死神の鎌。
力量が足りず、扱えないとされていたものが、濡露の手にあった。
「無理よ! こんなもの使えない!」
「いいえ、あなたは我らの世界の死神を統括する、お父上の娘ですから。扱えないはずはないのです」
棗の言葉は父神の言葉。父神がこれを使えと言っている。
濡露に拒む権利などない。初めから、拒んではいけなかった。
それを一年も待ってくれたことが、充分に特例だった。
「今……この場で、やらなくちゃならない?」
「明日の夜までです。それ以上は待たないとのことでした」
そしてさらに、わずかばかりの猶予を与えられる。
ここまでしてもらって、どうして拒むことができよう。
頷き、従う。これ以外の選択肢は塗り潰された。
しばらくして、目が覚めたらしい珱が、いつものように「おはよう」と言った。
濡露は普段と変わらない風を装い、「遅いわ」と返した。
時計は午前と呼ばれる時間の終わりが近いことをしらせている。けれども、普段から学校に行ったり行かなかったりの生活を送る珱には関係のないことだ。
適当な服に着替え、部屋を出て一通りの身支度を整えると、母の用意してくれていた食事を部屋へ持っていく。
そこで濡露と一緒に、昼食に限りなく近い朝食をとるのだ。
「相変わらず、珱のお母さんが作る料理は美味しいわね」
「そうだね」
一つ一つが短い会話をしながら、皿の上を徐々にきれいにしていく。
食事が終われば珱が食器を台所へ持っていき、すぐに洗って片付ける。そして再び部屋に戻り、こう言うのだ。
「今日は何をしようか、濡露」
ほぼ不登校の彼は、毎日の予定をあらかじめ持っておくことがない。濡露に意見をあおぎ、答えがあればそれに従う。
ならば、「今日で人生を終わりにしましょう」といえば、彼は死ぬのだろうか。
そう考えた頭を、濡露は思い切り振った。
「どうしたの? 変な行動とって」
「アンタには言われたくないわよ。アタシなんか相手にしている方が、よほど変人だわ」
「だって濡露がここにいるから、一緒に行動するし、話しかけるんだよ」
珱はにっこり笑って、濡露を見つめる。
頬が熱くなるのを感じて、濡露はぱっと目の前の相手から顔をそらした。
それが面白かったのか、珱は余計に笑う。……あぁ、いつもの光景だな、と思った。
正直なところ、濡露はこの生活が気に入っていた。珱と二人、下らない話をしたり、あてもなく歩いたりする生活が。
ときには魂の回収に行って、珱にもそれを手伝わせた。彼にそれだけの力があるからだ。
――そんな力があったからこそ、珱の魂を持ち帰らなければならなかった。
この地上の魂に影響を及ぼすことのできる存在は、摘み取れる時に摘み取らなければ、世界のバランスが崩壊してしまう。
濡露は一度それに失敗したから、珱の運命を変えてしまったから、今になって苦境にたたされているのだ。
死神の鎌があれば、無理やり珱の魂を肉体から引き剥がし、回収することができる。
これまでに多くの死神というものは、世界のバランスを著しく崩壊させる危険のある人間の魂をそうして回収してきた。
濡露は未熟な死神だった。だから死神の長である父神から、鎌を与えられることはなかった。
そのあたりで彷徨っている魂を回収していれば、それでよかったのだ。
それが、今日になって突然、珱の命を奪って来いという。鎌を使って、強制的に。
逆らえばどんなことになるのかわからない。――ただ一ついえるのは、もうここにはいられなくなるということだけだ。
どちらにせよ、珱との生活は失われる。それならいっそ、死神らしく、仕事を遂行した方がいいのではないか。
「そうだ、濡露。散歩にいこう」
珱の唐突な――とはいっても毎度のことなのだが――提案に、濡露はわれにかえった。
「いいわよ、他にすることがないのなら」
「うん、そうしよう。歩けるところまで行ってみよう」
考え事をしていたことは、覚られなかっただろうか。珱を殺そうとしていたことに、気付かれなかっただろうか。
濡露は珱の腕に抱かれながら、消えない不安が顔に出ないよう、取り繕うことに必死になっていた。
歩きながら、珱は濡露に話しかける。
幸い他に人はいなかったから、怪しまれることはなかったが、中学生の少年が日本人形に話しかけている光景は異常だ。
そんな異常なことを、もう一年も続けているのだ。
一年前、濡露は珱の魂を回収するために、この世界に降りた。
他の魂に強い影響を及ぼし、冥界の空間に歪みを生じさせる危険性のある魂「レベルA」。それが珱の位置づけだった。
これを回収すれば、濡露にもそこそこの褒美などが出るはずだった。死神としての株も上がり、父神からもある程度認められるだろうと思っていた。
それが、濡露の焦りと、珱のきまぐれで失敗した。あろうことか、生活をともにしてしまった。
思えば、その時点で濡露はもう許されない。死神としての職務を放棄していたのだから、罰が与えられてもおかしくはない。
挽回する為には、今日確実に珱の魂を狩るしかないのだ。
なのに、躊躇するのは。珱の隣が、あまりにも居心地のよい場所になってしまったからだ。
もといた世界よりも、珱の傍にいる方が温かくて、大切だと思うようになってしまったからだ。
――あぁ、なんて罪深い。
できることなら自分が死んでしまいたい。誰かにこの魂を狩ってほしい。そうしたら、人のせいにして諦められる。
誰かがこの暖かな時間を奪ってくれるなら、そんな方法がいい。
「……ねぇ濡露、きいてる?」
「あら、何の話だったかしら」
「だからね、俺と濡露が出会った頃の話だよ。突然現れて、俺に早く死ねって言ったよね」
「……そうだったわね」
早く仕事を終わらせて、もとの世界に帰りたかったから。
でも、今は違う。
「ねえ濡露、俺も死んだら、滅びの幸いがあるのかな」
「何を言い出すのよ」
「濡露がいつも回収する魂に言ってたじゃないか。回収した魂は、滅びの幸いを手にするんだろう?」
「……そうね、言っていたわ」
滅びの幸い。それは、魂が苦しみから解放されること。
死してなおこの世界に留まり、現実から目を背け、幻という痛みを繰り返す魂を救うこと。
解放された魂は濡露たちの住む世界を通り、その先で新たな命を得る。
しかしこれには例外も存在する。あまりにも影響力の強い魂には、別の道が存在する。
――そうか、どうあがいても、これで終わりなのね。
――所詮、人間と死神なんて、一緒にいていいものではないんだわ。
どうやって、珱の魂を回収しよう。
せめて家に戻って、親と顔を合わせてからにしてやった方がいいのだろうか。
その方がいい。たとえ元引き篭もりで、今は不登校の息子でも、知らないところで勝手に死んだら……あの親は余計に心を痛めるだろう。
魂を狩らなければならないなら、今夜にしよう。眠る間際に、そっと。
「濡露、ほら」
「どこよ、ここ」
「ちょっと町外れまできたかな。景色、凄いでしょう?」
気がつけば、随分と遠くまで来ていた。それほどまでに考え込んでいたのかと、濡露は自分に呆れた。
呆れながら見る景色は、木々とその間を流れる川。どうやらここは、橋の上らしかった。
「そうね、凄いわ。こんな場所があったのね」
「うん」
珱は濡露を足元に下ろし、欄干から川を見下ろした。
なかなか激しい流れのようで、水音が耳に痛いくらい響いている。
「ここなら、ちょうどいいよ」
「何が」
「確実に死ねる」
濡露は珱を見上げた。人形の姿のままなので、見上げなければ表情が見えないのだ。
腹が立つくらい清々しく笑っている、その表情を。
「今朝、誰かと話してただろう? 俺は今日で死ななきゃならないって」
「それは、」
「……何? 違うとでも言うの?」
違わない。聞いていたなら手っ取り早い。
説明する手間は省けるし、説明せずに狩る罪悪感はなくなるし、なにより濡露が直接手を下す必要がなくなる。いいことずくめだ。
でも、ここで死んだら、彼はもう二度と家族に会えない。
「帰ってからでいいわよ」
「ううん、ここで死にたい。決めたんだ。一年前に濡露に言われたとおり、確実な方法をとろうって」
そんなこと憶えていなくて良いのに、と思った。確かに、ここから落ちれば頭を打って、濁流にのみこまれ、そのまま死ねるかもしれない。
「心残りはないの?」
「ないわけじゃないよ。……だから、一つお願いがある」
「何よ」
家族へのメッセージか。部屋の整理か。なんでもいい、きけるものならきいてやろう。
珱がここで死ぬというのなら、それを尊重して、何でもしよう。
覚悟を決めた濡露の聞いた言葉は、
「俺の魂を、離さないで」
何でもしようという思いを、揺るがすものだった。
「つまり、どういうこと?」
「俺の魂を連れて行って、絶対に離さないで。濡露と永遠に一緒にいられる方法があれば、そうしたい」
「……それは」
無理、なんていえない。珱のたった一つの願い事だ。
彼の魂が死後どうなるか、濡露は知っている。知っているから、約束できない。
できないけれど……できるものなら、そうしたい。
永遠に一緒に。それは、濡露も望んでいることだった。
そんな方法があれば、あったなら、ここで別れなくて済む。
「それが俺にとっての“滅びの幸い”なんだ。頼むよ」
「そうね。“滅びの幸い”を望むなら、そうよね」
濡露は唇を噛んで黙った。彼の望む永遠を遂げられる方法を思いつくことができれば、すぐにでも実行したい。
そうだ。魂を持って、逃げてしまおうか。死神の責務を捨てて、珱の魂とどこか遠くの世界で暮らすことができれば。
父神から逃げおおせることができれば、可能かもしれない。
「……いいわ。約束する。永遠に一緒にいましょう」
何より、濡露がそうしたい。
「よかった」
珱はふわりと笑った。
「ありがとう、濡露」
それから、川を背にして欄干に座り、
「じゃあ、またあとで」
そのまま後ろへ倒れていった。
人形の殻を脱ぎ捨てて、濡露は橋の下へ降り立った。
珱の魂を捕まえて、すぐにこの世界を離れよう。
そして自分のもといた世界には帰らず、遠く遠くの、誰も知らないような場所にいこう。
そう決めていた。約束したのだから、そうでなくてはならないのだ。
「珱、どこ」
すでに肉体から離れているであろう魂を呼ぶ。
「アタシはここよ」
迷わないで、ここにきて。そう願いながら、川の流れに沿って進んでいく。
はたしてそこに、珱はいた。
おそらくは即死だったのだろう。頭が割れた遺体は、ここまで流されてきたのだ。
でも、魂が、見当たらない。
「珱……?」
肉体があれば、近くにいるはずなのに。
辺りを見回しても、どこにも魂がない。
「珱! 珱、どこなの?」
約束したのに。またあとで、と別れたのに。
焦り探し回る濡露が、その人影に気付くまで、もう暫しの時間がかかった。
何度目かに珱の名を呼んだとき、その人物が視界に入った。
長い黒髪の女性。美しく微笑みながら、濡露を見るその人間。
普通の人間に、媒体を脱ぎ捨てた死神が見えるはずはないのだけれど。
「誰かお捜し?」
彼女は確かにこちらを見ていた。
「……アンタは」
「ねぇ、誰かを捜してるのかって訊いてるのよ。濡露ちゃん」
濡露の名を知っていた。
誰に聞いたのかは、すぐにわかった。
彼女の手元に光るもの。それはまぎれもなく、人間の魂。
捜し求めていた、珱の魂だった。
「それ、アタシの捜しものよ」
「知ってるわ。橋の傍であなたたちを見かけたときからね」
女性はくすくすと笑って、手元の光を抱きしめた。
光は少しもがいたように見えたが、彼女の手を離れることはできなかった。
「でも、あーげない」
人間であるにもかかわらず、彼女は自らの意思で魂を束縛していた。
魂に強い影響を与える人間は、冥界の空間を歪めてしまう危険性がある。だからその魂を回収しなければならない。
珱はその「レベルA」だったが、彼女はそれ以上だ。
「濡露ちゃん、私ずっと珱がほしかったの。だからあげられないわ」
「じゃあ、力ずくでも奪い取る!」
濡露は鎌を手にし、振り上げた。この女の魂を肉体から切り離し、珱を解放してやる。
けれども、彼女は不敵に笑った。
「あなたごときが私から珱を奪えるわけないじゃない、未熟な死神が」
振り下ろされた鎌を、珱を抱いていない片手で止めた。こんな芸当ができる人間を、濡露は知らない。
たった一人を除いて、他にはいない。
「俺には従姉がいるんだ。俺の力を不気味がらない、唯一の味方だったよ」
いつか珱が話していた。自分と同じように、この世ならざるものが見える従姉のことを。
まさかとは思っていたが、彼女が珱と同じ性質の魂を持ち、それ以上の力を持っているとは。
「どうしてアンタがここにいるのよ」
「珱に会いに来たから。胸騒ぎがして、今日はここに来なきゃだめだと思ったの」
微笑みながらも、その魂が発する恐ろしいほどの気迫は変わらない。
「レベルA」なんて目じゃない。彼女は、「レベルS」だ。
未熟な死神である濡露が、勝てるわけがない。
「ねぇ、くれるわよね? だって私は、珱の身内よ。ずっとずっと、ほしいなあって見てたんだから」
笑った顔が珱に似ていると思った。
彼女はその背後にもう一人、誰かの魂を束縛しているようだった。
「もう、アンタは持ってるじゃない」
「珱も欲しいの」
このままこの女に負けてしまったら、約束を守れない。
永遠に一緒にいるという約束が。
「濡露ちゃん、いい加減にしないと……消すわよ?」
彼女は鎌の刃を優しげな手つきで撫でた。
すると彼女が手を滑らせた場所にヒビが入っていき、そこから鎌が崩れだした。
父神から与えられた鎌を砕くほどの力を持つ人間がいる。彼女が消すというのだから、濡露は確実に消えるだろう。
存在が消えたら、本当に約束が守れなくなる。珱を奪還する可能性さえ失うのだ。
引こう、と思った。
今は、無理だ。約束を守れない。
「アンタ。いつか、珱を返してもらうわよ」
「いやだわ、アンタなんて。私には麻子って名前があるのに」
彼女が鎌を破壊した瞬間、濡露は撤退した。
もといた世界へ、還るしかなかった。
「失敗しましたね」
棗狐の言葉を、濡露はぼんやりする頭で聞いていた。
「一年も第三世界の空気に触れていたら、お疲れになったはずです。すっかり力を消耗して、可哀想な濡露様」
違う。この消耗は、あの女のせいだ。
麻子という、あの女さえいなければ。永遠に珱と一緒になれたのに。
「濡露様」
約束を守れなかった。あの人の、たった一つの頼みをきけなかった。
「もう忘れてください、第三世界の人間のことなど」
悲しすぎて、辛すぎて、意識を手放す前に濡露の耳に届いたのは、
「永遠なんてないんです。あんな約束、無駄ですよ」
あまりにも非情な言葉。
さようなら、愛しい人。
いつか永遠を手にする方法がわかったら、そのときはまた迎えに行きます。
強くなったら、また会いましょう。
それまでどうか、アタシをわすれないで。
これで、結び。