雨音は近く、雷鳴は遠い。
最近の青空がまるで嘘だったような、暗い空。
私はもう一度空を見上げ、稲光を浴びた。
どうして天候というものは、こんなにも移り変わるのだろう。友人の態度とよく似ている。
いや、彼女はもう友人ではなかった。
私が友人と呼んではいけない。私は独りになったのだ。
「…あれ?」
今気がついた。
家の前に誰かがいる。
この土砂降りだというのに、傘を持っていない。
よく見ると傘の代わりに、不思議なものを所持していた。
ここからはよく見えないが、おそらくそれは――。
「ひどい雨ね。こんな日に外に出ようなんて、どうかしてるわ」
腕の中から発せられる声に、少年は答える。
「雨は好きなんだ。特にこんな土砂降りは。…誰にも会わなくて済むからね」
「確かにそうよね。アンタみたいな変人が他にいてたまるかってのよ」
不機嫌そうな言葉に、少年は笑う。
「変人ってひどいね。他の人から見たら濡露の方がよっぽど変なのに」
「レディに向かって変とは何よ、変とは!」
濡露と呼ばれたものは、少年の腕の中で暴れだす。
あまり暴れると濡れた地面に落ちてしまうことはわかっているので、あまり激しくは暴れないが。
しかし少年はわざと濡露を抱く手を緩める。
「ちょ、ちょっと、危ないじゃないの!何考えてんのよ!」
「暴れたら落ちるのは当たり前だろ?汚れたくなかったら大人しくしてることだね」
「…最低」
土砂降りの中を来て少年はびしょ濡れだったが、濡露は全く濡れていない。しっかり抱かれていた証拠だ。
しかし少年も流石に雨が冷たくなってきたので他人の家の軒下に入って休むことにした。
勝手に人の家の敷地に入ることはいけないことだと知りながら、少年はそのスリルを楽しんでいた。
この家の住人は、見知らぬ者を迎えてどう思うだろう。怪しんで追い払うか、可哀相だと思って中に招くか、
もしくは何かのノイローゼになっていて自分を殺しにかかるか。
――それなら面白いかもしれない。
「濡露、誰か来たみたいだね」
「誰かって…この家誰か住んでたの?人間の気配はしなかったわよ」
家の中から足音が聞こえた。コンクリートの塀に囲まれた何も無い空間で、木々のざわめきが聞こえた。
家の前にいたのは男の子だった。
髪は濡れてしっとりしている。それどころか雫が滴ってどうしようもない。
そして手には、やはり不思議なものを持って―というより、抱いていた。
「お邪魔してます」
彼はにこりともせずに、かといって申し訳なさそうでもなく、普通にそう言った。
自分がここにいることがさも当たり前であるかのような振る舞い。
「誰?ここ、私の家なんだけど」
「知ってます。雨宿りさせてもらってたんです」
そんなことは見ればわかる。でも、他にも家はあるのに、何でここなのだろう。どこから来たのだろう。
それよりも、一番の謎はどうしてそんなものを抱いているのか、だ。
「…なんで?」
言葉がまとまらなくて、私はそれだけ言った。どうやってまとめろというんだろう。彼は不思議なことが多すぎる。
「これ、ですか?」
彼はそう言って、抱いているものを示した。慣れている様子。いつも持ち歩いてるんだろうか。
「これ…って言ったらまた怒られるな。彼女はジュロです。そして俺はヨウ」
彼は初めて微笑んだ。だけど、本当の笑みには見えなかった。
けれど作っているにしては自然すぎて、なんだかおかしな感じがする。
「…家、入る?」
なんとなく興味が湧いて、私は彼を家に招き入れた。
彼は何故かちょっとがっかりしたような顔をして、私の申し出を受け入れた。
雨は音を響かせ、自己主張をますます強めた。
空がぱっと光って、彼の腕の中のもの――妖しげな美しさを持つ日本人形を照らし出した。
父親は昨日の夜出て行った。私と同い年の愛人のもとに行ったらしい。
母親は今日の早朝に出て行ったきり戻ってこない。もしかしたらどこかで死んでいるかも知れない。
私を一人置いて、父も母も消えた。この家は今や私だけのもの。
「お茶。緑茶だけど…」
「ありがとうございます」
ヨウと名乗った少年は、丁寧に御礼を言った後に湯飲みを両手で包み込んだ。
「どうして俺を家に入れたんですか?」
そう尋ねてから、熱い液体を喉に流し込んだ。
「深い意味なんて無いけど…」
「深くなくて良いんです」
このヨウって人、結構しつこい。しかも私より年下に見えるのに、口調が大人びている。
ここは何か言った方が良いのかも知れない。
「…うちに来たから、何でかなって思ったの。他にも雨宿りの場所なんていくらでもあるでしょう?」
不思議に思っていたことの一つ目を尋ねて、私は返答を待った。
けれど、彼は答えなかった。一言も話さずに、こっちを見ているだけ。
「質問に答えないの?」
「答えようが無いものをどうやって答えろというんですか?」
つまり、何の理由も無いってことなんだろうか。なんか突っかかる言い方だ。
私は諦めて、次の質問に移る事にした。
「どこから来たの?」
「日暮町」
これには即答だった。
即答だけど、おかしい。
日暮町はすぐそこだ。真っ直ぐ家に帰ればいいものを、どうして雨宿りなんだろう。
「日暮町のどこ?」
「一区」
私の家の傍の角を曲がってすぐの所。
どう考えても、このヨウって人はおかしい。
大体、どうして日本人形なんか抱いているんだろう。
彼はどう見ても男の子で、多分中学生くらい。日本人形を抱いて外を歩くようなことは、幼児でもしない。
「気に入ってるの?それ」
私は人形を指差して訊いた。彼はあぁ、と言って、人形をテーブルの上に置いた。
「それって言ったら怒るんです。だから、ジュロって呼んであげてください」
この人、狂ってるんだろうか。頭がおかしいとしか思えない。
人形に名前を付けて、怒るとか言って、どう考えてもまともじゃない。
「そうでしょ?コイツおかしいわよね?」
本当におかしい。――私以外いないはずの女の子の声を聞いてしまう、私の耳も。
「な、何?!」
「ここよ、ここ。アンタのすぐ傍」
きょろきょろする私の視界に、口を動かす日本人形が入った。
非現実的。怪奇現象。
目の前で起こっていることは、夢のようで夢じゃない。
「ジュロ、あまり人前で喋るのは…」
「別にいいの。あ、お菓子貰うわね」
「目的はそっちか…」
「うるさいわね」
私がお茶と一緒に持ってきた煎餅を普通に食べている。
日本人形のように見えるけど、実はそうじゃないんだろうか。
「驚かせてしまってすみません」
この人はちっとも申し訳なさそうじゃないし、人形はお茶まで飲んでるし、
目の前で繰り広げられていることが信じられない。私に一体何が起こっているんだろう。
「そうだ、俺とジュロは名前言いましたけど、あなたの名前は聞いてません」
全く場違いな質問。私は戸惑いながらもなんとか答える。
「…六月」
「むつき?」
「6月って書いて、むつき」
「へぇ…。じゃあ五宮六月っていうんですね」
苗字は多分表札を見たんだろうから特に不思議ではない。問題は人形が普通に動いている事実。
「六月さんは、最近耐え切れないほど辛いことってありましたか?」
場違いな質問は続く。耐え切れないほど辛いことは特に無い。
ただ人が周りから消えただけだ。
それよりも煎餅を平らげる人形を何とかして欲しい。
「煎餅もたまには良いわね。シュークリームの方が好きだけど」
しかも贅沢。
「ジュロ、いいかげんにしないと窓から放り投げるよ」
「レディを放り投げるだなんて最低ね」
日本人形のくせに「レディ」だし。
でも、これはこれで面白いかもしれない。
私は独りの状況に退屈していたし、こんな非現実な退屈しのぎは無い。
私は今貴重な体験をしているのだ。
喋る人形も、人形と会話する少年も、狂ってはいるけど怖くは無い。
会話はコントじみているし、人形は一緒にいる人間よりも表情豊かだ。
このめちゃくちゃな状況は、結構楽しめるかもしれない。
「ねぇ、それ…ジュロだっけ?」
「それって言わないでくれる?アタシは物じゃないの」
人形はどう考えたって物だと思うけど。
「物じゃないわよ。人形じゃないもの、アタシ」
「ごめんなさい」
私、声に出てたんだろうか。さっきから考えていることを全部聞かれてるような気がする。
「そうじゃないわ。アタシは心が読めるの。勝手に読んで悪かったわ」
…意外とあっさりネタばらししてくれるんだ。それはそれでつまらない。
別の話題にしなければ。
「ジュロって、どう書くの?」
「濡れるに露」
答えたのは少年だった。この少年はどうなんだろう。
「ヨウは桜の木へんじゃないヤツよ。木じゃなくて王」
訊く前に濡露が答えた。つまり、ヨウは珱ってことだろうか。
「男の子なのに、綺麗な名前」
「そうですか?六月もいい名前ですよ」
珱は微笑む。今度は本当に笑っているみたいだ。
「珱君はいくつ?」
「中三です」
「じゃあ受験生?同じだね」
「六月さんも中三なんですか?」
「私は高三」
珱は何故か話しやすかった。大人びた口調でなんとなく生意気そうだなって思ったけど、あまりそうでもない。
「…ねぇ、濡露って何なの?」
この質問も、答えてくれそうな気がした。
「いきなり呼び捨てなんて、図々しいにも程があるわね。アタシを誰だと思ってるの?」
濡露は憤慨した。
何だと思ってるのと言われても、今は人形みたいなものとしか答えようが無い。
私がそう思ったのを読み取ったのか、濡露はふてくされたまま言った。
「アタシは人形じゃないわ。死神よ。コイツ――珱専属の、ね」
死神――人を死に誘う神。魅入られると死ぬ。
濡露は珱専属の死神。ということは、珱は死んでしまうんだろうか。
こんなに元気(そうでもないか)な少年が、この日本人形に殺されてしまうのだろうか。こんなに若いのに。
そんな事を考えていると、濡露は溜息をついてそれを訂正した。
「アタシが殺す訳無いでしょ。こいつが自分から死のうとしたのよ。だからアタシは魂をとりに来ただけ」
「死のうとって…」
私は珱の方を見た。
彼は平然とお茶を飲んでいる。
湯のみから口を離して息をつくと、かすかに笑った。
「手首を切ったんです、何度も。
そうしたら突然日本人形が目の前に現れて、『さっさと死んでくれないと待たなきゃいけないんだから本気で切りなさい』って言ったんですよ」
小学校の頃の思い出とかを話すのと同じように、珱は語る。
内容は暗いのに、口調がそんな感じをもたない。
「他人に言われてするのって、なんとなく嫌だったんです。だから俺は死ぬのをやめました。濡露が待たなきゃいけないなら、とことん待たせてやろうと思ったんです」
「ホント性格悪いわよね、アンタ。六月もこういう男には気をつけなさいよ」
濡露が初めて私の名前を呼び、言った。
親に言われたから進学するのやめました、みたいに死を語る珱と、それを「性格悪い」で片付ける濡露。
私と世界観がまるで違うんだ、この二人は。
「六月、アタシが怖い?」
濡露がニヤリと笑った。小さいのに、日本人形特有の妖しさがちゃんとある。
声はまるで少女なのに、大人に近い色気がある。
「…全く怖くない訳じゃないけど」
「怖いなら怖いって言いなさいよ。人間って曖昧ねぇ。日本人は言語自体曖昧だし、理解に困るわ」
「濡露は日本人じゃないの?どう見たって日本人形なのに」
「元々人間じゃないわよ。死神だって言ってるじゃない。
それから、この人形はただの媒体だからアタシの本当の姿じゃないの」
濡露は一気にまくしたてた後、私が追加した煎餅に手を伸ばした。
死神にも見えない、人形っぽくも見えなくなってきた、だとしたらなんと形容すれば良いだろう。
「珱君は濡露の本体見たことあるの?」
本体がどういうものかわかれば私でも理解できるかもしれないと思い、こっそり尋ねてみる。
「あるけど、あんまり変わりませんよ」
「変わらない?」
「人形がそのまま大きくなったような…見た目はだいぶ大人っぽくなるんですけど、性格変わらないし…」
溜息をつく珱に、濡露が体当たりする。
またコントが始まり、私はその間にお茶を飲んだ。
こんなに楽しいのは久しぶりだ。
最近ろくなことがなかったし、それどころか悪いこと続きで、挙句の果てに…
…果てに、なんだっけ。
思い出せない。この歳で物忘れが激しくなるなんて。
「六月、珱をどうにかしてよ。コイツ本当に性格悪いんだから」
「濡露ほどじゃないよ。六月さん、濡露の言うことは普段は真に受けなくて良いですよ」
「どういう意味よ!」
まぁ、いいか。思い出さなくても良いような、思い出しちゃいけないような気もするし。
きっとさほど重要なことじゃない。
「珱君、学校は鈴音中だよね。私のときのアルバム見せてあげようか」
ごまかすように話題を変えて、笑顔を向けた。
「アルバム…ですか?俺確かに鈴音中ですけど、学校行ってないんです」
「行ってない?」
「登校拒否してるんです。行ってもつまらないから」
変えた話題がまずかった。何かあったんだろうか。私は謝りながらも訊いてみた。
「先生が嫌なの?友達とかは?」
「友達と呼べる人はいません。俺の友達の定義が狭いだけかもしれないけど」
「定義?」
「人形と話してても異常だと思わない人」
それは狭いんじゃなくて、誰でも一度は不思議に思うことも当然と思えという自己中心的な考えじゃないんだろうか。
そんな条件なら私だって友達にはなれない。
「…本気にしてます?」
気がつくと珱は首を傾げていた。
「…嘘なの?」
「嘘に決まってるでしょう。普通の中学生でそんな人いたら奇跡ですよ」
「違和感無いから本気にしちゃった」
「六月さん結構失礼ですね」
顔を見合わせて、私たちは笑った。
珱は笑うと可愛い。ずっと笑っていれば良いのに。
「珱にずっと笑ってろって?それは無理ね。そんなこと要求したらコイツ作り笑いしかしないわよ」
濡露はまた心を読んだらしい。謝っておきながらまたするなんて、やっぱり性格悪い。
「…アルバム持って来るね。待ってて」
珱は見たいなんて言ってない。
だけど落ち着きの無い私は動き回る口実を作る必要があった。
二階へあがり、自分の部屋の前に立つ。
「…あれ?」
ドアが開かない。ドアノブすら回らない。
向こう側から何かに押さえられているような、奇妙な感じがする。
どうして、とは思うけれど、答えは見つからず、私にはどうすることもできなかったので諦めた。
「ごめんね、珱君。部屋が開かなくてアルバム取れないの。…あ、見たいなんて言ってないか」
「部屋が開かない?」
「うん」
珱は眉を寄せて、二階に続く階段の方を見た。
何かを睨みつけるような、怖い顔。
珱がこんな顔するなんて意外だ。
「…そっか、二階か…」
呟きながら、お茶を一口すすった。
二階が何だと言うんだろう。
まさか、何かいるんじゃないだろうか。
珱にしかわからない、何かが。
「鋭いわね、六月。珱は普通の人には見えないものが見えるのよ」
濡露はあっさり肯定した。
「見えるだけじゃない。珱は迷える者を癒せるの。
アタシはそうは思わないのに、魂は珱に話を聞いて欲しくて仕方ない。
以前の珱はそういう自分に嫌気がさしてたみたいだけど…」
濡露が珱をチラッと見る。珱は苦笑した。
「何で人のこと何でもかんでも話すかなぁ、濡露は。
…まぁ、いいか。話す手間は省けたし」
魂が求める――なんとなくわかるような気がする。
珱なら話を聞いてくれそうな、そんな気がする。
答えをくれなくてもいい。きっと話を聞いてもらえるだけで安らげる。
「…私も、良いかな…?」
「え?」
「私も…話聞いてもらって、いい?」
恐る恐る尋ねる。断られることは、怖いことだから。
けれども恐ろしい言葉は聞こえなかった。珱は少し考えた後、頷いてくれた。
小さな頃から仲の良かった子が、急に冷たくなった。
話し掛けようとすると避けるように移動し、別の子達と楽しそうに話していた。
少し経ってまた仲良くしていたけれど、一緒に帰る事はなくなった。
理由は簡単だった。
彼女は私からいろいろ聞き出しては、別の子達に話していた。
彼女以外は知らないはずのこともネタにされ、噂になっていた。
そして人はさらに私から離れていく。
親友だと思っていた彼女は、初めから私のことを友達とは見ていなかったのかもしれない。
あんなに笑いあったことは、もう過去の出来事にすぎない。
父は出会い系サイトで女子高生と知り合っていたらしい。
それも私と同じ学校で同じ学年の子。何度も会い、その度に金を渡していたそうだ。
よく捕まらないな、と少し感心した。
通報しようかとも思ったけれど、やめた。
結局私と同い年の愛人とどこまでいったのかはよくわからないけれど、母と私を捨てたことは事実だ。
母は家を出て行った。
父を探しに行くと言っていたような気がするけれど、多分違うと思う。
あんなにうつろな目をした人間が、そんな積極的な行動ができるだろうか。
母は私を捨てたかったのかもしれない。
父が家族より愛人を選んだように、自分も別の人生を歩みたかったのかもしれない。
大人にとって、そういうことは必要なことなのだろうか。
「第二の人生」って、こういうことなんだろうか。
私は独りぼっちになった。
独りで家にいた。
部屋にこもって、灰色の窓の向こうに地面を叩き続ける雨音を聞きながら、何かを待っていたのかもしれない。
私を救ってくれる、誰かを。
珱はずっと聞いていてくれた。
何も言わず、ただ頷いてくれた。
濡露も珍しく黙っていた。
私が言葉を切った後も、沈黙は続いた。
だけど重苦しくは無い。
独りの時の方が、ずっと重かった。
私は、この沈黙は私を救ってくれるものだと信じている。
けれども、その「信じる」も簡単に崩れてしまう。
私はそれを知っていたはずなのに、今は忘れていた。
それだけじゃなく、私は他にも忘れている。
いろいろなことが私の記憶から抜け落ちている。
「六月さん、部屋を見せてくれますか?」
珱が突然、そう言った。
「え、でも…」
ドアが開かない、と言う前に、珱はもう二階へ上がっていた。
トン、トン、と短い響きが昇っていく。私はその後姿を追った。
追わなければ。
そして、ドアを開けさせないようにしなければ。
何故かそれしか思いつかなかった。
どうしても、珱にドアを開けさせてはいけない。
ドアは開かないはずなのに、私はそればかりを考えていた。
「やめて…」
珱はドアの前で立ち止まり、濡露は珱の腕から床に降り立った。
濡露が何か唱え始める。
「やめてよ…」
聞きたくない。
耳を塞いでも響いてくるそれは、歌声のようだった。
「やだ…」
珱がドアノブに手をかける。
私の時とは違い、簡単に回る。
きぃ、と鋭く鈍い音が響く。
「開けないで!」
私は必死で手を伸ばして、
珱に掴みかかり、
廊下の壁に向けて突き飛ばした。
壁に当たって痛かったのか表情を歪ませた珱は、真っ直ぐ私を見た。
この眼からは逃れられない。
どうして?わからない。
「…六月さん、部屋、見てください」
「いや…見たくない…」
どうして見たくないのだろう。
珱が来た時まで、私はそこにいたのに。
「現実から目を背けないで下さい。これはあなたがやったんですよ」
見たくない。聞きたくない。
どうして?
「辛かったんですよね。六月さんは初め否定したけど、本当は死ぬほど辛かったんだ。
独りが怖くて、だから…」
珱の目が部屋に向けられたのが分かった。
私はずっと床を見ていた。部屋なんて見れなかった。
だって、あそこには。
「だけどあなたは独りのままだった。
欲しいものを手に入れても、温かさを失ったものは相手にならない。
…そんな時に俺達が来たから、あなたは忘れてしまったんですよね。
辛いことから抜け出せて、忘れられたんですよね」
やめて。思い出したくないの。
「だけど…もう駄目です。
アルバムはとれなかったんじゃなく、とらなかったんだ。
部屋は開かなかったんじゃなく、開けなかったんだ。
開ければ現実が見えてしまうんだから」
珱は私に手を伸ばした。私はその手をそっと握った。
すがるように握った手は、生者の温かさを持っていた。
部屋に転がる冷たい手とは違う。
私の手とも違う。
「独りは寂しいでしょう。
もう寂しい思いをする必要、無いんですよ。
幻を見る必要も無いんです。
生者として振舞う必要も」
「珱も来て!私、一人で行くのはいや!
もう独りは嫌なの!だから…」
「向こうはあなた一人じゃないですよ。
それに俺は、まだ濡露を待たせたいんです」
珱は笑っていた。優しい、救いだった。
私の手をそっと解くと、濡露に頷いた。
「あと、頼んだよ」
「最後は全部アタシ任せ?ホント、珱は性格悪いんだから…」
濡露は不機嫌そうに息をついて、私の手に触れた。
冷たい手は、明らかに人間のものではない。
そして人形でもなかった。
「六月、アンタはアタシが連れてくわ」
「珱も…珱も一緒に…!」
「駄目よ。あんたと珱じゃ行く所が違う。
アンタはコイツよりもっとマシな所にいけるわ」
濡露の手が私の手を包み込む。
体温はないけれど、やさしい手。
目の前には人形なんか無い。
優しく微笑む女性がいた。
「行こう、六月。大丈夫、怖くない。アンタは“滅びの幸い”を手にするんだから」
「滅びの…幸い?」
オウムのように繰り返す私に、濡露は頷く。
「アンタの身体は滅びたけれど、魂はまだ救えるわ。
アンタは独りの呪縛からも解放される。
…死神が保証するんだから、間違いないわよ」
そして、
「ずいぶん強制的だったわね、今回」
濡露は首に手をあて、やれやれ、と首を回した。
「早く逃げなきゃ後々面倒だからね」
異臭の立ち込める部屋を平然と見つめながら、珱は言う。
「それ六月が聞いたら泣くわよ。そんないいかげんな気持ちで話聞いてたの?アンタ」
「うん。正直聞きたい話ではなかったし」
「最低ね」
折り重なる四つの塊―もと人間だったもの―を、ドアの向こうに隠す。
「でもまさか本当にあるとは思わなかったな。あなたを殺して私も死ぬ、だなんて。
…しかも結局殺した本人は死にきれてなかったし」
階段を下りる音が、静寂に落ちていく。
閉めたはずのドアから、きぃ、と音がした。
「…珱、死にきれてないの本人だけじゃないわよ」
「ゾンビとは関わりたくないんだ、俺。六月さんは綺麗だったから…」
「アンタってホント最低」
後方から聞こえる何かを引きずるような音は、追いつきそうで追いつかない。
珱は歩くスピードを全く変えず、玄関で落ち着いて靴を履いた。
靴のかかとに、腐敗した指が僅かに触れた。
玄関のドアが閉まると、家は再び静寂に包まれる。
雨は止んでいた。木々も揺れるのを止めていた。
何事も無かったように鳥が鳴き、雷の影響も全く無かったようだった。
空には消えかけの虹がかかっていて、色は四つも見えなかった。
空は妙な青さを主張し、雲は僅かな影を風に流していた。
晴れちゃったね。
これで濡れなくて済むわ。
もともと濡露は少しも濡れてなかったじゃないか。
うるさいわね。
…ねぇ、濡露
何よ。
濡露は独りって寂しい?
死神に何聞いてるのよ。忌み嫌われるものが独りを恐れてどうするっての?
そう…俺は前は怖くなかったけど、今は怖い。
どうしてよ?
だって、いろいろ騒がしい同居人がいて、独りになんかなれないから。
騒がしいって何よ!…ん?ちょっと、アンタそれってアタシがいて嬉しいって事?
騒がしいって言っただろ。
ホント、アンタって最低!
あれ?死神は忌み嫌われるんじゃなかったっけ?
人の揚げ足を取るんじゃないわよ!これだからアンタ最低なのよ!やっぱりさっさとアタシに魂狩らせなさい!
今日の晩御飯唐揚げだよ。
…最低だけど、もう少し待ってやらないことも無いわ。
言葉の撤回はしないんだね。
当然でしょ。アタシを誰だと思ってるの?
濡露だと思ってる。
わけわかんないわよ。ホント珱って変人ね。
そう?
そうよ。
独りじゃないのは、幸せなこと。
大切なものが、繋ぎとめておきたいものがあるのは、幸せな事。
幸せだったからこそ、人は狂う。
満ち足りているからこそ、人は恐れる。
不幸など、本当はどこにも無いのかもしれない。
閉
私を独りにしないで