重い衝撃が体中に走った翌日、私は自分の机に花瓶が置いてあるのを見た。
こんなのは漫画やドラマの世界だけだとばかり思っていたから、少し驚いた。
そのおかげで、自分が死んだんだという事に気づいた。
私は二ヶ月前まで、ごく普通に中学生として生きていた。
だけどいつのまにか人間らしい扱いを受けることはなくなり、どうせならと思って屋上から飛び降りた。
こんなにはっきり覚えているのに、さっきまで死んだという自覚がなかった。
きっと周囲から無視されている状況と変わりがなかったからだ。
これからどうすればいいんだろう。何で私はここにとどまっているんだろう。
とりあえず自分の席に座ってみたけれど、私には教科書もノートも筆記用具もない。
あるのは悪趣味な花を挿した花瓶だけ。
ここにいても仕方ないのに、ここから動くことができない。
「おはよう」
もう一つだけあった。
今までなかったけれど、今日に限ってあるもの。
隣の席の人間だ。しかも、死んだはずの私に向かって挨拶つき。
「来たんだ、学校」
その言葉、そっちにそのまま返したい。
今まで来なかったのはそっちだ。教師連中も次第に彼の名前を呼ばなくなるほどに。
そんな私の思いを見抜いたように、隣の男子は横目でこちらを見ていた。
名前は…何だっけ。
たしか苗字は木原だ。下の名前なんて誰も呼ばないから知らない。
どうでも良くなって考えるのをやめると、彼の視線は私からそれた。
「廿日さん、何で来たの?」
昼休み、周囲がざわついている中で話し掛ける声。
調子があまりにも静か過ぎて、私の足は凍ったようになった。
「何でって…」
「学校、嫌じゃないの?」
おそらく彼の言葉は、周囲が聞けば独り言だ。
不気味だと言われていじめられないだろうか。
そう思いつつも、私は彼と会話していた。
「来たいと思ったわけじゃない。」
「いつのまにかきてたんだ?」
私が頷くと、彼は少し考え込んだ。
そして、カバンを軽く叩いてからそれを持って椅子から立ち上がった。
「帰るの?」
「いや…これが必要なんだ。廿日さん、屋上行こうか。」
「屋上?」
立ち入り禁止になっているところに、どうしてわざわざ。
見つかったらただじゃすまないのに。
「何で…?」
「いいから、早く。あんまりモタモタしてると俺が叱られる。」
屋上に行こうとしている時点で叱られると思うけれど、私は何も言わずに彼に従った。
今日は風が強い。
屋上は転落防止のフェンスがあるけれど、それを乗り越えればすぐに落ちてしまいそうだ。
いや、確実に落ちる。
この身で立証済みだ。
「木原君、何でここなの?」
「誰にも見られないように。これから俺がすることは、人に見られるとまずいから。」
何?何をする気なの?
近付いてくる彼から思わず離れる。
何かされるんじゃないだろうか。
「馬鹿ねぇ、霊体に何するって言うのよ。」
それもそうだ。私は霊だった。何かをすることは不可能。
…今の声、誰?
「鈍い…鈍すぎるわ。珱、アタシこの子の相手したくない。」
女の子の声だ。だけど、今ここにいるのは私と木原君だけ。
「頼むよ濡露。俺は話をすることしかできないんだから。」
木原君が持ってきたカバンに向かって言った。
何かいるの?そのカバン、どうして持ってきたの?
「…ったく、面倒な相手ね。」
カバンから、黒い髪の毛が見えた。
白い顔、赤い瞳、赤い着物が出てくる。
それは確かに動いていて、人間の形をしている。
だけど、人間じゃなかった。
「…人形…?」
「失礼ね、人形なんかじゃないわよ。」
喋っている。
さっきの女の子の声で、こちらを睨みながら。
「人形が媒体なんだから人形だろ。」
「うるさいわね!」
木原君と言い合いまでしている。
この人形、一体何なんだろう。
「廿日さん、驚かせてごめん。彼女は人形扱いされるのを嫌うんだ。」
人形を「彼女」と示す木原君は、別に狂っているわけではないようだ。
その代わり、教室にいたときよりも表情がある。
「彼女のことは濡露って呼んで。これでも死神なんだ。」
「死神…」
死神って、魂を狩りに来るアレ?私を狩りに来たの?
「違うわよ。狩るわけじゃないし、アンタが目的なわけでもないわ。」
そうなの?じゃあ、何でここにいるの?
「アタシの目的は珱一人。他の奴になんか構ってる暇ないの。特にアンタみたいな生霊はあたしの目的遂行に邪魔なだけなのよ。」
珱…って、木原君?そういえば、そういう名前だっけ。
違う、そうじゃない。名前なんかどうでもいいんだ。
死神は今何ていったの?
私が、生霊?
「そう、生霊よ。アンタは生きてる。病院では意識不明ってことになってるわ。」
「そんな…でも花瓶が」
「そんなものはただのイタズラでしょう。いじめの延長よ。」
痛みから解放されたと思ったのに。
死んでないなんて、期待を裏切るような事…。
こんなの、許されない。
「ねぇ、死神」
「濡露よ」
「…濡露、私を殺して!」
死ななきゃいけないのに。
私はこれ以上生きる必要がないのだから。生きていたって仕方ないのだから。
しかし、懇願する私に濡露は首を横に振ってみせた。
「アタシは殺すためにいるわけじゃないの。
アンタみたいに平凡な魂をあっさり連れてってやるほど親切でもないしね。」
「じゃあ何でここにいるの?」
「さっきも言ったでしょう?珱の魂を貰うため。」
何で木原君なんだろう。どうして私じゃないんだろう。
私の何がいけないの?
「何がいけないってわけじゃないわよ。
ただ、アタシの仕事とアンタの望みが合わないだけ。」
少女の声が大人の女性に変わる。人形の影は大きくなった。突然現れた艶っぽい女性は、私を見下ろして言った。
「アタシの仕事は人を殺すことじゃない。
自分で死んだ魂の中でも高級なものを連れて行くことよ。」
「高級、ね…。」
木原君が彼女の言葉に苦笑した。
* * *
「キハラ・ヨウ…十四歳?まだ子供じゃない。」
死神濡露はターゲットのデータを見て眉を顰めた。
「こんな子供が何でレベルA指定なの?」
「知らねぇよ。…つーかオレ様に言うな。」
濡露の愚痴を文句を言いながらも聞いている悪魔ベルゼブブは、ターゲットの写真をちらりと見た。
確かにまだ幼さの残る少年が写っていたが、その表情はとても子供のものとは思えない。
――今にも死にそうだな。
自分から、という意味で。
「で、仕事受けんの?」
「仕方ないからね。本当にレベルAなら褒美も出るだろうし。」
「それが目的かよ。がめつい奴…」
濡露の仕事は「魂を導くこと」だが、ごく稀に「連れてくること」も請け負う。
「連れてくる」のは主に他の霊体に強い影響を与えるほどの力を持ち、冥界の空間に歪みを生じさせてしまうような危険な魂だ。
そういう魂は、できるだけ早く処分してしまわなければならない。
レベルAはその中でも特に力の強いものを言う。
「それじゃ、行って来るわ。面倒だから早く終わらせたいし。」
「さっさと行けよオバン」
「…アンタぶん殴ってから行くことにするわ。」
ターゲットがいるのは第三世界。
宇宙があり、銀河系や太陽系があり、地球という惑星に生物が住んでいるということが研究された世界。
傲慢な「人間」に支配され、科学に沿って物事が進む場所。
「嫌いなのよね…ココ」
そう呟いた濡露に限らず、この世界は他の世界から好くは思われていない。
「ターゲットの所在…地球の日本、か。これなら写真のうんざりした顔も頷けるわね。」
その地では何もかもがつまらなく思える人が増加しているらしい。
それをどうやって晴らすかは人によって違うが、死ぬ事で晴らそうとする者もいることを濡露は職業柄知っている。
「死神の迷惑少しは考えろってのよ、全く…。」
存在が認知されない世界で何を言っても無駄なことはわかっている。
しかし、死後の世界がどういうものかも知っているのでついこぼしてしまう。
あの世界は、自分から行く所ではない。
「…あ、ターゲット発見」
いろいろ考えているうちに、写真と同じ顔を見つけた。
家の中でぼんやりしている。
「あれ?この歳だと今頃は学校ってやつに行ってるんじゃ…」
病気にでもなったのか。いや、そんなことはデータに載っていない。
データは常に自動更新され続けるのだから、載らないはずはない。
「もしかしてサボり?どうしようもないわね。」
自分も身に覚えがあるが、とりあえず忘れることにする。
とにかく魂を連れ出さないと。
「…と、まず本人が死ななきゃ駄目なのよね。」
危険な魂は狩ることが許可されている。
狩ってしまえば後は冥界に戻るだけだ。
しかし、
「アタシ狩れないのよね…」
濡露は「魂狩りの鎌」を所持していないため、ターゲットが死ぬまで待つしかない。
鎌を持たない死神に「連れてくる」仕事を任せる時は、必ずターゲットに死ぬ意志がある。
「鎌は要らないけど、早く終わらせたいわ…。」
濡露は大きく欠伸をした。
何もする気が起きない。
学校に行くことが自分にとってプラスになるようにも思えない。
だから家にいて、この退屈な世界に別れを告げようと思った。
「…切れるかな」
剃刀を見つめる。
新しいものだから、傷は簡単につくだろう。
その先はわからない。
「…っ」
冷たい刃が左手首に触れるだけで、胸を貫くような緊張が走った。
このまま力を込めて引けば、きっと血が流れる。
終わることができる。
皮膚が傷ついていく、麻痺感。
心地良くもあり、苦しくもある。
傷口からのぞく血はゆっくり溢れ、腕を伝って流れていく。
これで逝けたらどんなに良いだろう。
「逝けるわけ無いじゃない」
――誰?
「そんなんで死ねたらこの国ではもっとたくさんの人間が死んでるわよ。」
麻痺した身体を傾け、ゆっくりと声の方を見た。
見て、確認して、目が覚めた。
左手首から血を流す少年は、虚ろな眼で濡露を見ていた。
彼は確かにターゲットの木原珱で、確かに死ぬ意志があった。
だけど。
「死ぬんならさっさとやっちゃってよ。そうしないといつまでたってもアタシの仕事終わらないじゃないの。」
こんな傷で死ねる訳が無い。
現に血は乾きかけている。
濡露の仕事は肉体から離れた魂を連れて行くことだから、これでは何もできない。
「さぁ、もっと確実な道具を使うのよ。そして確実に離れなさい。」
少年は濡露をじっと見ている。
虚ろな眼はだんだん驚愕を帯びてくる。
しかし、発された声はまだ寝ぼけているような印象。
「…人形?」
濡露が初めて聞いた彼の声は、まだ声変わりもしていない高めの音。
「人形じゃないわよ。アタシは死神の濡露。」
「でも人形だよね…」
高い声はぼやけたまま言う。
彼の言う通り、濡露は日本人形の姿だった。
正確には人形を自らの媒体として使っているのであり、人形そのものになった訳ではない。
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさとして頂戴。」
「…何でここにいるの?俺を連れにきた?」
「アンタが死んでくれなきゃ連れて行けないの。早く帰りたいんだからさっさとして。」
生者との交信とはこんなにイライラするものだったのか。
使い魔をしている魔物のいう「屈辱」が少しわかった気がする。
しかし少年は濡露の気持ちを知ってか知らずか、さらなる質問を浴びせてきた。
「濡露…だっけ?俺を連れて行かないと帰れないの?」
「そうよ!だからさっさとして!」
「そうなんだ…」
人形の身体をじっと見つめる少年と、苛立ちを募らせる濡露。
沈黙はだんだん重くなり、とうとう濡露は耐えられなくなった。
「アンタ、死ぬの?死なないの?」
今ほど鎌が欲しくなったことは無い。
濡露は彼を睨みつけ、彼は濡露から目をそらした。
「死ぬつもりだったんだけどね…」
少年は乾いた傷口を見つめる。この程度では失血も狙えない。
「濡露は俺が死なないと帰れないんだよね?」
「そうよ」
「じゃあ死ぬのやめるよ。」
何?
今、何て言われた?
「濡露がここにとどまるように、暫く死なずにいるよ。」
「何言ってんのよ!そんなことが許されると思ってるの?」
「許してよ」
「バカじゃないの」
「君に興味を持つのはバカ?」
彼の表情はまだどこか麻痺しているのに、心の中で笑っているように見える。
濡露の死神としてのプライドをうまく潜り抜け、奥まで入り込んでくるようだ。
「…死神に何の興味持つのよ」
「死神に興味があるんじゃなくて、濡露に興味があるんだ。
僕の意思で縛り付けることができるっていうのが良いよね。」
「アンタ性格アブないわね」
ただの自殺志願者だと思ったら、普通の人とはどこか違う。
レベルAの魂という時点で異常なのだが、彼には他にも外れた所があるらしい。
「俺、小さい頃から他の人に見えないものとか見えてたからさ。
同じように見えてた奴は幼いうちに見えなくなっていくのに、俺はどんどん見えるようになっていく。
それでとうとう人付き合いが面倒になったんだ。」
彼は再び濡露を見つめていた。
「それから何もかもが面倒になって、生きてるのがつまらなくなった。
生きたくても生きられない人がいるとか、そういう理屈は雑音にしか聞こえなかったよ。」
その瞳に濡露は威圧感を感じた。
人間ごときに押されるなんて思いたくは無かったが、今は認めるしかなかった。
「従姉以外の人に普通に話し掛けられたのは何年ぶりかな。
とにかく死神だろうが人形だろうが、俺は俺に話し掛けた濡露に興味を持ったってわけ。」
「…言ってる意味が分からないわ」
このままでは彼の言いなりになってしまう。
帰りたいのに、帰れなくなってしまう。
周囲の霊も集まってきた。厄介なことになりそうだ。
「興味とかそういう事はどうだって良いの。アンタは他の魂に影響を及ぼすから危険なのよ。」
「危険?…へぇ、面白いことになってるんだね。ますます生きたくなったな。」
彼はレベルAでは済まないかもしれない。
死神まで威圧するこの態度は、濡露からしてみればレベルSだ。
勝てない。
あの眼にはどうしても勝てそうにない。
「…アタシの仕事はアンタを連れて行くことよ」
濡露は媒体を抜け出し、その姿を彼に示した。
それでも全く怯まないのを確認して、宣戦布告する。
「アンタが死ぬまでつきまとってやるわよ。それでもいいの?」
少年は濡露に向けて、
「いいよ」
初めて笑みを見せた。
* * *
私は木原君と濡露を交互に見た。
語り終えた濡露はよく見ると少し赤くなっていて、木原君はそれを面白そうに眺めていた。
「アタシの仕事はコイツ専属の死神よ。
他の魂もたまに送るけど、それはコイツが望むから。
連れて行く時に未練があると気持ち悪いからね。」
濡露は私を見た。真っ赤な瞳は彼女の魔性をそのまま表していて、美しかった。
「アンタは生霊よ。アタシじゃ送れないし、もし送れてもコイツが望まないなら送らないわ。」
どうして木原君は望まないんだろう。
私は死にたいのに、どうして叶えてくれないんだろう。
「廿日さん」
木原君は漸く言葉を発した。響きは何故かとても優しい。
「廿日さん、ずるいよ。」
「…ずるい?」
「うん。ずるくて、弱い。
自分のしたことを忘れて、人からされたことばかり気にしている。」
自分のしたこと?
何、それ?
私は何もしてない。私は何も悪くない。
「廿日さん、君は三ヶ月前に隣のクラスの子を自殺に追いやったんだ。覚えてる?」
「三ヶ月前…?」
何のこと?
わからないわからないわからないわからない
「君がいじめた子。彼女の魂、俺と濡露で送ったんだ。」
わからないわからないわからないわからないワカラナイ
「そしたら今度は君がいじめられて、自殺未遂。
いじめなきゃ生きていけない、いじめられれば生きていけない。」
ワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイ
「君は弱いんだ」
「やめてっ!言わないで!」
そんなに優しい声で言わないで。
「人間らしい人間だよ、君は。そして俺も。だからこうして復讐してるんだ。」
「なんで…何で木原君が復讐するの?」
「自殺したの、俺のイトコなんだ。」
嘘…そうだったの?
さっきの話だと、木原君に唯一普通に接してくれた人間。
それが、あの子?
「だから許せない。君には生きてもらうよ。償ってもらわなきゃ。」
「待って…悪かったわ。死んで詫びるから…」
「逃げの言い訳はいらない。生きて償ってよ。」
私は一生逃げられないの?この罪から、一生?
この人の声の届く場所に、居続けなきゃいけないの?
「いや…嫌よ…」
「君は死なせない。…ほら、もう戻りかけてる。」
私の身体は足元から見えなくなっていった。
だんだんと自分の身体に戻っていくなんて、嫌だ。
私はどうなるの?
生きなきゃいけないの?
私は………
………………………
授業開始のチャイムが鳴った。
屋上の空気は珱と濡露を包み、体温を奪う。
しかしそんなことは気にもしていないという風に、二人は空を見上げた。
「嘘つき」
濡露の言葉に、珱は笑った。
「嘘も方便。濡露は生きる目的はきっとあるってことを話したから、俺がその目的を示しただけ。」
「示し方が悪趣味なのよ。あの娘がアンタのイトコ?知り合いでもなかったくせに。」
「彼女を生かしておきたかったんだよ。
方法は間違ってても、これで逃げ場が無いってことはわからせた。」
濡露は呆れて息をつき、珱のカバンからサンドイッチを取り出した。
「いいの?初恋の人にあんな酷いこと言って。」
「好きな人ほどいじめたいって言うだろ?
…今は別に好きな人がいるから、廿日さんはどうでも良いけど。」
濡露はサンドイッチにかじりつき、珱を睨む。
睨んでも笑っている彼が恨めしい。
「好きな人って誰よ」
「濡露」
「ふざけないで」
「本気だよ」
好きだから、君を声の届く場所に置いておきたいと思ったんだよ。
* * *
お嬢さんは意識を取り戻しました。しかし…
「いや…助けて…苦しんで生きるのはいやぁっ!」
このように怯えていて、手がつけられないのです。
どうしますか?
終劇